エキゾチックショートヘアの少女 〜 しあわせな場所 〜
1
あたしは毎日、学校に行くのが辛い。
誰もあたしに話しかけたりしない。それはいい。話しかけないのなら徹底的に一人にしてほしい。
あたしが前を通ると鼻をつまんだり、ゲロ吐く真似するの、やめてほしい。
あたしの席の横を通る時、カバンを蹴り上げて行くの、やめてほしい。
やめてほしいと思ってるだけ。もし口にしたらもっとひどい目に遭う気がして……
あたしが世界一のブスだからって、どうしてこんな目に遭わないといけないんだろう。
男の子なんて嫌いだ。
そんなあたしでも恋したいとか思ってる。
一生できないかもしれない恋に、憧れてる。
女の子はみんなあたしを無視する。
関わったら自分まで男子にひどい目に遭うかもって思ってるんじゃないかな。
いいよ。ほっといてほしい。
みんなに不幸を伝染させたくない。
一人でトイレに行って、鏡を見た。
すごい。
我ながらすごい顔だと思う。
今日もあたしは世界一のブス。
目は大きいけど一重で、デッサンが狂って垂れてる。
鼻はぶっ潰れて鼻水がいつでも垂れててもおかしくない形。
口角が下がった口がいかにも不幸そう。
「おい、エキゾ。今日も人間のフリしてるのかぁ〜……」
バスケ部の柿内くんがあたしの席の横を通って行きながら、
「よっ!」
今日もあたしのバッグを蹴り上げた。
エキゾチックショートヘアという猫にあたしは似てるらしい。
とてもブサイクで、いつも目ヤニを出してる猫らしい。
よく知らないけど、画像検索してみたら、確かにとんでもなくブサイクな猫が出てきた。
それに似てるから、あたしのあだ名は『エキゾ』……。
死にたい。
この先、生きてても、絶対にいいことなんて、ない……。
朝、目覚めると、猫になってた。
なんか自分の部屋が広くなってて、おかしいなと思いながら目をこすると、てのひらに肉球がついてた。
鏡を見ると、検索して見たあのブサイクな猫、エキゾチックショートヘアだった。
真っ黒な中に金色の大きな目が光ってる。それが美しければいいけど、デッサンが狂ってついてた。
鼻からほうれい線みたいなブサイクなシワが、クシャッと口角の垂れた口と平行についてる。
「愛美《まなみ》ー? 起きてる? ごはんよー」
階下からお母さんが、いつもの仕方なさそうな声であたしの名前を呼んだ。
お母さんは猫が嫌いだ。あたしのことも愛してない。ただ義務だから育ててくれてるだけだ。
あたしは外へ逃げ出した。
ちょうど窓の鍵を開けててよかった。猫の手でもそれは軽く横に開き、あたしは瓦屋根の上を伝って歩道へ下りた。
『あたし……、どうなっちゃうの?』
そう呟いたけど、猫の声になった。
歩道をとぼとぼ歩いてると、通園する幼稚園児たちがあたしを見つけて、指さした。
「見てー! ぶさいくな猫ー!」
何をされるか怖くなって、あたしは走って逃げ出した。
『このまま……あたし……、ずっと猫のままなの?』
呟いたけど悲しそうな猫の声になった。
『やだ! 猫になるなんて、やだよ!』
でも、すぐに考えた。
このまま猫でいたほうが幸せなのかもしれない。
人間として生きてたってこの先いいことなんて、なさそうだし……
「おっ! 猫ちゃん、どうした?」
突然、爽やかな男の人の声に呼び止められて、あたしはハッとなった。
見上げると、|ひ《・》|じ《・》|き《・》みたいな髪の男の人が、あたしに向かってしゃがみ込んできたとこだった。
「エキゾチックショートヘアだよな? おまえ……。どこかの飼い猫か? 迷い猫?」
あたしが逃げなかったのは、逃げようとしなかったからだった。
その男の人は、とても綺麗な顔をしてて、スラリと背が高くて、そして、とても優しそうだった。
「はい。ここが俺の部屋だよ〜」
彼に抱っこされ、彼の部屋までついて来てしまった。
狭い部屋で、床に服やマンガ雑誌が散乱してて、でもいい匂いがした。
「腹減ってないか〜? 今、食べるもの作ってやるな〜」
あたしが床にお座りして待つ前で、彼は調理台に向かって何かを作り出した。
すぐに匂いでわかった。
(あ……。チキンラーメンだ)
「じゃんっ!」
彼が小さなお皿に入れたそれを、あたしの前に置いた。
「すげーだろ? 俺の得意料理なんだぜ、これ」
それはチキンラーメンをミルクでやきそばにしたみたいな料理だった。
泣きそうになった。嬉しかった。他人のお皿で料理を出されるのなんて初めてだ。
「あ……。猫はチキンラーメン食わないんだっけ……? 魚とかのほうがいいのかな?」
あたしはタッ!と小走りになると、お皿の中に顔を突っ込んだ。
目を覚ますと彼の寝顔が目の前にあった。
夢じゃなかったんだ。猫になったのも、彼と出会ったのも。
彼が呻《うめ》いた。
ゆっくりと、大きな目を開けると、朝日の中で、にっこりと微笑んだ。
「おはよ。えーと……、おまえの名前なんにすっかなー」
あたしは『エル』と名付けられた。
大きなLサイズのお目々が印象的なんだそうだ。
彼の名前は山田《やまだ》海《カイ》。
21歳の大学生だと、彼が電話で話す内容や郵便物の宛名で知った。
「エル〜、ただいま!」
カイが部屋に帰って来るのは夜遅いことが多かった。ホストクラブでアルバイトをしてるようだ。
あたしはカイが帰って来ると、何をしてても迎えに出た。
猫の耳は人間だった時よりもよく聞こえ、だから彼が駐車場に車を停めたところからわかってたのだ。
熟睡しててもすぐに起き上がって迎えに出た。
彼のベッドに寝転んでじゃれ合った。
「おまえは本当にかわいいな〜」
カイはあたしを溺愛してくれた。
「かわいい、かわいいよ、俺のエル」
『ブサイクだよ、あたし……』
あたしはカイとお話をするつもりで喋った。
『人間の時は……もっとブサイクだったけど……』
「ははは。お喋りしてくれてるみたい」
カイがあたしの頭を撫でてくれた。
「おまえはかわいいよ〜。ぶさかわいい!」
『ぶさ……かわいい?』
そんな言葉、初めて聞いたけど、嬉しかった。
お世辞じゃなくて、しっかり褒められてるのがわかった。
カイとの生活は楽しく、充実してた。
いつもあたしを見て笑ってくれて、爽やかな声であたしを褒めてくれた。
ぶさかわいいという言葉が、あたしは大好きになっていった。
まさに自分を表すのに相応しい言葉だって思って、大好きになっていった。
そしてカイのことは、それより比べようもないぐらい、大好きになっていった。
ある朝、目覚めると、あたしは人間に戻ってた。
前を見るといつものようにカイの寝顔があって、だけどいつもよりはそれが小さかった。
自分の手を見ると、人間の手だ。
黒い毛は髪だけで、顔に触れると呪わしいブサイクな起伏があった。
身体には学校の制服が着せられていた。
「う……ん」
カイが、ゆっくりと、目を開けた。
「……あれ?」
慌てて顔を隠した。
急いで逃げ出した。
後ろからカイが何か言ったけど、自分が玄関を開けるけたたましい音で聞き取れなかった。
「どこへ行ってたんだ、愛美《まなみ》!」
「心配したのよ? ご近所さんにあたしたちがあなたを虐待してたんじゃないかって言われて、大変だったんだから!」
お父さんもお母さんも、あたしを叱った。
あたしのためを思って叱ってくれてるんじゃなくて、自分たちのメンツが潰されかけたことを怒ってるようだった。
あたしは学校に戻った。
「どうしてたの?」なんて聞いてくれる人は一人もいなかった。
ただ、あたしが猫になってた一週間の間を開けて、また同じことが始まっただけだった。
臭そうに鼻をつままれる。
ゲロ吐く真似をされる。
カバンを蹴られる。
女子には無視される。
カイに会いたい!
学校帰り、足が自然とカイのアパートのほうへ向いてしまった。
ちょうど彼がアルバイトに出かける時間だ。
会えることを期待したけど、会ってどうなるわけでもないともわかってた。
あたしはもう、猫じゃない。
ただの世界一ブサイクな女の子だ。
あの朝、チラリと顔は見られたかもしれない。
強烈に印象に残っただろうから、会ったら覚えられてたりするかもしれない。
でも、カイはもう、あたしを『ぶさかわいい』とは、言ってくれないだろう。
あたしは学校で、みんなからいじめられてる、ただの世界一のブスなのだ。
猫ならブサくてもかわいがられるけど、あたしは人間だ。カイもきっと、みんなと同じように……
「エル!」
前から彼の声がして、ハッと顔を上げた。
背の高い、ひじきみたいな髪型の彼が、白い目を大きく開けて、まっすぐあたしを見つめ、笑ってた。
「エル! エルなんだよな?」
抱っこする手つきで、カイが駆け寄ってきた。
「なんだよ! おまえ、女の子だったの? 最高じゃん!」
あたしは迷わず、彼の腕の中に飛び込んだ。
2
あたしは学校に行かなくなった。
家にも帰らない。
ずっとカイの部屋にいて、ずっとゲームをしている。自分の楽しみのためというよりは、彼のための経験値稼ぎだ。
ずっと育てているのでカイの分身はかなり強くなった。いつものサーバーに集まる人たちの中で断トツに強く、アイテムや武器防具も超絶レア級のをたくさん持っている。
オンライン・ゲームなので色んな人と交流できるのがあたしには楽しかった。みんなにアイテムや武器をプレゼントしたりして、あたしは知り合った人たちから人気者になった。
みんなにはあたしの姿はかっこいい男のキャラに見えている。
リアルのこの醜い顔を見られてないと思うと、なんだか安心してみんなと会話ができる。
「ただいまー、エル」
そう言ってカイが大学から帰ってきた。
「おかえりー、カイ。今日ね、すごいもの拾ったんだよ!」
「おっ? なんだなんだ? 一億円でも道端に落ちてたか?」
「そうじゃないよ。ゲームの話だよ。なんとあのスプレッド・ショットガン拾っちゃった!」
「ええーっ!? 凄いじゃん! それがあればボスを除きどんな強敵でも動きを固めて攻撃し放題という……噂でしか聞いたことがなかった……あの!?」
「えへへへ〜……。褒めて、褒めて」
カイはあたしの隣に座ると、体をくっつけてきた。
おおきな手で、あたしの頭を撫でる。
「すごいな、エル。やったな。頑張ったな。ありがとう」
カイに頭を撫でられると、あたしはいつもとろけてしまう。
おおきくて、あたたかいてのひらを、ずっと感じていたい。
思わず喉がゴロゴロ鳴ってしまいそうになる。
でもカイは、すぐに立ち上がってしまう。
「お風呂?」
あたしが聞くと、優しい笑顔を見せてくれながら、忙しそうに言う。
「うん。時間ないからシャワー。バイト17時までに行っとかないと」
時計を見た。15時過ぎ。
16時半までには彼は車に乗って、ホストクラブのアルバイトに出かけてしまう。
帰ってくるのは深夜1時過ぎだ。ずっとあたしはひとりぼっちでゲームをする。
彼がシャワーを浴びてる間もあたしはゲームをやっていた。
着替えは彼が自分で用意する。あたしも恥ずかしいから、彼の衣類を触ったりできない。
あたしのごはんは彼が作ってくれる。明日の朝ごはんも彼が何か作ってくれるだろう。
こんなことなら料理ができるようになっておけばよかった。
あたしがやるのは掃除機をかけることぐらい。10分もなくて済む。
「ああ。シャワーだけでもじゅうぶん気持ちよかったぁ」
そう言いながら上半身裸で浴室から出てきた彼にドキッとしながら、ゲームのコントローラーを床に置いて、あたしは言った。
「ねえ……、カイ。あたし、家事やりたい」
「え? どうした、急に」
ひじきみたいなヘアスタイルが濡れて、わかめみたいになってた。
その頭をバスタオルで拭きながら、お風呂上がりでいつもの爽やかな笑顔をさらに爽やかにして、不思議そうにカイが聞く。
「だってあたし……女の子なのにそういうことちっともしてないし……。タダで住ませてもらってるの……申し訳ないよ」
「エルはいてくれるだけでいいんだよ」
そう言って、またあたしの頭を撫でた。
「いてくれるだけで、俺を幸せな気持ちにしてくれるんだから」
あったかいてのひらが、お風呂上がりでさらにあったかかった。
今夜のごはんはチキンラーメンにたまごとごはんを加えて作ったチャーハンだった。
カイはべつに料理は上手じゃない。でも、カイが作ってくれたものはなんでも美味しい。
彼の爽やかな笑顔の味がした。
自分で作ったチャーハンを急いで口に掻き込む彼に、言葉はかけにくい。時間に追われてて、忙しそうだから。
でも声をかけると、いつでも彼は気持ちよく答えてくれる。
「バイトって、大変?」
あたしが聞くと一瞬だけスプーンを運ぶ手を止めて、
「大変だけど、楽しいよ。色んな人と色んな話ができて」
そう言って、にっこりと細めた目で、あたしの目をまっすぐ見つめてくる。食べ物でほっぺたを膨らませながら。
「あたしよりブスなお客さんって、いる?」
自虐の笑いを浮かべながらあたしが聞くと、
「エルはブスなんかじゃねーよ。いい加減、自分のかわいさ認めろよな」
真顔でそう言って叱ってくれる。
「明日の朝ごはん、あたし作る!」
いきなりあたしがそう言い出すと、
「いいって、いいって。ほんと、エルはかわいがるためのものなんだから」
そう言ってまた爽やかな笑顔を見せる。
「あたしの手料理をカイに食べさせたいの! あたしの料理の腕前、知らないでしょ?」
あたしがすねて見せると、
「ははは。そうだな……。じゃ、お願いしちゃおっか」
ようやくあたしを女と認めてくれた。
カイが出ていくと、あたしもシャワーを浴びた。
カイのシャンプーは男の人用の頭がスースーするやつで、馴染めないけど、なんか楽しい。
カイと共用の黒いナイロンタオルで体を洗う。洗いながら、ちょっと思い出してしまう。
あたしが猫だった時、彼はここであたしを洗ってくれた。
何も身に着けてない彼が、笑顔であたしを愛でながら、お風呂をぬるい温度にして、一緒に湯船に浸かってくれた。
もう……一緒には入ってくれないのかな。
あたしが女の子に戻っちゃったから。
もし……また一緒に入ってくれるようになったとしたら、その時は、猫の時とはべつの意味で……。
火照った顔に急いでお湯をかけた。
洗面台の鏡に自分の顔を映す。
我ながらひどい顔だ。相変わらずのすごいブスだ。
目は左右非対称で、大きいのがかえって気持ち悪い。気をつけてないとすぐに目ヤニが出る。
鼻の穴が前向きで、ちっちゃくて潰れてる。口は軽く三口《みつくち》で、ほんと猫みたい。
病気とかだったらよかったのに。それだったら社会に守られてたかもしれないのに。中途半端にひどいブスなだけだから、みんなからいじめられるんだ。
かつてはみんなに嫌われて、自分でも大嫌いだった顔だ。
でもカイがいつも可愛いと言ってくれる。
そのせいか、確かに私にもかわいく見えてきた。
ブサかわいい──そんな言葉がぴったりな顔に見えてきた。
「うふっ」
笑うとさらにかわいくなった。
陰気な顔をしてるより、明るい顔のほうが自分に似合ってる気がしてきた。
それにしてもカイにはどうしてあたしがかわいく見えるのかな?
出会った時が猫だったから?
今でもあたしのこと、猫だと思って見てる?
絶対に明日の朝ごはん、成功してみせる!
部屋に戻ると、あたしはネットで朝ごはんレシピを検索し、イメージトレーニングを始めた。
慣れないお料理の勉強で疲れてしまったようだ。
いつの間にか眠ってた。
記憶ではフローリングの床でラグに頭を乗せて寝たはずだったのに、目が覚めてみるとベッドの上にいた。
右を見るとカイの胸があった。
寝間着のグレーのトレーナーの胸が、寝息で上下している。
あたしはしばらくそこに人差し指で文字を書いていたけど、思い出して立ち上がった。
「料理、やるぞ!」
下拵えは昨夜のうちにやっていた。
たまごと砂糖と牛乳を混ぜた液に浸した食パンは、いい感じに中まで液が染みて、冷蔵庫から取り出してみるとしっとりとなっている。
あとはフライパンで焼くだけだ。
きっと素敵なフレンチトーストが出来上がる。
それにカイが作り置いてるマカロニサラダをつけて、ブラックコーヒーを淹れて──
コーヒーの淹れ方がわからなかった。
インスタントコーヒーでもよかったんだけど、出来れば美味しいのを飲んでほしいと思って、レギュラーコーヒーに挑戦したのが間違いだった。
豆が溶けてくれない!
ネットで検索するとレギュラーコーヒーはインスタントコーヒーと違ってドリップとかいうことをするものだと知って、やり直しているうちにフレンチトーストがプスプスいってるのが聞こえた。
振り向くと、部屋中に黒い煙が充満してる。
何、これ!
カイが急いで起きてきて、ぜんぶを片付けてくれた。
そうか……。お料理をする時は、換気扇をつけなきゃいけなかったんだ。
海難救助隊のお兄さんみたいな顔でカイはすべてを一件落着させると、汗をかきながら、笑顔で優しく叱ってくれた。
換気扇をつけることも、ドリップコーヒーの淹れ方も、あたしの知らなかったことを教えてくれた。
キッチンで、テーブルを挟んで、片面黒コゲのフレンチトーストを二人で食べた。
まだ食パンは三枚あったけど、カイはそれをトーストにしたりせずに、あたしの作った失敗フレンチトーストを食べてくれた。
「これで今度作る時は失敗しないよな?」
楽しそうにあたしの顔を覗き込んで、励ますようにそう言う。
それであたしは機嫌がよくなって、黒コゲのところを剥がしながら、結構美味しく出来てるフレンチトーストを食べた。
「うん。うまいよ、これ」
カイも褒めてくれた。
「見た目はアレだけど、しっかり中まで黄色くなってる」
「えへへ……」
「ところで……おまえさ、もう猫にはなってくれないの?」
「え」
「あれって自由自在に猫になったり人間になったり出来るの? 出来るなら、また猫になって欲しいなぁ〜」
どうなんだろう……。
やっぱりカイは、あたしのことを猫だと思って見てるのだろうか。
3
カイがあたしに買い物を頼んでくれた。
人間として頼られてる感じがして、嬉しくなった。
カイに渡された二千円をポケットに大事に入れて、久しぶりに外へ出た。
外はすっかり秋だった。
彼から借りたモスグリーンのトレーナーはだぶだぶで、隙間から入り込んでくる風が冷たかった。
制服の紺スカートの下からも冷気が昇ってくる。ジャージ下も穿いてくればよかった。
スーパーマーケットまでは歩いて10分ぐらいだと言っていた。でもカイの足でそれならあたしはもうちょっとかかるかな。
「ちょっと君!」
おまわりさんに呼び止められた。
「ちょっといいかな? これからどこへ行くの?」
そうか。平日のこんな時間に制服のスカート姿で歩いてたらこうなるのか。
家出娘だとバレたら家に連れ戻される……。
カイと一緒にいられなくなる!
「あっ! 君っ!」
だだーっと逃げ出したあたしをおまわりさんは追ってきた。
めっちゃ速い! おじさんのくせに! いや、あたしが遅いのか……!
あぁ……こんな時、自分が猫だったら……!
猫の足なら、おまわりさんに駆けっこで負けやしないのに!
「……あれっ?」
路地へ逃げたあたしを追いかけてきたおまわりさんは、角を曲がったところで足を止めた。
「き……消えた? か、隠れる場所もないのに……」
立ち尽くすおまわりさんの足元を、ぶさいくな顔の黒い猫が悠々と通り過ぎた。もちろん、あたしだ。
不思議だ。
死にたいと強く思ったり、自分じゃなくなりたいと思った時に、あたしは猫になる。
着ていたものも、持っていたものも含めて、ぜんぶが猫になってしまう。カイのトレーナーもあたしのスカートも、黒い猫の毛に変わる。
お金もだ。二千円が猫の毛になってしまった。
戻り方はわからない。
『はあ〜……。どうしよう』
カイのアパートの合鍵も猫の黒い毛になってしまった。持っていたとしてもどうせ猫の手では開けられない。
『買い物……出来なくなっちゃった』
カイはきっとあたしを頼ってる。
今日もバイトの日だったはずだ。あたしが買って戻るはずのチキンラーメンを急いでお腹に入れて、忙しくシャワーを浴びて、あたしが買って戻るはずのひげそりで顔を剃って、慌ただしく出かける予定なんだろう。
『とりあえず……。部屋のドアの前で待ってようかなぁ……』
公園のベンチの上でそんなことを考えてると、風が落ち葉を地面の上に滑らせた。
かっこよく落ち葉は滑ってた。
まるでとても俊敏な、相手にとって不足なしのツワモノネズミみたいに見えた。
『うにゃにゃにゃにゃ!』
あたしの足は、勝手に駆け出してた。
本能だ。これ本能だ。
こうやって遊びながら狩りの練習をして、本物のネズミが出たら捕まえて、カイにお土産に持って帰らなくちゃ!
したたーっ! と、あたしを後ろから追い抜く影があった。
見ると、こげ茶色の猫だ。
あたしが追ってた黄色い銀杏《いちょう》の葉っぱを前足で、ばしっ! と押さえると、得意げな顔をして振り返った。
『ふふ……。俺の勝ちだな』
猫が……喋った!
あ……、そうか。あたし今猫だから、猫の言葉がわかるのか。
でもあんまり会話したくなかった。
あたし人間だし。それに何よりそのこげ茶色の猫が嫌味な顔つきしてて、かわいくなかったから。猫との会話なんて普通なら興味をそそられる初体験にも気が進まなかった。
『おい!』
冷たく背を向けたあたしに、猫はしつこく声をかけてきた。
『おい、おーい! 無視すんなよォ! 会議しようぜ? 二匹で会議しようぜ!』
ごめんね、あたし猫じゃないの。だから会議とか言われても意味わかんない。
歩くあたしの横に並んできた。
『なァ、おまえ! 見ない顔だよな? 人間に飼われてるやつか? なァ! なァ!』
無視してもしつこく、しつこく話しかけてくる。
『なァ! おまえ、名前あるのか? 名前って知ってるか? 俺の名前はダイチっていうんだけど? おまえは?』
しつこいので答えてあげた。
『……エル』
『エルか! いい名前だな! 黒い毛並みもいいし、気に入った! なァ、俺と遊ぼうぜ! 遊ぼうぜ!』
『ねぇ』
ふと気になったので、聞いてみた。
『あたし、綺麗?』
『な……なんだなんだ? なんだよそれ、都市伝説か?』
『あたしの顔、へんじゃないですか? ナンパなんてされるの初めてなんですけど。……もしかして、猫の目から見たら、あたし、美少女なの?』
『イケてるぜ!』
猫がキラーンと白い牙を見せて、肉球も見せて『いいね』した。
『一目で恋しちまった! そのちっちゃい顔にでっかい金色の目! ミステリアスでエキゾチックで……それから、えぇと……!』
『ありがとう』
考えたらどうでもよかった。
猫の男の子にモテたってしょうがない。
あたしは猫として生きていくつもりはないのだ。
『あっ! 待てよ〜う!』
走り出したあたしを追ってくるかと思ったけど、猫は立ち止まり、恋い焦がれる声であたしの背中に向かって、言った。
『覚えておいてくれよ? 俺の名前はダイチだからな! いつもこの公園にいるんだ! また今度遊ぼうぜ! 遊ぼうな!』
アパートに帰って、ドアの前で待った。大学からカイが戻ってくるのを。
どうなるんだろう、あたし。
また人間に戻れるという保証はない。
でもカイは喜ぶのだろうか。
あたしが猫だったほうが、かわいがりやすいから、カイにとってはいいことなんだろうか。
あたしにとっても、猫でいたほうが、何もしなくても申し訳なく思うこともないし、へんなことを言ったりしたりして嫌われることもないし、間違いなく死ぬまでかわいがってもらえるから、そのほうがいいんだろうか。
恋人につきものの、どんな問題も、起こりようがないし。
……やだな。
そんなの、やだ。
そんなことを考えてたら、下の駐車場で車が停まる音がした。鉄の階段を昇ってくる音がする。
「エル!?」
おすわりしてるあたしを見つけて、カイが驚きの声をあげた。顔は笑ってなかった。
「ど……、どうした? なんで中に入らず、外に……。いやいや、それより、なんで猫?」
『なんかまた変身しちゃったの』
あたしはそう言ったつもりだったけど、カイにはニャーとしか聞こえてないようだった。
4
カイはあたしがまた猫になって、嬉しそうだった。
人間だった時と違って、やたらあたしの体に触れてくる。
こんな笑顔、人間の時には見なかった。
目尻が垂れすぎて、今にも顔の輪郭から取れて落ちそう。
「エル〜……。おまえは本当にかわいいでちねー」
口調もなんだか赤ちゃん言葉だ。
「そのブサかわいいお顔、もっと見せてくだちゃいねー」
『カイはやっぱり、あたしは猫だって……思ってるの?』
抱っこされながら、まっすぐ彼の顔を見つめて言ったけど、あたしの口は「にゃ、にゃにゃ、にゃっらる、わあうー、おにょにょ、あにょにょ」としか動かない。
悲しいけど、腋の下に感じるカイの手があったたかった。悲しいけど嬉しくて、ずっとこうされてたい気持ちになりかけた。
だめだよ!
あたし、猫じゃないんだから!
なんとかして人間に戻って、カイのために何か役に立ちたいんだから。
なんとかして、人間に戻ってもこんなふうに、カイから触れられるような関係を築きたい。
でも戻る方法がわからない。
「お外で遊んできたんでちねー?」
あたしが買い物してこれなかったことには何も言わず、カイはただひたすらに嬉しそう。
「汚れちゃってまちよー? 一緒にお風呂、入ろっかー?」
さすがにあたしが女の子だって知ってるから、下には海パンを穿いていた。
でもやっぱり遠慮なく体を触ってくる。
あたしが女の子の姿だったらこんな触り方しないのに。
『人間の時も、こんなふうに触ってよ』
お風呂に響く声で、あたしは言った。
『いいよ? あたし、嫌がったりしないと思う』
「エルはシャンプーを嫌がらないいい子でちねー」
チキンラーメンがないので晩ごはんは味噌汁ごはんと冷凍食品のからあげをカイは食べた。あたしには猫缶だ。
味のないツナ缶をあたしは抵抗なく食べられる。っていうか、美味しい。
こんなの人間だったら『食べてられるか!』ってなってもおかしくないのに。
「ごめんな。今日もバイトだ」
すまなそうな声でカイが言う。
「遅くなっちまう。ひとりで遊んでてくれるか? ゲームは猫の手じゃ出来ないけど、キャットタワーで」
『ゲームやりたいな……。猫の手でもコントローラーの操作、出来ないのかな』
そう言って、思いついた。
『そうだ! 筆談だったらカイとお話できるかも?』
あたしは食べかけの猫缶を置いて、たっと駆けた。
ピザ屋さんのチラシを口にくわえて持ってきて、目で訴えると、カイはわかってくれた。
「あ……! もしかしてこれで会話できるのか?」
そう言うと立ち上がり、マジックペンを引き出しから持ってきてくれた。
文字なら書ける。
これで猫の姿でもカイと会話できる。
そう思って両手でペンを持ったけど、思うように動かすことができなかった。
ミミズが這った跡みたいなものしか書けなくて、歯痒くなった。猫の手は縦にクイクイと動かすことはとても得意だけど、文字を書くのには向いてない。
「あうー……」
あたしが悲しい声を出して見上げると、カイは安心させるように笑ってくれ、頭を撫でてくれた。
「いいよ、いいよ。エルは言葉なんて喋らなくて。かわいければ、それでいい」
カイがアルバイトに出て行ってから、パソコンだったら文字が書けるんじゃないかと試みた。
だめだった。猫の手はキーボードを押すのにも向いてない。指を広げることはできても、人差し指だけでキーを押すことはできなかった。どうしても他の指も同時にキーに触れてしまって、モニターに現れる文字が意味のあるものにならない。
諦めて、猫用ベッドにうずくまった。
すぐに眠たくなって、いつの間にかあたしは夢の中に入ってた。猫になるととにかくよく眠れる。
夢の中で、女の子の姿のあたしが、カイと一緒にお風呂に入りながら頭を撫でられ、頬を赤く染めてニコニコしてた。
彼が帰ってきたのを駐車場に車が止まった気配で気づいて目覚め、急いで玄関へ迎えに出た。
「エル〜、ただいま」
玄関の扉を開けると、彼の顔はすぐに嬉しそうに溶けた。
女の子のあたしが迎えた時も笑顔だったけど、これに比べればあれは愛想笑いだったのかなと思えるほどだ。デレッデレ。
やっぱりあたしが猫だったほうが、嬉しいのかな……。
あたしは人間でいたいのに。
背中を彼のお腹につける形で抱っこされた。
体じゅうを触ってくる。
あたしは抵抗する気もなく、彼のしたいがままにさせてあげた。
無言で、カイがあたしの体を彼の好きなように撫で回す。
あたしも気持ちよくなって、思わず喉がゴロゴロと鳴ってしまう。
肉球をニギニギする指が気持ちいい。
お腹を上下にマッサージしてくれるてのひらがあたたかい。
人差し指で喉の下なんか撫でられたら……鼻から汁出そう。恥ずかしい。
人間の時はこんなスキンシップなんてしてくれなかった。
それどころか、触るのをためらってるように見えた。
猫だと遠慮がない。
すごく恥ずかしいとこまで平気で触ってくる。めっちゃ触ってくれる。そんなとこ……
あん♡
声、出ちゃった。
彼のベッドに入って、くっつき合って眠った。
人間の時も同じベッドで寝てくれたけど、基本的には背中を向けてた。
朝目覚めると寝返りを打ってて、あたしを抱くようにこっちを向いてくれてることもよくあったけど、その腕は眠っていても遠慮がちで、けっして抱き寄せてくれるようなことはなかった。
猫の時は距離が全然違う。
あたしの顔は、彼の顔とくっついてる。
眠りながらあたしの背中を撫でてくれる。
彼の胸にあたしが埋まってることもある。彼の心臓の音を心地よく聴きながら、あたしはまたゴロゴロいってしまう。
ずっと猫でもいいかな……。
そう、思ってしまった。
目覚めるとカイはもう大学に出かけたあとだった。
なんで気づかなかったんだろう。猫は敏感だから、彼が少し物音を立てただけでも気づいたはずなのに。
幸せすぎて、眠りが深かったのかな……。
そう思いながらベッドから起き上がって、すぐに気づいた。あたしは人間に戻ってた。
モスグリーンのだぼだぼのトレーナーに制服のスカート姿だった。ポケットには鍵も二千円も入ってた。
なんで戻れたんだろう。それはわからなかったけど──
カイ……。もしかして……
起きたらあたしが人間に戻ってたから、ガッカリしちゃった?
「そうだ、チキンラーメン買ってこなくちゃ」
人間の体は重くて、あたしはのろのろと起き上がった。
5
おまわりさんに見つからないように、裏通りを歩いて近所のスーパーマーケットへ向かった。
チキンラーメンと、ひげそりと、インスタントのコンポタ買ってこなくちゃ。
あとあたしの好きなや必要なものも買っていいって言ってたけど、カイのものだけでいい。
あ……。リップクリームだけ買おうかな。
頭の中でそう呟きながら歩いてると、あの公園に差しかかった。
ふと見ると、ベンチの上でこげ茶色のオス猫さんが日向ぼっこしてる。ダイチだ。
猫の目からは意地悪そうに見えたけど、人間になって見ると、やはり猫だ。かわいく見えた。
あたしは公園に入っていった。
ダイチはあたしが来たのを見ると、ヤァーと言った。
「ふふ……。あたしが誰だかわかるかな?」
意地悪な笑顔を浮かべてあたしが近づくと、彼の口が言った。
「えるー……」
「わかるの!?」
まさかそんなわけない。偶然だ。偶然、ダイチの鳴き声が『エル』に聞こえたんだ。だってあの時あたしは猫だったのに。姿が全然違ってるのに……。
そう思ってると、すぐ側で男のひとの優しい声がした。
「ダイチはわかってるよ。君がエルだって」
びっくりして振り向くと、いつの間にかそこに、スラリと背の高い、白い髪の毛のひとが立っていた。
短い髪が風にそよいで、たんぽぽの綿毛みたいだ。とても綺麗な顔をしてて、真っ白な毛皮のマント姿で、あたしは思わず妖精でも現れたのかと思った。
わけがわからず、あたしが何も言えずにオロオロしてると、そのひとはにっこりと微笑んだ。
「僕が誰だかわからないよね? ごめんね、一方的に君のことを知っちゃってるんだ。僕の名前はソラ。君と正反対の、人間になれる猫だ」
「猫なの?」
「うん。そして魔法使いだよ。じつは、君を猫になれるようにしたのは、この僕なんだ」
「そうなんだ……」
「うん」
「なんで?」
「君があまりにも人間やめたがってたから」
そうだった。
人間やめたがってたっていうより、あたしは死にたかったんだ。カイに出会ってからはそんなこと忘れてた。
学校でいじめられて、両親からは愛されなくて、この先いいことなんてあるわけないって思って、死にたくなってたある朝、目覚めてみると猫になってた。
このひとが……あたしに魔法をかけてたの?
「やうー、なうー」
ダイチがあたしの足元にすり寄って、なんか熱烈に鳴いてる。
「彼、君がエルだって知ってて、仲良くしたがってるよ」
ソラと名乗るひとが教えてくれた。
「君の姿に一目惚れしたんだってさ」
「い……、今はあの時と、姿が違うよ?」
あたしは少し身を屈め、ダイチに言った。
「猫だったらブサかわいいだろうけど、人間のあたしはほら……こんなに、ただブスなだけだよ」
「君は美しいよ」
横からソラさんが言った。
「少なくとも僕の目からはそう見える。もっと自分の美を認めるべきだよ、君は」
あたしは口を半開きにしたまま固まった。『かわいい』ならカイにいつも言われてるけど、『美しい』と言われたのは産まれて初めてだった。
「……でも、猫の時のほうがもっと美しいかな」
ソラさんはゆっくりと近づいて来ると、あたしの目の前で足を止めた。
「今はお試し期間なんだ。どっちかに決めてほしい」
そう言って、綺麗な碧色の目で見下ろして来る。
「お……、お試し……?」
「うん。今は君が『人間やめたい』って思ったら猫になれる。君が『ずっと猫でいたい』って思ったら人間に戻るようになってる。でもどっちかひとつに決めてもらわないといけないんだ。僕の魔力をずっとかけ続けてないといけないからね」
「そうだったのか……」
彼の話を聞きながら、呟いた。
「ずっと猫でいいかなって思ったから……戻っちゃったのか……」
なんか意地悪いなって思った。
「猫にしなよ。ね?」
綺麗な声で囁くように、ソラさんが言う。
「僕らの仲間になりなよ。ダイチもそうしろって言ってるよ? 彼は君のことが大好きだ。君が猫になったら、是非お嫁さんにしたいってさ」
「決めなきゃ……いけないの?」
「うん。出来れば今すぐ、ね」
なんか急ぐようだ。
ソラさんがどうしてあたしを猫にしてくれたかはわからなかったけど、どうも彼の魔力に負担をかけてしまってるようだ。あたしを『猫になれる女の子』にし続けてるのは辛いんだろうか。
「人間やめたいって思ってごらんよ。ほら猫になってダイチとお話してごらん。きっと猫でい続けたいって思うはずさ。僕が魔法を解けば、そう思ってもずっと猫でい続けられるよ」
ダイチが足元からあたしを熱烈に見つめてる。
こんなに好いてくれる男の子なんて、いなかった。
カイもきっと、あたしが猫になれなくなったら、あたしから離れていく……。
「僕のお嫁さんにもしてあげるよ」
ソラさんがなんか言い出した。
「猫は一匹のメスが一匹のオスに縛られなきゃいけないなんてルールはないからね」
あたしは、揺れた。
「なー」
ダイチがあたしの足にすり寄る。
「一生、愛してあげるよ」
綺麗な顔と声で、ソラさんが囁く。
カイの顔が、頭に浮かんだ。
猫のあたしにメロメロで、あたしを愛してくれていた。
決めた。
あたしはソラさんに向き直ると、力を込めた声で、言った。
「あたし……、人間がいいです!」
びっくりした顔をしてるソラさんの綺麗な顔を見つめながら、あたしは思った。
猫になったら、幸せな場所は間違いなくどこにでもある。人間だったら、きっと苦しいままだ。それでも人間でいたかった。
知らなかった。人を好きになるって、こんなに苦しくて、でもとんでもなく楽しくて……
あたしは人間として、カイに愛されたかったのだ。
カイだけがあたしの幸せな場所。それで構わない。
あたしを猫じゃなく、一人の人間、一人の女の子としてカイに見てもらうんじゃなければ、意味がないんだと思った。
6
おまわりさんに見つからないように、裏通りを歩いて近所のスーパーマーケットへ向かった。
チキンラーメンと、ひげそりと、インスタントのコンポタ買ってこなくちゃ。
あとあたしの好きなや必要なものも買っていいって言ってたけど、カイのものだけでいい。
あ……。リップクリームだけ買おうかな。
頭の中でそう呟きながら歩いてると、あの公園に差しかかった。
ふと見ると、ベンチの上でこげ茶色のオス猫さんが日向ぼっこしてる。ダイチだ。
猫の目からは意地悪そうに見えたけど、人間になって見ると、やはり猫だ。かわいく見えた。
あたしは公園に入っていった。
ダイチはあたしが来たのを見ると、ヤァーと言った。
「ふふ……。あたしが誰だかわかるかな?」
意地悪な笑顔を浮かべてあたしが近づくと、彼の口が言った。
「えるー……」
「わかるの!?」
まさかそんなわけない。偶然だ。偶然、ダイチの鳴き声が『エル』に聞こえたんだ。だってあの時あたしは猫だったのに。姿が全然違ってるのに……。
そう思ってると、すぐ側で男のひとの優しい声がした。
「ダイチはわかってるよ。君がエルだって」
びっくりして振り向くと、いつの間にかそこに、スラリと背の高い、白い髪の毛のひとが立っていた。
短い髪が風にそよいで、たんぽぽの綿毛みたいだ。とても綺麗な顔をしてて、真っ白な毛皮のマント姿で、あたしは思わず妖精でも現れたのかと思った。
わけがわからず、あたしが何も言えずにオロオロしてると、そのひとはにっこりと微笑んだ。
「僕が誰だかわからないよね? ごめんね、一方的に君のことを知っちゃってるんだ。僕の名前はソラ。君と正反対の、人間になれる猫だ」
「猫なの?」
「うん。そして魔法使いだよ。じつは、君を猫になれるようにしたのは、この僕なんだ」
「そうなんだ……」
「うん」
「なんで?」
「君があまりにも人間やめたがってたから」
そうだった。
人間やめたがってたっていうより、あたしは死にたかったんだ。カイに出会ってからはそんなこと忘れてた。
学校でいじめられて、両親からは愛されなくて、この先いいことなんてあるわけないって思って、死にたくなってたある朝、目覚めてみると猫になってた。
このひとが……あたしに魔法をかけてたの?
「やうー、なうー」
ダイチがあたしの足元にすり寄って、なんか熱烈に鳴いてる。
「彼、君がエルだって知ってて、仲良くしたがってるよ」
ソラと名乗るひとが教えてくれた。
「君の姿に一目惚れしたんだってさ」
「い……、今はあの時と、姿が違うよ?」
あたしは少し身を屈め、ダイチに言った。
「猫だったらブサかわいいだろうけど、人間のあたしはほら……こんなに、ただブスなだけだよ」
「君は美しいよ」
横からソラさんが言った。
「少なくとも僕の目からはそう見える。もっと自分の美を認めるべきだよ、君は」
あたしは口を半開きにしたまま固まった。『かわいい』ならカイにいつも言われてるけど、『美しい』と言われたのは産まれて初めてだった。
「……でも、猫の時のほうがもっと美しいかな」
ソラさんはゆっくりと近づいて来ると、あたしの目の前で足を止めた。
「今はお試し期間なんだ。どっちかに決めてほしい」
そう言って、綺麗な碧色の目で見下ろして来る。
「お……、お試し……?」
「うん。今は君が『人間やめたい』って思ったら猫になれる。君が『ずっと猫でいたい』って思ったら人間に戻るようになってる。でもどっちかひとつに決めてもらわないといけないんだ。僕の魔力をずっとかけ続けてないといけないからね」
「そうだったのか……」
彼の話を聞きながら、呟いた。
「ずっと猫でいいかなって思ったから……戻っちゃったのか……」
なんか意地悪いなって思った。
「猫にしなよ。ね?」
綺麗な声で囁くように、ソラさんが言う。
「僕らの仲間になりなよ。ダイチもそうしろって言ってるよ? 彼は君のことが大好きだ。君が猫になったら、是非お嫁さんにしたいってさ」
「決めなきゃ……いけないの?」
「うん。出来れば今すぐ、ね」
なんか急ぐようだ。
ソラさんがどうしてあたしを猫にしてくれたかはわからなかったけど、どうも彼の魔力に負担をかけてしまってるようだ。あたしを『猫になれる女の子』にし続けてるのは辛いんだろうか。
「人間やめたいって思ってごらんよ。ほら猫になってダイチとお話してごらん。きっと猫でい続けたいって思うはずさ。僕が魔法を解けば、そう思ってもずっと猫でい続けられるよ」
ダイチが足元からあたしを熱烈に見つめてる。
こんなに好いてくれる男の子なんて、いなかった。
カイもきっと、あたしが猫になれなくなったら、あたしから離れていく……。
「僕のお嫁さんにもしてあげるよ」
ソラさんがなんか言い出した。
「猫は一匹のメスが一匹のオスに縛られなきゃいけないなんてルールはないからね」
あたしは、揺れた。
「なー」
ダイチがあたしの足にすり寄る。
「一生、愛してあげるよ」
綺麗な顔と声で、ソラさんが囁く。
カイの顔が、頭に浮かんだ。
猫のあたしにメロメロで、あたしを愛してくれていた。
決めた。
あたしはソラさんに向き直ると、力を込めた声で、言った。
「あたし……、人間がいいです!」
びっくりした顔をしてるソラさんの綺麗な顔を見つめながら、あたしは思った。
猫になったら、幸せな場所は間違いなくどこにでもある。人間だったら、きっと苦しいままだ。それでも人間でいたかった。
知らなかった。人を好きになるって、こんなに苦しくて、でもとんでもなく楽しくて……
あたしは人間として、カイに愛されたかったのだ。
カイだけがあたしの幸せな場所。それで構わない。
あたしを猫じゃなく、一人の人間、一人の女の子としてカイに見てもらうんじゃなければ、意味がないんだと思った。
7
女の子になって、初めてカイに抱かれた。
折り畳みベッドを優しく軋ませて、カイの体温を全身に感じた。
はじめは猫のように、くすぐった気持ちいいのが可笑しくて、あたしは笑い出してしまった。
でもやがて人間になって、女の子になって、薄闇に浮かびはじめた。黒いエキゾチックショートヘア猫ではなくて、白いあたしの体が、液体のように夜を巡ってるのがわかった。
あたしが苦しそうな顔をすると、気遣うようにカイが覗き込んできた。あたしが笑うと笑って、頭を撫でてくれた。
男のひとどころか、誰に抱かれるのもあたしは初めてだと思った。
感動なんて言葉では表せない気持ちが、心の奥から溢れ出して、あたしはあったかい涙が止まらなくなった。
ダイチはキャットタワーの上で、うるさそうに何度か顔を起こして、でも眠ってた。
「おまえ……学校行けよ」
あたしの髪を撫でながらカイが言う。
「行きたくない」
目をそむけてあたしは答えた。
カイと二人で、ずっとここにいたい。
「前から言おう、言おうとは思ってたんだけどな」
カイの声が優しくあたしを叱る。
「高校は卒業しといたほうがいいぞ? 他にやりたいことがあるとかじゃなかったらだけどな」
カイは知らない。
あたしが学校でどんな目に遭ってたか。軽く話したことはあったけど、実際にそれを見てはいない。
あたしにも前から聞こう、聞こうと思ってたことがあった。
ちょうどいいのでこの機会に聞いてみた。
「カイって、ブス専なの?」
「だからそんなこと言うなって。愛美《まなみ》はブスなんかじゃねーよ」
「だってあたし、この顔のせいで学校でいじめられてるんだよ? 親からも愛されてないし」
「おまえの顔は確かに個性的だ」
ズバリ言われた。
「でも、本当にかわいいって思ってるんだぞ? 大きな目は愛らしいし、猫みてーな口もたまんねーし、その間にあるちっちゃい鼻が……もう……」
そう言ってあたしの鼻にキスをした。
「ホストクラブでさんざん美人さんを見てるんでしょ?」
嬉しさを必死に顔に表さないようにしながら、下がってる口角をさらに下げてぶすくれて見せた。
「だからブスのほうがかえって目に新鮮なんじゃない?」
「愛美はかわいい」
呪文をかけるように、カイが言った。
「かわいい、かわいい。ほら、笑え」
表に出さないように抑えてた嬉しさが、呪文にかけられて全部表に飛び出して、あたしは今、自分がどんな顔をしてるのか自分でもわからなかった。
「それだ。その顔だよ」
うっとりするようにカイがあたしの顔を見つめる。
「笑った顔がいいよ。輝いてる。堂々としてればいいんだ。自分に自信をもってれば、学校のみんなも絶対、見方を変えてくれるぞ?」
決心はつかなかった。
でも、だんだんとカイの言う通りのように思えてきた。
『学校……、行こうかな』
口には出せなかったけど、そう思いはじめた。
あたしが外を歩く時にマスクをしないのは、男のひとに要らない期待をさせないためだ。
とにかく目はおおきいので、マスクをしているとかわいく見えてしまうらしい。
以前はマスクで顔を隠していた。そうしていたら、「マスク取って顔見せてもらっていいですか?」なんて知らない男のひとに期待マンマンの笑顔で声をかけられたことがある。
拒否ったけど、あの時もし、マスクを外して見せてたら、どんな顔をされてただろう。
物凄いガッカリした顔をされていたか。
それとも化け物でも見たように逃げ出されていたか……。
日曜日だ。街は寒くなってきたけど、太陽はポカポカだ。
あたしはぶさいくな顔を晒して表通りを歩く。カイのために編んでるマフラーの毛糸を買い足すために。
今日はカイは友達と約束があると言って出かけていった。ほんとうは一緒に街を歩きたかったけど、しょうがないよね。物わかりのいいとこも見せとかなくちゃ。
今までは猫少女と飼い主の関係だったのが、あの夜、ベッドの上で進展した。
ほんとうは恋人同士になって初めての街を歩きたかった。
イケメンと並んであるく世界一ブスな少女を見て、みんなはどんな顔をしたのかな。
どんな顔をされてもいいと思えた。
カイさえあたしをかわいいと言ってくれれば、他のことはどうでもいいと思えた。
自然にあかるい顔になっていた。
「君……! ちょっといい?」
おじさんに声をかけられた。
面倒くさそうなので早足でやり過ごそうとすると、後ろから追いかけてきて、こんなことをおじさんは言い出した。
「あっ、すみません。私、ミューズ芸能事務所の社長をやっております、西中と申します。君、芸能界に興味はない?」
な……、なんの話なんだ、これ?
あたしが思わず振り向くと、社長さんと名乗るおじさんはにっこり笑い、あたしの顔を直視しながら、自信たっぷりにこう言った。
「君の顔、すごくいいよ! 個性的で、一度見たら忘れられない顔だ! ミューズ芸能事務所って、知ってるよね? 大きな芸能事務所を維持してる私だからわかります。君はきっと日本どころか世界にも通用する大物になれる! モデルか、女優か……そのへんで!」
ぽかんとするしか出来ないあたしに、社長さんは名刺を取り出し、渡してきた。
「興味があれば連絡して! ネットで調べれば私が本物だということもわかるはずです。じゃ、待ってますよ!」
なんだ……。堂々としてればよかったんだ。
おじさんの後ろ姿を呆然と見送りながら、あたしは思ってた。
自分は自分なんだから、自分を認めて、あかるい顔をいつもしてればよかったんだ。
そうしてれば、こんな嘘みたいな話が舞い込んでくることもある。
スカウトされたらしいことを、アパートに帰って報告すると、カイの顔にとんでもない笑顔が花開いた。
「まじかー! いやでも、俺の目は確かだったろ? いやー、すげーよ! わかるけど、そりゃそうだってうなずけるけど、でもすげーよ! 天下の一流芸能事務所の社長に声かけられたって……すげー! すげー!」
あたしが貰った名刺とパソコンを交互に見ながら、カイが検索すると、画面にあのおじさんの顔が現れた。本物だ。
「もちろん行くんだろ? 芸能界!」
我がことのようにはしゃぐカイに、あたしははっきりと答えた。
「ううん。行かない」
驚愕の表情に変わったカイを見ながら、あたしはふふっと笑って見せ、口には出さずに言ってあげた。
『だって、あたしが一番幸せな場所はそこじゃなくて、ここにあるから』
8
「もったいねーよ……。なあ」
カイは事あるごとに、口にした。
「芸能界、挑戦してみろよ。愛美《まなみ》ならてっぺん取れるって。俺が保証するよ」
カイがあたしのことを『エル』と呼んでくれなくなったのがなんだか寂しかった。
ずっとカイが芸能界のことを言うたびに笑って誤魔化してたけど、あまりにしつこいのでちゃんと説明することにした。
まだ日曜日の夜だった。日曜のお昼前にスカウトされ、同じ日の夜までにカイは何べん同じことを口にしたのだろう。
晩ごはんにチキンラーメン・グラタンを二人で食べたあと、膝に乗せたダイチの背中を撫でながら、あたしは話しはじめた。
「あたしなんか無理だよ。こんなブスなのに……」
「だーかーら! 愛美はブスなんかじゃねーって! 特に最近、輝きを増してるぞ?」
「……ありがと。でもね、なんていうかね、怖いし……」
「飛び込んでみるんだよ! ダメで元々じゃん」
「何よりね……」
あたしはそれを口にすることにした。
「あたし、カイと一緒にいられれば幸せなの。これ以上の幸せは望まないよ」
カイの口が止まった。
元々おおきな目をさらに見開いてあたしを見つめた。
あたしは続ける。
「そんな世界に入って……、もしカイとあんまり会えなくなったら……やだ。家出少女だってバレて、連れ戻されるかもしれないし……」
「そうか……」
カイが俯き、黙り込んだ。
納得してもらったと思って、あたしは笑った。そして、約束した。
「明日から、学校に行く! カイがそうしたほうがいいって言ったから。それでいいでしょ?」
「そうか……。うん」
顔をあげて、優しく笑うカイが言った。
「それがいいよ。高校は卒業しといたほうがいい。芸能界に行かないんなら」
あたしはカイの言葉を待った。
でも、言ってはくれなかった。
『もしいじめられて、学校がやっぱり嫌だったら、俺のところに戻って来い』って、言ってほしかった。
久しぶりの学校だった。
鞄も制服もぜんぶカイの部屋にあるから、何も問題はなかった。
先生がうちの親から聞いてて、家出してるあたしに帰るように言ってきても、その場で『はい』と言えばいいと思っていた。
でも先生は何も言ってはこなかった。
あたしがいなくなって両親とも喜んでたりするのだろうか。両親はふつうの顔なのに、誰に似たんだがさっぱり不明な、突然変異みたいな娘は、いなくなったほうがいいと思ってるのだろうか。
よくわからないけど、あたしに都合がいいのは確かだった。
クラスのみんなの目が冷たかった。
明らかにあたしのことを意識してる。でも話しかけてきたりはしなくて、それぞれのグループで楽しそうにお喋りをしながら、席に大人しく着いているあたしのほうをたまに横目でチラチラと見ていた。
放課後、机の横にかけた鞄を蹴り上げられた。
「おい、エキゾ!」
不良の森山くんが、ニヤニヤしながらあたしの顔を覗き込んだ。
「おまえ、何してたんだ? 半月以上も学校休みやがって。説教してやるから、ちょっと来い」
あたしは音楽室に連れ込まれた。
扉が閉められ、鍵がかけられた。
男子が6人、あたしを取り囲んでニヤニヤ笑う。
「なー、エキゾ。なんで学校休んでた? 言ってみろよ」
森山くんがやたら近い距離で、口から唾を飛ばしながら詰め寄ってきた。
「まーさーか、俺たちにいじめられてるとか、思ってねーよなあ?」
何も言葉が出てこなかった。
ただ、助けてほしかった。
カイに、ここに来てほしかった。
「コイツ、やっちゃおーぜ……」
誰かが言い出した。
「俺、経験ねーからよ。コイツでいいわ。みんなで輪姦《まわ》しちまおーぜ」
男子たちの口から狼みたいなハアハアという荒い息が聞こえてきた。
「ブスだけど、カラダはよさそうだからな……、コイツ」
森山くんが、言った。
「よし、抑えつけろ」
机の上に背中を押しつけられた。
6人の男の力に、なす術なんてなかった。
悲鳴をあげたけど、音楽室の防音壁がそれを外へは漏らしてくれなかった。
『カイ!』
声にならない叫び声をあげながら、あたしは頭の中でその名前を呼んだ。
『カイ! カイ! 助けて!』
「へへへ! 初体験が人外になるとは思わなかったけど、それもいいや」
「脱がせろ! ひっぺがせ!」
「エキゾも嬉しいだろ? 一生処女確定だったとこ、いい経験できて、よ?」
処女だとか関係ない。
生憎あたしはもうとっくに処女じゃないけど、そんなことは関係ない。
カイのためのあたしに、汚らしいおまえらが触れるな!
遂にあたしは、叫んだ。
「カイ! 助けて!」
鍵がかかってるはずの扉が、バン!と開いた。
「ちょっとあんたたち!」
外から入ってきたのは、女子の声だった。
「それはないわ! いい加減にしなさいよ!」
見るとひっつめ髪に黒ぶちメガネの女の子の怒り顔が戸口のところにあった。学級委員長の伊地知《いじち》さんだった。手には職員室から借りてきたらしき鍵束を握っていた。
うへへ、と笑い声を漏らす男子たちの間を、あたしは走って音楽室を出た。
「榊原《さかきばら》さん!」
あたしの名前を叫びながら、委員長が追いかけてきた。
まだガクガク震えている手で靴を履いて校舎を出ていこうとしているあたしに追いつくと、伊地知さんが肩に手を触れてきた。
「榊原さん……。大丈夫?」
「う……、うん。大丈夫」
ぐしょぐしょに濡れた声で、笑って答えた。
「あ……、ありがとう。助けてくれて」
「私……、先生に言ってるんだよ? 榊原さんがいじめに遭ってますって」
伊地知委員長は静かな憤りを声に込めて、教えてくれた。
「……でも、とりあってくれないの。そんなものはあるはずがないって、言い張って……。私、どうしてあげたらいいか……」
「大丈夫、大丈夫」
無理やり笑ってみせた。
「ありがとう。もう、大丈夫だから」
学校帰り、あたしは決めていた。もう学校には行かない。
カイは言っていた。
『学校は卒業しといたほうがいい。他にやりたいことがあるとかじゃなかったら』──と。
学校に行くだけが人生じゃない。
あたしはスマホを持ってなかった。
街角に公衆電話ボックスを見つけると、中に入り、受話器を持った。
名刺はスカートのポケットに入っていた。
電話をかけると、女のひとの声がむこうに出た。
「お電話ありがとうございます。芸能プロダクション、ミューズでございます」
「あ……あのっ……」
しどろもどろに、あたしは言った。
「この間、社長さん……西中さんにその……」
「あっ。伺っておりますよ」
話がめっちゃ早かった。女のひとは、にこやかな声で、あたしの名前を言い当てた。
「榊原《さかきばら》愛美《まなみ》さんですよね? 社長から、連絡があったら通すように申しつかっております」
9
「あの……」
学校帰りに寄ったミューズ芸能事務所で、パイプ椅子に座らせられたあたしは、間の抜けた声を出した。
「私みたいなブスでいいんですか?」
目の前には、長机を挟んで、日本を代表する芸能プロダクションの社長がにこやかに座っていた。
西中社長は優しい声で、あたしに言った。
「ブス……か。みんなからそう言われてるんだろうね。でも自信を持って! 君はブスなんかじゃない。ただ、他の誰とも違ってるだけなんだ」
「あたし……。行き場がないから……ただそんな理由で飛び込みましたけど……。そんなんでいいんでしょうか?」
「と……、いうと?」
「ふつう、こういうのって、自分の容姿に自信のある子が、絶対自分はイケてるから! みたいな……、情熱とか野望を理由にやるもんなんじゃないでしょうか」
社長が笑った。何がおかしいのかはよくわからなかった。
「君、何か動物に似てるって言われたことない?」
唐突にそんな質問をされたけど、答えはすぐに口から出た。
「猫の……エキゾチック・ショートヘアに似てるって言われます」
「エキゾチック・ショートヘアーか……。なるほどな」
西中社長の目がキラーンと光った。
「自分はエキゾの女王だと思いなさい。『私は女王! 世界中のブサかわいい女の子どもよ、私についてきなさい!』って、思ってごらん」
「は……、はあ……」
仰る意味がわからなかった。
「とりあえず今の君に一番必要なのは、自信だよ。もっと自分の、産まれもったその個性的な容姿に自信をもちなさい」
アパートに帰るとカイは大学から帰ってて、あたしを待っていたようだった。
「学校、どうだった?」
晩ごはんの用意をしながら、期待と不安が入り混じったような笑顔で聞いてきた。
あたしは答えた。
「学校やめる」
「いじめられたのか!?」
カイが申し訳なさそうな顔になった。
「ごめん……。俺、愛美の学校生活のこと何も知らずにああ言っちゃったけど……、心配だった。嫌な目に遭わせてごめんな? おまえ……、その……」
「あたし、芸能界デビューするよ!」
「えっ……? は……?」
「カイもやれって言ってくれたじゃん! 応援してくれる?」
「おっ……? おう!」
やっとカイの顔が、いつものようにあかるくなった。
「そうかっ! やるのかっ! それだったら確かに学校なんか行かなくてもいいよなっ! よーし、応援しちゃうぞ!」
「あっ。チキンラーメン・パスタ作るの? じゃ、あたしフレンチトースト作る!」
「炭水化物に炭水化物かよ? 太るぞ!?」
「いーじゃん、いーじゃん。いっぱいエネルギー摂取して、明日から頑張るんだから」
「そうか……。よし!」
あたしがまた失敗しないように、後ろから抱きかかえるようにカイが見ていてくれた。
彼のあったかさを背中に感じながら、あたしは笑顔でフレンチトーストを作った。
漬け込みが足りなくて、中が白いままだったけど、カイのチキンラーメン・パスタとの相性は抜群で、楽しい夕食をあたしたちはとった。
「おいしいな」
「おいしいね」
二人で顔を見合わせて、笑いあった。
ダイチもあたしの作ったフレンチトーストに夢中で、狭い部屋に幸せが花開いた。
あたしはカイのアパートから事務所に通うようになった。
レッスンはキツかったけど、辛くはなかった。
あたしは鍛えられ、知らなかったことをたくさん知って、どんどん自分が成長していくのを感じるのが楽しかった。
疲れ果てて帰っても、カイとダイチがそこにいてくれた。
笑顔で迎えてくれるひとがいるのって、こんなに力になることなんだって、あたしは産まれて初めて知った。
「そろそろ君の芸名を決めよう」
西中社長が言った。
「こちらで決めてもいいけど、何か希望があるなら聞くよ?」
あたしは即答した。
「榊原エルがいいです」
いいです、というよりも、これしかないとあたしは思っていた。親がつけた『愛美《まなみ》』という名前よりも、カイがつけてくれた『エル』のほうが、あたしはお気に入りだったのだ。
「へえ! いいな!」
社長もわかってくれた。
「君にぴったりだ! よし、君は今日から榊原エルだ」
整形はいらなかった。
あたしはあたしのまま、プロのメイクアップアーティストさんや整体師さんやに磨かれて、どんどんかわいくなっていった。
猫背だった姿勢を綺麗に伸ばしただけでも、鏡の中に映る自分は別人のようだった。
鏡の中の自分にむかって、心の中で呟いた。
『あなたは女王。エキゾチック・ショートヘアの女王様よ』
「綺麗になったなあ……」
カイも、お化粧して綺麗な服を着たあたしをちゃぶ台のむこうからしげしげと見ながら、言ってくれた。
「カイはブス専だから、前の方がいい?」
あたしはからかうつもりでそう言って、笑う。
「嬉しいよ。愛美が綺麗になるのは、俺も嬉しい」
「エルって呼んでくれる?」
あたしは女王様口調で言った。
「もう愛美って名前は捨てたのよ。あたしは榊原エル。カイがつけてくれた猫の名前で世界に羽ばたくの」
「本当に……綺麗になった。自信が内から溢れ出てるみたいだ」
「ふふっ……。惚れ直した?」
「俺にはもったいないぐらいだ」
そう言ったカイの目が、私のほうを向いてないのが、気になった。
10
「すげえ!」
あたしが持って帰ったファッション雑誌『のん♡のん♡』の最新号の表紙をしげしげと眺め、カイは大喜びしてくれた。
かわいくメイクして、黒基調の10代ファッションに身を包んだ榊原エルの笑顔が、そこに大きく載っている。それを真ん中に、両側に写っているのはトップモデルの古木ミレイちゃんと桐谷優子ちゃんだ。
世は空前のエキゾチック・ショートヘア・ブームだった。
そのブサかわいい猫種のブームにあたしは乗った感じだった。
『今までになかった【新種のかわいい】』として、あたしこと榊原エルは日本中で大人気になったのだ。
「西中社長が自慢するんだよ。『やっぱり俺の目に狂いはなかっただろ?』って」
ちょっと照れながら、あたしは彼の広い背中に触れる。
「すげえよ……。すごすぎる」
カイは穴が空くほど表紙のあたしを見つめ、目の前にいるあたしのほうは見てくれなかった。
「あたしに言わせれば、カイのほうがすごいよ」
その肩に手を触れ、ほっぺたを近づけた。
「西中社長より先に榊原エルを見つけてたのも、その名前をつけてくれたのも、カイだもん」
事実、あたしにとっては日本一の芸能プロダクションの社長よりも、カイの存在のほうがずっとおおきい。
なんとかそれを伝えたいのに、カイはどうしてもそれを認めようとしないようだった。
「もう『おまえ』なんて気軽に呼べないよな」
そんなことを言って、なんだかあたしから距離をとろうとする。
「今まで通りでいいんだよ」
カイを背中から抱きしめた。
「あたしはなんにも変わっちゃいないんだから」
カイはやっぱりあたしのほうを見ようとはせずに、表紙をずっと眺めながら、何かを考え込んでいるようだった。
「にゃー」
あたしが有名人になったことなんてどうでもいいように、ダイチが足元にを頭をなすりつけて通っていった。
「おつかれさま」
「おつかれさまー」
モデルの撮影の仕事が終わり、スタッフやモデル仲間のみんなと挨拶を交わしあい、あたしは笑顔で廊下を歩くと、自分の控え室に戻って笑顔を消した。
「ふぅ……。疲れたな」
早くカイのアパートに戻って、くつろぎたかった。
どこに比べてもあの部屋ほどあたしが落ち着ける場所はない。
撮影がはじまって3日目。ずっとホテルに泊まってる。一人でだ。
撮影は4日間。明日が終わったら、カイのところへ帰れる。
あたしはスマホを持ってない。事務所のを借りてるけど仕事専用だ。私用は禁止されていた。
この仕事が終わったら、スマートフォンを買いにいこう。
こんなに長いこと、カイと連絡もしないのは、寂しくて気が狂いそうだった。
ノックの音がした。
どうぞと声をかけると、笑顔の西中社長が入ってきた。
「エルちゃん! 絶好調だね」
「あ、ありがとうございます。社長直々にどうされたんですか?」
「今度は『トップティーン』の表紙の仕事が来たよ! 君は今、日本中の注目の的だよ」
数ヶ月前ならあり得ないことだった。
あたしはただの世界一のブスな女子高生で、いじめられっ子だったはずだ。
なんだか変化が急すぎて夢の中にいるみたいだ。
「歌手デビューの話も進んでるからね。作曲はあの麦津《むぎつ》剣士《けんじ》だよ。女優の話もある。映画か、テレビドラマか──どちらにしろ主役は間違いない」
「ありがとうございます」
胸を張ったまま、頭をぺこりと下げた。
「すべて社長のお陰です」
「いや。本当に、いい顔になったよ。エルちゃん」
惚れ惚れするようにあたしの顔をまっすぐ見つめ、社長は言った。
「自信が顔に満ち溢れてる。明らかに初めて会った時と顔つきが違ってきた」
「いっぱい褒めてもらったからですよ」
あたしは|し《・》|な《・》を作り、微笑んで見せた。
「社長からも、ファンのみんなからも……」
恋人からも、と言おうとして、それは抑えた。
「やあ、エルちゃん」
ホテルへ向かおうとスタジオ内の廊下を歩いていると、金髪イケメンから声をかけられた。
アイドルグループ『ゴシップ』のメンバー、足越《あしこし》賢也《けんや》さんだった。
「おつかれさまです」
あたしは礼儀正しく頭を下げた。芸能界の大先輩だ。無礼があってはならない。
「なんだか浮かない顔してるね?」
そう言われ、少しドキッとした。カイに会えない寂しさが顔に出てしまっているのだろうか?
あたしがこんな人気者になったのは、自信に満ち溢れた顔が出来るようになったからだと思っている。寂しそうな顔なんて、見せちゃいけない。またただの世界一のブスに戻ってしまう。
「ねえ、これからカラオケに連れて行ってあげようか?」
足越さんに誘われてしまった。
「あとは寝るだけなんでしょ? パーッと盛り上がって、元気になろうよ。ね?」
足越賢也にはよくない噂があった。
数多くの新人モデルや女優、アイドルを『食っている』という噂だった。
「ごめんなさい」
あたしは丁寧に頭を下げた。
「どうして? 疲れも吹き飛ぶよ? 行こうよ」
足越さんは優しい声で、さらに誘ってくれた。
なんとなくこめかみがピクリと不機嫌そうに動いたようには見えたけど、気のせいだよね。『自分が断られるわけない』みたいに、彼のプライドをあたし、傷つけちゃったりしてないよね。
あたしは正直に言った。
「好きな人がいるんです。だから……男のひとと二人きりになるようなことは……」
「あ。誰かに先に手つけられちゃったか〜?」
足越さんが悔しそうに笑い出した。
「誰? モデル仲間のやつ? それともアイドルの誰か?」
「普通の大学生です」
あたしがそう答えると、足越さんがあからさまに不機嫌そうになった。
「はあ? 俺が誰だかわかってる? 有名アイドルグループの足越賢也だよ? 有名人が駆け出しの君ごときを誘ってあげてるんだよ? 喜んでついて来なきゃおかしくね? それを一般の大学生の男のほうがいいっていうの? おかしくね?」
あたしは慌ててもう一度頭をぺこりと下げると、逃げるように後ろを向いた。
後ろから手首を掴まれた。
「一緒に来なきゃ、君、後悔するよ?」
足越さんの顔がなんだか怖かった。
「すみません!」
その手を振り払い、駆け足でスタジオを出た。
ほんとうに、あたしには有名人のアイドルなんかよりも、カイのほうがカッコよく見えるんだから。
ほんとうは、芸名を決める時、『山田エル』にしようかと思ったんだよ? 山田《ヤマダ》海《カイ》の名前を、貰って。
でもさすがにそれは恥ずかしかったし、出来なかったんだけど──
今思えば、そうしとけばよかったのかな。
カイ──
4日間の撮影を終えて、息を切らしながら、笑顔でアパートに戻ると、カイはいなくなってた。
11
私がカメラの前に現れると、日本中から『かわいい』とため息が湧き漏れる。
自慢のポーズで歩み出て、笑顔を振りまく。堂々としながらも人懐っこい私の笑顔が、みんなをうっとりとさせる。
「いい女になったな、エル」
社長がいつものように、私を褒めてくれる。
「デビューから4年か……。私が思っていた以上のエキゾチック・ショートヘアの女王に君はなったな」
そう。私はエキゾチック・ショートヘアの女王こと、榊原エルよ。
『ブサかわいい』を極めた女。ブスの中のブスは逆説的に『めっちゃかわいい』になるの。
ブスだなんだと言われてる女の子は私を見なさい。私に憧れなさい。
綺麗な女性を堪能したい者は私に見惚れなさい。私を崇めなさい。
映画の主役4本、リリースする曲はすべて大人気。モデルのギャラも日本で一番高い、この私。
それなのに何をやっても、どれだけ褒めてもらえても満たされない。
私はみんなに感動を与えるのに、誰も私を感動させてはくれない。
バラエティー番組に出演した時、サプライズが用意されていた。
「今日は榊原エルさんにとって懐かしい人がスタジオに来てくれていまーす!」
本当に聞いてなかった。進行役のお笑い芸人にそう告げられ、私の胸は高鳴った。
誰?
誰が来てくれたの……?
「榊原さんの高校時代の同級生のみなさんでーす!」
セットの幕が開き、確かに懐かしい顔がそこから出てきた。
髪は下ろしてるけど変わってない。黒ぶちメガネの委員長、伊地知《いじち》さんが弾ける笑顔で現れた。
「榊原さん!」
私は笑顔で彼女とハグを交わした。
「わー! 伊地知さん、久しぶり!」
「すごいねえ、榊原さん……。よかったねえ、こんなに人気者になって」
伊地知さんは泣きながら、私を抱きしめてくれた。
その後ろには十数人の男女がずらりと並んでいた。
「榊原さん!」
「久しぶり!」
「言っとくけど最初に君がエキゾチック・ショートヘア猫に似てるって言い出したの、俺だからな。覚えてる?」
森山とかいう男のひとに笑顔でそう言われ、あたしは答えた。
「ごめんなさい。誰だっけ?」
私はカメラを向けられるといつも最高の笑顔をそこに向けられる。
心からの笑顔だ。嘘じゃない。
カメラの向こうできっと、どこかで見ているそのひとに向かって、笑顔を見せているのだから。
短いあいだだったけれど、そのひとと暮らした時のことを頭に描けば、最高の笑顔を浮かべることができる。
だけど、今、もしもそのひとに会えたら、自分がどんな顔をするのかは、わからない。
あのあと、私は彼を探すことはできた。大学へ行けば、会うことは容易かっただろう。彼のアルバイト先のホストクラブがどこの店かも知っていた。
しかし私は探さなかった。
だって彼は、私から逃げたのだ。
私は彼に捨てられたのだ。
どんな顔をして追いかけていけばよかったというのだろう。
私はただ、毎日ひとりになると泣いた。それしかできなかった。
こんなことになるなら猫のままいればよかったと、何度も思った。
そうすればあの時の感動のまま、時は止まって、ずっと幸せにいられたかもしれないのに。
私は有名人になり、チヤホヤしてくれるひとも周りに増えた。
正直に告白すれば、付き合った男性も多くいた。でも、誰もあの時彼がくれたほどの感動を与えてはくれなかった。誰もが人気絶頂の芸能人『榊原エル』という看板を見ていた。
ただのブサイクな女の子だった私をそのまま見て笑ってくれたひとは、あのひとしかいなかった。
「やあ、エル。絶好調だね」
足越《あしこし》くんがホテルの部屋に入ってくる。今日も私を抱こうというのだろう。
私も寂しさを誤魔化すために彼を利用している。写真週刊誌に彼と載ったこともある。
あのひとはそれを見てどう思っただろうか。
狂おしいほどの嫉妬に苦しんでくれただろうか。それとも昔にお世話した猫がお金持ちの飼い主に出会えてよかったぐらいにしか思っていないだろうか。
私は今の自分を幸せだとは、まったく思わない。
何度死にたいと思ったことだろう。
それでもトップモデル兼女優兼シンガーを続けているのは、ただあの日のあのひとの笑顔が忘れられないからだ。
「エル! エルなんだよな?」
そう言いながら、抱っこする手つきで、そのひとは駆け寄ってきてくれた。
「なんだよ! おまえ、女の子だったの? 最高じゃん!」
あの日の笑顔が忘れられないのだ。
12
控え室でメイクを受けていると、社長がホクホクの笑顔で入ってきた。
「エルちゃんっ! いよいよドームだね」
あたしは笑顔でお辞儀をし、顔をあげてもう一度笑顔をよく見せた。
これからおおきな迷惑をかけることになるのだ。謝ることはできなくても、せめて今までの感謝を笑顔で伝えておかねば。
西中社長には心から感謝している。私の商品価値を見抜き、それを磨き、大々的に売り出してくださった。
今夜、私は引退することを決意している。
芸能界からも、この世からも。
榊原エル初めてのドームライブ2Daysは初日だけで終わることになる。
宣言はしない。このステージが終わったら、ホテルで最期を迎えるつもりだ。薬はもう用意してある。
人生の絶頂の中で、眠りながら人生を去りたい。
社長にも、スタッフにも、ファンのみんなにも、本当に感謝している。私をこんなに自信満々な芸能人に育ててくれた。
自信はついた。それなのに私は幸せじゃない。
表面に溢れる私の自信は誰もが認めてくれる。でも、私の奥にある私の弱さは誰も知らない。
輝く私を讃えてくれるひとはいくらでもいる。
でも、弱い私を抱きしめてくれるひとは、いない。
泣いているだめな私の頭を撫でて笑ってくれたひとは、もういないのだ。
彼が私に無言でアパートを引っ越して、もう5年。
5年待ったら、諦めようと決めていた。
5年待って、姿を見せてくれなかったら、もう終わりにしようと覚悟していた。
「愛美《まなみ》、ドーム初ライブおめでとう!」
そう言いながら、両親が控え室に姿を現した。
「愛美《まなみ》ちゃん、あなたは私たちの誇りよ。頑張って!」
父にも母にも笑顔を見せてあげた。
私が家出しても捜索届さえ出さなかった両親に。
彼らも私のことを、自分たちを社会的に格上げしてくれた『看板』としてしか見ていないと、私はわかっていた。
この5年で私は変わった。
表面的には激変した。
私の裏で、私が膝を抱えて泣いている。
私は何も変わってないんだよと、べそをかいている。
最近、朝食にはいつも自分でフレンチトーストを焼く。
とても上手になったと自負している。失敗なんてあり得なくなった。レギュラーコーヒーも美味しく淹れられるようになった。
ひとりじゃなく、前には大抵誰か、男のひとがいる。
足越くんは「美味しいよ」と言って食べてくれたけど、私は彼がそれを口にするのを見るのが嫌だった。
食べさせたいのはあなたじゃない。褒めてほしいのはあなたじゃない。
フレンチトーストが上手になっても、どれだけ有名になっても、一番褒めてほしいひとが側にいない。
そのひとに、私は捨てられたのだ。
レーザービームが巨大な空間に踊りまくる中心で、私は笑顔を振りまいた。
ありがとう、みんな。
ありがとう、私を讃えてくれて。
でも、みんなは私を幸せにはしてくれないの。
「ドームライブの夢、叶えることができて、本当に幸せです!♡」
そんな台本通りのことをマイクを通してファンのみんなに高らかに言いながら、私は少しも幸せじゃなかった。
疲れていた。疲れきっていた。
このステージが終わったら、もう空振りの笑顔を浮かべる必要もない。この世から飛んでいける。
そんなことを思いながら、黒い猫耳に、黒いしっぽのついた衣裳を着た私は、声を張り上げて歌っていたその声を止めた。
息も止まった。
前から5列目に、ひじきみたいな頭を見つけた。
マスクをして伊達メガネをかけてる。でも、見間違えようがない、ひじき頭。
私が歌も踊りも止めて、そのひとのほうを注視すると、ピンクのペンライトを振っていたひじき頭が急に慌てたように挙動不審になって、横のお客さんに手で断って、逃げ出そうとしはじめた。
私はステージから飛び下りていた。
「カイ!」
お客さんはみんな、私がステージから下りてきたことに嬉しそうな顔をしていた。でも私の体に触れようとはしないで、道を開けてくれた。
「カイ! カイ!」
逃げるひじき頭を私は追いかけた。捨てられたと思って、あれほど追うことをためらっていた彼のことを、必死で追いかけていた。
列から抜け出そうとしていたところを捕まえた。
懐かしい胸板。細いのにがっしりとしたその体躯。あたたかくて、チキンラーメンの匂いの染みついた、彼の匂い。
マスクを剥ぎ取ると、何も変わらない彼の顔が現れた。
「なんで逃げるの?」
まっすぐ彼の顔を見上げながら、ただ聞いた。
「なんで逃げたの!?」
カイはただ口をモゴモゴと動かし、何と言ったらいいのかわからなかったのか、ニコッと笑った。
「要らなくなったの?」
私はまるで駄々をこねる子供だった。
「あたしのこと、要らなくなっちゃったの!?」
「遠い世界に……」
ようやく彼が言葉を喋った。
「エルは遠い世界に行くんだから、俺なんかが邪魔しちゃいけないと思ってさ」
「離さないでよ! 好きなら何があっても離さないでよ!」
私は抱きつくと、思いきり背を伸ばし、彼にキスをした。
固まっていた彼も、その腕を私の背中に伸ばし、キスに応えてくれた。
スポットライトが二人を照らしていた。
お客さんの歓声や悲鳴が私たちを包んでいたような気がするけど、とても静かで居心地のいい世界に私は浸っていた。
私のホテルの部屋に、カイは泊まった。
写真週刊誌の記者に写真を撮られたけど、何も構わなかった。コソコソすることなんて何もない。
二人の家を買おう。
その時に約束しあった。
「にゃー……」
ダイチが私の足元にじゃれついて邪魔をする。
「あっ、こらダイチ。エプロンに飛びついちゃだめよ?」
フライパンから焼き上がったフレンチトーストをお皿に取り、食卓に持っていくと、朝日を背にしてそのひとが笑っている。
「うん! すげー上手になったな」
一番褒めてほしかったひとが、褒めてくれる。
「料理人の俺が言うんだから間違いない。エルのフレンチトーストは世界一だ」
カイは修行して料理人になっていた。
前から料理好きだった。でも上手じゃなかった。それが今では難しい料理でも作れるらしい。
「今日も忙しいのか? 帰り、遅くなる?」
カイが聞いてくれる。
「ん。バラエティー番組の収録終わったら帰れるよ。そんなに遅くはならないと思う」
コーヒーを口に運びながら、私が答える。
「じゃ、晩メシ一緒に食えるな?」
まぶしい笑顔でカイが言う。
「何が食べたい? 最高の作ってやるよ。お勧めはハンバーググラタンな」
私にリクエストを聞いておきながら食べさせたいものを用意している彼に、私は少し意地悪な、でも本当に食べたいものをリクエストした。
「チキンラーメン・グラタンが食べたい」
そして私は彼の膝の上で丸くなった。
彼の前でだけ、私は猫になれるのだ。
(おわり)
執筆の狙い
世界一ブスな少女がある朝目覚めたら猫になってたところから始まる恋物語。
31,112文字あります。お暇な時にどうぞ。
某ネット小説賞で一次選考で落ちた作品です。よろしければどこが悪いかお教えください。
ブラウザバックされた場合はどこで読むのをやめたか、教えていただければ嬉しいです。