明日、貴方に逢うための80年、
第一章:一九四五年の蝉時雨
ジ――ジジジジジジ――ジジッ
蝉の声が夢と現実の狭間に入り込んできた。その声に導かれるように桜子はゆっくりと瞼を開けた。薄い障子から優しい光が差し込んできていた。八月に入ると朝から夏を感じるようになった。目を覚ますと同時に、布団の生暖かさが暑苦しいと感じるようなり、窓を開けるとむわっと風が入ってくるようになった。
――また、置いていかれた。
横を見るとまっ見るとまっさらの畳が広がっており、すでに誰もいない。隣で寝ていたはずの妹弟たちの布団は、きちんと畳まれて押し入れに仕舞われていた。
まっさらな畳が、朝の時間がだいぶ進んでいることを告げていた。
「あ、いけん!」
勢いよく体を起こす。けれど、どこかまだ体が重い。昨日の疲れが、足や背中に拭いきれず残っている。
覚めきらない頭で布団を畳み、押し入れへ滑り込ませる。箪笥を開け、色あせた紺色のモンペを取り出していると、襖の向こう側から声が掛かった。
「桜子?起きとるん?」
優しくて、、暖かい。母・八重子の声だ。耳に触れた瞬間に体の力がふっと抜ける。毎日怯えながら生活していることを忘れてしまうような、体中にすっと染みる声。
「うん。今から着替えよるとこよ」
そう返すと、襖の向こうから末っ子長男・茅の笑い声が聞こえた。
「桜子姉ちゃん、寝坊しとるー!柚子姉ちゃん、もうごはん作っとるよー!」
「茅、朝からうるさいんよ」
すぐに三女・柚子の不機嫌そうな声が重なる。柚子は十三歳ながら、しっかり者で自分よりも五つ下とは思えない。台所では、きっともう薪がくべられており、配給米に芋を混ぜた糧飯が湯気を立てているはずだ。
「まぁまぁ、朝から元気なんはええことよ。ほら、茅。外に水くみにいこや」
今度は次女・蘭子の穏やかなのんびりした声が聞こえてくる。三人の声が飛び交い、幸せだな、と口角が上がる。けっして贅沢な暮らしとは言えないけれど、今日も皆が生きて朝を迎えられただけで十分幸せだった。
今年の春、十五歳になった蘭子は最近少し大人びてきた。前までは茅と一緒にはしゃいでいたのに。今では父に似てきている気がする。静かだけど、暖かい目をして、時折桜子よりも落ち着いて見えることがある。
「茅が帰ってくるまでに寝坊しんぼの姉ちゃんは準備しときんよー!」
茅が笑い声を交えながら桜子に向かって声をかけた。八歳なだけあって朝から元気だ。負けじと桜子も声を上げる。
「わかっとるよー!」
桜子は返事をしながら、畳んだモンペを抱えて立ち上がる。
急いでモンペに足を通し、くたびれた上着の襟を整える。箪笥の中からこじんまりとした鏡と髪ゴムを取り出す。鏡を立て、髪を二つに分けておさげに結びながら、桜子はふと思う。
――もし、お父ちゃんがまだ生きとったら、今頃どうしとっちゃろう…
父・健信は八年前、日中戦争で戦死した。父が戦死したとき桜子は十歳で茅はまだ一歳だった。ある夜家族全員で食卓を囲んでいるとき、父の訃報が届いた。
謹啓
貴家御尊兄 高橋 健信 大尉(享年三十二歳)は、支那事変に際し、昭和十三年四月十五日、武漢地方に於いて戦闘中、敵弾に斃れ戦死致候事、誠に遺憾に存じ上げ候。
ここに謹んで通報申し上げ候と共に、深甚なる哀悼の意を表し奉候。
右、取り急ぎ御通知申し上げ候。
謹言
今でもその時のことを、桜子ははっきり覚えている。
母はまるで分っていたように眉一つ動かさずに私たちに告げた。
「健信さん、お父ちゃんはお空に帰ったんよ。最後までお国んために戦いんさったお父ちゃんは、ほんまにかっこええのぉ」
その日から、母は一人で家族を支えてきた。泣かず、倒れず、毎日笑顔を絶やさず優しい母が崩されることは一度もなかった。
その小さな頼もしい母の背中を、桜子は見てきた。
桜子はおさげを結び終えると、鏡越しに自分の顔を見つめた。日焼けした頬に、少しだけ丸みの残る顎。母に似ているとよく言われるが、時折ふと父の面影が見える気がする。
「……行ってくるけぇの」
誰に向けたわけでもない小さな声を呟いて、桜子はそっと部屋を出た。廊下に足を踏み出すと朝の陽射しが障子の隙間から差し込み、木の床に薄く模様を描いている。台所から薪のはぜる音と、湯の沸く微かな音が聞こえてきた。
「桜子ねえちゃん、おはよー。味噌の準備、しとってや」
台所に入ると、柚子がちらりと振り返って言った。割烹着の袖をまくり、手際よく鍋の中をかき混ぜている。十三歳とは思えないほど迷いない手つきだ。母が十分と休めるのは柚子のおかげだろう。
「うん、すぐするけぇの」
桜子は棚から味噌壺を取り出し、木の匙で掬いお味噌汁の鍋に入れ丁寧にかき混ぜ始めた。こうして朝の支度を姉妹で分担するのが、もうすっかり日課になっていた。
ほどなくして、茅と蘭子が水汲みから戻ってきた。茅は桶を持ちながら、何か面白いことでもあったのか、笑いながら蘭子に話しかけていた。蘭子は相変わらずのんびりとした調子で、でも優しい笑顔で弟の言葉に相槌を打っている。
「おかえり。茅、ちゃんと手ぇ洗いんよ」
「はーい!」
茅は洗い場で小さな手をごしごし擦り、桜子のほうを見てにやりと笑った。
「桜子姉ちゃん、また二度寝しようったんじゃろ?さすがじゃのぉ〜」
「しとらんですぅー!今日はちゃんと起きたんよー!」
そんなやり取りに、蘭子と柚子がくすくすと笑った。笑い声が小さな家に広がり、ささやかな温もりが満ちていくのを感じる。
そのとき、ふと風が吹き抜け、開け放たれた縁側の障子が軽く揺れた。風に乗って、遠くから蝉の声が届く。
「今日も暑くなりそうじゃのぉ」
蘭子が嫌そうに呟くと母が奥からやってきて、にこやかに答えた。
「そうじゃねぇ。でも夏はええよ。草木も元気じゃし、子どもらも元気で、こっちまで元気がでるんよ」
その言葉に、炊き上がった糧飯を茶碗によそっていた柚子が声をあげた。
「ほうじゃけ、うち夏ほんま無理。暑いしだるいけぇ」
「茅は夏好きー!川で遊ぶんが楽しいんよ!涼しいし!」
「茅は楽しそうでええのう」
柚子が茅を羨ましそうに見つめる。柚子の目の下辺りをよく見ると隈ができている。あまり寝れていないのだろう。
糧飯を茶碗に味噌汁をお椀にそれぞれよそい終わった。朝食の準備は整った。柚子はまだ少し眠そうにしながらも、箸を並べ終わると静かに席についた。
糧飯と味噌汁の湯気がほわっと立つ食卓に、みんなが揃った。母が「さあ、いただきますよ」と手を合わせながら声をかけると、私たち子供もそれに倣う。
「「「「「いただきます」」」」」
静かな家に高橋家の声が響き渡った。
「味噌汁あったこうておいしー!さすが柚子姉ちゃんじゃね!」
茅が満面の笑みで味噌汁を飲み干す。
「今日な、うちがお味噌入れたんよ」
桜子が得意げに味噌汁を飲む。うん、美味しくできてる。
「えー?でもさ、柚子姉ちゃんの出汁がうまいけぇじゃろー?桜子姉ちゃんじゃのうて、茅がお味噌入れてもこの味なるんよねー?」
茅が糧飯に手をつけ、桜子を見ながら自身満々な声で言ってくる。母が糧飯を食べながら、こちらを見てニコニコと笑っている。言い返してやろうと思っていると柚子が間に入ってきた。
「じゃあ次は茅に頼もうかね。桜子姉ちゃんの味噌汁も美味しいよ」
「任して!ねぇねぇ、ご飯お代わりあるん?」
茅が空になったお茶碗を柚子に見せる。
「茅はほんとよー食べるし、食べるんも早いんよね。おかわりまでしよるし」
柚子がくすっと笑いながら、空のお茶碗を受け取り立ち上がる。
「そがぁ?柚子姉ちゃんのご飯が美味しいけぇ、つい早よ食べちゃうんよ!あと、朝は元気になるためにいっぱい食べんと!」
と茅は胸を張る。柚子は茅の褒め言葉を聞いて嬉しそうに微笑んでいる。糧飯が盛られた小さなお茶碗を茅の目の前に置く。
「茅、ほら、口ん横に米粒ついとるよー」
蘭子は口角を上げながらやや呆れ顔で指摘する。
「え、ほんとじゃ。蘭子姉ちゃんありがとね!」
茅は慌ててぬぐいながら笑った。
「茅はほんとに甘えん坊じゃのぅ。朝から蘭子姉ちゃんにべったりじゃけぇ」
桜子も苦笑しつつと言うと、茅がお箸を置いて抱き着いてきた。
「そりゃあ、姉ちゃんらが優しいけぇ!」
桜子を笑顔で見つめながら言う。どれだけ茅と言い合いしても可愛い弟、というのはいつまでも抜けない。
「もぉー可愛い弟じゃのぉー!」
桜子は思わず笑顔になり、茅の小さい頭をかき回す。
すると茅はにやりと照れたように笑いながら、桜子のお腹に頭を埋めた。
「お姉ちゃんら、ずっとお家におりゃいいのに…。工場とか学校ばっか行きよってさ…」
ぽつんとつぶやいたその言葉に、母と蘭子の箸が一瞬だけ止まった。
桜子も少しだけ息を呑んだが、すぐに柔らかく答えた。
「そんなこと言わんの。ほんとお姉ちゃんらのこと大好きじゃねー。すぐ終わらして帰ってくるけぇ、待っとってな?」
茅は黙って頷くと、さっきよりも力を強めて抱き着いてきた。
「もう、茅ったら。いつまで経っても赤ちゃんみたいじゃねぇ」
その様子に、蘭子がくすくすと笑う。
「…でもな、うちもわかるんよ。学校ない日に桜子姉ちゃんおらんかったら、心細いもん」
そう言ったのは、柚子だった。柚子は普段、母の手伝いをしていて自分のことを喋ることが少ない。柚子の素直な言葉に桜子は少し驚いた。
「ほんと?柚子がそんなこと言うん、珍しい」
「だって……桜子姉ちゃんがおったら……なんか、大丈夫な気がしてくるんよ……」
柚子は視線を逸らし恥ずかしそうに呟いた。
「大丈夫な気がするってなんそれー」
桜子は笑いながら抱き着いている茅の頭を撫でていると、茅がいきなり体を起こした。
「茅も思っとた!」
「うちも思っとた!」
茅に次いで蘭子も声をあげた。
「桜子お姉ちゃんが笑うとね、なんか……戦争のこと、ちぃとだけ忘れられる気がするんじゃもん」
柚子が照れたようにはにかみながら言った。柚子が言っていることはあまりわからない。だけど、自分が笑うことで少しでも戦争のこと忘れられるなら、いくらでも笑う。
母は、ちゃぶ台の向こうで黙って子供たちのやりとりを見守っていた。やがて、そっと桜子の湯呑みにお茶を注ぎながら、微笑んで言った。
「お父ちゃんがおったら、きっと桜子のこと見てよう頑張ってるのぉって褒めてくれるん思うよ」
その言葉に誰も何も言わなかった。けれど、ちゃぶ台の上に漂う湯気と、蝉の声だけが静かに朝の空気を揺らしていた。
∞ ∞ ∞
ちゃぶ台の上を片付け、工場へ持っていく荷物をすべて手にして玄関に立つ。
「蘭子、柚子、準備はええ?」
部屋の隅で最後の身支度をしていた妹たちが顔を上げる。
蘭子はさっと髪を整え、背筋を伸ばした。柚子は鞄を肩にかけ準備は満タンそうだ。
母が洗い場の水を止めてこちらを向く。
三人は玄関に並び、桜子が戸を開けた。隙間から一斉に夏の強い日差しと、蝉の声が飛び込んできた。日差しが縁側の障子を透かし、木の床に長い影を落としていた。桜子は襟元を整えながら、庭先の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「お母ちゃん、茅、行ってくるけぇね!」
桜子が家に向かって言う。
「いってらっしゃい。気ぃつけてな」
母の優しい声が真夏の青空に木霊する。家を出ようとしたとき、ふと茅を探す。部屋の隅でおもちゃの竹とんぼを握りしめ、眉をひそめていた。かと思ったら、竹とんぼを放ってこちらに駆けてきた。
「姉ちゃん、待って!茅も行く!」
まだまだ幼い茅は、姉たちが出かけるのが寂しくて仕方ないのだろう。最近になって家を出る直前に拗ねる回数が増えたような気がする。隣町が空襲にあったことを聞いて、怖い思いをしたのもあるだろう。
「駄目よ、茅。お母ちゃんとお留守番しとって」
柚子が冷たく言うと、茅は涙をぽろぽろ零しながら、しがみついてきた。
「嫌じゃー!姉ちゃん、行かんとってぇ…!」
蘭子が慌てて手を伸ばし、茅を抱きしめる。
「ほらほら、泣かんの。すぐ帰ってくるけぇ、ね?」
柚子も膝をついて茅の目線に合わせた。
「茅、お姉ちゃんらが帰るまで、お母ちゃんを守ってあげてな。茅にしかできんことじゃけぇ、お願いできる?」
茅は小さく頷いた。まだ少し不満そうだ。
「ほんとにすぐ帰ってくるん?絶対?」
涙でいっぱいになった目で桜子を見つめてくる。桜子は優しく茅の頭を撫でながら、しっかりと言った。
「絶対じゃけぇ。すぐ帰るから、待っとてね」
茅はまだ泣きそうだったけれど、少しずつ落ち着きを取り戻した。
「「「いってきます」」」
桜子たちは声を合わせ、茅の不満そうな顔を最後に家を出た。
青空には薄く白い雲が浮かび、遠くの山並みはかすかに霞んで見える。街路樹の葉は緑濃く茂り、風にそよぐたびに涼しげな影を作り出していた。暑さに堪え日陰に入っても、汗がじっとりと額を伝い落ちるほどの蒸し暑さだ。
「今日は空が高いねぇ」
蘭子が空を仰ぎながらこぼした。澄み切った青空に薄く白い雲が流れ、遠くで鳥の鳴き声が聞こえる。
「夏が本格的になってきた感じじゃのう」
桜子はゆっくりと足を進めながら空を仰いでみる。道端で様々な蝉が鳴き始め、ミンミンゼミの鋭い声が耳に刺さる。時折、アブラゼミの低く長い鳴き声が混じり合い、朝の静けさをかき消していく。
隣を見ると柚子がまだ少し眠そうな表情をしながら、足を進めていた。
そのとき隣の家の門がぎいっと開き、男が顔を出した。誠だ。桜子の二個上で二〇歳ながらも陸軍に勤めている。誠は夏の光を浴びて汗ばむ頬に、爽やかな笑みを浮かべていた。
「おはよう、桜子、蘭子さん、柚子さん」
「おはよう、誠さん」
三人はそろって軽く会釈を返す。誠は少し照れたように笑いながら、こちらに近づいてくる。
「桜子は今日も工場か?」
「はい。誠さんもお仕事ですか?」
桜子はつい嬉しさが顔に滲み出て、口角を上げながら答えた。
「あぁ。今日も夜までいろいろな訓練してくるよ」
軍隊さんは標準語で喋ることが義務付けられているらしい。私語や私生活は標準語を使わなくてもよいのだが、誠さんはいつも方言を使わない。標準語が体に染みついてしまったそうだ。
「今日は暑いけぇ、お体に気ぃ付けてくださいね」
誠の焼けた頬につーっと一筋汗が伝った。
「ありがとう。桜子も気をつけてな」
桜子が頷くと誠は満足そうな顔をして、桜子の頭を撫でた。突然のことに体が固まり鼓動が速くなる。
「それじゃあ」
そう言い残して誠は桜子から離れ、歩いて行った。その背中を見送りながら、桜子は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「桜子姉ちゃん、誠さんと朝からなに仲良うしとるん」
柚子が隣から冷たく言い放つ。桜子の頬は先ほどよりも熱さを増していた。
「桜子姉ちゃんは誠さんが好きじゃけぇ、しょうがないんよー。ねー?」
蘭子がニヤニヤしながら桜子の前に立つ。
「そ、そういうんじゃないし!誠さんと喋っただけなんよー!」
好き、という言葉に胸が締め付けられる。誠さんは頼りになる近所のお兄さん。それだけ、それだけなはずだ。恋とかそういうものではない。
今は恋なんかよりも家族と幸せに生きることが大事だ。
「桜子姉ちゃんほっぺ赤うなっとるよ」
柚子が桜子を見て真顔で告げた。きっと内心にやけているだろう。
「ほんとだー!」
蘭子も私の顔を見てはしゃぎ出した。
「暑いだけじゃけぇ!ほら、行こーや!」
はしゃぐ蘭子と桜子を見つめる柚子を置いて、速足に歩き出す。後ろから二人の喋り声が聞こえてくる。
誠さんの顔を思い出して桜子は一人また、顔を赤く染めた。
∞ ∞ ∞
空は、昼間の青さを少しずつ手放し始めていた。西の空が淡く茜色に染まり、雲の端が金色に縁どられている。工場の敷地を出た桜子は、ひとり砂利道を歩いていた。靴の底で、小石がじゃりじゃりと音を立てている。
日が傾くにつれて昼の蒸し暑さは和らいできたものの、モンペと下着の間に汗がじっとりと張り付いている。一日の疲れが一気に押し寄せ、進む足が遅くなっていく。
目の前には、霞んだ西日が広島湾のほうへ傾いている。工場の煙突から上がる煤けた煙が風に流され、空の色と溶け合っている。
桜子は背負っていた荷物をずらし、背筋を伸ばす。あたりには同じように工場帰りの女学生たちが、足早に家路を急ぐ姿が見えた。
誰もが口を閉じ、黙々と前を向いて歩いている。
戦争が始まってからというもの、広島の町もすっかり静かになった。空襲に怯え、無駄な話し声を控えるようになったのだ。
道沿いに咲いた野草――独活や露草が、夕方の光を受けて青白く揺れていた。広島の町中から少し離れたこの辺りは田畑がまだ残っており、ところどころに農家の瓦屋根が見える。遠くには太田川の支流がきらきらと光を反射させて流れていた。
ふと立ち止まり、川のほうを見ると、岸辺の柳が風に揺れていた。その向こうに、小高い比治山が見える。夏の空気の中に、少し霞んで見えた。
「……平和じゃのぅ」
桜子は誰に言うでもなく呟いた。歩きながら、ふと家のことが思い浮かぶ。
母は、もう晩ご飯の支度に入っている頃だろうか。あの小さな台所で、木のまな板の上に芋や菜っ葉を並べ、火をおこしている姿が目に浮かぶ。母は、どんな日でも眉ひとつ動かさず、淡々と手を動かす。
どれだけ心が疲れていても、私たちの前では決して弱音を吐かない。まるで一本の柱のように、家を支えてくれている。
蘭子は、昔はもっと無邪気だったけど、最近は自分よりもずっと落ち着いている。母のように、言葉よりも行動で気持ちを伝える子になった。蘭子は茅の面倒を率先して見てくれて、母も助かっているだろう。きっと今も茅と楽しく遊んでいるはずだ。
柚子は、今日も朝早くから台所を切り盛りしてくれていた。十三歳にして、家事の大半を覚え、料理の腕も母に劣らないほどになった。けれど、最近は少し目の下に隈ができていて、どこか無理をしているのではないかと、桜子は内心ずっと気がかりだった。
茅はきっと今頃、家の縁側に座って、竹とんぼを握っているに違いない。もしくは、三輪車のようなおもちゃを引っ張って庭を駆け回っているかもしれない。そしてその隣には蘭子がいるだろう。姉たちの帰りが遅いと、すぐに不安になって涙ぐんでしまう、まだまだ幼い末っ子。
桜子は心の中で、家族の顔を思い描きながら歩き続けた。気づけば、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。疲れた足も、少しだけ軽くなる。
家までは、横川町から西へ抜ける道を辿る。途中で見える電車通りは、戦争の影響で本数も減り、空気がどこか寂しい。市街地に入ると、家々の壁に貼られた「敵機来襲時ハ防空壕へ避難スベシ」の文字が、古びた紙越しに目に飛び込んでくる。
風がふと強く吹いて、どこかの屋根の風鈴がちりん、と鳴った。
そのときだった。
「桜子姉ちゃん!」
懐かしい声が、夕暮れの道に響いた。驚いて前を見ると、少し先の角から柚子が必死な顔で 走ってきていた。
割烹着のまま、髪もまとめきれずに肩にかかっている。息を絶え絶えに桜子の目の前で立ち止まった。
「柚子どうしたん?そがぁ急いで…」
柚子は肩で息をしながら、しばらく言葉を飲み込んでいた。そして、震えるような声で呟いた。
「……誠さんが」
胸がぎゅっと縮む音が、自分にしか聞こえないほど強く響いた。
桜子は立ち尽くしたまま、しばらく空を見上げた。
広島の空は、静かに、雨の気配を運んでいた。空を覆う灰色の雲がじわじわと広がり、町の輪郭がぼやけていく。
風が強く吹き、木々がざわりと音を立てた。
執筆の狙い
前回の投稿のアドバイスを頼りに自分なりに全力で書きました。
舞台は1945年です。この作品を通して、自身も戦争について多く学びました。
拙い文章ですが、読んでくださると嬉しいです。
舞台が広島なので広島弁を使っているのですが、間違いなどがあったらすいません。
この話はまだ続きます。
感想お待ちしています。