作家でごはん!鍛練場
どくだみ

川の咾

唐突に、世界から切り離された。
桜の香りが、晴れやかな空に吸い込まれていった。新しい生活への期待と、未来への希望に満ち溢れていた、あの日の高揚感。同僚の弾けるような笑顔。

朝、電話が鳴った。上司の声だ。けれど、もう何も聞こえない。深い湖の底から、泡が立ち上るような音しか届かない。濁った水の中で、言葉というものがゆっくりと沈んでいく。その様子が、妙に鮮明に、いや、あまりにも鮮明に感じられた。

「大丈夫か?返事をしてくれ」

電話の向こうで、世界の輪郭そのものが、少しずつ、しかし確実に溶けていく。蛍光灯は、白い霧となり、白い液体となり、やがてすべての色を失う。

街を歩く。雑踏に紛れる。声は、彼を素通りする。口が動き、喉が鳴り、何かを発しているはずなのに、それは音ではなく。彼の世界には、沈黙しか聞こえない。夜。窓を開けた。そこに、黒い川があった。いや、川が、黒い。その暗さが、彼を呼んでいる。月が水面に映り瞳のように、静寂の中で見つめてくる。一点の揺らぎもなく。一点の温かさもなく。
「おいで。おいで。」

会社に行けなくなった。心が、内側から乾き、家に籠もる。部屋の空気は、徐々に、確実に、腐敗した。壁紙は湿り、黴が幾重に踊り狂う。緑色の胞子が煙のように漂い、肺を蝕む。床は黒ずみ、朽ちた木片を喰らいながら、蟲が蠢く。そこかしこに、死骸が転がり、蛆が湧いている。
その腐敗を、彼は「森」と呼んだ。時間の層が重なり合った、奥深い森。そこでは、無数の蛆が這い回り、影が蠢き、名も知らぬ蟲たちが、生と死の間を彷徨っている。土壌菌が有機物を分解し、放線菌が抗生物質を生成する。まるで森そのものの呼吸だ。美しさと安堵を感じた。世界の領域に属している証が悦びとなった。食事はほとんど取らなくなり干からびた枝のようになっていく。皮膚は、薄い紙のようにして、骨に張り付く。窓の外に、川が見える。夜の闇に、白い月が沈み、流れは鏡のように彼を誘う。その度に声が聞こえてくる。
「おいで。おいで。」


季節が変わり、冬になった。
ある晩のこと。外にでた。靴を脱いだ。素足で蠢く。足の裏は、蒼く冷たさを感じなくなっていた。アスファルトの硬さが、かすかに足裏に伝わる。街の灯りから逃げるように、川に向かう。霧が立ち込めている。その霧の中では、世界の輪郭がすべて消え去り、あるのは、黒い空気。その中を、川が音なく滑っていく。

水は、静かに光っていた。月明かりに照らされ、銀色に輝いている。ゆっくりと服を脱ぎ始めた。すべて脱ぎ捨てると、彼の体は、月光の下で、蛆虫のような白さを露わにした。肋骨が浮き出て、皮膚は、紙のように薄くたるんでいる。もはや、人間の体と呼ぶのも難しい。

水の中へ入った。子宮に還るような、命を宿された時の、あの暗く、温かく、冷たい記憶へ。
真実に辿り着いた。身を委ねることが、唯一の救いなのだと悟った。

月が揺れる。

水底から、何かが蠢く。それは、藻のようなもの。いや、それは、指だ。細長く、柔らかく、生々しい体温を持った指が、彼の足首を撫でる。
一本。また一本。数多くの指が、彼の足、脚、腰、そして体全体を撫でていく。
「おいで」
誰かが囁いた。

それから、川辺では、奇妙な目撃談が、次々と囁かれるようになった。夜になると、水際に影が現れるという。四つ足で歩き、赤い目を光らせる。魚を捕まえ、生きたまま噛み砕く。その音は、骨を砕く音。血が飛び散る音。聞いてはならない音。
けれど、その姿を間近で見た者は、誰もいない。月の下で、ただ風が鳴り、何かが遠くで低く唸る音だけが響く。その唸りは、苦しみなのか、それとも喜びなのか。誰にも判然としない。


河川工事の作業員が、古い洞窟を発見した。川の支流が、かつて存在していた痕跡らしい。そこは、すでに干上がり硬化した泥が、層をなして堆積していた。洞窟の奥深くには、毛皮の塊があった。毛皮だけではない。骨が、いくつも、無造作に積み重なっていた。動物の骨だ。けれど、その骨の大きさは、どんな野生動物のものとも一致しない。人間の骨と、何かの獣の骨が、奇妙に混ざり合っている。

その中央に、錆びついた社員証があった。

「田島誠」

誰も覚えていない。

壁一面には、血のような赤で描かれたなにかがあった。絵なのか、文字なのか、あるいは、その両方が混ざり合っているのか。けれど、その線の一部だけは、明確な形を成していた。それは、口を開いた顔だった。工事は、一時中断となった。


満月の夜、異様な現象が起きた。

川が、逆流したのだ。

風もなく、雨も降っていない。けれど、川の水は、明らかに、通常とは逆の方向に流れている。流れる速さは遅く、しかし確実だ。波が立つ。その波は、規則的であり、同時に、何かの意思を持っているかのようだ。

そして、奥から、低い声が漏れ聞こえた。

「   」

それは、人の声ではない。けれど、人であったものの痕跡を、かすかに残している。言葉を失くした存在が、それでも言葉を思い出そうと、必死に、喉から絞り出した咾だ。

「   」

別の声が、答えた。いや、同じ声が、自問自答しているのか。その区別はできない。

水は、その声を受け止め、やがて静かに、どこかへ沈んでいく。沈んでいく。流れは逆になり、すべてが川の奥底へ、さらに奥底へと吸い込まれていく。

濡れた土の上に、数えきれないほどの爪痕が、月光に照らされた。爪痕は、深く。あまりに深く。その深さは、土を突き抜け、やがて地下へ、そのまた奥底へと続いているかのようだった。

ただ、川は、沈黙を抱き続けるのみ。夜な夜な、その流れの中で、何かが鳴き、何かが泣き、何かが、彷徨っている。

月が満ちるたびに、川の底から、かすかに聞こえる。

それは、言葉なのか、獣の鳴き声なのか。川流が何かを削る音なのか。わからない。けれど、その咾を聞いた者は、皆、同じような夢を見たという。

暗い水の中で、無数の手が、自分を引きずり込もうとする。

冷たい液体に満たされた空間で、声もなく、光もなく、ひたすら沈んでいく。

そして、やがて、その沈みの底にたどり着いた時、彼らは、かつて「  」であった何かに、抱きしめられるのだ。その抱擁は、温かく、同時に冷たい。母の腕のようであり、同時に、死の手のようでもあった。


川辺に人が集まる。

夜になると、一人、また一人と。足を水に浸し、目を閉じ、何かを待つ。檻から解放されるために。

そして、川霧の中へ消えていく。その時、もう叫ばない。ただ、静かに、静かに、水に抱かれるのだ。

かつて田島誠であった存在は、今も川底にいる。

多くの存在が、水の中で一つに溶け合った。

溶け合った何かは、新たな声を待つ。新たな足を待つ。

月は相変わらず、映り、変わることなく、それらの消滅を見守り続ける。

揺らぎも慈悲もなく。

「流れ。始まりも終わりもない。声は、時に美しく、時に恐ろしく、底を掠める。すべて、懐へ。腕の中へ。さあ、おいで。帰ってきなさい。一つに。」

川の咾

執筆の狙い

作者 どくだみ
om126166214093.28.openmobile.ne.jp

実験的な感じです。よろしくお願いします。

コメント

水野
fp8393d766.chbd309.ap.nuro.jp

読みました。タイトルにもある「咾」って何だろうと調べたら「こえ」のことだったんですね。干乾びた喉から漏れ出てくるような音のイメージがあり、本作の雰囲気にも合っているなと思いました。

「こえ」という主題はまず、上司からの電話によって提示されます。何があったかはわかりませんが、主人公は会社を欠勤した様子。私が同じような状況だったら、電話の相手が上司だと判明した時点で申し訳なさが勝って電話にも出たくなくなるのですが、この主人公の場合そうではなく、一旦上司からの電話をとったうえで無視を決め込んでいます。
上司に報告ができるだけの気力は残されていたのか、もしくは相手が上司であることにすら気づかず電話をとり、声を聞いたことで相手が上司だとわかったのか。後者の状況が自然ですが、その場合主人公はすでに目で見ている情報をうまく整理できず、彼に見えているのは音と、それに伴う聴覚イメージだけと推察できます。

そんな彼が頼りにしていたはずの音すらも沈黙となり、やがて「おいで。おいで。」という黒い川からの「咾」が彼を支配する。「生と死の間を彷徨っている」という記述を参考にすると、「声」「音」を生者の世界、「咾」「沈黙」を死者の世界と分けられそうです。
ただ、二回目の「おいで。おいで。」の前に「その度に声が聞こえてくる」とあるように、川から聞こえてくる言葉が「咾」ではなく「声」として捉えられています。もしここでこの言葉が「咾」として主人公の耳に入ったなら、彼はおそらくその時点で川に吞み込まれていたのでしょうか。

冬になり、「おいで。おいで。」と誘われるのではなく「おいで」と強く命令されるまで、音や声に関する記述はあまりありません。それどころか一度失ったはずの視力が最期に戻り、次いで彼の肉体が描写されます。アスファルトの硬さもきちんと認識できています。
「子宮に還るような、命を宿された時の、あの暗く、温かく、冷たい記憶へ」という記述の通り、彼が生まれ変わりを果たし、新たに五感を宿すことを示唆しているのでしょうか。しかしながらその五感は人間のものではないのですが。

この話は「おいで」までできれいに完結しているように見えたので、川辺の目撃談以降は蛇足に感じられました。洞窟のほうで社員証が見つかりますが、主人公はわざわざ社員証を持って川に行ったんですかね?
せっかく聴覚的イメージで恐怖を演出できているのに、骨であったり血のような赤で描かれた何かであったり、視覚的イメージで台無しになっているところは気になりました。川の逆流に関しても、異常というより超常現象を目の当たりにしているような感覚です。

どくだみ
om126157203007.27.openmobile.ne.jp

水野様、読んでいただきありがとうございます。

「咾」という言葉に注目していただき、嬉しく思います。仰る通り、乾いた喉から絞り出すような音をイメージしました。主人公の閉塞感や、徐々に世界との繋がりを失っていく様子が伝わればいいなあと。
声=音を生者の世界、咾=沈黙を死者の世界と二分しようと深く考えていませんでした。なんとなく境界線が曖昧になり、揺らぎ、変化していく様子をイメージしてました。

五感の変化については、徐々に自我が溶け出し、川の底へと帰っていくような、融解していくみたいな感じでした。アスファルトの硬さを感じる描写は、意識が残っているというよりも、もはや人間の姿ですらない異形へと変化していく過程での、僅かな感覚の揺らぎ、残滓のようなものの感じですが、なんか境界つけてもいい感じかなとコメント読ませていただいて思いました。

洞窟以降の展開については、まさに蛇足だったかも。川辺での奇妙な噂話を描くことで、物語に深みを持たせようと試みましたが、描写が過剰になり、恐怖の演出を邪魔してしまったという反省があります。視覚的なイメージを詰め込みすぎたため、聴覚的なイメージで醸成していた恐怖が薄れてしまったというご指摘、非常に参考になります。

川の逆流についても、なんかノリで書いてしまって。超常現象的な要素を出しすぎたなあ。異質さを強調しようとして失敗した感じかも。日常とはかけ離れた異質な世界観を提示するのは極めて日常に近い状態で、心の闇や、川の底に潜む「何か」の不気味さを表現できたらばよかったなあと思っています。

実験的な作品ではありますが、このように細かく読み解いていただけて、本当に嬉しいです。貴重なご意見、ありがとうございます。書いた自分が気づかされる事が多くて、凄くありがたかったです。

本当にありがとうございました。

夜の雨
sp1-73-23-13.nnk01.spmode.ne.jp

どくだみさんの「川の咾」について。

「実験的な感じです。」という事ですが、読み手に、内容が伝わらなければ、意味がないのでは。

それには、方法があります。

たとえばカフカの「変身」ですが、あの作品は主人公が「甲虫」に
なるというような話なのですが、家族が登場することで、内容がわかりやすくなっています。

なので、御作も周囲に存在する者を通して、主人公の周辺をわかりやすく、するとよいのでは、と思ったりしますが。
 実験的な作品はそれはそれで、良いのですが。
やはり読んでもらわなければ、お話になりません。
なので、主人公と関係がある人物等を出演させて、読み手に、わかるようにしたらいかがでしょうか。

どくだみ
om126179034085.19.openmobile.ne.jp

夜の雨様、読んでいただきありがとうございました。

いつも丁寧なご感想、本当にありがとうございます。読者に伝わることは一番大切な事ですよね。でも、今回はその辺りほぼ考えていませんでした。おはずかしい。今回は人間が世界から切り離されていく過程を描こうって感じで外部との関係を断絶させました。自我の崩壊を内側から描けるかなーという感じです。

しかし、夜の雨さんのご指摘のように、周囲の人物を通して孤絶を際立たせるというのは、全体の密度を深める上で非常に有効であると思います。
カフカの『変身』は途中で挫折して読み切れてないのでまた挑戦しますね。

今後は、周囲の人物や現実との接点を描くことにも挑戦し、作品の温度を上げていけたらと思います。とても参考になるご意見、本当にありがとうございました。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内