また、逢えたね—— 〜第二幕〜
「ねぇ! 帽子追いかけてくれないの!?」
沙苗の声が、無作法に耳を引っ張りつかんできた。
「気が効かないんだから」
独り言を言いながら、ブカブカのクロックスでズカズカと歩きだし、ハルトの横を通り過ぎる沙苗。
その少し先で、雨宮夕凪は風にふわりと舞う黒髪を押さえながら、何処からともなく飛んできた帽子を足元からそっと拾い上げた。
その様子が目に入った沙苗は、夕凪に近づいて行く。
「私の帽子——」
その瞬間、ブカブカのクロックスに足を取られた沙苗は、夕凪の目の前で派手に転んでしまった。
「あっ」と声をあげる人々の視線に晒され、恥ずかしさと苛立ちで沙苗の顔は、みるみる真っ赤に染まっていった。
「……っ!!」
声にならない声を発し、沙苗はすっくと起き上がった。
夕凪の手から帽子を剥ぎ取るように奪うと、転んだ拍子に脱げたクロックスをそのままに、踵を返した。
遠慮気味に向けられる人々の視線から隠れるように、沙苗はハルトの背後にしゃがみ込んだ。
半泣きの顔を帽子で覆うようにして、ただじっとしている。
ハルトは再び夕凪に視線を返した。
沙苗が放置したクロックスを回収する。これは大義名分だ。
そんな仰々しい思いを連れて、ハルトは引き寄せられるように夕凪の方へと歩み寄っていった。
夕凪の前に散乱しているクロックスを拾おうと、屈んだハルト。
その顔を上げると、二人の視線がフッと交わった。
次の瞬間、夕凪はハルトの目をじっと見つめた。
——ほんの刹那の沈黙。
ハルトは、そのまま時間が止まるような感覚を覚えた。
夕凪のその一瞬の"まなざし"が、ハルトにはハッキリとした意味合いを持つように感じられてならなかった
。
夕凪は、不意にハルトへ背を向けた。
その後ろ姿を見た途端、まるで映画のフィルムがぷつりと切れたような、そんな感覚がハルトの胸をかすめた。
ハッと我に返ると同時に、気恥ずかしさが込み上げてきた。
その感覚を断ち切るようにハルトも踵を返し、しゃがんだままの沙苗に向かって歩き出した。
沙苗の前に腰を落とし、クロックスを足元に置いた。
「とりあえず、これ履いて」
帽子で顔を覆ったままの沙苗に促した。
「足…くじいちゃった」
「え……?」
沙苗の足首に目をやるハルト。
「……歩けない」
消え入りそうな声を発し、恐る恐る立ち上がろうとする沙苗だが、途端に「イタッ!」という小さな悲鳴と共に、バランスを崩して再びしゃがみ込んだ。
その様相に、ハルトは少しばかり戸惑いを浮かべたが、それはすぐさま諦めのような、意を決したような表情に塗り替えられた。
ハルトは沙苗の手から滑り落ちた帽子を拾い上げ、しょげた子供のように俯いているその頭に、ポンッと被せた。
ハルトはくるりと向きを変え、広い背中で沙苗を手引いた。
ためらう様子もなく、沙苗はハルトの背中におぶさった。
そのまま来た道を駐車場へと向かい、歩き出す。
遠ざかって行く二人の後ろ姿を見つめる夕凪。その胸にうっすらとかかるベールのような感情を、夕凪自身も飲み込めずにいた——。
※ ※ ※
夕凪は腰まで届きそうな黒髪を一つに束ねながら、意気揚々と展望所へ、売店へと向かう人々のざわめきを背に、駐車場へと引き返した。
遠目にも目立つワインレッドのCBRに歩み寄ると、おもむろにシートに跨った。
手慣れた手順でエンジンを始動させると、馴染んだ音と振動が瞬時に身体を包んだ。
束ねたロングヘアをフルフェイスに収める。
途端に周囲の喧騒は消え失せ、ほっとした安堵感と、走行へ向けての少しの緊張感が交差する。
グローブをはめクラッチに指をかけた瞬間、夕凪の脳裏を"見知らぬ"男性の顔がよぎった。
ハルトの顔だ。
——顔。
いや、あの目だ。
親しみのあるような、何処か懐かしいような——。
それが何なのか、何故なのか。
夕凪はふぅっと小さく息を吐き出した。スモークシールドにかかる白いもやが一瞬、視界を濁した。
夕凪は深い思考に陥るのを制止するように、シールドを下ろした。
高く澄んだ空を見上げ、アクセルをゆっくりと開け、夕凪のCBRは大観峰を背に走り出した。
※ ※ ※
『現在、高速道路・一般道ともに大きな混雑は見られませんが、
夕方にかけては、行楽帰りの車で混雑が予想されています』
交通状況のアナウンスが、静まり返った車内に流れる。
裸足の足首をさすりながら、沙苗は小さくため息を漏らした。
その様子を横目に、ハルトは一番近くのSAに向けて車を走らせた。
※ ※ ※
売店で買った湿布を手に車に戻って来たハルトは、運転席に座り、それを沙苗の膝に置いた。
「——アリガト」
封を切り、取り出した湿布を左足首に貼り付ける沙苗。
車は駐車場からゆっくりと走り出し、加速車線から本線へと滑り込むと、大分市内へ向けてスピードを上げていった。
※ ※ ※
控えめなスピードで前方を走る大型車。ハルトはそれを追い越そうと、バックミラーに目をやった。
映り込んだのは、赤いCBR。
ハルトがウィンカーを出すより早く、追い越し車線を夕凪のバイクがスピードを上げ、一気に通り過ぎた。
その後ろ姿の女性らしいフォルム、黒のレザースーツ。
ハルトは大観峰の女だと認識した。
咄嗟にナンバーに目をやる。
『184』
追いかけるように、ハルトも車線を変えた——が、夕凪のバイクはみるみる遠ざかって行った。
『イワシ』
そんな呟きに耳を傾ける沙苗。
(今晩はオヤジとイワシだな)
※ ※ ※
灯りのついていない提灯と看板。暖簾は仕舞われている。
日曜で定休日の『こいき』の店内からは、店主・谷山のしゃがれた声が漏れ聞こえている。
「日曜の夜にむさくるしいオヤジと二人で晩酌かぁ。ハルト! お前のイケメンがカビるぞ」
かっぷくのいい白髪頭の谷山が、腕組みをしながらハルトをはやし立てる。
「むさくるしいオヤジはお前もだろ、谷山。むしろ俺は"イケオジ"だ」
ハルトを差し置いて、父親の郁人(ふみと)が割って入る。
白髪は混じっているが、60近い年齢の割には若く見える方だ。
郁人はお猪口の日本酒を呷り、天井の隅を見やった。
形を崩した蜘蛛の巣が垂れ下がり、暖房の微かな風に小さく揺れている。
「店と共にお前もくたびれたもんだな」
「おっ!? 言うじゃねえか。美人とのデートをほっぽらかして、この休みに店を開けてやったってのに」
「谷山さん、すいません。無理を言って」
小上がりで胡座をかいていたハルトは、慌てて正座に体勢を整えた。
「同級生の腐れ縁だ。気にするな」
「ありがとうございます」
「今度は綺麗なおネエちゃんと来いよ、ハルト」
太鼓腹をポンッとひと叩きし、谷山は厨房へと向かった。
一瞬立ち止まり、ひなびた木のカウンターのヒビ割れを、そっと手の平で撫で、目を細めた。
そのまま厨房へまわり込み、ギシッという音を立てながら丸椅子に腰を下ろした。
小上がりでは、郁人がイワシフライを口に運ぶ。
衣がサクッと音を立てる。ゆっくりと噛み締め、口いっぱいに広がった風味を鼻にもくぐらせ、飲み込む。
うん、うんと一人頷く。
「店主はさておき、ここのイワシは絶品だ」
その瞬間、聞こえてるぞと言わんばかりの咳払いが、厨房から飛んできた。
気にも止めず、郁人が続ける。
「イワシ嫌いのお前が、ここのだけは際限なく食うんだからな」
「際限なく……ん、まぁ」
訂正するほどの嘘でもないので、ハルトはイワシの刺身と一緒に言葉を飲み込んだ。
付けすぎたワサビがツンと鼻にきて、眉間にシワを寄せた。
その様子に、郁人の目尻がフッと下がった。
「しかし、お前からここに来ようってのはいつぶりだろうな」
徳利の酒をお猪口に注ぎながら郁人が言う。
ハルトは大観峰帰りの『184』のナンバープレートを思い浮かべた。
「イワシが走ってた」
「あん?」
「イヤ、大観峰……」
「ん?」
「行ってきたんだ。今日」
「……そうか」
お猪口を口に運ぶ郁人の手が一瞬止まったが、一気に呷った。
郁人につられるように、ハルトもグラスに注がれた泡の消えたビールを飲み干した。
※ ※ ※
——十一年前。季節はちょうどクリスマスを目前に控えた、十二月半ば過ぎだったろうか。
高校を卒業後、地元大分の企業に就職。ハルトには社会人二年目の冬だった。
仕事を終え、普段通り大分駅に向かった。
下りの電車に乗り、二つ駅隣の高城で降りる。
いつもの帰り道。いつもと変わらない景色。
今日は一段と冷える。
雪までは降らなさそうだが、まだ早いだろうと、冬物のアウターを着なかったことを後悔した。
去年、母親の美里が選んだものだ。
もう子供じゃないんだから自分のものくらい自分で選ばせてくれ。
いっぱしの口を叩いたあと、ついこの間まで、生活の殆どを母親の世話になっていながらと、妙に気恥ずかしさを覚えた。
その時の母親の、寂しいような、嬉しさの滲むような表情。
ハルトはふと、そんなことを思い出していた。
「マジで寒っ!」
こんな日はシチューだとありがたい。
そんな期待を胸に、ハルトは母親の手料理の待つ家路を足早に歩き出した。
※ ※ ※
いつも通り、鍵のかかっていない玄関ドアを開けると、廊下の向こう、扉の開いたリビングから、シチューの匂いが漂ってきた。
「ラッキー!」
期待通りの夕飯に、ただいまより先に喜びの声が口を突いて出た。
手洗いもそこそこに、ハルトは洗面所からシチュー目がけてキッチンへと向かった。
ガスコンロの上の鍋が目に入り、ハルトの口元がふっとゆるむ。
「ただいま!」
誰もいないリビングに、ハルトの声が響く。
ついたままのテレビからは、母親が毎週欠かさず見ているドラマが流れている。
確か先週、来週は最終回だからと楽しみな様子で言っていた。
シチューの匂いに混じって、むせ返るような苦い臭いがハルトの鼻をかすめた。
テーブル上の灰皿の端で、タバコが"まだ"煙をくすぶらせている。
——何かがおかしい。
それは帰宅直後、既に感じていたはずだった。
ハルトは玄関へ引き返した。
いつもそこにあるはずの母親の靴も、父親の靴も見当たらない。
得体の知れないざわめきが胸をよぎった。
ハルトはその場から動けずに、暫く立ち尽くしていた。
「こんな時間に……二人、で何を買い忘れ、たんだか」
ざわめきが心臓の鼓動をせき立てるのを、必死でとめようとする。
——ドンッ!
玄関ドアに何かがぶつかる音がした。
「——おかえり!」
呼吸をするのを思い出したかのように、ハルトは大きく息を吸い込んだ。
その息を吐き出しながら、玄関越しに話しかける。
「二人してどこに行って——」
ドアを開けようと押すが、動かない。
「?」
覗き穴から外を見るが、何も見えない。
次の瞬間ドアが開き、郁人の姿がそこにあった。
一瞬緩んだハルトの顔が、そのまま固まった。
立っているんじゃない。
立ち尽くしている。
虚な視線はどこにも焦点を結んでいない。
「……父さん? 母さん——」
「お母さんは……もう帰ってこない。きっと……」
郁人はその場に崩れ落ちるように、膝をついた。
「何? 何があったんだよ? どういうこと!?」
郁人の肩を両手で揺さぶるが、力無くされるがままだ。
これ以上、聞いても無駄だ。
そんな諦めより、聞くのが怖かった。
ハルトは背中越しにぽつりと呟く父親の言葉を拾おうともせず、テレビの音に吸い寄せられるように歩き出した。
後から思えばその呟きは、「ごめん」だったような、「お父さんのせいだ」だったような——。
途方もなく感じられた廊下の先で、テレビドラマの主人公とヒロインが抱き合って泣いている。
なんて陳腐な演出だと思いながら、ハルトは今になって気づいた。
——イヤ、思い出した。
この主人公が、いつか母親が親しげに話していた男と似ている、と。
だからなんだって言うんだ。
テレビから視線を外したハルトは、壁に掛かったカレンダーに目をやった。
太く大きな赤い○が描かれている。
季節が変わるごとに家族で訪れる、恒例となった大観峰へのドライブ。
予定は次の日曜だった。
意味を無くした赤い○が、食い入るようにこちらを見つめている。
テレビから流れている泣き声と、遠く玄関から聞こえてくる嗚咽とが混じり合う。
シチューの甘い匂いは変わらずだが、その温もりはとうに失われてるだろう。
ハルトは大観峰の石碑前で微笑む家族写真を、気が遠くなるような時間ただ見つめていた。
※ ※ ※
——11年間。
父と息子、二人で生きてきた。
いつからだろう。自分でも気づかぬ間に「お父さん」から呼び名が変わっていた。
オレが大人になったからか、それとも父親の白髪が目立つ様になり、心なしか肩が小さくなったが、その割に腹は出てきた。
そんな『オヤジ』と呼ぶに相応しい見た目になったからなのか、分からないが。
「俺も行ってみるかな。大観峰」
郁人が胡座を組み直して言う。
「来週にでもどうだ? ハルト」
「は? なんでオレとなんだよ」
「なんでって……なんでだ?」
「なんでだ? ってソレは——、イヤ、オレが聞いてんの!」
空になった郁人のお猪口に酒を注ぎながら、ハルトが続ける。
「居ないの? ……誰か」
「誰かって、誰が?」
「だから!!」
ハルトの思いも寄らぬ大声に、郁人は少々面食らった。
ハルトのグラスにビールを注ごうと、瓶に手を掛けた郁人だが、ハルトに取り上げられた。
宙に浮いた手の持って行きどころに困り、仕方なく頭を掻いてみせた。
ハルトは手酌のビールをぐいっと呑んだ。
「ずっと一人ってワケには……いかないだろ」
責めるでも、慰めるでもない口調で、伏し目がちにハルトは言う。
まるで独り言のように。
「ワッハッハ!」
ハルトはその豪快な笑い声に驚いて顔を上げた。
声の主は間違いなく郁人だった。
(そんな笑い方したことないだろ)
(酔うと人格変わるタイプだったか?)
そうじゃないことは理解している。
「ハルト。お前は知らないだろうが、こう見えて俺はなかなかモテるんだぞ。去年のバレンタインなんかにはチョコが三つ。三つだぞ!」
「経理のおつぼね、清掃員のバアさん、一つはうちの嫁。全部義理チョコじゃねーか」
新聞を広げた谷山が厨房から茶々を飛ばす。
「チッ」
小さく舌打ちして、郁人は谷山を一睨みした。
「とにかくだ。その気になればいつだって、その、"第二の人生"ってヤツを手に入れることは、ワケないんだよ」
11年間、やもめ暮らしの父親の淡々とした口調に、半ば苛立ちを覚える息子。
「もっと真剣に考えろよ」
つい、偉そうな言葉が口を突いて出た。
「……分かった、分かった。 この話は終いだ。それより、お前はどうなんだ? 彼女くらいいるんだろ? 会社の子か? まさか、水商売じゃないだろうな? やめとけよ——」
「オレの事はいいんだよ!!」
矢継ぎ早にまくしたてる郁人をハルトが遮った。
「……まぁ、そうか……。そうだよな、俺に似て男前だからな。お前は」
「……似てねーよ、オレは——オレはじいちゃん似だよ」
今でも鮮明に浮かび上がる母親の顔を、遠くへ追いやるように、ハルトは答えた。
親戚から、近所のおばさん達から、口々に言われてきた。
『本当にお母さん似だね』
残りのビールを飲み干して、ハルトはポツリと、だが想いを込めて言う。
「幸せになってもらいたいんだ」
正面からまっすぐ郁人の目を見た。
こんな眼差しを向けたのは、初めてかもしれない。
郁人にとってもそうだ。
ハルトの真剣な眼差しに、『親と子』という肩書きが揺らぐような感覚を覚えた。
一瞬、思わず視線を逸らしたが、すぐさまハルトに視線を戻した。
「……お前そんな、そんな台詞はアレだ、逆だろ! ふつうは親が子供に言うもんだろ」
上ずってしまう声に不甲斐なさを覚えながらも、郁人はどうにか威厳を保とうとした。
それすら見透かされてるように感じる息子の視線に、郁人はたじろぐしかない。
「オヤジには、幸せになってもらわなきゃ困るんだよ」
「……」
——ジタバタ劇も、ここまでだ——
「……親に向かって……幸せになって……生意気に」
郁人は目を閉じ、膝の上の左手で太ももをぐっと押し付ける。
喉の奥にせり上がる熱を、無理やり堪えるように。
次の瞬間、ドンッという音を立て、ハルトと郁人が囲む卓上に、一升瓶が置かれた。
ぐらついて倒れそうになる徳利を、慌ててハルトが掴んだ。
谷山だった。
先程まで厨房で煙草を吸っていたその谷山が、傍で目を潤ませて仁王立ちしている。
「呑むぞ!! 今夜はとことん呑み明かすぞ!」
しゃがれ声を張り上げ、ドカッと小上がりに座り込んだ谷山は、伏せてあったグラスに酒を注ぎはじめた。
「酒とイワシと親父と息子。 こんなめでてえ日があるか!」
「意味が分からんよ」
郁人が少し呆れたように笑う。
「しのごの言うな! ほら!」
谷山は残りのグラスに酒を注ぎ、郁人とハルトに差し出す。
「ヨシッ! 乾杯だ」
「——乾杯……しましょう!」
グラスを持つハルトに促され、郁人もグラスを手にした。
三つのグラスが合わさる軽やかな音が、ハルトの耳に微かな余韻を残した。
すっかりとばりが降りた店の外。
冷たい空気の中、店内から漏れる談笑の声が、夜空に吸い込まれていった。
執筆の狙い
連載の4〜6話の掲載です。
人間ドラマの上に成り立つ恋愛を描いています。
色々な視点からの講評を頂けたら幸いです。
宜しくお願い致します。