朝、私は太陽になった。
――雨は激しく窓を叩きつけ、部屋の影を深くしていた――
私はカーテンの隙間に寄り添うように座り、膝を抱えていた。
ギシギシと軋む椅子に呼吸は浅く、世界は鈍い水音だけで満たされている。
勤務の疲れ、救えなかった顔、伝えられなかった言葉──理想と現実の乖離。
ひとつひとつが胸の中で重くのしかかっていた。
病に苦しむ誰かの太陽になりたい――そう自ら選んだ道であったのに。
窓の外で雷鳴がひとつ唸り、私の心は押し流されそうになる。
頭の中に降り積もる白は、いつか融ける雪ではなく、静かに息を奪う灰だった。
希望の温度を忘れたまま、世界は遠く、冷たく、どうしようもなく孤独だった。
――朝、私は太陽になった。
目を開けた瞬間、ベッドの上の身体はどこにもなかった。
声も出せない。
核融合の炎は絶え間なく燃え、熱と圧力が荒れ狂う。
声もなく、肌の感覚もなく、ただ、世界の眩しさが私を満たしていた。
太陽の深部で、私は"光子"として目覚めていた。
強すぎる光で、世界の輪郭すら眩しさに溶けそうだった。
――熱い。
そこには生者の形も時間の区切りもなく、ただ無数の粒が互いを押し合い、散らし合い、果てのない迷宮のような運動を続けていた。
恐怖に似た震えが、最初に私を包んだ。
出口のない混沌に閉じ込められ、永遠に彷徨うのではないか――そう思えた。
けれど次第に気づく。
私のすぐそばには、無数の仲間がいた。
衝突と反発の音が合唱のように響き、炎の渦が一つの呼吸のように脈打っている。
私は孤独ではない。
むしろ、この広大な混沌の中で、すべてが寄り添い、呼応していた。
『今日も地球に届けよう』
太陽の声が、胸の奥に響いた。
――私は理解する。
今、私が漂うこの世界と地上の光は、直接つながっているのではない。
光の粒たちは、太陽の中心から表面へと少しずつ押し出される。
”ただの光”という存在を証明しながら、その道のりは気が遠くなるほどに長い。
何千年もの層を抜け、ようやく殻を破ると、そこから地球へ届くまでに8分。
冷たい無音の空間を滑りながら、青い星が近づいてくる。
私はついに太陽を抜け、宇宙の真空へと飛び出したのだ。
そこには森が揺れ、川が流れ、世界が目を覚まそうとしている。
地球の大気に触れると、私は一瞬だけ震えた。
空を青く染め、雲と雪で白く跳ね返り、海で赤を失い、子どもたちの黒い影が踊る。
淡い桃色の花が開き、葉は朝露で緑を艶やかに纏い、人の頬を橙に撫でる。
それは、私の存在を世界が受け止めている証のようだった。
(――そうか、私は太陽の光なのだ)
過去の後悔も未来の不安も、光の中に溶けていく。
『私はただ照らすだけでよいのだ』
人々は私を意識しない。
いや、意識できない。
けれど、私がいることで、確かに世界は温かさを知る。
――朝の光として。
朝の光が、鏡の前の誰かに「おはよう」と囁くように、私は今日も生まれるのだ。
――昼の光として。
雲の間を滑る風も、遠くの山並みも、街を歩く人々も、すべてが私を包み込むように輝くのだ。
――夜の光として。
星の影に溶けて、月を照らし、私の存在は遠くから静かに祝福され、緩やかに消えていくのだ。
そして、また数千年の旅の果て、私の一部は地球の空に届き、街を、森を、海を照らすだろう。
ふたたび地球では人々が目を覚まし、朝の光に顔を向けるのだろう。
私は気づく――わたしの存在は消えていない。
形は変わったけれど、確かにここにいる。
”わたし”は光であり、旅人であり、世界を抱きしめる存在。
悩みや不安に押し潰され、誰にも見つからない場所でじっとしている人。
わたしはその窓の外に漂い、静かに語りかける。
(あなたは、ひとりじゃないよ)
言葉は届かなくても、光の一粒として、そっと存在を届ける。
カーテンを透かして差し込み、床を染め、部屋の隅々に温もりを運ぶ。
光に触れたとき、その人の心の奥底で忘れていた感覚がよみがえる――
「……僕は、まだ生きてていいの?」
「……世界は、私を待ってくれているの?」
悩みの闇に包まれても、光子としてのわたしは言う。
(今、ここにいることが、もう希望なんだ)
光はゆっくりと伸び、部屋を満たし、心の影を溶かしていく。
(一歩踏み出すのは怖くてもいい。小さくてもいい)
彼らが浴びる光の一粒一粒は、私たち光子の長い旅の果ての軌跡であり、私の存在はその一部に過ぎない。
孤独でも、閉じこもっていても、あなたは光の旅人の一部であり、世界とつながっている。
――やがて、かすかな声が返ることがある。
「僕は、生きていたい」
「私は、世界とつながりたい」
太陽と地球。
光子と人間。
見えない糸で結ばれたすべての存在を、わたしは静かに抱きしめる。
心の奥では知っていた。
この旅は、あの人の目に届き、その心に届くためのものだ、と。
――そのとき、厚い雲の切れ目から一本の光が差し込んだ――
光は部屋の埃を通り抜け、彼女の胸に柔らかな温度を落とす。
ふわりと舞い降り、机上のコップの縁で踊るように揺れた。
姿形はないけれど、その存在には見覚えがあった。
――どこかで聞いた、大人しい笑い声の残響。
――筆箱を落とした日の、不器用な手つき。
――遠慮がちに何かを求めていた、あの眼差し。
「……うそ……」
掠れた声が漏れる。
彼女の心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
まるで、時間が逆流したかのように。
次の瞬間、彼女は反射的に立ち上がり、椅子を後ろへ倒した。
乾いた衝突音が静寂を破り、部屋の空気を震わせる。
光は怯えた小動物のように一瞬揺らめき、それでも逃げずに彼女の頬へと寄り添った。
「・・・ちゃんなの?」
震える声には驚きと、祈りのような希望と、それでももう戻らないことを知る哀しみが滲んでいた。
光子は答えるように、言葉を紡いだわけではない。
いつの間にか、いつもの日常から消えてしまった、あの声でもない。
(わたしは、太陽の奥でゆっくり眠り、長い時間を経てここへ来た)
だけど、彼女の耳には確かに伝わった。
光は、遠いところからの約束を運んでくる。
永遠(数千年)と瞬き(8分)がひとつに溶け、夢と現実の境目は、光にかき消されていく。
(でも、本当は――昔、君のそばにいた、誰かのかけら……”わたし”かもしれない)
かつてベッドの上で、明日の朝日を浴びることが無かった同級生。
その少女が最後に願った光となって。
彼女の瞳は驚きの光に満ち、雨音がふと遠のいた。
外の空はまだ泣いているが、部屋の内側だけに、小さな晴れ間が生まれたようだった。
(人は火に溶けるとき、小さな粒を空へ放つ)
光は語る。
(その粒は地球の腕をすり抜け、遥かな闇を渡り、やがて太陽に抱かれて、光となる)
光は窓の外へと伸び、やがて空に弧を描いた。
(あなたのそばには、光がある、わたしがいる)
大きな虹が、豪雨のあとに架かった。
虹は静かに空を渡り、色の秩序を部屋の中に引き込む。
(だから、どうか顔を上げてほしい)
七色の橋は言葉よりも強く、お互いの距離を結んだ。
彼女は手を伸ばし、窓ガラス越しに指を虹の方向に向けた。
指先に触れたのは冷たいガラスのはずなのに、心の中には確かな温度が残った。
光子はやがて、ふっと消えるように薄れていった。
虹が消えると同時に、光もまた空へ還る。
――だが去り際に残したのは、確かな約束だった。
空が広がるたびに、またここへ戻るという約束。
火に焼かれ、人の形は残らなくても、生きた証が、その心に灰となって降り積もっても。
それが確かに『ここにいた』という声に思えたから。
彼女は、そっと笑った。
涙が頬を伝い落ちる。
笑いと涙が同じ線上に並び、胸の中の石が少しだけ崩れる音がした。
「最後に私も人として火に溶けたとき、小さき粒となって太陽に抱かれて、眠るのだろうか?」
窓辺に残る静寂の中、彼女は呟くように、自分自身に問いかけた。
「それとも、新しく生まれた あなたを照らすための欠片、”ひかりのこ”になるのかな?」
――空は返事をくれない。
だが、どこかの夜空に微かな光が瞬き、彼女の言葉は、虹の色のひとつとして空へ溶けていった。
――別れは来る。
けれど約束は残る。
いつかまた、出会うために。
――「私たちは、ここにいる」――
――「ひかり あれ」――
(了)
執筆の狙い
①太陽の中心部(核)で核融合反応がおこる
②水素がヘリウムに変わるとき、膨大なエネルギーと光子が生まれる
③太陽の中は非常に高温・高密度で、電子やイオンにぶつかっては散乱され、中心で生まれた光子が太陽の表面に出るまでに、数千年~数百万年かかる
④ようやく太陽の表面から出た光子は、光速(秒速約30万km)で進む
⑤地球までの距離は約1億5千万km。
この距離を光は約8分20秒で走り抜ける。
人は死んだらお星さまになると言うけれど、私はそれを信じています。
日本では人は死ぬと火葬され、微量の水素が生じることになります。
科学的に軽い分子ほど重力をふりきって、地球から宇宙に抜けて失われてしまう可能性が高いのですから。
(*人´ω`*)<お読み下さり、ありがとうございました。