混沌の胎動
混沌とは、形なき息づかいである。
暗闇でも光でもない。ただ、壊れかけの街灯の下、冷たい雨に濡れるアスファルトの匂いの中で、静かに脈打っている。
人間は混沌に恐怖を抱く。
だが同時に、そのざわめきに心を奪われる。
秩序が作る安らぎは、凍った湖の上に立つようだ。
足元の氷がひび割れた瞬間、底に眠る水の感触に気づく。
人はその感触を知りたいがため、秩序の裂け目から外の世界を覗くのだ。
文明とは、混沌と秩序の間に張られた一本の糸である。
その糸の上を、人々は歩き、踊る。
通りの雑踏、誰かの笑い声、誰かの泣き声――
糸は揺れ、時に人を転ばせ、時に未来を運ぶ。
秩序が強まれば息苦しくなる。
混沌が溢れれば街は崩れ、声は叫び、夜は果てしなく長くなる。
社会は混沌を封じ込めようとする。
法律、道徳、常識――壁であり、祈りである。
だがその壁の内側で、人々の内面は静かに嵐を育む。
欲望、夢、嫉妬、希望――
夜遅く灯りの残る部屋で、ひとりペンを握る手に、楽器に触れる指先に、混沌の胎動が現れる。
理性の仮面がひび割れた瞬間、世界は少しだけ違う色を帯びるのだ。
個人の中の小さな混沌は、やがて社会を揺らす。
誰かの決断、誰かの沈黙、誰かの涙――
波紋は広がり、目に見えない力となって世界を動かす。
私たちはその力を恐れ、また愛する。
混沌は敵でも味方でもない。
破れた街角の落書きに宿る創造の胎動、未完成の楽譜に息づく進化の息吹――その存在は、静かに、しかし確かに世界を揺らす。
そして問いが残る――
あの夜、崩れた橋の上で立ち尽くした私たちは、混沌と秩序のあいだで、何を「生きた」と呼ぶのだろうか。
どこまで委ね、どこまで支えにすがるべきなのか――答えは、まだ風の中に揺れている。
執筆の狙い
人は混沌に恐れを抱きながらも、同時に魅せられる存在です。本作では、秩序と混沌のあいだで揺れる心の在り方を、言葉の呼吸を通じて読者に感じていただき、静かに問いを生み出すことを目指しました。