風のように走れ
1
少し汚れてきたな、でも仕方ないか。富田ありさは新学期になる前に買ってもらったトレーニングシューズを履く時に側面の部分に土汚れが付いているのを見て、少しがっかりした。ASICSのリタレーサー6という、ピンクをベースにした可愛いデザインで、母の由梨に進級祝いに買ってもらったものだ。ま、洗えばいいんだ。気を取り直して、靴紐をしっかりと締め、蒸し暑い陸上部の女子更衣室の扉を開けた。視界が一気に明るくなり、目を細めたありさの目の前に、先に着替え終わっていた本庄貴子が軽くストレッチをしている姿が見えた。ショートに切った髪がよく似合う、ありさの相棒だ。
「さぁ、今日もいくぞ」
「いくか」
明桜学園高校の広いグラウンドではラグビー部やサッカー部の部員たちが大きな声を上げて走り回り、ボールを蹴り飛ばし、所狭しと動き回っている。2人は部室前で一通り準備体操とストレッチをした後、砂場前に立って走り幅跳びの練習をする部員を見ていた赤いジャージ姿の姿勢のよい女性に声をかけた。
「秋津先生、火曜なので外ラン行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい。45分以内を目指してね」
高校から少し離れたところにある、房後山から流れる船付川を海岸のほうまで走って戻ってくると、ちょうど10㎞ほどになるのだが、45分だと1km4分弱なので全く楽ではない。2人は校庭を出て正門前で横に並び、腕時計を見やる。貴子は白のG-SQUAD、ありさは赤のSEIKOプロスペックスのスタートボタンを同時に押し、走り出した。
ありさは足の運び、腕の振りを強く意識して、ストライドを大きく取りすぎないように、回転を上げることを目標に走る。今年は絶対にインターハイに出るんだ。ありさが高校二年生になってから考えている事はこれしかない、といっても過言ではない。6月末の予選の県大会までに、なんとしても3000mを9分30秒で走りたい。この数字なら絶対にインターハイに出られる。
「それで、ありさの自己ベストは今どれぐらいなんだ」
進級した頃の、ある晩ご飯の時、缶ビールを口に運びながら父親の智弘が聞いてきた。ありさは、まだ10分18秒がベストなの、と弱々しい声で返事したあと、自分の大皿のメンチカツを一切れ口に入れた。
「でも心配ないんでしょ、甲子園の盗塁王の娘なんだから」
母親の由梨が肩にかかった茶髪をかきあげながら楽しそうにいう。このやり取りはもう何十回聞いたか分からない、とありさは口をとんがらせた。智弘の唯一の自慢は高校三年生の時に野球部のレギュラーのショートで甲子園に出場した事だった。彼は大きく目を見開いて、黙々と口を動かす娘の顔を見ていった。
「そうだ、父さんは甲子園でなんと4回も盗塁したんだ。ついたあだ名は横浜のスピードスターだ」
「ちょっと変わったね。いつもは横浜の盗塁王なのに」
とありさが突っ込むと、智弘は、うはは、と大きな口を開けて笑いながら、ま、父さんの娘なんだから何の心配もない、ありさが9分30秒で走れるようになるのは分かっているよ、と言った。
彼女は父がこういう話し方をしてくれるのを内心嬉しく思っていた。いつも、理由は分からないが一人娘に絶対の信頼を寄せてくれる。小学生の時にピアノコンクールで優勝した時も、高校受験で志望校、明桜学園に合格した時も、同じ言い方をしてくれた。割と口うるさいお母さんと比較するから尚更かもしれないが、無条件の信頼は人を鼓舞するのだ、ということをありさは学んでいた。──そうだ、わたしは出来るんだ。2人は住宅街のアスファルトを踏みぬけて、歩行用の道のある船付川へ辿り着き、海をめがけて走り続ける。ほのかに潮の香りがして、ありさは鼻をこすった。
「ペースは?」
「悪くない。いつもより20秒ぐらい速いよ」
「今日は飛ばすよ。すごく調子がいい」
貴子はかんべん~と言いながらも一緒に速度を上げてくれた。季節は穏やかな気候の春。インターハイ予選の頃は今よりもっと暑いはずだ。いま、目標のタイムに、いや、せめて10分を切っておかないと、とてもインターハイには出場出来ないだろう。ありさの気持ちだけは、前へ前へと進んでいるのだが、いかんせん10㎞はそう簡単には終わらない。吹き出す額の汗を手の平でこすった。視線はまっすぐに、だ。下なんか見るもんか。貴子が少し遅れている。彼女は800m走の選手なので、長距離はやや苦手である。後ろを見ると、息切れしながらかろうじて笑顔を作り、手を振ってきた。先に行け、ということね。
ちょうど折り返し地点のコンクリートの通路が見えてきた。その向こうは川の終わりで、浅瀬の向こう側に、どこまでも広がる大海が見える。水平線の向こう側に大きな白い雲がいくつも浮かんでいる。本当は立ち止まって飽きるまでこの光射す海を見ていたいのだが、いつもランニングの際に来るので、一度も実現したことはない。
いくぞ、わたし。ありさは呼吸を切らしながらも更にペースを上げた。ここは本来は河川敷の歩道なので、のんびり歩いているお爺ちゃんや、犬を連れて散歩しているおば様などがいるが、彼らを華麗にかわし、ありさはひたすらに駆ける。
やがて視界の右手に船付川病院の白く大きな建物が見えてくると、ここで川沿いから上がり、あとは高校へ戻るだけだ。ありさは赤い腕時計を見た。まだ40分程度だ。あと2分で着く。これは10kmの自己ベストだ! 彼女は車にだけ気を付けて出せる限りの最高速度で校門前に転がり込んで、ストップウォッチを止めた。41分51秒。やったぞわたし、と自分を褒めながら校門横の柱に背中を預けて体育座りで荒い呼吸を繰り返していると、貴子が阿修羅みたいな顔で走ってきて、ありさの前で膝をついて、さらに仰向けで寝転がった。
「あん、た、速くなったね」
息を切らしながら貴子がいう。
「うん、なんか速くなってきた」
ありさが見上げた青空にはわたあめみたいな雲が浮かんでいた。しばらく見つめていた彼女はなんとなく嬉しくなって、勢いよく立ち上がった。
「貴子、立てる?」
「なんとか……」
まだ仰臥している貴子の手を取って体を起こし、その腕を抱くように持って、秋津先生に報告するために運動場にその姿を探し始めた。
3階の薄暗い病室から、走るありさの姿を見ている少女がいた。窓辺の椅子に腰かけた少女の暗く淀んだ瞳は、このところ何回か見かける、姿勢よく、結んだ黒髪を揺らし、凛とした表情で走る整った顔の女性の姿を見るたびに輝いた。と、同時に、走る事も出来ない虚弱な自分と比較し、心底羨ましいと思った。私も、あんな風に走れる日が来るはずなのに……。痩せた少女は自分の左胸を押さえた。そして、あの女の人に会いたい、話してみたい、と思った。お母さんに相談してみよう。そう考えると彼女はほのかな希望を感じ、明るい表情になった。少しだけ歩こう、と病室を出た。
2
小春日和の中、厳しい冬を越えた木々も草花も太陽の光を浴びてその緑を輝かせている。並び立つ山林から湧き出てくる水は大きな流れとなって集まり、それらが川となって大地を潤わし、母なる大いなる海へと還ってゆく。その途中で生きとし生けるもの全てに恵みを与えながら。
「わっ、いっぱいモンシロチョウとアゲハチョウがいる」
「菜の花がいっぱい咲いているからだね、可愛いね」
ありさ、貴子ら陸上部の女子数名は、川沿いの草むらに咲き誇っている黄色い花の周りを舞う蝶々を見て口々に感嘆の声をあげた。付き添いの秋津先生もしばらくその光景を微笑んで見つめていたが、やがて表情を引き締め、
「さ、それじゃダッシュを始めよう。まずはストレッチから」
と無慈悲な宣言をした。計8名の陸上部女子は、はーいと言いながら準備運動を始める。その時、船付川病院の建つ土手の緩やかな傾斜を下って、車椅子に乗った子と、それを押す母親が近づいてくる。一番端で屈伸運動をしていたありさは、川を渡るための小さな橋を進んでくる車椅子の少女と目が合った。その時ありさが思ったことは、青白く痩せた顔だ、病気なんだな、だった。少女は彼女を見つけると、にっこりと笑った。その表情を見た時、でも、なんて可愛らしい女の子だろう、と印象が変わった。
ありさは準備運動をやめて、すぐそばまで来た親子に正対した。どうも自分に用があるんじゃないか、と思ったからだ。そしてそれは正しかった。
「こんにちは。すみません、部活動の最中に……。私は中村真理といいます。この子は娘の愛と言います」
「中村愛です、初めまして」
少女は小さい声ながらも、しっかり挨拶した。ありさは突然自己紹介を受けて少し戸惑ったが、礼儀として自分も自己紹介すべきだと判断し、答えた。
「はじめまして、私は富田ありさです」
「突然で本当にすみません。少しだけ、愛がお話ししたいと言っているので、よろしいでしょうか。この子は生まれつき心臓病で、入院、退院をずっと繰り返しているのです。病室の窓から、懸命に走っているありささんの姿を見て、憧れたというか、何か話したいというか……」
母親も理由を上手く話せないのだろう、少しやつれて元気のない様子だが、服装や言葉使いからは気品が感じられた。するとそこへ眉をひそめながら貴子がやってきて、
「心臓の病気だなんて……手術のために入院しているのですか」
と質問する。人懐っこく、頭の回転の速い貴子はこういう場面に向いている。ありさは安心して貴子に場を任せる。真理の説明によると、愛は先天性心臓弁膜症という病気であり、手術すれば治るのだが、何回も手術をするのは危険なので、もう少し体が成長し、体力がついてから、という医師の判断に従って、今は薬物療法が中心の、入退院繰り返している日々ということだった。
「そんな……愛さん、今何歳ですか」
という貴子の問いに、7歳です、という返事を聞いて、ありさはもう沈黙していられなくなった。こんな幼い子が
ずっと苦しい病気と闘い続けているなんて……。
「愛さん、歩くことも出来ないんですか」
「歩けないことはないのですが、すぐに呼吸が乱れて疲れてしまうので、移動はなるべく車椅子を使っているんです」
秋津先生も近くに来てずっと話を聞いていた。真理のこの返事を聞いて、意味ありげな笑みを浮かべると、ありさにこういった。
「富田は今日は特別メニュー。愛さんの車椅子を押して、自由に川沿いを行き来して、30分経ったら帰ってきなさい」
これを聞いた愛は本当に嬉しそうな顔をした。真理は驚いた顔をして、思わずありさの顔を見た。ありさも驚いたが、断るはずもない。ありさは、はいと返事をして、両肩を上げて下ろして、じゃあ、少し散歩しましょう、と愛の乗る車椅子の押し手を持った。真理は感激して、何度も何度も頭を下げてお礼を言った。
「待った。あんた、車椅子押したことは?」
「ありません」
と秋津先生に問われたありさは正直に言った。そこで、特には関係ないはずの貴子と2人、簡単に車椅子のブレーキのかけ方などを教わって、中村親子とありさの3人で散策することになった。
ありさは強く押し手を握り、腰に力を入れて車椅子を押してみたが、意外と軽く感じたので、足取り軽く走り慣れた川沿いの歩道を進んだ。真理に聞かれるがままに、自分が今高校二年生であること、陸上部では3000m走をやっていること、今年は絶対にインターハイに出場したいと思っている、という事を話した。
「ありささんはどうして陸上競技をしようと思ったのですか」
愛の素朴な問いにありさは少し困った。そういえばどうしてだったっけ。既に桜の花びらを落としたソメイヨシノの枝に停まっているヒバリのさえずる声が頭上から聞こえてくる。
「ううん……昔から走るのが結構得意だったのと、体が鍛えられていいかな、と思って」
我ながら冴えない返事だ、と思ったが、愛は続けて、速く走ることは楽しいですよね、と重ねてきた。
「うん、そうですね。だんだん自分が早くなっていくことは楽しいですね。愛さんも、元気になったら、よかったら一緒に走りましょうね、ゆっくりでいいので」
はい! ぜひ! と愛は元気よく返事をした。ありさは、自分がこの難病と闘って疲れ果てている少女に、少し希望を与えられたことが分かった。真理はハンカチを取り出して目頭を押さえている。愛が元気な声をあげたのが嬉しいのだ。それぐらい、日頃の彼女は打ちひしがれているのだろう。ありさは、続け様にこう宣言した。
「私、愛さんに約束します。絶対に、絶対にインターハイに出場します。だから、応援してね」
愛は車椅子から体を乗り出して、首をこちらに向けた。そして、大きな声で
「はい! 応援します。競技場まで行きます!」
ありがとう、と返事をしたありさは、突如として自分の中にエネルギーが満ちて、体から溢れんばかりのやる気が出てきたのが分かった。約束したぞ、愛さんと。絶対インターハイに出るんだ。思わずありさは強く車椅子を押した。そのスピードに愛は喜んで両手をあげた。気づけば、真理が置いてきぼりにされるほど、2人は遠くまで走り抜けていった。
3
なんでこんな速い人たちが同じ県にいるんだろう。ありさは秋津先生から渡された資料をベッドに横になりながら飽きることもなく見ていた。そこには、県内の3000mの選手の高校名と記録が羅列されていた。6人ほど9分台で走る人たちがいて、思わず舌を出した。ふと、顔が見たいと思って跳ね起きて勉強机に向かってノートパソコンを開いて選手の名前で片端から検索をかけてみたが、誰も見つからない。そりゃそうか、みんな素人だもんね。一昨日、トラックで記録を取るために地元の競技場に行った時に3000mを走ったのだが、結果は10分3秒。秋津先生は悩ましい顔をして、相当いい成績なのだが、〇✖県には、特に三年生に速い人が多くて、県大会で上位6位に入り、かつ10分を切らないとインターハイに出られない、と言っていた。
「でもさ、もうあと数秒の話だからね。あとはあんたの気合よ。Determination」
Determination. 断固たる意志。私の意志はなんだ。インターハイに出ることだ。ありさはスマホを探した。ベッドの枕もとに放ってある。ベッドに寝転がって、画像を開く。そこに、笑顔で立って並んでいる私と愛ちゃんの写真がある。由梨に見せたら、なんとなく顔立ちがあんたと似てるね、と言われた。愛ちゃんの事情を話すと、いたく同情して、あんたもう何が何でもインターハイに出ないといけなくなったわね、と言われた。その後写真を見た智弘は、
「おう、ついにありさにもファンが出来たのか。素晴らしい。ファンの期待を裏切ってはいかんぞ。まあありさなら大丈夫だ」
などと酔っぱらった赤い顔で言っていた。ファン? 愛ちゃんは私のファンなのか。ありさは何とも不思議な気持ちになったものだ。でも、確かにそうだ。たった一人といえども、ファンを悲しませることは出来ない。初めて会った日から一ヶ月ぐらい経った。その間、船付川へトレーニングで赴いた時は必ず会っていた。手を振るだけの日もあれば、話し込む日もあった。最近少しずついろんな数値が良くなっているんです、と真理が嬉しそうに報告してくれた時は、我がことのように嬉しかった。本当は小学一年生なのだが、ろくに学校に通えていないので、友達も一人もいないのです、と真理が淋しそうに言っていた。すると横にいた貴子が当然のごとく、私たちはもう愛ちゃんの友達ですよ、とありさに目配せしながら宣言した。ありさも壊れた人形のごとく首を何回も縦に振った。愛ははにかみながら、嬉しいですと言った。産まれてこの方ろくに病気に罹ったことのない健康体のありさは、自分が元気なのは当たり前のことではないという事を知った。そして、愛を苦しめる心臓病の事を強く憎んだ。体力がつけば、手術に踏み切れるらしいが、そのためには……。
走りまくった体を引きずるようにしてマンションの自宅まで帰ってきて、玄関で横になって呻いているありさに、見下ろす由梨が何かを持って話しかける。
「お帰り。打ち上げられたイルカのようなありささん。何か注文してたものがAmazonから届いてるよ」
ありさは跳ね起きて、母親の手から紙包みをほとんど奪い取る勢いで受け取った。観たいと思った映画のDVDが届いたのだ。よろめく体でまずはシャワーを浴びて、いつも美味しい由梨の作るカレーライスでお腹を満たした後、自室に戻って、ノートパソコンを起動し、開封したDVDを差し込む。
「1リットルの涙」は若くして難病、脊髄小脳変性症に罹患しながらも、懸命に25歳の最期まで生きた少女の物語だ。秋津先生に勧められて、ネットでの評判もよい感じなので購入したのだ。──見終わったありさはただ泣いていた。ティッシュで鼻をかむ。生きたかったよね、悔しいね、悲しいね。しばらく物語の余韻に浸りながら、愛ちゃんを思い出す。愛ちゃんは、手術に成功しさえすれば生きられるんだ。……私が、ほんの少しでも役に立たなきゃ。出来る事があるんだ、愛ちゃんに対して。ありさは肩を震わせていた。
星々が夜空に輝き、静かに夜が更けていく中、彼女はベッドに仰臥し、胸の中で入れ替わる様々な感情に身を任せていたが、やがて静かに眠りについた。
4
「愛ちゃん!」
と貴子が四津沢公園陸上競技場の観客席にいる愛と真理の親子を見つけて手を振った。2人も大きく手を振り返してくる。ありさと貴子が傍まで行くと、愛も立ち上がって迎える。
「愛ちゃん、車椅子はどうしたの?」
「中には入れないので、入り口の通路に置いてあるんです。でも大丈夫です、今日元気なんで」
確かに、愛の今日の顔色はいいように見える。
「今日は頑張るからね。応援しっかりお願いね」
ありさは細いが締まった腕で力こぶを作って見せた。はい! と元気よく返事してくれた愛と別れて、2人は自分たちの仲間が集まっている席に戻った。6月末のよく晴れた日、インターハイ地区予選がこの数百人が集まっている熱気に満ちた競技場で、遂に開催された。午前中から各種目が競われ、まずは貴子の参加する800m予選が始まった。今日のために準備したイエローのレーシングシューズを履き、カチューシャで髪をまとめた貴子は颯爽と立ち上がる。記録で考えれば普通にインターハイに行ける、思う存分走っておいで、と秋津は背中を叩いた。まかしとき、と貴子は部員全員に向けて親指を立てて、悠然とトラックに降りて行った。その頃、ありさはと言えば、迫る午後からの自分の出番を考えて緊張で胃が痛くなっていた。
ふと気づくと、貴子のレースがスタートしていた。周りの他の部員が大声をあげているので、ありさも負けじと立ち上がって、がんばれーっ、いけーっ、と声を張り上げた。800m走はトラック2周なので、意外と早く終わる。すぐに最後の1周を告げる鐘が鳴り響いた。貴子は3番手につけている。
「うわーっ! たかこーーっ」
明桜学園高校の全陸上部員が腕を振り回して大騒ぎだ。貴子は女豹のごとき形相で最後のストレートを駆け抜けた。見事に2位だ。貴子はいち早くインターハイ出場を決めて、意気揚々の凱旋将軍だった。みんなに祝福されてご満悦の貴子は、不意に表情を変えて、無邪気に喜んでいるありさを鋭く睨んだ。
「あんたも6位以内に入らないといけないのにきゃあきゃあ喜んでる場合じゃないでしょ。気を引き締めて」
さすが親友、ここぞという時に厳しい言葉をかけてきた。しかし、ありさが思っていたことは、この勢いに乗る、というものであったので、むしろ闘志は増していたのであった。
食欲は皆無だったが、秋津先生に言われて無理やりサンドイッチを胃袋に入れた昼食は終わり、真上に昇った燃える太陽が照り付ける観客席で、ありさは顔にタオルを乗せて、10分ぐらい横になって静かに集中力を高めた。もうやる事は一つだけ。今日までやれることは全部やった。よし、いくぞ。勢いよく起き上がったありさは、貴子ら部員らとタッチを交わし、遠くで見守ってくれている愛と真理に手を振って、跳ねるようにトラックへと向かっていった。
日差しがきついので頭にタオルをかけている愛の緊張は、トラックの出発ラインに並ぶありさを見つけた時、頂点に達した。心臓の高鳴りが止まらない。思わず隣に座っている真理の手を強く握りしめた。
「大丈夫よ、ありさお姉ちゃんは絶対に入賞するよ」
「うん」
と返事をしたものの、手の震えが収まらない。愛は唇を嚙みしめて、固唾を飲んでトラックでスタートを待つ青いユニフォームを着ているありさを見つめた。
スタートのピストルが強く鳴り響いた。ありさは前列に並んでいたが、勢いよく飛び出して、前から5番目につけた。前後列合わせて30人が走っている。この中で上位6人だけがインターハイに出場することが出来る。自分が走りやすい位置で走ろうと、みんなポジション取りに必死だ。ありさは、集団の外側で走るのが好きなので、少し横にずれようとした。その時、誰かと足がぶつかってしまい、ありさは膝から崩れ落ちて前のめりに倒れてしまった。
ありさ! と貴子は悲鳴に似た声を上げた。周りの部員たちもああっ! と叫んだ。幸い、ありさはすぐに立ち上がって走り続けたものの、かなり集団の後方につける形になってしまった。なんてことだ、と貴子は頭をかきむしった。でも、でもまだ終わったわけじゃない。まだこれからだ。彼女は声の限りに叫び続けた。がんばれ、負けるなありさ、と。
ありさが膝から崩れ落ちたのを見た時、愛は胸が張り裂けるかと思った。ありさお姉ちゃんがこけてしまった!
「お姉ちゃん!」
愛は思わず立ち上がった。胸が微かに痛んだが、構わなかった。すぐにありさは立ち上がり、また走り始めた。真理も立ち上がり、愛を支えようとした。しかし、彼女はそれは拒否し、断固として自分の足だけで立った。このレースが終わるまで、私は自分だけの力で立って、ありさお姉ちゃんを応援するんだ。
「ありさお姉ちゃん、がんばって!」
愛の声は周囲の歓声にかき消されたかもしれない。それでも構わない。私のために走る、と言ってくれたお姉ちゃん、がんばれ、がんばれ。愛は爪が食い込むぐらい拳を握りしめてトラックを見ていた。
くそぅ、手首が痛い。それと膝の辺りも痛い。どうやら擦りむいて血が出ているようだ。つんのめった際に地面についた左手のほうが痛みが酷くて、顔が歪む。拳を握って思うように振れないので、走る時のバランスが上手く取れない。気づけば、ありさは集団の一番後ろにいた。なんてことだ、こんなアクシデントに見舞われるなんて。ありさはどんどん弱気になっていく。こんなんじゃ速く走れないよ。もうすぐトラック一周だ。一周? その時、右手のほうに貴子たちが見えた気がした。
「ありさ! がんばれ!!」
というひときわ大きな貴子の声が確かに聞こえた。そうだ、がんばらなければ。そして、見上げた先に、はっきりと愛ちゃんが見えた。口に両手を当てて、何かを叫んでいるのが分かったけれど、何をかまでは分からなかった。分からなくてもいい。私は、約束したんだ。愛ちゃんに、今日絶対に入賞するって、インターハイに行くって。ありさの顔つきが変わった。なんだ、まだみんな目の前にいるじゃないか。全員抜き去ってやる。不思議と左手と膝の痛みが気にならなくなった。ありさはひたすらに走った。ペース配分は全く考えなかった。夏を迎える前とは言え、陽の光は容赦なく暑く、懸命に走る彼女たちに汗を拭きださせ、疲弊させてゆく。しかし、ありさにはそれも気にならなかった。まずは、先頭集団に追いつくことだけを考えた。そして、半分程度レースが進んだ頃、ありさは先頭集団の12人のうちの1人になった。左手首の赤のプロスペックスを見ると、止まっていた。さっきの躓きで壊れたらしい。もういい、構うものか。この人たち全員を追い抜けばいいだけだ。ありさはますます勢いよく走り続けた。
いつの間にか随分静かになった。観客席の応援の声も、隣を走る選手の息遣いも、何も聞こえない。どうして走っているの、と誰かに尋ねられた気がした。ありさは迷わずにこう答えた。理由なんかないわ、私のためでもないわ。もっとおおきなもののために走っているの。
不意に我に返った。最後の一周を知らせる鐘の音が耳に飛び込んできた。今何位なの、と前を見ると、3人走っている。と同時に、息苦しさと左手首の痛みが甦ってきた。苦痛に顔をしかめる。がんばれわたし、あとほんの少しじゃないか。ありさは持てる力の全てを振り絞って、体を前に投げるように走った。1人に抜かれた。もう、もう抜かせない。最後の直線に入った。汗が目に入る。首を振って汗を飛ばし、全力で腕を振って大地を蹴り続けた。ゴールだ! ありさはゴールラインを越えた後、そのままふらつきながら進み、糸の切れた操り人形のように静かに地面に崩れ落ちた。が、すぐに抱き起され、頬に冷えたペットボトルを押し付けられた。
「やったよありさ! 5位だよ。インターハイに行けるよ!」
貴子の大きな声が遠くから聞こえてきた。そう、と返事をしたつもりだが、声は出なかったようだ。秋津先生も大喜びしてありさを祝福したあと、半身を起こしたありさに肩を貸して、貴子と2人で控室に連れて行った。ありさは混濁した意識の中で、わたし、約束を守れた、よかった、と安堵していた。お父さんならこう言うかな、ありさがインターハイに出られるのは分かっていたよ、と。
エピローグ
秋風が色とりどりに紅葉した山々のほうから吹いてきて、船付川の周囲に立ち並ぶ樹木の葉をやさしく撫でている。ありさはある平日の放課後、貴子と2人、船付川病院の1階の待合室の皮張りの椅子に座って待っていた。やがて、親子2人と医師と数人の看護師が廊下の奥から歩いてきた。先頭を歩いているのは先天性弁膜症の手術に成功し、元気を取り戻した愛だ。
「愛ちゃん、退院おめでとう」
病院内なので遠慮がちに小さな声でありさは声をかけ、持っていた花束を愛に手渡した。
「ありさお姉ちゃん、ありがとう!」
そこにいる愛は肌の艶もよく、しっかりと健康を取り戻しているのが分かった。真理も以前のやつれた様子は感じられず、全身が喜びに満ち溢れている。
「すっかり元気になったのね、本当に良かった」
貴子は少し涙ぐんで鼻をすすった。初めて会った時の枯れた花のようだった愛はもういない。ここにいるのは、これからみんなと同じように遊び、学び、未来を創っていく一人の女の子なのだ。病院の敷地を出た愛は、大きく深呼吸した後、いたずらっ子っぽく微笑んで、真理に花束を渡しながら、ありさにこう言った。
「お姉ちゃん、駆けっこしようよ」
「おっ、いいよ。負けないぞ」
2人は用意、ドンという貴子の合図で走り出した。愛も意外と速い。ありさも負けじと走る。2人はどこへ行くのだろう。どこだっていいのだ、彼女たちはどこへだって行けるのだから。2人の姿は小さくなって、やがて見えなくなった。(終わり)
執筆の狙い
今回は青春小説、スポーツ小説を書いてみました。
最後のシーンを書きたくて物語を作りましたが、どうでしょうか。
感想をいただけたら嬉しいです、皆さまよろしくお願いします。