作家でごはん!鍛練場
元谷殻

廻る自然と悠久の熊

大きな風が私の脇を通りすぎていった。陽が大地を温かく照らしている。私は随分と長い間、この森に住んだものだ。およそ100年だろうか。どういうわけか私だけが生き残った。身体も若いときのまま。山菜やイチゴ、アリ、ハチを食べていた仲間たちは、この森でひっそりと生をまっとうした。ある者はイチゴを好んで食べたし、ある者は子供らと一緒に川へ魚を取りに行った。それはわたしが生まれるずっと前から、この森で絶えず行われてきたことだった。しかしいつからだろうか。私たちの生活は崩れ始めた。それは大きな音を立てながら。
縄張り争いに負けたある雄が、餌を求めて山の下へと降りていった。あんまり行き過ぎると人間に出会うからやめとけ。かれらは見かけによらず強いのだから刺激しないほうがいい、と仲間が彼に教えた。だが、明日のことしか頭になかったかれは、破滅の坂道を下った。誰もが帰ってこないだろうと思ったが、かれは前足を赤く染めたまま、腹を膨らませて帰ってきた。そのときの顔はたいそうにこやかで、口元からは私がこれまで見たことのない色と臭いが付着していた。不純物が混じったような厭な臭い。
人間の食べ物を盗ることも案外悪くない。人里に降りたことをあんまり自慢げに話すもんだから、彼の噂は森中に広まった。縄張り争いに勝った者たちはまともに耳を傾けなかったが、毎年現れる負け組にとって、かれの話は救済にもなりえた。
わたしたちの森は負けた者たちがいるからこそ原初でいられる。だからこそ私は毎年生まれる負け組たちの飢え死にした屍を見ると、前足を使って丁寧に埋葬した。しかし、そうした作業はここ数年でめっきり減った。そのかわり、同胞たちと顔を合わせることが多くなり、同時にそれは同胞たちの争いが増えるということでもあった。黒い茂みのような毛に覆われた腕や足、爪、眼玉。それらが大地にいたるところに散らばり、他の動物たちの血肉となることもしばしば。
ともかく、縄張り争いに負け、奇跡的に一命をとりとめた者がする行動はただ一つ。山を下っていくことだった。下った先にも同胞はいる。そしてまた争いが起こる。そうして負けに負けた個体は結局、人里に降りるしかなかった。人に遭遇した個体の運命は決まっていた。死。それも子供を授からずに死ぬことがほとんどだった。だが、どんな形であれ、私らの数が増えすぎないのであれば森の秩序は守られるし、おそらく私らがもっとも守らなければならないのは同胞の命よりも森の命なのだ。もし仮に私らがそれを壊してしまうと数千年かけてこの森を守ってきた先祖、しかもそれは私ら以外の動物の先祖に対する侮辱に当たる。だからこそ私は、負け組たちが人里に降りて殺されようと一切咎めることはなかったし、そうした個体にすれ違っても、乾いた瞳で見つめるだけであった。
いつからか、人間が森に入って来るようになった。彼らは細長い木の幹のような黒いモノ肩にかけていた。人里から帰ってきたものたちは、その黒いモノによって殺されてしまった。そうでなくとも最近は、ただ山路を家族と歩いているだけで突然、死に襲われる個体が増えていた。人間。彼らの侵入は森を壊し始めた。しかし、太陽はいつものように顔を出し、大地を温めているだけだ。木々は緑色の葉をこしらえているだけだ。アリは行列を作って一生懸命に生きようとしているだけだ。同胞たちがどれだけ殺されようと、自然は何食わぬ顔で廻っている。変わったのは森の形だけであった。
あるとき、私は老年の時に幕を閉じようと、すこしだけ人里に降りてみた。人間たちの巣がたくさん築かれているところに。同胞たちと違い、飢えているわけでもないから、固い地面を踏みながらしばらくそぞろ歩きを続けていた。すると、人間の雄たけびが聴こえた。
右を向くと布で体を覆い、枝垂桜のように腰を曲がらせた初老の人間がこちらに向かってしきりに叫んでいた。わたしがまるで害獣であるかのように。怯え、震え、喚いている。とてもそれは、同胞たちを殺した人間たちとは思えない姿だった。わたしは彼をじっとみつめ、何も手は下さなかった。長年の経験から、黒いモノを肩にぶら下げている人間にしか私は殺せないのだと知っていたからだ。私は茂みの中に隠れた。風が吹いた。たゆたう草木は、私の肌に嫌な予感を伝わらせた。
それからしばらく街を歩いてみた。だが、黒いモノをかつぐ人間に出会うことができず、私は退屈な人生を終わらせることなく森に還ってしまった。だが黄金色の太陽が森を照らし始めたころ、わたしは三匹の人間が森に入っていくのを遠めに見つけた。彼らは黒いモノを肩にぶら下げ、犬と共に山の斜面を登っていった。すぐに犬が吠えはじめた。人間たちはそれを聞き、腰と脚を上手に使いながら森の奥へと入っていった。
パン。
大きな音が森を駆け巡った。儚い音だ。犬たちの声は止まり、森が静謐な空間へと様変わりした。
ああ、なぜなんだ。人間たちよ、どうして私を見つけなかった。
私は急いで人間の匂いがする方向へ走りだそうとしたが、脚を止めた。
私が生きていること。同胞の誰かが代わりに殺されたこと。これは森の円環の一つなのだ。ある者が死ねばある者が生き残る。わたしがいまここで無理に駆け出すことは、そうした森全体の働きに、ちいさなうねりを生み出すのかもしれない。
私はそうして来た道を戻っていった。巣に帰ったころ、月が顔を出していた。雲が風に飛ばされていた。空は、私が生まれたときと同じ姿をしている。

廻る自然と悠久の熊

執筆の狙い

作者 元谷殻
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この間、山に登ってたらツキノワグマに遭いました。

コメント

偏差値45
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・熊は100年も生きないと思う。
・現代の熊の在り方に照らして書かれたような気がしますね。
・特に物語としては意外性もなく、何かを学ぶようなこともないかな。
・従って内容に関して言えば、面白味には欠ける気がしますね。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

なんというか、タイムリーな熊の問題を、熊視点で書くことで、何か新しい視点、論点が出ていると思います。
特に害獣、とか怖いというイメージを持たれがちの熊を、やむをえず山を下りる、そこにたまたま人間がいた、っていう構図にすることで、熊をどうしようという考え方から否応なく僕たちは自然とどう付き合っていけばいいのか的に、視点を広げられるのはなかなか快感がありましたよ。ちょっとした切なさも感じます。

描写について。なんだろうな。森の空間というのがちょっとイメージしにくいというか、森をもっとビジュアルとして読者にも共感、体験させるような視覚描写、感覚描写があると、山の存在感が増すような気がします。
今回のシンプルな構成もそれはそれで味はあるのですが。
山の体験がおありのようで、それを活かしてもいいかなって気がしました。

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