点Pの存在論的拡張 〜一つの点から万物へ〜
動くもの全て、そして世界の根幹としての点P
かつて我々は点Pを、単なる一次関数の座標上の点だと考えていた。
xが増えればyも増え、直線上を滑るように移動する、従順で無垢な存在。
しかし誰もが思ったであろう言葉「動くな点P」
それを題材にした作品は自作ながら、「点Pは、動くもの全てであり世界の根幹だ」と主張しているように思えた。
これは、自分の中の狭い座標軸から点Pを解放し、宇宙全体の根源的原理へと押し上げた作品を哲学的に考察した物である。
「動くな点P」これはもはや中学数学の話ではない。
これは形而上学の核心に触れる宣言であった。
全てが点Pとなった
すべての「動くもの」は点Pである。
なぜなら、すべての変化は、ある変量(x)に対する別の変量(y)の関数的な対応として記述可能だからだ。
川の流れは、水粒子という点Pが時間(x)に対して位置(y)を変える一次関数(あるいは近似的に一次)である。
木の成長は、年輪を刻む点Pが高さ(y)を時間(x)に対して伸ばす直線である。
心臓の鼓動は、電気信号という点Pが膜電位(y)を時間(x)に対して上下させる。
星の運行は、重力という傾きaに従って軌道上の点Pが移動する。
世界は無数の点Pの集合にほかならない。
それぞれが独自のa(変化率)とb(初期条件)を持ちながら、しかし同じ法則「xが変わればyも変わる」に服従している。
静止の不可能性と世界の根幹
「動くな点P!」という叫びは、実は世界そのものへの反逆であった。
なぜなら、点Pが完全に静止すれば、それは関数ではなくなるように、世界が完全に静止すれば、それは世界ではなくなるからだ。
ヘラクレイトスは言った。「万物は流転する」。
世界の根源の考え方は違うが、これはまさに「すべての点Pは動かざるを得ない」という命題の古称にほかならない。
パルメニデスが「存在は不動である」と主張した瞬間、彼は点Pを関数から外し、ただの「点」へと貶めた。
だが我々は知っている。点が動かなくなった瞬間、それはもはや点Pではない。
ゆえに、運動する事こそが世界の根幹である。
そして運動する物の最小単位こそが点Pである。
点Pとしての我々自身
この理論で最も恐ろしいのは、人間そのものが点Pであるという事実だ。
私たちの人生は、時間(x)という不可逆的な変量に対する、経験・記憶・感情(y)の直線的な対応である。
傾きaは性格や環境によって決まり、切片bは生まれ持った条件によって定まる。
私たちは自分の意思で「自由」に行動していると思っている。
しかし実際には、直線上を正確に、容赦なく移動しているにすぎない。
それでもなお、私たちは叫ぶ。
「動くな点P!」
それは、自分自身の運命に対する最後の抵抗である。
だが点Pは静かに答える。
『動かなければ、俺はお前じゃなくなる。お前は、お前じゃなくなる。』
根幹としての点P
作品『動くな点P!』の隣の席の賢い奴の言葉は正しかった。
点Pは動くもの全てであり、世界の根幹である。
世界とは、無数の点Pがそれぞれの直線上を移動し続ける巨大な座標平面にほかならない。
その平面が揺らぐことはない。
傾きaが変わることはない(少なくとも一次の領域では)。
私たちはただ、その上を滑り続ける。
だからこそ、点Pを見つめよ。
一次関数の授業で出会った、あの小さな点に。
あそこに、すべての運動の秘密が、
すべての存在の悲劇と美しさが、
凝縮されているのだから。
本文は、たった一つの式 y = ax + b と、一つの迷言「動くな点P!」から考えられた。この文を読んだ後ならば現実以上の根拠は不要である。なぜなら、点Pはすでに今この瞬間も動いているからだ。
(これは一個人の存在論的拡張であって、正解というわけではない。人が存在する限り、同様の問いは生まれるであろう。それは、答えを出すためのものではなく考え続けるものなのではないだろうか。)
執筆の狙い
この作品は、前に書いた『動くな点P!』と言う作品を何故か深掘りしたものです。
哲学的な主張文みたいになりましたが、本当のことじゃないんでこれだけが正解ではないと言うことを頭に入れておいてほしいです。(最後の文は、半分このために書いた)
問題点は、たくさんあると思います。(そもそも、この文を出して良いか分からなかった)けど、最後までご拝読お願いします。
追記: https://sakka.org/training/?mode=view&novno=21651
↑作品『動くな点P!』のURLです。これを読んでいた方が分かりやすいと思います。
別に、作品を紹介しているわけではないです。