美作夫婦の奇天烈な日常
言葉の意味の意味不明さ
「おい、俺は大変な事に気づいたぞ」
「朝からなんですか、早く食べないとお互い遅刻しますよ」ここはとあるマンションのリビングの食卓。夫婦らしき二人が向かい合って味噌汁をすすり白いご飯を口に運んでいる。
「朝食などどうでもいい。どうでもいいけど食べるけど、俺は昨晩眠りにつきながら世界を揺るがす大発見をしたのだよ」と、美作太地は興奮しながら話す。妻の朝香はいつもの事、とてんで取りあわない。この前は永久機関を作る方法を見つけた、などと言って妙な装置を作って部屋を水浸しにしていた、へんちくりんな男なのである。これでも一応小学校の図工の教師である。
「はいはい、今回はどんな発見なのですか?」
「言葉の意味をなくすと、全て崩れてしまうんだよ、数学の定義とか、哲学の概念とか、真理とか、宇宙も、神の存在さえも」
「どういう意味ですか」
「ええとだな、うん、例えば数字の1があるだろ。リンゴが一個、その通り。でもこれ、誰が決めたの?」
「えっと……数学だったらピタゴラスとかその辺の古代ギリシャの学者じゃないの?」
「俺もよく知らないけど、とにかく古代の誰かだよね。でもさ、それが1だ、って絶対的に言える? 今の話なら、リンゴは絶対にリンゴ、Appleだって言い切れる根拠ある?」
「ないかもね」
「だろ? ということは、言葉って恣意的に人間が意味付けしたものであって、正しいと言えるものなんて一つもないんだよ!」
「ほうほぅ」
「な、だからな、俺たちは何を考えても無駄なんだよ。人間世界の言葉遊びなんだよ、あらゆる学問という学問は。おお、全ては無駄、全てはお遊び、全て破壊して無に帰すのみ」
「言葉って最初は意志の伝達ツールだったんじゃないの?狩りとか木の実集めとかで役に立つから」
「む、それはそうかもしれぬ」
「それ以上の意味はないのかもね。分かったらさっさと学校行け」
「きみには俺の世紀の大発見の価値は分らないのだ」
と太地は恨み言を言いながら靴を履いてマンションを先に出た。歩きながら、しかし、言葉の意味が意味不明であることは分ったが、の割には世界には何百個も言語はあるし、言葉もあるな、と思いを巡らし、誰も彼も意味のない言葉を使ってまことに愚かなものよ、とほくそ笑んでいると、駅前の混雑しているところで誰かにぶつかった。見ると、真っ黒なスーツを着たとても怖いヤクザ風の人である。
「す、すいませぬん」
「なんだお前それ。舐めてんのか。ちゃんと謝らんかい!」
と、ビンタを喰らって吹っ飛んだ。ついでに腹を軽く蹴られた。うう……と太地は痛む腹を押さえながら、言葉はやはり大事だ、破壊してはならぬ、と理解したのだった。
宇宙の果ての果てにはてな
今日も今日とて美作夫婦が食卓で向かい合って天丼を食べている。窓の外はすっかり暗く、カラスがカァークアーと鳴いている。
「どう美味しいでしょう、ちゃんと家で天ぷらを揚げたのよ」
「うむ実にうまい。旨いけど、今天ぷらを食べながらとんでもないことを思いついた」
「まず天丼を食べてから話せ」
太地は言われた通りどんぶりを空にしてからおもむろに話しはじめる。
「きみ、宇宙には果てはあると思う?」
「さぁ、あるんじゃないの」
「じゃあ、果ての向こうには何があると思う?」
「……考えたこともないけど、そういわれたら不思議ね。何があるの?」
「その話の前に、宇宙の始まりの話をしよう。ビッグバンって聞いたことあるだろ?」
「うん、ある。アインシュタインだっけ、ある時ある場所から一気に宇宙が産まれたってやつでしょ」
「その通り。That‘s right. で、問題はその前だよ。その前って、何があったの?」
「知らんがな」
「それなんだよ。宇宙の果てには、宇宙誕生以前の何かがあるんだよ、空間か、時間か、意識か、俺は意識だと思う」
「誰の意識なの?」
「俺の意識」
「お風呂沸かしてくるね」
と、朝香は表情一つ変えず椅子から立ち上がる。ぐぬぬ、相変わらず俺の世紀の悟りを理解せぬ痴れ者よ、と妻の背中を見ながら太地は憤慨した。はじめに意識があった。意識が、宇宙を、世界を創造した。その意識は全てを司り、全てと繋がっている。むむ、素晴らしい、核心に近づいている。宗教的に言えば梵我一如だ。つまり意識こそが全てであり、我思う故に我あり、だ。大きく腕を上げた太地の横を無表情で朝香が通りすぎ、居間テーブルの上のノートパソコンを開く。そんな事はどうでもいい、この真理を皆に伝えねば。
「ところであなた、なんか連絡網を回さねばとか言ってなかったっけ?」
「ああ思い出した。遠足の日が変更になったんだ。メール打たなきゃ」
太地は仕事部屋の机に座ってカタカタキーボードを打ちながら、しかし頭の中は世紀の大発見で一杯になっていたので、辿り着いた大真理を打ち込んでしまった。彼が担任である5年4組の生徒たちは、意識が宇宙を産み、森羅万象全て宇宙も意識、つまり君も意識である、などという内容の怪文書を受信することになったのだった……。
暗号、結末、そして花火大会
料理好きな朝香が今宵も腕を振るって豚の生姜焼きを作っているところ、玄関からドタバタと騒がしく足音を立てて太地が帰ってきた。
「ただいま朝香、遂に俺は見つけたんだ」
「おかえり、何を?」お箸を動かす手は止まらない。
「あのヴォヴォニッチ手稿の言葉を読む方法をだよ!」
「なんか聞いたことあるけど。取りあえず手を洗ってきて」
素直に洗面所に消えた太地は、部屋着に着替えてきた。手に何枚かの紙を持っている。朝香はテーブルに豚の生姜焼きやお豆腐の入ったお皿を並べている。
「いいか聞いてくれ朝香、この……」
「はいはい、まず食事ね。冷めちゃうでしょ」
素直に従う太地。前回の失敗でPTAには怒られるわ生徒の一人は悟りを開いて高野山に出家しそうになるわ朝香には教師をクビになったら離婚とか言われるわで散々だったので少しは懲りているのだ。が、あくまで少しはである。朝香の料理はうまい旨いと、これは正直に言うのであるのが、終わった頃おもむろに先ほどの紙数枚を取り出す。
「いいか朝香よく聞いてくれ。ヴォヴォニッチ手稿というのは未知の言語で書かれていて、世界中の言語学者や暗号解読のプロが全力で解読に取り組んでも全く解けないという謎の本なんだ」
「そんなもんがあんたに解読できるわけないでしょ」
「そう思うだろう? ところが俺は天才だったらしく、遂に解読方法を発見したんだよ」
「どうすんの」
「まず、言語が特定出来ないからには、既存の言語じゃないのは間違いない。要は筆者が自分で考えた言葉なんだよ」
「ほう」
「でも、自分しか読めないんじゃ意味ないよね? だから、読む方法を相手に教えないといけない。ところが、この本は数ページが行方不明なんだよ。おそらく、その解読方法が書いてあるところがないんだ」
「ふむふむ、それで?」
「ちなみにこの本を最初に発見したのがヴォヴォニッチ・ラードフという一五世紀のポーランドの富豪なんだよ。つまりこいつがそれらのページを切り取って隠してるんだよ! そいつの家は今も現存している。つまり、こいつの家を壁から屋根裏から引っぺがして庭から何から掘り尽くせば、きっと見つかるんだよ、暗号解読のための数ページが!」
「な、なんだってー!! って言うと思った? あんたごときが思いついたことはとっくの昔にやってるよ、誰かが。調べてみればいいじゃん。じゃあお風呂入ってくるね」
と朝香は浴室に消えていった。ぐぬぬ朝香は相変わらずわからんちんの愚民だな。しかし、少し不安になったので手元のスマホでヴォヴォニッチ手稿について書かれたwikipediraを見てみた。すると、
ヴォヴォニッチの家は、行方不明の何枚かが隠されていないか、ホプキンス大学の調査チームが壁の裏から井戸の中まで探索したが、現存以外のページを発見することは出来なかった(12)
太地は三回読んだ後、ひゅるっ、と喉から空気みたいな声を出して、数枚の紙をくしゃくしゃにしてゴミ箱に捨てた。それから、自室のクローゼットの奥から線香花火を出してきて、ベランダで一人秋の花火大会を決行して、風呂から出てきた朝香に怒られて涙目。
月の裏側の秘密
このところ毎日太地は毎晩遅くまでベランダで天体望遠鏡を覗き込む日々を送っている。朝香は何か知らないけど熱心な事、と何も聞かないで放っておいたが、一週間ほど経った夜、食事を終えた後またベランダに出ようとするので、声をかけてみた。
「あなた、毎日毎日何を見てらっしゃるの」
「む、遂にきみも興味を持ったか。ならば教えて進ぜよう。僕はね、月の裏側を観測しているんだよ」
「月の裏側。何のために?」
「月の裏側に住む宇宙人を発見するためだよ」
朝香は道端に捨てられたチリ紙を見る目で夫を見つめた後、見つかるんですか、と抑揚のない声で尋ねた。
「もちろんだ。彼らは時々地球に来ているからね」
「月って確かいつも同じ面を地球に向けてるんじゃなかったですっけ」
「む、その通りだが、僕は際をひたすら見ているんだよ」
「UFOなり見つけたとして、それからどうするんです」
「動画や写真を撮るんだ。ほれ」
と、手元に準備したデジカメを見せてくるが、どうみてもそこらの電化製品店に置いてある普通のものだ。
「あの……それで遥か彼方の月の宇宙船が撮影出来るんですか?」太地はそれを聞いてしばらく固まった。が、やがて
「なに、月から地球に来る途中なら撮れるだろうよ。NASAは何かを隠しているから、それを俺が暴くのだ」
「よく分からないけど、宇宙人って素直に暴かれるのを手をこまねいて見てるものなの? 家に浚いに来たりしないの?」
「えっ……来るのかな」
「知らんけど、正体を隠してるならそれぐらいの事はするんじゃないの」
それを聞いた太地は突如として天体望遠鏡をしまいだす。そしてすごい勢いでベランダの窓を閉めて、カーテンを引っ張った。
「そうだ、あいつらはキャトルミューティレーションと言って牛の内臓だけ取ったりするんだった。あと、畑にミステリーサークル書いたり、インプラントしたり。くわばらくばら。君子危うきに近寄らず。さ、風呂にでも入るか」
呆れ顔の朝香を尻目に太地は天体望遠鏡を抱えて去っていく。朝香はテレビをつけてポテトチップスを食べはじめた。
太地は服を脱ぎながら、内心怯えていた。もしかして今日までの行動が宇宙人に見られていたら、と思うとぞっとした。なんでそういう事を思いつかなかったんだ、俺のバカ馬鹿、とか思いながら浴室に入る時、溝に足の指をひっかけて、頭から浴槽に飛び込む。ぶぱぁ、と顔を出して、鼻からお湯を垂れ流して、これも宇宙人の攻撃か、と、一人でますます怯えるのだった。
世界も太地も仮想現実
このところ太地は元気がない。いつも無駄にエネルギーが溢れている感じなのだが、最近はなんだか暗い。朝香は気にせずにいたが、食欲すらも減退していて、大好きなマグロのお刺身にすらろくに手を付けない様子を見て、声をかけてみた。
「あなた最近元気ないんじゃない、どうしたの」
「ん、いや、なんでもない」
「なんでもあるでしょ、マグロ好きなのに全然食べないじゃない」
「そ、そうか」と四角い眼鏡の奥のつぶらな瞳をしばたかせ、たちまち3切れ、4切れと口に放り込む。呆れた朝香は、何に悩んでるの、と肩にかかった髪を後ろに流しながら問いかけた。すると、ようやく重い口を開く。
「俺は、この世界の真実に遂に気が付いてしまったんだ」
聞いた瞬間、どうせそんなこったろうと思った、と朝香は半笑いになりそうになったが、一応聞いてみる。
「この世界の真実って?」
「この世界はね、実はね、仮想現実、バーチャルリアリティーなんだよ」と太地は厳かに告げた。
「ああ、マトリックスみたいな感じ?」
「そう、そうだよ! あの映画は真実を描いているんだ。世界の有名な哲学者や事業家もそうだと言っているんだ」
「んじゃあなた以外にも気づいている人はいっぱいいるのね」
「え? え、ああ、まぁ、そうかな」
「なのになんであなたが最初の発見者みたいな雰囲気なの?」
「ぷぷるぷ。いや、そういうわけじゃないけどね、とにかくこの世界は仮想現実であって、本物の世界じゃないんだ」
「ふーん。じゃあ本物の世界ってどこにあるの?」
「この世界の外側」
「あなたこの前宇宙の果ての向こうは意識だとか何とか言ってなかった?」
「言った言った」
「んじゃ本物の世界はやっぱり意識ってこと?」
「そうそう」
「じゃあこの世界が仮想現実で意識だけの世界で辻褄はあってるんじゃないの? 現実の世界ってなに?」
太地は目を白黒させた後、我が妻は神か悪魔か、とひとり呟いた後、ふらふらと外に出ていく。流石にまずそう、と朝香もつっかけで後を追う。どこに行くのかな、と見ていると、公園へ行って野良猫の頭を撫でている。そしてポケットからマグロのお刺身を出してあげている。一体どういう思考回路を経てそうなったのか分からないが、どうも博愛精神、動物愛護に目覚めたらしい。
「わからん……でもあの調子じゃあの猫連れて帰ってきそうね」
公園の入り口で見守っていた朝香は、うちのマンションってペットOKだったかしら、と思い出すのだった。
幽霊の正体見たり秋の夜
結局美作家はオスの三毛猫にエジソンと名付けて飼うことになった。エジソンは太地が敬愛する発明家からそのままとったものだ。朝香は自分がお世話する羽目になることを覚悟していたが、全くそんな事はなく、うんちの始末や食事の準備、入浴など全部こなすので、
「どうしたの? 夢で神様の予言でも聞いたの?」と茶化して聞くと、いや、この世界でちょっとでもいい事しようと思って、と殊勝な事を言う。ふーん、なんか変わったわね、と朝香は感心していたが、三つ子の魂百までも、そう簡単に人間性までは変わらない。ある夜、朝香がテレビを見てひゃあきゃあ笑っていると、太地が真剣な顔でやってくる。
「今度の日曜、幽霊を撮影に行こう」
と真顔で言ってくる。朝香は生ごみを見る目で
「一人で行ってこい」と突き放す。すると、そんな、一人じゃ怖いから一緒に来て、すぐ近くの廃旅館だから、出るらしいんだよ、と泣きそうになりながら縋ってくるので、馬鹿らしいと思いながらも、それはそれで、探検なんかはちょっとは楽しいかもね、という理由で承諾した。
週末の夜、美作夫婦はプリウスに乗って目的地の山奥の廃旅館に到着した。何軒かの寂れた営業していない古い旅館が並んでいて、見ただけで怖い。
「雰囲気あるね」と朝香が話しかけても返事がない。見ると、太地の顔は真っ青である。なんでこの人は怖がりの癖に肝試し的な事をしたがるんだろ、と思った。
「ここは出るんだよ。見たいんだよ、怖いけど、本当にこの世界に幽霊ってのが存在するのかを」
「ちなみに、いわゆる霊感ってのはあるの?」
「ないと思う。今まで一回も見た事ない」
「じゃあ駄目じゃないの?」
「ここは別格なんだ。本当に多くの動画で白い女性の姿が写されてる」
「動画で見たならもういいじゃん」
「違うんだ、この目で見たいんだ」と、大きな懐中電灯のスイッチを入れる。
「私の分は?」
「ないよ」
この男、明日の食事の全てで塩と砂糖を間違えて作ってやる、と朝香が決意を固めていると、一軒の旅館の扉を開けて中に入っていく。コオロギの声が優しく聞こえてくる中、二人は廃旅館の中へ入っていく。中は荒れ放題で、足元には電話機やら割れたお皿やら雑誌などが散乱している。なんでこういうの片づけないで放置なんだろ、と朝香が冷静に考えていると、太地が悲鳴を上げる。
「きゃっ、ネズミだ!」
足元を何かがざさっと通り抜ける。あーキモいウザイ、と朝香は思いながら太地の背中を押す。
「二階なんでしょ、幽霊が出るのは」
「あ、きみ、先行かない?」
「行かない」
太地はうなだれたが、覚悟を決めて階段を上がっていく。せめてお昼に来ればいいのに、昼は出ないらしく、こうして真っ暗闇の中を歩く羽目になる、と朝香は内心思った。二階にある幾つかの部屋を回ってみたが、単に薄汚い部屋なだけで何もないし、幽霊も出てこない。
「おかしいな。出るはずなんだけどな」
二周した時点で、太地は首を傾げて立ち止まる。朝香は、もう帰ろうよ、と声をかけようとした。その時、廊下の一番奥の部屋から、何か白いものが出てくるのが見えた。「あれ! うしろ!」と朝香が声をあげた。太地が振り返ってみるが、何も見えない。
「どした? 何がある?」と焦って目を凝らすが、太地の目には暗い廊下しか写らない。朝香は悲鳴を上げて階段へ向かって走り出した太地も慌てて後を追う。朝香は暗い中を勘だけで玄関へ辿り着いた。遅れて太地も出てくる。
「あんた見えなかったの! 白い服着た女の人! 逃げるよ!」と朝香は太地の手を引っ張って車まで走った。
助手席に座って、朝香は息をつく。まだ不安だ。
「早く出発してよ」
「わ、わかった」太地がプリウスを発進させる。朝香はしきりに後ろを見る。ホラー番組ではこういう時後部座席に乗ってくることが多いからだ。しかし、幸い何もいない。
「もう二度と肝試しなんか行かないから」
「まさか朝香だけに見えちゃうとはなぁ。俺も見たかったな」と太地は残念そうに言った。朝香は、もうこりごり、という風に首を振った。この馬鹿には明日ネタと同量のワサビが入った寿司を食わせてやる、と密かに決意していた。
──その頃、先ほどの廃旅館の二階で、一枚の白いレースのカーテンが風に吹かれて舞っていた。
進化の理由と、太地の期待
翌日、砂糖入りの甘いラーメンとネタと同じ量のわさびが入ったお寿司を食べさせられた太地は、その後何度もトイレに籠る羽目になった。その姿をエジソンはにゃあにゃあ笑いながら見ていたのだった。
その数日後の晩、太地が真面目な顔で朝香に話しかける。明日休日の朝香は白ワインを開けて美味しそうに飲んている。太地は下戸なので飲めない。
「朝香、俺は進化の真実について遂に発見したんだ」
「へ、何を? しんか?」
「そう。一番最初の生命は火山のそばの海の中で、アミノ酸やらタンパク質が煮えている中で偶然産まれたらしいんだけど、生命の定義って知ってる?」
「うーん、子孫を残すとか?」
「そう、自己複製と、進化すること。でさ、最初はアメーバみたいなもので、うにょうにょう動いてるだけだった。でも、ある時から捕食するようになるの。それに必要なのは何だと思う?」
「うーん、わかんない」
「眼だよ。生命は眼を手に入れたことによって、飛躍的に移動能力、行動範囲が広がった。でもね、不思議だよね。どうやって生命は眼という複雑なメカニズムを持つ器官を手に入れたんだろう?」
「えー、あんたの好きな考え方なら、宇宙人に改造されたとか?」
「違うね。意志だよ。生命体は「見たい」と思ったんだ。意志が器官を創り出したんだね」
「ほえー。それはなかなか独自理論っぽいね、珍しく」
「だろう。そして、この理論に基づくとだね、俺の背中にも羽根が生えてくるはずなんだ」
「はね」
「そう。それにね、宗教が何か見たらさ、天使いるじゃん、あいつら、背中に羽根生えてるでしょ」
「生えてるね」
「ということは、昔は実は羽根の生えた人っていたんじゃないのかな、本当に。いつの間にか絶滅したっていう」
「それは分らないけど、実際世界には羽根で飛んでる鳥とかちょうちょとかいるもんね。原理的には不可能じゃないんだろうね、人間が羽根で空を飛ぶのも」
「そう、そして俺は背中に羽を生やして見せる」
「どうやって?」
「思うんだよ。意志が必要なんだ。思っていれば生えてくる、楽しみに待っててくれ」
「ろくろ首より首を長くして待ってるわ。さ、テレビ見よ」朝香は内心、尻尾ぐらいなら生えてくるかもね、と思った。
ということで太地は来る日も来る日も羽根よ生えてこい、と思い続けた。なんならたまに神頼みもした。そして、およそ一ヶ月ほど経った。もちろん何の変化も起きなかった。朝香は聞いてみた。
「どう? 羽根は生えてきた?」
「うん、生えてこない。思うに、進化には時間がかかるんだ。ひたすら思い続けて数百年ぐらいかかると思う」
「じゃあダメじゃん」
「いや、要は受け継ぐのが大事なんだ。僕らの子ども、孫、ひ孫、ひいひい孫、そしてさらに十代ぐらい続けば……」
「その頃にはタケコプターみたいなのが発明されてるんじゃないの。大体さ、今でも飛行機とかヘリコプターとかで空飛べてるんだから問題ないんじゃないの?」と言うと、太地はあんぐりと口を開けて、そういえばそうだった、と実に間抜けな返事をした。朝香は膝でごろごろ言っているエジソンの頭を撫でながら、科学の力は偉大よね、とそっと呟いた。
猫は普通に生きている
背中に羽根を生やすのを諦めた太地は、しばらくおとなしかったかと思いきや、日曜の今日、どこかへ出かけたかと思うと、何やら買い込んできた後、マンションの一室を占領して何やらごそごそやっている。また何か作ってるのかな、とそっとドアの隙間から朝香が覗いてみると、透明のプラスチックで長方形のケースを組み立てている。その横でエジソンが不思議そうな顔で太地を見つめている。
「あなたなにを作ってるの? 水槽?」
とドアを開けて入った朝香が声をかける。
「やぁやあ、違うんだよ。これは世紀の発見なんだ! あのアインシュタインですら気づかなかった大発見なんだ」
「この安っぽい透明のケースが?」
「簡単に言うと実験装置さ、これは。うむ、上手くいった」と太地は上部が蓋になって、開けたり閉めたり出来る事を確認して、じっとエジソンを見た。思わず朝香の足元に隠れるエジソン。
「まさか閉じ込めて水を入れたりするんじゃないでしょうね。そんなことしたら殺すよ、あんたを」
「あひぇっ、いや、中に入ってはもらうけど、水なんかいれたりしないよ。これはね、シュレーディンガーの猫の実験を解明する画期的な装置なんだよ」
「なに、シュレーディンガーの猫って」
「話せば長くなるんだけど、簡単に言うと、量子力学の世界では、観測されるまで飛ばした光の状態が決まらない、観測していると一定の動きしかしない、という不思議な事が起こるんだ」
「へぇ~。で、それと猫は何の関係があるの?」
「そこで物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが、なら猫を箱の中に入れて一時間後に死ぬ可能性が50%にするようにしたら、猫は生きている状態と死んでいる状態で重なり合っていることになる、と提案したんだ。もちろん実際にやったわけじゃないよ。これは思考実験なんだ」
「なんでその思考実験をお前は本当にやろうとしているの?」
「いや待って、つまり、こうやって透明な状態にしていれば生きているか死んでいるか明白じゃないか、という」
「うん。そうだね。で、見ただけで猫が生きてるか死んでるか分かるの?眠ってたら?」
「えっ、その場合は叩いて起こすとか?」
「アインシュタインも気づかないような世紀の発見はそんなザルなやり方でいいの? あと、その50%の死の可能性とやらはどうやるわけ?」
「あ、うん、それはね、こう、実験では放射性物質を箱の中に放出することになってて……あれ?」
「そんな邪悪な物質をお家の中に持ち込まれてたまるか。どうしてもやりたいなら福島原発の廃炉のそばで一人でやってこい。あー怖いわねこの人。いきましょ、エジソンちゃん」
と、三毛猫を抱いて朝香は去っていった。太地はうぬぬ、考えが足りなかった、と恨めしそうに透明の箱を見つめた後、これ何かに使えないかな、と思い立ち、分解してあちこち切ったり伸ばしたりした後、糸をつけて、近所の公園まで行って凧にして飛ばしてみた。案外風を受けて空高く舞い上がって、太地ご満悦の冬の午後。そんな太地の姿をマンション四階のベランダから見ていた朝香と抱かれたエジソン、二人でため息。
死後の世界を見てきた太地
よく晴れた日曜日の朝、エジソンは居間の絨毯の上でもちもちとウェットフードを食べ、朝香は焼いたパンと目玉焼きを美味しくいただいている。と、そこへ、死霊のような顔つきで太地が起きてくる。青ざめた顔はなかなかただ事ではなく、朝香は声をかける。
「おはよう、どうしたの? なんか怖い夢でも見たの?」
「おはよう、う、うん、全く酷い夢を見たよ、いや、夢とは思えない、現実だった気がする」と言いながら洗面所へ消えてゆき、顔を洗って歯を磨いて戻ってくる。そしてのそりとテーブルにつく。朝香に入れてもらった熱いコーヒーをブラックのまま飲む。
「あらあなた、砂糖入れないの?」
「うん、そうだね」と言いながら食卓の塩の瓶を取って振りかける。おもろ、と思った朝香は何も言わないで続きを話させる。エジソンがひらりと朝香の膝に飛び乗る。
「それで、どんな夢を見たの?」
太地は髪をぐしゃぐしゃした後、思い出しながら話しはじめた。
「……最初は普通に道を歩いてた。キリンのように首が長くなるのと、ゾウのように鼻が長くなるのはどっちが便利だろうか、とか考えてたら、車に轢かれたんだよ。すごく痛かった。それで、目の前が真っ暗になってね、次はね、すごくきれいなお花畑があるところに出た。で、目の前には澄んだ川が流れてたんだ。いい場所だなぁ、とか思って見渡していると、川の向こうから誰かが手招きしているんだ。橋があるから渡ってみたら、そこには死んだお爺ちゃんとお婆ちゃんがいたんだよ。後小さい時飼ってた柴犬のダイもいた。思わず、おじいちゃん! と呼んだら、いきなり叩かれた。お婆ちゃんにはつねられた。ええっ、なんで、と思ったら、毎日毎日愚にもつかぬことばかり考えてないでしっかり仕事をしろ! と爺ちゃんに怒られ、婆ちゃんには、奥さんをもっと大事にしなさい、このうつけもの、と言われたよ。で、最後にダイに足におしっこひっかけられた。それで急に場所が変わった。薄暗い砂利道みたいなところで、何か大きな声が聞こえたと思ったら、真っ赤な顔の鬼が金棒振り回してこっちに走ってくるんだ。うわぁと思って必死に逃げたら、光あふれる扉みたいなのがあって、そこに飛び込んだら目が覚めたんだよ……」
朝香とエジソンは、しばらく太地を見つめたあと、思わず、ぷっと笑ってしまった。
「お説教されちゃったんだ」
「それより鬼が怖かった。本当に殺されるかと思った」
「鬼が何を意味するのか考えてみたらいいね」
と、朝香は立ち上がりエジソンをソファーに置いて、洗濯ものを取り込みにベランダに出た。すると、太地がやってきて一緒に取り込みはじめる。そして、
「人はパンのみに生きるにあらず、だけど……」とつぶやいた後、
「一緒にいる人を思いやる必要はあるんだ、と思う」
と言いながら洗濯物を入れた籠を胸に抱えて部屋へ入っていく。なんか、成長したみたい。お爺様、お婆様、ありがとうございます。と、朝香は心の中でお礼を言った。太地がふらふらと進んでいると、足元をエジソンが駆け抜ける。うわぁ、危ない、と体勢を崩した太地、手をつくために籠を前方に放り投げ、中身は居間に巻き散らされた。
ま、ちょっとずつだね。朝香は腰に手を当てながら、ソファにかかった太地のトランクスを手に取った。
執筆の狙い
宇宙の果て、幽霊の存在、暗号、仮想現実……世の不思議な事象の解明に挑む夫、美作太地と
冷静にツッコミを入れる妻、朝香の日常を書いたユーモア作品です。
息抜きに書いてみました、気楽に読んで感想をいただければ嬉しいです、よろしくお願いします。