絶望のメメント・モリ
暑い……夏がやってきたな。汚れたチェニックを脱ぎたいが、それは許されてはいない。ジョバンニは額の汗を拭い、天空で燃え盛っている太陽を振り仰いだ後、斜め掛けしたずだ袋から水筒を取り出し、僅かな残りを飲み干した。眼前には見渡す限り麦畑が広がっており、人の姿は見えない。一面を覆う麦畑が途切れたその向こうには青々とした木々が林立している。林に行けば山ブドウがあるかもしれない。ジョバンニは軽く息を切らしながら歩を進めた。
やがてブナやオークが密接して立っている林に到達し、ひとまず木陰に腰を下ろす。右ポケットに入れてあるロザリオを取り出し、ここまでの旅の無事を聖母マリアに感謝した。先日まで滞在していたオブーリの村の惨状を思い出すと、体中が震えるのが分かる。途轍もなく恐ろしい病がイタリアを襲っている。一週間の滞在のうちに十六人が黒殲病に倒れ、ジョバンニはその全ての葬儀に司祭として参列した。死者は老人、壮年の男女、若い男女、子供たち、つまり全ての人々が分け隔てなく流行り病に倒れていた。
「みな、体に黒い斑点が出来る……だから同じ病気なのは間違いない」
ジョバンニは独り言を呟き、コマドリの高い鳴き声に耳を澄ます。しばし瞳を閉じて休息を取った後、おもむろに立ち上がり、何か食べられる物はないか、と重層に立ち並ぶ木々の中へ入っていった。
太陽がようやく荒ぶるのをやめて地平線に沈もうとする頃、ジョバンニは目的の村、パニカーラに辿り着いた。家々の影は長く、彼をそっと包み込む。ある程度予想は出来ていたが、村は活気がなく、藁ぶき屋根の上の鴉の鳴き声さえも元気がない。夕暮れ時なのに、窓から漏れてくる夕食の匂いも殆どない。それなりに大きな村であるのに、人々の話声さえも聞こえない。ジョバンニは、まずは教会を見つけようと、村内を歩き回る。村を二つに分ける中央の土を踏みならした歩道を進むと、やがて二階建ての、屋根の最上部に十字架を掲げた教会を発見した。教会の前には立て看板があり、「聖ノキシア教会」と書いてある。薄暗い中で見ているからか、その存在がぼやけているように感じる。確かめるために木製の開き扉にそっと触れる。よかった、実在していた、と安堵していると、後ろから声をかけられた。
「こんばんは。何をしておられます」
振り返ると、司祭であろう服装をした老人が無表情で立っていた。その顔はしわがれ、声は小さく、しかし、瞳は優しかった。ジョバンニは礼儀正しく、自分がフランチェスコ会所属の修道士である事、南西部の村々を訪問し布教活動をしている事を伝えた。司祭は微笑みながら、
「私はアントニオと申します、この村の主任司祭を担っております。長旅でお疲れでしょう、どうぞお入りなさい」と門扉を開けてくれた。教会内は質素だが清潔だ、というのがジョバンニの第一印象であった。一階の礼拝堂はそれなりに広く、五十人程度は入れそうだった。
「まだいたのだね、アルド、いらっしゃい。お客様を紹介するよ」とアントニオは礼拝堂の奥に声をかけた。すると、はい、と割合高い声の男性が返事をして雑巾片手にやってきた。背の低い、髪の毛の少ない中年男性だったが、こちらがはっとするほど美しい青い瞳をしている。ジョバンニはアルドと挨拶を交わしながら、その魅力ある目をずっと見続けていた。
「もう一人世話役のトリッシュという女性がいるのですがね、もう今日は帰ったようです」
と言いながら、アントニオは二階へ上がる階段へ案内してくれる。やや埃臭いが、これだけ古い建物ならやむを得ないだろう、とジョバンニが納得していると、主任司祭は奥の部屋の扉を開けた。そこには、寝具とタンス。椅子などの家具があり、ここは来客用の部屋です、どうぞここに荷物を置いてください、夕食にしましょう、と誘ってもらう。ジョバンニは有難く夕食の恩恵に預かることにした。
夏だからか、少し醒ましてあるシチューと平パンを出してもらえた。大きな食卓に座ったジョバンニは司祭への感謝の言葉と、神への感謝を祈った後、スプーンを手に取った。開け放した窓の外から、野良犬の咆哮が聞こえてくる。言葉少なに食事を終えた後、ジョバンニはどうしても聞かねばならぬ、と決意して、重い口を開いた。
「アントニオ司祭、この村の事なのですが……」
賢明な司祭はたったこれだけの質問で全てを理解した。そして、擦れた声で話しはじめる。
「はい。私は先ほどまで、十八歳の女の子の葬儀を執り行っておりました。本日だけで二人です」
ううっ、とジョバンニは仰け反りながら顔をしかめた。やはり、この村にも黒殲病の魔の手は襲い掛かってきているのだ。彼は唇をふるわせながら、この忌まわしい病の名を口にした。
「ここに来る前に訪れたオブーリの村では、一週間の滞在のうちに十六人が黒殲病で亡くなりました」
アントニオは深くうなずいた。机上のオイルランプの灯りが微かに揺れ、彼のしわがれた顔に陰影をもたらす。ジョバンニのこめかみを汗が濡らす。彼は続けた。
「治療法も未だ見つかっていないようですので、このままでは……」
アントニオは唾を飲んだ。二人が思い描いたのは似たような未来の姿だろう。人という人が黒殲病に倒れ、村にはひとっこ一人残っていないという悪夢のような未来。アントニオは人差し指で忙しなくテーブルを叩く。
「ともかく、清潔にすることです。この病が何からもたらされているかは分かりませんが、病原菌は清潔に弱い。ジョバンニさん、今日はもう無理ですが、明日は入浴しましょう」
ジョバンニは、はい、有難いです、ありがとうございます、と返事して、汚れてしまった修道服も洗います、というと、アントニオは微笑して、うちにある司祭服をお貸しします、似合うと思いますよ、と言った。窓から入ってきた風は生暖かく、如何にも不吉な感じがしたので、アントニオ主任司祭は窓を閉めてしまったのだった。
翌日の朝早くジョバンニは目を覚ました。鶏が朝を告げるために鳴いているのが聞こえる。二日ぶりに簡素とは言えベッドで眠ることが出来たので、体は元気になっていた。修道服を着こみ、礼拝堂へ降りると、すでにアントニオ司祭が祭壇へ向かって膝をついて祈りを捧げていた。小声で聞こえてくるのは、ヨハネの福音書 17であろうか。
……わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります……
ジョバンニは彼の後ろにしばし佇んでいた。祈りを邪魔することはとても出来なかったからだ。祭壇の蝋燭すらも揺れるほどの気迫に満ちた、真心からの彼の祈りの姿は、ジョバンニに再び敬虔なるものを思い出されるのに十分であった。彼はオブーリの村で、揺らいだ自分を思い出していた。何の罪もない善良な人々が、無慈悲に謎の流行り病で次々と死んでゆく。全身の皮膚が黒ずみ、首と太ももの付け根が破裂した、苦難に満ちた顔で死んでいる四歳の少年の亡骸を見た時、主に問いかけたくて仕方なかった。どうして、こんな苦しみを許しておられるのですか、なぜこの子はわずか四歳で死ななければならないのですか、と。信徒にとって、信仰に身を捧げた者にとって、神を試すことも、疑う事も絶対に許されないことなのはジョバンニも分かっている。だけれども……時に自分の考えを否定し、答えてくれない主への問いかけを虚空に響かせながら、彼はこの村まで歩いてきたのだった。
今見つめているアントニオ司祭は、同じような懐疑を抱えてはいないのだろうか。抱えているからこそ、ここまで真摯に祈祷しているのではないだろうか、多分そうなのだろう。彼は咳をすることも許されない、と荘厳な思いでアントニオの細い背中を見つめていた。
──どれぐらい時間が経ったか分からない。静寂と神聖は快活な女性の声で破られた。
「おはようございます。あら、アントニオ様、今朝は早くからお祈りなさっていますのね」
ジョバンニが振り向くと、そこには栗色の髪の若々しい女性が立っている。アントニオは祈りの言葉を止め、ゆっくりと振り向いた。
「おはようトリッシュ。そうだね、悲しいことが続いているからね。……ジョバンニさん、おはようございます。よく眠れましたか」
アントニオはジョバンニにも顔を向けながら声をかける。
「おはようございますアントニオ司祭。はい、おかげ様でとてもよく眠れました」
トリッシュは興味深げにジョバンニを見つめた後、アントニオに彼は何者なのかを聞く。アントニオがジョバンニの素性を説明すると、
「他の村から来たのですね。その服、脱いでくれます? 洗濯をしますので」
と緊迫した顔で言う。そして早足で近づいてくるので、ジョバンニは服を脱がされるのか、と警戒した。アントニオ司祭はゆっくりと立ち上がり、
「トリッシュや、そう慌てなくてもいいよ。朝ご飯を作ってくれたら、晩の入浴のための薪を集めておいてくれるかい」
「はい、アントニオ様。では、失礼します」
いうが早いかあっという間にどこかへ消えてゆく。なんとも元気な女性だ、とジョバンニは自然と笑顔になった。
「彼女が生まれてすぐ両親が亡くなってしまってね、引き取り先がいないので、教会で育てたんですよ。今は一人で暮らしているが、村の皆とも仲良く、幸せに過ごしてくれてます」
「そうなのですね。よろしければ、私も村長さんにも一言ご挨拶させてほしいです」
「ええ、ええ。朝食をとってから行きましょう」
と、二人が話していると、美しい瞳のアルドがゆっくりと礼拝堂へ入ってきた。
ジョバンニも朝の礼拝を終え、アントニオとアルドと共に奥の食堂へと向かう。今朝は開け放たれた大きな窓からは朝の涼しい風が吹き込んでいる。そこの大きな食卓には、トリッシュと共に一人の中年の女性が既に座っていた。
「彼女はベアトリーチェと言います。盲目なので、いつも私たちと共に食事をしているのです」
と、アントニオが教えてくれた。ジョバンニは挨拶をした。彼女はしっかりした声で挨拶を返してくれた。その様子や清潔な印象の服装から、日頃大切にされているのだろう、と彼は感じた。全員のマグカップには水で薄めたワインが注がれ、それぞれの大皿の上に焼き立てのパンとほぐした卵焼きが乗っている。ベアトリーチェを甲斐甲斐しく介助しながら、誰よりも早く平らげたのはトリッシュであった。そして、司祭の指示を受け、一着の修道服を持ってきた。
「ジョバンニさん、食事の後にこれに着替えてください。脱いだ服はトリッシュに川で洗ってきてもらいます」
「分かりました。トリッシュさん、申し訳ありません、お願いします」
はいはい、と気軽に返事しながら彼女は持ってきた服をジョバンニの座っている椅子の背中にかけた。
食事を終えた後、貸与された修道服に着替えたジョバンニはアントニオと共に村長の家を訪ねようと教会を出た。太陽が高く登りはじめていて、肌を刺す暑さを感じる。村の中心の大通りに出た時、二人の男性が走ってくるのが見えた。アントニオを見つけると、縋りつくように報告してくる。
「司祭様、うちの、うちの嫁が……黒殲病にかかっちまいました!」横にいるのは息子だろうか、似た顔をしているが、揃って悲愴としか言いようのない表情をしている。アントニオ司祭は深くうなずいた後、家に案内してください、と言った。ジョバンニも後に従うが、何も出来ない事は知っていた……祈りのほかには。
ピエトロ親子の住む、簡素な平屋の奥の一室に、妻のルチアはいた。ベッドの上で苦悶の表情で荒い息をついている。首元が膨れ上がり、顔も手も黒ずみ始めている。典型的な黒殲病の症状で、発症から十日足らずに死に追いやられてしまう。恐ろしい程に殺傷力の高い疾病なのだ。アントニオの姿を見るなり、ルチアはしさい、さま、と喘ぎながら手を伸ばした。ジョバンニが、接触はまずいです、と言う暇もなく、アントニオはその手を握り返した。そして、苦しいかい、とやさしく問いかけた。はい、くるしいです、と必死に返事するルチア。司祭の後ろでピエトロ親子がいたたまれない表情で立ち尽くしている。アントニオは十字を切った後、瞳を閉じて、聖母マリアに対する取りなしの言葉を呟きはじめた。
──いとも慈しみ深い神よ、病に苦しむルチアのために、聖母マリアの取り次ぎによって祈ります。病の試練の中にあるこの人に、あなたの慰めと励ましをお与えください。苦痛が和らげられ、一日も早く健康を回復できるよう、お守りください。アーメン──。
すると、ルチアは楽になったのか、穏やかな表情になって、瞳を閉じた。しかし、病状が好転しているわけではないだろう、とジョバンニは冷徹に見ていた。祈祷なら、私も何度も誠心誠意やってきた。だけれども……。
「アントニオ司祭様、ありがとうございます」
ピエトロが真っ赤な瞳でお礼を言う。息子のほうも今にも泣きだしそうだ。そして、真実の意味で無力な神の使徒二人は家を後にした。
訪れた村長宅で会ったヴィスコンティは恰幅の良い、額の広い鷹揚そうな男性であった。しかし、目の下の隈が酷く、表情も果てしなく暗かった。居間に案内され、鳥が彫刻されている椅子にそれぞれ座った。ジョバンニがフランチェスコ会から来た、と聞くと、勢いよく尋ねてきた。
「フランチェスコ会では黒殲病に対して何か分かっていることはないのですか」
教会の広い情報網を期待しての質問なのだろう。しかし、ジョバンニは、残念な現実しか伝えられなかった。現状においては、なにも掴めていないのです、フランチェスコ会も、ローマ教皇庁すらも、としか。それを聞くとヴィスコンティは下を向いてしまった。が、やがて顔をあげて、額に汗を浮かばせてジョバンニにこういった。
「パニカーラ村の人口は五〇〇人ほどですが、今日までで八十七人亡くなりました、黒殲病によって」
「先ほど、ピエトロさんの家に行ったのですが、妻のルチアさんも黒殲病に罹ってしまいました」
と、アントニオが無念そうに伝える。ヴィスコンティは薄くなった頭をかきむしって、
「駄目だ、このままでは村人が全滅する。病気がなんなのかも分からない、原因も掴めないのだから、対応のしようがない」
歯軋りをして悔しがる彼を見て、アントニオもジョバンニも何も言えなかった。すると、ヴィスコンティは厳しい目つきになって、
「何故神様は、主なるイエス・キリストは私たちをお救いになってくださらないのですか?」
と二人に問いかける。ジョバンニは、無理もない、と思った。オブーリの村で、妻を失った夫に胸倉を掴まれた。
「どうして神様は助けてくれないんだ! こんなに祈ったのに!!」
彼は何も答えられなかった。そう、何も。そして、今も。ジョバンニは自分の背骨が曲がっていくような気がした。まっすぐ立っていられない。膝から力が抜けて、後頭部の髪の毛を引っ張られて、後ろに倒れてしまいそうな気がした。重い沈黙の後、アントニオが絞り出すように、主は私たちを見捨てたもうことはありません、とだけ言った。ヴィスコンティは全く納得いかない、という憮然とした表情で、もうお帰りください、とだけ言った。
陽の光に照らされた屋根の上に立つ十字架が輝いている。聖ノキシア教会へ帰りついた後、アントニオは礼拝堂の長椅子に腰掛け、ジョバンニを隣に座らせた。礼拝堂には誰もおらず、静けさが支配している。
「ジョバンニさんはグノシア派の事はご存じですか?」
「はい、知っています。二世紀ごろに存在していた一派ですよね、しかし、教義が異端であるとして退けられた……」
「その通りです。グノシア派は、イエス・キリストの十字架上の死を、「生贄」と定義したのですね。主なる父への生贄としてイエスは死んだ、と。それによって人々は永遠に救われた、という考えなのですが、更に悪いことに、イエス自身を「罪を犯した人間である、なぜなら人間はすべて罪を犯す存在なのだから。ゆえに生贄に選ばれた」と定義しているのです。これはイエスの死を「贖罪、あがない」と考え、神の子イエスの無謬を肯定する我々正統派とは全く違うのですね。それゆえに異端とされ、現代では消滅したはずなのですが……」
ここでアントニオは口を噤んだ。が、やがて言いにくそうに告げる。
「この村にグノシア派の末裔が残っている可能性があるのです。弾圧を恐れてひた隠しにしていますが」
ジョバンニは驚いた。一四世紀の今まで残っている? この村に?
「一体それは誰なのです?」と問うと、彼は悩ましげに額に皺をよせていたが、やがてきっぱりと言った。
「先ほど会ったヴィスコンティ村長とその周辺の親戚です。グノシア派はその特徴として、神への請願のための生贄を肯定するのです。農作物が不作の時がこれまでに何度かありましたが、ゴーダの丘で何やら怪しい儀式をしていたようなのです。問い詰めても何も答えなかったのですがね」と説明を終えた後、長い溜息をついた。私達カトリックにとって、異端の宗派は必ず排除せねばならない存在だ、とジョバンニは知っていたので、こう聞いた。
「ローマ教皇庁に報告はされましたか?」と聞くと、アントニオはかぶりを振る。
「それをすると、強硬手段に出るのは間違いないですから。それに、確証は何も持っていないのです。誤解であった場合大変な事になりますから」
ジョバンニは納得した。ローマ教皇庁の容赦ない異端弾圧の事はよく知っている。中には冤罪もあったはずだ。
「わかりました。……私も森へ薪を集めに行ってきていいですか?」
アントニオはようやく少しだけ笑顔になって、お願いします、と言った。
その日の夜、ジョバンニは久しぶりにお風呂に入ることが出来た。教会に大きな浴槽があって、ひたすら沸かしたお湯を桶に入れて注ぐ、というだけの代物であったが、体中の垢が取れたようで大変気持ちよかった。トリッシュが洗ってきてくれた修道服は庭に干され、真夏の熱気の中でさっぱりと乾いていたので、部屋に持ち帰った。足のガタつく椅子に腰かけながら、開けた窓から外の様子を眺める。夜空には輝く星々が煌めき、その美しさに見とれていると、今この世界に邪悪な病が蔓延している事すら忘れてしまいそうになる。明日目が覚めれば何もかも終わっていればいいのに……ジョバンニはそんな詮無い事を思いながら、ベッドに横たわった。
翌日の朝、ジョバンニは六時頃目を覚まし、洗濯した修道服に着替え、借りた服を返すため手に持ったまま一階の礼拝堂に降りた。今朝はアントニオ司祭はいない。お疲れなのかもしれない、と彼は長椅子に修道服を置き、ロザリオを手に持って、祭壇の前に跪く。見上げた先には十字架に打ち付けられ、なお強い意志を秘めた瞳で正面を見据えているイエス・キリストがいる。マタイの福音書8にはこうある。
イエスがペテロの家に行くと、ペテロの姑が、高熱でうなされていた。ところが、イエスがその手に触ると、たちまち熱がひき、彼女は起き出して、みんなの食事のしたくを始めた。
ジョバンニは今日まで何度このような奇跡を自分が起こせたら、と夢想しただろうか。目の前で高熱にうなされ血を流して死んでいく人をたったの一人でも治せたら、どれだけ感謝されただろう。その時、ジョバンニはこういう。
「これは私のわざではありません。全て、イエス・キリストの大いなる愛のなしたことです」人々は深く感動し、改めてカトリックの門を叩く──。
私などに出来るわけがない。ああ! もう一度救世主たるイエスがこの世界に再臨してくれたなら! それは一体いつなんだ! いま、いま再臨してほしい! このままでは、人々は死に絶えてしまうのではないですか! それは、主よ、キリストよ、あなたの望みではありますまい。
もはやジョバンニにはキリストの再降臨を願うしかなかった。その奇跡の力しか、人々を残酷に殺し尽くそうとしている黒殲病を駆逐するものは考えられなかった。ジョバンニは体を震わせてひたすら十字架に祈っていた──。
その祈りは今朝も元気なトリッシュの挨拶で終わりになった。
「おはようございます! あれっ、アントニオ様は?」
「おはようございます。ええ、まだ起きて来られていませんね」とジョバンニが返事すると、彼女は首を傾げた。
「おかしいですね、アントニオ様は日曜日以外は、絶対に朝早く起きて礼拝をしているのです。ま、まさか……」
トリッシュの顔が青ざめる。ジョバンニも急に胸騒ぎを覚えて、急いで立ち上がり、二人は二階のアントニオの寝室に急いで向かった。
「アントニオ様、開けてもよろしいですか」
トリッシュが軽くノックをしながら呼びかける。が、返事がない。二人は顔を見合わせた。そして、ジョバンニがドアを開けた。アントニオはベッドに横たわっている。
「……そんな!!」トリッシュが口を押えた。アントニオの顔に幾つもの黒い斑点が浮かび上がっている。首元のリンパはレモンのように膨らんでいる。ジョバンニは咄嗟に思い出した、昨日アントニオがルチアの手を握っていたことを。まず直接の接触は避けよ、とは共通認識になっていたことだった。
「アントニオ司祭、聞こえますか」
と小声でジョバンニが呼びかけると、微かに唇が動いた。が、何を言っているかは聞き取れない。トリッシュが放たれた矢のように飛び出していった。何か持ってくるつもりなのだろう。なんということだ、アントニオ主任司祭までもが……。しかし、考えてみればもう七十歳近い高齢者の方なのだ、真っ先にこういう疾病を食らってもおかしくはない。飛び込んできたトリッシュが濡れたタオルを司祭の額に置く。そして、
「アントニオ様、お水を持ってきました。飲めますか?」
と聞くと、体を起こそうとするが、なかなか上手くいかない。ジョバンニは、ためらわずアントニオの背中に手を差し込んで、ゆっくりと体を起こした。それを見たトリッシュは、一瞬何かを言おうとしたが、やめて、ベッドの反対側に回って、後頭部に手を添えて、ゆっくりとグラスを口元に持っていった。彼は少しこぼしながらも、全て飲み干した。そして、一言、「ありがとう。もう、これ以上私には触れないでくれ」としっかりと発声し、体を寝かせた。そして、トリッシュに、話しておいたように、あの手紙をローマ法王庁に送ってくれ、と頼んだ。トリッシュはまなじりを決したように、分かりました、でも私は最後までアントニオ様の看病をします、と言い切った。だめだ、あぶない、と言っても聞かない。アントニオは困り果てたように黙ってしまった。ジョバンニはひとまず安静にしてもらいましょう、とトリッシュと共に部屋を出て、この村からも手紙を出せるのですね、と確認した。
「はい、週に一度配達員の方が回収に来てくれるのですよ。次は明後日です。」との返事だ。ジョバンニは自分も久しぶりに出すべきか、と迷ったが、書く内容が日に日に変わりそうなので、ひとまず保留にした。礼拝堂には、床掃除をしているアルドがいた。しかし、どこか落ち着きのない様子だ。ひょっとして、会話が聞こえたのかもしれない。二人を見るなり、
「いったいアントニオ様はどうなさったんですか」と勢い込んで尋ねてきた。トリッシュがありのままに答えると、アルドは崩れ落ちて泣き出してしまった。あらゆる言葉は気休めにしかならないのを知っているジョバンニは、何も言えず、彼に触れることももはや憚られるので、ただそこにずっと一緒にいた。トリッシュは朝食の準備に去った。ふとアルドが立ち上がる。そして、祭壇に正対して跪く。そして大きな声で
「全知全能の主よ、わが父よ、どうか私めの命を差し上げますので、アントニオ様の命をお救いください」と祈った。ジョバンニは体が震えるほど感激した。アルドさん、そこまで……。同じ祈りをすることは出来ないが、ジョバンニも隣に跪き、神よどうか純粋なる魂の願いを聞き入れて、アントニオ司祭の病を治したまえ、と悲願した。ふと気づけば、トリッシュもアルドの横に跪き祈りを捧げている。私たち三人の祈っている内容は少しずつ違うのだろう。だけれども、求める結果は同じなのだろう。開いている天窓から射す光が三人の姿を仄かに照らしていた。
陽が落ちる夕方頃になって、狭い村だからか、アントニオ司祭が黒殲病に罹ってしまったと聞きつけ、十人ぐらいの村人が手に手にお見舞い品を持って訪れてきた。ジョバンニとアルドで教会の入り口で応対したが、一人の村人の女性がこう言ってきた。
「もしも、もしもの事になったら、司祭様がいなくなるんだねぇ。そうなったらあんた、この村の司祭になっておくれよ」
ジョバンニは私は布教のために来ている小僧に過ぎませんので、と返事しておいたが、きっとアントニオ司祭が送ってくれと希っている手紙の内容はこれにまつわることだろうな、と思った。横にいたアルドに尋ねる。
「アントニオ司祭は何年ぐらいこの村で司祭を務めているのですか?」アルドは目をしばたかせた後、
「そうですねぇ、四十年近くは……わしもはっきり覚えていないですけど、わしが産まれた頃にはもういた気がしますです」
「そんなに長く……ありがとうございます」
改めてやや古くなっている聖ノキシア教会の外壁を伝う蔦を見上げる。歴史の重みを肌で感じた気がした。しかし、それもまた……。ジョバンニは首を振って、教会の重い扉を閉じた。
二日後の真昼頃、太陽が天空で猛威を振るっているさなか、アントニオ主任司祭は亡くなった。つきっきりで看護していたトリッシュも、見守っていたアルドも声をあげて泣いた。まだ知り合って間もなくとも、一人の偉大な先達が世を去ったことも含めて、ジョバンニの目からも涙が溢れた。突然強い風が吹いてきて、室内を通り過ぎて行った。ジョバンニは彼がここから去ったことを実感したと同時に、どこからか悪意を持ってもたげてくるものの存在を予感し、思わず強くポケットの中のロザリオを握りしめた。
翌日、聖ノキシア教会でアントニオ・フェスター主任司祭の葬儀が執り行われた。ジョバンニが執行を務めた。村長のヴィスコンティを始めとして、多数の村民が参列に来た。妻ももうすぐ後を追うであろうピエトロ親子も来ていた。アントニオ司祭は質素だが格式ある棺桶の中で静かに眠っていた。トリッシュの計らいで顔は白く美しい化粧を施されていた。死に顔は見るも無残なほど黒くなっていたからだった。花束が置かれ、ジョバンニが司祭代理として追悼の言葉を述べた。それが終わった後、ふとヴィスコンティと目が合った。その目つきは明らかに敵意を感じるものだったが、気にしないことにした。その後村民たちが台車に棺桶を乗せて、丘の上の墓地まで運んだ。トリッシュはいつまでも泣いていたし、村人の多くも涙を流していた。愛されていたのだな、とジョバンニは少し羨ましくもなった。自分は未だ見習い修道士であって、どこかの土地に継続して勤めたことはなかった。土葬が終わり、再度追悼の言葉を述べて、葬儀は終わりとなった。その後、ヴィスコンティがこちらにやってきた。
「それで、ジョバンニさんはいつこの村を立つのです?」
「そうですね……。ローマ教皇庁に手紙を送り、このパニカーラに新しい司祭が赴任してくるまでになると思います」
と説明すると、ふん、と顎を上げて、まぁお好きになさい、とぞんざいに返事をして去ってゆく。周りの取り巻きに説明をしたのか、数人の男性が鋭い目線を送ってきた。気づけばトリッシュとアルドが側にいる。ジョバンニは、本能的に、この村にはもう味方はこの二人しかいない、と実感した。
翌朝、ジョバンニはトリッシュに一通の手紙を渡した。トリッシュは受け取り、アントニオの遺言通り、秘めていた一通の手紙を本棚の裏側から取り出して、計二通を村役場に持っていった。いつもいる女性に郵便を依頼すると、彼女は首を振る。しばらく手紙を送ることは出来ない、と言われる。
「どうしてなんですか?」と聞くと、
「昨日モーラの村から蜂蜜を運んできた連中からの伝言で、配達員が黒殲病でまとめて四人死んじまったから当分郵便は無理なんだってさ」
そうですか……、とトリッシュは肩を落として教会へと戻った。重い扉を開くと、礼拝堂でアルドが床掃除をしていた。アントニオ司祭がいなくなっても、彼の行動は何も変わらなかった。ジョバンニさんは? とトリッシュが聞くと、変わらない美しく青い瞳で、ジョルジョさんの旦那さんが黒殲病で亡くなったので死体を引き取りに行ったです、と答えた。そう……と返事をして、私は何をしようか、と思っているところに台車を引いたジョバンニが帰ってきた。四人で運んできた台車の上には、布団にくるまれた遺体があった。トリッシュはいつまでもかぎ慣れない死体の匂いに少しだけ顔をそむけた。
礼拝堂の祭壇の正面に遺体を安置した木製の棺桶を置いて、運んできた三人は頭を下げて帰ってゆく。そこでトリッシュから手紙が送れないという事情を聞いたジョバンニは、眉をひそめた。そもそも、最後に手紙を送ったのは一ヶ月以上前なので、ローマ教皇庁は現在ジョバンニがどこにいるのかすら知らない。……もう今夜ここを発つべきか。村内の空気が明らかに変わりつつあるのを感じているし、それは自身の身の安全に関わってくる気がする。異端のグノシア派……。だが、自分はそれでいいとして、トリッシュとアルドはどうなるだろうか。どちらにせよ、いつかは新しく任命された司祭が来るのは来るだろうが……。黒殲病の脅威はどうせどこも一緒だ。二人を連れて逃げ出すのが最善ではないか? そうだ、そうしよう。と、その時ジョバンニの横をトリッシュがすり抜けてゆく。
「どこへ行くのです?」と尋ねると
「もうすぐお昼なのでベアトリーチェさんを迎えに行きます」との返事。分かりました、と返しながら、ベアトリーチェさんはどうする……一応母親と二人暮らしではあるから、少しの間トリッシュがいなくても死ぬことはない、黒殲病にさえならなければ。もう、そうと決めたら善は急げ、だ。ローマ教皇庁にさえ連絡が付けば、「異端」は実力で排除してくれるだろう。その後は新しい司祭がこの村をまとめてくれればいい。
四人そろっての昼食は寂しいものだった。主役不在だからだ。本当は美味しいはずのトリッシュの作ってくれる鶏肉入りのパスタなのだが、何の味もしなかった。その後、先にアルドに声をかけ、食卓に残ってもらい、ベアトリーチェを送って帰ってきたトリッシュを食卓に連れてきた後、ジョバンニは全てを話した。その長い説明を聞き終わり、アルドは左右を見たり、咳をしたり、なかなか言い出しにくそうであったが、遂に口を開いた。
「昨晩、隣の家のパオロさんが奥さんと話しているのが空いてる窓越しに聞こえたんです。悪いと思ってもつい聞き耳立てちまったんです。ヴィスコンティ村長がとうとうあの儀式をやる、と。邪魔者は去ったし心配はないよ、とか言ってたんです」
「あの儀式……。一体何をするつもりなんだ」
「私調べてきます。大丈夫、村長にはばれないように上手くやります」
しかし、ジョバンニはそれを止めた。
「いや、それは危険です。もう、今はまず自分たちの身の安全を第一に考えましょう。彼らグノシア派にとって、カトリック正統派の私たちは「敵」なんです」
ここまで言った途端、三人の耳に女の子が泣き叫ぶ声が聞こえた。一体!? と思った三人は、教会の出口へと走った。遥かに去っていく数人の男が、無理やり八歳ぐらいの少女を引っ張っていた。
「あれは、パパもママも黒殲病で死んじゃったローザちゃん!」と叫ぶトリッシュ。
「まさか……生贄とは……」
ジョバンニは想像よりも遥かにおぞましいことが行われることを予期して背筋が凍った。まさか、生きた人間を生贄にするのか! しかし、教義的に考えればイエスですら生贄だと主張する連中だ、子供を生贄に捧げるぐらい当たり前なのかもしれない。ジョバンニは拳を握りしめた。そして、二人に言った。
「この村から北西へ10kmほど歩けばオブーリの村に着きます。どうか二人は逃げてください」
「ジョバンニさんはどうするんですか!?」
「あの子を助けます。説得します」
「そんな……無理じゃねいですか」アルドが悲壮な顔で言う。トリッシュがきっぱりと言った。
「そんな、私たちだけ逃げるなんて出来るわけないじゃないですか。戦いますよ、一緒に」
「戦うことは出来ないんです、私は聖職者ですから」
「な、なら、とにかくわしらも一緒に行くですよ。わしらにはイエス様がついてくれています」
ジョバンニは二人の顔を見た。二人とも長く教会で生きてきた人間だ。信仰のために、神のために死ぬことが出来る人間だ、私と同じように。そして、少女を見捨てて逃げることも当然できはしないのだ。
「行きましょう」
三人は同時に一歩踏み出した。
パニカーラの村の中央の大きな道路周辺の様子がおかしい。人の気配がほとんどしない。居並ぶ商店も閉まっている。皆どこにいるのだ? とジョバンニは訝しんだが、今はそれを探ることは出来ない。真夏の太陽は容赦なく照らしつけてくるので、人の正常な精神を失わせかねない。おまけに毎日死と隣り合わせなのだ。
ヴィスコンティ村長の家の前には数人の男がいた、なぜか武器を持って。そのうちの一人がいきなりジョバンニに槍を向けてきた。
「何の用だ司祭代理さんよ」
「ヴィスコンティ村長に話があるから来ました」
「何の話?」
「先ほどさらっていた少女の話です」
話すことはない! といきなり槍で思い切り殴られた。側頭部を打たれ、ジョバンニは崩れ落ちる。
「何するんだ!」とトリッシュが飛びかかろうとするが、加勢してきた男たちにたちまち押さえつけられた。アルドが助けようと走ってきたが、体格の良い男に前蹴りを食らい、更に何発も顔面を殴られて失神してしまった。
「騒がしいな? どうした?」と悠然とヴィスコンティが出てくる。見たこともない黒い法衣のような服を身に纏っている。
「おや、似非宗教の司祭さんじゃないか。まだこの村にいたのか」
「ヴィスコンティさん、あなたは少女をどうするつもりですか」
「知りたいか。ならば教えてやる。今この後行うサクリファイスの儀式の尊い生贄になってもらうのだ」
「生贄? 誰のために?」 ヴィスコンティはため息をついた。その眼には明らかに蔑視が籠っている。
「何の役にも立たん邪教の徒どもが。お前らの祈りでたったの一人の命でも救えたのか。方法がおかしいのだ。だから主に一向に届かない。この黒殲病もお前らのようなまがいものがでかい顔をしているからだろうよ、天罰だ」
「私たちがまがいものですって。少女を殺して生贄にしよとしているあなた達こそまがいものだ。そんな暴虐な事はやめるんだ!」
「やめるわけがなかろう。村人全員を救うためだ。止めたいならば、それこそ、ほれ、お前の信じる神にお前のやり方でお願いすればいいではないか。こういう風に」
と、ヴィスコンティは右手で十字を切って見せた。それから唾を吐いた。「邪教が」ジョバンニは彼の目に宿る狂気を観て、話し合いは無駄だと悟った。教信者の瞳は血走って赤く燃えている。このままだと間違いなく少女を殺すだろう。そんな事はさせない。
「あなたの言い分はよく分かった。だからお願いがある。生贄はこの私にしてください。その代わり、少女とここにいるトリッシュとアルドの命は救ってください」
これを聞くと、ヴィスコンティは大きく口を開けて笑った。村中に響き渡るほどの笑い声だった。周りにいる男たちすらも少し引いてしまうほど笑い続けた後、こういった。
「よかろうとも。本当は処女の血が理想なのだが、童貞でも変わらん。聖職者なのだから童貞なのだろう?」
「そうです」
「よし! 生贄はこの男に決まった。おい、少女は返してやれ。それから、その女とのびている男は縛って二階に閉じ込めておけ。そして、お前は……ジョバンニだったな。後ろ手に縛れ。そして、ゴーダの丘に向かうぞ」
離せちくしょう、とトリッシュは抵抗したが、遂に後ろ手に縛られてしまい、アルドと二人屋敷内に連れて行かれてしまう。ジョバンニのところにも二人の男が来た。二人とも目が血走っている。もう、振り切れているのだな、とジョバンニはむしろ哀れに思った。そして、生贄こそが、自分たちを黒殲病から救ってくれるのだと信じているのだろう。でなくば、少女を殺して生贄に、なんて考えに同意できるものか。後ろ手に縛られた後、彼は静かに歩を進め始めた。
ヴィスコンティ宅の二階の一室に無造作にトリッシュとアルドは放り込まれた。まだアルドは失神していたが、トリッシュは全然元気だった。何が何でもこの縄をほどいてやる。ジョバンニを助けるんだ。彼女は必死に手首を動かし続けた。
天気が俄かに怪しくなってくる。どこからか灰色を帯びた大きな雲がやってきて、パニカーラの村の周囲を覆う。一粒の水がジョバンニの頬を濡らした。村を出た後は、小麦畑の間を進み、やがて小高く緑が茂るゴーダの丘に着いた。そこにはほとんどパニカーラの村人全員が集まっていた。縛られてこめかみから血を流すジョバンニを見た村人たちは、口々に驚嘆や否定や罵りの声をあげた。ピエトロ親子は最初戸惑っていたが、集団熱狂のように興奮する周りの人たちに飲まれ、気づけば一緒になって嘘つき司祭、などと叫んでいた。集まった村人を見下ろす場所に陣取ったヴィスコンティは横に縛られたジョバンニを従え、高らかに宣言する。
「お集まりいただいた皆さん。これよりサクリファイスの儀式を執り行います。生贄は童貞の似非信徒であります。こいつらカトリックに皆さんがどれだけ期待して祈りを捧げてきましたか。その結果、助かった命がたったの一人でもいるのですか!」
村人たちが大声をあげて、そうだいない、一人もいない、と叫んだ。その声が地鳴りのように地平まで轟く。空は完全に灰の雲に覆われ、雨が少しずつ酷くなってくる。
「カトリックこそがキリスト教の異端、偽物なのです。私たちが信仰しているグノシア派こそが正統なるキリスト教なのです! それをたった今からここで証明します。もしも、カトリックが正統ならば、この哀れな修道士を奇跡の力でも使って救う事でしょう。それが起こるかどうか、その目でごらんなさい」
演説が終わると同時に、数人の男が太い丸太を持ってきた。一ヵ所に細工があり足場になっている。ジョバンニはこれに縛り付けたうえで、槍で刺し殺す気か、と理解した。しかし、彼には後悔や恐怖心というものは全くなかった。ただ、少女とトリッシュとアルドの命を救えたことに満足していた。願わくば、もっと多くの命を救いたい、と思っていたが、それはもう果たせそうもない。彼はされるがままに、修道服を脱がされ、肌着だけ身に着け、丸太棒に縛り付けられていた。
ほどけた! トリッシュは苦戦したが、なんとか手首を縛りつけていた縄を解き放った。アルドはというと、まだ昏睡している。殺されはしない、ここにいさえすれば。私はいくぞ。彼女はそっと部屋の扉を開け、耳を澄ました。屋敷内は静まり返っている。全員出払って誰もいないのかな? トリッシュは一階に降りてみた。案の定誰もいない。 今行くよ、ジョバンニ! トリッシュは玄関の扉を蹴飛ばして開け、全力疾走でゴーダの丘に向かった。
雨はますます激しくなってくる。ジョバンニを縛り付けた丸太は地面に掘られた穴に埋められた。ジョバンニは遠くの聴衆にも見える程度の高さにいる。ヴィスコンティは嬉しそうに言う。
「ほら、どうした敬虔なるカトリックの信徒よ。早くお前の信じる偽イエスに助けてもらわないか」そう言いながら小石を投げつける。すると、取り囲む群衆が一人、またひとりと同じように小石や泥を投げつける。一つが鼻に当たり、鮮血が噴き出した。大喜びする村人たち。ジョバンニが一体彼らに何をしたというのか。いや、そうではない。ジョバンニが何もしなかったことに怒っているのだ。皆さん、すみません。私は奇跡を起こせない。顔を血で汚し、体中泥まみれになったジョバンニの口から出たのは、こんな言葉だった。
「神よ、主よ、どうか無力な私を、そして彼らをお許しください。彼らは黒殲病への恐怖と絶望でおかしくなってしまっているだけなのです。彼らを病という受難に遭わせずに、正しい道へ再び導き、お救いください。アーメン」
この静かな言葉にヴィスコンティは激怒した。自ら槍を持ち、思い切りジョバンニの胸を貫いた。ようやくゴーダの丘まで走りついたトリッシュの目に、胸から深紅の血を噴き出すジョバンニが見えた。
「ジョバンニィィイ!」
トリッシュが絶叫した次の瞬間、天から大轟音が響き渡り、ゴーダの丘のすぐそばに凄まじい稲妻が何本も降った。そのあまりの激しさに人々は怯え、ある者は頭を抱えて座り込み、ある者は怯えてその場から逃げ出し、親子は抱き合った。ヴィスコンティはまだ一人興奮していたが、突然目の前が暗くなり、呼吸が乱れ、動悸が激しくなり、首に痛みを感じたので思わず触ると、膨れ上がっている。立っていられないのでしゃがみ込むと、部下の男が驚愕の表情で彼を見ている。ヴィスコンティ自身には分からなかったが、彼の顔に黒い斑点が次々浮かび上がっていたのだ。
「馬鹿な! 生贄を捧げたばかりなのに!」部下のグノシア派の男が悲鳴のように叫んだ言葉が、村人たちにたちまち広がり、
「話が違うじゃないか!」とある男が叫び、
「やはりグノシア派のほうが異端なんじゃないの!?」とある女性が怒鳴り、彼らの間に激しい動揺が産まれた。
雨はますます強くなり、雷もまだ鳴り続いている。どうしていいか分からず右往左往している村人たちを押しのけたトリッシュがジョバンニのところに辿り着き、見上げた時目に入った顔は──とても安らかで、むしろ微笑んでいるようにさえ見えたのだった。(完)
執筆の狙い
キリスト教と信仰、というテーマを調べている時に思いついたアイデアを小説にしてみました。
救済と信仰、正統と異端を主題としています。読んでどんなことを感じたか、物語としてどう思ったか、
など感想をいただければ嬉しいです。よろしくお願いします。