さくら
【第一章:恋なんて】
「恋なんて、ただの季節のようなものだと思っていた。時間が経てば、勝手に通り過ぎていくものだと。」
秋の終わり、冷え込み始めた代々木公園のベンチで、湊(みなと)は独りごとのように呟いた。隣にはもう、あの柔らかい柔軟剤の香りをさせた彼女――陽葵(ひまり)はいない。
二人が別れたのは、ちょうど一ヶ月前のことだ。理由は、どちらかが浮気をしたわけでも、激しい喧嘩をしたわけでもなかった。ただ、少しずつ、お互いの「未来」の形がズレてしまっただけ。
「ねえ、湊。もし明日、世界が終わるとしたら何を食べたい?」
付き合いたての頃、陽葵はよくそんな他愛もない質問を投げかけてきた。
「うーん、お母さんの作った味噌汁かな」
「普通だね。私はね、湊と一緒に食べるなら、コンビニのアイスがいいな」
そんな風に笑い合っていた時間は、永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
けれど、社会人になって三年。湊は仕事に追われ、陽葵は夢だった海外での活動を本気で考え始めた。会えない夜が増え、電話の回数が減り、たまに会っても、会話の端々に「沈黙」という名のトゲが刺さるようになった。
「……湊。私、やっぱり行こうと思う」
最後の日、彼女は泣いていなかった。ただ、ひどく綺麗に、決意に満ちた目で湊を見つめていた。その瞳の中に、もう自分との未来が映っていないことに気づいた瞬間、湊は引き止める言葉を飲み込んだ。
「……そっか。頑張れよ」
それが、精一杯の強がりだった。
今、ベンチに座る湊の視界に、小さなアイスクリームのカップが映る。陽葵が好きだった、期間限定のキャラメル味。
一口食べると、甘さよりも先に、喉の奥がツンと痛んだ。
「恋なんて、しなきゃよかった。こんなに苦しいなら、最初から一人の方がずっと楽だったのに」
そう呟いて、湊は空を見上げた。夕焼けが、嫌になるほど美しい。
結局、恋なんてものは、失った後にしかその本当の重さがわからない。
どんなに願っても、季節は戻らない。けれど、左胸に残ったこの鈍い痛みだけが、確かに自分が誰かを深く愛していたという、唯一の証明だった。
湊は溶けかけたアイスをもう一口飲み込み、ゆっくりと立ち上がった。
冷たい風が、彼の頬を容赦なく撫でて通り過ぎていった。
「恋なんて」—— 欠けた月を追いかけて ——
【第二章:再会の街角】
陽葵が海外へ旅立ってから、三年の月日が流れた。
湊は二十九歳になり、中堅の広告代理店でそれなりのポジションに就いていた。生活は規則正しく、仕事は順調。週末には同僚と飲みに行き、たまにマッチングアプリで出会った女性と食事に行くこともある。
「恋なんて、もう生活のノイズでしかない」
そう自分に言い聞かせ、湊は心の鍵を閉めたまま生きていた。あの日、代々木公園で食べたキャラメルアイスの味も、もう記憶の隅に追いやったつもりだった。
そんなある日、プロジェクトの打ち合わせで訪れた表参道のカフェ。
入り口のドアが開いた瞬間、カランと鳴ったカウベルの音と共に、心臓が跳ねた。
「……湊?」
懐かしい声。
少し短くなった髪と、以前よりも大人びたセットアップに身を包んだ陽葵が、そこに立っていた。
彼女の隣には、見慣れない外国人の男性が親しげに寄り添っている。
「陽葵……。帰ってたんだ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
陽葵は一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、すぐにいつもの柔らかい微笑みを浮かべた。
「うん、先月ね。こっちは、あっちで仕事を手伝ってくれてる同僚のルカ」
「Hello, Nice to meet you.」
ルカと呼ばれた男性が、屈託のない笑顔で右手を差し出す。湊はその手を握り返しながら、喉の奥に熱い塊がせり上がってくるのを感じた。
「恋なんて、ただの過去の遺物だ」と決めたはずなのに。
彼女が笑うだけで、三年間かけて築き上げた「平穏な日常」という城壁が、音を立てて崩れていく。
「湊、もし良かったら今度……ゆっくり話さない? 伝えたいこともあるし」
別れ際に陽葵が残した言葉が、湊の頭の中で何度もリフレインした。
伝えたいこと。それは、彼女の幸せな報告だろうか。それとも、あの日の続きだろうか。
【第三章:止まっていた時計】
一週間後、二人はかつての行きつけだった裏路地の居酒屋で再会した。
お洒落なカフェよりも、油の匂いと喧騒に包まれたこの場所の方が、今の自分たちには相応しい気がした。
ビールを二口ほど飲んだ後、陽葵がぽつりと切り出した。
「ねえ、湊。私ね、向こうでずっと考えてたの。どうして私たちは、あんなに簡単に手を離しちゃったんだろうって」
湊はグラスを持つ手に力を込めた。
「……それは、お互いの未来のためだったんだろ。お前には夢があったし、俺にはそれを支える余裕がなかった」
「違うよ。……怖かっただけなんだと思う」
陽葵の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
「夢を追いかけるのが怖くて、湊に甘えたかった。でも、甘えたら自分がダメになる気がして、わざと突き放すような言い方をした。……湊だって、そうだったんでしょ? 私を縛り付けるのが怖くて、物分かりのいい男のフリをしただけじゃない」
図星だった。
湊は、彼女の情熱を奪うのが怖かった。自分の狭い世界に彼女を閉じ込めることが、愛だとは思えなかった。けれど、その結果、二人でいることさえ諦めてしまったのだ。
「今更だよ、陽葵。お前にはもう、隣に相応しい人がいる」
「ルカのこと? 彼はただの仕事のパートナーだよ。さよならを言うために、今日は彼に内緒で来たの」
陽葵はテーブルの上に置かれた湊の手に、そっと自分の手を重ねた。
その温もりは、三年前と何一つ変わっていなかった。
「恋なんて、面倒で、残酷で、報われないことの方が多い。……でもね、湊。私、やっぱり他の誰かとじゃ、あのキャラメルアイスの味を思い出せないの」
【第四章:これから(結末へ)】
外は雪が降り始めていた。
店を出た二人は、白く染まり始めた街をゆっくりと歩く。
三年前、湊は「恋なんてしなきゃよかった」と後悔した。
けれど今、隣で白い息を吐きながら歩く彼女の横顔を見て、湊は気づく。
恋とは、完成させるものではない。
互いの欠けた部分を、一生かけて埋め続けようとする「祈り」のようなものだ。
「……ねえ、湊。明日、世界が終わるとしたら何を食べたい?」
三年前と同じ質問。
湊は今度は迷わずに、彼女の冷えた手を強く握りしめて答えた。
「コンビニのアイス。……お前と一緒に」
陽葵は、子供のように顔をくしゃくしゃにして笑った。
その頬を伝う涙を、湊は今度は逃げずに、指先で優しく拭った。
恋なんて、苦しいだけだ。
けれど、この苦しみを愛せる相手に出会えたことを、二人はもう「運命」とは呼ばない。
ただ、降り積もる雪のように、静かに、新しく重なり合っていく時間を、今度こそ離さないと誓った。
執筆の狙い
切なくてでもどこか少し甘いようなラブストーリーを描いてみたく、挑戦させていただきました。みなさんは「恋なんてしなきゃ良かった」と思ったことはありますか?