煙の残響
夕暮れの空は、淡い紫と朱色が混ざり合い、ビルの谷間に溶けていた。冷たい風がベランダの手すりに触れ、ほんの少しだけ金属の匂いを運ぶ。遠くの道路では車のライトが点滅し、静かなざわめきが夜の街に散らばる。
隣家の窓からは、誰かがテレビを消す音や、夕飯の匂いがかすかに漂う。植木鉢の土の匂いが風に混ざり、遠くの線路の鉄の匂いと入り交じる。
そのすべてが淡く混ざり合った空気の中で、燈奈乃《ひなの》はベランダに膝を抱えて座っていた。
街の音、遠くの車のエンジンの音、どこかで鳴く猫の声。
そのどれもが薄く膜を張ったように遠く感じる。その中で、燈奈乃の鼻先だけが、他の匂いとは決して混ざらないひとつの香りを探してしまう。
——たばこの匂い。
もう誰もここで吸っていないはずなのに、ふと風が吹くと胸の奥がざわつく。
煙が頬を撫でた記憶だけが、時間を飛び越えてくる。ベランダにいると、どうしても思い出してしまう。
目を閉じれば、ベランダの風と街灯のオレンジが、自然にあの夜の街角と重なり、燈奈乃は一瞬で戻っていた。
‡ ‡ ‡
コンビニの自動ドアが開くと、冷たい夜風が顔を撫でた。街灯のオレンジ色がアスファルトに長い影を落とし、湿ったコンクリートの匂いが鼻をくすぐる。
遠くで車のライトが行き交い、踏切の警報音がかすかに鳴る。
手に握ったアイスがひんやりと溶け、ポケットの小銭が冷たく沈む。その瞬間、背後に低くて不気味な笑い声が響いた。
「ねえ、ひとり?」
「ちょっと遊ばない?」
肩越しに視線を感じ、心臓がぎゅっと締めつけられる。胸の奥がざわざわして、足元の感覚がふわりと浮く。街灯のオレンジの光が、いつもより揺れて見えた。
軽く笑って誤魔化そうとしたのに喉が詰まり、燈奈乃はアイスを握りしめたまま走り出した。夜風が目にしみて、足音が背中を追いかけて、街灯の光が逃げる影を長く伸ばす。
息が苦しくてどこまで走ればいいかわからなくなっていた。
咄嗟に角を曲がる。冷たい風が髪をばさりと揺らし、遠くの車の音が波のように迫る。吐息が白く夜空に溶け、心臓の鼓動が耳に響いた。
角を曲がった瞬間、赤く揺れる火が目に入った。
「……あー、遅い。待ったんだけど?」
不意に聞こえた気の抜けた声。薄暗い歩道の端、街灯の光を半分だけ浴びた男が、たばこを口にくわえて立っていた。
夜風が吹き、赤い火とオレンジの街灯が混ざり合う。
煙の向こうから見える目は静かで、でもどこか困ったようにやさしく笑っていた。彼が軽く手を引くと、燈奈乃の足は自然とその後を追っていた。
「え…?あの、誰…?」
「初対面のふりしないで。待ち合わせだろ?」
「…あ、あ、そうだっけ!そうです!」
背後の足音が遠ざかっていき、風の音だけが残る。息を整えながら、燈奈乃は震える声で言った。
「ありがとう…ほんとに助かった……」
「別に。たまたま居ただけ」
彼は静かに笑い、煙を上に吐き出した。街灯に照らされた煙がやわらかくほどけ、揺れる光と混ざって夜空へ消えていく。
「でもさ、君、逃げてくる時の顔……」
「え、なに?」
「死んでた」
「え!?ひどっ!!」
「事実だし」
「いや、助けてくれた人が一番最初に言うのそれ?」
彼は声を押し殺すように笑い、肩をすくめた。その笑い声が、たばこの煙を震わせた。
「まあ…嫌いじゃないけど、その顔」
「はぁ…意味わかんない」
「冗談」
彼はまた煙を吐いた。
この夜が、京《きょう》との出会いだった。ただ偶然で出会ったはずなのに、どこか安心して馬があった。
京は静かで、不器用で、でも優しくて。燈奈乃はそんな京にどんどん惹かれていった。たばこの匂いが強いはずなのに、不思議と安心する温度を持っていた。
そのたばこの匂いを、燈奈乃は今でも忘れられない。
ベランダの風がまた吹くと、その匂いが今もふっと鼻先に蘇る。
‡ ‡ ‡
同棲を始めてから、京はいつもベランダでたばこを吸った。昼は柔らかい光が煙を金色に染め、夜は街灯のオレンジがそれをゆらめかせる。そのどの時間にも、京の煙だけが一本の線のように立ち上って、風に消えていった。
「ねぇ京。今日の晩ごはん何食べたい?」
「燈奈乃が作るなら、なんでも」
「…なんでもって言われても困るんだけど!」
「じゃあ…燈奈乃の好きなやつ」
「余計困る!!」
「えーじゃあ…味噌汁」
「渋っ!…ねぇ、京?」
「んー?」
「たばこ吸いすぎ」
「うん、吸ってる」
「開き直らないでよ!寿命縮むからやめてよ!」
「燈奈乃より先に死にたいんだよ」
「ほんとそれ言うのやめて!!」
ふざけているのに、京の声はいつもどこか本気みたいで。
燈奈乃は怒るふりをしながら、内心ではその言葉に胸が少し熱くなるのを感じていた。
燈奈乃はたばこの匂いは嫌いじゃなかった。京の笑い声と混じった煙は、いつも温かかった。肩をすくめる京の声も、笑い声も、煙の匂いも、どれもが同時に燈奈乃の胸に刻まれ、温かくて少し痛かった。
‡ ‡ ‡
今、ベランダに立つ影は燈奈乃だけ。
風が洗濯竿を揺らし、遠くで車のライトが通り過ぎる。胸の奥には、京が居続け胸をくすぶっていた。
子供を庇って死んだと聞いたときから時間は止まったままなのに、煙の匂いだけはいつも燈奈乃を引き戻してくる。
あの頃と同じベランダなのに、空気がまるで違う。
「……京」
呼んだ声は、夜にすぐ吸い込まれた。目の前には街の灯りだけが点々と続いている。震える指でポケットを探り、ひとつの箱を取り出す。
京がいつも吸っていたたばこ。新品のまま残された最後のひと箱。
一本抜き、ライターで火をつける。パチッという小さな音が、やけに大きく響いた。オレンジの火がゆらりと揺れた。
火をつけたたばこは、京の匂いがした。
ゆっくり口元に近づける。この煙を吸ったら、少しでも京に近づける気がした。
その瞬間———
『燈奈乃は吸うな』
耳の横で、煙の温度を持った声がした。ベランダに差し込む風よりも近く、煙よりも確かで、いつもみたいに同じ声で。
笑いながら、冗談みたいに優しい声で。
反射的に振り向く。誰もいない。でもそれは確かに京の声で、ベランダの空気に染み込んでいた。
胸がぎゅっと縮まり、視界が歪む。指先が震え、灰がゆっくり落ちる。たばこの火が小さく揺れながら白い煙がゆらりと立ち上る。
涙がぼとぼと落ちて灰を濡らす。
「…京…なんで、そういうこと言うかなぁ…」
火は消えかけ、煙がゆっくりと立ち上っていく。京の声はもう届かないはずなのに、煙はまるで彼の手のように、燈奈乃の頬を静かに撫で空へ溶けた。
燈奈乃の世界に残されたのは、一本のたばこと、消えない声だけ。
立ち上る煙が、街の光に照らされゆらりと細く伸びる。その線はすぐに風にゆがんで、夜空に溶けた。
胸の奥で消えない京の声がいつまでも響いていた。
執筆の狙い
短編に挑戦してみました。
たばこの匂いは苦手です。ですが、たばこを吸っている姿が様になって見えるのはなぜだろう、なんて思います。
みんなココアシガレットをたばこと交換してしまえばいいのでは、とか考えてます。