Vol.3【ほんのちょっとの大冒険】
退屈で映画やドラマみたいな展開の無い平坦な毎日。
私は、そんな毎日に囚われの身となっているお姫様の気分だ。誰か私をこの退屈な毎日から自由の身にしておくれ。それが私の願いだった。
ある日、私は学校にちょっとだけ遅刻した。
「おい!」と担任の水川笑子先生は私を怒鳴りつける。「遅刻するなとあれほど言ったでしょ?」
「ちょっとだけなら大丈夫じゃないですか?」
「『ちょっとだけ』なら良いって?」
水川先生は顔を顰めて言った。「あんたにとっては『ちょっと』でも、この長い人生にとっては『ちょっと』じゃないのよ?」
「具体的には?」
「例えば、吉野さん。あなたのお母さんが病気で死にそうになった。あなたはちょっとだけお母さんの元に辿り着くのが遅くなったらどうかしら?」
私が考え込むと、水川先生は続けて言った。
「必死にダイエットしたのに体重がちょっと増えたら? テストで100点を取れるはずがちょっとのケアレスミスで99点になったら? 寿命がちょっと減ったら? 月が少しでも欠けちゃったら? 事実だけを見ればどれも『ちょっと』だけ。でもね、その本質を見てみると本当にそれらは『ちょっと』なのかしら?」
「……『ちょっと』ではないと思います」
「そうよ」と、水川先生は言う。「今日、吉野さんがちょっとでも早く学校に到着していれば、困っている誰かを手伝えたかもしれない。考え事をして自分自身をグレードアップできていたのかもしれない。私はそう思うけど」
「なるほど……。流石は教師。例えが分かりやすいや」
「上から目線はやめて早く席に着きなさい」
「はーい」
こうしてホームルームが始まった。
一時間目。
私はいつもより少しだけ授業に集中してみた。するといつの間にか休み時間がやってきた。なるほど。体感で授業が早く終わって欲しいのなら授業に少しでも集中すればいいだけの話だったのか。
私の中で一つ大きな発見である。
廊下にて。多くの男子達が連れションとかいう謎の文化でトイレに直行する中、一人虐められている小柄な男子がいた。一見、その小柄な男子は友人達の前で得意の一発芸を披露して笑いを取っている、そんな愉快な光景に見えるのだが、人間観察の達人である私の目は誤魔化せない。明らかにその男子の顔に引き攣りが見られる。それに、彼の黒いブレザーとスラックスには上履きで踏みつけられた白い跡が沢山あった。
「ねえ。そこのあんた達」
私はちょっとだけ勇気を振り絞って話しかけた。「嫌がることを強要するのはやめておきなよ」
「いや、どこがだよ? 普通に楽しくやっているだろ?」
リーダ格の背の高い男子は圧をかけてくる。正直言って普通に怖い。だが、来るところまで来てしまったのだからただ突き進むだけである。私は目の前の男子のような悪人は腹の底から許せない性分なのだ。
「嘘つけ。私の観察眼を誤魔化せられるとでも思ったのかよ? とっとと白状しろ」
「白状? え? 誰に向かって口を聞いてんの?」
リーダー格の男子はそう詰め寄って私の胸ぐらを掴んできた。
仕方がない。奥の手を使おう。と、私は思い切ってそいつの顔をぶん殴ったのだが、これが大失敗だった。私はそこまで力が強くないので大した威力にならないと思ったのだが、その指には偶然友達から貰った指輪をはめていたのだ。
リーダー格の男子は鼻と口元から流れる血を押さえて廊下に膝を付いた。取り巻きの男子達はリーダー格に引っ付く腰巾着のヘタレなのか、リーダー格が膝を付いた瞬間から急に私が熊か何かのように恐れ慄いている。
偶然その場を通りかかった隣のクラスの女子は息を呑み、職員室まで先生を呼びに行った。
状況的に、多分私は悪者にされるだろう。正直言って最悪だけど、ちょっとだけ最高な気分だ。この「ちょっと」は決して、ただの「ちょっと」ではなかった。
先生達から叱責を受け、反省文まで書かされる羽目になり、悪い噂で地獄と化した時間を過ごした私は、残りの授業に真面目に参加して、逃げるように下校した。
私はいつも通り、帰り道の公園の自動販売機でコーラを買おうとしたが、今日はいつもと少し違うものを買ってみようと決めた。「よし、エナジードリンクでも買ってみるか」
私は百円玉を二枚入れ、エナジードリンクを購入して飲んでみる。そこには私にとってかつてない不思議な味わいがあった。シュワシュワとした炭酸の泡に、お寿司の生姜の味……美味しいかどうかは分からないが不思議と癖になる味である。多くの社畜達がこれを飲んで激務に耐えているというのだからこの世界はどこか微妙に変だ。
青空を眺めていると、空の向こうから何やら黒い塊がこちらに近付いているのが分かった。UFO?
それは私の前に着地すると、中からトカゲのような顔をした宇宙人が出てきた。
「こんにちは。地球人」
「……あ、はい。こんにちは」
「実はお願い事があって来たんだ。ちょっとでも話を聞いてくれるかい?」
「まあ、ちょっとならいいですよ」
「実はさ、この太陽系で色々な実験をしようと思っているんだ」
「へぇ、例えばどんな実験ですか?」
「太陽の温度をほんの少しだけ上げてみたり、地球の表面をちょっとだけ欠けさせてみたり、月の軌道を少し変えてみたりするのさ。この面白い実験を是非ともやらせてくれないかな?」
「それ、私達死んじゃいますよ? やめて下さい」
「あぁ、ごめん。僕達の星では拒否は犯罪だって決まっていてね。じゃあ、よろしく。今、ほんの少しだけ軌道を変更した月がこちらに向かってきている。1時間後には地球に衝突するよ。大惨事は時間の問題さ。じゃあね」
宇宙人はそう言って宇宙船に乗り込むと、空の向こうへ飛んで行ってしまった。
何とかしなければ。
私は頭をフル回転させるが、何もいい案が思いつかない。そもそも今の人類に軌道が変わった月を止める程の技術があるのだろうか? 当然あるわけがない。ならばどうする? 宇宙飛行士にでも相談するか? でも、一時間後には衝突するのだから、技術に頼ろうにも、避難しようにもどうしようもない。もう打つ手は無い。もう何もやっても無駄だ……いや、力んでいては何も思いつかない。私は少しだけ落ち着いて頭を回転させると、ふと小学校時代に国語の授業で習った童話を思い出した。山火事で多くの動物達が逃げる中、たった一羽で山火事を消そうと取り組んだ勇敢なハチドリはこう言った。「私は、私にできることをしているだけ」
そうだ。今、この瞬間、私にしかできないことがあるはずだ。私は手に持っている空き缶を力一杯握り締め、空高く向かって投げた。絶対に月には当たらない。だが、何もしないわけにはいかなかった。ちょっとでもいい。ほんのちょっとでも確率を上げるんだ。
私が投げた空き缶は偶然上空を飛んでいた烏に命中し、驚いた烏は飛ぶ姿勢を崩して近くのペットショップに墜落する。何事かと驚いたペットショップの店員は誤って籠の動物達を町に解き放ってしまった。その内の一匹である兎が車道に飛び出すと、それに驚いたトラックの運転手がハンドルを切ろうとしたものの、転倒自己を起こしてしまい、トラックの荷台から積んであった大量の牛乳が流れ出てしまった。流れ出た牛乳は歩道まで広がると、多くの歩行者の足を滑らせた。特に盛大に転んだサラリーマンのバッグから飛び出た大量の紙の資料が風に流されて遠く離れた場所に飛んでいき、走行中の囚人護送者のフロントガラスに張り付いて視界不良による衝突事故を発生させた。中に乗っていた一人のテロリストの男は自分以外全員が気を失っていることを確認すると、車両から脱走し、爆弾を隠している秘密の場所へと行き、特製の爆弾を手に入れたが、警察の追手が迫ってきた。男は特製の爆弾を抱えたまま必死で逃げ続け、気付けば自分が浅間山の頂上にいることに気が付いた。ここまで来れば追手は来ないだろう。そう思ったが最後。突如強い地鳴りと共に足元から真っ赤に光る溶岩が溢れ出てテロリストの男を宇宙まで吹き飛ばした。
宇宙空間で発生した原因不明の爆発により、月は奇跡的に元の軌道に戻った。スマホのニュースでそれを見た私はにわかに信じられなかった。もしかして、私のちょっとの努力が奇跡を起こして、この地球を救ったというのだろうか?……。
「ねえ、あの……」
声がする方向に振り向いてみるとそこにはあの小柄な男子がいた。
「さっきはありがとう……。おかげで助かったし本当にスカッとしたよ。……あの後、先生達にはちゃんと吉野さんは悪くないって証言したんだけど、全然話を聞いてくれなくて」
「そりゃどうも。でも大丈夫だよ。私はちょっとでも後悔の無い生き方がしたかっただけだから」
格好つけて言ったのではなく、本音だった。あの後、私は悪い噂が漂う地獄のような時間を過ごしたが、結局のところ何も後悔していない。人の噂も七十五日なのだから。
私はその男子に笑いかけた。「あの時の私、怖かったでしょ?」
男子は首を横に振る。「全然。むしろ少し格好良かったかも」
「なーんだ。少しかよ」
「いや、あの、その『少し』はただの『少し』とは違うっていうか……とにかくめちゃくちゃ格好良かった」
「よくぞ言った。ちっちゃい少年」
私はその男子の頭を子犬のように撫でて言った。「あんた。名前なんて言うの?」
「C組の大島ミツルって言います」
「ミツル君か。私は……学校じゃ問題児の有名人だから知っているかもしれないけど、B組の吉野フミエっていうんだ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
ミツル君があまりにも堅苦しく頭を下げたので私は腹を抱えて笑った。「堅いって。あんた、もしかして普段あまり女子と喋らない奴?」
「うん」
「緊張するなって。男子みたいに扱ってくれて構わないから。私あまりそういうのは気にしないタイプだし」
「うん。分かった。じゃあ……また明日」
私は下校するミツル君に向かって大きく手を振った。初めて気楽に話せる異性の友達と出会えた気がした。女子同士の人間関係なんて基本は殺伐としているから。
途端に夕焼けのチャイムが町に流れた。
私はゆっくり沈んでいく夕日を見つめながらふとあることに気がついた。退屈な毎日から自由の身になるためには、毎日、1ミリでも前進する努力を積み重ねればいいだけだったのだ。その1ミリの努力だけで本当に楽しい毎日へ向かうことができるのだ。
私は心の中で言った。
「今日はちょっといい日だったかも。でも、明日はきっと、もっといい日が待っているな」
執筆の狙い
数年前に書いた小説に新展開を加えたものです。