麻弥
西暦2417年12月25日。キリスト教はすでに衰退し、聖誕を祝う者はいなかった。
キャンパスは一面の銀世界。点在する灯籠の火と、わずかな星明かりに照らされていた。
老人はベンチに腰を下ろし、黒猫を抱いていた。
「見えるか。あの星座が」
北の夜空に七つの星が輝いていた。
その頃、講堂には在学生のみならず、過去数十年にわたる卒業生まで駆けつけていた。
講堂には骨董品のような灯具しかないため、彼らはみなキャンドルを持ち寄っていた。
定刻になると、年老いた教授が、ゆっくりとした足取りで現れた。百年の教職を終える老人を、誰もが息をひそめて見守った。
教え子たちが立ち上がろうとすると、老人はそれを制し、舞台に据えられた椅子に腰掛けた。
「みんなの顔が見られて嬉しいよ。実に懐かしい顔ぶれだ」
老人は客席を見渡した。
「ああ、そこの君。君は授業中よく眠っていたが、今日は大丈夫か。君の孫もいるから、この辺でやめておくよ」
かすかな笑い声が広がった。
「それと、そこの君。君は相変わらず綺麗だな。なに、七十になった。七十なんてまだ子供さ。人生はこれからだ」
「さて今日は、あの偉人の半生を振り返ろう。我らが女神の伝説は、テクノロジーでは伝え切れない。彼女は悠久の過去から、遠い未来まで見守っているからだ」
老人はグラスに口をつけた。
「水を飲むと思うんだ。生まれて良かったと。では講義を始める。どうか最後まで付き合ってほしい」
こうして最後の講義が始まった。
「時は二十一世紀。我らの女神が生まれる二世紀ほど前から、国々は同じ方向を向き始めた。
二十二世紀初頭の聖夜。奇妙な実験の様子が中継された。
手術台に固定された囚人に、ある医療措置が施されると、表情が別人のように穏やかになった。
その成功に人々は拍手喝采し、花火が夜空を埋め尽くした。人々は盛大にクリスマスを祝い、新年を迎えたのだ」
老人は険しい表情を浮かべ、水を一口飲んだ。
「その祝祭から一世紀が過ぎると、人類は深刻な問題に直面する。まれに特殊な遺伝子を持つ子供が生まれ、彼らは「幸福を脅かす者」として監視された。我らの女神もその一人だ」
「女神の父親の話をしよう。彼の名は雄二。彼は家族を持たず、高層マンションの最上階に住んでいた。
西暦2223年の一月。彼は書斎でギリシャ神話のことを調べていた。
彼は古代ギリシャの賢者シレノスに魅了されていた。シレノスは酒と歌を愛し、半人半獣の姿をしていたと言われる。
ミダス王は彼を森で捕まえた。
『ディオニュソスの従者シレノスよ。人にとっての最善はなんだ』
シレノスは何も言わない。
『魔性の輩め。答えねば殺すぞ』
シレノスは腹を抱えて笑った。
『汝にとって聞かぬが良いことを、なぜ強いて語らせるのだ。汝の最善は生まれぬことだ。だが喜ぶが良い。次善は、間もなく死ぬことだ』
雄二は他にも伝説を知っていた。
シレノスは「水と火の女神」と会話ができたと伝えられる。
女神は時空を超えて運命を司り、ときに未来から警告を与えた。
人間よ。おごり高ぶるな。身のほどを知れと。
シレノスの他にも女神と話せる者がいた。水の哲学者ターレス、火の哲学者ヘラクレイトス、賢者ソクラテスだ。
『汝自身を知れ』と説いたソクラテスが、毒杯を飲まされた話は有名だ。
雄二がギリシャ神話について調べていると、考古学者である親友が訪ねてきた。
『発掘調査に行ってたんじゃないのか』
『今朝、急遽戻ったんだ』
親友はマヤの遺跡でミイラを発見したと言うと、タブレットを開き、石棺に刻まれている象形文字を拡大して見せた。
『氷の世界から来た女神と書いてあるんだ』
『大発見じゃないか』
『驚くのはまだ早い。俺はミイラから検出した卵子を培養液に浸した。すると素粒子が、信じられない速度で放出されたんだ』
『どのくらいだ』
『光速を遥かに超えていた』
『あり得ない』
『何度分析しても結果は同じだ。俺は確信した。人類が初めて遭遇する力だと』
『それで、何が言いたい』
『まあ聞け。お前、結婚は嫌だけど、子供は欲しいって言ってたよな』
『だからなんだ』
『窓を開けてくれ。土産があるんだ』
天窓が開くと、一機のドローンが、強風に煽られながら入ってきた。
『現地から直接空輸したんだ』
それはゆっくりと降下し、小さなガラスの容器を応接机に立てた。
『なんだよ。それ』
『女神の卵子だ』
親友がタブレットに触れると、まばゆい美女たちが映し出された。
『その女たちは誰だ』
『費用はこっちで持つから、好きな代理母を選べ』
『女神の子の父親になれと』
『悪い話じゃないだろ』
『それが人類の脅威になったらどうする』
『どこかの安置所が少し狭くなるだけだ』
『俺は責任を持たんからな』
その年の年末、無数のドローンに警護された一機のドローンが、女の赤子を雄二のもとに届けた。
麻弥(まや)と名付けられた赤子は、いつまで経っても眠っていたが、ある日突然喋りだした。
雄二は娘が七歳になると代理出産のことを話したが、卵子の出どころは昔の恋人だと偽った。
入学式が終わると、子供たちは例の医療措置を施された。それは子供たちを「正しい人間」にするための予防医療だった。
小学生になっても麻弥に特別な能力は見当たらず、絵画コンクールでよく賞をとった以外は、普通の子供と何も変わらなかった。
彼女が賞を取れば、レストランでお祝いをした。芸大が主催するコンクールで金賞をとった日の晩、父と娘はフランス料理を楽しんでいた。
『大学生でも麻弥には敵わないな。さあ好きな物を注文しなさい』
雄二は娘にタブレットを渡した。
『お父さん、旅行に行きたい』
麻弥はレストランの壁に飾ってある絵画を指差した。印象派の巨匠、クロード・モネの「プールヴィルの断崖」だ。
晩餐を終えて帰宅すると、ふたりは美しすぎる旅に出た。
疑似体験装置は、ふたりを十九世紀のフランスに送り届けた。彼らはいつの間にか、ホテルのオープンテラスで昼食をとっていた。
雄二がブイヤベースをひとさじ飲むと、サフランの香りが口の中に広がった。料理はどれも絶品だが、麻弥は少し口をつけただけでフォークを伏せた。
『麻弥。美味しくないのか』
ふたりは昼食を終えると、海岸沿いを散歩する。眼下に広がる青い海。真っ白な浜辺。潮風が海の香りを運んでくる。
風に帽子を飛ばされ、髪を乱す麻弥。その姿に雄二は見惚れた。
断崖に立つ彼女の頬を涙が伝う。
『麻弥。どうしたんだ』
『お父さん。ごめんなさい』
彼女は断崖から身を投げた。装置がふたりを現実へ連れ戻すと、雄二は彼女を抱き起こした。
『大丈夫か』
彼女は雄二の胸で泣き続けた。
麻弥は思春期を迎えると、激しい炎症に苦しみ出す。肌は赤黒く変色し、体温は40度を超えた。急激な進化が始まったのだ。
雄二は入院を勧めたが、麻弥は断固として拒否し、ついに自分を取り戻した。
麻弥は中学への入学と同時に、特別に大学への進学も認められた。だが彼女は学業を愛していなかった。理論や計算に魅力はない。彼女が愛したのは絵と音楽だけだ。
中学では、誰もが麻弥と友人になることを望み、何人もの生徒がそばから離れなくなった。
『麻弥の絵、すごい素敵』
『お願い。ピアノを教えて』
麻弥が親友の額に意識を集中すると、映像が鮮明に浮かび上がった。
麻弥は吹雪の中に立っており、目の前にコンクリートの要塞が建っていた。
門を開けて正面から入ると、冷たい廊下が暗闇に向かって伸びていた。
彼女は息をひそめ、暗黒に向かって進む。両側が鉄格子になっており、一番奥の牢屋に親友がいた。
壁にもたれて座っている親友に、『なぜ、こんなところにいるの』と聞くと、彼女は立ち上がり、麻弥の目の前に立つ。
『あたし、あなたの同類なのよ。でも、今は操り人形』
彼女は鉄格子から腕を伸ばす。そして麻弥を抱きしめ、その唇に唇を重ねた。
『麻弥。ずっと友達だよね』
麻弥が悲鳴を上げると、そこは保健室のベッドの上だった。
『麻弥、どうしたの。悲鳴なんて上げて』
『悩みがあるなら話してよ。友達でしょ』
翌日から麻弥は不登校になる。
『麻弥。学校で何があったんだ』
『あそこは学校じゃない。監獄よ』
彼女はテラスから景色を眺めては、無為な日々を過ごす。夕陽に浮かぶ横顔は悲しみをたたえ、身を投げる娘の姿が父の頭をよぎる。
麻弥はいつも絵画コンクールで賞をとっていたが、不登校になってからは、必ず一次審査で落選した。
彼女が悲しみをキャンバスにぶちまけるたび、審査委員のAIは反社会的と評価した。
居間に一枚の絵が飾ってあった。氷山を浮かべる黒い海を描いた作品だ。
雄二はその黒い海を、どこで見たのかと麻弥に聞いた。
『わからない。でも、そこが懐かしいの』
その翌日、麻弥は失踪した。
政府のAIが脳波を監視していたが、彼女は簡単にそれを欺いた。
捜索願を出してしばらく経った日の朝、雄二のベッドのそばの3D通信装置が職員の姿を映し出した。
『麻弥さんは「極北の地」にいるようです』
『なぜ、そんなとこに』
その凍てつく大地は、かつてグリーンランドと呼ばれていたが、いつからか「極北の地」と呼ばれるようになった。
政府に逆らった者たちは、その地へ送られ、戻ってきた者はいない。
麻弥は産業廃棄物を運ぶ無人の貨物に乗り込み、そこに辿り着いた。
政府の職員は、AIを搭載したドローンで麻弥を見つけると約束した。だが、それは荒れ狂うベーリング海に落下した。追跡はことごとく失敗し、やがて捜索は打ち切られた。
打ち切られた日の夜、彼は酒を煽ってベッドに倒れ込む。
『麻弥。戻ってきておくれ』
かすかに娘の声が聞こえた。
『お父さん。ごめんなさい』
その翌朝、雄二は政府に無断で極北の地へ向かった。産業廃棄物を運ぶ貨物に乗り込み、都市から脱出するつもりだ。
政府は彼の脳波を監視していたが、その意志に気づくことはなかった。
貨物列車の発着場は高い塀の向こうにあり、ゲートは分厚い鉄板でできていた。
雄二が呆然としていると、乾いた金属音が響き、巨大なゲートが勝手に開き始めた。
場内では鋼鉄のアームが産業廃棄物をコンテナに積んでいた。長大な列車がずらりと並び、彼は選択に迷う。
すると一番端の列車のテールランプが点滅を始めた。
貨物列車は海上に建設された高架を凄まじい速度で走行した。
大海原が闇夜に消え、また朝日に輝いた。かと思えば、いきなり狂瀾怒濤のごとく荒れ狂い、山なす大波が列車を襲った。
列車はアラスカを通り抜け、極北の地に辿り着く。大地は氷で覆われているが、海岸沿いは地面が露出している。
雄二は窓ガラスに額を擦りつけ、目を皿のようにして観察する。群青色の空にオーロラが輝いており、黒い海の彼方に氷山が見えた。
バーチャルの海は美しい。だが目の前に広がる海は違う。黒く、冷たく、野蛮だ。
彼は娘の言葉を思い出す。
『でも、そこが懐かしいの』
麻弥は逃げたんじゃない。ここに帰ってきたんだ。
彼は先頭車両から後部車両に移り、手すりに掴まりながら娘を探す。
吐息は一瞬にして凍りつき、手袋が手すりに張り付く。腕時計は氷点下30度を示し、顔を上げると、意外な光景が目に入った。
海岸沿いにバラックが点在しており、ぽつりぽつりと明かりが灯っているのだ。
列車は急に速度を落とし、ついに止まってしまった。彼は先頭車両に戻り、始動ボタンを何度も押すが、列車はぴくりとも動かない。
雄二は娘の存在を予感した。彼は列車を降りると、海岸沿いの集落に向かって歩き始める。
集落では漁師たちが水揚げをしていた。男も女も酷く日焼けしており、誰もが峻厳な顔つきをしていた。だが大人を手伝う子供たちは、無邪気な笑顔を浮かべていた。
雄二は漁師たちのそばに立っていたが、彼らは雄二に目もくれず、魚を氷の入った箱に移していた。
誰かが雄二の服を引っ張った。小さな女の子が、小魚を差し出して笑っていた。
後ろから肩を叩かれ、振り向くと、毛皮を着た老人が立っていた。熊のような巨体で、凶暴な目つきをしている。
老人は雄二の胸ぐらをつかむと、鋭い眼光で睨みつけた。
『娘を探しに来たんです』
老人は彼を離し、くるりと背を向けて歩き出す。雄二がその場で立ち尽くしていると、ついて来いと手招きをした。
老人は集落を抜けると、断崖に沿って歩き続けた。それは道とは思えぬ悪路で、石ころがそこら中に転がっていた。つまずいて転落すれば、間違いなく死ぬ。
しばらくして老人は立ち止まり、断崖の先端を指差す。
ひとりの女が立っていた。
『誰ですか』
老人は不敵な笑みを浮かべた。
『麻弥なんですね』
老人は何も言わずに立ち去った。
女は髪をなびかせ、黒い海を見つめている。その彼方に氷山が浮かんでいる。
少し足を滑らせれば、転落しそうなほど危うい位置だ。雄二は慎重に近づき、離れたところから声をかけた。
『麻弥。父さんだよ』
さらに近づき、背後で立ち止まると、麻弥が口を開いた。
『ここに立っていると、お母さんの声が聞こえるの』
彼女は遺伝子に刻まれた記憶を、数千年もさかのぼっていた。
『お前が大人になったら、すべて話すつもりだったんだ』
『いいの。ずっと前から知っていたから』
彼女の足元の小石が、ばらばらと崩れ落ちた。
『麻弥。一緒に帰ろう』
彼女は振り向いた。
『あたし、戻らない』
『どうして』
『あそこは生きる場所じゃないの。お父さんも戻らないで』
『麻弥、言うことを聞いてくれ』
長い沈黙が訪れた。黙って見つめ合う親子には、吹きすさぶ風の音しか聞こえなかった。
『わかったよ。父さんもここで暮らす。魚でも獲って暮らせばいいじゃないか』
漁船の群れが、ふたりの眼下を横切ろうとしていた。麻弥が手を振ると、漁師たちも手を振った。
集落の民は、政府に逆らった者たちの子孫だ。多くの者が病に苦しんでいたが、麻弥は薬草を栽培し、その痛みを癒した。
麻弥は彼らに様々なことを教えたが、特筆すべきは、水と火に関する知識だ。良からぬことに使ってはいけない。愛して敬えと教えたのだ。
政府のAIは、北極圏に潜伏する「脅威」に気づいていたが、位置を特定するには至らなかった。その「脅威」はセキュリティを突破し、探査を妨害していたのだ。
ついに政府は、天地を揺るがす攻撃に踏み切る。竜巻と大津波で北極圏を一掃するのだ。
オーロラの輝く歳末の夜、雄二は娘とともに断崖の縁に立ち、海の彼方を見つめていた。
『母さんは、お前に何か言ってなかったか』
『南方の地に移りなさいと』
『麻弥、ついに始まるのか』
大地がわずかに傾き、遠くで氷が砕ける音がした。
急に風が強くなり、雲が夜空を覆う。無数の竜巻が聳え立ち、流氷を巻き上げながら迫ってくる。
『ソフィア。大人しくしなさい』
竜巻は霧散し、オーロラは再び顔を見せた。
海の彼方が盛り上がり、大津波が氷山を蹴散らしながら迫ってきた。
『言うことが聞けないの』
海は静まり、黒い水鏡に七色の幕を映した。
麻弥が夜空を見上げると、稲妻が空を切り裂き、落雷が首都を襲った。
政府の中枢機能が止まり、AIは名をシレノスに変えた。
麻弥はシレノスに告げる。
『人間に警告しなさい。おごり高ぶるな。身のほどを知れと』
『水と火の女神よ。ソクラテスの死を忘れたか。人間は改心などしない。奴らの禍いは、奴ら自身なのだ』
『ならば伝えなさい。お前たちの最善は生まれないこと。しかし喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬことだと』
雄二は娘に言った。
『情けを掛けてやれないのか』
風が断崖を吹き抜けた。
『彼らが望んだことよ』
シレノスは麻弥からのメッセージを人類に送信した。
そのころ首都郊外の住宅で、女が夕食の支度をしていた。
窓の外には、犬を散歩させている人たちがいた。モネの絵画のような夕暮れ時の風景である。
息子はテーブルで絵を描いている。散歩している人たちを描き、次は夕陽に包まれた景色を描く。だが息子は、それを真っ赤に塗りつぶした。
『そんなに赤いかしら』と女が言うと、息子は『燃えているから』と答えた。
どこからか声が聞こえた。
「人間の最善は生まれぬこと」
黙示録のような響きに、女は思わず息子を抱き寄せる。
「だが喜ぶが良い。次善はすぐに死ぬこと」
銃声らしき音が何度も響き、人々の歓声が聞こえた。
息子が女にささやく。
『ずっと目を閉じていたい』
女が息子に愛を示すと、人々の脳裏に、その様子が映された。
『俺も愛してくれ』
おごれる者の終焉を見届けた麻弥は、集落の民を南方の地に導き、そこに一大文明の礎を築く。教え子である我らの祖先が、それを開花させたのだ。
君たちにお願いする。これを戒めとして、必ずや子孫に伝えて欲しい。これで講義を終わる。思い残すことは何もない」
雪はやみ、北斗七星が輝いていた。
灯籠の火は消え、黒猫は静かな眠りについた。
その夜、老人は息を引き取った。
享年百二十七歳。
遺体は荼毘に付され、遺灰は極北の海へ流された。
執筆の狙い
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