作家でごはん!鍛練場
柏谷

空葬

 造船所を囲う防音壁の向こうから、金属を叩く音がこぼれてくる。数キロ離れた山あいの学校まで届くその音は、風に乗って窓を震わせ、はためくカーテンの奥に紛れた。ノートの紙が擦れる音、チョークが黒板を打つ音、教室のざわめきを縫うように、カツーンと跳ねる。
 不規則な間隔で空を渡り、やがて終業のチャイムが鳴る頃、東の空から群青が迫ってきた。そのとき、ひときわ大きな音が響いて――途絶えた。それが、造船所のクレーンから落ちた船材の下敷きになって、迫川(はざかわ)くんがぺちゃんこに潰れた音だった。

 迫川くんの訃報は、通っている塾の塾長の口から知らされた。わたしは放課後になると毎日のように塾に通うようにしていた。元々は誰かの住居だったらしい木造のぼろの建物を、雨風をしのぐためにトタン板で周りを囲っただけの改築をした塾舎。どこを歩いても干割れした木のきしむ音がする。
 いつ床が抜けるか分からないことと、黴と埃の混じったあまったるいにおいがする以外は、学校の教室さながら机と教壇が並べられた自習室。そこに、仕事を終えてやってきた迫川くんの足音が聞こえるのを待つのが、もはや習慣になっていた。
 それなのに、迫川くんはもう来ない。塾に着くなり、青ざめた表情の塾長がわたしを呼び止めた。
 突然の知らせに、わたしは、震える両足で立っているだけでも精一杯だった。塾舎内にこもった湿気の、その暗然とした重たい空気がわたしの喉につかえ、たまらず塾舎を飛び出す。
 わたしは走る。潮の香りのする方へ。ざらりと感じた冬の冷気は、肌にまとわりついた暗い湿気を拭うようだった。やがて手指がかじかみ始める。鼻先が冷え、つんと痛む。それでもわたしは、迫川くんのいない、暖かい塾舎に戻りたくなかった。
やがて海を一望できる広場に着く。ここは、元はフェリーを横づける為の埠頭、その跡地である。今となっては、地面を冷たいレンガで敷き詰めて、円を囲うように並んだ生垣と街頭、その中心に二人掛けのベンチがひとつ、取り残されたかのようにそこにあった。
 何もない、つまらないこの広場に、わたしと迫川くんはよく塾舎を抜けては、塾での勉強をサボるために訪れていたっけ。



「造船所で働きょん? わたしの三コ上なのにすごいね。」
 迫川くんがいつも油臭い作業着を着て塾に来ている理由を初めて知ったのは、わたしが高校に入学したとほぼ同時に、例の塾に入塾してすぐの時だった。学校から渡される課題と塾からの宿題に辟易して、サボるために塾を抜け出してふらふらと気まぐれに歩いた先にあったのが例のベンチで、迫川くんはその先客だった。
「高校を卒業してすぐこの街にやってきたんだ。名前を言っても誰も知らないようなうんと離れた街からな。船を造りたくってさ。しかしまあ、」
 迫川くんはタバコを加え、肺いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出してから続けた。
「聞いていたような街とは違うな。地元から乗り継いできた電車を降りて、バスに乗り換えて、期待を胸いっぱいにしてまさに今この港に降りて、目の前に広がる光景を見て思ったよ。なんと言うか閑散としていて――。仕事に就いてからは、新しい船なんてもう造らないことを知って、任される仕事は数少ない観光船の修理……の雑用くらいで。」
 ベンチに深く腰を掛けた迫川くんの視線の先には、冷たい夜の波に揺れるフェリーが数隻程並んでいる。もう誰にも必要とされなくなった船が次々と廃船する中、かろうじて生き残ったフェリー達。いつ、この港自体が無くなってしまうか分からない未来に怯えるフェリー達。そんな〝彼ら〟に見つめられながら、わたしたちは、白銀のごとく艶めく海の音を聞いていた。



 わたしは迫川くんに、この街について知っている限りの歴史を教えたことがある。
 この港が、海の向こうに見える島と本州の間を行き来できる旅客港として栄えていたのは、わたしたちが産まれるずっと前の時代の話だった。島と本州をつなぐ大きな橋が出来てからは、フェリーの利用客は著しく減って、旅客港としての役目を終え、すっかり廃れた悲しい街へと変わり果てた。わたしたちが産まれたのはちょうどその頃だ。
「〈栄光の時代〉も、人も、街の活気も、船も、何かに攫われたように跡形も無うなってしもうた。当時を生きとった人らは、口を揃えて皆そう言うとる。」
「悲しいね。〈栄光の時代〉、とやらを取り戻すことはもうできないのかな。」
「どうじゃろ」
 わたしはベンチにもたれて、夜空を仰ぐ。目を閉じれば、瞼の裏に、幼少期に見たこの街の情景が浮かぶ。



 小学校の前を通り過ぎて、軒なむ家々に挟まれた細道を行けば、「ようこそ の街」と書かれた年代物のゲートが見えてくる。あのゲートをくぐれば商店街が続く。賑わいは無いが、店を営む老輩が、小さな花や生き物を慈しむように自店の商品を並べ、来ない客を待つ。そんな彼ら彼女らの視線を横切って、商店街を突っ切った先が学区外。その学区外にこそ、わたしたちが今いる港町がある。
 ゲートの、雨風に擦れて消えてしまっている空白には、おそらく「海」とか「港」とかが入るのだろう。だけど当時のわたしにとっては「魅惑」や「夢」と言ったところか。学区外は、たった一人で足を踏み入れたことの無い、未知の世界だったから。
 小学三年生の頃だったか。自転車に乗れるようになったわたしは、学校の先生にも保護者にも内緒で、自転車を漕いで港町へ行くことを試みた。この目で海が見たかった。ただそれだけの理由から。
冒険心が引っ掻き回されたわたしは、夏の暑さなどものともせず、ペダルを漕いで未知の世界を拓いていった。
 ゲートをくぐり、商店街を突っ切って、そのまま続く車道を道なりに走れば、かつて栄えていたらしい痕跡が見えた。人通りや利用者こそ少ないが、ショッピングセンターや市営図書館があった。ガソリンスタンドもあり、アルバイトだろうか、気怠そうな青年が一人、床を足でつついていた。
 それらを通り越して、南の方角へぐんぐん突き進めば、潮の香りが徐々に濃くなり、やがて太陽の光を浴びてきらめく海の青色が見えてくる。最南端までもうひと漕ぎすればバスターミナルに着き、その丁度真向かいにフェリー乗り場がある。自転車を降りて、埠頭の傍まで近づけば、背中をのけぞらせる程大きな船を仰ぐことができる。
 船は、図体こそ大きく壮大だが、その存在は静かだった。ちゃぷちゃぷと心地よい波の音が聞こえて、船自体はただじっとそこに浮かんでいた。いかにもわたしたちを、無事目的地にまで送り届けてくれそうな程、頑丈な造りだった。
……フェリーに乗って海を渡れば、どこか遠くの離島へ行ける? この街からうんと離れたところにまで、わたしを送り出してくれる?
 心の中で船にそう問うた、その時だった。ひときわ大きな波がやってきて、船が大きく揺れた。答えてくれたんだ。子ども心にそう思った。
 この船が、この街と他の街を繋ぐ役割を担ってくれる。このような辺鄙な街でも、違う街につながる航路がちゃんと引かれてあることがうれしかった。胸いっぱいに潮のにおいを嗅いで、視界に広がる一面の海が、海の先にある島々の全てが、わたしを迎え入れてくれるような気分になった。
 この頑丈な船がいてくれたら。
 頼りになる船を、ずっと見上げていたかったが、家からここまで小一時間はかけて自転車を漕ぎっぱなしだったことを思い出す。ふくらはぎがじーんと熱を帯び始め、わたしはどこか、座れる場所が無いか探す。すぐそばに、ガラス張りで中が透けて見える喫煙所があり、わたしはその中に入る。喫煙所とは名ばかりで、今はほとんどだれも使っていないことは臭いで分かった。その建物の中にあるベンチに腰掛けて、少し離れた距離から船と、海と、その向こうにあるものを見つめる。

 疲れていたこともあって、少々ぼんやりしていたら、気が付いた頃には日が沈みかけていた。船灯が光を放ち始め、わたしははっとする。今何時だろう。
 喫煙所を飛び出して、自転車に乗り、元来た道の方へ転回する。もう一度だけ、惜しむように船を一瞥して、わたしはペダルを漕ぎ始める。急いで帰らなければ、自宅の門限に間に合わない。
 その焦りが仇となった。わたしは何かの拍子に、来た道とは違う道に外れていたらしい。行きしなには見なかった廃屋や、開いているのか潰れているのかすら分からない飲み屋があった。
 方角さえ合っていれば、いずれ知っている道に出るだろうと思いこんだのがまずかった。引き返さずにどんどん前進する。すると、まわりの風景が段々と直黒に垂れ込めてしまい、自分が一体どこにいるのか分からなくなる始末だった。
 引き返そう。ようやくそう決心する頃には、日は落ち切っていた。転々と置かれている外灯の光は頼りなく、自身の足元しか照らしてくれない程だった。わたしの自転車についたライトだって、一寸先しか照らせない。
……心なしか、どれだけ前進しても景色がずっと変わらない気がする。人気もなければ生き物の気配もない。風や草木の揺れる音すら聞こえない。まるでわたしだけがゾートロープに閉じ込められて、その中を延々と走り続けているような気分だった。目の前には、ただ真っすぐに引かれた二車線があり、その先は暗がりで何も見えない。……こんなに遠くまで走ってきたんだっけ。ふうふうと熱い息づかいに肩を上下させていると、突然何者かに声をかけられる。
 ぎょっとして自転車を止め、ゆっくり振り返ると、心許ない外灯の光を浴びた人型の逆光がわたしを見下ろしていた。一体誰? いつのまにここに?
 
 お じょうち ゃんは どこ の こ?

 その影は、確かに人型ではあるが、人であるかは定かではなかった。何より逆光にしては黒すぎた。口を動かして喋っているのか分からない程に真っ黒で、しかし確かに低くおどろおどろしい声色を響かせていた。「な まえは」「とし は」と質問は続く。
 わたしは口ごもる。人間とは思えない声色に、わたしはすっかり委縮していた。
 影の背後から、別の声が聞こえる。「お いで」「おい でよ」。声の主は、わたしのすぐ目の前にいる人影の後ろにいるまた別の人影で、黒いボックス車のような乗り物から身を乗り出していた。
 そちらに気を取られていると、目の前の人影が、わたしの右腕に掴みかかる。たった腕を一本掴まれただけなのに体の重心まで掌握されたようで、わたしは平衡をうまく保てず、よろめくばかりで抵抗ができない。
 ついには自転車から引きずり下ろされ、がっしゃん、がらがら、自転車の倒れた音がする。小さな小石が肌に刺さって、膝や掌に血が染みた。見上げれば、ボックス車が他の影がすぐそばまで近づいてきて、そこから次々と他の人影……らしきものが出てくるのが見えた。それらは人間らしいくびれを無くしたシルエットで、どれもシダ科の植物みたいにうなだれていた。
 奴らの正体を突き止めるよりまず、逃げなきゃ! 頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。これは、これは、これは、いわゆる、……誘拐? 
 血の気が引く。冷たい汗が背筋を伝う。
 奇怪なのが、掴まれた腕が人影の身体の中に「飲みこまれている」ということだ。気づけばわたしの腕は、人影の腹の中にあった。指先から肘にかけて、身の毛がよだつ程の冷たい温度をそこに感じた。
 人影の後ろからどろどろと生えてくる触角のような黒い影に、どんどん身体がこわばっていく。動かなくなった両足が、アスファルトの上をずるずると滑り、肘から肩へ、肩から顎へ、人影に飲みこまれていく。わたしの身体はもう、奴らのなすがままにされる……。
――瞬間、小さな誰かがわたしに体当たりした。わたしの半身と、わたしを丸飲みしようとしていた人影の身体は粘性をことごとく失った黒い飛沫となって多方に飛び散った。
 わたしは力なくぺとんと地面に倒れる。飛沫を浴びたわたしの肌には、鋭利な刃物で切り込みを入れられているような冷たさが伝った。
「にげるぞっ!」
 すっかり腰の抜けたわたしに、その少年は叫んだ。しんと張り詰めたような、溌剌とした声にハッとする。彼はわたしのシャツの袖を掴み、立ち上がらせ、わたしの来た道を走って戻る。
 恐怖に萎れて使い物にならなくなった脳では理解が追い付かなかった。それでもわたしはよろめきながらも、とにかく必死に脚を動かすことに集中した。
 わたしの後ろ髪を誰かが掴もうとするような、わたしを呼び止める叫び声が聞こえるような、人影の気配と冷気をすぐ後ろに感じて、つい振り返りそうになる。
「振り返っちゃだめだ!」
 その時、わたしは初めてその少年のかんばせを認めた。鼻先まで伸びた鳶色の癖っ毛を。その奥に潜む琥珀色の瞳を。
 彼の向かう先には眩しくて目を細めてしまう程の白い閃光が見える。眩しくて真っすぐに目を向けることができない。わたしにできることは、目の前を行く小さな英雄の、正義のマントのごとくはためくシャツの襟だけを見つめてひた走ることだけだった……。



 はっと我に返る。わたしたちは自習室で向かい合わせになって課題に取り組んでいた。
「いつもこうなんよ」わたしは、迫川くんに言う。「わたしが子どもの頃のこの街の情景を思い出そうとすると、必ず〝あの子〟が出てくる。あの日、わたしは確かに迷子になって、〝あの子〟に引っ張られて……ここで記憶が途切れとる。」
 タバコの灰を落としながら、迫川くんは、ヘッと呆れたように笑う。
「何年も前の話なんだろう。忘れてしまうのはしょうがない。そういうもンだ。」
「でも気にならん? 結局二人は助かったんかなって。」
「馬鹿か。タマ子は今ここに居るだろ。それは当時のタマ子が助かったからだろ。それが物語の結末だ。それでいいんじゃないか。」
「でも、〝あの子〟は?……」
「人影だっけか。そいつに襲われた時の記憶が、タマ子の中で何より強烈だったから、その後の記憶がおぼろげなんだ。その子のことも、タマ子にとってはその程度だったってことさ。タマ子にとって思い出すに足らない記憶なんだ。」
「そんなことない!」ムキになったわたしは、つい立ち上がる。「命の恩人なのに!」
「そんなことあるさ、」迫川くんは開け放たれた窓に向かって、薄く開いた口から煙を吐く。「でなきゃ忘れないだろ。」
 でも……わたしはどうしても言い返したかった。
 あの小さな英雄は何者だったのか。あの小さな英雄はどこへ行ったのか。迫川くんの言う通り、わたしが今ここに生きているのは、当時のわたしがどうにか人影から逃げ切ったからなのだろうけど、でも、逃げ切ったことを裏付ける肝心の記憶は、鉈でばっさり切り落とされたみたいに抜け落ちて思い出せない。
 本当に逃げ切れたの? あの途方もない暗闇から? あのゾートロープを思わせる延々の景色から? もしそうだとしたら、今、あの小さな英雄はどこにいる?
「あの子は」そうつぶやくと、わたしの眼前を漂う紫煙がぐらりと揺れた。「あの子は迫川くんだったんじゃないの。」
 迫川くんは表情一つ変えず、まだ吸えるはずのタバコを窓の桟にぐりぐりと押し付けて、外に投げ捨てる。
「あのなあ、いつか話しただろう。俺は高校を卒業してすぐ、ここからうんと離れた街からこの街にやってきた。船を造りたい一心でな。結局、雑用しか割り振られなかったけど……。俺がこの街に来てから二年、早いもんだよ。俺がこの街について知ってンのはその二年間だけだ。」
「〝あの子〟の髪色とか瞳の色とか、迫川くんによう似とる気がするんよ。ただ顔立ちまでは――〝あの子〟もまだ子どもだったから、今はどんな風貌なのかまでは分からないけど、でも、今の迫川くんだったらって考えると、なぜかしっくりくるんよ。抜け落ちた記憶の穴に、ぴったり当てはまるようで――」
「タマ子と初めて会った時のことは、今でもはっきり覚えてる。お前は高校に入ったばかりで、身体が小さいくせに制服だけは一丁前に大きい、ちぐはぐなヤツだったよ。―俺が船に興味があるっていたら、嬉しそうにこの街のことを案内してくれてさ―それでも年月が経ったらサマになるもンだ。」
「迫川くん、本当に何も知らない?」
「タマ子は初めて出会った頃に比べて、ずいぶんと大きくなった。たった二年で見違えるほどだ。俺が知っているのはそれだけだ。」
 迫川くんは力なく笑って、首にかけていた油臭いタオルをわたしの顔にあてる。涙が出ていたなんで、自分では気づけなかった。



 この街からのフェリーの運航が完全に廃止される。
 そう発表されたのは今からつい数日前のことだった。その前には市営図書館が、そのもっと前にはショッピングセンターが立て続けに潰れた。今やそれらの建物は、真夜中の病棟みたいにぽつねんとして、空っぽの空間を閉じ込めただけの箱みたいになっている。ガソリンスタンドが使われなくなったのも同じ頃だろうか。誰もいないのに、天井に宙ぶらりんのままの給油ノズルは死体が吊るされているようで、なんだかおぞましかった。
 商店街に連なっていたすべての店にシャッターが閉まったのはずっとずっと前のこと。迫川くんに出会うより前だ。ゲートだけがあの時のまま置かれている。「放置されている」という言い方の方が正しいのかもしれない。かつて、わたしにとっての学区内という日常と、学区外という「夢」の間を結ぶ境界線。その象徴だった商店街ゲートもあの頃より字が擦れて、印字が「よ そ の街」となっている。
 わたしがこの世界に産まれてからたった十数年の間だけでも、この街はずいぶん変わってしまった。
〝彼ら〟は、この街が旅客港として栄えていた時代から今日までを、冷たい海にじっと浮かびながら見つめていた。〝彼ら〟は、この街からかつての〈栄光〉が跡形もなく消え去ってしまって、もはや棺桶の中の箱庭のようになり果ててようとも、この街とは纜で硬く縛られたまま逃げることもできず、街の死滅とともに滅びる運命にある。
「船は、この街と一緒に生きて、この街と一緒に死ぬ……これって〝運命共同体〟ってやつ?」
 はは、と乾いた笑いを浮かべるわたしに、迫川くんは真っすぐな声色で聞いた。
「タマ子はこの街から出ていかないのか。」
 それを聞いた瞬間、空気が止まったようだった。
「卒業後の進路はどうするんだ? 元よりこの街に大学も無ければいい勤め先も無いけど、〝生きた街〟で暮らす選択だってあるんだぞ。」
「わたしはここの街の人間じゃねんよ。隣町から塾に通ってきとんよ。」
 そう言いつつ、わたしの心を見透かしているらしい迫川くんの前で、自分を隠し通せなかった。
「……でも、できることなら、この街を最後まで見守りたい。」
 わたしの言葉に応えるかのように、フェリーの、ウウウウウと低いエンジン音が唸る。これから、地平線に浮かんで見える向こうの島へ向かう船。最後の運航。ゆっくりと進みだしたフェリーのエンジン音は、わたしたちから遠のいていってもなお、わたしの耳たぶをかすかに震わせた。
 ――あの頃のままだ。年月が経っても、時代が変わっても、フェリーは昔と同じ姿かたちを保っていた。わたしの心もまだあの夏の街に取り残されたまま、あの日の英雄を待っている。
 終わりが迫るこの街の運命に、そこで生きつづけたフェリーの鎮魂の為に、わたしは泣いた。迫川くんは、わたしの心情を知ってか知らずか、何も言わずわたしの手をそっと握った。弱り切った瀕死の小鳥を掌で包み込むようにやさしかった。わたしがそこに力を込めると、同じくらいの力でかえってくる。指と指を絡めて、舫う。熱い熱が互いの掌の間にこもる。
 迫川くんは変わらないでいてくれるだろうか。
 わたしは、そう迫川くんに聞きだしてみたかった。しかし、それを遮るように迫川くんが言った。
「もう行くぞ。帰りのバスが来る時間だろ。」
 わたしたちは手を繋いだまま、わたしの家路へ向かうバスの停留所まで歩く。ふたりとも、黙ったままだった。
 目当てのバスがターミナル内をゆっくりと旋回してから、わたしたちの目の前に停まった。ぴかぴかと眩しいのは車体だけで、運転手以外誰もいない車内には仄暗い影が膨らんでいる。
 わたしたちは互いの指をゆっくりとほどいた。
 感傷の情に満ちていたわたしは、ここで迫川くんにお別れを言ったら、本当に最後になる予感がしたから、―他の建物や思い出と一緒に、迫川くんも夜闇のような影に飲みこまれてしまうような気がしたから―サヨナラも言わず、迫川くんの方も見ず、影の中に足を踏み入れる。一番後ろの窓際の席にわたしが腰を下ろしたと同時に、バスはさっさと発車した。
 程なくして振り返れば、リアガラスの向こうで、こちらを見つめる迫川くんの影がぐんぐんと小さくなって、やがて見えなくなった。
 バスがひたすらにまっすぐ走る様は、得体のしれない何かから逃げるようだった。――まるで、すべてを飲みこむ黒い怪物がすぐそこまで迫っているかのように。
 それが、迫川くんと会った最後の夜になった。



 フェリーも乗り場もガラス張りの喫煙所も、初めから何も無かったかのように港から無くなった。
 あっという間のことだった。フェリーの最後の運航の翌日、急ぐように埠頭と突堤の間を埋め立てて、その上からレンガを敷き詰めて、それから、ただっ広い名前通りの「広場」が出来上がった。かろうじて喫煙所の中にあったベンチだけ、なぜか破棄されずにここに残った。座面と背もたれの樹脂素材の削れ具合が、わたしの知っているものとおんなじだったからすぐに分かった。
 かつて栄えていた旅客港の跡地と、確かに彼と最後の出港を見送った場所と同じ地点にベンチは居残り、今もこうしてわたしが座っている。目の前には船の無い分ずいぶんと見晴らしの良くなった海。振り返ればそこに、かつてわたしが夢見た街。迫川くんのいた街。ショッピングセンターも市営図書館もガソリンスタンドも、とっくの前に取り壊し終えた街。わたしたちの思い出が崩されて、埋められて、飲みこまれて、わたしたちの知らない街になりゆく最中。ここには何もない。そこにわたしは取り残された。迫川くんもわたしを置いて死んじゃった。 
 空を見上げると、ぴんと張った黒い布を、裁縫針でつぷつぷと突き刺したような数多の穴があり、そこから光が漏れていた。迫川くんはその先にいるような気がした。
 その気持ちに呼応するように、真っ黒い海面から廃船になったはずのフェリー達が姿を現す。ざっぱんと音を立てながら、白銀色の飛沫を豪快にあげて、天を目指して昇っていく。
 〝彼ら〟の行き着く先にきっと迫川くんはいるのだろう。穴のうちのどれかにひとつ、天に昇った迫川くんがこちらを覗いていないか目を凝らす。迫川くんのいない穴には、代わりに思い出せるだけの彼のすべてを、思い出せるだけのこの街のすべてで埋めた。
 それと同時に、わたしの背後で、あの夏に見た人影のごとく直黒の淀みが渦を巻きながらわたしの足元に及んでいようとも知ったことではなかった。なぜならわたしは見つけたから。ちょうど頭のてっぺんに浮かぶ、燦然たる白い光。それは眼前に迫る程の光線を放ち、その奥に見覚えのあるちいさな人型がいる。
 あの日の英雄。名前の知らない英雄。あの日と同じように、わたしの方に駆けてくる。わたしを助けにやってくる。
 ねえ、迫川くん。わたしはどうしても、あの子のかんばせが、あなたのものとそっくり同じに見えるのだ。あの日の少年の正体は、とうとう分からなくなってしまったけれど、わたしはそうであってほしいのだ。
 一枚隔てた向こう側から、このどうしようもない悲しみと直黒に満ち満ちたこの地獄にいるわたしを、たった今この瞬間、あなたがきっと、すくい上げてくれると信じている。

空葬

執筆の狙い

作者 柏谷
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はじめまして、柏谷と申します。
生まれ故郷を舞台に、喪失と記憶をめぐる小説を書きました。
登場人物の心情や背景描写に深みをもたせたいのですが、どのように掘り下げればよいか迷っています。
読後の印象や感情の流れなど、率直なご意見をお聞かせいただけますと幸いです。

コメント

匿名希望者
nat-ftth1.kkm.ne.jp

ざっとですが、拝読しました。
率直に言わせてもらうと、5W1Hの描写に難があり脳裏にイメージを浮かべることができませんでした。

まずは冒頭について、ここはうまく書かれているように感じました。映像がイメージできました。
ただ、一人称の一元視点ではなく、上空から見た神視点であるようにも感じました。それであって、視点は手前(教室内)にあるように思います。詳しく解説すると、
音の進み具合は、造船所→学校「届く」:差し出したものが向こうに着く。起点は造船所にある。
防音壁の向こう&こぼれて”くる”→視点者は手前。

冒頭の形式2段落目は夕方近くであることは分かりますが、1段落目は記載がないので、昼間であるように思えます。
また、「不規則な間隔で空を渡り、やがて終業のチャイムが鳴る頃」は、素直に受け止めると、造船所の金属音が造船所の終業の
チャイムに変わったと思えました。
問題は、視点人物である主人公が、そのシーンにおいて、実際に体験して得られた情報であるかどうか? 「迫川(はざかわ)くんがぺちゃんこに潰れた音だった。」は、神視点であればリアルタイムに書ける情報ですが、一人称なら主人公が後で聞いた情報なので、ここで書かず、後の段落で塾長の台詞として書けばよいのではと思います。

会話がある場合、そこには、基本的に空間と時間の流れが存在するシーンがあります。
「造船所で働きょん? わたしの三コ上なのにすごいね。」
「高校を卒業してすぐこの街にやってきたんだ。~~
と、通常は台詞の間にそんなに時間はありません。説明は時間を止めますが、それでも多いとテンポが悪く、前に何を話したか読者は忘れます。このシーンでも5W1Hのいくつかが不足してます。「冷たい夜」は演じられている舞台を読者にイメージさせるには、提示が遅いと思います。

>>小学校の前を通り過ぎて、~~書かれた年代物のゲートが見えてくる。
これも、視覚的描写としては疑わしいです。道案内でもこのような話し方をするのではないでしょうか。なぜ「~~た。」としなかったのでしょうか? (時間の記載がない)
なお、個人的な定義ですが、そのシーンで、リアルタイムに主人公が得られる情報(視覚、聴覚、触覚、味覚、臭覚)及び心理描写以外の情報はすべて説明だと私は解釈しています。

そうですね。この作品は「時間」の概念が不足しているように思います。詳しく読んでいない個人的な感想なので、あくまでも参考程度で。

頑張ってください。

柏谷
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匿名希望者さま

丁寧に読んでいただき、また詳細なコメントまでいただき本当にありがとうございます。

コメントを拝読して、視点や時間の扱いなど、
作品の伝わり方に直結する大切な学びを得ることができました。

特に、時間の概念や情報が不足している点についてご指摘いただき感謝いたします。
この小説は、現代⇒過去⇒現代と、時間軸を大きく行き来させたい作品なので、
時間の描写に難があるのは致命的な欠陥です‥。そこに言及いただけたことは本当にありがたく思います。

ご指摘を踏まえて、視点を統一し、時間や空間の流れを意識した描写に修正していく所存です。
貴重なご意見をいただき、重ねて感謝申し上げます。

水野
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読みました。舞台が舞台、扱われている内容が内容なだけに、刺さる人には非常に刺さる作品になっていると思います。あの時誰が主人公の手を取ってくれたのか、謎が謎のまま、迫川くんの死という事実を突きつけられたことで一生解決のしない問題となり、主人公はこの記憶を生涯抱えて生きていくのだという現実感もあって読みごたえがありました。

自分が港町まで自転車で行き、そこで危険な目に会った記憶を主人公は「小学三年生の頃だったか」という言葉で始めています。「だった」と断定されていればさほど気になる箇所ではないのですが、「だったか」とぼかしているのが気になります。
これほど強烈な記憶であれば、それがいつ起こったものなのか、はっきりと憶えていてしかるべきです。けれども主人公は、それがいつ起こったのか定かではない様子。
もしこの記憶が主人公にとってそこまで重要でないものであれば、あの時自分を救ってくれた少年が誰だったのかを気にすることもないでしょう。ましてや、その少年が迫川くんだったのではないかと彼自身に問い詰める主人公が涙を流すこともありえません。
となるとその時の記憶は主人公にとって大切なものにあたるのですが、それがなぜ「小学三年生の頃だったか」とまるで大したことでもないかのように語られ始めるのか。この辺りがちょっともやもやしました。

他の方の感想で「時間」の話が出ていましたが、今回の話をもっと尖らせようとした場合、時間の概念はもっと歪んでくるのではないかと思います。
大切な人の訃報を聞いて、その人に関する記憶を思い出さざるを得ないとき、それはきっと断片的で、時系列もばらばらな状態で脳裏に浮かんでくるのだと思います。そうした主人公の心理を忠実に表そうとすれば、自然と時間軸は通常のものではなくなります。
ただ、そんなばらばらの状態のものを正直に語ろうとしても、それは小説にはなりにくいです。現に御作では、迫川くんと謎の少年に関して、読者によくわかるように整理された状態で語られています。
もっとわかりやすくしようとすれば、迫川くんが亡くなる前の出来事(謎の少年の話もここに加わる)→訃報を聞く→迫川くんが亡くなった後の話、という風に、より時系列に沿った形で書く方法もあったように思えますが、これだともう少し文量が必要になってきそうです。
そうでなければ、時間軸をもっと意図的にぐちゃぐちゃにした実験的な作品に仕立て上げるのもありだったのかなと。

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