シガレット・オブ・ザ・デッド
「珍しい人が来た」
「や。スピン・フーシャくんで間違いないかな。お隣、失礼」
珍しい人、といえばそうかもしれない。あたいが4回生の頃、敢えて煙草の煙が充満した大学の学生食堂に顔を出すことは少なかったから、その様子を目撃して珍しいと感じるのは自然のことだ。普段昼食は出来合いのおむすびとか串団子で済ませてたし、そもそも誰とも一緒に食べずに孤高の趣と風の音を飯のおかずにしていたくらいだし、だからその日突然彼の隣の席に座って、学食の大盛りカレーうどんを鯨みたいな勢いで食べ出せば、怪訝の極致みたいな顔をされても仕方のないことだとは思うよ。
「イブにひとりぼっち? ケーキの予約はしてある? よかったらこれからあたいとデートしない?」
「は?」
あたいが町立トランジスタ大学の同じ親切学部に所属する4回生スピン・フーシャとまともに話したのは、この時が確実に初めてだった。その年も終わりかけの、後期最後の授業日の、そんな昼休みのこと。
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んああ、そういえば、諸注意を忘れてた。あたい目線で過去を語り出すとどうも価値観が偏ったストーリーテリングになりそうだから控えた方が良いときみには返した筈だけど、どうしてもネタが欲しいと言うもんだから、仕方なく教えてあげるんだからね。
『シキサイ』を購読してくれている物好きな読者の皆々様向けに、一旦きみを無視して自己紹介をしよう。やあどうも。あたいはチリカ・ベルカゼ。しがない呑んだくれだよ。どうぞこぞってチリカさんって呼ぶといい。彼、教師のお仕事を辞めてからツテで得たライター業で日銭を稼ぐのに必死らしいね――古い知り合いのあたいにわざわざ連絡を取ってネタを吐かせるくらいだから、多分明日の朝に食べる納豆ご飯もないくらい、よっぽど切羽詰まっているみたい。すごく可哀想だ。
でも彼、酷いよね。あたいってば、珍しい人からの電子メールがいきなり端末にやって来てかなり期待しちゃったじゃないか。サシ飲みの提案なら最高、同窓会の案内だったら次点で良し、大穴マルチ商法の勧誘でも、あたいは彼があたいのこと覚えててくれただけで十分喜んだんだよ。それがまさか、大学当時惚れていた弱みがあるとはいえ、あたいを仕事の駒として扱おうとはね。それも緊急事態の最終手段みたいな指し方だ。悪手とはこういう事を言うんだろう、失礼極まりない。大穴を超えて、最悪に近いよ。ねぇ代筆者くん――つまりきみの、そういうなりふり構わない姿勢は実に好ましいと昔から思ってはいるけど、あたい以外の奴には遠慮したまえよ。
けどまぁ、今夜はモイルソーダが適度に血管を回ってて気分がいいし、しょうがないから孤独な晩酌ついでに、秘蔵の思い出を口頭伝承したげる。絵本とかじゃないけど、読み聞かせをするのに近いかも。この話は、本当に秘蔵なんだ。お酒だけに蔵出しってやつ。糠喜びっていう最悪な体験をお届けしてくれたきみには、最高に質の良いお礼をしなきゃあね。それが一番恩を売れる。意趣返し万歳。とはいえ恩の押し売りとかそれ以上に、アルコールが入ったあたいは大変に口が軽くなって、舌が回って、慈悲深いってだけだよ。そういう訳で、イマ・コノトキに連絡を寄越してくれたきみ、特別に幸運だったね。
幸運の星が、きみに降ってきたってこと。
ただし、あたいの喋ったことは一字一句改変しないことが特ダネを提供する条件だ。きみの意思を文に込めるな。そう、書き手の役割を放棄して、きみも読者の一員になるんだよ。今回に限ってはあたいが実質的な書き手であって、唯一の語り部なんだ。話し言葉で語る関係上、悪いがあんまり難しい熟語とかは出せないと思うけど、そこは承知しておいてくれ。もう一回言うよ。きみの意思を文に込めるな。いい、この瞬間も例外じゃない。勝手に削っていいのはフィラーとシャックリとクシャミと、ゲップと咳と、それに噛んだところだけ。一応あたい結婚適齢期なんだし、女の子としての尊厳を死守してもらうのは当然だとも。
女の子じゃなくて女だろとか思った?
阿呆なこと考えないでよね。もし考えてたら、阿呆を通り越して阿呆梅。三十にもなってない女の子だよ。というよりも、いつも女の子。三十路だろうが四十路だろうがイソジンだろうが、乙女はそうだと思えばいつだって女の子になれるんだ。さながらアニメの変身ヒロインが如く。
つまりあたいは、きみに恋するヒロインだ。いや、もう過去のことだけどね。でも愛してたのは本当。ネタに困った物書きくん。あたいに頼るしかない可愛い可愛いポンコツライターくん。この際条件を盾に、当時のきみへの淡い想いを、文字通り淡く淡々と長尺で述べて、読者のみんなにこの秘めたる大いなる未練を共有させて頂こうかな――やだやだ、そんなの冗談ですってば。あっはは。ごめんテンションおかしいや。わっせいウザいよね、ごめん。普段はもう少し強いんだよお酒。少し浮かれてはしゃいで、酔ってるのかも。
一方的に伝えるだけとはいえ、きみとお話できるのが、すごく嬉しいんだ、あたい。
そのラブレターが捻じ曲げられるのは、どうにも我慢ならないということ。
だけど、機嫌の良さに任せるままに喋ると余計な事まで口走って、結果きみに嫌われてしまうかもしれないな。正直それは怖い。引かれたらどうしよう、とか。ただの酒乱じゃねぇかと思われたら死にたくなる、とか。あたいは出来る限りきみとは良き友人であり続けたいから、今後の関係に支障をきたすような失言には気をつける。そのリスクを呑んででもこのデータを送るのは、星の如く無数に存在する『シキサイ』購読者のみんなにあたいの覚悟を見せるためだよ。きみと良き友人として改めて縁を結び直すための、その重大なプロセスとしてね。だからなるべく包み隠さず、赤裸々に話す。
畢竟、証人は多い方がいい。
ああそうだ、過去を語る際、時々たまにあたいの個人的な見解とか、そういうのを小さじ1程度混ぜるのは許してもらおうかな。じゃないと話してて面白くないだろうし、記事としての出来栄えも目減りするだろう。あたいと読者諸君、その両方を慮った提案だ。そして、出来上がった記事の原稿料は丸ごとそっくりきみが受け取るといい。これで三者三様全員がニッコリ大満足の大団円の大成功。
ほら、チリカさんは大変に慈悲深い、じゃじゃん。
ちょっと待ってて、肴とお酒を改めて用意してくるから――(約一分後)――ただんま。よいしょ。んんと、それじゃあね、あれこれ文字に起こすのは面倒だから、悪いけど音声データの文章化って退屈な役割はきみか、きみの家族のメイドロボットさんに任せるね。
ええと、なるべく勿体つけて、冗長に語ろうかな。文字起こし作業を引き延ばす意地悪な小復讐と見做すか、原稿料の嵩増しに励む健気な気遣いと取るか、意図は好きに決めてくれていいよ。ふむふむ、決断したかな。それじゃあ、あたいが大学4回生の冬、学生食堂で鯨みたいな勢いでカレーうどんを貪り始めたところからだっけ。
懐古行為を再開するよ。
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あたいが無惨にも留年確定した4回生の冬頃、きみは3回生だったかな。きみはまさかあたいが卒業論文を要件を満たせず失敗させ、大学に居残るなんて思わなかったろう。きみが4回生になったときの新学年オリエンテーションがあった後にへらへら「調子どう」なんて言いに行ったら、きみ、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してたんだよ。
まぁその、卒論は文字数が二百ワードほど足りてなかったんだ……不備があるならあるで、提出した時点で事前に知らせてくれればいいものをね。トランジスタ大学の親切学部はこういうところ無駄に厳しい。学部名と違って全然ちっとも親切じゃない。ああ、受験生のみんなは、トラ大の親切学部だけはやめといた方が身のためだよ。今もなお、そういう気質は変わってないから。
就職活動も正直舐めてて内定も取れず、かつ下宿暮らしの仕送り三昧なものだから、卒業できないことが発覚した直後の正月に帰省したついでには、両親に誠意の土下座と毛髪をくれてやった。きみの進級オリエンテーションの日に会ったとき、あたいはショートヘアだったと思うけど、あのイカしたチリカ・ベルカゼの出現はそれが理由だと今更ながらタネを明かしておこう。
「もう半年ほど、よろしくね」
とかあたいはきみに言ったっけ。
不思議がってあれこれ尋ねてくるきみのことが、やっぱり好きだったな。お姉さん、かわいくってかわいくって。その夜は自室のベッドで愛用の枕を抱きしめてもんどり打ってたくらい。だから、半分くらいはきみが驚く姿を見たいからバッサリ切ったというところがある。華麗なるセルフカット。もう半分は、単にイメチェンしたかったから――あれ、両親への誠意の部分はどこいったんだっけ。まあいいや。いやよくないか。ところで切り落とした髪は今でも実家の居間の壁にぶら下げてあるんだよ。テレビを観ようとすると嫌でも目に入る絶妙に不吉な位置に飾ってやった。両親共に腰が弱いのが祟って外しにかかれないらしい。ちょっと可哀想だけど、あたいのなけなしの屈辱と交換だ。
まあ、どうせダブったならと家族の記念に。
さてと、ようやく本題に入ろうか。季節は冬、年内の最終授業日、そう、あたいが通うトランジスタ大学構内、煙草の煙が充満した白っぽい学食内で、煙草十本と引き換えのカレーうどんを持って、スピン・フーシャという同級生を訪ねた。
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「名前は、知ってる。確か、ベルカゼ。学部じゃ有名だ。留年したって聞いてるが」
チキン南蛮定食を行儀悪く食べてたスピンくんは、あたいの方を見向きもせずに煙草を取り出して火をつけ、吸い始めた。昔のトランジスタ大学は凄かったな、どこでだって吸えたんだよ。どこにだって灰皿あるし、どこにだって共同ライターが置いてある。そしてどこにだって消火器さ……火事対策としてね。そんな設備を整える暇があったら煙草規制を進めろとの声が今なら、あるいはトランジスタ大学の外からなら上がるだろう。尤もだ。だけどマナーとかリスクとかそれらを見過ごしてまで、あの大学は煙草の魅力に取り憑かれていたのさ。魅力に憑かれて、皆人生に疲れていたからこその普及だったのかもしれない。
吸ってない奴の方が珍しいほど、右でスパスパ左でプハァ、少し見上げれば紫煙で形成された不気味な雲が、もやもやとした不定形をとって、我らがトランジスタ大学の広大な構内を不気味に覆っていた。たとえ夜になっても、敷地内からじゃまるで星なんか見えやしない。あたいが1回生の時分、初めて最寄りタカラベ駅から大学に向かう時、擬似レンガ造りの西門から先だけが見事にかの霧の街を彷彿とさせる世界と化してたのには、流石に口をあんぐりとせざるを得なかったな。異様で、奇妙だ。当時はそういう風土のそういう大学だったんだ。
そんな環境で学び始めたんだからさ、あたいもきみも、例に漏れずニコチンタール限界混ぜ混ぜスティックに手を出してたよね。好みの銘柄はお揃いで、カスチックだったかな。あの紫煙の支配する過酷な世界で生き残っていくために、学生たちの間では安価で手頃なカスチックが最もスタンダードだった。はは、生き残るってね――本当にサバイバルと言って間違いじゃない学生生活だったんだよ。命懸けなんだ。金欠で新しいカートンを買えなくなったり、無理に煙草の支配を拒んだりした奴らは、みんななんらかの理由で大学から消えていった。一人残らず、挨拶も無しに、唐突にね。自分から中退したんじゃなくて、辛い病気になったり、酷い事故に遭ったりで、それらが原因で友を失い未来を壊され、時に命を落とし……それはもう正に、トランジスタ大学の意志に消された、って表現するに相応しい末路を遂げてるんだ。繰り返すけど、文字通り一人残らず、だよ。カスチックはそういった事態に陥るのを避けたい学生たちの、大きな味方だったんだ。まぁでも単純に、あたいときみは、ヤツの癖になる味をこそ気に入ってたよね。
よく覚えてるとも――うん、スピンくんが吸ってたのもカスチックだった。
「そのベルカゼさんが何の用だ。チキン南蛮でも奢ってくれんのか」
「奢らない。あたいのことはどうぞチリカさんって呼んでよ。あたいを知ってる奴はみんなそう呼んでくれる。えっとね、音声データ容量の都合上、多少史実から会話を省略して巻きでいくけど、聞いてくれるかな。実はスピンくんに用があって……単刀直入に切り出そう。あたいの卒論を手伝え」
「あん? 卒論だぁ?」
そこでようやくスピンくんはカスチック、チキン南蛮を差し置いて優先順第三位、あたいの方に顔を向けた。
この時期あたいは、自分のうっかりミスに決着を付けるため、卒業論文をやり直す羽目になっていたんだ。というよりも、絶対にやり直すって自分から決意してた。どっちみち通らなかった論文を二度は受け取れんと所属ゼミの教授に言われてたし、新しく卒論をやり直さなければならないのは確定してた。そしてどうせやり直すんなら、あたいの野望もついでに叶えたいと思ったんだ。その日、あたいの中にひっそりと沸き上がっていた衝動が、卒業論文、ひいては卒業研究のやる気に小さくない火を付けていた――あたいの野望の成就。そのために、スピン・フーシャの協力が必要になると思った。だから訪ねた。
野望とは無論、四年間ずっと想い続けたきみを籠絡することだ。つまりあたいは卒論の完成にかこつけて、きみをメロメロにしてしまおうと画策したってワケ。
「トランジスタ大学を卒業できる。好きな人を堕とせる。二重にハッピーを追い求める、二兎を追うあたい二兎とも得る……頭がいいだろう」
「頭悪ィから何を言ってんのかよくわかんねェが、誰がテメーみてぇな疫病神に協力するかよ。時間の無駄だバカがよ。脳みそ付いてんのかタコ」
「ははは、GPAなら上空飛行だが?」
「それが? なんか意味あんのか? あ?」
ちょっと読者のみんなには留意していてほしいんだけど、スピンくんっていうのはこういう風に極めて攻撃的でトゲトゲな奴だ。長身で肩幅が広く、足を大きく広げて座って周囲を威圧し、肘をついてチキン南蛮に齧り付き個体としての強さを誇示し、下品な金色に染め上げたチリチリヘアーでキンキンに尖り上がったプライドを守護する、イマドキ珍しい不良大学生ってやつ。今思えば、真面目で控えめだったきみとは正反対のタイプだね。だからあたいは始め、彼をこれっぽっちも人間として好きにはなれそうになかったんだが、目的のための近道を往くなら仕方ない。理由はまた後で話すけど、スピン・フーシャこそが卒論を完成させるための鍵だったんだ。
あたかも単位欲しさに嫌いな先生の授業を履修するように、あたいは彼に接触する他なかった。
「頭がいいと、得てしていい卒論が書ける。提出は九月卒業のため約半年後だけど、気持ちのいい断髪をして年を越したいから年内には片を付けたい」
「断髪……?」
「ストレートに卒業できないお詫びに、帰省の際両親に髪を贈呈しようと思って」
「いよいよ頭のネジが飛んでやがるな。チッ、気持ち悪ィヤツに絡まれた」
「褒め言葉だ。今から存分に絡み合おうね」
読者のみんなー、チリスピ流行らせよう。
「嫌とは言わせないさ、スピンくんには卒論完成のためにあたいに協力してもらう――この大学から、煙草の煙を消すんだ。それがあたいの卒論に書く世紀の研究」
あたいの目論見を初めて聞いたスピンくんは、吸っていたカスチックの焼ける先端をあたいの額にぎゅうと押し付けてきた。根性焼きというヤツで、丁度眉毛と眉毛の間だ……熱くなかったかと気になるだろう。勿論すごく熱かった。でも初体験というものは何であれ面白いもので、寝不足の脳には覚醒に効果的な刺激だった。あたいはその手を摑んで一度額から煙草を離し、そのままぐぃ、とスピンくんを引き寄せて、勢いで椅子から立ち上がらせた。掴んだ腕はあたいのちょっと上に固定されている。そうしてあたいとスピンくんは至近距離で目と目が接近し、ヤンキーの作法に倣ってメンチ切り大会の開幕だ。らしいだろ。
「ね、この手はなにかな? おでこ熱いんだけど」
「んなにヤニ吸い共が目障りなら実家帰ってママのおっぱい吸ってなって言ってんだよ、ゴラ」
「ええ? どうだろう、流石にもう出ないと思うけどな……」
頓珍漢な受け答えでこれ以上口喧嘩に乗る気はないと示すと、スピンくんは舌打ちの後、指で挟んで持っていたカスチックを床に落とし、足で先端をすり潰すようにしてさっきあたいの眉間に根性焼きを施した火を揉み消した。後から鏡の世界に居るもう一人のあたいに確認したら、大陸の拳法使いみたいな第三の眼が開眼しちゃってたよ。
「いいかい。よく考えろ。きみにとっても、あたいを卒業させるのはメリットの大きい話だ」
「確かに今すぐ中退して欲しいが」
「ははは。違う違う、ちゃんとしたルートで卒業するの」
美味なカレーうどんの量はあんなちんぷんかんな問答をしている間にもみるみる減って、丼ぶりの底が見え始めてた。メンチ切り大会の最中もだよ。右手でスピンくんの手を取り上げている一方、利き手じゃない左手でお箸使ってちゅるちゅる美味しくやってたんだ。目だけは彼を睨みつけてないといけないから、ノールックで麺類は難しかったな。今でもたまにやってみるんだけど、当時より技術が劣化してる気がする……大学生のバイタリティはエゲツナイということで。バイタリティの問題かな、まあいいか。でもやっぱり吸うなら煙草でもおっぱいでもなく風味の強いカレーうどんだよ。煙草もおっぱいも別に嫌いという訳ではないけども、三択の中で実際毎日吸えるとなったなら、諸々勘案して一番良いのはカレーうどんだよね。最も健康に良く、かつ最も中毒性があり、それでいて最も世間体がいい。匂いと染みなんか洗えば成仏する。で三択以外で選んでいいなら親の金。
「ほかの学生らと違って、あたい、この大学を包んでる煙が反吐吐瀉出そうなくらい嫌いなんだ。だからこの白濁のキャンパスから紫煙を消滅させてやる。そうすると構内から星が見えるから、ついでに大学時計塔から冬の星座を発見して、その遥かなる輝きを肴に一杯やろう」
「やる理由がねェ」
「ある。卒論の完成も、この記事を書いてくれてるきみへの想いを遂げるというあたいの野望も、すべては煙を消すことが前提になる。だからそれが理由さ……実はスピンくんも、かねてから煙を消したがってるでしょ。そうだよね。お見通しなんだよ」
そう、それが取っ掛かり。このチリカ・ベルカゼの熱意を舐めるなよ。スピン・フーシャも、あたいと同じようにトランジスタ大学から煙を消すという大いなる野望を持っていたんだ。それは十分スピンくんがあたいに協力する理由になる筈で、そのか細い手掛かりを頼りにあたいは彼に近づいたってこと。
「――着いてくれば、トランジスタ大学から鬱陶しい煙を消滅させると約束する。あたいに賭けないか?」
……ああ、きみと読者のみんなはちゃんとお話に着いてこれてるかな? 語っているとどうも我を忘れるから、不意に我に返るとき、凄く不安になる。あたいはこんなへろへろした奴だけど、元来心配性の質なんだ。
じゃあ、途端にアクセル踏むから舌噛まないようにね。
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親切学部棟に相当するA館は六階建てであって、屋上に侵入するのは容易い。容易いっていうか、鍵が掛かっていない。これは大学内の汎ゆる学者の中でも特殊な環境で、改めて考えてみれば結構異質な設定だ。棟に立ち入りを許される親切学部の学部生なら誰でも屋上に入れて、そこで弁当を食べたり昼寝が出来るんだ。ただし、この時期は寒いから陽の光に当たって陽気に、とはいかない。ここでトランジスタ大学に蔓延する癌、煙サマのご登場だ。当然六階建ての更に屋根の上に登ったところで、五メートル先だって見えない。上も横も下も靄、もや、モヤ。脳味噌の中から「やめろこんな世界見せつけんな馬鹿」って自分が喚くのが聞こえてくるんだ。とりあえず、目隠しされて連れてこられたら地上かどうかすら判別付かないレベルだね。というわけで、大学内は周辺を取り囲む町よりも幾分気温が低いことが多いんだよ。
さて、現実問題として、たかが学生らがみぃんな煙草をヤッてるからってそこまで大規模で分厚いカーテンが果たして現れるのか、というのはやはりみんな気にされてるところだと思う。本当の奥まった事実はあたいも知らないけども、これは物理的な喫煙量が起こす現象ではないというのは肌感で分かってた。もしトランジスタ大学の全学生三万人から四万人が二十四時間スパスパフーフーしてたとしても、その行為だけで四六時中五里霧中のモラトリアム空間を生み出せる訳がない。だからあの美しくもなんともない白色の景色は、煙草という魔物に囚われた学生たちの瞳が親だったんだろう、なんてしみったれた仮説をあたいは立ててる。これはいずれ是非ともトラ大の後輩の誰かが卒論で解明してくれたまえ。まぁ煙は大学の外から誰でも観測出来てたし、ただの幻と片付けるのも憚られる、とだけは言えるかな――親切学部の屋上からも、そんな風景が一望出来た。とはいえ、どこからでも観られるから特別感なんてものは皆無だがね。
「いつ見ても酷い景色だ。目の前に新品のキャンバスが置いてあるみたい……構内と掛けた訳では、ないけれど」
「…………」
「なんか反応してよっ。あたい寂しいーっ」
と言いつつもあたいはトランジスタ大学の生協で入手可能な特殊ノートパソコン――えっとな、確か『Hey RETSU NOTE』とかいう商品名が付いてる、折り畳み時厚み一センチ超にもなるゴツいコンピューターを愛用の鞄から出した。『RETSU』ってのは開発者の名前かつ商品の愛称でもある。それをぐいっと開いて両手で持ち、画面を視界の真ん中に留まるように持ち上げる。すると画面には、煙が取り除かれたクリアな世界が広がっていた。きみもお察しの通り、煙草の影響を排除して眼前の映像をリアルタイムで作る機能が備わっている生協渾身の代物だ。だからそんな物を開発する余裕があったら煙草そのものの取り締まりを……って、もうそれは愚問だったね。あそこの学生たちは、色んな意味で煙草がないと生きていけなかった。
それにしても実に快適だった。思っていた以上に、先が見えない、というのはストレスが溜まるものだったね。自分の将来の先が見えないだけでも辛いのに、物理的に先が見えないなら尚更辛い。恐怖と言ってもいい。出来るならいつでもこんなスッキリとした構内を見たいものだけど、嫌らしくも機械の重さがそれを封じるんだな、これが。充電も信じられん勢いで減るし、モバイルバッテリーも無意味。やけんそういえば、たまに大学の隅っこでRETSUをダンベル代わりにトレーニングしてたラグビーサークルの連中がいたっけな。
ちなみに、ゲーム入れたら一瞬で容量あっぷあっぷになるくらいだから性能面には期待しないほうがいい。あくまでも「それ」専用機として、愛着を持たずに付き合うのがトランジスタ大学で無難に暮らすコツだ。
「見えるかい。見えるだろう。これがあたいの恋人だ」
「……あ? これが? マジかよ」
「あ違った。早まった。あたいの想い人だ」
「飛躍にも限度があんだろボケが」
あたいはRETSUの真ん中辺りにちんまりと映っている、そう、きみを指差してスピンくんに示した。昼休み後の三限は丁度図書館で勉強した後しばらくしてそこから出てくると知ってたから、スピンくんには共有しておいたほうがいいと思って学部棟屋上にご招待させて頂いた、って感じだ。あたいもスピンくんも現役の親切学部生だから難なく、むしろ正規ルートで屋上に入れるのはスムーズで良かった。正当な四回生の彼はともかく、あたいはギリギリ卒業してないだけの御身分だったけどね。
授業最終日だったから変則的な行動をしないか心配だったけど、いつも通りで助かったよ。画面の中のきみは、両手の全ての指の間にカスチックを計八本挟んで、右から左へ左から右へ、吸って吐いて吸って吐いてを交互に繰り返し、繰り返し、石油コンビナートも驚いてゲロ吐いちゃうくらいの煙を口から放出し続けてた。無駄なことや華美なことを嫌う本来のきみなら、あんな事をする筈なんかないんだ。肉眼じゃない画面越しというのを加味しても、なかなかに不気味な印象を受けたよ。あの虚ろな表情からは何の感情も読み取れん。きみはもうあの頃のことは覚えてないかもだけど、実際そうだった。このように、かつてのトランジスタ大学で煙草に呑まれた奴は尽く動く屍、タバコのゾンビになっちゃう。あたいは個人的にそいつらのことはタバゾンビって呼んでたんだけどね。そんで、そいつらはまだゾンビになってない比較的清らかな、比較的健康な学生を探し出して、煙草を勧めてくるんだ――「一本いる?」って。ゾンビらしからぬ、普通の学生みたいに、流暢に、清純で、健康的な空気と距離感で。これさ、ゲートウェイがカジュアル一直線なのが相当に厄介だったんだよね。マジで反吐が出そうになる。あーあ、あたいってば晩酌中なのになぁ。
で、悪魔の誘いを受けたが最後、さらにもっと煙草から抜け出せなくなって、そいつも立派な動く屍タバゾンビ。サバイバルは失敗で、当たり前のように学生生活からはドロップアウト。吸わなすぎても、吸いすぎても脱落とは、なんとも評価軸が手厳しいよね。
トランジスタ大学はあたいたち学生に何を求めてたのか、今となってもちょっと分からない部分が多い。
「半年くらい前から、彼はずっとこんな感じ。僭越ながら、とっても心苦しく思ってた。あたいがあのとき喫煙所に誘わなきゃ、とか考えてさ、時々夜も眠れないよ」
「昼間ッからゾンビウォッチングたぁ暇かよテメーは……コイツは、重症だな。もう常人にゃ戻れねェ」
「いや戻れる。多少の希望的観測は含むけど、大学から煙を消すといわゆる『ゾンビ化』が解けるハズだよ。あたいのこれまでの研究から予想して導き出した推論だ。没になった前卒論は無駄じゃなかったってこと」
「おいおい……ちょい待てや。煙消すって、んな研究よく教授が許したな。先公はどいつもこいつも大学の手先だろ?」
「カモフラージュしてたに決まってるじゃないか。表向き、あたいは通学中に何人のお婆さんに親切出来るかを極めていることになってた」
「……ベルカゼ、アンタまさか、こんな自分の身も自分で守れねェようなどうしようもねェカス野郎一人を助けるためにわざとダブったのか? 悪ィ奴だな」
「どうぞチリカさんって呼ぶといい。悪さなら、スピンくんには負けるよ。あたいのGPAは上空飛行だしね」
「俺でも卒論のテーマ替え玉したりはしねェよ……やる理由がねェ」
「そう。その通り。つまり、あたいにはあるからやるってことだ」
理由があり、志があり、課題があり、目の前にはモチベーションを上げてくれる飴がぶら下がっている。あたいはトランジスタ大学の広大な構内から煙を消滅させ、だいすきな人――きみだよ、きみ、き・み・の・こ・と、だよ――その大好きな人のお口から、同時着火八本のカスチック兄弟をこの手で没収してみせる。空いたお口に、微量のニコチンの匂いが残った、淑やかなキスをする。五秒くらい。そうすれば、もうちょっとあたいに振り向いてもらえるかもしれないと思った。
そしてそのアプローチが、そのままの意味での息苦しい学生生活を提供してくれたトランジスタ大学への置き土産という名の卒論に繋がり、やがて行き着く先は晴れての卒業だ。そんな大学側からすれば下劣な内容で卒論の単位が出るか怪しいと直前で見積もった場合、適当に、紫煙を反抗期、ゾンビを不良に置き換えて表現すれば学部の検閲は通ると考えた。人間を不良にしてしまう悪い反抗期を考察し、不良化を阻止する研究だなんて、そんなのそんなの、親切学部の卒論としてこれ以上ないくらい相応しいものに仕上がるに違いないだろう。
まぁ、もう終わった過去の出来事だけどさ、あたい、きみのために今からめちゃくちゃ頑張るから、どうかそのまま座して聞いててくれよ。
■■■
その後はスピンくんを連れ出して、久し振りに大学内で満点の星々のパノラマを観た。けど本物じゃない。それは空想学部棟屋上にしれっと設置されている、小ぢんまりとした小屋の中に設けられた簡素なプラネタリウム室での投影だった。
人文科学系の親切学部に対し自然科学系統の空想学部は建物がそこそこ遠くて、親切学部棟A館からは歩いて十分ほどはかかる。加えて、あたいは「星欲」が高まった時にたまにこの誰も使ってないプラネタリウムをこっそり使用しに来るんだけど、当然あたいは空想学部生じゃないから、学舎への侵入にはかなり気を遣わなきゃならない。もし見つかって親切学部の密偵だとバレると、最悪履修済み単位の取り消しもあり得る。よって、慣れないスピンくんを伴って空想学部棟F館を忍者の如く暗躍するのは実に、実に骨が折れたよ。
室内に設置されている最低限の柔らかさを持つダブルサイズのベッドに並んで仰向けに寝転びながら、星空が映し出された天井を指差すあたいと退屈げなスピンくんはその時、全く同じ世界を見ていた。煙やRETSUを通して見るのとは全然違う、他に誰も部屋に居ないからこそ、誰も入ってこないからこそ少しだけ澄んでいる空気の中で、紛い物なりに精一杯輝く星々を。
「目に焼きつけて。これがあたいらが目指す空だ」
「くだらねェ。煙を消すのはいいが、星なんか見て何になる」
「くだらなくない。星は道しるべだよ。迷ったとき、行くべき方向を示してくれるんだ」
「……どっちが北、とかか」
「はは、科学的な方角もそうだね。でも、ちょっとだけロマンチストになってもいいかな。あたい、彼らに悩みを打ち明けると、なんとなく勇気が貰える気がするんだ。打ち明けずとも、悩んでる素振りを思わせ振りにチラチラさせてみるだけで、一人じゃないって思える。たとえばあの、見えるかい、名前もわからんちっちゃい星は、遠い彼方で、あたいと同じように何かと戦ってる美少女ヒロインなんだろうな、ってさ」
「向こうも同じふうに悩んで、こっちを見てるってか」
「おお、分かってるじゃん。でもこの大学と向こう側との間には分厚い煙の層があるから、それが邪魔してさ、向こうもきっと、せっかく頑張ろうとしてるあたいの輝きが観測不可能でしょ……そんなの、勿体ないんだ」
きみがタバゾンビになってしまってからも、何度か空想学部のプラネタリウムを使ったことがあった。当初のあたいは今よりもよっぽどショックを受けてて、心細くて、誰かに縋らないと心が壊れてしまいそうだったんだけど、学部の友人たちやサークル仲間に話すのは無闇に心配させるだけかと思ってね。だから小耳に挟んで聞いていた、誰でもない偽物の星々に縋ったんだ。一人ぼっちで、人知れず、小さく丸まって、小屋の中でしくしく泣いてたよ。しくしくって、なんだか可愛いオノマトペを使っちゃったけど、そんな穏やかな心境じゃなかった。
怖くて怖くて、しょうがなかった。
もう二度と正気のきみとは話せないんじゃないかって。そのことで頭がパンクしそうで、もう自分の感情がどうしようもなくて……怖くて。
ああ、今は復活してへっちゃらだよ。あのトラウマも、後半の水割りみたいに今となってはかなり薄まってきたかな。お酒の力ってほんとに偉大だねー。
「今は星たち以外にも、スピンくんがいるから、とっても心強いと思ってるよ。大切な妹さんのためにも、一緒に頑張ろう」
「テメ……まさかとは思ってたが、どこで!」
「あたいら普段から話はしなかったけどさ、互いに存在はなんとなく認識してたじゃん? この四年間、喫煙所も授業もよく被るし。波長、いや運命かな? 合うんだろうね。そういう星のもと生まれたんだろう。だから、どっかで話しかけようと思って割りに様子を伺ってたんだけど、ちょっと前、遠目から見ちゃったんだよね……携帯の待ち受け見て、頭抱えて溜め息ついてるとこ。RETSUの拡大機能は優秀だったよ」
「……ッ! この悪趣味女……」
「いや、素敵なツーショットだった。ナイス笑顔。最初は彼女さんかと思ったんだけど、あまりにスピンくんとは系統が違うし、第一彼女にするには少し幼い。妹というのは勘だったけど、当たってたようでなにより。大好きな兄貴と同じことを学びたいがために、この大学に来たがってるんだろ。これも勘だけど、どう?」
「な、んで……んなことまで、バッチリ当てちまうんだよ……」
それからスピンくんは偽物の星空の方をぼーっと眺めながら、あたいにぽつぽつと彼自身のことを話し始めてくれた。さっきまでの印象とは打って変わって、そこにいたのはオラついた不良じゃなくて一人の不器用なお兄ちゃんだったよ。いささか荒々しい雰囲気をお持ちのお兄ちゃんではあったけども。
「……その、なんだ。慕ってくれてるんなら敢えて突き放す理由もねェ。俺ァ理由のねぇフラフラしたもんが嫌いだからな。あいつが……リフィンが順当に合格すりゃ、あと何年かで入学してきやがる。煙草の煙がひでぇしゾンビもいるから来んなって言っても聞く耳持たなくてよ。あのアホ、馬鹿すぎて笑えねェ」
「いいお兄さんじゃないか。なんで隠してたの? 言ってくれたら喜んで協力したのに」
たしかそのように質問すると、スピンくんは男の威厳がーとか、迂闊に他人に頼るのはヤワなヤツのやることーとかもごもご言いながら顔を真っ赤にしてた。それはつまり、孤高の不良特有のつまんない意地っ張りだとも――要するに妹さんのことは、出来る限り自分だけで解決したかったんだろうね。でも、いや、真っ赤にしてたってのは、そういう声のトーンだったような気がしたってだけかな。だって室内は淡く機械的な夜空が落ちてきている最中で、目を凝らさないと隣に寝ている奴の顔すら見えない。一度星を投影し始めさえすれば、中の観測者が満足するまでプラネタリウム室に光を持ち込むことは極めて罪深いことだ。
まぁ、たとえプラネタリウム室の外に出ようが、トランジスタ大学の外の煙のない普通の世界に行こうが、人間ってのは概して、夜空の星はおろか、すぐ一メートル先の他人の顔すら積極的には見ようとしないけどね。せっかく見えるというのに、何を恥ずかしがってるのやら。
「そういう意味では、信頼できる。スピンくんを大学で見かけるとき、いつも待ち受け画面を見ながら悩んでいるようだったからね。『おっ、こいつは煙草なんかには呑まれないぞ』って」
「……勝手に言ってろ。俺は今んところアンタのことはちっとも信頼しちゃいねェよ」
スピンくんは吐き捨てるように言って、懐からカスチックの箱を出し、一本を手に取って火をつけた。いくら急造っぽい小屋とはいえ、煙が溜まればちゃんと排煙する機構は備え付けられてるようだから、悪いガスが部屋に留まり続けることはない。さっきまで澄み渡った晴天だった暗い空には、薄く棚引く線のよくな雲が出現した。
スピンくんがその一本の半ばまで吸った辺りで、あたいはどうにもこうにもそわそわし始めた。ちゃんと見てると、音を聞くと、匂いを嗅ぐと、その……まぁ、いくら禁煙派とはいってもトランジスタの学生である以上は影響されて、多少は吸いたくなるわけだ。あれほどタバゾンビを恐れ、きみのために煙を消すと誓ったあたいがこんな様だよ。スピンくんにも言えることだけど、我ながら、語っててとても滑稽な習性だ。でもそれは、トランジスタ大学で生き抜くのに必要な防衛本能みたいなものなんだ。ほら、熱いものに触れると意志に関係なく必要以上の勢いで手が引っ込んだり、他人に首に手をかけられれば強い忌避感を感じることがあったりするだろう。あたいらはタバゾンビにならず、かといって何の対策もせず煙の世界を拒むこともなく、大学に怪しまれない程度に煙草に依存してる振りをしなくちゃならなかった。
「……なにじろじろ見てんだよ。一服は見せもんじゃねェ殺すぞゴラ。大体よ、ベルカゼはそういうトコがダメなんだわ」
「ああ、悪いね……」
「アンタまさか、持ってねェのか、煙草」
「うん、今日はもう切らしてて。ちょっと怖くてさ、いつも最低限しか持ち歩かないんだ……ごめん」
「…………一本だけ、やる。テメーの賭けにノるチップだ。その代わり千本相当の成果持ってこいや。考えた上で上手く使え。ゼロから信頼積み上げてみせろ。俺ァ後のこたぁどうなっても知らねェからな」
あたいはスピンくんがこちらを見向きもせずにカスチック一本を投げて渡してきたその時、トランジスタ大学に入学して煙の支配の実態を知り、覚悟を決めて初めてカスチックに手を出した瞬間のことを思い出してた。最初にカスチックをあたいにくれたのは、きみだったよね。春だ。親切学部棟の屋上で、昼休み、あたいは一人で固い床に仰向けになりながら果てしない煙の天板を眺めてたんだ。途方に暮れてたあたいに「同じ気持ちだ」って、「なんとか戦おう」って声をかけてくれたね。二人でせーので火をつけたカスチックの味は、今よりも格段に不味かった。こんなのに大嵌まりするなんて有り得ないと思った。
スピンくんと二人で心地よい気まずさの風味を放つカスチックを味わいながら、あたいは一つの星座を指差した。あたいが弱ってた頃、一番好きだった星座だよ。
「あ、ほら見て。あの三連星を囲むようにしてるのがモイルソーダ座。気に入ってるやつ」
「聞いたことねェ星座だな」
「……正式名称は果実チューハイ座だよ」
「なんで悔しげなんだよ……」
あたいはトランジスタ大学に入学した頃から煙草の代替になる依存先を探していて、そこで巡り合ったのがモイルソーダっていう果実チューハイだった。モイルはこの町で採れる柑橘で、オレンジより甘みが少し控えめでグレープフルーツよりやや癖が少ない。それをリキュールにして、ソーダで割ったのがモイルソーダ。適度に酔えて、かつイエロー色も爽やか系の香りも華やかでこれは良いと思ったよ。モイルソーダさえあれば煙草ばっかり吸うことはなくなって、大学生活を安全にやり過ごせるってね――実際は煙草を買う費用がかかりすぎて、四年間は全然モイルソーダ買うどころじゃなかったな。それでも月に一度は飲んでたし、気に入ってたのは本当だ。きみには隙あらば勧めてたでしょ……あんま響いてなかったっぽいけど。読者の方々も、これを読んでるその夜の相棒は彼女に務めてもらうといい。普通にスーパーとかで売ってるから。
「遥か遠い昔、ミギメと名付けられたカカシが自我を持ち、意思を持ち、人間と共に村で暮らすようになった。ミギメは人外らしく、仲間と一緒に少しずつ、少しずつ人間というものを体当たりで学んでいく、それなりに平和な日々を送ってた。でも、ミギメを嫌う人間もやっぱりいるんだ。ミギメは芽生え始めていた心というものを痛め、一番仲が良かった少女と村を出ることを決めた……少女とミギメは出立の前夜、村外れの丘で焚き火を囲み、それぞれ相手の目をじっと、じっと見つめる。そうして、村の特産品だった果実チューハイ缶で杯を交わし、互いの永遠の親愛を誓い合った」
「長ェよスカタン。何の話だ」
「果実チューハイ座の、その元になった古代の神話だよ。ホントかウソかは知らないけどね。けどなんだかロマンチックじゃない? あたい好きなんだ、こういうの」
「ま、好きそうではあるが……」
丁度スピンくんと話が途切れたタイミングで、二人とも一本分の煙草を吸い終わり、設置されている灰皿に吸い殻を二人仲良く突っ込んだ。立ち上がったついでに室内の電気を付けると、強い光に一瞬目がくらみ、慣れてきたときにはプラネタリウムの星々は当然と言えば当然だけど、全く見えなくなってた。忘れかけてたかもしれないけど、さっきまでのは全部お昼の出来事だよ。
あたいは少し離れた位置に佇んでいたスピン・フーシャを振り返る。すると彼は、何を言わずともこちらをずっと、じーっと見てた。一見ぶっきらぼうに見えるけど、芯には固まったものを感じる目線。あたいはその時、スピンくんに何を伝えればいいのかを確信してたんだ。
言われてる気がしたんだよ。「啖呵を切れ」って。
「――たった今から、あたいらが煙の代わりに吐き出すのは神話だ。いずれ遠い未来、星座となってヒロインに縋られるような、そんな伝説を吐き出すんだ」
この日のデートはそんなクサい台詞をもってお開きとなった。ちなみにどっちもケーキは予約してなかった。
■■■
二日後にはあたいはスピンくんと暗雲渦巻く大学が見えるカレー屋で再会し、そこで詳しく作戦を詰めることになった。のだけど、そんな矢先に予想だにしなかった、ユニークなピンチが勃発したんだ。
「いつも兄がお世話になってます! 妹のリフィン・フーシャといいます!」
「あ、ああ……いつもってほどいつもじゃ、ないかもだけど」
一人で来ると言っていたのに、バツの悪そうな顔のスピンくんは待ち合わせのカレー屋に実の妹リフィンちゃんを連れてきやがったんだ。
インド風カレー屋にありがちな独特な模様のクロスがかけられたテーブル席に、山のようなナンが積まれてた。一つの金属皿に巨大な面積を持つナンが、十枚くらい重ねて塔のようになってるのが六皿くらい既に来てる。あたいもスピンくんも一枚たりとも注文してないんだよ。全部リフィンちゃんが食べるつもりなんだ。そんなにナンがあってお供のカレーは保つのかと少し心配だったんだけど、よく見たらリフィンちゃんの座る椅子の近くに車輪のついたキャリーが横付けされていて、上には寸胴に入ったカレーが乗っかってた……今でもそうだけど、あたいは胃袋が小さくて美味しいものは少ししか食べられなかったから、ちょっと羨ましかった。
つまりは、リフィン嬢がお兄さまに着いてきた理由はみんなのお察しの通り。礼儀正しい子ではあるけど、あたいの顔が見たいから、とかじゃないんだよ。
「チリカさんですよね! 不束者の兄ですが、これからも兄をよろしくお願いします!」
「うん、とりま任された……きみの妹君は押しが強いな、はは」
「マジで悪ィ……」
いよいよこうなってくると少し不味いことがあって、スピンくんと表立って作戦の話が出来なくなる。元々大学関係者はもちろん誰にだって聞かせられない極秘の作戦を練るために途轍もなく流行ってない店をあらかじめチョイスしたおいたのに、これじゃあ台無しもいいところだった。万が一あたいらが反逆分子だと知れると、大学からどんな報復が来るか分かったもんじゃない。関係者の意図的な妨害だけじゃなくて、大学そのものの意思の鉄槌がすっ飛んでくるかもしれないくらいには予断を許さない状況だ。不注意なことに、恐らくはスピンくんが誤って行く店を事前にリフィンちゃんに漏らしてしまったんだろう。
彼のことが好きすぎる妹がいるとは知っていたからいざ実際の様子を見ると納得を受けるところではあるんだけど、まさかあれほどまでに懐いているとは。あんな妹、この世に存在しないと思ってたな。友達の一人が兄への愚痴や罵詈雑言を並べ立てるのをあやした事もあったから、その経験が余計に目の前の光景とのギャップを生み出して、驚愕の度合いを高めてる気配もあった。読者諸君、覚えておきたまえ……先入観っていうのは思ってるよりもあたいらの心身に根付いてるものみたいだ。きちんと直接見たものが、紛れもない真実なんだよ。
でも兄とは違って素直に「チリカさん」と呼んでくれることだけは褒めてやってもいい。素直は美徳だ。美徳は真実。
「ス、スピンくーん。これ、『ピクニック』の予定の話はど、どうしよっかー?」
「お、おう『ピクニック』な。分かってるってベルカゼさぁん。ちっと恥ずいからよぉー、リフィンにゃ聞かせたくねぇーんだわなぁー」
「お兄ちゃんたち、こんな寒い時期にピクニック計画してんの⁉ すんごいね、スーパーチャレンジャーズだ! あの、成功したらぜひお写真ください! チリカさん、連絡先を教えてくだひゃいませんかっ!」
何がどういう奇跡が起こってあんな兄にこんな全肯定リトルシスターが発生したのか、世間知らずのあたいには見当も付かないや。そういう幸運の星のもとにスピンくんは生まれたのかもね。それで、リフィンちゃんの、何かを盲目的なまでに熱心に好きでいられる姿勢も素晴らしいことだと思う。たくさん食べられることよりもむしろそっちの方が羨ましいかもしれないよ。
あたいは、きみがゾンビになっちゃったとき、一瞬だけ揺らいじゃったからなぁ。
それからリフィンちゃんを交えて、というよりもリフィンちゃんを中心に当たり障りのない幸せな会話をさせていただいて、ちょっとカレーも分けてもらいつつ、スピンくんとは『ピクニック』の体でなんとか暗喩や婉曲表現を用いながら作戦の詳細を擦り合わせていった。集合時間の決定はまだいいとして、使う道具なんかはかなり遠回しにしないと勘付かれる可能性がある。たとえば、RETSUにはアドリブで『折り畳んだハンカチーフ』のコードネームが与えられた。「少し分厚目の素材」と追加でディティールを添えたことでかろうじてスピンくんにも伝達されたようだったよ。いかんせん、あの時間は本当に、本当に大変だった。カレーの味とかぜんっぜん覚えてないもん。
「お兄ちゃんガサツだし、絶対なんか忘れ物するよー」
遠目からの観察や二日前のデートを経て、あたいもリフィンちゃんの分析はあながち間違いじゃない気がしてた。たぶん暗喩とか使わない普通の話し合いを出来てたとしても、何かしら忘れてただろうなぁって思うね。
「そうなったら、わたしがお届けしますね! 不出来な兄を補うのも、出来た妹の責任なのでっ!」
やれやれ、そろそろ声の演じ分けも疲れてきたな……誰がどの台詞を喋ったか分かりやすくするために若干話し方を変えてきたけど、文字で読む読者のみんなにはこの苦労、あんまり伝わってないんだよね。徒労かもしれないけど、しかしやれるだけはやってみるとするよ。もし極端に分かりにくい文になるようだったら、きみが便宜を図ってくれることに期待するから。
待って。話のトロを前におつまみタイム。もぐもぐ。あ、いや、べつにマグロのお刺身を食べてるわけじゃないからね。
■■■
「やあ。レジャーシートとバスケットは持ってきた?」
「随分余裕があるみてェだな」
その年最後の日の夕方、あたいとスピンくんはトランジスタ大学の正面入口、つまりは西門に集結していた。集結と言っても二人だけだけど。最終授業日は一昨日だし時間帯も時間帯だから、当然学生たちの行き来は少なくて、大学の雇われ警備員二名の冷ややかな目線だけがあたいらに注がれてた。しかし向こうが二名ならこちらも二名だ。二名分のパワーで覇気バトルでもするか、なんてその時は思ってたよ。でもあたいらは凍てつく目線に刺されるのも致し方ないと呑み込むしかなかったんだ。何故なら、その日あたいはコテコテの暴走族風ファッション、スピンくんは変身ヒーローのコスプレにそれぞれ身を包み、またそれぞれの愛車たる滞空二輪を携えて集合したからだ。
「…………」
「…………」
西門に近づいていくたびに「あれはなんなんだろう、でも流石に自分には関係ないよな」と思い込むしかなかったんだろうね、あたいらは。あたいは特攻服だけじゃなくウィッグとメイクまで徹底する完全装備っぷりで、スピンくんはその特徴的すぎるフルフェイスをメットオン・オフ自在だったよ。
こんなことになった理由は言わずもがな、決行日から数えて先週に巻き起こったカレー屋事変だった。相手の言うトンチキな暗喩のキラーパスをなんとか受け止めようとかかった結果、伝言ゲームよろしく内容に致命的な齟齬が生じてしまったらしい。
ただ、こんな所で呆然とグズグズしていても何も始まらない。一応滞空二輪を持ってきて乗車するというのは二人とも正解していたし、奇っ怪な服装も案外特に動きにくいという訳でもない。耳打ちで作戦内容をこしょこしょ答え合わせた結果、なんと色んな歯車が天文学的な確率で噛み合い、大きな齟齬が生じたのは衣装部分だけということが分かった。そんなことある、って話だけどさ、あったんだよ。頼むから信じて欲しいよ。
「チーム名は……『正義と悪』でいこっか?」
「何でもいい。時間ねェから決行するぞ」
「お願いそのヒーローの仮面で真面目に喋らないで。笑いがこみ上げちゃうから」
「チーム名は『ツボ浅のゲラライダー』だ」
「や、やめてぇー……! し、し、死ぬぅーっはははは」
思い出してる今でも笑っちゃいそう。ふふ。
笑いの興隆をなんとか鎮めて、あたいとスピンくんは滞空二輪に跨り、そのペダルを漕ぎ出し、どんどんと煙草の煙に閉ざされたトランジスタ大学内部、その本丸へ突入していった。この町では滞空二輪なんて大層な名前で通っちゃいるけど、噛み砕いて言うなら空を飛べる自転車の亜種だね。エンジン付きのやつもあるけど、お金のない学生のほとんどは安価なペダル式のタイプを買うよ。ギアに噛んだチェーンを回転させ、ホイール付近にいくつも接続された風車みたいな機構に風力と動力の両方を送り込み、なんやかんや技術の高まりもあって簡単に宙を駆れる。
もちろん扱いには注意が必要なので、良い子は教習所で免許を取ってから乗り回そうね。時効だから言うけどあたいは当時無免許だったよ。
奇しくも、族らしかったかな?
■■■
卒業論文の筋書き自体はとっくに書き終わっていて、あと欲しいのは「トランジスタ大学から煙を消滅させることに成功した」という結果だけだった。結果ありきで論文を組み立てるのはよくないことだけど、主目標を見失わない強靭な精神を持っているという点では評価してほしい。あたいは心配性だがそれとこれとは別の思考を使ってる。だから、割り切りは得意な方だったよ。
トランジスタ大学の全ての建物と建物とは、屋上から伸びている架電コードによって繋がっている。さっき紹介した親切学部棟A館からも、いくつかの棟を経由すれば空想学部棟F館に辿り着くようになってるんだ。概ね、一つの建物からは二つか三つの方向へコードが渡されているんだけど……エネルギーを均一に、効率よく配分できる利点よりも、あたいはそのシステムの致命的な脆弱性のほうに注目すべきだと思ってた。
あたいらは滞空二輪のペダルをキコキコ漕ぎながら空を駆け、冷たい向かい風を全身に浴びつつ、車両後部にぶっ刺してある暴走族っぽいド派手な旗を靡かせた。空中での作戦の最終確認は、風変わりな衣装を着てたせいでいつもより凍えてような。
「ほぼ知られてないけど、コードは色んな棟を立ち寄りながら、最終的に大学時計塔に集結するようになってる。まぁ、なんとなく絵面でそんな気はしてたんじゃない?」
「煙どころか雲突き破るくらい高くて一番目立つし、敷地の中央にぶっ立ってやがるからな。誰に見せたくてンな高い位置に時計付けてんだか」
「あれは、大学中で使われたエネルギーの残りカスみたいなものがそこに集められて、ナカザキ鉄塔っていう大学外のデカい変電所みたいな所に送信されていく施設なんだ。でも、今回はそれを『逆流させる』」
あたいの研究では、トランジスタ大学に蔓延する特殊な煙は、瞬間的な強い電力エネルギーに弱いことが分かってた。では、その強い電力エネルギーってのはどこから持ってくればいいのかが長らく未解決問題だったんだけども、4回生の冬になってやっとこさ、時計塔から出ていく筈のエネルギーを逆にナカザキ鉄塔の側から目一杯引っ張ってきて、それを隙間なく張り巡らされた蜘蛛の糸のような架電コードを通し、学園敷地内に縦横無尽に放電させ、ばら撒くという決死の想定ルートを確立出来たんだ。
これを操作できるのは、時計塔内部のオペレートルームのみ。けど、冬休み期間中の年の瀬とはいえ監視の目が一つもないわけじゃない。滞空二輪で該当操作室に窓から殴り込み、短時間で一気に勝負を仕掛ける。勝つも負けるも五分五分だった。職員に捕まったら一巻の終わりと言える、文字通りの電撃作戦だね。
「一度煙を晴らしてしまえば、おかしくなった職員たちも目を覚ますはずだよ」
「トラ大を支配してた煙草の時代は終わりを迎える……か」
「そうなる。あたいの独自研究が間違ってなければね」
そこまで会話したところで、スピンくんが徐に後ろを振り返った――それに倣って同じように後ろを向くと、なんだかやけに雑音がすると思ってけれど、なんと、大学の自動操縦ドローン複数機と、あたいらと同じく滞空二輪に乗ったタバゾンビたちが束になって追っかけてきてたんだよ。これはとどのつまり、あたいらの存在と進行方向は既に割れていると見るべきだった。
「どーする。家帰って炬燵出して寝るか?」
「いや、今は運動したい気分かも。遊び盛りの学生らしく、刺激的なツーリングと洒落込もうじゃないか!」
「ま、そうするしかなさそうだな。来やがれ、一体じゃなぁ〜んも出来ねェ雑魚どもがよッ!」
「鬼さんこちらーッ!」
小さくない緊張と不安を大きな虚勢で掻き消して、心に星の明かりを灯しながら、あたいらはペダルの回転数を上昇させた。
今からこの邪魔な幕を片付けるから、お星さま、どうかよく見てて。
■■■
大量のドローン軍団とゾンビたちに追われながらも、二手に分かれて追手を撹乱するという二名分の力を見せつけ、あたいら反乱軍は見事、遂に時計塔のオペレートルームに突入することに成功した。ところが、そこで見たものにあたいらは目を疑ったね。
「お兄、ちゃん、と……チリ、カさん……」
あたいが何か言うよりも先に、彼女の名前を呼びながらスピンくんが滞空二輪から飛び降りてリフィンちゃんのもとに駆け寄っていった。例の如く煙で満たされたオペレートルーム内に、職員の姿はない。侵入のときに割った窓ガラスから生き残ったドローンとゾンビが入ってこないよう、あたいはずっと暴走族フラッグを振り回して抵抗してたよ。だから全ての邪魔者を撃退し終わってから初めてつぶさに室内の状況を確認してみて、やがて部屋の隅で、スピンくんに抱き抱えられて目を閉じているリフィンちゃんを発見した。
彼女の手には、植物の蔦で編まれたバスケットが握られていて、中をそっと覗くと、海苔で顔が描いてある手作りのおにぎりが入ってた。
そのとき、急にリフィンちゃんの目が開いた。その顔は何の感情も読み取れない、独特の、けれども、よく見たことのある雰囲気を湛えてたんだ。
「あ、チリカさんこんにちは! あの、一本いりますか? さっき初めて吸ったんですけどね、これめーっちゃ美味しいんですよ! ぜひぜひ!」
お手製おにぎりを無視して、代わりにポケットの中から差し出されたのは、まるでついさっきコンビニで買ってきたような箱から出てきたカスチックだった。
「お兄ちゃんも一本いる? だから忘れ物するって言ってたじゃん。ほらほら、吸ってみて! 超絶美味しいよ!」
「――そんなわけ……そんなわけ‼」
そんなふざけた結末、ないだろう。きみも、読者のみんなもそう思うよね。だけど事実だよ。見たものこそが、唯一の事実なんだ。たぶん、西門からこっそりあたいらの事をつけてるうちに、大学側の人間に捕まったんだろう。そうしてあたいらへの見せしめとしてオペレートルームへ連行され、そして大学側の最後の悪足掻きとして、ゾンビにされるというピリオドが打たれてしまった。恐らくこれは普通のゾンビ化とは違う。取り返しがつかない予感があった。あたいが大学に卒論という置き土産をするよりも前に、大学の方が、あたいとスピンくんに最低最悪の置き土産を残していったんだ。
スピンくんは下を向いてて、呼びかけても反応しない。表情が見えないし、何の音も発さない――それはかつての自分を思い出させる姿だった。気持ちが、分かるんだよ。分かってしまうんだ……痛いほどにね。
リフィン・フーシャはその後、トランジスタ大学の煙を全て綺麗さっぱり消滅させ、あたいときみが煙草のない平和なキャンパスライフを取り戻し、無事に卒論を出して卒業していった後になっても、とうとうそのゾンビ化を解いてあげることは出来なかった。
■■■
すべては語り終えたよ。お酒もおつまみも尽きて、そろそろ晩酌も閉店ムードかな。まぁその、後味悪くってメンゴ。胸張って「千本相当の成果」とは言えないよね。
お話は長かったかな、短かったかな。まぁ長かったか。人によって読むスピードは違うし、あたいもべしゃりのプロって訳じゃないから至らない部分がたくさんあったんだろう。もしそういうふうに思われてる『シキサイ』読者の方がいたら、謝りたい。けどね、これでようやくあたいも肩の荷が下りた気がするよ。知られるべきエピソードは広く公開されるべきだ――あの果実チューハイ座の伝説のようにね。良いタイミングでネタ提供の誘いが回ってきたのも、星の思し召しだったのかもしれないな。
犠牲は大きかったけど、それ以外の全部が丸く収まったから、あたいは大体は満足してた。あの兄妹には申し訳が立たないけどね。でもスピンくんとあたいは目指すべき、見据えるべき人生の終着点が違う。リフィンちゃんも、ゾンビなりに日常を取り戻そうとリハビリ頑張ってるって、その次の夏頃に風の噂で聞いたしね。
あー、スピンくんともあの日以来会ってないなぁ……ねぇねぇ、もしこの記事を見てくれてたら、出版社伝手に連絡ちょーだいよ。そんで「ここの場面捏造だろー!」とか「変な描写わざわざ入れてんじゃねー!」とか、あの一週間に戻るみたいに喧嘩しよ。思い出のカレーうどんとチキン南蛮と、あとはホールケーキも予約して待ってるからさ。
珍しい人の来客を、今度はこっちが期待してるよ。
まぁそんなわけで、きみのために打ち立てた神話は、これにて終演でございますっと。んー、果たして星座に採用されるくらいの神話になれるだろうか……。
なれたら、けっこう嬉しいかな。
データ容量まだ大丈夫だよね?
あ、ヤバい! 油断した! えっとね、えっと、ごめんなさい、さっき言ってたの嘘なんです! ただの強がりっていうか! あの、あの! えっと、えっと、今でもずっときみが好き! 大好きです!
あたいと付き合っ――――
(音声はここで終わっている)
執筆の狙い
複数の視点の、好きなものを選んで読める小説を書いてみました。
たとえば、語り部の音声データを代筆する、かつての想い人「きみ」。あるいは代筆された記事を読む「雑誌読者」。
他にも2つほど、読んでからはじめて気づくように仕掛けてある視点があります。読み終わったとき、どの視点に感情移入して読んでいただけたのかが凄く気になります。
ちょっと長いですが(24000字ほど)、面白いと思います。
理不尽な展開も許せるB級ゾンビ映画が好きな方はぜひ。