屋上と君
目の前には、青空が広がっていた。
雲一つない快晴で、どこまでも澄んでいた。
胸いっぱいに息を吸うと、今まで詰まっていたものが、すっと抜けていく気がした。
やっと心から呼吸ができた、そんな感覚。
空の青さは、情けなくて、弱い自分を責めることもせず、ただ救い出してくれるみたいだった。何も問われない。何も求められない。
ただ、ここにいていいと許されているような、やさしい広がり。恐怖はもうどこにもなかった。不安も、痛みも、迷いも、いつの間にか遠くへ消えて、残っているのは陽だまりみたいな暖かさだけだった。
――空になれると思った。
ただ青く、ただ広く、果てのない空に。弱いままの自分を、そのまま包み込んでくれる、大きな空に。
気づけば俺は、少しずつ空から遠ざかっていた。近づけると思っていたのに。どんどん離れていく。理由もわからないまま視界が滲んで、不思議と涙が溢れた。
「幸せになれますように」
声に出したのか、心の中で呟いたのかもわからない。ただ、その願いを空にそっと預けた。そのとき、風が通り抜けた。
ふわりと甘い匂いがする。桃のような、熟した果実の匂い。懐かしくて、胸の奥が少しだけ締めつけられる香り。
夏の空はどこまでも青くて、あまりにも静かだった。
∞ ∞ ∞
中学三年生の夏休み、俺――矢井田椿は、二年間の記憶をまるごと失っていた。
中一からの記憶が空白になっていて、握っていたはずの時間が全部こぼれ落ちていた。
クラスメイトの顔も、部活の記憶も、夢中になっていたものも、全部だ。母さんから聞いた話では、信号無視の車に跳ねられて頭を強く打ったらしい。
その瞬間の記憶なんて当然なくて、目を覚ましたときには白い天井と、ベッドのそばで泣きそうな顔の母さんがあった。
夏休みの間、俺の中にはずっと大きな穴が空いていた。風が吹き抜けるような、底の見えない穴。テレビを見ても、ゲームをしても、本を開いても、心がどこにも引っかからず、ただ時間だけが流れていった。
学校が始まれば何か変わるかもしれない――そんな淡い期待も、登校初日であっけなく崩れ落ちた。
クラスメイトたちは優しかった。
でも、その優しさはどこか慎重で、触れたら壊れてしまうものを扱うみたいな距離感があった。声をかけてくれるのに、一歩踏み込んではこない。
俺の周りだけ空気が薄くなっているみたいで、息を吸うたびに胸が苦しくなった。
授業は置いて行かれるばかりで、黒板の文字は半分も理解できない。周りの笑い声も、休み時間のざわめきも、ガラス越しの別世界の音みたいに遠く聞こえた。
一週間。よく耐えたと自分でも思う。でももう限界だった。
「先生、体調悪いので保健室、行ってきます」
そう言って教室を出た。
「矢井田?おい、」
担任の声が聞こえたけど、振り返らなかった。担任も無理に引き止めたりはしないだろう。記憶を失くしているのだから配慮はしてくれるはずだ。
体調が悪いのは嘘じゃなかった。胸の奥がずっと気持ち悪かった。足元はふわふわとどこか頼りなくて、廊下の蛍光灯がやけに白くて眩しかった。
保健室には向かわず、どこへ行くのかわからないまま足を動かしていたら、気づけば屋上へ続く階段の前に立っていた。薄暗い踊り場に、光が一筋差し込んでいる。
扉の前にはカラーコーンと「進入禁止」の紙きれ。
――まあ、入らない方がいいんだろうけど。……誰も来ない場所、ってことだよな、?
そう思ってドアノブを回すと、拍子抜けするほど簡単に開いた。開けた瞬間、光が溢れ出した。九月の空はまだ夏の名残を引きずったまま高く、眩しく、そのくせどこか乾いていた。
屋上の真ん中に、一人の女子が立っていた。
肩に触れるくらいの黒髪。長いスカート。黄色の上靴。一年生だ。
背筋を伸ばし、空を見上げる姿は日の光に溶けるみたいに輪郭が淡い。眩しさのせいか、風のせいか、どこかぼんやりして見えた。
その瞬間、胸を何かがかすめた。
理由はわからないけど、彼女の周りだけ空気が妙に静かだった。風は吹いているのに、音だけが置き去りにされたみたいで、世界が一段階ずれているようだった。
彼女はゆっくり振り向き、俺と目が合った瞬間、驚いたように瞳が揺れた。
「……つーくん?」
聞き覚えのない呼び名なのに、胸の奥がわずかに震えた。懐かしいような。触れたことがある気がするような。その感覚は、こぼれた記憶の破片みたいにすぐ指の間から抜けていった。
「…ごめん。俺、中一からの記憶が抜けてて。覚えてないんだ。君は、俺の友達だった子?」
そう聞くと、彼女はぱちりと瞬きをして、瞳を揺らした。まるで心の底を覗き込むみたいにじっと俺を見た。しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。
「……うん。そう、かな」
〝かな〟の曖昧さに、胸の奥に小さな波紋が広がった。
「覚えてなくて、ごめん」
謝ると、彼女は慌てたように手を振った。
「ううん。いいの。……私こそ、ごめんね」
なんでそこで謝るんだよ、と思う。気を遣っている、というより、自分が謝らなきゃいけない理由を知っているような声音だった。
風が横を抜け、フェンスがカタカタ鳴る。なのに彼女の周りだけ時が止まっているみたいに、静かだった。そのちいさな違和感に胸がちりっと痛む。
「君が謝ることじゃないでしょ」
そう言うと、彼女は首を横に振り、揺れた髪が一瞬だけ彼女の表情を隠した。
「あ、君…名前は?」
俺がそう聞くと、彼女はピタッと固まった。屋上の空気が一瞬止まったみたいに思えた。ほんの数秒の間があって、そのあと小さな声で、
「……美代」
と答えた。
美代。
記憶の中を必死に探ってみても、その名前はどこにもひっかからない。思い出せないのに、思い出さなきゃいけないような、変な感覚だった。
「…美代はなんでここにいんの?さぼり?」
そう聞くと、美代は目を泳がせながら小さく答えた。
「まぁ、うん。そんなとこかな」
そう言った美代の声は柔らかいのにどこか薄くて、風の音にすぐに溶けてしまいそうだった。俺は地面に腰を下ろした。コンクリートは日差しでじんわり温かい。
「…てかさ、さっきの〝つーくん〟って…俺のこと、そうやって呼んでたの?」
恐る恐る聞くと、美代ははっきりとうなずいた。
「うん。そうだよ」
確信があるその響きは、過去のどこにも触れない。
その矛盾が胸に小さなざらつきを残した。必死に記憶の中を探ってみても、やっぱり何も出てこない。
「つーくんは、どうして記憶喪失になったか、知ってるの?」
美代は俺から少し離れた場所に座りながら、そっと問いかけてきた。
「信号無視の車が突っ込んできて、頭を強く打ったから…らしい。まぁ、記憶にないけどな」
気づいたら病院の白い天井で目を覚ましていて、隣に母さんがいた。
それから俺は記憶を失ってること、その原因を聞かされた。美代は一瞬、目を見開いて、それから空をじっと見上げた。
「…お母さんと……お父さんは? 覚えてるの?」
震えた瞳で俺を見つめてくる。
「母さんは覚えてるよ。忘れたのは中一になってからの記憶だから。父さんはいないんだ。小さいころに亡くなって…それからずっと、母さんが一人で支えてくれてる」
そう言うと、美代は戸惑った表情を浮かべ、一瞬だけ苦しそうに目を閉じた。
「……兄弟は?」
美代の目は、何かにすがるみたいに揺れていた。
「兄弟はいない。一人っ子」
そう言った瞬間、美代は下唇を噛み、視線をそらした。もう俺を見ようとせず、ただ空を、何かを確かめるようにじっと眺めていた。
しばらく沈黙が続いた。美代は空をぼんやり見たまま、何も言わない。その横顔が、なんだか少し寂しそうに見えた。沈黙が続き、胸の奥がむずむずしてくる。気まずさをごまかすみたいに、俺は話題を変えた。
「…あ、そうだ俺記憶喪失になってから困ってることあってさ」
美代がちらりと視線を寄越す。
「好きだった食べ物とか嫌いだった食べ物とか覚えてなくて。この前家にあったメロンソーダのグミ食べたら不味くて死ぬかと思った…」
思い出すだけで口の中が甘ったるくなって顔をしかめると、美代は口元にうっすら笑みを浮かべた。
「つーくんメロン嫌いだもんね」
「いや、まじ最悪だった。あのグミ一生食わねぇ…」
顔を歪めていると、美代はくすっと笑った。さっきまでの重い空気が、少しだけ軽くなった気がした。
「美代は好きなお菓子とかある?」
そう尋ねると、美代は少し考えてから、
「…桃ゼリー」
「へぇ、桃か」
「つーくんは?」
「…俺?なんだろ。わかんねぇや」
自分で言って胸が少し痛くなった。〝わからない〟がまだ日常の真ん中に居座っている。美代はそっと目を伏せた。
そのとき、チャイムが鳴り響いた。
屋上の静けさが、一瞬で現実に引き戻される。
「あ、次の授業……」
俺は立ち上がり、制服のほこりを軽く払った。
「俺、戻るわ。保健室行ってくるって言っちゃったし」
屋上の出口に向かいかけて、ふと振り返る。
「美代は…教室戻らないの?」
そう言ったときの美代の表情は、迷っているような、決めているような、不思議な影が差していた。
「ううん。ここにいる」
美代は空をじっと見つめたまま、こちらを見ようともしなかった。その横顔は、さっきよりもずっと遠くに感じられた。どうしてここに残るのか、その理由を聞こうと思えば聞けたけど、美代の表情を見た瞬間 なぜか言葉が喉にひっかかった。
「そっか……」
それを言うのだけで精一杯だった。なんとなく、踏み込んじゃいけない気がした。理由を聞いたら、戻れない場所に触れてしまいそうで。美代の肩越しに、夏の終わりの空が広がっていた。白い雲がゆっくり流れ、光の粒が彼女の周りだけ淡く揺れていた。
「じゃあ……俺、行くわ」
俺は軽く手を振り、屋上の扉へ向かう。背中を向けた瞬間、ふいに、後ろから小さな声がした。
「…またね」
振り返ると、美代はぼんやりと空を見つめたままだった。
「…あぁ」
短く返事をして、屋上の扉を開ける瞬間、もう一度だけ振り返る。美代はまるで世界から切り離されているみたいだった。
「……大丈夫かな」
届かないだろうと思いながら、小さく呟く。そして俺は、教室へ戻るため階段を降りていった。心の奥に、言葉にならないひっかかりを残したまま。
∞ ∞ ∞
あの日から、授業が退屈に感じるたび、俺は屋上へ向かうようになった。黒板の文字を追っていても頭に入らない時や、チャイムまでの時間がやけに長く感じるとき。教室の空気が息苦しくなると、無意識に足が階段へ向いていた。
教室で机に突っ伏してぼんやりしているより、屋上にいれば何かが変わる気がした。
理由はわからない。ただ、あの場所だけは、俺の中の止まっていた時間が少し動くような気がした。
階段を上がるたび、窓から空がちらりと見える。夏の名残の強い日差しと、どこか涼しさを含んだ風。その境目みたいな季節が、今の自分に似ている気がした。
扉を開けると、いつも美代はいた。
フェンスにもたれて空を見上げていたり、コンクリートに座って膝を抱え、ただぼんやりしていたり。声をかけると、こちらを向いて小さく微笑む。
何かを待っているようにも、何も考えていないようにも見える。その曖昧な姿が不思議と心に引っかかった。
「今日は暑いね」とか、「昨日、家で…」みたいな、本当にどうでもいい話ばかりだった。特別な出来事なんて一つもない。それなのに、言葉を交わすたび、胸の奥が少しずつ温かくなる。
美代の話し方や、ふとした仕草。髪の毛を耳にかける癖や、笑うときに一瞬だけ目を細めるところ。
事故のあと、俺の毎日はどこか色を失っていた。思い出せない過去と、実感の薄い現在。退屈で、からっぽで、ただ時間が流れていくだけの日々。
でも屋上で美代と過ごす時間だけは違った。澄み切った空の下で交わす他愛ない会話が、少しずつ世界に色を足していった。
授業を度々抜け出す俺を、先生もクラスメイトも特に気に留めない。気づいていないだけなのか、興味がないだけなのか。けれど屋上で過ごす時間が、確実に俺を変えていた。
美代の隣は、妙に落ち着く。胸の奥はざわつかない。無理に思い出す必要も、何者かになる必要もない場所。
今まで感じたことのない、それでいて、ずっと昔から知っていたような――そんな〝居心地〟だった。
∞ ∞ ∞
ある日、早帰りでまだ明るい時間に家へ戻ると、玄関に見覚えのない男物の靴が置かれていた。
「……誰だ?」
胸の奥に、言葉にできない違和感が広がる。リビングの扉に手をかけ、軽い気持ちで開ける。
「ただいまー誰か来て──」
言いかけたところで声が止まった。リビングの椅子に、一人の男性が座っていた。
背筋を伸ばし、膝の上で手を組んでいる。年齢は母さんより少し上か、同じくらい。向かいには母さんが座っていて、俺に気づいた瞬間はっとしたように目を見開いた。
「椿…!早く帰ってくるなら言ってよ……」
母さんがそう言うと、男性がゆっくり立ち上がり、俺を見た。
一度だけ、目を見開く。それから、懐かしむような、慈しむような、不思議な視線になる。知らないはずなのに、なぜか胸がざわついた。
「ごめん。忘れてた。それで、その人……誰?」
そう聞くと、母さんは男性に目配せをしてから、揺れる瞳で俺を見つめた。
「……椿。大事な話があるから、荷物、置いてきてくれる?」
意味がわからないまま自室に戻り、鞄を床に置く。リビングに戻ると、母さんは男性の隣に座り直していた。俺は向かいの椅子に腰を下ろす。テーブルを挟んだ距離が、やけに遠く感じた。
「……椿。この人はあなたのおとうさん」
「……は?」
頭が追いつかなかった。
俺の父さんは亡くなったはずだ。小さい頃に死んだ、と母さんから何度も聞かされてきた。
「え、父さんって…亡くなったんじゃないの?」
母さんは視線を落とし、唇を噛んだ。目にみるみる涙が溜まっていく。
「……血の繋がったお父さんじゃないの。椿が中学一年の時に再婚した、仁さん。あなたのお義父さんよ」
義理の父さん……?その言葉が、頭の中で何度も跳ね返る。記憶を探っても、何もない。当然だ。俺の記憶は、中一からぽっかり抜け落ちている。
「ごめん、待って。どういうこと?なんで俺にそれ隠してたわけ?」
母さんはうつむき、ぽたっと涙を落とした。隣の男性──仁さんが、静かに口を開いた。
「……驚かせてすまない。俺が君の前に現れたら、思い出してしまうかもしれないと思ったんだ。本当は、何事もなかったかのように一緒にいる選択もあった。でも……俺をきっかけに思い出して、また……」
そこで言葉が切れた。〝また〟?どういうことだ。胸の奥が、嫌な音を立ててざわつく。思い出したらいけないこと。俺の中に、そんなものがあるのか。
「中一から今までの間に…思い出してほしくないことでもあるの?」
問いかけても、二人は黙り込むだけだった。
「ねぇ?なんで隠すの?俺、ずっとわかんないんだよ。中一から今までどうしてたのか、友達はいたのか、部活は何してたのか、全部。クラスにも馴染めないし、授業も意味わかんねぇ。何を隠してんだよ?」
長い沈黙のあと、母さんが涙を浮かべながら顔を上げた。
「思い出してほしくないの。思い出したら……また、椿が死んじゃうかもしれないから」
……死ぬ?…俺が?
ますます意味がわからない。俺は過去に何をして、何をされて、どうして死ぬなんて話になるんだ。
「ねぇ、教えてよ」
頼んでも、二人はまだ黙ったままだった。怒りが治まらず、口調が荒くなる。
「なぁ、なんで教えてくれねぇんだよ!」
母さんの目から、堰を切ったように涙が溢れた。仁さんは苦しそうに顔を歪め、それでも俺を真っ直ぐ見た。
「すまない。まだ、教えられない。…また来る。そのときに必ず話す。だから、待ってくれないか」
だけどそれは、ただの先延ばしにしか聞こえなかった。
「……意味わっかんねぇ」
それだけ吐き捨てて、俺は立ち上がった。リビングを出て、自室に戻る。ベッドに倒れ込み、天井を睨む。
心臓が、うるさい。考えても考えても、何もわからない。空白の記憶が、ただ憎い。自分がわからないことが、こんなにも苦しいなんて思わなかった。
夕方の光が、カーテンの隙間から差し込む。その光が滲むのを見ながら、いつの間にかまぶたが重くなり――俺は、そのまま夢の底へ沈んでいった。
∞ ∞ ∞
気づくと、俺はいつもの屋上に立っていた。コンクリートの感触は確かに足裏にあるのに、現実感が薄い。
夕方なのか、朝なのか、それとも時間というもの自体が存在しないのか。空は高い青とも、夕焼けの橙ともつかない、にじんだ色をしていた。光の向きさえ曖昧で、影がどこにも落ちていない。
夢だ、とすぐに理解した。けれど不思議と怖くはなかった。
その真ん中に、美代がいた。風は吹いていないはずなのに、彼女の髪だけがゆっくりと揺れていた。水の中みたいに、重力を忘れた動き方だった。
泣きそうな目で、じっと俺を見つめている。
「つーくんは……思い出したいの?」
声は、驚くほどか細かった。たったそれだけの問いなのに、心臓を直接掴まれたみたいだった。
〝また死ぬかもしれない〟という言葉。迷う理由なんて、なかった。
「当然だ」
答えた瞬間、美代の目が揺れた。喜んだような、傷ついたような、そのどちらとも言い切れない表情が胸にちくりと刺さる。俺の返事が、美代との距離を少しだけ遠ざけたような気がした。
「……そっか」
美代は小さく息を吐き、ゆっくりまぶたを閉じた。それは諦めにも、覚悟にも見えた。そして目を開けた時そこには決意したような、ひどく寂しい色が宿っていた
「もし……もし思い出したら、もうここには来ちゃだめだよ」
風もないのに、屋上の空気がざわりと揺れた気がした。フェンスが鳴った気がしたけれど、音はなかった。
「どういう──」
聞き返そうとした、そのとき。美代の頬を、一筋の涙が伝った。
その涙は地面に落ちる前に、光に溶けて消えた。美代は悲しそうに、それでもどこか優しく笑った。
「つーくんはきっと、自分を責めるから」
その意味を考える暇もなかった。問い返すことも、否定することもできなかった。視界の端から、白が滲み出す。まるで霧が押し寄せてくるみたいに、屋上も、美代も、空も、少しずつ輪郭を失っていく。
「美代──」
名前を呼ぼうとした声は、音にならなかった。世界がふっと白くかすみ、そのまま全てが溶けるように消えた。
∞ ∞ ∞
目を開けると、俺は自分の部屋の天井を見上げていた。見慣れたはずの白い天井が、少し遠く感じる。胸がバクバクと鳴り、心臓の音が耳の奥まで響いていた。
背中にはじっとりと汗が滲み、シーツが肌に張りつく感覚が妙に生々しい。
夢……いや、あれは夢だったのか?
屋上に立つ美代の姿が、はっきりと脳裏に浮かぶ。泣きそうに揺れた瞳。風のない空間で、美代の髪だけが静かに揺れていた光景。
『つーくんはきっと、自分を責めるから』
その言葉が、耳の奥に残って離れない。思い出そうとしなくても、勝手に再生されるみたいに、何度も何度も。
心臓をぎゅっと掴まれたような痛みに、俺は無意識にベッドのシーツを握りしめていた。指先に力が入っているのに、体はうまく動かない。
何もかもがぐちゃぐちゃに混ざった気持ちが頭の中をぐるぐる回る。思い出したくない過去がある。でも、思い出さなきゃわからないこともある。
夢の中の美代は、まるで全部知っているみたいだった。俺が忘れていることも、思い出した先に待っているものも。それでも美代は、俺が思い出すことを心配していたように見えた。
「……っ」
深く息を吸う。肺いっぱいに空気を入れるつもりだったのに、途中で詰まってしまう。胸の奥のざわつきは、まだ収まらない。
――そうだ。あの屋上に行けば、少しは気持ちが整理できるかもしれない。
理屈じゃない。ただ、あの場所だけが、今の俺を受け止めてくれる気がした。
俺はゆっくりとベッドから起き上がり、窓の外を見た。夕暮れが、街をオレンジ色に染めている。昼の熱を残した空気と、夜へ向かう気配が混ざり合う、曖昧な時間。
あの場所に、美代が待っている気がした。明日も、きっと。
∞ ∞ ∞
次の日の朝、俺は一限の授業を受けることなく屋上へ向かっていた。始業のチャイムが校舎に広がるのを聞きながら、廊下を歩く。窓から入る風は夏の名残をほんの少しだけ残しつつも、確実に涼しくなっていた。制服の襟元を抜けるその風が、頭の奥に残った熱をゆっくり冷ましていく。
足取りは重くもなく、軽くもない。どこか現実感の薄いまま、体だけが自然と屋上を目指していた。
教室に戻る理由も、授業を受ける理由も、今の俺にはどうでもよく思えた。屋上の扉を押し開けると金属が軋む音とともに、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
空は高く、薄い雲がゆっくりと流れていた。
フェンスのそばに、美代がいた。座り込んだ足元から、黄色い上靴が少しだけ覗いている。その後ろ姿は、昨日と何一つ変わっていない。
それなのに、胸の奥に張りついていた不安が、静かにほどけていくのを感じた。
「……おはよう」
声をかけると、美代は小さく肩を跳ねさせ、振り向いた。驚いたような表情のあと、すぐに泣きそうな目になる。でも、その瞳には昨日よりも柔らかい色が混じっていた。
俺は美代から少し離れた場所に腰を下ろす。
授業をさぼっている罪悪感は、不思議なほど湧かなかった。ここにいることが、今の俺にとって必要な時間だと、体が勝手に理解している気がした。
俺は深呼吸してから、美代に昨日のことを話し始めた。
「……昨日さ、家に帰ったらさ、知らない靴が玄関に置いてあって、リビングに行ったら…仁さんって人がいたんだ」
美代は目を大きく見開き、じっと俺を見つめている。
「…で、その人、俺の……義理の父さん、だって言われて。中学一年の時に再婚したんだって。血は繋がってないらしい」
言葉を紡ぐと、改めて自分の頭の中にある空白を思い知らされる。中学一年からの記憶がない俺には、ただの他人の話のようにしか聞こえなかった。
「お母さんは、俺に仁さんのことを隠してた。思い出してほしくない…って」
美代の目が、驚きで少し揺れた。そして、うるうると涙が浮かんでいるのが見えた。
「……そっか……」
小さな声で、美代は頷く。まるで、俺の話の重さに胸を押さえられているみたいだった。俺は言葉を続ける。
「仁さんも、俺が思い出すといけないことがあるかもしれないと思って、黙ってたらしい。……でも、なんでそんなこと隠すんだよって、俺は怒った」
怒り、と言い切るには曖昧な感情だった。本当は、怒りよりも戸惑いと、置いていかれた感じの方が近い気がした。話し終えると、屋上は静かになった。
風がフェンスを鳴らし、校庭から微かな音が届く。
美代はうつむいたまま、小さく唇を噛んでいる。何か言おうとしているみたいだけど、どうしても声が出せないらしい。肩を少し揺らして、目だけ俺の方を見た。その瞳には、驚きと悲しさと、ほんの少しの迷いが混ざっていた。
「…美代?」
俺がそっと声をかけると、彼女はハッとしたように一瞬顔を上げた。でも、やっぱり言葉を吐き出せず、肩を小さく震わせるだけだった。
――言いたいことがあるのに、こらえている。
俺はその様子を見て、何も言えなかった。ただ、屋上の風に吹かれながら、美代の胸の内の複雑な感情を感じるだけだった。
美代はしばらくうつむいていた。肩が小さく震え、手もぎゅっと握られているのが見える。そして、意を決したように小さく口を開いた。
「……私、大好きな人がいたの。ずっと一人だったけど、その人だけは私を見てくれた。優しくて、明るくて、友達思いで。助けてって言う前に気づいて、ただそばにいてくれた」
言い終わると、美代はまた黙り込んでしまった。言葉の重さに、屋上の風まで止まったかのように感じた。
「その人は、今……?」
思わず俺は聞いてしまった。胸の奥が締め付けられるような気がした。美代は、泣きそうな顔をして、空をじっと見つめたまま答える。
「もう、いなくなっちゃった……私のせいで……」
その一言で、美代が抱えてきた小さな影が垣間見えた。俺は何も言えなかった。どんな言葉も、彼女の痛みを軽くしてしまいそうで。俺はただ、隣に座ってその空気を受け止めるしかなかった。
肩が触れ合いそうな距離で、互いの存在を感じる。美代はまだ空を見つめたまま、少し肩を震わせている。でも、俺がそばにいることに気づいたのか、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
しばらくして、俺は空気を変えるように口を開いた。
「……なあ、美代」
少し声を明るくして話しかける。美代はゆっくりと顔を俺の方に向け、まだ少し涙が残った瞳で見上げてくる。
「最近さ、学校に来る途中で見つけたんだけど、校庭の隅に小さな花が咲いてるんだ。知ってる?黄色くて小さい花」
一瞬、美代はきょとんとした顔をした。話の流れが読めなかったんだと思う。でもすぐに、小さく頷いて「うん……知ってる」と、控えめに答えた。
「昨日のこととか、難しい話は置いといてさ。ああいう花、なんか元気出るよな」
そう言って、俺は口の端を上げた。
作った笑顔なのは、自分でもわかる。でも笑うと、不思議と胸の奥の硬さが少しだけほどけた。美代も、ほんのわずかに口元を緩めた。
涙はまだ残っているのに、その瞳の奥に、さっきまでなかった柔らかさが戻っているように見えた。
――やっぱり、いつもの会話って大事なんだな。
言葉の内容よりも、空気そのものが少し変わるだけで、こんなにも息がしやすくなる。
俺は間を置いてから、さらに軽い話題を投げた。
「そういえば昨日の昼休みさ、校庭でカラスがやたらと騒いでてさ。何かと思って外見たら、誰かの弁当袋を狙ってたんだよ」
美代は思わず吹き出しそうになって、肩を震わせた。
「カラスって…そんなに大胆なの?」
「すげぇ大胆。袋に足かけて、必死で持ち上げようとしてた。見てて笑いそうになった」
思い出したら、つい俺も吹き出してしまう。美代は笑いをこらえながらも、つい口元を押さえて顔を上げた。
「あはは……つーくんのお弁当狙われなくてよかったね」
「これから外でお弁当食べないようにしないとな」
そう言うと、俺は大げさに肩をすくめてみせた。美代は声を立てて笑った。涙も少し乾いたのか、目が潤んだまま輝いている。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。俺も、自然と笑っていた。
――屋上で、こうやって笑える時間があるだけで、なんだか救われる気がする。
重たく絡みついていた気持ちが、風に少しずつ解されていった気がした。
∞ ∞ ∞
その日は結局、一限の始まりから夕方になるまで俺は一度も教室に戻らなかった。お昼も食べずに屋上に座り込んだまま、美代と話し続けていた。
昨日のこと、思い出せない記憶のこと、カラスの話や小さな花のこと――
取りとめのない話をしては笑い、ふとしたきっかけで真剣な沈黙が訪れて、また言葉を交わす。風が頬を撫で、太陽はゆっくりと空の高さを変えていった。
影が少しずつ伸びていくのを見ながら、時間が流れていることだけは、かろうじてわかった。教室のことも、授業のことも、もうどうでもよかった。
ただ屋上にいるだけで、胸の奥に溜まっていた重さが、少しずつほどけていく。美代は笑ったり、泣きそうな顔になったり、ときどき黙り込んだりしながらも、ずっと俺の隣にいた。
俺が言葉に詰まったときは、無理に何かを言おうとせず、ただ待ってくれた。
同じ空を見て、同じ風を感じて、静かに時間を共有する。それだけで、十分だった。
――こんな一日が、ずっと続けばいいのに、と思った。
ふと、そんなことを思う。
記憶のことも、過去のことも、まだ何ひとつ解決していない。だけど、美代とこうして話しているだけで、今はそれでいい気がした。
∞ ∞ ∞
太陽がだいぶ傾き、屋上に柔らかい夕暮れの光が差し込んできた。昼間の熱を残したコンクリートは、少しずつ冷え始めていて、風が吹くたびに季節が確実に進んでいることを感じさせる。
俺はゆっくり立ち上がり、凝り固まった体を伸ばすように背伸びをした。一日中ここにいたせいか、足が少しだけ重い。
「……俺、そろそろ帰るわ」
できるだけ普段通りに言ったつもりだった。でも、その声は思っていたよりも低く、夕暮れに吸い込まれるように響いた。
美代は小さくうなずいた。顔にははっきりとした寂しさが浮かんでいて、夕陽を受けた瞳がわずかに潤んでいるのがわかった。
「……うん。私もう少しここにいるね」
それだけの言葉なのに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。もっと何か言うべきだったのかもしれない。でも、今はこの時間を終わらせるしかなかった。
「じゃ、またな」
軽く手を振って、俺は屋上の扉へ向かって歩き出す。
美代の目がぱっと大きく開き、何かを言おうとして口を開きかける。言葉を探すように、息だけが漏れる。そして、苦しそうに、寂しそうに小さく口を開いた。
「さようなら……」
その声はまるで、もう二度と会えないかのように響いた。俺は思わず立ち止まった。何か言おうとしても、言葉が出てこない。
代わりに見えたのは、夕暮れの中で小さく震える、美代の背中だけだった。
――こんなに、さようならが重く感じるなんて思わなかった。
屋上の風は、昼間と変わらず吹いている。それなのに、心の中だけがひどく静まり返っていた。風に乗って、どこか甘い熟れた果実のような匂いがした気がした。
∞ ∞ ∞
土曜日の朝、目を覚ました瞬間から、胸の奥がざわついていた。昨日の屋上での美代の「さようなら」がまだ頭に残っていて、胸の奥が重い。でも、今日はもう一つどうしても向き合わなければならないことがある。
玄関のチャイムが鳴った。
――間違いない、あの人だ。
俺は息を整えながら、ドアを開ける。そこには、先日リビングで見た仁さんの姿があった。
「こんにちは、椿君。今日は全部、話すために来た」
穏やかな声で、でも真剣な表情で仁さんは言った。俺は少し固まった。
今まで隠されていた中学一年生からの記憶、義父のこと、そして――あの事故のこと。深呼吸をして、俺は小さくうなずいた。
「…わかった。聞く」
リビングに入ると、すでに母さんがいた。先日と同じ椅子に座り、両手を膝の上で固く組んでいる。視線は落ちたまま、俺の方を見ようとしなかった。
仁さんが母さんの隣に座り、二人に向かいあうように俺も椅子に座る。空気が、やけに重い。仁さんは深く息を吸い、ゆっくりと話し始めた。
「順番に話していくよ。まず……椿君が中学一年生のとき、俺と朝子さんは再婚した」
指先がわずかに震えた。
「そして、俺には連れ子がいた。椿君より二つ下の女の子だ。名前は……美代」
その名前が出た瞬間、胸がどくんと跳ねた。俺の知っている〝美代〟と、話に出てきた〝美代〟がひとつに重なっていくのを感じる。
「再婚したとき、美代は小学校五年生だった。大人しくて、曲がったことが嫌いで、真っ直ぐな子だった」
仁さんの声が、わずかに震える。俺は、息がうまくできなくなっていることに気づいた。
――じゃあ、屋上にいた美代は……
「美代がなぜいないのか不思議に思うだろう。…時期に話す」
そう前置きして、仁さんは続けた。
「椿君と美代は、本当の兄妹みたいに仲良くなった。いつも一緒で、美代は椿君になついていた。実際椿君のことを〝つーくん〟と呼んでいたからね」
――〝つーくん〟
ここ最近で何度も耳にした呼び名。胸の奥が熱くなる。涙が勝手に込み上げそうになる。
「しかし……ある事件が起きた」
仁さんは目を伏せた。
「中学校に入学した美代のクラスで、いじめがあった。稲本という大人しい生徒が、辻岡という女子に目をつけられてね。最初は無視から始まったらしい。やがて暴力や物隠し……酷かった」
仁さんの声は沈んでいく。
「そこで、美代が止めに入った。曲がったことが嫌いな子だったからね」
そこまでは、胸が誇らしくなる話だった。けれど、次の言葉で全身が冷えた。
「辻岡はそれが気に食わなかった。ターゲットは稲本から……美代に変わった」
心臓がぎゅっと締め付けられる。
「五月下旬から夏休みまで、美代へのいじめは続いた。暴力、物隠し、閉じ込め……陰湿なものばかりだった。でも、美代は俺たちに何も言わなかった。迷惑をかけたくなかったんだろう」
迷惑なんかじゃない……なぜ言ってくれなかったんだ……胸の奥で叫びが渦巻く。
「そこで気づいたのが君だ。椿君が、美代の異変に気づいて声をかけてくれた」
俺が……?本当に……?
「でも、その頃には美代は限界だったんだと思う」
仁さんは、悲しみを噛みしめるように言った。
「夏休み、美代は椿君を誘って学校に向かった。そして屋上に行き……二人で飛び降りた」
呼吸が止まり、心臓の音が急に遠くなる。
「美代は……亡くなった」
温度が、感じられない。手も、足も、感覚がない。
「椿君は…奇跡的に記憶喪失だけで済んだ。命は助かった」
仁さんの声が震えていた。視界が歪む。
「信号無視の車にはねられたのは、?」
そう言うと、母さんが顔を歪めながら答えた。
「ごめんなさい。それは…嘘なの」
すべてが嘘で丸め込まれていたのか。美代、その存在がどんどん崩れていくのを感じた。昨日まで隣にいたはずの美代の顔が、ばらばらに砕けていく。
――美代が。
――亡くなった……?
屋上で笑ってたのに、泣きそうな顔をしてたのに、つい昨日まで隣にいたのに……?
頭の中が混乱でいっぱいになり、何を考えていいのか分からなかった。昨日の屋上の景色、笑った美代の顔が鮮明に思い出される。
あの笑顔は……もう見られないのか。涙が止めどなく溢れてくる。胸が痛くて、息が詰まりそうだ。俺はただ、テーブルに手をつき、顔を伏せたまま震えた。
言葉が出ない。泣き声も出ない。ただ、美代がそこにいないという現実だけが重くのしかかる。そのとき、母の手が、そっと俺の背中に触れた。
「……ごめんね、椿」
母さんの声はかすれていた。
「隠してて、ごめん……本当のことを話したら美代ちゃんの後を追うかもしれないと思ったの…」
それ以上、母は何も言わなかった。でも、その声も遠く、俺の心には届かない。頭の中でぐるぐる回るのは、美代と過ごした屋上の時間と、昨日の笑顔。
そして
――最後の、あの「さようなら」の声。
――俺はどうすればいいんだ?
しばらくして、やっと震える手で顔を上げた。涙で視界が滲む。屋上で美代と過ごした時間のこと、全部が胸を締め付ける。
美代との時間だけは、絶対に忘れたくない。その思いだけが、かすかな光のように胸の奥で揺れた。まだ涙の跡が頬に残る椿の前で、仁さんは静かに胸に手を当てた。深く息をつき、視線を落とす。
「……椿君、すべてを話すならこれも渡すべきだね…」
そう言いながら、ゆっくりとポケットに手を入れる。次の瞬間、白い封筒を取り出した。
「……美代が残した、遺書だ」
椿の胸の奥で、何かが冷たく引き裂かれる。
遺書——その言葉の重さが、息を詰まらせた。封筒は軽いはずなのに、手に取るとずっしりとした存在感があった。その封には、丸文字で小さく書かれている。
『つーくんへ』
涙で視界がにじむ。胸の奥に昨日屋上で見た美代の笑顔と、泣きそうに「さようなら」と言った顔がよみがえる。
「読むかどうかは、椿君が決めていい。でも、この中に美代の最後の気持ちが全部ある」
俺は震える手で封筒を持ち、息を整える。恐ろしいほど重いその存在感に、胸の奥が押し潰されそうだった。
――読まなきゃ。
指先を震わせながら、ゆっくり封を開ける。
∞ ∞ ∞
『つーくんへ
まず、ごめんなさい。私の事情に巻き込んで。
だけど、私が頼れるのはつーくんしかいなかった。
中学に入ってから、楽しいことよりも辛いことのほうが多かった。いっぱい耐えて、いっぱい泣いた。
でも、もう限界。ずっと、怖くて、痛くて、苦しかった。
私、もう強くいられない。もう全部嫌になっちゃった。一人じゃ、どうにもできなかった。弱い私を許してほしい。つーくんを巻き込む形になって、本当にごめんなさい。
つーくんは、いつも私の味方でいてくれた。誰にも言えなかったことに最初に気づいてくれたのも、ただ一緒にいてくれたのも、つーくんだった。
毎日、学校に行くのが怖くて、教室のドアを開けるだけで、心臓が痛くなって。でも、誰にも言えなかった。
迷惑をかけたくなかったし、お父さんにも、お母さんにも、つーくんにも、悲しい顔をさせたくなかった。弱いって思われるのが、怖かった。
つーくんと話しているときだけ、「大丈夫な自分」でいられた。
笑ってる私を見て、つーくんが安心するのが分かって、それが、嬉しかった。
もし、つーくんが生きていたら、お願い。覚えていて。
私はつーくんと過ごした時間が、大好きだった。つーくんが笑ってくれた瞬間が、私
の宝物だった。
つーくんはきっと、自分のせいだと思ったり、気づけなかったことを悔やむかもしれない。
でも、どうか自分を責めないで。私が弱くて、一人が怖かっただけだから。
つーくんは何も悪くない。全部、私のせいなの。
つーくん、今までありがとう。ごめんなさい。大好きだよ。
美代』
∞ ∞ ∞
俺は、遺書を読み終えたあとしばらく動けなかった。手の震えが止まらない。胸の奥が痛くて、重くて、張り裂けそうで、でもどうしていいのか分からなかった。
「……なんで…なんで」
言葉が何度も詰まる。涙が止めどなく溢れて、頬を伝い、机にぽたぽた落ちた。頭の中では、昨日の屋上の光、美代の笑顔、泣きそうな声、全部が絡まり渦を巻いていた。どれが現実で、どれが記憶なのか分からなくなる。
母さんがそっと俺の肩に手を置く。
「椿……美代ちゃんはね、あなたを信頼してたのよ。安心できる人だって。きっと」
その言葉で少しだけ呼吸が楽になる。でも同時に、胸の奥にあった感情がさらに溢れ出す。 机に落ちる水滴が、一粒一粒、胸の痛みを刻むみたいだ。
「……どうして、どうしてだよ…」
嗚咽が声になり、手が遺書を握る力で痛くなる。頭の中で美代の文字が、声が、目が、ずっと重なって離れない。
――『つーくん、大好きだよ』
思い出すたびに、笑顔も泣き顔も、全部が胸に刺さる。温かくて痛い。存在しないのに、そこにいるみたいで、触れられないのが苦しい。
母がそっと「椿……大丈夫よ」と言う声も、仁さんの「混乱して当然だ」の言葉も、ぼやけた音にしか聞こえない。心の中で、どうしようもない感情が爆発して、頭の整理が追い付いていなかった。
「……俺……なんで…守れなかったんだ……」
声が震える。遺書に書かれていた言葉の重さが、胸を押しつぶす。仁さんが静かに口を開いた。
「椿君、あの日のことは、君のせいじゃない。美代も、君を責めたりなんかしていない」
「でも……でも……」
頭の中で「守れなかった」という思いが何度も何度もリピートされる。視界がぼやけて、母さんの声も仁さんの声も、遠くの音みたいに全く届かない。
母さんが静かに頭を撫でてくれる。
「泣いていいのよ。どれだけ泣いても、私たちはいなくならないから」
俺はその言葉に少しずつ落ち着きを取り戻した。涙で視界が滲むけれど、遺書を抱いた手は離さない。胸の奥で、まだ小さな光が揺れている――美代と過ごした時間の思い出。
それだけが、今の自分を支えてくれる。
「……美代……ごめん…忘れない…絶対、忘れない……」
小さな声でつぶやく。嗚咽が胸の奥から溢れ出る。仁さんが静かに言う。
「ゆっくりでいい。椿君のペースで、思い出して、整理していけばいいんだ」
俺はうなずき、深呼吸をする。胸の中の痛みは消えないけれど、母さんや仁さんの存在が少しだけ心を支えてくれる。
整理ができないままでもいい。今は、ただ泣いて、抱きしめて、思い出す。それで少しずつでも前に進めるはずだと思えた。
遺書を握りしめた手の温もりと、美代の笑顔の記憶を胸に、俺はまだ震えながらも、ゆっくりと立ち上がった。
∞ ∞ ∞
月曜の朝、俺は重い足取りで学校へ向かっていた。
胸の奥にまだ土日の記憶がどんよりと沈んでいる。仁さんの話、美代の遺書、そして屋上美代との時間……頭の中を整理する暇もなく、思考はぐちゃぐちゃだった。
授業に集中できる気配はまったくなく、気がつけば自然と屋上へ向かっていた。
屋上の扉を開けるが、美代の姿はなかった。風がフェンスを揺らし、夏の名残の匂いだけが漂う。
俺はゆっくりと屋上の端に歩み寄り、フェンスに手をかけた。指先に伝わる冷たい鉄の感触が、胸の奥の痛みに少しも響かないくらい鈍く感じられる。
遠くまで広がる空と、校庭の景色。頭の中で美代の笑い声を呼び出そうとするが、うまく思い出せない。記憶はぼんやりとしている。
その瞬間、あの日の映像が一気に飛び込んできた。
――あの夏の日。屋上。
美代と手を取り合った瞬間。
そして落ちる寸前の、凍りついた時間。
その瞬間を皮切りに、過去の記憶の洪水が押し寄せる。
中学1年生からの記憶。初めて部活に入った日のこと。友達と笑った教室の風景。美代と過ごした何気ない時間。母さんと仁さんが再婚した日のこと。
美代が初めて俺に心を開いて笑った瞬間。クラスでの小さな出来事。誰がどこで何を言ったかも、細かく、鮮明に蘇る。
そして、あの日――美代が泣きながらすべてを明かし、俺と一緒に屋上に立った瞬間。
――『つーくん、私もう疲れちゃった』
――『…一緒に、ここから飛び降りてほしい』
――『ごめんなさい。一人じゃ、怖いの』
その全ての光景が、胸を締め付けるように映し出される。
手がフェンスに食い込み、膝がガクガクと震えた。涙が止まらない。
「美代……」
声にならない声を、ただ空に向けて叫ぶ。でも、涙の奥で、あの笑顔もあの声も、確かに生きていることを感じた。痛みと悲しみの中で、ほんのわずかに温かさが差し込む。
――俺は忘れていたわけじゃない。
美代との時間も、仁さんや母さんとの時間も、全部、俺の一部なんだ。胸に深く息を吸い込む。痛みの奥にある温かさを感じて、少しずつ立ち上がる。
――もう、逃げない。
美代のためにも、俺のためにも。
フェンス越しに見上げる空は、まだ夏の名残が混じる澄んだ青。そこに差し込む光が、胸の奥にじんわりと温かいものを落としていく。涙で濡れた頬を拭いながら、俺は深呼吸した。
ふと、柔らかい風に混じって甘い桃のような匂いが鼻をくすぐる。あの日の屋上、美代が笑いながら風に髪を揺らしていた瞬間の匂い――その記憶が、まるで背中に手を添えるように、俺を押してくれた気がした。
――「つーくんなら大丈夫」
聞こえたわけじゃない。胸の奥で、あの声がそっと響いた。痛みはまだ残っているし、胸は締め付けられる。でも、もう逃げずに歩くしかない。
俺は、ゆっくりと一歩を踏み出した。風に頬を撫でられながら、前へ進む。痛みも悲しみも抱えたまま、それでも進むしかない――美代と過ごした日々を胸に、確かに生きていることを感じながら。
執筆の狙い
アドバイスを元に、少しでも前回より成長できたのかなぁ、なんて思います。
どこまで伏線を引いていいのかわからず、迷子になりながら書きました。伏線を引くのは難しいですね。回収し忘れないように気を付けないと…
まだまだ未熟者ですが、読んでくださると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。