また、逢えたね——
肌寒さで季節の変わり目を感じるようになったこの頃。別大国道を見下ろす空も、心なしか高く澄んで見える。
阿蘇大観峰へ向けて走る車内では、懐かしの昭和歌謡がゆったりと時間を刻むように流れている。
浮かない顔でハンドルを握る朝比奈ハルト(あさひな はると)30歳。
その助手席には、まるで女優気取りの大きなつばのハット。
豊満な胸を強調したいが為の、露出したトップス。
風と相性最悪のフリフリなスカート。
ポキッと一瞬であの世行き間違いなしのピンヒール。
そんな装いの芦刈沙苗(あしかり さなえ)28歳は、身の置き場がないといったように縮こまっている。
沙苗の予想とは裏腹に、質素で生活感ただよう車内。まるで異世界の住人のような服装は、どう見ても浮いている。
フリルの裾をそっと指先でもてあそびながら、沙苗はフロントガラス越しに眩しく走るオープンカーを、ただ凝視している。
(IT企業って、誰もが羨む高級車なんじゃないの? これ、学年担任の"ハゲ山"と同じヤツじゃん。マジ最悪)
「はぁ〜……」
思わず小さく漏れた溜め息。
沙苗の装いとは対照的に、ハルトは厚手のトレーナー、ジーンズ、スポーツシューズといったラフな格好。
だがそれさえ"サマ"になる。
なんせ、175センチの高身長。
綺麗な弧を描く涼しげな目元に、スッと通った鼻筋。
きちんと手入れされた顎ヒゲは、精悍な顔立ちに更に色気を際立たせている。
非の打ち所がない、いわゆる"イケメン"である。——"見た目には" と、付け加えた方が正確かもしれない。
どこでどう漏れ伝わったのか――
30年頑なに守ってきた“秘密”を、よりによって同じビル内に勤める沙苗に勘づかれてしまった。
それをネタに揺さぶりをかけてきた面倒な女。沙苗はハルトにとって、それ以上でも以下でもない存在だ。
そんな女との意図しない大観峰へのドライブが、ハルトの浮かない顔の原因だ。
(それにしてもこの容姿でね〜……)
沙苗は撫でまわすような視線をハルトに這わせた。
(にわかには信じがたい話だけど……まさか、童貞だなんてね)
沙苗は心の内でほくそ笑んだ。
誰にも気づかれたくないハルトの秘密。それは未だ女性経験ゼロだという、まさに"信じがたい"事実だ。
「——その帽子……」
長く続いていた沈黙を終わらせたのは、ハルトだった。
沙苗は咄嗟に笑顔を取り繕い、堰を切ったように喋り出す。
「素敵でしょ! あのハリウッド女優も被ってて、え〜っと名前なんだっけ」
俗に言うアニメ声に、ハルトは苛立ちを抑えながら言葉を放った。
「運転の邪魔なんだけど」
「——そう……」
"鳩が豆鉄砲を"とは、まさにこんな表情だろう。そのまま沙苗は押し黙ってしまった。
落胆しながら帽子を脱ぎ膝に置き、つばをキュッと掴む沙苗。
バツが悪そうに視線をおよがせると、後部座席に置かれた"優しい園芸"のタイトルの雑誌が目に入る。
その横には色褪せ気味のソフトバンクホークスのジャンバー。
沙苗は眉をひそめた。
「あの、まさか……園芸が趣味とか……?」
沙苗が恐る恐る話しかける様子を察したハルト。
「ん? あぁ、オヤジのな」
素っ気なくだが、先ほどよりは抑揚のある声で応えた。
「よね〜! そうよ、そうよ」
表情を一変させ、沙苗はヒールの足をピョンと跳ね上げた。
(このダッサイのもお父さんのに違いないわ)
再びソフトバンクホークスのジャンバーを見ながら、沙苗はホッとした。
———
10日ほど前、ハルトの勤務先のテナントビル内にある自販機前。それが沙苗と初めて言葉を交わした場所だった。
昼休憩終わりのハルトが自販機前に立っている。ハルトが愛飲している"さくらんBOY" には、可愛らしいチェリーのデザインがラベリングされてある。
午後イチはいつもコレと決めてある。
パンツのポケットから小銭を出し、投入口に入れようとしたその時だった。
沙苗がハルトの前にスッと割って入り、スマホを自販機にかざすと——"ガタンッ"という音と共に、さくらんBOYが排出口に落ちてきた。
目を丸くしながら沙苗を見ているハルトの手に、さくらんBOYを「どうぞ」と手渡しながら、ニコリと笑う沙苗を見てハルトは思い出した。
最近、決まってこの時間、この場所で遭遇する子だ。
遭遇? 本当にそうだったろうか?
背後からいつも感じていたむず痒さは……。
「やっぱりコレなんですね」
「ハッ?」
更に目を見開いてハルトが声を上げた。
「チェリーボーイ」
ハルトが手にしたさくらんBOYを指差しながら、沙苗が不適な笑みを浮かべた。
「な、な、な……なんで!?」
思わずさくらんBOYを後ろ手に隠し、後ずさるハルト。
すかさず沙苗は携帯番号をメモした名刺を手渡し、踵を返してエレベーターへと向かう。
扉が開き、ちょうど出てきた人々の間をすり抜け、沙苗は中へと入っていった。すぐさまハルトの方を振り向き声を飛ばす。
「チェリーボーイのお返しは結構なんで、先ずはドライブしましょ」
「チェ、チェリーボーイじゃなくてさくらんボーイ——」
エレベーターの扉が閉まり、沙苗の姿が消えると同時に、ハルトは片手を自販機に押し当てうなだれた。
以来、ハルトは"さくらんBOY"のボタンを押すことは、二度となかった。
———
車内を流れている昭和歌謡は、いつの間にか2周目を再生していた。
「なんだか渋い音楽ね。ん〜、私にはちょっと」
勝手にCDを止め、FMラジオに切り替えた沙苗は、流れてきた流行りの音楽に軽く身を揺らしながら、上機嫌にハミングしている。
右手に広がる別府湾に投げやりな視線を送るハルト。
日差しを遮った雲が、車ごと影で包んだ。
※ ※ ※
流行りの音楽にのせ、ハミングから調子っぱずれの歌唱にまで昇華していった沙苗の上機嫌が、いつの間にか鳴りをひそめていた。
ハルトがそんな沙苗の様子に気づいたのは、"大観峰"と表記された青色の道路標識を目にした時だった。
"無意識に近い意識"そんな感覚でハンドルを握っていたことに、ハルトは今気づいた。
"ミルクロード"の目を奪うような金一色に染められたススキ野原も、ただ静かに佇む雄大な阿蘇のカルデラ、放牧された牛や馬が草をはむのどかな光景。
それら全てがハルトの目にはただ、流れ過ぎていく過去の一部でしかなかった。
目的地の大観峰は目前。ここを右折し300メートルほど走れば、ハルトにとって久方ぶりの景色に出会う。
"懐かしい"や"懐古"などという言葉を、この場所にだけは持ち込みたくない。
それは、ハルトの意識の奥底にへばりついて、剥がせない感情だった。
———
日曜日の昼過ぎ、空は快晴とあって、所狭しと停められてある他県ナンバーの自動二輪、ファミリーカーなどの数々。
前方両脇の車列を縫うように見やりながら、ハルトは首を伸ばし気味に
空いた駐車スペースを探していた。
「何処でもいいから早く!」
いつからか押し黙っていた沙苗の絞り出すような断末魔の声に、ハルトは彼女の存在を再認識した。
車を降りるや否や、沙苗はお手洗いの方向へと一目散に駆け出して行った。そのぎこちなく小走りする後ろ姿に、ハルトは口を歪めて鼻をフッと鳴らし、笑いを抑えていた。
———
ハルトはゆったりとした足取りで、沙苗の後を追った。
たむろって談笑する革ジャン姿のライダーたち。手にしたスマホを遠くかざし、自撮りするカップル。老夫婦の連れている小型犬に駆け寄り、"お手"を促す幼い兄妹。
ハルトの目に映る全ての光景が、肌寒さを和らげてくれる温もりを持っていた。
だが何故か、胸に微かなざわつきを覚えた。
いや、"何故だか"でも"覚えた"でもない。
それはハルト自身が創り上げた、フィルター越しの自己防衛の感情だ。
ハルトはキツく目を閉じた。
軽やかな笑い声や、時折聞こえる感嘆。店内から漂ってくる焼きとうもろこしの匂い。
それらが遠い記憶と重なり、ひとつの塊となって、ハルトの背後から手招きしてくる。
(やめてくれ……)
声に出さずとも、ハッキリとした意思表示を突きつけた。
その瞬間——
「お待たせ〜」
沙苗の声が、ハルトの背後をクリアにし、"現在"(いま)に連れ戻した。
キツく閉じていた瞼を開けて振り返ると、ぎこちないキャットウォークでこちらへ向かってくる沙苗がいた。
ハルトの脳裏に、小走りでお手洗いへ向かう沙苗がフラッシュバックされる。
そのギャップにたまらず吹き出し、躊躇いなく声をあげて笑った。
まるで、さっきまで背後に居た黒い塊に見せつけるように——。
———
「え……なに?」
お手洗いから出た途端、高笑いを始めたハルトを見て、沙苗は怪訝な表情を浮かべた。
ひとしきり笑い終えたハルトは、一呼吸おいてひと言。
「ありがとう」
目元を緩ませ、穏やかな表情で微笑むハルト。
沙苗の胸が小さく跳ねた。
その顔は、さっきまでの長い時間すぐ隣に居たはずの、精悍なゆえに冷たく見える横顔とは全くの別人。
(なんだ、そんな顔……できるんじゃない)
小さく跳ねた胸の鼓動は、ハルトの弱みを握った沙苗の手の指を、知らぬ間にゆるめさせていた。
(でも、"ありがとう"ってなんなのよ)
まだ可笑しな鼓動を続ける胸を持て余しながら、沙苗は呟いた。
———
ハルトはこの大観峰を、新たな場所にしたかった。
"何でもない女と来た、特に何でもない場所"
童貞をネタに、名前も知らない女から突然ドライブに誘われた時には、肝を冷やした。だが、降って湧いた好機だと捉えなおし、今日のドライブを決行した。
謂わば、互いにとっての"利用"だった。
なんでもない場所。
——"その瞬間(とき)"までは、確かにそうだった。
※ ※ ※
突風に煽られ、沙苗の"ふりふりスカート"が派手に捲れ上がった。
「キャッ!」
咄嗟に両手でスカートを押さえる沙苗。その様を見て、ハルトは父親に何度も見せられた古い映画――マリリン・モンローのあの名シーンを思い出した。
「ププッピドゥ……」
つい口をついて出たハルトの呟きに
、沙苗は首を傾げた。と、同時に大きなくしゃみを一つ。
身震いしながら沙苗は両腕で自分を抱きしめた。
ハルトは小さく息を吐いて、自分のトレーナーを摘んだ。
「これ、脱ぐわけにいかないしな」
沙苗をベンチに促し、ハルトは自販機で買ってきたホットカフェオレを沙苗に手渡した。
その温もりが手の平を伝って、胸にまで沁みた気がした。
ハルトはベンチに座らせた沙苗の前にかがみ、ピンヒールのパンプスをじっと見ると、おもむろに脱がし始めた。
「ちょ、ちょっとなに!?」
「すぐ戻るから」
ハルトはそう言い残し、沙苗のパンプスを持ったまま来た道を引き返して行った。
沙苗は仕方なく、裸足にされた両足をぷらぷらさせながら、おとなしくハルトの帰りを待っていた。
———
程なくして戻ってきたハルト。沙苗が少し遠くのその気配に目をやると、車中にあった"あのダッサイジャンバー"と、大きめのクロックスを手にしたハルトが居た。
「……嘘でしょ」
沙苗の顔が曇る。
「はい」
沙苗の足元にクロックスを置き、ジャンバーを差し出すハルト。
「いやいや、こんなの着ちゃったらせっかくのコーデが……」
沙苗の拒絶を無視して、ハルトはジャンバー広げ、沙苗の肩に羽織らせた。
「風邪でもひかれたら迷惑だし」
その真っ直ぐな目には、少なからずそうではない、気遣いの温度が感じられた。
うなだれながら、沙苗はおりこうさんにハルトの言う通りにした。
———
展望所へと続く遊歩道を歩く二人。
開けた場所は遮るものもなく、からかうように風が沙苗の髪を踊らせている。
「ヤダッ! 待って〜!」
突然の強風が、沙苗の“女優帽”を奪い取り、空へと放り投げた。
沙苗の悲鳴を耳にしながら、ハルトは帽子の行くえを目で追った。
その視界に入り込んだシルエットに、ハルトの意識は一瞬で引き寄せられた。
——世界の音が、ふっと消えた。
頬を撫でながら風になびく、艶やかな長い黒髪。
凛とした佇まいだが、その横顔には、どこか寂しさが滲んでいる。
黒のレザースーツとのコントラストが映える白い肌は、今にも消え入りそうな儚さを感じずにはいられない。
目前に広がる阿蘇の雄大で美しい景色でさえ、ハルトにはまるで彼女の為に用意された舞台背景のように感じた。
——映画のワンシーンのような、切り取られた絵画のような。
ハルトは釘付けになった。
会ったことも、これから会うはずもない——
雨宮夕凪(あまみや ゆうな)、28歳
に、それでも何か小さな棘が引っかかるような。
そんな想いと共に、胸の鼓動が微かに聞こえた気がして、僅かな戸惑いをハルトは無視出来ずにいた——。
執筆の狙い
プロローグ的なものを書いています。
(実際は連載の3話までになります)
色々な視点からの批評を頂けると幸いです。
宜しくお願い致します。