死してもなお
黒岩翔太の人生は、誰が見ても"成功"の象徴だった。三十歳にして大手総合商社の先端事業部で主任を務め、年収は1,200万を超え、都心タワーマンションの高層階で、絵に描いたような美しい妻と暮らしている。
だが、そんな華やかな肩書きよりも、翔太が本当に誇っていたのは、人生のどの局面でも"勝者であり続けた"という事実だった。学生時代のスクールカースト。就活。配属後の社内競争。どれも彼は、他者を軽やかに追い抜き、"上"を掴んできた。
翔太は、一度も負けたことがなかったし、負けを認めたこともなかった。
***
秋の平日の朝。まだ目覚まし時計が鳴る数分前。翔太は静かに瞼を開いた。自然と意識が覚醒するのは、調子が良い日の証だ。
大きな窓から差し込む朝日が、寝室を金色に照らしていた。ベッドサイドには、フレームの細いアートライト。理知的ながら温かみのある灯りが、部屋の雰囲気を格上げしている。
翔太はゆっくり体を起こし、カーテン越しに伸びる影を眺めた。30階のパノラマ窓からは、東京の摩天楼が一望できた。晴れた日は富士山さえ見える。この景色を手に入れたことこそ、彼の人生哲学「勝者の証明」そのものだった。
「……今日も良い天気だ」
その声に反応するように、隣で眠っていた妻、由衣が小さく身じろぎした。細い指がシーツをつかみ、白い肩が覗く。指先は繊細で美しく、ネイルは控えめなヌードカラー。彼女のスタイルの良さは、どんな高級ジュエリーよりも存在感があった。
「翔太……おはよう」
まだ眠気の残る声で、由衣が頬を寄せる。ふわりと漂う高級シャンプーの香り。翔太は、由衣のその香りが好きだった。清潔で上品で、そして彼が選んだ女性にふさわしい香り。
「おはよう。今日のプレゼン、勝負の日なんだ」
「知ってるよ。だから……頑張って。あなたなら大丈夫」
由衣は小さなキスを落とした。
この瞬間、翔太は毎朝「自分の人生は完璧だ」と確信する。
***
キッチンに移動すると、由衣が慣れた手つきでコーヒーメーカーを操作していた。豆から挽くタイプのもので、部屋に広がる香りだけで上質さが伝わる。
食卓には、焼きたてのパン、有機野菜のサラダ、少し高価なヨーグルト。そして、彼女が昨夜のうちに準備しておいたスープ。
「準備、ありがとう」
「あなたのプレゼンの日だからね。エネルギーつけていって」
由衣の笑顔は、翔太の“理想の妻”そのものだった。控えめで、良家の育ちで、品があり、家事能力も高い。学歴も家柄も悪くなく、友人たちへ紹介しても恥ずかしくない。
成功者の生活は、完璧なパートナーがいてこそ成り立つ――翔太はそう考えていた。
「そういえば、昨日ね……クローゼット整理してたら、高校のアルバム出てきたの」
「へぇ、懐かしいな」
「寄せ書きも出てきて……佐竹くんと久保くんのメッセージ、覚えてる?」
「あぁ、佐竹は今ベンチャーで成功してるよな。久保は会計士か。あいつらとは良い青春だった」
翔太の脳裏には、"輝かしい高校時代"しか残っていなかった。嫌な記憶など一つも思い出せない。彼の記憶のフィルターは、都合の悪い過去をすべて排除する“優秀”な性能を誇っている。
「でもね……写真の隅に、一人だけ思い出せない子がいて……」
由衣が少し言い淀んだ。
「地味で……メガネで……隅にいたような……なんか影が薄くて……」
「そんな奴、いたか?」
翔太は鼻で笑った。
「覚えてないってことは、俺の人生に関係なかったってことだよ。価値のある人間なら覚えてる。価値のない人間は……忘れられる。それだけの話さ」
由衣の表情に、一瞬だけ影が落ちた。しかしそれはすぐに消え、また笑顔が戻った。
翔太は気づかない。
その“影”こそ、過去に二人が共有した"共犯の沈黙"が呼び起こす、わずかな罪悪感だった。
***
タワーマンションのロビーに降りると、天井は高く、ホテルのようなラウンジには朝のニュースが静かに流れている。黒いスーツ姿の翔太は、周囲から自然と視線を集めた。背が高く、顔立ちも良く、立ち居振る舞いに自信がある。
エレベーターの扉が開くと、住人の老夫婦が軽く会釈してきた。
「おはようございます、黒岩さん。今日もお仕事ですか?」
「はい、重要なプレゼンがあって」
「そうですか。頑張ってくださいねぇ」
翔太は軽く笑って返す。
――自分は、このマンションでも“特別な存在”だ。
その意識が、彼の態度すべてに滲んでいた。
***
その日のプレゼンは大成功だった。上司も取引先も翔太を絶賛して、帰り道の彼の足取りは軽かった。
しかし、マンションに近づくにつれ、空気にどこか違和感を覚えた。
風が冷たい。街灯の色が妙に沈んで見える。秋の風景はいつもと同じはずなのに、どこか "遠い世界" に来たような感覚。
そして。
ビルの陰に、汚れた段ボールにもたれかかるホームレスの男がいた。
男は痩せ細り、髪はベタつき、虚ろな目をしている。日常にはありふれた光景――のはずだった。
だが、翔太はなぜか目を逸らせなかった。
(……なんだ、この不快感)
男の視線が、まるで"何かを知っている"ように感じられた。
「怠けて生きてきたんだろ。努力しなかった連中の末路だ」
翔太はつぶやくように言い捨て、男の横を通り過ぎた。
ほんの数秒後――
背後で、かすれた声がした気がした。
「……クロ……イワ……」
翔太は振り返った。しかし、ホームレスの男は動かず、ただ俯いているだけだった。
(気のせいだろ)
そう自分に言い聞かせ、マンションのゲートへ向かった。
***
その夜。翔太は成功の余韻に浸りながら、由衣とワインを飲んでいた。テレビのニュースは他人事のように災害や事件を映し出し、部屋の空間を上質な照明が満たす。彼らの会話は軽く、未来の話ばかりだった。
だが、由衣の目の奥に、どこか曇りがあることに翔太は気付かなかった。
風呂に入り、妻が寝室へ向かい、リビングの灯りを落とした時だった。
――ピシッ。
ガラスが、誰かの指でなぞられたように微かに震えた。
翔太は振り返った。しかし、何もない。
(……気のせいか)
ただの生活音。それだけのはずだった。
なのに、その音は心の奥に棘のように残った。
***
深夜二時。突然、甲高く電子的なインターホンの音が家中に響き渡った。
由衣は悲鳴を上げ、布団から飛び起きた。
「何……今の……?」
「わからない……寝てろ、由衣」
翔太は警戒しながら、リビングのモニターへ向かった。
暗いエントランスに、人影があった。
男。フードを深く被り、痩せ細り、目の下には濃く黒い隈。
その顔は……どこかで見た。
そうだ。夕方に見たホームレスの男と、そっくりだ。
いや――まるで同一人物。
翔太の背筋に、氷の指を這わせるような寒気が走った。
「……誰だ」
翔太は声を絞り出した。だが男は微動だにしない。
モニター越しに、ゆっくりと顔を上げた。
その眼窩の奥には、光がなかった。
「……クロイワ……ショウタ……」
翔太は胸の奥が掴まれたように固まった。
(なぜ俺の名前を……?)
「用件は何だ。ここは高級マンションだぞ。不審者は通報する」
翔太はできるだけ強気を装った。
だが男は、ふらりと一歩、前へ出た。
その瞬間、モニターがノイズを走らせ、男の顔が歪んだ。
ノイズの合間に、突然、別の顔が映った。
――高校生。 ――土気色の肌。 ――メガネ。 ――涙で濡れた目。
(……誰だ……?いや、どこかで……)
翔太の脳裏に、長年封じ込めていた「画像」のような記憶が、ひび割れたガラスの隙間から流れ込むように蘇りかけた。
だが、まだ形にはならなかった。
「……俺の……名前も、顔も……忘れたのか」
その声は、深い井戸の底から響くようだった。
***
突然、男はポケットから鈍く光るものを取り出した。
古びて錆びついた包丁。
男はガラス扉に向かって、狂ったように叩きつけた。
――ガンッ! ガンッ! ガンッ!!
「いやぁぁぁぁぁ!!翔太!!」
寝室から由衣の悲鳴が響いた。
エントランスの強化ガラスに蜘蛛の巣状の亀裂が走り、警報が鳴り響く。
翔太は、恐怖よりも先に"守らなければ"という衝動が込み上げた。
「由衣、下がれ!!」
彼はインターホンを切り、玄関のチェーンを外した。
(ここまで来られるはずがない……なのに――)
翔太はドアを開け、廊下に飛び出した。
***
エレベーター前の廊下に、男が立っていた。
どう考えてもマンションのセキュリティを突破できるはずがないのに――そこにいた。
そして男は、翔太を見つけるなり、血走った目で笑った。
「……やっと……見つけた……」
(なぜ……なぜ俺を……?)
翔太は言葉を失う。
「お前は……俺の人生を……笑った……」
男が、包丁を持った腕を震わせながら前に進み出た。
「やめろ!落ち着け!」
翔太は取り乱しながらも、男の腕を掴み、体当たりを仕掛けた。
揉み合いはほんの数秒だった。
「うあああぁぁぁぁぁ!!!」
男は自分の腕の動きを制御できず、包丁の刃先が自らの腹部に深く突き刺さった。
赤黒い血が飛び散り、床に滴り落ちる。
男は目を見開いたまま、翔太の胸を掴んだ。
「……わすれ……るな……よ……」
力が抜け、男はその場で崩れ落ちた。
警報音だけが廊下に響き続けていた。
***
救急隊が駆けつけ、警察の事情聴取が始まった。 由衣は泣き崩れ、翔太は淡々と状況を説明した。
「相手が凶器を持って襲ってきたので……正当防衛です」
監視カメラ映像、由衣の証言、全てが翔太の言葉を裏付けた。
事件は、"精神錯乱した男の暴走"として処理されようとしていた。
だが。
翔太の胸の奥には、説明できない"違和感"だけが残っていた。
(あの男……俺の名前を……なぜ……あの高校生の顔……誰だ……?)
その違和感は、やがて翔太の人生を根底から崩壊させる最初の一滴だった。
鏡に映った高校生の顔の残像が消えた後も、黒岩翔太はその場から動けずにいた。シャワーの湯は冷め、タイルに座り込んだ彼の体は震えていた。
「誰だ……お前?」
声に出した瞬間、その名前が彼の記憶の深層から、重く、淀んだ泥を伴って湧き上がってきた。
浅川和也。高校の同級生だった男だ。地味で目立たず、スポーツも勉強もイマイチ。
しかし、その中途半端な自分を頑なに守ろうとする「プライド」が、翔太たちのグループにとって、最高の「獲物」であり「嫌悪感」の対象となった。
あの頃、彼らは浅川の些細な言動を嘲笑し、彼の自尊心を徹底的に踏みにじった。それは暴力ではない。精神的な「遊び」という名の拷問だった。
翔太は、自分が殺した男が、高校時代に「どうでもいい」と切り捨てたはずの、あの浅川だったという事実を、ようやく理解した。そして、その理解は、自分が殺人を犯したことよりも、遥かに重い罪悪感を伴っていた。
彼は、浅川が命をかけて復讐に来るまで、その存在を完璧に忘却していた。その忘却こそが、浅川にとって、最も深い屈辱であり、復讐の最大の動機だったのだ。
由衣は、翔太の異変に気づいていたが、恐怖と自己防衛から、彼の問いかけには硬く口を閉ざしたままだった。翔太は由衣の沈黙の中に、彼女の「共犯者」としての影を感じ取り、二人を繋いでいた糸が、一本、また一本と千切れていくのを感じた。
彼はベッドには戻らず、リビングのPCに向かい、震える指で「浅川和也」と、死亡時のニュース記事を検索した。
検索結果には、被害者男性のプロフィールがわずかに掲載されていた。高校卒業後の進路は不明。数年前から引きこもり状態。家族も近隣住民との交流もなし。そして、彼が事件前に書き残した、憎悪に満ちたSNSの断片や、匿名掲示板の過去ログが浮かび上がってきた。
『あいつらは、俺の「生きた証」を全部笑い飛ばした。俺はただ、あいつらが成功していくのを、この部屋の隅で、腐っていく自分と一緒に見ているだけだ。生きてる意味なんてない。どうせ家族も誰も助けてくれないなら、俺はあいつらに復讐する』
文字の羅列は、憎悪と絶望の塊だった。翔太は、自分が「遊び」として行った行為が、浅川の人生をどれほど深く、そして永続的に破壊したのかを、初めて突きつけられた。その破壊の全てが、今、亡霊となって彼に襲い掛かっている。
***
亡霊の攻撃は、単なる幻覚では終わらなかった。それは、翔太の**「幸せ」の象徴そのもの**を狙い始めた。
まず、電子機器の異常が顕著になった。
出勤しようとエレベーターを待つ翔太のスマホが、突然、発熱し始めた。画面はフリーズし、その表面に、まるで指で描かれたかのように、汚れた文字が浮かび上がった。
「オマエノ シアワセ ハ、オレノ クツジョク」
翔太は思わずスマホを落とした。拾い上げた時には、画面は元通りになっていたが、その文字が脳裏に焼き付いた。
会社では、彼のPCのデスクトップに、覚えのないフォルダが作成されていた。ファイル名は「あの日のゴミ」。開いても中身は空だったが、翔太は全身の血の気が引くのを感じた。それは、浅川が高校時代、自作の小説を「ゴミ」と嘲笑された時のことを指しているのだと、彼は理解した。
そして、由衣の精神的な錯乱は、日を追うごとに激しくなった。
由衣は、亡霊の「視線」を明確に感じるようになっていた。「あそこにいるわ」「私を見ている」と、誰もいない空間を指差し、怯え続けた。
ある日の夕方。翔太が会社にいる間に、由衣から電話がかかってきた。
「翔太!早く帰ってきて!あなたの、あなたの…!」由衣の声はパニックで、途切れ途切れだった。
慌てて早退し、マンションのドアを開けると、リビングは荒らされていた。花瓶が倒れ、結婚式の写真立てが割れていた。由衣は部屋の隅で、両手で耳を塞ぎ、ぶつぶつと何かを呟いていた。
「お前は、この指輪に値しない…お前の愛は、見て見ぬふりで作られた偽物だ…」
由衣は、結婚指輪を外そうと、激しく自分の指を引っ張っていた。指は充血し、血が滲んでいる。
「由衣、やめろ!」翔太が止めようとすると、由衣は狂ったように指輪を床に投げつけた。
「違う!これは偽物よ!あなたの指輪は、誰かの血と涙でできてるのよ!彼が言ってる!彼が…!」
指輪はソファの下に転がり、どこかへ消えた。
その時、リビングのテーブルの上に、古びたボールペンのキャップが置かれているのを見た。昨日、由衣が「気持ち悪い」と言って捨てるように言ったはずの、あのキャップだ。
翔太は激しい頭痛と共に、記憶の断片を強制的に見せつけられた。
薄暗い高校の教室。床に落ちた、このボールペン。そして、それを踏みつけ、笑っている自分と、周囲の友人たち。 「おい、浅川。これ読めよ。お前が書いたラブレターだろ?」 由衣が、翔太の隣で、浅川を指差して冷笑する横顔。
由衣は、翔太の恋人という安全な立場から、浅川へのいじめを享受し、加担していたのだ。
由衣は泣き崩れた。「私は、怖かっただけなの。あなたに嫌われたくなかっただけなの!でも、彼が…彼がずっと私を許さないって…」
翔太は、由衣の告白よりも、亡霊が二人の最も深い秘密、すなわち**「傍観者の罪」と「忘却の傲慢さ」**を正確に把握し、そこを攻撃していることに、深い恐怖を感じた。彼らの幸せは、完全に破綻した。
***
家庭の崩壊と同時に、亡霊の攻撃は翔太の社会的基盤にも及び始めた。
会社での彼の昇進は、突然保留となった。上司からは「君の過去に、一部不適切な行為があったという匿名の情報提供があった。事実関係の調査が終わるまで、待機だ」と告げられた。
そして、彼のPCに届いたのと同じ高校時代のいじめ動画が、社内のグループウェアの匿名メールで、彼の個人情報と共に拡散されていた。
『見て見ぬふりをすれば、成功者になれるのか』 『人を玩具にした人間が、大手商社で役員を目指すのか』
社内は騒然となった。人々は彼の前では露骨に目を逸らし、陰ではささやきあっていた。翔太は、以前はカーストの頂点にいたはずが、今や会社という名の小さな社会の中で、浅川が生前味わったのと同じ**「孤立と軽蔑」**の眼差しに晒されていた。
最もショックだったのは、高校時代からの親友であり、共に浅川を虐めていた仲間の早乙女からの電話だった。早乙女もまた、都内で成功を収めていた。
「おい、翔太!あの動画、なんだよ!うちの部署にも出回ってるぞ!お前が殺した男のニュースと一緒にだ!」早乙女の声は、パニックと憎悪に満ちていた。
「早乙女、落ち着け。誰が流したか…」
「誰かなんてわかってるだろ!あの幽霊だ!俺の会社の機密情報まで流出させて、俺に罪を着せようとしてるんだ!俺たちは、お前がやったことに笑ってただけなのに!なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ!」
早乙女は怒鳴った。彼は、自分が「傍観者」として受けた罰を、すべて翔太のせいにした。
「全部お前のせいだ!お前さえ、あの男を殺さなければ、俺たちは…」
電話は一方的に切られた。翔太は、自分を囲んでいた「陽の光」の世界が、一気に崩壊したのを感じた。妻も、友人も、仕事も、全てが彼の元から離れていった。
彼は、浅川が掲示板に書き込んだ言葉を思い出した。
「あいつらが一番大事にしているものと、俺自身の手で、あいつに思い出させてやる」
亡霊の目的は、翔太を物理的に殺すことではない。彼が手に入れた「光」を全て奪い、彼を浅川と同じ「誰も助けてくれない、一人ぼっちの暗闇」に突き落とすことだったのだ。
***
由衣は精神的なショックが大きく、一時的な入院を余儀なくされた。翔太は会社を休職し、ガランとしたタワーマンションの自室に一人残された。成功の象徴だったこの家は、今や冷たい独房と化していた。
彼は、浅川が引きこもりとして生きた数年間の苦しみを、自らの体で味わい始めた。
朝が来ても、起きる気力がない。誰も訪ねてこない。スマホは鳴らない。鏡には、自分自身の姿に重なるように、徐々に浅川の醜く惨めな亡霊が映り込むようになっていた。
鏡の中の浅川は、彼の顔の隅々まで憎悪の眼差しを向けた。
「どうだ、黒岩。俺の苦しみを、少しは理解したか?お前が、俺を、この醜い顔にしたんだぞ。お前が忘れた俺の人生を、お前自身に刻み込んでやる」
亡霊は、翔太の精神を完全に支配し、彼のアイデンティティを浅川自身の絶望と憎悪で上書きしようとしていた。
翔太は、この現象を止める唯一の方法は、浅川の憎悪を鎮めることだと悟った。そのためには、まず自分が犯した罪の深さを、徹底的に知る必要があった。
彼は、浅川が高校時代にからかわれた時に流した**「あの日の動画」**を、亡霊に送られたスマホで何度も再生し、自らの犯した罪と向き合った。
動画の中で、若く傲慢な自分が、浅川の自尊心を破壊する言葉を浴びせていた。由衣が笑っていた。そして、浅川はただ俯き、涙をこらえていた。
彼はさらに、浅川が高校卒業後から事件を起こすまでの足取りを、公的な記録や匿名情報から必死に辿った。
浅川は、高校でのいじめによる精神的なダメージと、内申点の悪化から、第一志望の大学に不合格となった。その後、就職活動も上手くいかず、社会との接点を持つことを恐れるようになった。
彼の匿名掲示板の過去ログには、その絶望が克明に綴られていた。
「誰も助けてくれない。親も、俺が引きこもりになってからは、ただの邪魔者扱いだ。あいつら(翔太たち)は、俺の全てを奪ったくせに、俺のことなんて一生涯、思い出さないんだろう」 「俺の生きた証は、全て恥と屈辱。誰も俺の存在を許さない。だったら、俺もあいつらの幸せを許さない」
その投稿は、事件の直前に途切れていた。浅川は、家族からも見捨てられ、生きる場所も、生きる理由も全て失い、最後の復讐のために翔太に襲い掛かったのだ。
翔太は、PCの画面に顔を押し当てて呻いた。
自分が「遊び」として行った行為が、一人の人間の人生を、二十年間にわたる絶望と孤独へと追いやり、最終的に彼自身の手で殺害するという最悪の結末を迎えていた。
彼は、殺人者としての罪ではなく、一人の人間の尊厳を踏みにじり、その存在そのものを忘却したという、人間としての根源的な罪に、打ちひしがれた。
由衣の指輪は、まだソファの下に見つからない。しかし、彼の指に残された指輪の痕跡だけが、かつて存在した「完璧な日常」が、既に手に入らない場所へ行ってしまったことを示していた。
翔太は、もはや恐怖心だけではない、純粋な悔恨の念から、涙を流し始めた。
「ごめん、浅川。お前のこと、忘れていた。お前の人生を…俺が壊した」
その夜、タワーマンションの30階で、全てを失い、浅川の憎悪と孤独を全身で感じている男の姿は、まるで浅川が生前、引きこもっていた薄暗い部屋の隅と、寸分違わぬ光景だった。
彼は、浅川が望んだ通り、浅川自身となったのだ。
全てを失った黒岩翔太は、もはや恐怖心すら持っていなかった。会社を休職し、妻の由衣は精神病棟に入院。友人は彼を裏切り、彼が築き上げた「光の人生」の基盤は、完全に闇へと飲まれた。彼は、浅川がかつていた、誰も助けてくれない、一人ぼっちの暗闇の住人となっていた。
彼は、浅川の亡霊が最も強く現れるであろう場所、あの事件が起こったマンションのエントランスへと向かった。
深夜。エントランスの冷たい大理石の床には、三ヶ月前、浅川が流した血の痕跡が、シミとして薄く残っていた。翔太はそのシミの前に、一人、立ち尽くした。
「浅川…和也」
彼の声は、もはや「成功者」のそれではない。掠れて、弱々しく、しかし、純粋な悔恨が込められていた。
彼の呼びかけに応えるかのように、エントランスの冷たい自動ドアの隙間から、凍えるような風が吹き込んだ。周囲の空間の密度が変わり、空気が重くなる。
そして、翔太の目の前に、浅川の亡霊が、はっきりと実体化し始めた。
亡霊は、彼が殺した時の、血に濡れたパーカー姿ではなかった。それは、高校時代の、最も醜く、惨めで、憎悪に満ちた表情を浮かべた浅川の姿だった。彼の瞳は、光を失ったまま、翔太を貫くように見つめていた。
「来たな、黒岩」亡霊は、乾いた、しかし強い憎悪を込めた声で言った。「全てを失った気分はどうだ?お前が俺にやったことの、百万分の一にもならんだろうが」
翔太は、亡霊の言葉に反論しなかった。もはや反論する権利も、資格もない。
彼は、亡霊の目の前で、静かに、深く頭を下げた。その姿勢は、カーストの頂点にいた彼が、かつて見下した相手に、魂の底から降伏を誓うものだった。
「浅川、俺は…」
***
翔太は顔を上げると、亡霊を、そして亡霊の向こうに見える過去の浅川を、直視した。彼の目からは、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、自分の恐怖や後悔のためではない。浅川が味わった、途方もない絶望と孤独に対する、純粋な痛みと悔恨の涙だった。
「ごめん、浅川。お前を…忘れていた」
翔太は嗚咽を堪えながら、言葉を続けた。彼の謝罪は、単なる殺人の謝罪ではなかった。それは、彼がかつて行っていた、人間としての尊厳の破壊に対する、魂の告白だった。
「俺は、お前を『遊び』だと思っていた。お前の夢や、お前の努力を、くだらないと笑った。お前が屈辱に耐えているのを、由衣や仲間と見て、優越感に浸っていた」
「俺は、お前がどれだけ苦しんでいるか、知ろうともしなかった。それどころか、お前が人生を壊されたことを、完全に、都合よく、忘れていた」
翔太は膝を折り、浅川の亡霊の足元に崩れ落ちた。
「あの時、お前が涙を流した、あの時の屈辱。お前が親にも見捨てられ、誰も助けてくれない部屋の隅で、復讐だけを考えて生きていた、あの地獄。俺は、その全てを、知ろうともしなかった!」
「俺の人生は、お前が受けた苦痛の重さを、完全に無視して、幸せに成り立っていた。俺はお前を殺したんじゃない。お前の人生の全てを殺した、悪魔だ」
「償えない。何をしても、お前の失われた人生は戻らない。だが、浅川。この命が尽きるまで、俺はあの時の罪を、お前が流した涙を、絶対に忘れない。だから…心から、本当に…ごめんなさい!」
翔太は床に額を擦り付け、子どものように声を上げて泣いた。彼の謝罪は、もはや自分を救うためではなく、ただ、浅川の魂の痛みを少しでも和らげるための、唯一の行為だった。
***
浅川の亡霊は、微動だにしなかった。憎悪に凝り固まっていた彼の表情に、初めて、動揺のようなものが浮かんだ。長年の復讐の目標が、これほどまでに徹底的に、自らを否定し、謝罪してくることを、彼は想定していなかった。
「謝罪……だと?」亡霊の声は、一瞬、戸惑いの色を帯びた。
「今さら、そんなものが、何の役に立つ?お前が今、俺と同じ孤独を味わっているから、そんな甘ったるい言葉が出てくるんだ!俺は、お前が俺の顔を忘れていた、その事実一つで、お前の全てを破壊するつもりだったんだ!」
亡霊は怒りを爆発させ、エントランスの照明が一斉に弾けた。空間が歪み、怨念の嵐が翔太を襲う。
「許さない!お前がどんなに謝罪しようとも、俺の苦しみの百万分の一にもならん!お前は、まだ生きて、この屈辱を味わっている!まだ足りない!全てを奪わなければ、俺の魂は鎮まらないんだ!」
亡霊は最後の力を込め、怨念の塊となって、翔太に襲い掛かった。
翔太は、目を閉じたまま、抵抗しなかった。謝罪した今、彼の心には、恐怖よりも、どこか静かな受容の念があった。
「殺せ、浅川。それがお前の救いになるなら、俺は喜んで、お前の最後の復讐を受け入れる」
***
亡霊は、翔太の胸元で停止した。
凄まじい怨念の嵐の中で、浅川の亡霊は、翔太の顔を覗き込む。そこに、かつての傲慢な「カーストキング」の姿はなかった。あるのは、自分と同じ絶望と孤独に塗れた、ただの罪人の顔だった。
憎悪と復讐心に支配されていた浅川の瞳に、一瞬、生前の、誰かに助けを求めていた頃の、弱々しい光が宿った。
「……俺は、お前を殺さない」
亡霊は、低く、重い声で呟いた。その声には、復讐の完了ではなく、新たな憎悪の始まりが込められていた。
「お前は、死んで楽になる資格すらない。俺は、お前を殺して復讐を終わらせるんじゃない。お前を、俺自身として生き続けさせる」
亡霊は、翔太の胸から離れた。怨念の嵐が収まり、エントランスの空間は元の冷たい静寂を取り戻した。
「お前の幸福は、俺が壊した。お前の友人は、お前を裏切った。お前の愛した妻は、お前との罪の共犯者として、狂気に囚われている」
浅川の亡霊は、徐々にその姿を薄れさせていった。
「お前は、この先、誰からも愛されず、誰からも助けを求められず、お前が殺した浅川和也として、永遠に生き続けるんだ」
「生きろ、黒岩。そして、忘れるな。お前が俺にしたことを、一生涯、毎日、思い出して苦しめ。それが、俺が死んでもなお、お前に与える、最高の、そして永遠の罰だ」
浅川の亡霊は完全に消滅した。エントランスには、照明の破片と、薄い血のシミ、そして、膝を抱えて座り込む翔太だけが残された。
翔太は、顔を上げた。彼の瞳には、涙は乾いていたが、そこには、もはや「黒岩翔太」としての傲慢な光はなかった。あるのは、永遠に続くであろう孤独と悔恨の影だけだった。
彼は立ち上がり、自室へと戻った。
翌朝、翔太は鏡を見た。そこに映る自分の顔は、相変わらず「黒岩翔太」の顔だった。しかし、彼の瞳は、もはや自分の意思で動いているようには見えなかった。
彼の携帯には、病院から由衣の病状に関する連絡が入っていた。彼女は回復の見込みが薄く、長期の療養が必要とのことだった。
彼は会社に辞表を提出し、そのままマンションで、孤独な生活を始めた。彼の人生は終わった。
彼は、自分が「癌」と罵った引きこもりの男と同じように、社会から断絶され、誰にも見られず、誰からも愛されず、ただ「忘却の罰」を背負い続けて、生きることになったのだ。
彼の手には、由衣の指輪を失った後、唯一残った、あの黒いボールペンキャップが握られていた。
死してもなお、浅川の復讐は、黒岩翔太の魂を支配し続ける。
執筆の狙い
私の元ネット知人の男性が「ホームレスになったら、自分を虐めた奴らに復讐する」と言っていたのを思い出し、ホラー小説を書きました。
当初、長編として書く予定が、ネタが思い浮かばず、見事に失敗して、短編になってしまいました。
ホラー、バッドエンドなので、苦手な人は、書き込みを控えてください。
あと、アイデアが欲しいので、ネタ出しをお願いします。あくまでネタを求めているので、批判、ダメ出しのみの投稿は、ご遠慮願います。