足を戻して両足跳び
1 彼の朝
『腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動〜』
ラジオ体操の号令に合わせて両腕を伸ばす。肩の関節が小さく鳴った。
右斜め前の女性のシャツに、淡い色の下着の影が、朝の光の中でかすかに浮かんでいる。ショートパンツから伸びる脚が、朝日を受けてまぶしく光っていた。彼女は四十代半ばだろう。初めて挨拶を交わしたときの声が、夏の麦茶のように涼しかった。
『腕を振って、足を曲げ伸ばす運動〜』
彼女が上下に揺れる。斜め後ろからでも肉感の抑揚はよく見て取れる。ラジオ体操が、こんなにも艶めいて見える日が来るとは、四十年の勤めの中で想像もしなかった。
『体をねじる運動〜』
腕を振るたび、身体全体が波のようにしなり、胸のかたちが一瞬だけ現れては消える。俺の鼓動は速くなるばかりだった。定年退職し、妻に先立たれ、子どもたちも遠くで暮らす。俺を必要とする者は、もういない。けれど毎朝ここで体操をするたび、自分の中の錆びついたネジが、ほんの少しだけ回りはじめる気がしていた。
『体を回しましょう〜』
彼女の腰は音楽よりも滑らかに動く。その中心には、触れてはいけない熱が宿っているようにも見える。俺の中で、忘れていた命のリズムが蘇ってくる。
『足を戻して、両足跳び〜』
──もう、跳ぶのを忘れそうだ。
『深呼吸して──はい、お疲れさまでした〜』
音楽が終わり、人々が散っていく。すると、彼女が首の汗をタオルで拭きながらこちらを向いた。
「毎日、頑張ってますね」
彼女の弾んだ声は、俺を正気に戻す。
「ええ、もう習慣みたいになりました」
「私もです。気づいたら、三年以上通ってます」
そう言って髪をかき上げる彼女の左手に、指輪はなかった。
次の日も、その次の日も、彼女は同じ場所にいた。俺は知らず知らず、体操の号令よりも彼女の動きを追うようになった。
「コーヒーでも飲みません?」
ある朝、体操が終わったあと、彼女がふいに言った。「あそこの自販機の、ですけど」
えっ、と声が裏返りそうになるのを抑えながら、
「あ、はい。いいですね。私もちょうど飲みたいと思っていたので」と答えた。
自販機まで並んで歩く。アスファルトから立つ熱気に、草の匂いがまじる。彼女の腕が、思いのほか俺の腕に触れそうになる。距離を保ちながら、歩みを合わせた。
自販機の前で、彼女が財布を出そうとするのを見て、俺は慌てて千円札を入れた。
「いいですよ、今日は僕が」
「え、じゃあ次は私がごちそうしますね」
その「次」が、約束のように胸に った。ベンチに並んで座り、缶を開ける音がふたつ響く。
「甘いの、苦手なんですけど、今朝はちょっと疲れて」
「甘いのも悪くないですよ。こういう朝には」
彼女は小さくうなずき、唇を寄せ、コーヒーを口に含ませる。
「お仕事、もう引退されたんですか?」
「ええ、去年まで。いまは自由人です」
「いいなあ。私も、少し自由になりたいな」
そう言うと、何かを投げかけるように俺を見る。これは誘いなのか──。いつも斜め後ろから目線を向けていたのを、彼女は気づいていたのだろうか。言葉の続きを待って俺は彼女を見つめた。すると彼女は小さく笑って、また缶を傾けた。その横顔の輪郭が、やけに近くに感じられた。
それから数週間、体操のあと、ときどき二人で自販機のお茶やコーヒーを飲むようになった。会話の端々に沈黙が挟まることもある。だがその沈黙は不安ではなく、むしろ心地よかった。
ある日、帰り際に彼女が言った。
「ねえ、奥さまはご一緒にラジオ体操やらないのですか?」
「……十年前に病気でなくしまして。」
「そう……ごめんなさい」
「いえ。もう、思い出になってます」
「そういう思い出って、羨ましいです」
「羨ましい?」
「私、ちゃんと人を愛したことがあるのかなって、最近考えるんです」
その一言に、胸の奥がひどくざわめいた。
(ちゃんと人を愛したことがあるのか)──俺自身もまた、同じ問いを抱えていた。
風が吹き、彼女の髪が俺の頬をかすめた。ほんの一瞬だったが、その感触が皮膚の奥に残った。彼女と話していると、亡き妻に語りかけるような錯覚を何度か覚えた。俺の中で、過去と現在が少しずつ和解していく気がしていた。
──八月の終わり、彼女は姿を見せなくなった。
最初の数日は体調のせいかと思った。一週間たち、二週間たっても現れない。俺は彼女の何時も立っていた場所を見た。朝の光の中に、そこだけ影が残っているような気がした。
体操仲間の年配の人が言った。
「あの人、引っ越されたらしいですよ。お子さんの都合で」
俺はうなずくしかなかった。指輪は、運動時には外していたのかもしれない。
帰り道、自販機の前で立ち
止まり、缶コーヒーを買った。ベンチに腰を下ろし、缶を開ける。指先でベンチをなぞると、そこにまだ彼女のぬくもりが残っているような錯覚がした。
——彼女はいない。
でも、朝の体操は明日もある。俺はまた、体操のリズムに合わせて腕を上げ、背伸びをする。汗をかき、深呼吸して、空を見上げた。あの人も何処かの朝に、息を弾ませ、同じ空を見ているのだろうか。
体操のあと、俺はひとり缶コーヒーを口に含む。苦味の奥に甘さが残る。その微妙な味の重なりが、恋というものの記憶に似ている。 ふと、あの人の笑顔の向こうに、亡き妻の顔が重なった。
──愛すべき人を、ちゃんと愛してね。
妻が、そう言ったような気がした。
2 彼女の朝
最近、レギンスを履くようになった。
以前は軽い気持ちでショートパンツをはいていた。けれど、あの人の視線を意識するようになってから、布の少なさが急に心細く思えた。レギンスは下半身の肌に心地よく密着し、ヒップから脚の線をやわらかく縁取る。朝の光が、カーテンを透かして、私の輪郭を淡くなぞっていった。
——まだ、悪くないわね。
鏡の中の自分にそう言い聞かせる。
夫はもう何年も、私を女として見ていない。けれど、朝のラジオ体操に立つあの場所に行くと、眠っていた感覚が少しずつ目を覚ます。肌の奥で、小さな熱が波打つのを感じる。
『腕を前から上に上げて、背伸びの運動〜』
ラジオ体操の号令がスピーカーから流れる。
彼——あの人は、いつも決まった場所に立っている。無口で、姿勢がきれいで、動きに無駄がない。斜め後ろから、あの人の視線がそっと背をなぞるのを感じる。腰をひねるたび、空気が肌の上をすべり、胸の奥にかすかな熱が灯る。
——見られている。
その一瞬、下腹の奥で小さな電流が走る。いやな感じじゃない。むしろ、少し、気持ちいい。
体操が終わると、帰り道の出口の手前で、私はふと足を止めた。彼は私の後ろを歩いている。胸の奥に小さな衝動が湧く。言葉にしなければ、なにかが消えてしまいそうで。
「……コーヒー、飲みます? あそこの自販機のですけど」
振り向きながら彼に向けた自分の声が、思ったより高く震えた。彼は少し驚いたように笑い、「あ、はい、いいですね」と答えた。
缶を開ける音が重なり、甘い香りが広がる。並んでベンチに腰を下ろし、無言のまま、朝の風を吸い込んだ。
「この時間、好きなんです。まだ世界が目を覚ます前の感じ」
そう言うと、彼は「わかります」とうなずいた。
それだけのやりとりなのに、胸の奥の何かがひとつ、静かにほどけていくのを感じた。
一度だけ、彼が来なかった日があった。その朝、信じられないほど寂しかった。誰とも話さないまま体操が終わり、帰り道、風が胸の奥を通り抜けていく。
翌朝、彼は何事もなかったように現れた。思わず声をかけた。
「昨日、どうされたんですか?」
「体調を崩してね。でももう大丈夫です」
誰かの健康を気にするなんて、いつ以来のことだろう。彼の喉の動きに目を奪われている自分に気づく。男の喉仏の上下が、こんなにも美しいと思ったことはなかった。
その後、少しずつ話すようになった。十年前に妻を病気で亡くしたこと。仕事が忙しくて、ほとんど看病もできず、看取れなかったこと。
「いまでも、もう少しちゃんと向き合っていればと思うんです」
その声には、後悔と優しさが入り混じっていて、私の胸の奥の空洞をそっと撫でた。
——この人に、惹かれている。
その事実を認めるのが、怖くもあり、どこか救いでもあった。
その夜、私は天井を見上げていた。隣の部屋から夫の寝息が聞こえる。もう何年も同じベッドでは寝ていない。
眠れぬ夜、指先が迷うように肌を辿り、忘れていた温もりの場所を探した。脳裏に浮かぶのは、かつて夫に愛された記憶ではなく、朝の光の中に立つ、あの人の横顔。その輪郭に触れることはきっと罪。でも夢のように美しい罪だ。指の動きと共に、失われたはずの熱がゆっくりと息を吹き返す。波のような熱が胸の奥を駆け抜け、やがて静かに消えていった。
夜の静寂の中で、身体の奥のほてりがほのかに残る。隣の部屋から夫の寝息が続いていた。同じ屋根の下にいながら、まるで別の時代を生きているような距離があった。
翌朝の体操。何もなかったかのように、彼のそばに並んだ。動作の合間、ふと目が合う。私は小さく笑みを返した。胸の奥に、あの人に触れたい、もっと近づきたいという衝動がひそかに芽生えていた。
ある日、夫が食卓でふいに言った。
「最近、きれいになったな」
手にしていた箸が止まった。
彼の声に、少しの驚きと戸惑いが混じっていた。私は何も返せなかった。けれどその瞬間、胸の奥にゆっくりとした痛みが広がった。
——私は、いったい何を求めていたのだろう。
その夜、寝室の明かりを消してからも、夫の言葉が耳に残っていた。
「きれいになったな」——ほんの一瞬の言葉だったのに、心の奥が静かに波立っていた。
あの人の視線に揺れていた自分と、夫の声に頬を染めた自分。どちらが本当の“女”なのだろう。
天井の影を見つめながら、私は自分の心を見つめ直した。夫に向かう気持ちも、あの人に揺れる気持ちも、同じ“愛されたい”という思いなのだろう。けれど、私に必要なのは、見られることではなく、見返すこと、愛すべき人を見つめて、ちゃんと愛することではないだろうか——。
翌日の公園には、風が強く吹いていた。彼のシャツがふくらみ、布越しに背中の形が浮かぶ。その背を見ながら思う。このままでは、きっと一線を踏み越えてしまう。彼の声を求め、指先を伸ばしてしまう。その未来を、想像するだけで怖かった。
あの人の存在は、私の内側の乾いた部分を照らしてくれた。けれど、光はいつまでもそこに留まれない。
——ちゃんと、目の前の人を愛そう。
私は、いつもより少し早足で家へ向かった。夫と息子に温かい朝ごはんを作ろうと思った。朝の風が頬を撫でる。ランニングする人の足音が、小さく遠ざかっていく。
愛するということは、恋のような熱ではなく、そばに在り続けることかもしれない。家族を、日々を、もう一度ちゃんと愛そう。
その朝、私は久しぶりに卵を焼いた。黄身がゆっくりと膨らみ、フライパンの上で朝日を映していた。
終
執筆の狙い
ラジオ体操での男女の出会いを通して感じた心の動きをを、男女それぞれの視点から描く手法の試み。