見えないモノと見えるヒト
私たち一家が入居した十二階建てのマンション。階段はできるだけ使いたくない。八階と九階の間の踊り場に「なにか」がいるのだ。そいつがなんなのかが私にはわからない。知りたくもない。不吉ななにか。目に見えない邪悪な存在。
一日の始まりはとても気怠い。点数を付けるなら三十五点ぐらい。この前返ってきた数学のテストがちょうどそんぐらいだったっけ。
だけど、お母さんの笑顔は、今日も満点だ。この人、なんでいつもこんなに元気なんだろ。多分、ちょっと頭おかしい。けど、そんな変なとこも可愛い。
お母さんは私の背中を思い切り引っ叩いて「いってらっしゃい!」と喝を入れる。
おとと、となりながら数歩進んでから振り返る。
「いってくるよ、結衣。今日も可愛いよ」
そして投げキスを送る。
お母さんはそれを空中で受け止めて壁にぶつけて殺虫スプレーをかける真似をする。見事なパントマイムだ。
私はゲラゲラ笑う。
「今夜はハンバーグでよろしくぅ!」
今日という日の点数が一気に八十五点ぐらいに跳ね上がった。
だけど、エレベーターの前まで来てまた陰鬱な気持ちになる。二階で止まったまま上がってこない。その階に住む老夫婦がいつも通りエレベーターに大量の農作業具を運び込んでいる姿が浮かんでくる。迷惑な話だ。朝はこのパターン多いな。
私は仕方なく階段を使うことに決める。そして、ダッシュで駆け降りていく。こんなところで貴重な体力を使いたくはないけど、背に腹は変えられない。九階に差しかかるともう寒気がする。その先にある踊り場は、初夏なのに地下室みたいにひんやりしている。鳥肌が立つ。絶対、なんかいるよな、ここ。身震いしながら走り去る。
いやだな……。幽霊? 私、そういうの苦手。
授業はすごく退屈だけど、四限目の終わり頃には希望が見えてくる。もうすぐお昼ご飯。お母さんの作ってくれたお弁当で空腹を満たせる。
チャイムが鳴ると綾がお弁当を持って飛んでくる。楽しいランチタイムの始まりだ。
「んで、どうなったのよ? この前の九里高のイケメン」
綾は卵焼きを頬張りながらまん丸な目を輝かせる。
「んー、断ったよ。あんな見た目にしか気持ちがいかない男はタイプじゃないし」
「また前と同じこと言ってる」
綾は少し呆れたように笑う。
「だって、見えるものが全てじゃないでしょ。むしろ見えるものなんてなんにも表していないよ」
「唯美の贅沢中二病が始まった」
「綾はそう言うけど、あんな男はどうせ体目当てなんだから、本当に好きってことではないよ」
「そうだとしても、イケメンで進学校いってるんだから、ちょっとぐらい付き合ってみてもいいじゃん。減るもんじゃなしに」
「絶対嫌」
「はいはい、唯美様ぐらい可愛かったら、いくらでも次があるもんね」
綾はちょっとだるそうに手をひらひらさせる。
私は「可愛い可愛い」と言われて育ってきた。そもそも唯美という名前にだっていわれがある。生まれて数日経った頃の私があんまりにも可愛かったから、びっくりした両親が出生届に思わず「唯美」と書いてしまったのだ。「唯一の美」という意味だ。だけど、私から見て自分は「唯の可愛い人」。勉強もどんだけ頑張っても並み以下だし、運動も全然冴えない。健康なのと元気なところは自己評価まあまあ高いけど。
結局、六限の数学の授業は二パーセントもわからなかった。中学からやり直したい。それか、超優秀な家庭教師に優しく教えてもらったら、私でもなんとかならないかな。家にはそんなお金の余裕ないと思うけど。
そんなことを考えながら、家路をたどる。そしたら、いつもの踏切で変なのに出会った。
その男は踏切の中でしゃがみ込んでぶつぶつと何かを呟いていた。独り言にしてはどう考えても大き過ぎる声だ。片手になにかアクセサリーのようなものを握り締めている。
私はさすがに不気味すぎて気圧されするけど、それでも踏切に入って、男がなにを言っているのか聞こうとしてみた。
「お前が辛いのはわかる。だけど、ここにいれば辛いままだ。俺が保証してやる。お前の気持ち次第で今の苦しみは消滅する」
これは本格的にヤバいやつかも。私はちょっと鳥肌が立つのを感じる。なに者かわからないけど、もしかして目に見えないものと話してるってていでぶつぶつ言ってる?
だけど、ちゃんとしている私は、それでも注意しようと男に近寄る。
「あの、踏切にずっといると危ないと思うんですけど」
私は恐る恐るそう声をかける。
「ああ、それはわかっている。だけど、今は邪魔をするな」
男が即座にそう返したので、私は思わずカチンとくる。なんで命令? こっちは親切で言ってるのに。
男は坊主頭に黒のキャップをかぶっていた。切れ長の目に細い鼻。Tシャツもチノパンも黒い。
「っていうか、なにしてるんです?」
男は私を無視する。そして、またぶつぶつ呟き始める。
そうこうしていたら、カーンカーンカーンと踏切が鳴り始め、遮断機が閉まろうとする。ほら、言わんこっちゃない。
私は男の服をぐいっと引っ張って「危ないって!」と必死で訴える。えらくどっしりしてて、全然動かない。
だけど、三秒ぐらいで男は急に立ち上がり、私は尻餅をつく。
「大丈夫か、いくぞ」
男は私を見下ろして、踏切から出ていく。私も慌てて起き上がる。
遮断機をくぐって道路に出ると、間一髪ってほどでもないけど、電車がやってきた。
「危ないんですけど!」
「俺はちゃんとわかってやっているから、心配には及ばない」
「だけど、私から見たら危ないんですけど。ちゃんと人を心配させないようにやってもらえます?」
「なるほど、そうだな。それはお前の言うとおりだ」
「なっ、お前って」
こんな言い方は恥ずかしいのだけど、私は自分の見た目で随分得をしてきた。多分。誰もが、特に男性は私に優しくしてくれた。だからこの扱いは結構衝撃的だった。
この男、なんなの……!
いきなり人をお前呼ばわりするこの坊主頭の男に、私は全力で苛立ちを覚えた。
私は男の後を付いていくことにする。そして、その背中に向かって声を投げつける。
「お前って言いましたよね。私、ちゃんと唯美って名前があるんですけど」
「そうか、悪くない名だな。俺は玲見だ」
「そんなの聞いてないです。お前って言ったの取り消してほしいんですけど」
玲見と名乗ったその男は一瞬だけ歩を止める。そしてまた歩き出す。
「取り消すことはできない。言葉とはそういうものだ」
「どういうことです?」
「さっきの女も言葉で傷ついて自殺した」
「はあ?」
「暴力はなかったそうだが、友人だと思っていた同級生たちに心無い言葉を毎日浴びせられて、ノイローゼになった。お前は七星高校の生徒か?」
「またお前って言った!」
「そうだな、お前はやめておこう。唯美だったか。どこの高校だ?」
「私は七星高校だけど、その前に謝ってくれます⁈」
「すまんな」
男があんまりにすんなりと謝るので少し拍子抜けする。
「自殺した女は、また七星高校の制服が着たいと、お前……唯美の制服を見て言っていた」
「あの、あなた、なに言ってるんですか?」
「俺は霊と話ができる」
少しの沈黙。そのあと、私はなんとか口を開く。
「幽霊ってこと?」
「それ以外になにがある?」
「じゃあ、さっきは、その、幽霊と話してたの?」
「そう言っているだろう」
笑えるって一瞬思ったけど、なぜだか全然笑いは込み上げてこなかった。それどころか少し寒気がした。この男がさっき踏切で握っていたのは、よく考えたら黒い数珠だ。そしてそれは、今、左手首に巻いてあった。
「桐崎冬香という生徒は知っているか?」
その名前には聞き覚えがあった。学校の怪談みたいなノリでみんなが囁いていた名だけど、どうしてこの男……玲見が知っているのだろう。
「自殺した生徒の名前だ」
また寒気がする。
「……その名前、知っている。その人、本当にいたの?」
「そういうことだ。あまりこの名前を触れて回ってはいけない。忘れてやってくれ。それが霊の望みだ」
この人、霊とか真剣な顔で言っている。痛い大人にしか見えないはずなんだけど、なんだろう、この貫禄は。
相変わらず私の方をチラリとも見ずに歩き続ける。男はヒョロリと背が高くとても痩せていた。私は横に並んで必死で付いていく。歩くの早いな、この人。これだけ空気みたいに扱われるとなんだか少しへこむ。
この人は霊能力者? 霊を慰めて回っているの? 本当にそんなことありえるの? 歩きながら頭の中でいくつかの疑問がぐるぐる回る。
私は見えるものじゃなく、見えないものを大切に生きているつもりだ。見た目ばっかに囚われて躍起になっている人は残念だなと思う。人にはもっと大事なものがある。心とか、思い出とか、努力とか、あとなんだろう。色々ある。
そんなことを考えて生きてはいるけど、幽霊がどうこうって発想はなかった。それは私には見えないものだけど。
「あの、霊が見えるんですか?」
そう改めて聞いてみると、男は頷く。
「それってどんな感覚?」
「解放される、ということだ。俺の精神はこの物質世界には縛られてはいない」
「この物質世界って? お金とか? 綺麗とかそうでないとか?」
「そういうことだ。食物を最低限食べなければ死んでしまうがな」
私はその言葉を聞いて、少しだけ男を試してみたくなった。さっきの苛立ちと傷付いた自尊心が自然と私を引っ張った。
「じゃあ、私のこと可愛いって思います?」
少し挑発的にそう言い放ち、私は腰に手を当て、玲見の行手を遮った。
「可愛い?」
「そう、ちゃんと私の顔見てください」
さすがに玲見は立ち止まる。
そして、私の目をじっとのぞき込む。その二つの黒目は異様に黒くて深くてこの世のものではない感じだった。少し鳥肌が立つ。そして私は不覚にも格好いいと思ってしまった。
「わからんな。俺は美醜に興味がない」
またムカっとくる。そんなのは嘘だ。私はなんとかしてこの男に私が可愛いことを認めさせてやろうと思った。
「どうして付いてくる?」
「私も同じ方向なだけです」
それは実際にそうだった。玲見はなぜか私のマンションの前までやってきた。
エントランスの近くにマンションの管理人さんがいた。天然パーマの小柄な奥様でいつも目元がゆったりと垂れ下がっている。笑顔が素敵。管理人さんは私と玲見を見て手を振る。
「あら、矢敷さんところの唯美ちゃんだったかしら。この人とお知り合い?」
「知り合いっていうか、まあ、さっきたまたま会っただけです」
「この人、除霊師さんなの」
「じょ、除霊師?」
「八階から九階にいく階段、なんか変でしょ? 怪我人がたくさん出てて、苦情も来ているからなんとかしなきゃって話になったの。で、知り合いのツテを辿ってこの菅さんにお願いしたの」
「あの、そういうのって、大人の世界でも本気でありなんですか?」
私はなんだかよくわからない質問をしてしまう。
管理人さんのカラカラという笑い声。
「どうかしらね。私たちが幼稚なだけかもしれないわよ。けど、管理組合の会議で決まったことだからね。そうそう、唯美ちゃん、私ちょっと手が塞がってるから、ついでに菅さんを案内してもらえないかしら?」
私と玲見はエレベーターで一旦九階までいくことにした。密室で二人きりになると少し緊張する。得体の知れない男だからだ。だけど、私は玲見に興味を持ち始めていた。
どの階にも止まらず、エレベーターは順調に上昇する。だけど、そいつはガタンという音と共に八階と九階の間で急に止まった。同時に電気が消えて、橙色の非常灯が灯る。
「……なにこれ⁈」
私は流石にちょっと動揺する。
「停電か、そうでなければ霊場の影響を受けているな」
「動かないの?」
「それはわからん」
「わからんって、じゃあ、私たちどうなるの?」
「誰かが助けに来てくれるだろう。別に慌てることではない」
玲見は焦る様子もなく淡々とそう言った。鉄は硬いだとか赤信号は停まれだとか、一般的な常識を語るみたいな口調にまた腹が立つ。
慌てて携帯を取り出してみたけど、圏外になっている。最悪だ……。
非常ボタンも押してみるが、なんの反応もない。
しばらくこのまま過ごせってこと? 私、女の子なんですけど。知らない男と密室で二人とか嫌なんですけど!
と、思ったのだけど、それどころではなかった。私が思っていたより状況はずっとまずいことになった。六月半ばの快晴の日。昨日、お天気アプリを見たとき、気温は三十度を越えると表示されていた。
エレベーター内はじわじわと暑くなり、程なく湿気ムンムンのサウナのように様変わりした。
困った。私、暑いのって苦手。水筒も持っていない。玲見は相変わらず微動だにしない。汗一つかいていないようにすら見える。
私は、カッターシャツの袖をまくり、ボタンを二つほど外す。床にしゃがみ込んで、スカートの裾をたくし上げる。シャツをスカートから出してバタバタやってお腹に風を送り込む。
あまり褒められたやり方じゃないけど、暑くて倒れちゃうよりはマシだ。チラッと玲見の方に目をやる。
玲見は私のその姿に全く動じていない。というか、一切こちらに気をやらず、なにか考え事をしているように見える。なんだかすごく腹立たしかった。
いや、これはもう激怒と言ってもいいかも知れない。この男のせいでさっきから自尊心は傷つけられっぱなしだし、しかもこんな目にまで遭っている。
少しヤケクソみたいな気持ちで、私は今度こそ玲見を試してみることに決めた。
「ねえ、玲見」
ちょっと甘ったるいような声を出してみる。我ながら色っぽいけど、同時になんだか嫌な気分になる。こんな声色の自分は初めてだ。
「なんだ?」
「このノートで私をあおいでくれない?」
そう言って鞄からノートを見つけて差し出す。
「自分でやれ」
カチンとくる。
「ねえ、あおいでくれたら、お礼をするよ」
なにしてるんだろ、私。けど、これはプライドを賭けた戦いなのだ。
「俺を誘っているのか?」
玲見は言いにくいようなことを簡単に口にする。そういうのは雰囲気で察するもんでしょう!
「どういう意図があってそんなことをするのかわからんが、やめておけ」
「私、別になにも意図なんて……」
玲見はそこであの真っ黒な目で私を直視した。ほんのちょっとだけ心臓がジャンプする。
「俺が生きた女に惹かれることはない」
さっきと変わらない平坦な口調。だけど、そこにはわずかな感情が含まれているように思えた。悲しみ? 怒り?
「どうして?」
「俺はかつて愛する女と共に除霊師をしていた」
彼の目は真っ黒なままでなにも語ってはいなかった。
「あるとき、除霊の失敗で俺たちは火災に巻き込まれた。俺は彼女を助けることができなかった」
私は玲見の瞳をじっと見ながら、なにかとんでもない話を聞いているような気持ちになる。いや、実際、とんでもない話なのだ。暑さで頭が働いてくれない。
「俺は恋人の亡骸を使って、彼女の霊を呼び戻した。そして、血の契約を交わした。それ以来、彼女は俺を守ってくれている」
「よくわらないけど……」
私は言葉を探す。
「辛い話……だね」
「この血の契約は死ぬまで続く。もし、契約に違反すれば、つまり他の女に惹かれれば、俺の肉体はその場で朽ち果て、霊は未来永劫地獄を彷徨い続ける」
「だから、私のことを見なかったの?」
「お前はまだ子供だから、人間がいかに薄汚れたものかということがわからないのだ。俺は生きた女に惹かれない。しかし、それでもただの人間だ。仏でもなければ、聖人でもない」
私はなんだか急に恥ずかしくなって、スカートの裾を元に戻す。
「その、ごめんなさい。けど、よくわからない。霊とか血の契約とか、正直、私の知らないことばかりだから」
玲見は少し間を置いてから、目を閉じて耳を澄ませるような仕草を見せた。
「なら、少しだけ教えてやろう。どうせこのままここにいれば、このマンションの霊は侵食してくるだろう。千歳の力に頼ることになる」
「千歳?」
「俺の恋人だ」
玲見は左手の手首に付けていた数珠を外し、手の平の間にそれを挟み込む。そして、なにかを囁く。不思議な響きの言葉だった。それは、お経のようでもあったし、外国語のようにも聞こえた。
「千歳、来てくれ」
玲見がそう言うと、彼の背後に砂粒の塊が現れる。それはなにもない空間から湧いてきた。砂粒は空中で留まり、波打ちながら徐々に形を形成していく。人のシルエットができあがる。
そして、そのシルエットの足が床に付いた瞬間、女が現れた。私がなぜそれを女と認識したのかはわからない。焦げた匂いが充満する。頭には髪がなく、全身がほとんど黒灰色だった。ひどく乾燥していた。耳も鼻もなく、歯は剥き出しだ。目の部分には空洞があり、その周囲に破裂した眼球だろうか、何かがへばりついていた。ところどころ肉が欠損していた。それはギリギリ人の姿を留めていた。焼死体だ。
焼死体はにっこりと微笑んだ。その瞬間肉がボロボロと落ちる。
私はほとんど無意識に金切り声を上げていた。
悲鳴はどこまでも伸びて、私の意識を混濁させる。
全身が弛緩しながらひどく張り詰めている。
恐怖が視界を曇らせ、私は叫びながらボロボロと泣いていた。
玲見は焼死体の方を向き、それを優しく抱きしめる。
「来てくれてありがとう。愛しているよ、千歳」
見ているもの全てに現実味がなかった。
だけど、それで終わりではなかった。私の悲鳴に混じって、なにかの鳴き声が聞こえる。蛙だろうか? 声の低い蛙だ。反響しながらその声はどんどん近付いてくる。
エレベーターの中を風が吹き抜ける。風なんか吹くはずないのに。
風がやんだ時、私の目の前に、頭の潰れた子供がいた。首がぐにゃっと曲がっている。欠けたようにへこんだ頭部から、灰白色の脳が溢れている。血が流れている。子供はケタケタと笑った。
焼死体が子供の死体と対峙し、玲見はその傍で数珠を握って目を閉じる。
私は意識を失う。最後の瞬間、なにか温かいものが自分の中から抜けていくのがわかった。多分、私は失禁したのだろう。
目を覚ました時、私は自分の部屋のベッドの上にいた。お母さんが心配そうに私の顔をのぞき込んでいる。
「お母さん……」
一瞬だけ眉間に皺を寄せて泣きそうな顔をした後、お母さんは笑顔に戻る。
「よかった。除霊師さんから話は聞いたわよ」
「お母さん、怖かったよぉ……」
私はお母さんの胸にしがみ付いて泣いた。しばらくして落ち着いてから自分が部屋着を着ていることに気付いた。そして、赤面する。お母さんはなにも言わずニコニコしてくれていた。
「私、ひどいことしたの」
「なんだい、そんな顔して。あんたはいい子だよ」
「違うの。自分の見た目を使って人を試そうとして、それで勝手に自分が嫌になって……」
「その人を傷付けたのかい?」
「そうじゃないと思う。けど、嫌われたかもしれない」
「唯美、あんたは真っ直ぐな子だよ。昔からそう。私はあんたの笑顔が大好きだよ」
「お母さん、違うの……。私は汚くて……」
なぜだかわからない。自分が醜くて小さくてひどく間違った存在であるように感じられた。涙がとめどなく溢れてお母さんのエプロンを濡らした。
休日でも朝は気怠い。お母さんの特性ごま油ハムエッグを食べてもまだまだ眠い。だけど、私は出かけなきゃいけない。一日の点数は何点ぐらいだろう? 多分、五十二点ぐらい?
お母さんに見送られて家を出る。だけど、またエレベーターがこない。本当にこのパターン多いな。私は仕方なく、階段を駆け降りていく。怖くて一瞬脚がすくむけど、なんとか踏み出す。不思議だ。あれ以来、九階と八階の間を通っても、鳥肌は立たなくなった。頭の潰れた子供を思い出して、やっぱり怖くなる。そして、少し悲しくなる。ほとんど無意識に胸の前で手を合わせる。
気温は摂氏二十七度。朝から凶悪な太陽がジリジリと照りつけてくる。
通学路の踏切の前までやってくる。辺りを見回す。人の姿はない。
いくらか歩いて、賑やかな大通りに出たら、行き交う人たちの顔を一つ一つ確かめていく。
私は人を探している。痩せてて背が高くて、多分、黒の帽子を被っているから、きっとすぐにわかる。
だけど、なかなか出会えない。彼を探し始めてもう一週間が経過した。
どうして彼に惹かれるのだろう。あんな風に私をぞんざいに扱って、怖い目に合わせて、挨拶もせずに消えていったのに。
玲見は、恋人に向かって「愛している」と言っていた。なぜだかひどく胸が疼く。
商店街の前でダボダボの服を着た二人組の男にナンパされる。彼らの指輪やネックレスが太陽に照らされて鋭く光っている。
「ねえ、これから、俺たちドライブいくんだけど……」
「どうして私に声かけたんですか?」
私はその言葉を遮る。
「どうしてって、君、すごく可愛いから」
「私、目に見えないもの大事にしてる系なんで失礼します」
そう言い捨てて、足早に通り過ぎる。
そうなのだ。私はいつだって目に見えないものを大切にしている。だって、見えるものなんて結局なにも表してはいないのだから。
玲見には霊が見える。そして、私のことなんて見てくれない。彼には千歳という恋人がいる。諦めなきゃなって思う。
いや、違う、そういう問題じゃないのだ。
そういう問題じゃなく、玲見と一緒にいたい。彼は、私にとって超重要なことを教えてくれそうな気がする。
多分、私は色んなことを理解するのにまだ子供過ぎるんだろう。だけど、恋をするぐらいには大人になってしまった。
私はどうやらややこしい男を好きになってしまったみたいだ。
執筆の狙い
比較的わかりやすいテーマの表現と軽快な展開を意図しました。
どうぞよろしくお願いいたします。