未完のみかん
将来の夢は死ぬこと。
それが私の、小学時代でした。
幼さが照らした日の差す午後。
道徳の授業だったでしょうか。
先生は、言いました。
「いまからみんなの将来の夢を、この紙に書いてもらいます。
警察とか、消防士とか、ケーキ屋さんとか、お花屋さんとか。思いつくものをなんでも書いてね。」
幼児に接するが故の、優しい声色に眼差し。
それが私は、どこか恐ろしく機械的で、非現実的なものに感ぜられていました。
微笑みに従う目元は冷たく、口の端が消えたような恐ろしい笑みだったと思います。
10分ほど過ぎた頃だろうか、先生は言いました。
「みんな書き終えたかな、後ろから集めて先生に渡してね。みんなの夢がどんなのか楽しみだなあ。」
私は、書き終えていませんでした。
それどころか、1文字目すら書けていませんでした。
わからなかったのです。将来とは。夢とは。
わからない、わからない。
しかし、集められた紙が私の背に触れました。
服の上を刺したのは視線でしょうか、紙でしょうか。
それは皮膚の穴を、正確に刺した様に、酷く痛かったことを覚えています。
幼ながらに、羞恥と焦りに駆られた私は、小賢しく紙を下の方に潜らせました。
そうして次に渡った紙束に私は、己の心臓が取られてしまったかのような恐怖と絶望を感じました。
紙束を集め、目を通す先生。
私は、表情に仕草、爆発の兆候を逃すまいと強く睨んでいたと思います。
どれほど、そうしていたでしょうか。
拙い字を読むのは時間がかかるでしょう。
幼子達の活力が、脳を揺らすでしょう。
私は、わんわんと頭で音が唸る中で、聞こえました。
ぱさり、と聞こえました。
騒がしい教室で、紙をめくる音が。
その時、先生が首をいきなりもたげたので、仰天しました。
しかし、驚きが脳に廻るその前、その時。
その時、その時その時その時、目が、合ってしまったのです。
先生は私を見ていました、私は先生を見ていました。
先生は、どんな表情だったでしょうか。
目元は柔和、しかし黒すぎる瞳。
鼻は低く、穴が少し目立ちます。
口元は真横にくっきりと結ばれていました。
努めて優しさを持たんとする顔でしょう。
その顔が私には、能面に見えて、胃液が沸騰した圧力で叫びが頬を爆発させそうでした。
私は、理解しようの無い心の内は私の頭を殴りました。記憶が飛んだのでしょうか。
茫然自失、とでも言いましょうか。
しかし、体は震え、歯が砕けてしまえという程に強く顔を歪ませたことを覚えています。
放課の時間まで、私は生きていたのでしょうか。
心臓はその壁を蠢かせ、血液は皮膚の下を叩いていました。
しかし、魂。それは死んでいました。
脳に魂があるのなら、恐らく脳は形を喪い、液状化を経て血液と共に私の身体を生かしていたのでしょう。
現実は網膜と隔たれて、幻を見ているようでした。
私の精神はまともでいられませんでした。
気がつけば、放課後。
周りが溌剌と帰路に着く中、私は何かを待つようにただ椅子に座っていました。
幼子の明るい声、小走りのような足音、傾く日差し。
そこに混じる強大な足音。
実際には、大したものじゃなかったでしょう。
しかし、幼い私には、太鼓のような低く響く音が確かに聞こえたのでした。
そんな恐怖に身を竦めていると、横から誰かが言ってきます。
「どうして、白紙なのかな。」
先生でした。
その口調は問い詰めるようでいて、優しげでもありました。
「思いついたものはなんでも書いていいんだよ。」
先生は、優しく言いました。
「何を書いても恥ずかしくないんだよ。」
先生は、優しく言いました。
本当に何を書いてもいいのか、仮に人を殺す事なんて書いてしまったらあなたは怒るだろう、夢が恥ずかしい、そんな気持ちは毛頭ない、しかし私は夢を書いて、あなたはそれを見て何らかの評価を下してしまうではないか、それは否定だろうと肯定だろうと私の何かを侵してしまう、だから私は私を偽り、私を守るしかないのだ。
白紙に描かれた文字。
将来の夢、ヒーロー。
人を超える、超人。
「ヒーローかぁ、かっこいいね、良くかけたね。
周りがなんて言っても、自分のなりたいものに間違いは無いんだよ。
白紙の方が、良くないからね。」
先生は、笑っていて、満足そうに言った。
曇りのない、笑顔でした。
人間が、笑っている。
私は狂いそうだった、己を偽ったとてその仮面を私だと断じて、肯定的にとらえ笑ったのだ、その笑みはどれだけ屈託のない心から出たものだとしても、私の偽りを嘲り、私に私を惨めにさせた。
偽りも死、誠実も死、私はどうしようもない袋小路に閉じ込められることを余儀なくされた。
私は友達と帰ることにしました。
傾く陽が、肌の色を、より濃くさせたと思います。
友達とは、たわいの無い会話をしました。
子供、でしたから。
肌寒さが首元から忍び込んで、身体をくすぐったことを覚えています。
もこもこのジャンパーのポケットに手を突っ込み、掌だけ汗ばんでいました。
「今日も寒いなあー、将来の夢なんて書いた?」
私は彼の夢が気になりました、他人がどんな夢をどのような理由で、どのような経緯で得たのか気になりました。
「俺は、虫博士だな。虫好きだし、博士ってなんかかっこいいだろ。」
彼は、虫が好きだったので、それはいい、と思いました。
それと同時に、馬鹿な奴だ、と思ってしまいました。
博士なんて、どれだけの勉強が必要なのかこいつは分かっているのだろうか、方向性として挙げたのならそれはあまりにも軽率だ、人間が望む方向性に進むことは、稀と形容しても足りないほどに有り得ないのだから、将来の夢とは、職業に限定されずどう生きるかを考えるのが最も合理的だ、その点、私は将来の夢は死ぬことだ、なんて合理的だろう、必ず叶えられる上に、やり方もそこまでの歩み方も自由だ、どいつもこいつも考えが足りていない。
子供ながら、あまりに独善的で、幼さを逸していたと思います。
そんな考えをしながら口をついたのは。
「おー、いいじゃん。虫好きだもんな、なれるよ。
いーなー、夢があって。俺はさ、無かったからヒーローって書いちゃったよ。いや、なりたくない訳じゃないけど、なんかー、なんかだよな!」
ヒーローを生き方にするのは、悪くない選択肢だと思ったのは間違いありません、ヒーローとは人を超えた善性とでもいいましょうか、絶対的な正義の象徴であったからです。
子供の頃のテレビといえば、戦隊モノ、仮面ライダー、プリキュアの3つでした。
日曜の朝になれば、親が付けるニュースを変えてくれとせがみ、それらを眺めるのが子供の生業だと私は思います。
私もそれに習い、何度か惰性で見ていました。
戦隊モノは1番退屈でした、何が面白いのか分からず気が狂いそうだったとおもいます。
敵はいつも独りだった。
色の違う人間が口々と叫び、彼ら悪を破壊する。
彼らは独りで正義たちと闘っていました。
その光景に、疑問を感じずにはいられませんでした。
仮面ライダーもプリキュアも、いつも敵は爆発してばかり、彼ら悪はなんの為に闘っているのか、誰も知らない、誰も知ろうとしない、正義は悪を殴るだけでした。
世界の在り方をそこに感じて、見ていられなかった。
私は、正義の側に立っている自信がなかったから。
クラスのみんなが、毎朝テレビにかじりつき、嬉々としてこれらを眺め、月曜の朝に語り合う、私はそれを微笑ましく、眺めていました。
澄んだ朝のような青い幼さに、憧れていました。
だから私はヒーローという、社会に肯定される絶対的善性を、憧れに思いました。
人になりたくて、人に好かれたかったから。
子供らしい会話を続け、私たちはそれぞれの家路に着きました。
「じゃあ、また明日な。気をつけて帰れよ。」
と、虫博士の彼は言いました。
「よゆー、お前も気をつけて帰れよ。」
と、私は言いました。
陽は傾きを増して、雲の厚さも相まってか、肌の色は少し青くなっていました。
家まではそう遠くない、しかし独りの帰り道は、影の黒さが足を掴んで、とぼとぼとしか歩けなかった。
寒さが囁いてきます。
私は、今日を上手くやれたのか。
先生は、私を愛らしい幼子だと、心の底から微笑んでくれたのか、あの笑みは偽りで、子供の私には破れない仮面だったのではないか、明日の先生は今日の先生と同じだろうか。
思考はぐるぐると、渦を巻いて、目のない真ん中へ落ちていきます。
寒気と混じったその澱は、膀胱にいたり、尿意が私を急ぎ家へと帰らせました。
家の前に着いた時、膀胱は既に破裂寸前でした。
どあをがちゃり。
鍵は閉まっていません。
小さな小さな声で、ただいま、と唱えました。
誰かに言ったけど、誰にも聞こえないように唱えました。
ばたん、と大きな音を立てて、閉まるドア。
鍵は閉めません。
私を感知した電灯がパッと光りました。
靴を蹴り脱ぎ、そろそろと忍び込むように部屋へ行きます。
「おい、帰ったんならただいまくらい言えよ。」
大きく、頭蓋に響く声が聴こえます。
私は、びくりと立ち止まります。
「ごめんなさい、ただいま。」
「おん。」
兄でした。兄の方が先に帰っていました。
少し、何かを待つようにその場で立ちすくんで、何事も無かったので部屋へと向かいました。
真っ暗な部屋はいつも恐ろしく、足元の不安を避けるように、一足飛びで電灯の紐まで急ぐのでした。
手をぶんぶんと振り回し、捕まえた紐を一生懸命に引っ張り、着いた灯りは1日の終わりのような安心を私に与えました。
キラキラと輝く畳の目。
壁に貼られた、ひらがなシート。
畳まれていない布団の上に寝転がり、天井を見つめました。
ふと震えが走り、私に膀胱の危機を思い出させます。
ランドセルを、布団の上に投げ捨て、トイレへと小走りで向かいます。
せっせと、自分を急かし走ります。
兄の部屋の前を通ったとき、突然。
「はじめえええ!!」
と、私を呼ぶ号令が鳴り響きました。
私は反射的に
「はぁい!」
と返事をしました、聞こえるようにしました。
「お前、やることやっとんか?昨日頼んだよな。」
頭の中を針のような痛みが走ります。
「ごめんなさい、まだです。」
と、私は言いました。
すると、どあが、がちゃり。
真っ黒で大きな兄が出てきて
「お前、なんなん?昨日言うたよな?風呂に水貯めとけって。言わんかったっけ?」
「言いました。」
「なんでやってないん?なんで?」
私の目を真っ直ぐと見る、兄の目、それに私は寸分違わず視線を合わせます。
「忘れてました。」
恐怖で尿意が全身に拡散して、足がぶるぶると震えます。
「お前」
と聞こえた時、ごん、という音がして、目の前が暗くなりました。
「何しとんお前。」
経験のない異常な暗闇は、あまりにも恐ろしくて、このまま死んでしまうのか、と涙が溢れました。
頭を殴られた、と気づいたのは、視界が元に戻ってからです。
兄は、そんな私の異常を感じなかったようで
「いい加減にしろよ。」
と言って、もう一度私を殴りました。
ごん、と殴られました。
「ちゃんとやっとけ。片付けもしとけよ。」
と、兄は部屋に戻りました。
どあが閉まったあと、部屋から盛れる光すら消えた廊下は、死を感じるような暗闇で、私の身体は思い出したかのように膀胱を破壊しました。
恐怖と羞恥はふつふつと音を立て、なぜ私が殴られるのか、自分でやればいいのに、なぜ私がやらなければならないのか、私は何を間違ったというのか、私は何も間違っていないのに、人が人を殴ることが1番おかしい、どうしてこんなことが罷り通るのか、なぜ私がこんな目に会うのか、と思考が止まりません。
でも、俺が、やってなかったのが、原因だ。
そうやって自分を守るしかなかった、それは事実で、正論で、根底の破綻した暴論だとしても、その合理に縋るほか無かった。
溢れる不条理の液体が足を伝う時、思考は止まり、溢れる涙の熱が、頭に登り、爪を深く深く、掌に突き刺しました。
頭に腫れ上がるこぶを、擦るようにして冷やし、必死に隠す日常、その日常を私は正しいものだと思う他ありませんでした。
夜とは、なんでしょうか。
私にとって夜とは、怪物のやってくる時間でした。
見えない怪物、孤独の権化とでもいいましょうか。
影より黒いその化け物は、身体のあちこちをまさぐります。
軟骨が曲がるほど耳をこねくり回し、耳たぶをつぶし、腹の上をなぞる様に這い回り、脚をくすぐります。
耳や目にある隙間から中に入れば、骨をくすぐり、臓器を掻き乱し、頭が痛くなる。
私は、そんな苦痛から逃れるようにして、早く終われ朝になれ、と願いながら強く目を瞑るのでした。
朝は朝で、嫌いでした。
体を虫のように点々と蠢く倦怠感は、いつも風邪なんじゃないかと感じていました。
学校に行くことを考えると、その虫たちは嬉々として私の肉を啄みはじめ、動けなくなってしまいます。
しかし、カーテンに映る神様が、私に起きろ起きろと、
強く問いかけるので、仕方なくいつも起きるのでした。
パジャマを脱いで、服を着ます。
パンを焼き、バターを塗って食べます。
ドアの前に立って、
「行ってきまーす。」
と、大きな声でいいます。
静寂の響く家だけが、返事をしました。
朝の空は好きでした。
青というより蒼のような色が好きでした。
日によって違う、雲の形も好きでした。
大きな歩幅で歩いていると、
「おはよー。」
友達でした。
「おはよー。」
返事をします。
「宿題やった?」
「やってねぇー。」
「俺も俺も。」
いつも私たちはやっていませんでした。
「さみぃなあ。」
「冬やしな。」
友達は言いました。
「鼻赤くなっとんで、萌。」
私は、生まれた時、女の子だと思われたらしく、可愛らしい萌という漢字で、はじめと名付けられました。
私は言いました。
「まじ?トナカイやなトナカイ。栄二は赤い服きとんからサンタやん。」
「確かに、おもろ。」
なんて会話もした気がします。
そんなどうでもいい会話をしながら、いつも学校に向かっていました。
私は、いい生徒ではなかったと思います。
日がな一日中、本を読み、授業中でも本を読み、見せつけるかのように、机の上で本を高く積んでいました。
注意されても、やめる気のない私に、先生は呆れていたのでしょう。
教卓の眼前でさえ、読み続けました。
ある時には、教卓の横に席を運ばれ、読みたいのならそこで読めと、言われる日もありました。
しかし私は、何だこの馬鹿げた行いは、と思いながら読み続けました。
先生の鬱憤を、私は気にしたことがありませんでした。彼らは教育者という、神に近いロボットであると認識していたからです。
段々と発露する先生の怒りで、机や椅子はなくなり、私は困惑しました。
何だこの仕打ちは、と。
私は、気にせず、教室の後ろで本を読みました。
クラスメイトの視線に、頭皮がぴりぴりとして、羞恥心を拭えませんが、私は何も間違ったことをしていないと思っていました。
勉学は、できる方でした。
その自負と、教育の概念が、私の行いを正当化していると、私は間違っていないと囁いていました。
しかし、ある日のこと、遂に先生の怒りは爆発した。
授業中にも関わらず、廊下に呼び出され、しまいには胸ぐらを捕まれ、持ち上げるように首を絞められました。
「お前は、何様か!」
その人は男の先生でした。
「お前の行動がどれだけ授業の邪魔をしとんかわかっとんか!」
何を言っているんだこの男は、私がいつ邪魔をしたというのだ、お前こそが私の邪魔をしたというのに、あまつさえ教育を理由にお前の鬱憤を晴らそうというのか。
小学生高学年といえど、その仕打ちはどうなのでしょう。
僅かな空気を求めようと、呼吸は浅くなり、震える鼓膜は涙を生成しています。
私は、失望していたのです。
教職という社会の絶対者が、人であり、その感情を顕にしたことへ。
人の上を歩く人間が、また人であった。
彼らはどの視座で、物を語っていたのでしょう。
私は、謝ることにしました。
「申し訳ありません。」
「申し訳ありませんだぁ?すみません、ごめんなさい、だろ!」
何様なのだろう。
いや、私も何様のつもりなのだろう。
しかし、私は抵抗もせず謝罪をしているのだ、何も間違ってはいない。
人と人、私は彼を尊重しているのに。
執筆の狙い
作家にならないと生きていけなそうだから。
実存的な問に対する私の答え(その表現まで至ってない)
小説らしきものを書いたことがないので、小説になるよう挑戦。