作家でごはん!鍛練場
atom

思い出

 朝、駅のホームで電車を待っていると、鳥の鳴き声が聞こえた。空には白い薄い雲が浮かび、秋の涼しい風が吹いていた。電車がやってきて、乗り込むと空いている席があったので、そこに座る。車内にはスーツを着た人や学生と思われる人もいて、皆どこか眠そうにしている。ポケットからスマートフォンを取り出して、経済のニュースを見る。今日の仕事のタスクを思い出しながら、気が付くと会社のある最寄り駅に着いていた。電車を降りて、会社のビルに行く間に何人の人とすれ違ったのだろう。繁華街のこの駅は人で溢れている。社会人になってから、何処か毎日が無機質になった気がする。学生の頃が気楽で楽しかったので、そんな日々を思い出しながら、会社のビルに入る。一階は購買と食事スペースになっているので、僕はおにぎりを二つと温かいお茶を買い、テーブルに座った。おにぎりを食べている間も経済のニュースをずっと調べていた。
 会社のオフィスは五階にある。エレベーターに乗り、オフィスの中にカードキーを使って入ると、他の社員がデスクに座ってもう仕事をしていたので、「おはようございます」と声を掛けた。
 自分のデスクに座り、パソコンを立ち上げると、メールが何件も来ていたので、必要なものには返信をする。
 始業時刻になると、オンラインで朝の朝礼を行う。課長は、今日は在宅勤務だったので、会社には来ていなかった。
「今日は取引先に新商品のプレゼンに行きます。午前中は資料の確認と印刷をして、午後から向かいます」と僕は言った。
 僕らの部署は僕の他に五人の社員がいたが、皆順番に今日の予定を話し、課長がそれに対してコメントしていた。朝礼が終わると、僕はプレゼンの資料を立ち上げて、ミスがないか確認した。手が空いた時には領収書の写真を撮り、データを経理部にメールで送った。そんな風に過ごしているとあっと言う間に昼になったので、同じ部署の後輩の中川と一緒に外に食事に行く。
「今日、プレゼンでしたっけ?」
 中川は僕にそう聞いたので、「そうだよ」と僕は言った。中川は有名私立大学の経済学部を出ていて、今年で二年目の社員だ。少し前までは彼も取引先に連れて行っていたが、今は自分の業務をこなしている。
 定食屋に着くと、二人掛けのテーブルに座り、タッチパネルで注文をした。唐揚げ定食を二つ注文する。定食が来るまでの間、僕は会社のスマートフォンでメールを確認していた。
「先輩はマッチングアプリってやっていますか?」
「やってない」
「彼女いるんでしたっけ?」
「一応」
「一応?」
「ちょっといろいろあってね」
 注文した定食を若い女性の店員が運んできた。僕はまず味噌汁を飲み、ご飯を口に入れる。中川は唐揚げを口に運んで噛んでいた。そんな風に昼休みを過ごして、オフィスに戻ると、取引先へ向かう準備をする。資料を印刷してファイルに入れて、オフィスを後にする。
 ビルを出ると、晴れ渡った空が見えた。今日が快晴なのはよかったと思う。駅の改札を抜けて、取引先の本社に向かう。電車に乗っていると、東京の中心部の景色が見える。ふと地元のことを思い出していた時、電車は目的の駅に着いていた。
 取引先のビルへ行って受付で要件を告げると、担当者を椅子に座って待った。しばらくすると年配の女性がやってきて、会議室に案内された。
「今日は晴れていますね」と女性は言った。
「最近は雨が続いていましたからね」
 会議室の中には五人の取引先の社員がいて、僕はポケットから名刺入れを取り出し、順番に挨拶をした。しばらく雑談をした後、ファイルから資料を取り出し、彼らに配る。
 持ってきたノートパソコンをモニターに繋ぎ、プレゼンを始める。
「新商品はカロリーが大幅に削減されたポテトチップスです」
 僕は入念に調べてきた商品の成分を伝えた。プレゼンが終わると、いくつか質問があって、僕はそれに答えた。何とかプレゼンは順調に終わり、来週取引の契約をすることになった。時間はあっという間に過ぎていき、ビルを出る頃には夕方になっている。オレンジ色の世界の中をただ歩いていた。通り過ぎていく人達は視界に入っているが、僕の意識は仕事のことを考えている。
 駅の改札を抜けて、ホームで電車を待っていると、制服を着た高校生の姿があった。その時、僕は詩織のことが脳裏に過った。僕の恋人で、今は心臓の病気で入院している。明日は土曜日なので、お見舞いに行こうと思った。最近は仕事が忙しくてあまり会えていない。今日は仕事が一区切りしたので、土日は休むことができる。
 そんなことを考えながら、自分の会社のオフィスに戻ると、中川が僕の方へやってきた。
「どうでした?」
「順調に終わったよ」
「契約取れそうですか?」
「多分ね。来週に決まるんだ」
 その日は仕事を早めに切り上げて、定時で退社した。「お疲れ様です」と言い、オフィスを後にする。電車に乗り、住んでいるマンションまでの道を歩いていると秋は日が暮れるのが早いと思う。

 次の日、目が覚めるとカーテンと窓を開けた。このマンションは詩織と同棲し始めた時に契約した。窓の外には駐車場があり、その奥は道路になっている。閑静な住宅街で緑も多かった。詩織と同棲していた頃はよく近所の公園に行った。彼女の笑顔やちょっとした仕草が脳裏に浮かび、切なくなる。
 洗面台で髭を剃り、顔を洗うと、棚に置かれていたシリアルを皿に入れて牛乳を注いだ。僕は詩織に電話をして、今日お見舞いに行くことを伝えた。
 朝食を食べ終えると、午後になるまで本を読んで過ごした。昼にカップラーメンを食べて、部屋を後にする。病院はここから電車で、一本で行ける総合病院だった。電車の中には家族連れの姿もあり、僕は席に座りながら窓の外の住宅街の風景を眺めていた。
 病院に着くと受付で面会に来たことを伝え、詩織のいる病室へ向かった。院内は静かで音楽が流れている。エレベーターで階に着くと、病室まで歩いて行き、ドアをノックした。
 ドアを開けると詩織がベッドに腰掛けていた。紺のスウェットを着ていて、表情は少しだけ元気になっているように見える。
「わざわざ悪いね」と彼女は言った。
「病状はどうなの?」
「この間の手術は上手くいったみたい。今はリハビリしてるの。問題なければ、一ヶ月後には退院できると思う」
 彼女とは大学で出会った。卒業後は、彼女は大手のスポーツ用品のメーカーに勤めていた。
「仕事には復帰できそう?」
「たぶんね。ようやくここまで来たんだ。長かったけど」
 彼女の心臓の病気が発覚したのは、社会人になってからだった。薬を飲みながら、経過を見ていたが、この間手術をすることになった。会社は、今は休職をしていて、僕と彼女の家族が面会に来ていた。
「元気そうでよかったよ。退院したらまた一緒に住めるんでしょ?」
「検査で問題なかったらね」
 病室の中は白い壁で覆われているがどこか温かみがある。僕は彼女の様態がよかったことに安堵した。
「屋上に行かない?」と彼女は言った。
 僕らは病院のエレベーターに乗り、最上階へ行って、階段を上り屋上のドアを開けた。屋上は高い金網で覆われていて、僕ら以外いなかった。詩織は背伸びをして、空を眺めている。
「今回病気になったのは人生を見直す上でよかったと思うんだ」と彼女は言った。
 屋上からは街の景色を眺めることができた。
「どう思ったの?」
「当たり前のことが当たり前じゃないと知ったんだ。それまでは普通に生きていることに感謝もしなかったからさ」
 彼女はそう言うと、屋上の手すりにもたれかかる。僕はそんな姿を見ていて、確かにいい面もあったのかもしれないと思う。以前より彼女はどこか前向きになっている気がしたし、力が抜けたような印象がある。
「でも大変だったんでしょ?」と僕は聞いた。
「確かに辛かったよ。今でも思い出すんだけどさ。もしもう一度この人生が繰り返すならこんな体験はもうしたくないね。でも人生は一度きりだと思うし、これから先はこんな風に辛いことは起きないかもしれないでしょ?」
 彼女は隣にいる僕の顔を見つめている。僕はそう言われて自分の人生を思い出した。進学校に行き、有名な大学を出て、大手の企業に勤めている。でも僕にだって確かに辛いことはあった。プレッシャーで押しつぶされそうな時もあったし、辛い別れを経験したこともある。そんなことを考えていると、空の上を飛行機が通過していくのが見えた。
「退院したらさ、海外に旅行に行かない?」
「何処に行きたいの?」
「ギリシャとかフランスとか。ヨーロッパはまだ行ったことがないんだ」
「いいね。仕事に復帰する前にきっといい思い出になるよ」
 有給はある程度残っていたので、一週間くらいなら旅行に行けるかもしれない。僕はぼんやりと東京の街を見下ろしながら、懐かしさを感じていた。その感覚は若い頃に感じていた世界のようだった。毎日が新鮮で充実していて、そんな日々を頭の中で思い返すと、なんだか少し幸せな気持ちになる。
「綺麗な空だね。いつも思うんだけどさ、辛いことがあった時は空を眺めることにしているんだ。そうしているとこの世界も案外悪くないものだと思えるから」
「僕も景色を見るのは好きだよ。僕の地元は田舎だったからさ、毎日美しい自然を眺めていたんだ。そんな情景が時々頭に浮かんでさ」
 僕らは長い間、屋上で会話をしていた。きっとこの時の記憶をこの先の人生で思い返すかもしれない。その時に僕はこの時間をどんな風に思っているのだろうか。
 面会時間が終わると、僕は病室を後にした。彼女は笑顔だったし、希望があるようだった。入院する前は辛そうな彼女を見ていたので安心する。病院の建物から出ると、夕暮れに街が包まれていた。オレンジ色の空がどこまでも続いている。僕はポケットからスマートフォンを取り出して写真を撮った。なぜだかわからないけど、今日は特別な日だったと思う。写真は綺麗に撮れて、小さな画面に夕暮れの空が映っていた。

思い出

執筆の狙い

作者 atom
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定期的に書いている短編を、今回も書いてみました。会社員の日常を描いてみました。

コメント

平山文人
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atomさん、作品を拝読させていただきました。

atomさん自身の意志や考えは分からないのですが、この作品からいわゆる春樹的なものは一切感じませんでした。
つまりこの作品はatomさん自身の作風の小説という事が言えると思います。比喩や文体の装飾を控え、
写実的に文章を書いているのがよく分かります。ただ、少し説明調の部分があるな、とも感じます。

例えばここです。
「この間の手術は上手くいったみたい。今はリハビリしてるの。問題なければ、一ヶ月後には退院できると思う」

詩織と僕(の名前が最後まで明かされないのは意図的でしょうか)はその日の朝にも電話をしていますし、
この時まで手術の成功や経過を知らない、聞かされていない、というのは考えにくいです。
つまりこの会話が読者への説明として機能してしまっているのですね。こういうのは余り好まれないようです。

この作品には明確なテーマがありますね。「健康のありがたさ」「復活という希望」ですよね。
健康ではあるが仕事をこなすだけの退屈な日々を送る「僕」と、病床に臥せるしかない毎日を送っていた「詩織」
この二人の対比をより鮮やかにするために、手術前の日の回想を入れて、難病に苦しみながら、未来のために
手術に向かった詩織の姿と、ただ祈ることしか出来ない、元気だが無力で祈る事しか出来ない僕、というような
場面を書いておくと、なお詩織の「人生を見直す上でよかった」という言葉が重みを増すと思います。また、
この場面での僕の葛藤を書いておくと、私達読者に対し、身の回りの人が病気になった時、何か出来る事はあるだろうか、
どう振舞えばいいだろうか、等と考えを促す効果もあると思います。

atomさんがご自身の作風を確立させていっている事、とても素晴らしいことだと思います。私も頑張ろうと思います。

atom
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平山文人様

有意義なご意見ありがとうございます。
村上春樹から脱却しているということでよかったです。村上春樹の小説には会社員の登場人物が少ない気がするので、会社員を描いたことは利点だったかもしれません。読者に説明的というのはその通りだと思います。リアリティもある程度は追求したのですが、詩織の手術の結果を知らないというのは確かに現実的ではないですよね。辛い経験から立ち直るというのが今回の作品のテーマですが、手術前の回想は確かに入れてもよかったと思います。その方が小説としてはいいですよね。貴重なご意見参考になりました。お互い頑張りましょう。

夜の雨
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atomさん「思い出」読みました。

たしかに「思い出」からみ、ですね、情景が絵になっていました。
その絵になる情景が御作ではいくつも出て来るのですが、主人公の心理状態を反映しているのですよね。
家から仕事先のオフィスに行く過程などもしっかりと描かれていて、主人公と一緒に生活していて会社へ出勤しているようです。
つまりリアルティーがあるという事です。

オフィス内での仕事ぶりも描かれていましたが、違和感がなくて、イメージが浮かびました。


問題は、入院している彼女とのエピソードなのですが、これもしっかりと描かれていてました。
入院先の病院へ行くのですが、「病室の中は白い壁で覆われているがどこか温かみがある。」などの描写も行き届いていますね。
これがあるのとないのとでは、えらい違いなので。

屋上でのエピソードの「あたりまえが、あたりまえでない」うんぬん、のお話も人生観があり、よいと思います。

結局のところ、御作は主人公の仕事への熱意から、社会(出勤途中で見かける人物やら、新聞ほか景色)への視線とか。
同棲していた彼女への愛情とか、よく、描かれていたのではありませんかね。

なかなかよかった。
読んでいて、私も主人公と一緒に、日常やら人生を暮らしたような気がしました。


読後感のよいものを読ませていただきました。

atom
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夜の雨様

コメントありがとうございます。
描写が情景が描かれていたということでよかったです。最近は描写を意識して加えているのでその効果があったかもしれません。人生観があるということで、今回の小説はある程度テーマを決めて描きました。あまりテーマの内容は追及しなかったのですが、問題なさそうなのでよかったです。読後感がよかったということで、そのような小説が書けてよかったと思います。丁寧に読んでいただきありがとうございました。

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