人生に唾
「やっぱりすごいね。是非、次の作品も見せてくれないかな」
穏やかに笑って、あなたは私にそう告げた。
それは欲しくて、欲しくて堪らなかった言葉だった。私はどう応えていいか分からず、数刻固まってしまった。ああ、もっとこう、他に何かあるだろう。自責の念に狩られてしまう。
「……あ、ありがとうございます」
私は急いで、ぎこちなくなりながらも、礼を伝えられた。クラリと気分が高揚する。鼓動がうるさい。焦燥感に支配されていると、また声がした。
「僕はね、君の作品が大好きなんだ。次もまた、楽しみにしているよ」
は、と呼吸が止まる。
あなたの言葉は、抉るように、杭で穿つように、私の心臓を射止めたのだ。
「……はい」
私の顔は、醜い感情でひどく歪んでいただろう。
ある一人の学生は図書館に居た。彼は今日もまた、本を読み更ける予定であった。さて、あの本の続きでもよもうか。思惑を浮かべながら、両腕に本を抱えて歩いていた。
ドンっ、と肩に鈍い衝撃が走った。
「っ、すみません」
「……」
彼は謝った。だが、ぶつかった学生は視線をやるだけで、そそくさと彼の傍を通り過ぎていった。数分経った後、彼の背後から先ほどの学生たちの会話が聞こえてきた。
ひどく暑くてうんざりし始める月。ここは避暑地だから、人だかりができてしまう。学生は脳の傍でふと思う。
「あいつ……」
「おい、やめろって」
聞こえてきた会話に、男子学生は聞こえないフリをした。
襟が苦しく感じたのは、気のせいだと洗脳する。
男子学生は、名前を佐田東(あずま)といった。
彼は、平々凡々とした学生であった。突飛出た才や、大した取り柄などない学生であった。唯一の卓逸した点は、一高に入ったことだけだった。家族に随分と褒め称えられた。だが、それは入学してしまえば意味がない。秀才はごまんといるからだ。そんな凡庸な学生は、図書館ばかりに入り浸っているため、あらぬ噂が立ってしまったのだ。暇を贄にして勉学に励んでも、噂は絶えなかった。
席につき、一冊の本を開く。
それは文庫本だった。奥付けには、数年ほど前の年月が記されている。それなのに、文庫本は新品同様だった。
「一九二九年?」
東がまだ尋常小学校二年生の頃だった。作者の名前を覗けば、ある有名な人だと、一発で分かる。
本を裏返し、さあ読もうとした時だった。薄暗い影が文面を邪魔した。東が顔を上げると、見知った顔がこちらを覗きこんでいた。
「堤」
「よう、佐田。……いや、『図書館の地縛霊』か?」
名前を呼ばれた男は、東の隣の席にガサツに座りこんだ。ガタ、という音が、静寂な空間に響く。『地縛霊』という言葉に眉を顰める。
「それで呼ぶなよ。気持ち悪い」
「すまん、すまん。もう呼ばねえから」
彼は堤清一(せいいち)といった。彼はケラケラと笑いながら本を見ている。堤は、東と同輩の学生であった。成績は万年下位で、二個上の落第生。さらには、風紀が乱れた学生でもあった。襟の第二釦まで外されているのが、その証だ。
「で、何読んでんだ? ……あれか? あの運動の作者の、だろ? 親父がなんか調べてたな」
堤の父親は特高警察だった。
彼は本の表紙を覗く。表紙には大きく表題が載せられている。
「もういいだろ。どっか行っとけ。落第者が」
ぶっきらぼうに言い放ち、手を振り払う。
「……悪かったな。俺は地縛霊なんかよりは忙しいから。じゃあな」
落第生は、態とらしく足音を立てて図書館を出て行った。
「……くそ」
嘲笑ともとれたそれは、悉く自尊心に刀傷を刻みつけた。
ぐしゃり、と頁に皺がつく。
東は荒々しく玄関の戸を引いた。挨拶も無く、東は自宅へと帰った。しまった、壊れてないか。そんな心配をする暇もなく、駆け足で自室に戻った。学帽を投げ、詰襟を脱ぐ。そして席に座って、机に突っ伏す。
しばらくすると、扉を軽く叩く音が聞こえた。
「あづまさん、大丈夫ですか?」
「あっ……はい、大丈夫です。母さん」
部屋の外から、母親の声が聞こえてきた。東は顔を上げる。もちろん自室に母親はいない。
「最近、どこか変ですよ。何かあれば、すぐに言ってくださいね。そう、今日のお夕食はライスカレーですからね」
「……はい」
彼は静かに頷いた。足音が遠ざかるのを確認してから、ゆっくりと目を伏せる。彼の目の下は雲泥に満ちていた。
「本日はここまで」
教授の声により、講義は時間を迎えた。
たちまち、学生たちが座席から離れていった。東も同様にして、帰路につこうとした。すると、隣席の学生の話し声がした。
「なあおい、あれ見たか?」
……ああ、あれか?
片付けるフリをして、傍聴する。
「ああ見た見た。米とか野菜とか、おまけにレコードとか、全然無いんだろ?」
……一面の話か。モノが足りねえって記事のことだな。確か、あの事件のせいだ。帳面などを鞄に入れながら思い出す。
「レコード……、そう言えば、あれ出たの知ってるか? フィルモンっていうやつ」
「知ってるさ。馬鹿高いやつだろ? 買えるわけが無い」
「だよなあ」
……フィルモン、フィルム・フォン。父さんが買ってたな。高値のフィルムだったのか。知らなかった。紙切れに走り書きで『フィルモン』と書き、スラックスのポケットに押し込んだ。
「お帰りなさい、あづまさん」
「た……ただいま戻りました」
戸を開けると、玄関には東の母親が立ちすくんでいた。元来華族であった彼女は、わざわざ出迎えするような女ではない。思わず持っていた本を抱きしめる。
「今日も、図書館でお勉強してきたの?」
「は……はい」
東は頷いた。嘘だ。フィルムを調べていただけだ。シャツに染みそうなほど、脂汗が滲み出てくる。靴を揃えてから、すぐさま自室へと直行しようとした。年嵩の女の声が耳に響いた。
「あづまさん。少し待って。こちら、貴方宛に届いていたわ」
母は東を呼び止めた。その声に振り向くと、母は袂から一通の封筒を取り出していた。それは真っ白で、装丁は何も施されていない。
「誰からですか?」
「名前は書いてないわね。『落第生』としか」
『落第生』。東は合点がいった。
「お知り合い?」
少し張り詰めた声だった。そうだと東が言うと、母は急に不機嫌になる。
「……そんな、貴方、落第生となんかつるんで」
「ただの知人ですよ。手紙、ありがとうございます」
母の手から封筒を手にし、東は自室へと駆け出した。
バタンッ、と勢いよく扉を閉める。東は扉を背にして、封筒を見た。そこには、『落第生ヨリ』としか書かれていなかった。恐る恐る封を開け、逆さにすると、床に一枚の紙が落ちてしまった。しゃがみこんで紙を拾うと、それは図書の貸し出し表だった。表の頭には、昨日借りた本の表題があった。いつの間にか落としていたのだろう。
本に戻そうと、東は貸し出し表を机上に置いた。そして、鞄の中を探そうとした。
「……あ」
貸し出し表を持っていた手に、違和感が残る。指を見てみると、人差し指が薄く汚れていた。先程置いたそれを持ち、裏返すと、そこには乱雑な文字が書かれていた。
『早ク返シテ成仏シロ』
「あいつ……」
堤の文言に、力に任せて表を投げ捨ててしまった。
翌る日、玄関へと東は駆け出した。踵の踏まれたローファーをよそに、急いで戸外へと出る。彼の左手には、一枚の紙が握られていた。忙しなく走り、目的地へと駆け込んだ。
「ごめ……!」
ん。と言おうとした途端、女の怒りの顔が見える。怒髪冠を衛くかのような顔だ。
「遅い!」
バンッと、音を立てて女は立ち上がった。ひらりと紅袖が舞う。
午後一時。カフェの窓際の席に、一組の男女がいた。
女学生の椛色の袖。一高生の学ラン姿。風に流れるラジオ。飲みかけのクリームソーダ。
「あたし達、約束したのよね?」
「は、い」
「いつかご存知?」
「……今日です」
「今日の、何時?」
「……午前十一時です」
突如響く、乾いた音。
東の頬に残った、一つの紅葉。
「どうして……どうしてそんな感じなの! この前だってそうよ!」
女の怒号に、辺りの空気は一瞬で張り詰める。飛んでくる唾に目を伏せる。心臓を直接握られるような感覚がした。
「約束は守らないし、ずっと黙ってるし!」
一方で、東は呆然として、紅葉を撫でた。ふと、女の手を見る。白魚の手は、今では骨ばっていて、色褪せた手にしか見えない。それから東は目線を、自身の膝下にやった。
幸恵は、ひどく頭に血が上っていた。荒々しく呼吸をしている。
「ごめん。でも昨日は……っ」
「口なんて聞きたくない!」
男の顔面に、バシャリと水が掛かった。女のコップは伽藍堂になっている。彼女は鞄を抱えると、そのままカフェを出て行った。カランカランとした鐘の音が響く。数刻してから、店内の緊張感は一瞬で崩れ落ちた。
スラックスに、水滴がポツリと落ちる。
「お客さん、大丈夫かい?」
壮年が東にタオルをわたす。それを拒むと、東は音を立てずに立ち上がった。
「……ええ。大丈夫です。お会計を」
帰り道、東は今日も図書館に寄った。なぜか席–窓側の席–は落第生の先約が入っていた。
「おお、男前になったなあ」
くくく、と堤の喉が鳴る。頬の痺れがひどくなる。
「何でいるんだよ」
「居ちゃだめかよ。ほら」
何かが投げられた。しきりに掴むと、それは真っ白な布巾だった。東はそれを一瞥したあと、嫌々水滴を拭う。なぜ持っているのか、とかそんな疑問が脳裏を過ったが、渋々堤の前の席に腰を落とす。椅子の音がした途端、
「で、なんでそうなったんだ?」
かっ、と東が目を見開いた。それからばつが悪そうに視線を落とす。
「ツレと別れた」
「……お前、アベックだったのか。ああ、ねえ」
淡々とした声色だった。それは、励ますつもりもなく、かといって馬鹿にする訳でもない。こぢんまりとした、驚愕の色が入った声だった。東はしばらく内情を話しはじめた。
「エルのことは忘れろよ。同級生のよしみじゃねえか」
堤はそう言って、がさつに東の肩を叩いた。すぐさまその手を払う。
「それでもまあ、そんなのでよくここに寄るよな?」
その言葉に、ギロリと音がつきそうなほど睨みつける。男はそれを受けても、なお話し続けた。
「ダチの所にでも行けよ」
一体、何度この男に苛立ちを覚えさせられたのか。東は眉間をつまみながらそう思った。男同士も悪くは無いぜ。堤はそう言ってパタンと本を閉じる。
「勉強してたのか?」
「いや? サボってるンだ。わかるか? サボタージュっていうので、もとは仏蘭西のお言葉でな……」
駄弁を弄する男の手元には、欧羅巴の本があった。表題は図形みたいなもの……文字? が並んでいた。
「この本、前の講義で爺が使っていたんだ。見るか? ほら」
「爺……センセイか」
是非も言わせず、堤は東に本を寄越した。
「いいからほら、読んでみろ」
言葉に流されて、本の頁を一枚捲る。仏蘭西のだといっても、日本語訳されているだろう。そう思ったのが馬鹿だった。
目の前に並ぶのは、横文字の羅列のみ。
東は、恐る恐る本の頁を覗いてみる。
Sur un vieil air
「す……? 何だ?」
「スュル アン ヴィエイ エール」
なんとも流暢な言葉に、思わず顔を上げる。東の顔を見て、堤は軽く鼻で笑った。
「『古い旋律に乗せて』、だ」
堤の人差し指が、本に伸ばされる。文字列がなぞられた。
「かの友人に贈った、とある詩人の思い。多いとは言えない量だが、質は劣らない詩なんだ」
「はあ……?」
目を細めて、今一度仏詩に目を通す。やはり、さっぱり分からない。
「まあしかし、誰も読まないんだよな、これ。……そうだ。貸してやるから。読んでみろよ」
「いや、私が読めるわけ……」
もう一つ声が重なる。
「できないじゃなくて、やってみろよ? 地縛霊」
「なっ……」
反論を試みた瞬間、ふわっ。突風に窓掛けが舞う。こんな季節にこの風は、少し蒸しっぽくて苦しい。
「ああ、暑くてイヤんなる。アイスクリイムが食いたいな」
呆れたように堤は言い、立ち上がって窓を締め切った。男の首筋に汗の玉が伝う。東は渋々、静かに頭を下げた。その拍子に、欧羅巴の本に目を落とす。
古本特有の、インキの匂い。ザラザラする頁。いつのだと考えていると、頭上から声が降る。
「ああ、分からなかったら、すぐに聞いた方がいいぜ。ここに玄人がいるんだからな?」
そう言って堤は自分の胸を張る。
「……誰がお前なんかに」
昂る怒気をひしひしと感じながら、東は口を開く。ひくひくと、こめかみが動く。
「頼らなくても読めるのかよ」
「よ、読めるに決まっているだろう」
思わず声の拍子が高くなる。
「そうか、そうか。精々頑張れよ。俺はコレとの約束があるんでな」
堤はひらりと、小指を立てた左手を見せた。
「お前、イロなんか居ないはずじゃ」
「居るよー。伊達に落第してるわけじゃないんだぜ俺は」
ふわり、と学生帽子を被った堤は席を立った。
「妹(いもせ)は理由にならないだろ、それ!」
聞こえているかの是非も分からぬまま、扉の閉まる音だけが聞こえた。
無機質な音に煽られるように、東は椅子にふんぞり返った。
ちらちらと、視界にうつる本に無性に苛立った。
「そこの人」
聞こえた声に振り返ると、そこにはメガネをつけた女性が佇んでいた。彼女をみて、一瞬体を震わせる。
「あの、すみませんが」
女性は後方の壁を指してから口を噤んだ。
『図書館デハ 私語厳禁』
「ああ……すみません」
「分かっているとは思いますが……、お願いしますね」
「わ、分かっている!」
わざわざ愛想笑いに血管をちぎるほど、一高生は憤怒した。それから東は足音を立てて、その場を後にした。
閑散とした住宅街。砂でざらつく地面。引き戸の玄関。
「ただいま」
そこに響くは青年の声。青年はロウファーを脱ぎ、いそいそと家に上がりこむ。帽子を外し、シャツの釦を二個外す。居間へと、男が向かっていたその時。奥からパタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。
「清一さま、お帰りなさいませ」
モノクロの洋装に、真っ白な前掛け。きつくまとめられたシニヨン。目元の黒子。清…堤―…は、その姿を見て一息吐く。
「ただいま、八重さん」
堤は今一度、挨拶を交わす。その声は、吐きそうなほど甘ったるいものだった。目尻にシワが刻まれるのが自分でも分かった。
「今日はどうなさったのですか? いつもよりも遅いお帰りで。お荷物、お持ち致しますから、どうぞわたくしに」
「図書館に寄っていたんだ。気になることがあってね。……八重さん、いつも言ってるだろう? コレ重いから、大丈夫だよ」
伸ばされた手を見て、堤は軽く制する。
「ですが」
言葉を無視して、堤は鞄を机上に投げ、上着を衣裳掛けに仕舞った。頭二個分視線を下げると、八重は目に見えて焦っていた。度々、無駄に上背があってよかったと男は思う。彼女を見て、一瞬にへら笑いを作る。しかし、すぐに顔を元に戻した。
「八重さん、やえさん。俺ぁ、アレが飲みたいな。珈琲が飲みたい。淹れてきて欲しいな」
「珈琲ですか? 珍しいですねえ」
八重はふふ、と笑顔を綻ばせて駆け足で台所へと向かった。
女中の姿が失せた後、堤は廊下へと足を向ける。わずかに軋む廊下を歩いて、居間のソファに体を預けた。ゆっくりと沈んでいくのを感じながら、深呼吸をする。そして、天井の格子状の模様を眺む。
『よ、読めるに決まっているだろう』
ふと、先程の東を思い出す。切羽詰まったかんばせに、ふるふると揺れる瞳孔。手の甲に浮かんだ血管。
それらを脳裏で再生して、思わず吹き出しそうになる。いや、吹き出した。
「……っ、あっはっは! 餓鬼くせえ!」
「あら。清一さま、どうなさいましたか?」
凛とした声に、大げさに体が跳ねる。その声と共に、視界には八重の姿が映る。
「えっ……、ああいや、なんでもないよ。それより珈琲、もう淹れてくれたんだ? ありがとう」
「ええ、どうぞ」
ティーカップを受け取ると、水面には汗の浮かんだ顔が見える。
「そういえば、親父たちはどうしたんだい?」
「旦那様は奥様とご一緒に、お買い物へと行かれました。おそらく、夜には帰ってくるかと」
「そうか……」
堤は一気に、珈琲を飲み干した。
続く。
執筆の狙い
初投稿です。6500文字程度の作品です。舞台は昭和初期です。
まだ書き途中の作品ですので、感想やご意見等ありましたらお願いします。