作家でごはん!鍛練場
飼い猫ちゃりりん

夢の傷あと

 東京五輪、高度経済成長、ビートルズの来日。よど号、浅間山荘、三島の自決。狂った光に満ちた時代だった。誰もが恍惚と生きていたような気がする。
 大人は電化製品をそろえ、一戸建てを持てば幸せになれると信じていた。
 そして受験戦争。勉強という名の枯葉剤で感性を枯らし、子供を奴隷、いや商品にまで貶めた。
 私の親は人の価値を学歴で測る人たちだった。私の首にぶら下がる値札のことばかり気にしていた。
 母は鏡台の前で髪をときながら、「お母さんに恥をかかせないでね」と言い、私が黙っていると鏡の中から「わかったの?」と確かめ、高価な口紅を塗り始める。
 私は親の望む大学に入るため、高校生活の全てを受験に費やした。恋愛なんて夢のまた夢。友と呼べる同級生もいなかった。
 毎朝父はネクタイを締めながら、黙って朝食をとる私に言った。
「受験勉強は今しかできないんだ。遊びは大学に入ってからすればいい」
 遊びたいわけじゃない。人間らしく生きたいだけだ。十七歳と言えば、人生で最も輝ける時期だろうに。それを愚かな消耗戦の犠牲にするなんて、狂っているとしか言いようがない。

 合格発表の日のことをよく覚えている。大学の正門前には、朝早くから人だかりができ、テレビ局のカメラマンや新聞記者まで駆け付けていた。
 男子は詰襟の学生服、女子はセーラー服や紺のコート姿、手には受験票が握られている。
 どこもかしこも家族連れだ。正門の横の掲示板に受験番号が張り出されると、ある女子は親と一緒に歓声を上げ、ある親は息子の肩を抱いて慰めていた。
 片や私は一人。浪人は許されない。滑れば落伍者と見なされる。両親はさも受かって当然という態度を取り続け、青春を犠牲にした私を労おうともしなかった。

 大学は学園紛争の真っ只中で、入学式は中止になった。
 緑に包まれたキャンパスには、『大学自治を守れ』『安保反対』と書かれたプラカードを掲げる学生たちがいた。
 講堂の前に築かれたバリケードの前を歩いていると、「新入生の方ですか?」と声をかけられた。
 小百合は髪を後ろに束ね、ヘルメットを麦わら帽子のように被っていた。
 彼女は三年生。凛とした笑顔が白百合のように清らかだった。

 私は学生集会や反戦デモに加わった。左翼思想に染まったわけじゃないが、守るべきものは確かにあった。イデオロギーではない。おそらく未来や希望といったものだ。そのために同志たちはベトナム戦争に反対し、安保闘争を繰り広げていると思っていた。
 しかし今思えば、当時の若者を突き動かしていたのは、救いようのない虚しさだった気がする。

 私は講義にも出ず、大学の近くにあるアジトに毎日こもっていた。アジトといっても、神田川沿いに建つ借家の二階の六畳間にすぎない。
 古びた木造家屋の前には、既に舗装された道路が通っていた。土砂を積んだトラックをたまに見たが、まだ車は少なく、その界隈は情緒を湛える下町だった。

 アジトにはヘルメットやゲバ棒が無造作に置かれ、乾麺や缶詰などの非常食が用意されていた。
 革命戦士はアジトで闘争の準備をしていたと言いたいところだが、夜はスルメと熱かんなんてこともあった。
 同志たちは酒が入ると、革命にはゲバルト(暴力)が必要なんだと熱く語った。私は自分の思いをひた隠し、うんうんと頷いていた。
 その思いとは小百合のことだ。『反戦』と記したヘルメットを被り、汗にまみれた顔が、いつも眩しく輝いていた。
 同志たちは酔っ払うと、プロレタリアートを鼓舞する古典『同志は倒れぬ』を合唱した。ブルジョアへの復讐を誓う歌詞は血生臭くて好きになれなかったが、なぜか悲壮なメロディーだけは心に響いた。

 私は滅多に任務を与えられなかった。それを良いことに、「Pを偵察してきます」などと言い、よくアジトを抜け出した。
 Pとは近所の交番のことだ。電柱の陰に立つのも馬鹿らしいので、交番の前のバス停のベンチでよく煙草を吸っていた。若い巡査に「こんにちは」と挨拶され、「お疲れ様」と返すことも、やがて日常のひとこまになった。
 しかし幹部が顔を出すときだけは議論に加わり、彼らに向かって意見を述べた。
「団結小屋は闘争のシンボルです。絶対に守り抜きましょう」
 同学年の同志が不思議そうな顔をしていた。
 みんな幹部を恐れ、指示を待っているだけだった。でも私は、幹部と一緒に訪れる小百合に、いいところを見せようと振る舞った。

 その年の秋、小百合と幹部たちが成田の件でアジトを訪れた。
 昼食がまだだったから、私は食料の調達を先輩の同志から頼まれた。議論に私は必要ないのだ。
 私が買い出しに出掛けると、小百合が「一人じゃ大変でしょ」と言い、リュックを背負ってついてきた。
 食料はいつも近所の八百屋で調達していた。大型店舗の脅威にさらされていた八百屋の店主は、学生運動を陰で応援していたのだ。
 八百屋に着くと、店先に野菜を並べている店主に小百合が声をかけた。
「おじさん。こんにちは」
「ああ君たちか」
「新鮮な白菜ありますか? 鍋でも作ろうかと思って」
 すると店主は堰を切ったように話し始めた。
「学生さん、聞いてくれよ。わしの親戚はずっと成田で農家をしてきた。それが、ついこの間、強制的に退去させられた。ひ孫までいる家族が、住み慣れた家を奪われたんだ。空港だか何だか知らないが、そんなことしていいのか」
 小百合の目に薄っすらと涙がにじむ。
「大変ですね。でも、くじけないでください。私たちも頑張りますので」
 店主に野菜を安くしてもらい、食料品を大量に買い込むと、小百合は自分の財布から小銭を出して、棒のついた飴玉を買った。
 革命家が飴玉?
「それも必要なんですか?」と聞くと、彼女は「これは違うのよ」と言って笑った。

 食料を詰め込んだリュックを背負い、黙って川沿いを歩いていたが、内心私は焦っていた。小百合に話しかけるきっかけを探していたのだ。
「少し休憩しない? たまには息抜きも必要よ」
 彼女から声をかけられ、私は胸が高鳴った。待ち望んだ瞬間が突然訪れたのだ。
 ふたりで土手に腰を下ろし、神田川を眺めていると、小百合が「綺麗ね」と声をもらした。ため息が出るほど美しい横顔だった。
「神田川はどんどん破壊されています。大切なものが失われているのに、世間はへっちゃらなんです」
 彼女が強引な開発に反対していたから、そう言って見せたのだ。
「真剣なんだね、高橋君は」
 凛とした眼差しにたじろぎ、うまく運びすぎる展開に戸惑った。
「高橋君は学生運動をどう思う?」
 一瞬意味がわからない。
「どういうことですか?」
「君はなぜ運動に参加したの?」
 理由は彼女に決まってる。でも、そんなことは言えない。
「不正を正すためです。住民を追い出して開発するなんて、狂ってますよ」
「そうね」
「小百合さんは、なぜ運動に参加したんですか?」
 彼女はしばらく黙って川を見つめ、「わからない」と言った。
 私はその言葉に驚いた。
「わからない?」
「ええ。わからなくて不安になるときがあるの。もしかしたら、わからないから参加したのかな」
 神田川を見つめる横顔が、とても寂しそうに見えた。私は、彼女は初めて本心を告白したのだと直感した。

 そのとき、カランコロンという下駄の音が響き、「お姉ちゃん!」と声が聞こえた。
 振り向くと、貧相な格好をした女の子と、薄汚れた白猫の姿が目に入った。
 女の子は私たちのそばに駆け寄ると、はあはあと息を切らしながら小百合の顔を見上げた。
「かよちゃん。元気?」と小百合。
「うん! 元気!」
「タマは?」
「タマも元気!」
「これ、かよちゃんに買ってきたから」
「やったあ!」
 飴玉をもらった女の子は、満面の笑みを浮かべた。
「このおじちゃん、だれ?」
「お姉さんの友達よ」
 その子のことを小百合に聞いた。
「この近くに住んでいるの。いつもひとりぼっちだから、たまに遊んであげるの」
 かよちゃんとタマは私をじっと見ていた。なんの下心もない純粋な眼差しだった。

 翌日の早朝、私たちは急遽成田へ向かった。目的は退去を迫られている農家の支援だが、私の目的は小百合と一緒に闘うことだった。
 成田は戦場と化していた。反対住民と新左翼が集結し、機動隊と激しくぶつかっていた。
 声を上げる農家の人たち目の前で、家々が容赦なく破壊されていく。
 空港の建設予定地には団結小屋がいくつも建っていた。ブルドーザーがそれに襲い掛かると、私たちは火炎瓶を投げつけ、投石を繰り返した。だが、すぐさま放水で反撃され、催涙弾が飛んできた。白煙と刺激臭が立ち込め、あちこちで火が燃え上がっていた。
 混乱の中、私の視線は小百合だけを追う。同志たちは三里塚の防衛に必死だが、私は彼女を守ることしか頭にない。
 女にも容赦なく警杖が振り下ろされる。女もヘルメットをかぶり、手ぬぐいで顔を隠したから、機動隊員は性別が分からない。
 私は身を挺して小百合を守った。彼女が押し倒されれば、機動隊員の前に立ちはだかった。彼女の盾となることは喜びであり、彼女が私の後ろに身を隠せば、トロイアの戦士にでもなった気分だった。
 成田から戻ると、私を見る小百合の目が前と違うように感じられた。彼女は作戦会議の際、私の横に座るようになった。体温が伝わりそうなほど近くにだ。少し手を伸ばせば腕に触ることができる。しかし、その一歩を踏み出せない。
 もし腕に触れれば、違う世界が始まるだろう。熱い恋の世界であってほしい。しかし、彼女は恋は反革命的と言い、私を拒否するかもしれない。でもそれなら、なぜ私のそばに座るのだ。

 大学二年の春が過ぎたころ、私は同志たちと共に、ある学生集会に参加した。
 その集会には有名な作家が招かれていた。社会主義に夢を馳せる学生たちは、皇国を愛するその作家を論破し、壇上で切腹させると気炎をあげていた。
 作家はそれを承知のうえで、千人を超す学生が待つ中、単身で会場に乗り込んできた。
 彼は天皇制や自衛隊について持論を展開し、全共闘のリーダーが反論しても、不敵な笑みを浮かべ、紫煙をくゆらせていた。
 政治思想のほかにも、芸術、文学、哲学など、様々なことが語られたと記憶している。
 討論は白熱していたが、私の視線は隣にいる小百合の横顔に釘付けだ。どうすれば彼女の心を掴めるのか。そんな考えばかりが頭を占めていた。
 すると作家が言った。
「言葉なんておもちゃ。論戦なんて遊びだ。私は暴力を否定しない。戦いとは命懸けでするものだ。私は戦い続ける。いつか、それを行動で示すつもりだ」
 暴力の肯定に戦慄しつつも、心のどこかで共鳴してしまう自分がいた。私は胸が熱くなり、ついに彼女の腕に触れた。
「小百合さん。今度映画でも行きませんか?」
「聡(さとし)君。真面目に聞かなきゃだめよ」
 彼女はまるで姉のように私を叱るが、成田で彼女を守ったのは私なのだ。
「小百合さんって化粧しないの?」
「ばーか」
「紅を引くって言葉を知ってますか?」
「ええ。それで?」
「紅を引いた小百合さんを見てみたいな」
「革命に化粧は必要ないの」
「なら映画はいいですか?」
「大事な訓練があるから、だーめ」
「その後ならいいですよね?」
 彼女はついに笑みをこぼした。

 最後に作家が言った。
「私は君たちを認めない。君たちとは敵同士だ。だが君たちは闘っている。そのことだけは認めよう」
 闘ってなどいない。遊んでいるだけだ。でも小百合は違った。彼女は過激な分派の軍事訓練に参加したのだ。
 そのメンバーは社会を震撼させる大事件を起こし、その直後に彼女は消えた。公安の追跡をかわす潜伏との噂もあった。
 私は何人かの同志に聞いてみたが、彼女の消息を知る者はいなかった。同志たちは公安のスパイ活動を警戒し、情報共有には極めて慎重だった。
 敵は公安だけじゃない。左翼同士で戦っていた。対立する党派のスパイと疑われれば身に危険が及ぶ。つまり内ゲバだ。

 小百合がいなくなると段々と無気力になり、Pの偵察という口実で、しょっちゅうアジトを抜け出した。
 ある日、近所の交番の前のバス停のベンチに座り、ため息混じりに煙草を吸っていると、泥で服を汚したかよちゃんが、タマと一緒に現れた。
「おじちゃん……」
 なぜか髪まで泥だらけだ。
「かよちゃん。どうしたの?」
「一緒に川で遊ぼって言うから」
 彼女は仲間に入れてもらえると思い、言われた場所で待っていると、橋から泥をかけられたのだ。
 彼女を慰めていると、いつも挨拶を交わす若い巡査が、交番からこっちに向かって歩いてきた。
「どうしたんですか?」
「友達にいじめられたみたいで」
 巡査はかよちゃんの前で膝をつき、小さな肩に手を乗せた。
「お巡りさんが叱ってあげるから、もう泣かないで」
 かよちゃんは彼に抱きついて泣きじゃくった。彼の目にも涙がにじみ、泥まみれの制服が、その優しさを物語っていた。

 警察官の多くが勤務時間になっても交番の奥から出てこない。でも、その巡査は、いつも真面目に交番の前に立っていた。私は自分の立場もわきまえず、彼に声をかけた。
「お疲れ様。いい天気だね」
「天気がいいと立番も気持ちいいです」
「真面目だなあ。少し休憩しない?」
 私は彼に煙草を勧めた。
「今は勤務中ですから」
「一本くらい、いいでしょ?」
「自分はまだ未成年なんです」
「じゃあ、お酒も飲んだことないの?」
 彼は少し困った顔をした。
「実は高校のとき、少しだけ泡盛を飲んだことあります」
「へえ泡盛を」
「自分は沖縄出身なんです」
「またなんで東京に?」
「甲子園に出場したとき、神戸を見て都会に憧れたんです」
「甲子園に出たの! 凄いな」
「でも補欠ですから」
「補欠でも凄いよ」
 彼は照れながら話し始めた。
「神戸もいいけど、どうせなら東京がいいと思い、警視庁を受験したんです」
「どうして警察に?」
「刑事になることが夢なんです」
「親はなんて言ったの?」
「最初は農家を継いで欲しいと言ってました。でも今では夢を叶えなさいと言って応援してくれてます」
 彼が羨ましかった。私は親のことなど話したくもないし、人に聞かせる楽しい思い出なんて、記憶の引き出しを全部ぶちまけても見つかりはしない。

 その頃にはもう、私の相手をしてくれる人間は、その巡査と、かよちゃんと、八百屋の店主くらいだった。
 同志たちは、いつも私抜きでどこかに出掛け、私はアジトの留守番を任せられた。
 二階の窓から顔を出して煙草を吹かしていると、かよちゃんはいつも、「おじちゃん!」と言って手を振ってくれた。
 彼女は下駄をはいていたから、借家の前を通ればすぐに分かった。カランコロンが響いて来れば、春よ来い、早く来いと唄声が聞こえた。
 彼女が通るたび、二階の窓から声をかけた。
「かよちゃん。今日は学校でなにをしたの?」
「そろばん!」
「そろばんができるんだ。すごいね」
「三たす三は、えっと……六!」
「すごい!」
 彼女は満面の笑みを浮かべた。
「おじちゃん。お姉ちゃんは、いつ帰ってくるの?」
「たぶん、もうすぐ帰ってくるよ」
「わかった!」
 彼女は手をふりながらタマと一緒に帰っていった。
「かよちゃん。危ないから、前を向いて歩きなさい」
 川沿いの道路には、重機を積んだトラックがよく走っていたのだ。
 タマは彼女に追いつくとその場でとまり、彼女が振り向くのを待った。
 彼女が振り向いて両手を広げれば、タマは一目散に駆けていき、彼女の胸に飛び込んだ。
 彼女が頬擦りをする間、タマはずっと目を閉じている。一緒にいれば、ふたりは幸せなのだ。

 買い出しに行くと、八百屋の店主からも小百合のことを聞かれた。
「あのお姉さんどうしたの? 最近全然見ないけど」
「ちょっと忙しいみたいで、しばらく会っていないんです」
「あの子美人だから、ちゃんと見てないと知らないよ」
「どういうことですか?」
「だって君の彼女なんだろ?」
「違いますよ。自分の先輩です」
「男女の仲に先輩もくそもあるかい。好きなんだろ。違うかい」
 私は言葉が出なかった。

 神田川の桜が散るころ、かよちゃんにまた声を掛けた。
「かよちゃん。今日は学校でなにをしたの?」
「習字!」
「習字もできるんだ。すごいね」
「先生に上手って言われた」
「なんて書いたの?」
 彼女がカバンから半紙を出して広げると、墨汁で書かれた『元気』という文字が飛び跳ねた。仲間外れにされていても、きっと彼女は幸せなのだ。
「おじちゃん。お姉ちゃん、帰ってきた?」
「それが、まだなんだ。でも、もうすぐ帰ってくるから」
「あたし、お姉ちゃんと遊びたい」
「なら、お姉ちゃんが帰ってくるまで、おじちゃんが遊んであげる」
「なにして?」
「そこの川原を探検しよう」
「そんなのつまんない」
「なら、なにがいいの?」
「戦争ごっこ」
「じゃあ明日、そこの川原で待っているから」
「うん! わかった!」

 翌日、角材を二本持って川原で待っていると、「おじちゃん!」という声が聞こえ、振り向くと、土手を駆け下りてくる姿が見えた。
「危ないよ」と叫んだ矢先に彼女は転んだ。駆けよって抱き起すと、彼女は私の腕の中で泣いた。痛い痛いと泣いた。腕や膝に血がにじみ、タマが心配そうにうろうろとしていた。
「かよちゃん。今日はおうちに帰ろうね」
 彼女は泣きながら首を横にふった。
「でも傷の手当てをしないと」
「お母さんが、夕方まで帰っちゃだめって」
「どうして?」
「わかんない」
「じゃあ、また転ぶといけないから、今日は隠れん坊をしよう」
「うん!」
 当時の神田川は整備が行き届いてなくて、川原には草木が生い茂り、大きな岩も転がっていた。
 川原に降りれば、水鳥の鳴き声と、川のせせらぎしか聞こえない。そこはもう、ふたりだけの世界だった。
 私が「もういいかい」と声をあげると、「もーいーよ」と声が聞こえた。隠れてもタマの尻尾が見えているのだ。私は「どこにいるのかなあ?」をくり返し、「ここだ」と声を上げて茂みをのぞき込んだ。
 彼女がけらけらと笑って飛び出すと、次は鬼ごっこが始まった。彼女を追っかける私をタマが追うという珍妙な鬼ごっこだ。
「かよちゃん。今日はいっぱい遊んだから、そろそろ帰ろうね」
「やだ。もっと遊ぶ」
「明日は戦争ごっこをしてあげるから、今日は帰ろうね」

 かよちゃんの家はアジトから歩いてすぐのところにあった。川沿いにぽつんと建つ平屋のバラックが家だったのだ。
 なぜ子供が夕方まで帰れないのか、不思議でならない私は、彼女を引き戸の前まで送りとどけると、遠くから様子をうかがった。
 彼女が母親を呼んでも引き戸は開かず、五分が過ぎ、十分が過ぎた。
 しばらくするとバラックの裏口から、背広姿の男が出てきた。彼は肌けたワイシャツのボタンをとめると、周囲を見渡してから立ち去った。
 娘を叱る母親の声が聞こえた。
「夕方まで帰らないでって言ったじゃない。あら、どうしたの? その傷」
「戦争ごっこ、しようとしたら」
「戦争ごっこ? 仲間に入れてもらえたのね」
 着物姿の母親が、娘をひしと抱きしめていた。

 翌日は武器の調達の件で議論が長引いた。拳銃を入手する手段を検討せよと、幹部から指示があったのだ。さすがの同志たちも怖気づいた。
 結論が出ぬまま会議は解散となり、川原へ向かったときには夕暮れが近かった。
 二本の角材を持って土手を降りて行くと、かよちゃんが、うずくまって泣いていた。
「遅くなってごめんね」
 彼女は大声で泣き始めた。腕の中にタマがいた。タマは目を閉じていた。抱きしめても泣き叫んでも、タマはぴくりとも動かない。
「タマ、どうしたの?」
「車が……」
 冷たい風が吹きすさび、白い桜が散っていた。
 角材で桜の根元に穴を掘り、タマを抱きしめる彼女に声をかけた。
「そろそろタマを寝かせてあげて」
 数枚の花びらがタマに寄り添い、土を戻す彼女の目から、とめどなく涙がこぼれた。
 それから、しばらくすると、彼女は急に姿を見せなくなった。家を見に行くと、バラックは跡形もなく消えており、その辺りの土地は綺麗に整地されていた。

 その数日後、幹部がアジトにやってきて、交番を襲撃して拳銃を奪えと命じた。私が挨拶を交わす巡査がいる交番だ。彼の笑顔が目に浮かぶ。あの純朴な青年を、鉄パイプで滅多打ちに……
 おびえる私に幹部が指示を出す。
「高橋。あの交番には新米の巡査がいる。奴が一人のときに火炎瓶を投げ込め。慌てているところを全員で襲って拳銃を奪うんだ」
 もう密告するしかない。ばれれば内ゲバだが、他に手段はない。
 結局その計画は他で闘争が勃発したため実行はされなかった。でも、私はもう革命ごっこに嫌気が差していた。
 もともと学生運動に熱意があるわけじゃないし、学生を続ける気も失せた。小百合のことが心残りだったが、殺人に手を染めるわけにはいかない。
 私は学生課の窓口に退学届をおくと、その足で上野駅に向かったのだ。

 今年の春先に同窓会の案内が届き、四十年ぶりにその地に戻った。
 宴会場は大学のそばの料亭の大広間で、私はその末席から、座敷に現れる顔ぶれに注目した。小百合との再会だけを楽しみにしていたが、彼女が現れることはなかった。
 宴は昼食を兼ねて正午から始まった。乾杯をしてビールでのどを潤すと、思い出話に花が咲いた。
 相変わらず話題はブルジョア批判とあの作家の悪口で、カラオケは『同志は倒れぬ』ときたから、他の客が聞いたらさぞ驚いたことだろう。
 当時あまり喋らなかった連中にまで酒をつぎ、小百合のことを聞いてまわったが、やはり消息を知る者はいなかった。
 自分の座椅子に戻って手酌で飲んでいると、白髪の男性が私に酒をついだ。
「小百合さんのことを知りたいのですか?」
 全く知らない人物だった。
「初対面ですよね?」
「こちらの方々とは共に闘ったから、今日は呼んでもらえたのです」
「なぜ彼女のことを?」
「彼女が例の訓練に参加していたからです」
「あなたも、参加していたんですね」
 私は報道の範囲でしかその訓練のことを知らないし、警察は関係者の身の安全を確保するため、事件の詳細をマスコミに伝えなかった。
 そもそも彼の話は報道できる内容ではなく、訓練の実態は凄惨を極めた。
「山岳ベースでの生活は過酷でした。食事は粗末で寝床は寒く、誰もが睡眠不足でした。女性も十人ほど参加していましたが、小百合さんは輝いていましたよ」
「彼女は有能でした」
「いや、そういう意味ではなく、女として輝いていたと言ったのです。要するに美人ですよ。最高幹部の男は、革命家の子孫を残すためとか言って、小百合さんに肉体関係を迫りました。でも彼女は拒否しました。あの男はそれを怨んでいましたね」
 当たり前だ。小百合がそんな言葉に乗せられるわけがない。
「もう一人の最高幹部である女は、女性の美しさは反革命的だと主張し、小百合さんのことを陰でプチブル(小市民)と呼んでいました。ある日の夕食後のことです。その女幹部は突然小百合さんの荷物を調べろと同志たちに命じました。すると、リュックの内ポケットから口紅が見つかったのです」
「口紅が……」
 私には心当たりがあったのだ。
「そうです。理由は分かりませんが、小百合さんは口紅を持っていました。女が理由を問いただすと、小百合さんは変装用だと答えました。でも女は交際相手を言えと迫りました。小百合さんが黙っていると、『このプチブルめ!』と怒鳴り散らし、精神が腐っているから総括をやれと同志たちに命じました。酷いリンチでした。小百合さんの顔は判別がつかないほど腫れあがり、さらに木の棒で彼女の局部まで。助ける勇気が、闘う勇気が私にはなかった。そればかりか私は……」
 彼を責める気にはなれない。そもそも私にそんな資格は無い。
「それで、彼女はどうなったのですか?」
「小百合さんは針金で木に縛られ、雪の降る屋外に放置されました。でも夜中に脱出し、登山客に保護されたのです」
「なら生きているんですね」と声を上げると、彼はうつむいて黙り込んだ。もう一度、「生きているのですね?」と確かめると、彼は顔を上げ、重い口を開いた。
「幹部連中が逮捕され、学生運動が下火になると、私は小百合さんの実家を訪ねました。彼女の兄とは大学の同窓生で、仲の良い同志なのです。私は彼にすべてを話し、土下座をして謝りました。すると彼は、『妹は施設で療養している』と教えてくれたのです。私は許しを得て施設を訪ねました。彼女はトラウマに悩まされていると聞いたので、身分を隠し、ひっそりと訪れたのです。その施設は山の中腹にあり、裏庭から遠くの山々を一望できました。彼女は裏庭の片隅にあるベンチに座り、ぼんやりと景色を眺めていました。黒髪がそよ風になびき、紅の引かれた唇が綺麗だった。あんな美しい女性を見たことがない。私は施設に足を運び続けました。顔を合わせて話せる日が、いつか来ると信じていたからです。でも、それは叶わぬ夢となってしまいました。最後に彼女を見たのは秋の日の夕暮れです。夕日を見つめる横顔を、今も鮮明に憶えています。彼女はその秋が過ぎるころ、二十七歳の若さで生涯を終えました。その朝も口紅を引き、それから命を絶ったのだと聞いています」
 私は言葉を失い、天井の一点を見つめた。何も考えられない。考えたくない。意識は神田川へ向かい、心の崩壊を防ぐように、かよちゃんの姿を浮かび上がらせた。
 もういいかい……
 だが、あの声はもう返ってこない。巨大な喪失に愕然としていると、同志たちの声が聞こえた。
「過ぎ去りし青春さ」
「すべて夢だったのさ」
「宴たけなわではございますが、そろそろお開きに。最後は一本締めで」
 拍手が鳴り響いた後も、同志たちの昔話は尽きなかった。
 白髪の男性は、「じゃあ私はこれで」と言い、静かに宴会場を去っていった。私も幹事に挨拶をし、その場を後にした。

 久しぶりに神田川の土手を歩いてみた。アジトがあった場所にはマンションが建ち、川沿いには遊歩道が整備されていた。
 白い花びらが散り、枝垂れ桜が水に触れんばかりに満開だった。桜並木がどこまでも続いていたが、根元にタマが眠る木は見つからなかった。
 私は水道橋を経て隅田川まで歩き、柳橋を渡って元の場所へ戻ってきた。
 川沿いは綺麗に整備され、古い景色は消えていたが、神田川のせせらぎだけが、当時の面影をしのばせていた。

 終わり


 ちはやぶる 神田川こそかなしけれ いくよふるともしづまぬ玉の

 あの神田川ほど悲しいものはない。何年たったとて、鎮められない魂が、沈まぬ玉のようにたゆたっているのだ。

『慕尼黑歌集』

夢の傷あと

執筆の狙い

作者 飼い猫ちゃりりん
sp1-75-254-18.msb.spmode.ne.jp

約1万字の作品です。よろしくお願いします。

コメント

ぷーでる
pl19249.ag2525.nttpc.ne.jp

さらっとしか読みませんでしたが、学生運動の話かな?
私は、よくは分かりませんが
そんな様な話を、大人からちらほら聞いた事はあります。

当時、学生運動していた人達は、今どうしてるんでしょうね。

飼い猫ちゃりりん
sp1-75-196-206.msb.spmode.ne.jp

ぷーでる様。お読みいただき嬉しく思います。その当時の学生は、1960から1972を学生運動の時期とすると、70から80代の爺ちゃん婆ちゃんです。音楽や映画、動画や文献を当たってイメージを膨らませ、書いて見ました。

クレイジーエンジニア
116.58.174.49.static.zoot.jp

戦後日本史の闇の話ですね。

別段深い考えがあるわけでもなく、戦うことを目的に戦った人たちの末路……。
なんかこう。寂しさを感じますね。

常識に異論を唱える人を【陰謀論者】と蔑む風習の土台となった事件でもあるような。

こういう闇を抱えて生きた人が実際に居そうで怖いと思いました。

飼い猫ちゃりりん
sp49-97-24-212.msc.spmode.ne.jp

クレイジーエンジニア様
お読みいただき嬉しく思います。

> 常識に異論を唱える人を【陰謀論者】と蔑む風習の土台となった事件でもあるような。

はい。盛んになったのはケネディ大統領暗殺の時期くらいからだから、1960年くらいからですね。
こんな口封じが令和の時代でも極めて有効なんだから、情け無い。

> こういう闇を抱えて生きた人が実際に居そうで怖いと思いました。

未必の故意の殺人を、⚫️十万件も隠蔽するんだから、どこもかしこも闇だらけ。

枝豆
210.157.200.137

飼い猫ちゃりりんさん。拝読させていただきました。

語り口調が『私』だったため、最初は語り手は女性なのだろうと予測してたのですが(私自身主人公を女性と置くことが多いため)読み進めると、名前は高橋聡君と言う男性だと言うことがわかりました。
これは私のわがままであるのですが、学生であると言う設定があるのであれば、よければ服装的特徴として、学ランといった語り手の性別がわかるアイテムなどを序盤に登場させてみるのはいかがでしょうか?

また、本作で登場する小百合さんが少し読み進めると(ある事件を経て)高橋君という呼称から聡君というように行動含めて好意的に変化してました。

下の名前を呼んだり近くで座るという行為は、親しみを込めた行為だと認識するのであれば、ここでどうして変わったのかをもう少しだけ小百合さんの反応を交えて書いても良かったのかもと愚考します。(私自身書いてる作品がアレなので、あまり他者のことを言えませんが)

安易な言葉で表現したくはないのですが、時代が生んだ悲劇という印象を受けました。
陰惨な時代背景に生きる人たちの生き様とも感じました。
一人一人にスポットライトを当ててみると誰一人幸せになってなかったなと思いました。

くどくなるかもしれませんが、高橋君が小百合さんを失って喪失感に陥るシーンなども安易にあったら良かったのかもと。
あらかじめどこかで、小百合さんは無事ではないかもしれないみたいな伏線があって、それが回収されるみたいなのとかもいいかもなと思ったり。

全体的に語り手である高橋君が淡々としてるせいか、喜怒哀楽の感情が伺えないのが、まるで過ぎ去ったことなんだと粛々と赤入れてるようにも感じました。

読ませていただきありがとうございました。

枝豆
210.157.200.137

×赤入れてる→⚪︎受け入れてる

誤字失礼いたしました。

飼い猫ちゃりりん
sp49-97-24-212.msc.spmode.ne.jp

枝豆様
お読みいただき嬉しく思います。

> 語り口調が『私』だったため、最初は語り手は女性なのだろうと予測してたのですが(私自身主人公を女性と置くことが多いため)読み進めると、名前は高橋聡君と言う男性だと言うことがわかりました。
これは私のわがままであるのですが、学生であると言う設定があるのであれば、よければ服装的特徴として、学ランといった語り手の性別がわかるアイテムなどを序盤に登場させてみるのはいかがでしょうか?

なるほど。私だと女性と思われやすいんですね。自分はそうでもないのですが、性別は早く宣言した方が無難ですね。

> また、本作で登場する小百合さんが少し読み進めると(ある事件を経て)高橋君という呼称から聡君というように行動含めて好意的に変化してました。

そこは手抜きですね。
小百合と高橋の交流をもう少し厚く丁寧に描くべきでした。

ありがとうございます。

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