明日、貴方に逢うための80年。
第二章:夜明けの前の祈り
家の中では、母が小さな明かりのもとで針仕事をしていた。布を通る糸の音が、夜の静けさの中に細く響く。その向こうでは、蘭子と柚子と茅が布団を並べて眠る準備をしている。
灯りは裸電球ひとつ。黄色い光が畳の上に丸い影を落とす。桜子はその影を見つめながら、胸の奥に沈んでいくような心地で息をついた。
――あれは、夢だったんじゃろうか。
夕方のことを思い出す。夕暮れの道で、息を切らして駆けてきた柚子の顔。泣きそうなほど蒼ざめていた。
『誠さんが……怪我したんよ』
その言葉を聞いた瞬間、桜子は足を踏み出していた。
『どこなん!今すぐ行かんと!』
夕陽の残る空を見上げながら、ただ一心で走ろうとした。けれど、柚子が桜子の腕を掴んだ。
『桜子姉ちゃん!もう日が暮れるんよ!』
『でも!』
『危ないけぇ!防空警報が鳴るかもしれん。…明日の朝いちにしよう。な?』
柚子の目は真剣だった。
『怪我をしたとしか聞いてないけど、生きとる。きっと大丈夫。…今は、信じよう』
桜子は唇を噛んだ。胸の奥で何かがぎゅっと締めつけられる。頭ではわかっていても、心がじっとしていられなかった。
――“生きてる”という言葉だけが、唯一の救いだった
それを信じようと思えば思うほど、胸の奥に広がる不安は形を変えて大きくなっていった。
――あの人も、今どこかの診療所で同じ空を見とるんじゃろうか。
――痛くはないじゃろうか。
――誰かがちゃんと手当てしてくれとるんじゃろうか。
考えても答えは出ないのに、思い浮かべずにはいられなかった。
「桜子、もう寝んさい」
母の声がやさしく響く。
「明日、早うから診療所に行くんじゃろ」
「うん……」
そう返しながらも、体は布団に沈まなかった。
∞ ∞ ∞
夜が深まると、外の虫の声がいっそう濃くなった。闇の中からは、時折、どこかの犬の遠吠え。風が通るたび、竹の塀が小さく軋む。
桜子は布団の中で膝を抱え、天井を見上げた。木の節目が黒く浮かび上がって、まるで誰かがそこから覗いているように見える。そのたびに、胸の鼓動が早くなった。右を向いても、左を向いても眠れない。
目を閉じれば、誠の姿ばかり浮かぶ。笑った顔、怒った顔、汗を拭う仕草、ふと見せた寂しげな横顔。どの顔もくっきりと浮かんで、まるで今ここにいるように思える。
「誠さん……」
小さく呼んでみる。けれど返事はない。その当たり前の静けさが、ひどく辛かった。
外から、防空警報の試験音が一度だけ鳴った。遠くの方角で赤い光が空を照らし、すぐに消える。町のどこかでは、警防団の笛の音が鳴っている。
慣れた様子で布団の中でじっと息をひそめ、また静寂が戻る。慣れてしまったことが、かえって怖かった。桜子は布団の端をぎゅっと握りしめた。
「……どうか、無事でいて」
声に出すと、喉が熱くなった。祈りというよりも、願いというよりも、ただ息のようにその言葉がこぼれ落ちた。風が吹いて、障子がかすかに鳴った。その隙間から入ってきた夜風が頬を撫でる。ひんやりとしたその感触に、桜子はようやく息を吐いた。
「生きとるって……柚子が、言うとったけぇ」
自分に言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。その言葉を繋ぎとめていなければ、心がどこかへ崩れてしまいそうだった。やがて、家の中はすっかり静まり返った。母の寝息がゆっくりと続く。
柚子が寝返りを打つ音。それだけが夜の底に微かに響く。
桜子は目を閉じた。夢の中で誠の姿を探そうとしたが、見つからない。代わりに、川の流れのような音が耳の奥に広がる。それが現実なのか夢なのかも分からないまま、夜がゆっくりと流れていった。
∞ ∞ ∞
蝉の声が、夜の静けさを押しのけるように鳴きはじめた。最初は一匹だけ。
その声に呼応するように、次第に幾つもの声が重なり合い、夏の朝がゆっくりと動き出していく。
桜子はまだ眠っていなかった。夜通し、布団の中で何度も寝返りを打ち、何度も誠の名を心の中で呼んだ。けれど眠りは一度も訪れず、気づけば障子の向こうが白みはじめていた。
体を起こすと、畳の冷たさが足の裏に心地よく伝わる。一晩中握りしめていた手を開くと、爪の跡が掌に赤く残っていた。胸の奥には、焦燥にも似た熱がまだくすぶっている。
「……行かんと」
誰に言うでもなく呟いた声が、薄明の静けさの中に沈んでいった。
∞ ∞ ∞
母はすでに起きていた。台所では、火鉢の炭が赤く灯っている。母の横顔がその光に照らされて、静かに浮かび上がっていた。手元では鍋の湯がゆるやかに揺れ、味噌汁の匂いが漂っている。
「桜子、早いね」
母がふと顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「寝られんかったんじゃね」
桜子は黙って頷いた。母はすぐにそれ以上は聞かず、湯呑みにお茶を注いで差し出してくれた。
「これ飲んで。顔色悪いけぇ」
湯呑みを受け取ると、手の中でじんわりと温かさが広がる。口に含むと、渋みとほのかな香ばしさが喉をすべっていった。少しだけ、心の奥が落ち着く。
「柚子と蘭子が言うとったけど……誠さん、怪我をされたんじゃね」
母の声が静かに響く。桜子は唇を噛みしめ、うなずいた。
「でも、生きとる。……それだけで、ありがたいことよ」
母の言葉に、胸の奥の緊張が少し緩む。母の声は、いつも不思議と温度を持っていた。まるで冷たい水の上に、朝日がゆっくりと射していくような優しさ。
台所の隅でお茶を飲み終えた桜子は、そっと湯呑みを置いた。
指先はまだ微かに震えており、胸の奥では昨夜から燃え続けている小さな焦げつくような不安が、息をするたびにうずいた。
母は鍋の蓋を開け、味噌汁の温度を確かめてから、静かに火を弱めた。
「さ、桜子。体、動かしんさい。朝になったんじゃけぇ」
言われて、桜子はゆっくり返事をした。
「……うん」
台所の床板は朝の冷気でひんやりとし、心が少しだけ落ちついた。
障子の向こうが少し白みはじめた頃、家の中の空気は静かに形を変えた。
夜の気配が後ずさるたび、庭木の陰では蝉がひとつ、またひとつ、ためらいがちに声を上げる。
台所の床板にはまだ夜の冷えが残っていて、裸足で立つとその冷気が足の裏からそっと上ってきた。
雨戸を半分開けると、外の空気が一気に入り込み、湿った朝の匂いと蝉の声が押し寄せた。東の空はまだ淡い灰色を帯び、雲の切れ間だけが薄桃色の光をにじませていた。
「お母ちゃん、菜っ葉切るの手伝うけぇ」
桜子が声をかけると、母は小さく頷き、まな板をゆずってくれた。包丁の音が、静かな家の中にトントンと規則正しく響く。その音だけが、桜子の揺れる心を辛うじて繋ぎ止めてくれていた。湯気の立つ味噌汁に菜っ葉を落とすと、青々とした匂いがふわっと広がった。味噌を溶いたばかりの匂いが、朝の湿り気を含んだ家の隅々に染み渡っていく。その匂いは、まだ誰も起きてこない家族をやさしく揺り起こすようだった。
そのとき、奥の襖がかさりと動いた。
「……おはよ」
眠たげな声で蘭子が出てきた。髪が片方だけ跳ねており、目元にはまだ眠気が残っている。けれどその姿を見ただけで、桜子の胸が少しほどけた。
眠気を残した声に、母が振り返り「おはよう」と微笑む。
蘭子は台所の温かさに触れた途端、安心したように小さく息を吐き、母のそばへしゃがんで炭の番を始めた。火かき棒が炭を少し寄せるたび、黒い塊がわずかに崩れて、かちり、と音が落ちる。
「蘭子。まだ眠かったら寝ときんさい」
母が声をかけると、蘭子は首を振った。
「桜子姉ちゃん、今日行くんじゃろ?診療所」
「……うん」
「なら、一緒に行く」
言い切る声は小さいのに、芯があった。頼もしく感じると同時に、桜子の喉の奥にじんわり熱が集まった。
しばらくして、柚子が髪を結びながら現れた。割烹着の紐を急いで結び、まだ重たい目をこすりながら鍋の匂いを嗅ぎ様子を確認する。
「おはよう…桜子姉ちゃん、顔、ちょっと青いよ?」
「寝れんかったけぇ」
「……わかる」
柚子は静かに味噌汁の鍋を見つめ、火加減を調えてくれた。口数は少ないけれど、その気遣いが胸に沁みる。
柚子は台所の隅へ移り、静かに箸や茶碗を揃え始めた。台所のあちこちで小さくものが触れ合う音が響き、家の中に朝が満ちていく。
その音に誘われたように、布団のある部屋で急に大きな音がした。その後どたどたと畳を蹴る足音がして、次の瞬間、桜子の背中へぶつかるように抱きつく。
「ねぇね…おはよ……ねむい…」
背中には茅がぴったりとくっついていた。まだ夢の中の温もりを引きずっていて、腕の力が頼りない。桜子が振り返って撫でると、茅は不意に顔をゆがめながら聞いた。
「桜子姉ちゃん、今日もどっか行くん……?」
その声は眠気と不安が混じって、か細い。その問いに返事をする前から、胸がきゅうっと締まった。
「診療所に行くだけよ。すぐ帰るけぇ」
桜子が優しく言うと、茅は小さな眉を寄せながら桜子を見上げた。
「いっしょに行く……」
柚子がそばからやわらかく手を伸ばし、
「駄目よ。茅は柚子姉ちゃんとお留守番。お母ちゃんを守る日よ。昨日みたいに。な?」
と囁くと、その言葉がゆっくりと茅の体に沈んで、ようやく大人しく柚子の膝へ寄りかかった。柚子は苦笑しながら茅の髪を梳き、
「茅、お母ちゃんのこと守るって言うたじゃろ?」
「……ん……」
「今日も、大事な役目なんよ」
そう囁くと、茅はようやくしぶしぶ頷いた。
台所の空気が、人の気配であたたかく満ちていく。火鉢の赤い光、鍋の湯気、味噌の匂い、子どもたちの寝起きの体温。その全部がひとつの場所に重なり、戦時下の朝とは思えないほど穏やかだった。
やがて朝食が揃い、ちゃぶ台の上に湯気がゆっくり漂った。外では蝉が一斉に鳴き始め、風鈴が涼しげに鳴る。障子越しに差す光はまだ柔らかく、家族の顔を淡く照らし出していた。
桜子は湯気の向こうに揺れる家族を見つめながら、胸の奥に潜む不安をそっと押し込めた。
∞ ∞ ∞
台所の湯気がゆるやかにとけていく頃、家の中の空気はもうすっかり朝になっていた。窓の外では蝉が勢いを増し、まだ柔らかい日差しが障子の紙を白く透かしている。
畳の上に落ちたその光は薄い金色で、静かな家に淡い温度を与えていた。
桜子は箪笥の前で紺の着物を取り出すと、袖を広げた布がふわりと空気を
はらみ、わずかな澱をはたき落としたように見えた。指先が震えそうになる
のを胸の奥で押さえ込みながら、帯をきちんと締める。
帯の結び目が固く決まると、心もほんの少しだけ形を整えてくれる気がした。布団を片づけていた蘭子が、桜子の背中をちらりと見て、静かに声をかけた。
「……桜子姉ちゃん。紐、ちょっとねじれとるよ」
「え、あ、ほんまじゃ……ありがとう」
蘭子が近づき、桜子の背中にそっと触れて帯の紐を直す。直し終えて少し離れると、蘭子は小さく息を飲んだような顔つきで桜子を見つめている。その視線の奥に、不安と覚悟がひとつに混じっていた。
母は茶の間で出かける支度を手伝おうとしていた。古い籐の籠を取り出して、必要になりそうなものをひとつひとつ確かめる。
手拭い、小さな薬袋、折り畳んだ布巾。何かあったとき“すぐ対応できるように”と、母はいつも必要以上にものを入れたがる。
「お母ちゃん。今日は診療所だけじゃけぇ、そんな大層なもんは要らんよ」
「…わかっとるよ。でも、持っとるだけで安心するんよ」
母は籠の口をきゅっと結んだ。その手つきが、桜子の胸にひどく沁みる。
安心したいのは母だけでなく、自分も同じだと痛いほどわかるからだ。隣では、柚子が茅の髪を結い直していた。茅は不服そうに頬を膨らませて、結ばれていく髪をじっと睨んでいる。
「やだー。桜子姉ちゃんと行くんじゃ」
「茅、今日はお留守番言うたじゃろ」
柚子の声は穏やかだけれど、奥に少しだけ強さがあった。
「ほいじゃけど……」
「ほいじゃけど、じゃないよ。お母ちゃん守るんじゃろ?」
説得されてもしばらくは不満そうにしていたが、桜子がしゃがみこんで茅の小さな手を握ると、茅はぴたりと黙った。
「すぐ帰るよ。ほんまにね」
「……ほんま?」
「ほんまよ。約束する」
その言葉に、茅はやっと指を離し、柚子のそばに素直に寄り添った。髪の先に結ばれた赤い紐が、少し揺れた。玄関近くで草履をそろえていた蘭子が、顔だけ振り返る。
「桜子姉ちゃん、日よけの手拭い、持っていったほうがええよ。今日は暑なりそうじゃけぇ」
「そうじゃね…ありがとう」
桜子が手拭いを取ると、その布越しに、外から吹き込む朝の風の冷たさが指に伝わった。
夏の気配を含んだ湿った風。
それは外の世界が、自分たちの生活とは違う速度で動いていることを知らせてくるようだった。
母が玄関まで来て、桜子の肩にそっと手を置いた。
「言われたこと、よう聞きんさいよ。慌てんでええけぇ」
「うん…わかった」
「何があっても、ひとりになったらいけんよ。蘭子、しっかりついていきんさい」
「うん、わかっとる」
蘭子の返事は短いけれど、迷いはなかった。桜子は深く息を吸った。胸の奥で固く丸まっていた不安が、息と一緒にほんの少し溶けていく。
蝉の声が外から押し寄せ、日差しが障子の紙をさらに明るく照らし出した。草履の鼻緒に足を差し込み、きゅっと締める。その瞬間、家全体のざわめきが静まったように感じた。
「…ほいじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「姉ちゃん、気ぃつけてね…!」
「すぐ帰ってきてよ…!」
後ろから飛んでくる声を背中に受け、桜子と蘭子は並んで玄関を開けた。
まぶしい光と、湿った夏の風が一度に押し寄せる。家の中の匂いと外の匂いが入れ替わるその一瞬、桜子は胸の奥で、ひとつだけ強く祈った。
――どうか、今日、何事もありませんように。
その祈りを抱えたまま、二人は診療所へ向かう道へ足を踏み出した。
∞ ∞ ∞
外に出ると、朝の光がすでに強かった。昨夜の雨で湿った土の匂いが立ち上り、空気は重たく、どこか息苦しい。家々の屋根は薄く光を受け、遠くの山並みの稜線が霞の向こうにぼんやりと浮かんでいる。
道を歩き出すと、町はまだ静かだった。遠くで列車の汽笛が響き、空には白い雲がゆっくり流れている。
「蘭子、診療所ってどのへんなん?」
「比治山の手前の、川沿いのとこやないかな。前に防空演習で行ったことある」
「そうか……」
二人は肩を並べて歩く。
道の両側には、崩れかけた家屋や、焼け残った建物が点々と並んでいた。戦火が広がるたび、広島の街の景色は少しずつ変わっていった。それでも、人々はいつも通りに道を歩き、工場へ向かい、洗濯物を干している。
空は青く晴れ渡り、まるで何事もないような夏の朝だった。
けれど、どこか遠くの空で、低いエンジン音のような響きが微かに聞こえる。それでも誰も顔を上げない。
道端には、麦わら帽をかぶった子どもが空き缶を拾っていた。女学生の一団が、鍬を担いで通りを抜けていく。その顔には疲労と諦めと、ほんの少しの誇りが混ざっていた。
「…昨日、誠さん、どんな様子やった?」
桜子が恐る恐る尋ねる。蘭子は少しうつむき、言葉を選ぶように答えた。
「よぅ分からん……町の人が知らせてくれたんよ。訓練中の事故だって」
「意識は……あるん?」
「うん。たぶん、大丈夫」
桜子は胸に手を当てた。
心臓の音が、蝉の声よりもはっきりと聞こえる。
「生きとる」――その言葉だけが、道を進む力になった。
道端で、防空壕の入り口に砂袋を積む人々、赤い腕章をつけた警防団が見回りをしている。町全体が、静かな緊張に包まれていた。
∞ ∞ ∞
太陽が高くなりはじめると、空気は一気に熱を帯びた。頭の上ではアブラゼミが喉を裂くように鳴いている。足元の砂利道からは焼けた土の匂いが立ち上り、靴の裏に熱がこもった。
診療所が見えたのは、それからしばらくしてだった。
「あそこじゃ」
蘭子が指を差す。
診療所は、瓦屋根の低い平屋だった。元は町の小学校の分教場だった場所を、臨時の医療所に変えたという。
入り口には「負傷者収容所」と書かれた板が立てかけられ、土嚢が積まれた脇を人々が静かに出入りしていた。
桜子は包みを握る手に力を込めた。胸の鼓動が早くなり、息が浅くなる。
「行こ」
蘭子の声にうなずき、二人は門をくぐった。
∞ ∞ ∞
診療所の中は、薬の匂いと汗の匂いが混ざり合い、薄暗い光が白い壁を冷たく照らしていた。狭い廊下には、包帯を巻いた兵士や町の人々が並び、誰もが痛みと疲労を抱えていた。
奥からは看護婦たちの慌ただしい声が飛び交い、外の蝉の声もかき消されてしまうほどだ。桜子は足元を踏みしめながら、ひたひたと胸の鼓動が早まるのを感じた。
桜子は受付の机に手をつき、息を震わせながら尋ねた。
「山下誠さんは…こちらにいらっしゃいますか?」
白衣の女性が顔を上げ、桜子をじっと見つめる。
「山下さんですね…奥の病室で安静にされています。ただ……」
その一瞬の間が、桜子の胸を締めつけた。
「…足に大怪我をされています。複雑骨折のため、もう歩けないかもしれません」
頭が真っ白になり、何かを返そうとしたけれど言葉が出ない。喉の奥が熱くなり、息が浅くなる。思わず手を握りしめ、指の先が痺れるような感覚を覚えた。
桜子の脳裏に、笑顔で戦場を駆け抜ける誠の姿が浮かぶ。あの元気な誠が、もう自分の足で歩けないなんて……胸の奥が押しつぶされそうになった。
「…面会は、少しだけなら」
薄暗い廊下を歩き、カーテンで仕切られた病室をいくつも通り過ぎる。ひとつひとつの部屋の明かりや音が遠ざかるたびに、胸が早鐘のように打ち、手足が震えた。足が自然に速まり、汗ばんだ手で胸を押さえる。
そして、奥の一室の前で、桜子の時間はゆっくりと止まった。
ベッドの上に誠がいた。額には引っ掻かれたような傷跡、膝から下は厚い包帯で覆われ、布の下から血のにじんだ跡がわずかに見える。
顔色は蒼く、汗が額を伝っていた。かすかに息をつくたびに胸が上下し、その音が小さく聞こえる。
それでも、桜子に気づくと誠は弱々しく微笑んだ。
「……桜子」
そのかすれた声を聞いた瞬間、桜子の視界が滲み、胸の奥が締めつけられる。手が震え、膝から力が抜けそうになった。
「誠さん……!」
駆け寄ると、誠は静かに笑い、桜子の手を取った。
「ごめんな。心配かけて」
「なんで…なんで、そんな無理ばっかりするん?うちは…もう、心配で心臓が破けそうや……」
涙が止めどなく溢れ、頬を伝う。誠がそれを指先でそっと拭いながら苦笑した。
「訓練中にな…味方の爆弾が間違えて飛んできて、運が悪かっただけだよ」
その声にはいつもの強さがなく、弱さと不安だけが混じっていた。桜子はそ
の弱さを見て、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、涙腺を刺激される。
「歩けんようになったって…ほんまなん?」
言葉が震える。桜子は手のひらで彼の手をぎゅっと握り返す。しばしの沈黙のあと誠は目を伏せた。カーテンの隙間から吹き込む風が、包帯の端を揺らした。
「…ああ。もう、自分の足では歩けないらしい。戦場にも戻れない。足が動かないってことは…今までできてたことも、もう、できない」
桜子の胸の奥で、何かが音もなく崩れた。心の底から湧き上がる安堵と恐怖、切なさと愛しさが交錯する。手のひらで誠の手をぎゅっと握り返す。手の温もりが、自分の鼓動をさらに強く感じさせた。
過去の記憶が頭をよぎる。二人で夜の街を歩いた帰り道、雨に濡れた肩を寄せ合ったこと。一緒に笑ったあの夜。戦場の合間に交わした何気ない会話。
そのすべてが、いま目の前の現実と重なり、胸をぎゅっと締めつける。
けれど、涙は流れなかった。代わりに、心の底から湧き上がる何かがあった。桜子は誠の手をぎゅっと握った。
「…うちはそばにおるけぇ。誠さんの足になる。ずっと、ずっと。誠さんが生きとる。それだけで、もう、何も怖くない」
桜子は誠の手を強く握り締める。手の温もりが、逆に自分の鼓動を強く感じさせた。誠は目を細め、少しだけ視線を逸らした。そして、弱く笑った
「…ありがとう。やっぱり桜子は強いな」
「強くなんかない。…でも、誠さんが生きとる。それだけで、うちは何でもできる気がするんよ」
言葉が詰まり、桜子は小さく息をついた。
しばしの沈黙。カーテンの隙間から風が吹き込み、包帯の端を揺らす。桜子はそっと誠の額に触れた。冷たいけど、確かに生きている温度が伝わる。
「誠さん…痛いんか?」
「…まぁな。でも、もう慣れた」
「慣れたって…そんなん…あかんやろ」
桜子は涙を堪えつつ、震える声で言った。
「怖かったやろ?うち…怖かったよ、ほんまに」
言葉に力が入らず、ただ胸の中の不安と安堵が混ざった。誠が桜子の頭をなでながら微笑んだ。
「桜子…ありがとな。こうして来てくれて」
桜子はその顔を見ながら、思わずぽろっと漏らした。
「……うち…誠さんが好き!」
言った瞬間、自分でも驚いた。でも、後悔はなかった。ただ、無事で目の前にいることの喜びが、言葉になっただけだった。
誠は一瞬驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。
「……俺も。桜子がいてくれて、よかった」
外では蝉が一斉に鳴き始め、夏の光が白い壁に反射する。二人の間に淡い影を落とす。戦の音が遠くで響いていても、その部屋だけは、時間が止まったかのように静かだった。桜子はそっと目を閉じ、誠の手を握り直した。
「生きてて、よかった…」
誠はその言葉を聞き、桜子の手をもう一度強く握った。戦の音も、痛みも、悲しみも、その一瞬だけは遠くに消えていった。
病室のカーテン越しに、かすかな物音がした。
「…桜子姉ちゃん、もういい?」
蘭子の声は少し決まり悪そうで、まだ恥ずかしそうにカーテンの隙間から顔を覗かせる。薄暗い病室の中で、夏の光が窓から斜めに差し込み、埃混じりの空気を黄金色に染めていた。
「お、蘭子さんも来てくれたのか」
誠は軽く手を挙げて微笑む。白いシーツに包まれたベッドの上で、肩を軽くすくめた。蘭子は少しからかい気味に言う。
「桜子姉ちゃんが誠さんと仲よーしとったけぇ、入りにくかったんよー」
桜子と誠は同時に顔を見合わせ、頬が赤く染まった。桜子は誠と繋いでいた手を慌てて引っ込ませた。誠は少し視線を逸らしながら、頭をかく。
「そ、そがぁなことないよ!」
桜子が慌てて言う。声は少し震えていたが、温かさを帯びている。
「いや、まぁ…でもちょっとその通りかもな」
誠も苦笑いし、桜子のほうを見る。
「でも……誠さん元気そうでよかったわぁ」
蘭子は安堵を交えた声で呟きながらベッドのそばに座る。床に落ちた光の粒が、窓枠の陰と交じり合い、病室の中を揺れている。
「心配かけて悪かった。そういえば桜子、家の方は大丈夫?朝早くから来て」
誠は桜子に向き直り、目を細める。桜子は肩をすくめ、ベッドの上で無造作にある誠の腕に触れながら答える。
「柚子も蘭子も手伝ってくれとるし、なんとかやっとるよ。水や食べ物も少しずつ手に入るようになったし」
「そっか。それなら安心だな。茅は元気か?」
「うん。めっちゃ元気じゃけぇ。家の手伝いもしてくれるけぇ」
「よかった。茅は家の手伝いもできるのかー偉いなぁ」
誠は目を細め、少し笑いながら手を組む。
「相変わらず姉ちゃん子じゃけどねー」
桜子は茅を思い出しつい笑みがこぼれる。
「特に桜子姉ちゃんのこと、大好きじゃけぇねー」
蘭子が桜子を少し羨ましそうな目で見つめた。
「二人とも無理しすぎないようにな」
誠が眉を少し下げながら桜子と蘭子を見た。
「誠さんは心配しすぎじゃけぇ。みんなで助け合うとるけぇ、大丈夫じゃ」
蘭子は手を口にあてて笑い、話題を変える。
「それにしても、誠さん入院して間もないのに、もう元気そうやな。あんまり無理せんとね」
誠は少し肩をすくめ、ベッドの柵を軽く握る。
「まあな…でも、桜子がおるからどうにかなるさ」
桜子は顔を赤らめながらも、笑い、手を握り返す。
「もう……そんなこと言われたら恥ずかしいやん」
蘭子はふふ、と笑いながら、窓の外に目をやる。
「そういや、近所の畑はどうなっとるん?野菜とか少しは育っとる?」
桜子は少し考え込み、肩をすくめる。
「うーん、ナスとキュウリが茂ってきたよ」
誠は興味深そうに目を輝かせる。
「そっか…ナスとキュウリか。茅は喜んでるだろうな。」
桜子は小さく笑う。
「そうじゃね。前も茅が大きいナスができた!って大騒ぎしとった」
蘭子もくすくす笑う。
「子どもは元気が一番やね。見とるだけで楽しくなるわ」
誠は少し目を細め、ベッドの上で背もたれに寄りかかる。
「戦争で街はめちゃくちゃだけど、ちょっとずつ元に戻りつつあるんだよな」
桜子は外の光を見ながら、優しい声で言う。
「うん…蝉も元気になってきたし、本格的な夏が来とるんやなぁって思うわ」
蘭子が話を変えようと笑みを浮かべながら誠を見る。
「誠さん、今日の病院のご飯はどうやったん?まだ慣れんやろ」
誠は苦笑して肩をすくめる。
「まあ…あんまり味はしないけど、体にはいいんだろう。桜子が作るご飯また食べたいなぁ」
桜子は少し照れくさそうに笑った。誠が陸軍から帰ってきたときに、たまに桜子のご飯を振る舞うことがあったのだ。桜子は誠の手をもう一度握る。
「退院したら、いっぱい作ったげるから」
蘭子はふふ、と笑いながら、二人を見つめる。
「いやー、二人とも仲ええなあ。見ててこっちまで嬉しくなるわ」
窓の外では、遠くの空に薄い雲が流れ、蝉の声が木々を揺らす。ベッドの脇に置かれた小さな机には、水差しとコップ、そして患者の小物が並ぶ。
白いシーツと包帯の匂いが、窓から入る夏の風と混ざって、独特の静けさを作り出していた。
しばらく三人は、外の光や蝉の声を裏に、笑い声を交えながら、日常の些細なことを話した。茅のこと、野菜のこと、家の掃除のこと、戦後の市場で見かけた珍しい食べ物の話まで。
蘭子は時折手を叩いて笑い、誠はベッドの上で軽く包帯を押さえつつ、楽しそうに聞き入り、桜子はその間ずっと誠の手を握ったまま微笑んでいた。
やがて、廊下から看護師の声が響く。
「面会時間終了です。そろそろお帰りください」
桜子は誠の手をぎゅっと握り、目を見つめた。
「また来るけぇ……約束やで」
誠はにっこり笑い、頷く。
「うん、待ってる」
蘭子も微笑みながら誠に小さく手を振った。
「ほいじゃあ、またね!」
小さな病室に明るい声がこだました。
∞ ∞ ∞
診療所の出口を押し開けると、外の光が眩しく、桜子の目を一瞬射抜いた。薄暗い廊下と消毒薬の匂いに包まれていた室内から、真夏の光と熱気が立ち込める屋外へ出る瞬間、胸の奥に重く圧し掛かっていた緊張が、少しずつ溶けるように消えていった。
蝉の声が耳に届き、暑さと乾いた風が肌を撫でる。診療所の石畳には、戦争の影を映すかのように小さな破片や泥が散らばっていた。
蘭子が隣で、ふわりと笑った。
「ほいじゃ、姉ちゃん、帰ろうか。道中気をつけや」
「うん……ありがと、蘭子」
道端で干された洗濯物が揺れ、子どもたちの声が遠くに響く。桜子は深く息を吐き、胸の中の重みを少しずつ手放すような気持ちになった。
歩道の端には、空襲で壊れた家屋の瓦礫が寄せられ、遠くの煙が青空をかすかに濁らせている。
「ここも、空襲で…いろいろ壊れたんじゃろうね」
桜子がぽつりと言うと、蘭子は肩をすくめる。
「そりゃあな。でも人は負けんのよ。水も食べ物も足りんかったけど、少しずつ戻っとる」
桜子は誠に代わりに蘭子の手を握り、二人で静かに歩き出した。歩幅を揃えながら、桜子は足元の砂利を踏む音を確かめるように意識した。行きの道では、病院に駆け込む心の焦りで、世界がぼやけるほどだった。
人々の苦痛や汗の匂いが肌を突き刺すようで、胸が締めつけられて息苦しかった。しかし今は、誠が無事であること、そしてこれからも生きていることを確認した後で歩く足取りは、どこか柔らかく、穏やかだった。
「暑いね……」と蘭子が小さくつぶやいた。
桜子は頷きながら、遠くに見える壊れた屋根の向こうに家族の暮らす町を思い描いた。母と茅の顔が、ふっと心に浮かぶ。母は今日も畑に出て、野菜を育てながら戦火の影に怯えつつも必死に家を守っているだろう。柚子はその母の手伝いをしているに違いない。茅は小さな手でそれを手伝っているだろう。
「帰ったら、誠さんが無事だったことを伝えんと…」
桜子は心の中でつぶやき、ぎゅっと蘭子の手を握った。歩道の端に残る砕けた瓦礫や、崩れかけた土壁の家々を見ると、戦争の爪痕が今も町に生々しく残っていることを思い知らされる。
道沿いの畑には、干ばつで葉を落とした作物と、かろうじて茂る野菜が混在していた。トマトは赤く色づき、日差しに輝いている。キュウリの葉はざわめき、夏風に揺れる音が、まるで小さな歌のように聞こえた。
桜子はその様子を目にして、母や柚子がどれだけ努力しているかを思い、胸の奥が温かくなる。無事で帰れること、家族が健康でいることのありがたさが、じわりと心を満たしていった。
街路の角を曲がると、空襲で壊れた瓦礫の間から、子どもたちが笑いながら走り抜ける姿が見えた。桜子はその声に一瞬、遠い記憶を呼び覚まされた。
戦争が始まる前、同じ場所で茅や友達と遊んだ日々。戦火の影が濃くなる前の、あたたかい夏の日々。胸の奥で痛みと懐かしさが交錯し、涙が出そうになる。だが蘭子の手を握り、今は生きていることを確認する桜子は、涙を抑え、ゆっくりと歩を進めた。
途中、壊れた家屋の前で日陰を見つけ、二人は少し立ち止まった。
桜子は背中に背負った荷物を少し重く感じながらも、心は軽かった。誠が無事でいてくれたこと。手を握り合えたこと。その思いが胸に満ち、帰る道の風景がいつもより鮮やかに見える。蘭子が桜子を見ながら言った。
「桜子姉ちゃん、元気になってよかった。朝は死んだような顔しとったけぇ」
桜子が苦笑を浮かべた。
「そがぁな顔しとった?…でも誠さんが生きとって、ほんとによかった…でも、やっぱり怖かったわ」
蘭子は桜子の手を軽く叩いて、からかうように言った。
「そりゃあ、怖いに決まっとるわ。戦争やけぇの」
蝉の声が、木陰の涼しさとともに耳に届く。風が吹くたび、埃と焼けた土の匂いが混ざる。
桜子はその匂いに胸が締め付けられる思いを覚えた。ここには、戦争の現実が息づいている。瓦礫の山に立つ影、半壊した家々、そして遠くに漂う煙……
二人はまた歩き始めた。
夕暮れが少しずつ迫り、空が朱色に染まる頃、二人は家の近くに差し掛かっていた。遠くの畑からは、柚子の呼ぶ声や茅の笑い声が風に乗って届き、桜子は胸が熱くなるのを感じた。
家が見えると、戦争で受けた傷跡の中でも、確かに生きている日常が待っていることを改めて思う。瓦礫に囲まれた道から、土の匂いと野菜の香りが混じる家の庭へと一歩踏み入れた瞬間、桜子の心は大きく解き放たれた。
「ただいまー!」
桜子の声が、家の庭に広がる。茅が勢いよく立ち上がり笑顔で走り寄り抱き着いてきた。
「桜子姉ちゃん!蘭子姉ちゃん!おかえりー!」
桜子は膝を曲げ、茅の頭をなでながら笑った。柚子はほっと安心したような顔でこちらを見ていた。
「ただいまー茅」
茅は桜子の言葉を聞くと桜子から離れていき、蘭子にも駆け寄った。
「蘭子姉ちゃんもおかえりー!」
蘭子はにっこり笑い、茅の頭をそっと撫でる。母は立ち上がり、桜子と蘭子のそばまでやってきて言った。
「桜子、蘭子。おかえり。立っとらんで、家ん中に入りんさい。柚子、そのくらいにして、家はいろうや」
「はーい」
柚子が立ち上がり、家族みんなで家に入る。
「誠さん、どうじゃったん?」
柚子が不安交じりの声で桜子に聞いた。
「無事やったよ。誠さん、思ったより元気そうやった。けど、もう歩けんって……」
桜子は荷物を下ろしながら答える。柚子の息を呑む音が聞こえた。縁側に移動し座り空を眺めていると、柚子が水を出してくれた。
茅はさっそくコップを片手に取り、ゴクゴクと一気に飲み干す。桜子も一口、喉を潤すと、病院での緊張が少しずつほどけていくのを感じた。蘭子は縁側の柱に寄りかかりながら、目を細めて空を見上げた。
「夕方の光、きれいじゃな。最近はこんな風にゆっくり眺めることもできんかったけぇ」
桜子も窓の外を見やり、庭の茂みを見つめる。ナスやキュウリの葉が夕陽を浴び、金色に輝いていた。虫の声と蝉の声が混ざり合い、夏の匂いが柔らかく鼻をくすぐる。
「茅、収穫の手伝いしてたんか?」
桜子が尋ねると、茅は胸を張って答えた。
「うん!ナスもキュウリも茂ってるで!」
母と柚子が夕飯の準備を始める。野菜をざくざく切る音、鍋の中で油がはじける音、湯気の匂いが家の中に広がる。蘭子は縁側からふと顔を出し、母に話しかける。
「今日のご飯は何?」
「ナスとインゲン の炒め物じゃ。茅にも手伝わせたけぇ、簡単じゃが美味しいで」
「楽しみー!」
茅が声を上げ、桜子も微笑む。縁側では、茅が姉二人の手を取りながら話す。
「桜子姉ちゃん、誠兄ちゃんは元気なん?」
桜子は少し顔を曇らせながらも、優しい声で答える。
「うん、元気やった。でも足を怪我してもう歩けんけぇ、心配したんよ」
蘭子は茅の肩を叩き、くすくす笑う。
「桜子姉ちゃんは誠さんのこと、ほんまに大事に思っとるんじゃな」
夕飯の支度を手伝いながら、桜子は家族の顔を見回す。戦争で傷ついた日々はまだ色濃く残るが、こうして日常を取り戻しつつある。母の手際の良さ、柚子のやさしさ、茅の笑顔、蘭子の明るさ、すべてが、桜子に安心感を与えていた。
∞ ∞ ∞
夕飯を終え、家の中にはほのかな温かさが漂っていた。食卓には、茄子とインゲンの炒め物、柚子が丹精込めて作った味噌汁が並べられ、家族全員が満ち足りた気持ちで食事を終えた。
食後、茅はすぐに食器を片付ける母の手伝いをしながら、
「明日も畑の手伝いする!」
と元気に言った。
「うん、いい子じゃな。手伝ってくれると助かるよ」
母は茅を優しく見守りながら答えた。
桜子はその様子を見守りながら、ゆっくりと食器を片付け終わると、縁側の隅に座って窓の外を眺めた。夜の帳が下りる前、まだほんのりと残る夕焼けの色が空を染めている。少し冷たい風が頬を撫で、心地よい静けさが家の中に広がっていた。
蘭子が食器を片付け終わり、ゆっくりと桜子の隣に座った。少しだけ疲れたような表情を浮かべて、蘭子は横に座る桜子に言った。
「今日、疲れたじゃろ?大丈夫?」
桜子はその言葉にうなずきながら、少し微笑んだ。
「うん。ちょっとだけじゃけどね。でも誠さんに会えたけぇ、全然どうってことないよ」
蘭子は桜子の肩に軽く手を置き、「そっか。それならよかったけぇね」と静かに答えた。
柚子が、部屋の片付けを終えた後、桜子のそばに静かに座った。
「誠さん、桜子姉ちゃんが来てくれて、ほんまに心の底から安心したじゃろうなぁ」
桜子は少し驚いたように柚子を見たが、すぐにその表情を和らげて答えた。「そうじゃとええなぁ」
柚子は少し考え込み、そしてそっと桜子の手を握った。
「うちも心配じゃけど、桜子姉ちゃんが誠さんのそばにおってくれるんが、いっちゃん大事なんじゃと思う」
その言葉に、桜子は微笑んだ。心の中で、誠との未来をしっかりと支える力が湧いてくるような気がした。
「ありがとう、柚子」
桜子はその手を少し強く握り返した。
その後、家族全員が寝る準備を終え、寝室へと向かう時間が訪れた。茅は眠たそうにしながらも、「明日も畑手伝うんだもんね!」と繰り返し言っていた。母は「はいはい。寝るけぇね」と優しく言うと、茅は自分の布団に潜った。
桜子も、自分の布団に潜りこむ。蘭子と柚子もそれぞれの布団に潜り、家の中はひとときの静寂に包まれた。
桜子は寝そべりながら、窓の外を見た。風がほんのりと肌に触れ、昼間の熱気がすっかり引いた冷たい夜風が部屋に流れ込む。
桜子はふと、誠のことを思い出す。病院で見た誠の顔が、心の中に浮かんできた。まだ回復途中の彼を見たとき、桜子は不安に駆られたが、その顔から感じた強さと前向きな気持ちが桜子を少しだけ安心させた。
「きっと、誠はまた歩けるようになる」桜子は静かに心の中で呟く。その思いを、じわじわと自分の中で確信に変えていく。
桜子はゆっくりと目を閉じた。家の中の温かさが、心にじんわりと広がっていく。そのまま静かに、桜子は眠りに落ちていった。夢の中では、誠と手を繋いで歩く未来を思い描きながら、安心して眠りにつく。
眠りの中で、桜子は誠と共に歩む未来が、確かなものとなることを信じていた。夜の静けさの中、家族一人一人がそれぞれの思いを胸に、ゆっくりと夢の世界に溶け込んでいった。
第三章:ひとしずくの永遠
朝の陽射しが少しずつ家の中に差し込み、桜子は畳の上に整えられた布団を眺めながら、目を覚ました。窓からは、やわらかな光が部屋を照らし、まだ涼しさを残す空気が肌に心地よい。桜子は静かに布団を畳みながら、少しぼんやりとした頭で昨夜の家族の団らんを思い返していた。
外からは、すでに茅の元気な声が聞こえていた。庭の隅に積んである木材を整理しているらしい。小さな体を一生懸命に動かしているその姿を思い浮かべると、桜子の心も少し温かくなった。
「桜子姉ちゃん起きたなら、早くしてなーご飯できとるよ」
柚子の声が、台所から聞こえてくる。桜子は慌てて自分のモンペを取り出し、急いで身支度を整える。色あせた紺色のモンペに足を通し、髪を整えるために小さな鏡を手に取る。鏡の中に映る自分の顔をじっと見つめながら、桜子は心の中で何かを決意するように深く息をついた。
「桜子姉ちゃん、また寝坊しとったん?」
茅の楽しそうな声が、部屋の前に聞こえてくる。
桜子は軽く顔をしかめて
「しとらんですー」
と言いながら、襖を開けて台所へ向かった。
台所に入ると、柚子がすでに薪をくべ、配給米に芋を混ぜた糧飯を準備していた。湯気が立ち、香ばしい匂いが食欲をそそる。母が優しく湯呑みを手にして、桜子を迎えてくれる。
「おはよう、桜子。よく眠れた?」
母の言葉に桜子はうなずきながら
「うん、ありがとう。すごくよく眠れたよ」
と答える。
「今日はまた、茅が元気に走り回っとるんでしょう?」
柚子が少し笑いながら言う。 桜子は茅を見つめると、茅は部屋の中で無邪気に遊んでいた。まだ八歳の茅は、元気すぎるくらいに毎日を過ごしている。時々、そのエネルギーに桜子は驚き、そして羨ましく思うこともある。
「うん、あれはもう、たぶん昼過ぎまで持ちそうにないよ」
桜子は微笑んで言った。
「そんなに元気だと、こっちまで元気になるわ」
母は、米をおひつから取り出しながら言った。
「もう少ししたら、みんなで畑に行かんといけんけぇ、みんな準備しときなさい。」
母の話を聞いて柚子が声を上げた。
「今日は畑を手伝って、茅を外に連れて行こうか?」
と提案すると、桜子は軽く頷いた。
「うん、今日はみんなで外に出るのもいいね。少しでも気分転換できれば。」
その時、蘭子が寝ぼけたように目を擦りながら、台所にやってきた。
「おはよう、姉ちゃん。茅がうるさすぎて目が覚めたわ」
蘭子は少し不満げに言ったが、すぐに笑顔を見せた。
「おはよう、蘭子。昨日は遅くまで起きてたん?」
桜子が尋ねると、蘭子は恥ずかしそうに目を逸らした。
「いや、別に…ただちょっと夜遅くまで考え事しとっただけ」
蘭子はそう答えながら、椅子に腰掛けた。
「考え事?また、何か悩んでるんか?」
桜子が問いかけると、蘭子は少しだけ顔を赤らめた。
「ううん、別に…なんでもない」
蘭子はそう言って、視線を下に向けた。桜子は彼女が何か心に抱えていることを知っていたが、無理に聞き出すことはしなかった。
∞ ∞ ∞
朝食を終えた後、桜子は家族と一緒に畑へ出かける準備をしていた。外に出ると、いつもと変わらない日常が広がっていた。空はすっきりと晴れ渡り、青い空がどこまでも広がっている。
風はやわらかく、涼しさを感じさせる。まだ少し肌寒い朝の空気が、桜子の頬に心地よく触れた。
「今日は、畑の隅の草を刈るんだよね?」
柚子が小さな草刈り道具を持って、家族に声をかけた。
「うん、そうじゃけど、茅が手伝うかな?」
桜子は少し心配そうに言った。茅は元気だが、作業となるとすぐに飽きてしまうことが多い。
「大丈夫よ。茅も最近は少しおとなしくなってきたし」
八重子が微笑んで答えた。
桜子は家族と一緒に、畑へ向かって歩き出した。茅は駆け足で先に行き、途中で何度も振り返りながら「早く!」と叫んでいる。蘭子は少し遅れながらも、いつも通り静かな歩調で歩いていた。
「お父ちゃんがいれば、きっとみんなで大きな畑を作ったりしていたんだろうな」桜子はふと、そんなことを思った。
父が戦争に行く前、家族みんなで手を取り合って畑仕事をしていたのを思い出す。しかし、あれからもう八年。桜子はその思いを胸の中にしまい込み、目の前の現実をしっかりと見つめることにした。
桜子の足取りは次第に軽くなり、家族と一緒に畑での仕事が始まった。茅は草をむしる代わりに、周りの土を蹴飛ばして遊んでいるが、それでも何かを感じ取るように一度も泣くことなく、楽しそうに作業をしている。
「もうすぐ収穫の時期だね」
蘭子がさりげなく言う。
桜子はうん、と頷きながらも、少し気が引けたような表情を浮かべた。収穫の時期が来るのは嬉しいが、それと同時に、今年もまた、少ない配給米だけでは家族を養うのは難しいのではないかという不安が心に湧き上がる。
「桜子、元気ないね」
柚子がちらりと桜子を見て言った。
「ちょっとね…」
桜子は答えたが、それ以上は何も言わずに、しばらく黙って草を引き抜き続けた。柚子はそれを察して、無理に話しかけることなく、黙々と自分の作業に取り掛かっていた。
その時、ふっと風が強く吹き、桜子は顔を上げた。青空が一瞬だけ暗くなったように感じたが、すぐにまた晴れ渡り、風も静まった。
「なんだか急に風が強くなったね」
蘭子が空を見上げながら言った。
桜子は少し不安げな表情を浮かべながらも、すぐに気にしないことにした。今は目の前の畑仕事をしっかりやらなければ、と自分に言い聞かせる。
その時、茅が突然叫んだ。
「お姉ちゃん!見て!あの空、すごく光っとる!」
桜子が茅の指差す方向を見ると、空の一部がまるで引き裂かれるように白く、眩い光を放ち始めた。その光は瞬間的に広がり、次第に辺り一面を照らし出した。
「なに、あれ…?」
桜子は思わず立ち尽くした。
空が光の塊に包まれ、まるで天地がひっくり返ったかのような感覚に襲われた。家族もみな目を見開き、何が起こったのか理解できずに立ち尽くしていた。
「桜子、どうしたん?」
柚子が近づいてきて、桜子の肩を優しく揺すった。桜子はその時、初めて恐怖を感じた。視界が白く輝き、耳鳴りが頭の中で鳴り響く。
その瞬間、爆風が突如として畑を襲った。まるで雷鳴のような音と共に、空気が一気に膨張し、家族全員がその力に吹き飛ばされるように感じた。桜子は地面に倒れ込み、耳をつんざくような轟音と、胸に重く圧し掛かるような痛みが広がった。
「桜子!」
と柚子の声がかすかに耳に届いたが、その声はすぐに消え、桜子の意識が薄れていった。
爆風に吹き飛ばされながら、桜子はその場に倒れ込む。顔が土に埋もれ、呼吸ができないほどに重い空気がのしかかる。目を開けることができず、意識が遠のいていった。
そして、何もかもが静まり返った。全てが一瞬のうちに消え、家族の声も風も、何もかもが消え去ったかのように感じた。
桜子はその時、死を感じた。しかし、心のどこかで、「まだ何かが残っている」と思う自分がいた。その瞬間、全てを失ったことが信じられないような感覚に囚われながら、意識は闇に沈んでいった。
∞ ∞ ∞
美桜は突然、目を覚ました。
体を起こし、手で目をこすりながら、自分がどこにいるのか、何が起こったのかを全く理解できなかった。頭の中がぼんやりと霞んでおり、体のだるさが残っている。まるで、夢の中から引き戻されたような感覚だ。
周囲を見渡すと、白い蛍光灯が天井からまぶしく光っている。視線を下に移すと、学校の机と椅子が整然と並んでいることに気がついた。黒板には何も書かれていないが、教室の静けさが、どこか異様に感じられた。時計の針は午前の十時を指している。美桜は目をこすりながら、ここが学校であることを再認識した。
美桜は、机に突っ伏していた額をゆっくりと上げた。まつげの影がまだ夢の名残を引きずり、胸の奥が妙にざわついている。
ぼんやりと天井を見上げると、白い蛍光灯の光がまっすぐに射し、あまりの現実感に目を細めた。
ここは――教室。
机は並び、黒板の前には誰も立っていない。
美桜はふと、窓の外を見つめた。青空が広がっている。青が鮮烈で、白い雲はゆっくりと形を変えて流れている。あの夢で見た、戦時中のぼんやりとした空とは正反対の、澄んだ現代の空だ。
――なんか、変な感じ。
夏の空気はじっとりと湿っていて、太陽の光が強くてまぶしい。それでも、教室に入ってきた風はひんやりとして、何だか心地よかった。
窓から差し込む光が机の上に落ち、プリントの上に小さな影を作っている。
教室の中には、美桜一人が座っている。夏休みの補習は本来数人いるはずだったが、今日はたまたま予定がずれ、美桜一人の補習になったのだ。
だから教室は静まり返っている。扇風機のゆるい回転音だけが静かな教室に響く。時折、風を連れてくる。
その音さえも、今となってはとても落ち着くものに感じる。日々がどれほど穏やかで、贅沢で、幸せなのかを改めて実感する瞬間だった。
美桜は、机の上に広げたプリントを軽く見つめて、溜息をついた。補習の時間は、たしかに長く感じるけれど、今はそれを少しだけ楽しんでいる自分がいた。
そんな自分が、ちょっと不思議だと思う。以前は、こんな静かな時間に思いを巡らせることなんてなかったから。
外の景色を見つめていると、ふと何かが頭をよぎった。夢の中で見たこと、あの遠い記憶のような出来事の数々が、何だか鮮明に蘇る。
桜子という名前、誠という顔、それらがどこかで交差して、ひとつの風景として今の自分の心に重なっている。でも、今の自分にとって、それがただの「夢」だったことはわかっている。そう思いたい。
それでもついさっきまで、土の匂いがしていた気がする。
風が畳を揺らしていた気がする。
家族の声が近くで聞こえていた気がする。
だが、そんなはずはない。
「……夢、か。」
美桜はつぶやき、机の上のペンを握り直した。
手の震えがわずかに残っている。
夢にしてはあまりに鮮明だった
――家族、草いきれ、青空の下で働く自分。
知らない景色だったのに、馴染みすぎていて変な感じがした。でも、夢なんてそんなものかもしれない。
美桜はあまり深く考えないようにして、プリントに視線を落とした。
その瞬間、がらり、と教室の扉が開いた。
「お、頑張ってるな、高橋」
担任の山下先生が教室に入ってきた。低く落ち着いた柔らかく温かな声と、その表情に、心が少しだけほっとする。
「……あ、山下先生」
美桜は反射的に顔を上げた。ワイシャツの袖をまくり、手にはプリントを挟んだファイル。廊下から入り込んだ風が、少しだけ先生の髪を揺らした。その隙間から額の引っ掻かれたような傷跡が覗いた。
先生は眉を上げて、わざとらしくため息をついた。
「その顔。さては寝てたな?」
美桜の机のそばまでやってきて、美桜のおでこを優しく小突いた。
「えっ…そ、そんなことない…ですよ?」
思わず視線を逸らしてしまう。頬がじんわり熱くなる。
先生は笑うでもなく、怒るでもなく、ただじっとこちらを見ていた。その表情に胸が妙にざわつく。夢の中で感じた温かい声と似ている気がした。けれど、美桜は首を振ってその考えを追い払った。
「ほら、ここ。2番の式が途中で止まっとるぞ」
山下先生は美桜の机に前屈みになり、ノートを指で軽く叩いた。そのとき、彼の横顔が視界に入る。
――落ち着いた目元。
――静かな声。
――誰かを気づかうような柔らかさ。
「えっと…ここは、こう…ですか?」
美桜は、先生が指差した式をゆっくりと書き足していく。
山下先生は「そうそう」と短く言い、笑みを深くしないまま目を細めた。
その瞬間。
――『桜子は強いなぁ』
男の優しい声が、はっきりと耳の奥で響いた。美桜の手が止まった。ペン先が紙の上で震える。今聞こえた言葉は、決して山下先生が言ったものではない。
教室の中では扇風機の音しか聞こえていない。なのに、まるで誰かが耳元で囁いたかのように鮮明だった。
「……っ」
胸の奥が熱くなる。息をするのが一瞬だけ苦しくなる。
桜子?誰、それ。私、そんな名前、知らない――はずなのに。
なのに、その名前が、泣きたくなるほど懐かしい。温かい。どこか愛しい。
「高橋?」
山下先生が不思議そうに眉を寄せ、美桜を覗き込む。その瞬間、山下先生の瞳の奥にほんの一瞬だけ夢の中で見た、誰かの面影が重なった。
優しくて、まっすぐで、誰かを深く想っていた目。
「……何でも、ないです」
美桜は必死に笑い、ペンを持ち直した。夢の影がまだ胸を締め付ける。
けれど、深く追うのは怖かった。何かが見えてしまいそうで。
だから美桜はあえて思考を止め、プリントに視線を落とす。山下先生はしばらく美桜の様子を見守ってから、少し考えるように言った。
「そういえば、最近、どうだ?気になることとか、あったりしない?」
美桜は少しだけ目を伏せて考えた。その問いに、最初は答えが出てこなかったけれど、すぐに浮かんだのは、あの夢のことだった。
「うーん…ちょっと、変な夢を見たんです」
山下先生は興味深そうに眉を上げた。
「変な夢?」
美桜は肩をすくめながら、何とも言えない気持ちを抱えたまま言葉を続ける。
「なんだか、誰かに会った気がするんです。その人が、すごく優しかったんですけど…その人の名前を、どうしても思い出せないんです」
山下先生は静かに美桜を見守っていたが、何も言わずにうなずいた。美桜はその沈黙に、安心感を覚えた。
「まあ、たまにそういうことってあるよな」
「そうですね。なんか、すごく懐かしい気持ちになったんです」
山下先生が、静かに微笑んだ。
「懐かしい気持ち、ね。」
その言葉には、どこか深い意味が込められているような気がして、美桜は再び先生の顔を見つめた。やっぱり、なんとなく先生の顔に見覚えがあるような、そんな気がした。けれど、すぐにその感覚を振り払う。
「実は俺もね、一度変な夢を見たことがあるんだ。もう十年くらい前だけど今でも鮮明に覚えてる」
山下先生はどこか遠くを見るような目で告げた。
「変な夢、ですか?」
「そう。ある人に出会う夢。何度も困難に立ち向かってく強くて優しい子だった」
その言葉が、まるで何かのスイッチを押したかのように、美桜の心の中で何かが一気に浮かび上がってきた。
桜子。その名前が浮かび上がった瞬間、何か温かい気持ちが胸を満たしていくのを感じた。桜子がどこかで笑っているような、そんな気がした。
その瞬間、教室の中が静かになったように感じる。美桜の周りに広がる空気の中で、どこからともなく桜の花が舞い降りてくるような、そんな幻想的な感覚が心を包んだ。
「その人は幸せものですね。貴方に会えて」
美桜は静かに自問自答してみる。その言葉が、どこかで深く響いている。桜子として生きた自分の記憶、その記憶を忘れないように、大切に抱えながら、今を生きる意味を少しずつ感じているようだった。
山下先生を見ると何かに突かれたような顔で美桜を見つめていた。
「…先生?」
慈しむような柔らかい顔をした後、先生は頭を振り、
「…なんでもない。僕も出会えて幸せだった」
美桜はその言葉を心に刻み、静かに胸を張った。彼女が生きたその時代と、今自分が生きるこの世界は、まったく違うものだ。それでも、何かしらの繋がりがあることを、美桜は確信していた。
山下先生はほっとしたように頷き、肩の力を抜いた。
「…今日はこの辺で終わりにしようか」
美桜は微笑み、プリントを片付け始めた。その瞬間、外から入ってくる風が、まるで美桜を励ますように教室内を通り抜け、再び涼しさを感じさせてくれる。
荷物をすべてリュックに入れ、背負う。教室の扉を静かに開けると、外から風がそっと入ってきた。その風は、まるで今を生きるすべての人々に語りかけているかのようだった。
今日もまた、こうして穏やかな日々が続いている。
美桜は深呼吸をし、窓の外を見上げた。青空が広がり、そこには何の不安もない。すべてが、ただの平穏な日常として流れていく。
美桜はその時、心から思った。
今、こうして生きていることに、何よりの幸せがある。
執筆の狙い
「明日、貴方に逢うための80年、」の続きです。
今、生きていることってすごく幸せなことなんだなぁ、と思いながら書きました。
前回のあらすじは、主人公の桜子は戦時下の広島で家族と支え合いながら、生きていました。桜子には隣の家に住む想い人の誠さんがいました。
ある日、工場から帰ってくると妹の柚子が桜子のもとに走り寄ってきます。柚子は開口一番に「誠さんが…」
と言い、前回はここで終わりました。
ありきたりな終わり方かもしれませんが、最後まで読んでくれると嬉しいです。