動物嫌いの動物たち
お姉ちゃんが子供を産んだ。産まれたよ、と義兄がくれたメッセージには、赤ちゃんを胸に抱くお姉ちゃんの写真が添えられていた。
お姉ちゃんは壊れかけていた。髪は汗で額に貼り付き、頬は血を抜かれたように白かった。笑っているけれど、目には疲れが透けて見える。お姉ちゃんは体が開く痛みに耐えたのだ。
そうしない選択は当然できて、いくつもの分岐を過ぎた上で子供を産んだというのに、産まれた、という言い方を義兄はする。妊娠が判明したときもそうだった。子供ができた、と言うのに、子供をつくった、とは誰も表現しなかった。まるで静かに待っていたら順番が来たとでも言うように、どんなことをしてそうなったのかという説明だけを省いたように聞こえた。過程は誰にも見せられないのに、結果だけは嬉々として話せる気持ちが、よく分からない。
私はお姉ちゃんの見たくない部分を見た気がして、スマートフォンの輝度を少し下げた。あーあ、と小さな声がして、顔を上げる。
「また負けた」
ローテーブルの向かいで、芽吹は四角いクッションをお腹の前に抱いていた。背中を深く傾けるから、座椅子の軋む音がする。
「負けたって、何に」
「スマホ。沙季って昔からたまに違う世界に行くから」
私は慌てて写真を閉じた。スマホを見ている間、私は幼馴染の関係に甘えて、芽吹のことを放置していた。彼女はあまりスマホを見ない。ひとりで過ごすときもそうらしく、動画や音楽といった流行に疎いが、そのことを気にも留めていないようなところがある。
ごめん、と謝りながらスマホを下ろす。芽吹は静かに首を振った。
「別に見ていてくれていいのに」
「見てほしくないんじゃないの」
「ううん。ただ、夢中だなあって。私、沙季にこうあってほしいとか思わないようにしてるから」
芽吹はローテーブルに手を伸ばす。広げて破った袋からクッキーをつまんで口に運ぶ。ココアの生地にチョコチップを混ぜたこのクッキーは、子供の頃から芽吹の大好物だ。口を動かしながら、彼女は部屋の入り口を振り返る。
「リリ。おいで」
今日は姿を見ないと思っていたら、リリは開いた戸の向こうからやってきた。挨拶みたいに、にゃあと鳴く。白い毛並みは今日もきれいで、つま先立ちによく似た猫特有の歩き方が様になる。
リリが芽吹の家に来たのは、私たちが中学二年の頃だった。最初は手のひらが余るほど体が小さく、ふとした拍子に傷つけそうで触れることさえ怖かった。リリが私の腕からすり抜けるたび、何か痛い思いをさせただろうかと、いつもおろおろしていたことが懐かしい。
私と芽吹は違う高校に入学した。当然、顔を合わせる機会は減った。会っても、買い物をしたり映画を観たりする日が多く、部屋にお邪魔させてもらったことは、三年間で一度あったかどうかだと思う。リリが私を忘れていても仕方がない。薄い寂しさを縁取るように、私は仔猫の姿で止まったリリの記憶を飴玉みたいに転がしていた。
幼い頃からいつも隣同士で、得意なことも苦手なことも互いについては知り尽くす私と芽吹も、このまま疎遠になるのだろうと考えていた。だけど、違った。私たちが同じ大学に受かったことを知ったのは、高校を卒業してすぐのことだった。受験の決め手は、ふたりとも家から自転車で通える距離だったから。聞いた瞬間、笑ってしまった。私たちはそのまま喫茶店を後にし、芽吹の家に向かった。私とリリが再会した春だった。
「リリ、沙季が来ていいだって」
芽吹が私を指さした。言葉の意味が取れるはずはないのに、リリは組んだ足の上にやってきた。お腹の下の平らな部分に、軽い体重が乗る。私はベッドの縁に背を預け、リリの体に手を回す。
「来ていいなんて言ってないけど」
「じゃあ何? その手」
芽吹は可笑しそうに目を細めた。肩に乗った毛先が揺れる。
「沙季って、ほんとリリのこと好きなんだから」
「好きというか。高校の間も覚えてくれてたら誰だって」
今でも再会した日のことを思い出す。数年ぶりに会ったリリは、私が玄関に上がるや否や体を擦りつけてきた。私を見上げる瞳は、仔猫の頃から何も変わっていなかった。
リリは私のお腹に頭を預けた。
「リリって名前にしたのは芽吹だっけ」
「あれ、言ってなかった?」
「ううん、多分聞いた。でも、理由までは。今さらだけど、リリって男の子でしょう」
初めて性別を聞いたとき、意外だな、と思った。そう思うこと自体が芽吹のセンスを疑うようで、当時は理由を聞けかなかった。二十歳になった今振り返ると、一体何を過敏になっていたのだろうとも思う。
「リリはね、鈴が好きだったの」
このくらい大きいの、と彼女は親指と中指で円を作る。
「ペットショップの子たちって、生まれてすぐにお母さんと離ればなれにされるでしょ? リリはずっと鈴とふたりきりだったから」
全部食べちゃおっか、と芽吹はクッキーの袋を開いていく。包み焼きのホイルを広げるみたいに、切れ目が伸びていく。
「ふたりって、鈴を人みたいに」
「ううん。大袈裟じゃない」
芽吹はいつになく強い目をして言い切った。
私はリリが鈴で遊ぶところを見たことがない。それは、芽吹に対するリリの返事と言えるのかもしれない。
「リリは幸せだろうね」
芽吹と私の視線が一本の線に乗る。彼女は先ほど固くなった部分をほぐすみたいに、ひとつ瞬きをした。
「それはリリに訊いてみないと」
芽吹は抱いていたクッションを隣に置いた。小さな風が起こって、リリが振り向く。芽吹はリリが人の食べ物に手を出さないと知っているから、クッキーを隠したりはしない。
そういえば、と芽吹は転調したみたいに声を弾ませて言う。
「さっきは何見てたの?」
「別に、大したことでも」
クッキーをひとつ貰う。
「お姉ちゃんの子供が産まれたってだけ」
「え、嘘! 美紀ちゃんの子供?」
久しくその呼び方を聞いていなかった。芽吹は続けてほしそうに私を見てくる。
「ほんとにさっき産まれたって」
「男の子? 女の子?」
「そこまではまだ」
スマホを手に取り、義兄から来たメッセージを読み返す。続報はない。きっと、義兄も余裕がないのだろう。
「ええ、そっか。美紀ちゃんがついに。無事終わったの?」
「多分。何も書いてないから」
写真を開く。芽吹ならお姉ちゃんも許してくれるだろうと思い、私はスマホを翻した。わ、と彼女の声が丸くなった。
「かわいい。女の子かな。ちょっと美紀ちゃんに似てるような」
ほら、と言われても私にはよくわからない。一応、相槌は打っておく。けれど、かわいいという言葉をあてがうには、あまりに動物的で生々しかった。こんな大きなものを捻り出したと思うと、ぞっとする。
お姉ちゃんは昔から勉強がよくできた。おまけに字を書くことがとても上手で、中高の放課後を書道部の活動に捧げていた。家には賞状やトロフィーを飾るためだけの棚がある。当時の私は、お姉ちゃんの制服がカーテンレールに吊られているところを見るのが好きだった。もはや妬みすら遠く、とはいえ投げやりになるのでもなく、私は清く知性に富んだ姉を眩しさに似た気持ちで仰いでいた。
お姉ちゃんは東京の大学を卒業し、大手食品会社に入社した。学生時代からの恋人だった義兄と結ばれたのは、二年前のことになる。
仕方がない。けれど、悲しみは一向に薄くならない。お姉ちゃんが義兄に貫かれたことも、滑稽な動きで摩擦されたことも、全部嘘であってほしい。
リリが甘えたような声で鳴く。この子は男の子だが、手術をしているからオスになる日は来ない。仔猫の純度を保つリリが、私は好きだ。
背もたれ代わりにしている芽吹のベッドは柔らかく、幼馴染の落ち着く匂いがした。
商品名の書かれた箱を台車に積み込み、薄暗い倉庫を後にする。店の蛍光灯は、夜になると白さが増して見える。私は午後八時を過ぎたばかりの、風や波とは無縁の空気が気に入っている。
夏休みの間は、ドラッグストアのバイトを増やすことにした。一人暮らしの子たちより金銭面にゆとりはあるが、すぐに底をつく額であることには違いない。秋には、良賢と旅行に行く。何より、夜は家にいてもすることがない。
食品売り場で湯せんのパスタソースやレトルトカレーを補充する。値札のバーコードに端末をかざして、数量を入れたときだった。
「長沼さん、レジお願い」
通路の向こうから店長の声が飛んでくる。私は手元の作業を打ち切った。
夜のドラッグストアには小さくない需要がある。パンやお菓子を買うのに安いコンビニとして使う人。薬やオムツが、急遽必要になった人。
それから、夜に使うものを買いに来る人。
「お待たせしました」
レジに入り、男女の客と向かい合う。私よりいくらか年上だ。ワイシャツ姿の男性と、パンツスーツが似合う女性の肩は近い。
首から提げた名札をレジに読ませ、私はカゴを受け取った。男性が三つ折りの紙を取り出した。
「あの、これもお願いします」
処方箋だった。これは薬剤師の那賀さんに頼まないといけない。那賀さんは右奥の棚の前で、クリップボードとにらめっこしている。呼びかけるには少し遠い。声をかけに行こうとしたとき、那賀さんは察したように振り向いた。
那賀さんが棚からそれを取り出す間に、私はカゴの中のお菓子やジュースをレジにかざす。カモフラージュのようだと、いつも思う。処方箋を見せるだけでは気恥ずかしいから、普通の買い物のふりをする。恥ずかしいなら、最初からしないという手もあるのではないか。
案の定、那賀さんが持ってきたのは避妊具だった。私は紙袋を那賀さんに手渡した。
避妊具を買うには、医師の処方箋がいる。双方が性に関する病気を有していなことや、混合ワクチンを接種していることが、必須条件となる。ただし、結婚している夫婦に限って、その証明書を見せることで、処方箋がなくても買うことができる。
性行為は夫婦のためのものだ。病院に出向くハードルの高さもあって、未婚のうちに経験する人は二割に満たない。学生となると、割合はさらに減る。当然、私のまわりで経験している子はひとりもいない。
私は身近な友人のことを、した人として見たくない。もちろん私も、そう見られるのは嫌だ。きっと、誰だってそうに違いない。
お金を受け取り、商品を手渡す。なるべく顔は見ないようにした。いかにも優秀そうなふたりも、することはする。そのことに軽くショックを受けてしまう。
「あの、那賀さん」
客が店を出ていったあと、私は那賀さんを見上げて訊いた。
「今さらですけど、紙袋ってどう思いますか」
「どう、っていうのは?」
「その、逆に目立つような気がして。私は人に見せたくないものを持ってますって」
「ああ、それは確かに」
三十代の那賀さんは、いつも私の声を真剣に聞いてくれる。句読点にも耳を傾けてくれる。年齢差のある男性というより、兄という感覚に近い。見下ろされても圧力を感じないのは、那賀さんが人を下に見ないからだと思う。
「長沼さんは紙袋反対派?」
「反対とまでは。でも、私はマイバッグに入れるようにしてます」
中学や高校のとき、私は必ず生理用品を制服のポケットに忍ばせていた。ポーチを持って教室を出るのは、いかにもそう宣言しているようで嫌だった。
体のリズムそのものを恥ずかしいとは思わない。義務教育で習うことだし、女子はみんな静かに対処している。私はただ、そういう機能を私個人と絡めてほしくない。他の子に同じ機能があることからも目を逸らしていたい。
「難しいね。見る側がどう受け取るかだけど、そこはこっちで制御できる問題じゃないから」
那賀さんは腕を組む。薬指にはめた指輪が、照明を受けて白く輝く。
「紙袋だけにできたらいいんだろうけど」
次の客が薬の箱を持って近づいてくる。単に買うためだけに来たというより、何か訊きたいことがあるように見える。ここは専門の那賀さんに任せて、私は商品の補充に戻ることにした。
午後九時に営業が終わり、その二十分後に店を出た。通用口で那賀さんと別れ、私は暗い自転車置き場に足を向けた。
リュックサックは前かごに乗せ、手の感覚だけで鍵を差す。足で蹴ってスタンドを跳ね上げ、その場で小さく転回すると、私は重いペダルを踏み込んだ。それからすぐに、夜を一時停止するみたいにスマホが鳴った。
無視しようとした。だけど、できなかった。着信音は一向に止まず、夜の静けさが私を中心として破れていく。ようやく速度に乗ったというのに、ブレーキをかけざるを得なかった。
地面に靴底を着地させ、スマホを取り出す。相手は良賢だった。
「もしもし」
「あ、沙季。俺俺」
「下手な詐欺じゃないんだから」
彼の声は軽く、深刻な話題の予感もしなかったから、私は少し遊びを加えた。笑い声が返ってくる。
「そういうの、沙季は引っ掛かりそうにないよな」
「まあ、お金の貸し借りはしないって決めてるし」
「俺でも?」
「当たり前」
そのとき、電話の向こうに誰かの気配を感じた。止まることのない話し声は、勢いの割に遠い。テレビの音声だと気づくまでに、そう時間は要さなかった。
「で、本題は?」
「そうそう。沙季、もうバイト終わったんだよな」
「ちょうど今から帰るところ」
「ってことは、まだ店にいると」
スマホを耳に添えたまま、私は薄暗い足元を見下ろした。前輪が駐車枠を斜め方向に横切っている。広い駐車場の真ん中、それも閉店したあとでなければ怒られるような位置で、私はひとり佇んでいる。
「正確には駐車場だけど」
「それはどっちでも。まあ、ちょうどよかった。帰る前にうち来ない?」
「今から?」
もう九時半を過ぎている。いくら今が夏休みで、私の家から大学までは自転車通学できる距離で、彼がキャンパスの近くのアパートで一人暮らしをしているからといって、お邪魔するには夜が深い。
「どうしてまた」
「ちょっとごはん作りすぎた」
「ごはん?」
素っ頓狂な声が出た。続けて訊く。
「なに作ったの」
「カレー。夏野菜入れてさ。絶対うまいだろうなって。てか、実際うまかった。でも、これがまあ減らない減らない」
容易に絵が想像できて、笑ってしまう。
「ただ、沙季の家もごはん用意してるだろうし、来るかどうかは」
「いいよ。行く」
遮るように答えていた。冷静に考えてみると、明日は早起きする予定もなく、多少帰るのが遅くなっても支障はない。家にある夕飯は、お昼に回せばいい。
「お、さんきゅ。じゃあ待ってる」
気を付けて、と彼は付け足すのを忘れない。わかってる、と返しながら、通話を終える。
隣の県出身の良賢は、入学当初から一人暮らしをしている。それなりに自炊していると言っていた。そんな彼が本当にカレーの分量を誤るだろうか。あえて指摘せずに通り過ぎたが、してみても良かったかもしれない。
くすぐったいような気持ちで、私は自転車を走らせた。
チャイムを鳴らすと、彼はすぐに出てきてくれた。半袖半パンの部屋着姿は、緩く力が抜けているのに、こだわりを感じる。外で会うときよりも、許されている気がした。
玄関に入ると、私は小さく声を上げた。廊下を兼ねたキッチンはカレーの匂いに満たされていた。
「進んで進んで。蚊が入る」
靴を脱いで廊下に上がる。狭い玄関で私を先に行かせた彼は、金属製の扉を最後まで閉めると、鍵をかけた。用心深いなと、いつも思う。
コンロの前に進んで、ホーロー製の白いお鍋を覗き込む。大きく切ったカボチャや人参、ほうれん草が目に止まる。沈めたお玉の近くに顔を出しているのは、トマトだろうか。
「こっちは、もしかしてナス?」
「そう。で、こっちがオクラ」
良賢はカレーを混ぜながら具を見せてくれる。
シンクには水を張ったお皿が置いてあった。すでに一食分を食べたあとでも、お鍋にはそうと思えない量が残されている。あと数日は苦労するに違いない。
「沙季は普通? 大盛り?」
「んー、ちょっと大盛り」
了解、と彼はコンロに火をつけた。慣れた様子で中火に落とすと、お玉でカレーを混ぜていく。燃え始めのガスの臭いが遅れて届き、鼻の奥がつんとする。
私は良賢の肩に身を寄せた。ふたり並んでお鍋を見下ろす。量が多いからか、まだ湯気は立ちそうにない。言葉を交わさず、ただ渦の中心を眺めていると、お玉を支える彼の指がだんだん愛おしく見えてくる。
私の手とは何もかも違う。骨の位置や本数は等しいのに、良賢の指は骨格を感じさせる。手の甲や手首の尖った部分がはっきりしている。見ているうちに、撫でてみたくなる。
「そっちでゆっくりしといて。持ってくから」
「別に気遣ってくれなくても」
「いいから、いいから。こういうのは素直に受け取れって」
ほら、と良賢は部屋に続く引き戸を開けて、お玉を置く。目が合った。何をされるのだろうと構えていると、左右の肩を掴まれた。いとも容易く体の向きを変えられる。平均よりも背が高く、高校まで剣道をしていた彼にそうされると、私はされるがままになるしかない。私はお手玉みたいに部屋へ移動させられた。
立っているのも変で、ローテーブルのそばに腰を下ろす。相変わらず、片付いた部屋だった。寝かせて置いたカラーボックスには講義の資料が詰められ、漫画や小説はブックスタンドで仕切られている。衣服はクローゼットに収納されて、焦げ茶で統一された家具やカーテンの邪魔をしない。唯一、趣味が表れているのはテレビ台だ。ガラスの戸の内側に、バイクや車、飛行機のリアルな模型が並んでいる。速く走る乗り物が好きだと、いつか彼が話していたのを思い出す。
「今日も半日働いたんだよな」
訊かれて、私はキッチンに立つ良賢を振り返った。
「半日って言っても、四時からだよ」
十分長い、と彼は苦笑した。言われてみれば、短くはない。
「でも、良賢だってバイトの日は。居酒屋なんて忙しそうだし」
「俺のは短期集中だから。ピーク超えれば、あとはどうにでもなるというか」
それはそうかと思いつつ、平均すれば彼の方が忙しいのだろうと察しもする。私と彼では体力が違う。
「とにかく、今日はお疲れ」
立ってカレーを混ぜる彼と、座って待つ私。頭より高い位置から言葉を落としてもらえる感覚が心地よかった。触れられたわけでもないのに、胸が鳴る。私は温められたような気持ちで、瞬きをした。
「どうしたの。なんか優しい」
あのなあ、と彼は呆れたような目をしてみせた。
「俺はいつも」
「いつも優しいから、カレー作ってくれたの?」
少しの間が空く。彼は露骨に私を見ようとしない。
「それを言うのは野暮じゃないか?」
高さの違う笑い声が重なった。
ふと、一年の前期に受けた選択科目を思い出す。人文学をベースに、いろんな分野の美味しい部位だけ食べ歩くような講義だった。敷居の低さと、見せてくれる世界の深さに魅了され、毎週火曜三限が待ち遠しかった。
最終回にフィールドワークをした。そのとき、同じ班になった目立つ男子が良賢だった。晴れ空みたいな人だと思った。物腰は低く、距離の埋め方が上手で、人から言葉を引き出すことに長けていた。話した瞬間、彼は人に好かれる人だということを理解した。
数日後に再会した。雨の降る日の図書館だった。フィールドワークの課題に取り組んでいたところ、視界の端で、誰かの指が机にとんと触れた。顔を上げると、彼がいた。
「まあまあ勇気要ったんだからな」
これはあとから教えてくれた話になる。フィールドワークで興味のままに動く私と、もっと話してみたくなったという。今振り返ると、このとき声をかけてくれて本当によかった。
それから、私たちは時間をかけて仲良くなった。小さな果実が育つように、だんだん彼のことで嬉しくなったり、苦しくなったりする日が増えていった。私も緊張しながら、彼を食事に誘ってみたりした。きっと、秘めた思いは隠し通せていなかった。私は毎日名前の知らない花と出会う気持ちで、彼のことを考えていた。とうとう破裂しそうになった頃、彼の方から思いを伝えてくれた。その冬、最後の雪が積もった夜のことだった。
恋人同士になって半年が経つ。もう手は繋いだ。ハグもした。キスはもう少しというところまでいったが、まだしていない。どんな心地になるのか気にはなる。同時に少し怖くもあった。
私は彼の部屋に呼ばれるだけで満たされている。
「そんなに熱くなくていいよな」
鍋から湯気が立っていた。うん、と頷いてみせると、彼はコンロの火を止めた。
そのときだった。
「まずは、こちらのニュースです」
お笑い番組はすでに終わり、気づけば夜のニュースが始まっていた。テレビ台に置いたアナログ時計は、ちょうど二十二時を指している。
「今日、避妊具の規制緩和について話し合う政府の専門家会議は、具体的な実証実験を含め、ガイドラインの素案を策定しました。性の乱れが懸念される中、政府はなぜこのタイミングで大きく舵を切るのか。当事者である若者たちは、この方針に何を思うのか。街で取材してみました」
声は女性のアナウンサーからナレーションに切り替わる。経済について話すのと同じ口調でニュースが読み上げられていく。リモコンはどこにあったか。首を巡らせ、ローテーブルの下にそれを見つけた私は、蓋をするみたいにチャンネルを変えた。
お待たせ、と彼がお皿を持ってきてくれる。
「そんなにお腹減ってた?」
からかうような視線が私とテレビを行き来する。画面を見やると、半熟卵でとじたカツ丼が大写しになっていた。チャンネルを変えた先がグルメ番組だったことに今気づく。
「それとこれは」
「はいはい。そういうことにしといてやるから」
「ちょっと」
言い返すための言葉を用意していると、お腹が鳴った。慌てておへそに手を当てるも遅かった。良賢は目を丸くする。無言の時間が長引くにつれて、耳の先が熱くなる。彼は噴き出す手前で堪えているようだった。
「笑うならちゃんと笑って」
「それは沙季に失礼だろ」
間違いなく彼は微塵も失礼だとは考えていない。馬鹿にしないことで、かえって私が恥ずかしくなることを、彼は知っている。本当に意地悪だ。
良賢は私の前にお皿を置く。ルーに浮かぶ夏の野菜は湯に通した直後みたいに鮮やかだった。何に対してなのかわからないが、とにかく負けたという気がした。
おかわりしてやるしかないと思いながら、いただきます、と私は手を合わせた。
嬉しいけれど申し訳なく、私はせめてものお礼にと、洗いものを任せてもらうことにした。
スポンジを濡らす私の横で、良賢は鍋にラップを張る。私が二杯食べても、カレーはあまり減ったように見えない。鍋の容量に対して作りすぎたというより、そもそもの鍋が大きいのだ。
「それ、冷やすの?」
「常温はさすがにまずいだろ? 夏だし」
「そうだけど、厳しくない?」
一人用の冷蔵庫は見た目以上に中が狭い。以前見せてもらった際は、葉物野菜がかなりの場所を取っていた。
「まあまあ、見てろって。こういうのはコツがあってな」
彼は冷蔵庫を開け、中を軽く整理した。空いた場所に鍋をあてはめ、食材をつぶさないよう押し入れていく。まるでパズルみたいだ。扉が閉まった瞬間、私は素直に感心した。
「な? 意外といけるだろ?」
私はスポンジを手にしたまま頷いた。
彼には彼の暮らしがあり、それは私から見えない場所にまで広がっている。こうして家に呼んでもらえた日だけ、私は彼の生活に触れられる。今はそれだけで幸せだ。だけど、いつか彼の日常に入りたい。もっと近くで見ていたい。夜になっても、家に帰らなくてよくなる日が来ればいい。
スポンジを手のひらで揉むと、透明だった洗剤が白く泡立つ。細かく増えた気泡で食器を擦ると、カレーの油分が落ちていく。
「沙季」
なに、とひらがなの発音で返した瞬間、心臓が跳ねた。私は後ろから抱きしめられた。
彼はいつも肩や胸ではなく、私のお腹に腕を回す。そうして、無防備で柔らかい場所を捕まえられると、呼吸するほかに何もできなくなる。優しい圧力に包まれ、溶けてしまいそうな心地の中で、私は止まってしまったスポンジを見下ろしていた。
「私、今日はお腹出てるよね」
「そうか?」
「だって、二杯も食べたし」
彼は私が自由にならない程度に腕をほどくと、手のひらをお腹に添えた。円を描くように撫でる途中、服の上からおへその位置を探りもする。そういうところが、かわいらしい。嫌ではないし、指摘もしない。もし、私が彼を抱きしめる側なら、きっと同じようにしていたと思う。
「全然出てないけどな」
「ほんとに?」
「こんなとこで嘘ついても仕方ないだろ」
「それは、ちょっと嘘ついてほしい気もするけど」
私は彼に抱かれたまま、だんだん余裕を取り戻してきた。お皿とスプーンを洗い終え、水を出そうとスポンジを置く。私はすっかり油断していた。
ひゃっ、と変な声が出た。振り向かずとも、良賢が何をしているのかわかる。彼は私の首の後ろに顔をうずめていた。彼の鼻先が私のうなじに触れる。
「ちょっと。良賢、待って」
「どうかした?」
「どうかした、じゃなくて。そんなところ、汗のにおいとか」
今日は品出しのためによく動き回った。そのうえ、私は香りの弱いシャンプーを使っているから誤魔化すのも難しい。
「別にしないけどな。いつもどおり、沙季のにおい」
顔が熱くなる。
彼も私も、きっと夜のせいで変になっている。
私はこの圧倒的に不利な状況から逃れるために、手元のお皿洗いに集中することにした。
シンクに散った水滴を拭き終え、部屋に戻ると、もう十一時近くになっていた。バイト帰りということもあり、少し眠い。私も彼も夜は早く寝る日が多く、ふたりにとって午後十一時は立派な深夜だ。
「家まで送るよ。もうこんな時間だし」
いいの、と心が弾みかけたけれど、冷静になる。
「でも、良賢の帰りが」
「大丈夫。俺も自転車押してくから」
彼は床に置いていた私のリュックを持ち上げ、手渡してくれる。名残惜しさはあまり見えない。その瞬間、さっきの彼が私を抱きしめた理由を理解した。
私たちは学生だ。自分を外から顧みる習慣は制服を着ていた時代よりも様になってきたが、まだ大人の要件をすべて満たしたわけではない。実家に住む私の立場を踏まえて考えるなら、帰りが遅くなりすぎないよう気を配る彼は正しい。彼が私に触れたのは、帰り際に寂しさを連れてこないためだったのかもしれない。
私はリュックの肩紐に腕を通した。ひとつに結んだ髪が、背中とリュックの間に入り、すくい上げるようにして外に出す。帰る支度はできた。私はテレビを消す良賢に近づいた。
「ありがと。呼んでくれて嬉しかった」
私は彼の胸に飛びついた。脇の下に腕を通して、背中を強く引き寄せる。私は頑丈そうな彼の首に頬を擦りつけてみた。
「沙季って、意外と甘えたがりだよな」
だって、と私は顔を伏せる。
「さっきは一方通行だったし」
彼は明るく笑って、私の頭を撫でてくれた。往復する手のひらが心地よくて、膝の力が抜けそうになる。自分でそうしてもただ触れている感覚が残るだけなのに、良賢の指は私の神経を尖らせていく。
このままでは溶けてしまう。熱くなった体温を交換しながら、彼に腰を寄せて、いっそう強くしがみつく。そのとき、おへその近くに硬いものが触れた。
今日の彼は部屋着姿で、生地は上も下も寝巻のように薄い。私も人並みの知識は備えているから、彼に何が起きているのかすぐに察した。彼もきっと、私が察したことに気づいたと思う。
気持ち悪いとは思わない。大学生にとって、それは遠い世界の行為だから、現実感がないと言う方が正確だ。秘めた欲が布から飛び出してこないとわかっているから、安心して抱きつくことができる。
私は入り組んだ場所が水気を帯びてきたのを感じながら、彼の機能を洋服越しに受け止めていた。反応していることが相手に伝わるという点で、男子は大変だと思う。
この日、私は眠る前に我慢できなくなって、誰にも見せられない姿で、奥まった場所を摩擦した。
改札を抜けると、庇の向こうに白い夏が広がっていた。八月後半の朝十時。制服姿の子たちが私を追い越していく。日傘を取り出し、私も小さな駅舎の外に出た。
駅を覆い隠すように立つ、立派な楠の足元で真梨は私を待っていた。
「ああ、沙季おはよ」
「おはよう。待った?」
「全然。三分くらい。や、二分かな」
蒸した風が真梨の長い髪を揺らす。派手に見えないように染めたという焦げ茶の髪は、ちらちらと動く木漏れ日を受け、明るい色が浮いたり隠れたりする。
タイトな黒のジーンズ。少し遊びを持たせた白のトップス。夏らしい格好をした真梨は、なぜか手にした日傘を差そうとしない。
「暑くないの?」
「暑くないわけないでしょ」
真梨は私の言いたいことに気づいたようで、ふたりの視線が細く巻いた日傘に集まった。
「沙季なら訊いたことあるんじゃない?」
彼女は日差しに目を細めながら、楠を見上げた。
「木陰の方が、普通の影より涼しいって話」
「それはまあ、話くらいなら」
体感温度に限った話か、実気温そのものが変化するのか思い出せないが、本で読んだことがある。それを自ら確かめようという気になるのが、理系の真梨らしい。
「で、涼しかったの?」
「まさか。夏に太刀打ちできると思った私が馬鹿だった」
彼女は空に向かって日傘をひらいた。入道雲みたいに、青みがかった白がきれいな傘だった。異なる種類の生地が貼り合わされているのか、中は重いグレーで少し地味だ。
「やっぱ熱には素材だよ、素材。見て、この遮光率」
買ったばかりの傘を振る真梨と単語の硬さがちぐはぐで、私は思わず笑ってしまった。生命科学を学ぶ彼女は、理科に関する話となると声の弾ませ方が無邪気になる。
真梨は好きなものがはっきりしている。私と同じ二年なのに、もう教授に顔を覚えてもらって、実験動物の世話やデータ整理を手伝っている。アルバイトの扱いだそうだが、彼女はシフトのない日も研究室で本を読むか、先輩の補佐をしているという。今日も実習が終われば、彼女は大学へ行くのだろう。
「真梨はいつも真梨だよね」
風に乗せて言うと、彼女は唇を尖らせた。
「微妙に嬉しくない」
「なんで。褒めてるのに」
褒めるの下手すぎ、と真梨は笑う。
「それだと成長してないみたいじゃない」
個人の意見や主張というより、この世界ではそういう考え方をするのが当然であるというような調子で真梨は言う。
「生き物はね、変わらなくなったらおしまいだよ」
真梨らしい台詞だ。けれど、そのことを伝えても彼女にとっては不服だろうから言わないでおく。
目に届く光が薄くなって顔を上げると、雲が太陽を隠していた。進学塾の入る小さなビルが、雲の動きを映すように白くなる。真梨はハンディファンを取り出した。今の話題を続ける理由は特になく、私は傘を持ち替え、手首に巻いた時計に目を落とす。
「そろそろ行こっか」
歩き始めた私に、真梨の声が飛んでくる。
「待って。お昼買ってく」
何度ここへ来ても、立派な校舎に圧倒される。広い玄関から中に入ると必ず上を見てしまうのは、吹き抜けが中央を貫いているからだ。アトリウムと言うべきだろうか。各階の廊下は左右にそれぞれ設けられ、デッキのように張り出している。昇降口から四階を歩く子の姿が見えるのは新鮮だ。対岸と行き来するにはフロアごとに二本架けられた橋を通る。吹き抜けの上はガラス張りだから、自然光がたっぷりと差している。
サイズの合わないスリッパが間の抜けた音を出す。真梨と並んで歩いていると、すれ違う子たちに挨拶される。男子も女子もみんな元気だ。
私は一年の頃から教育課程を履修している。そのカリキュラムとして、二年の夏に県内の学校で三十時間の実習を積む。授業はしない。授業以外の仕事を知ることがこの活動の目的だ。
私と真梨は今牧高校に振り分けられた。一年の頃からよく話す彼女がペアでよかった。
「沙季の方はどうなの?」
「どうっていうのは?」
エレベーターの戸が開く。段ボールを抱えた女子が降りたあと、私、真梨の順で乗り込んだ。二年生の教室は四階だ。
「クラスの劇。そろそろ大詰めでしょ」
ああ、と私は相づちに満たない声を返す。エレベーターが動き出す。
実習と称して、私たちは文化祭の準備のお手伝いをしている。夏休みは部活が忙しい時期だから、作業に来られる生徒は限られ、人手はいつも不足している。だから、私と真梨が補うことになっている。表向きはそんな理屈だ。要は大学生に任せられることがほかにないのだと思う。
「ダンスはいい感じ。みんなすごく揃ってるし。あとは大道具だけかな」
「あ! もしかして、あのお城?」
「うん。最後のシーンで出すみたい」
エレベーターは止まることなく上昇する。真梨の方は、と私は訊いた。
「あー、ほんとに訊く?」
「訊いてほしいんじゃないの」
「まあ、それは。ちょっと脚本のことでギスギスしちゃって」
珍しく真梨は弱さを認めるような顔をする。
「もともと面白い脚本だったの。それは絶対間違いない。でも、こうしたらもっと良くなるんじゃない、って言った子がいて」
エレベーターのチャイムが鳴る。四階に到着した。私たちは橋みたいな渡り廊下に移動した。ここなら、誰かに会話を聞かれそうになっても、すぐに気づくことができる。
「試しにちょっと演出変えてみたわけ。そしたら、ほんとに面白くなってさ。そうなったら、もう流れなんて決まったようなものでしょ?」
「でも、話し合う機会とか」
真梨は静かに首を振った。
「脚本の子、その日だけ来てなかったんだ」
私は真梨が俯く理由をようやく察した。
クラスに認められていたはずの脚本が、次の日に形を変えていたとしたら。そのうえ、以前よりも周囲の反応が良いのだとしたら。
私はそこに居合わせたわけでもないのに、脚本の子の固くなった表情を見た気がした。
「あーもう、私ほんとに馬鹿だ」
真梨は肩と同じ高さの欄干に手を添えた。ため息をつくと、彼女は手の甲にあごを乗せた。
「別に真梨が悪いわけじゃ」
「そう割り切れたら悩んでない」
クラスの空気は思いのほか良くないらしい。おそらく、それぞれの側に味方した子がいたのだろう。そうして身内で欲しい言葉を掛け合ううちに、いよいよ妥協すべき場所さえ見失ったのだと思う。
仕方がない、と言えばそれまでかもしれない。これは悪意が働いた話ではない。双方にその気がなくても衝突した。たとえ真梨が先回りしていても、事態は軽くするのが精一杯で、回避できたとは思えない。壊れることに対して無力であるなら、修復しようと手を出しても届かない。当事者以外にどうこうできる話ではないのかもしれない。
「信じてあげたら?」
大事な思いを伝えるときはそうするように、私はあえて多くの言葉を飲み込んだ。膨らみ続ける夏の白さを捕まえるみたいに、真梨は届くはずのない天窓に手をかざす。
「だね。ここは親鳥になってあげないと」
彼女は先ほどまでの弱音を吹き払うように表情を入れ替えた。
「ホメオスタシスは生物の原則だし」
真梨らしい言葉選びに笑ってしまう。もし生徒たちに助けを求められても、真梨ならうまく目を合わせてやれるに違いない。
真梨には、今のままでいてほしい。視野が狭くて、その分好きなことに対して近眼な彼女の透明な部分を曇らせたくない。
「真梨って、やっぱり真梨だよね」
「だから、それ嬉しくないんだけど」
そう言うが、真梨の口許は綻んでいる。私も頬を持ち上げながら、真梨と一緒に声を揺らした。
ガラス越しの空が遠く広がっている。アトリウムの中は大きな水槽によく似ている。閉じ込められた世界を泳ぐ魚にとって、水槽だけが本当の海だ。
県立今牧高校の文化祭は、九月初週に開催される。それはつまり、準備に使う時間の多くが夏休みと重なることを意味している。高校生の夏は忙しい。私が受け持つ二年三組の生徒にとってはなおさらだ。新体制の部活を牽引しなくてはいけないうえに、文化祭ではクラス劇をする。準備に顔を出せる生徒は多くないだろうと思っていた。だから、部活を抜けてきてくれる子たちに加えて、このためだけに登校する子たちも合わせて、毎日教室が賑わっているのは、大袈裟だけど奇跡のように思えてならない。
軽く支えた鉛筆で線を引く。床に広げた模造紙は端を手で押さえていないとすぐ筒の形に戻ろうとする。だから、膝と手を床についた姿勢で、模造紙の上に乗り上げないと絵は描けない。机や椅子を後ろに寄せた教室で、私は同じ体勢の美保ちゃんと一緒に、舞台背景の下絵作りを進めていた。
「長沼先生って、普段から絵とか描いたりするんですか?」
「どうして?」
だって、と美保ちゃんは手を休めず、口だけを器用に動かす。
「見れば分かりますよ。それは描いてる人の線です」
質問されていたはずが、気づけば断定口調を向けられている。私は紙を捉え続ける彼女の瞳と、重力に引かれるショートカットの毛先とを眺めて笑った。
「昔はよく描いてたかな」
「今はそうじゃないんですか?」
描かないこともないけど、と私は緩やかな弧を一息に引く。
「でも、フィールドワークに出たときくらい。街並みとか、人の暮らしとか少しだけ」
同じ専攻の友人たちは資料集めにカメラを使う。私も写真を撮らないことはないが、シャッターを切るより絵を描く方が好きだ。紙に吸わせた黒鉛が目にした景色を私の近くに留めておいてくれる気がする。それに、カメラを取り出すことが憚られる場面もまれにある。
いろいろ理由を添えてみたが、私はまだ消えずに残っているものがあることを、絵を描くことで確かめたいのかもしれない。芽吹はもう絵を描かなくなった。ここで私も辞めてしまうのはどうにも寂しい。
「大学生って感じですね」
「何を見て」
「出てくる単語です」
大真面目に言われて笑ってしまう。私は休憩を兼ねて体を起こし、形のきれいな頭越しに彼女の手元を見下ろしてみた。
美保ちゃんは美術部に所属している。それこそ線を見た瞬間に分かる。私がどれだけ手を伸ばしても届かない場所を、美保ちゃんは簡単に越えていく。
「美保ちゃんこそ、すごく上手だよね」
どうでしょう、と彼女の切り揃えた毛先が照れ隠しみたいに揺れる。
「私にはこれしかないってだけです」
美保ちゃんは下絵を手にして腰を上げた。教室の中央で作業する子たちに手渡すと、私のそばに戻ってくる。彼女は早くも次の模造紙を広げていた。
舞台背景は分業制で制作している。下絵に色を塗る子。薄い模造紙が自立するよう、段ボールの台座に絵を貼り付ける子。美保ちゃんは下絵以降の作業に手を出したり口を挟んだりしない。人がよくできている。
クーラーを効かせた教室には色塗りをする子たちの楽しげな声が飛び交っていた。窓の外は光り輝き、教室は明かりをつけているのに影の下みたいだった。
ひとりの男子生徒が近づいてくる。クラス委員の瀬田くんだ。
「お疲れ。これ書いた?」
彼は一枚の色紙を手にしていた。カラフルな筆跡が目に入る。何かの寄せ書きのようだった。美保ちゃんはかぶりを振った。
「あとで書くから置いといて」
「またそう言うだろ。美保入れてあと三人だけなんだけど」
美保、という呼び方からふたりはそう遠くない友人関係にあるのだと察せられる。このクラスに来て一週間の私は黙って見ていることしかできない。
「じゃあ先に他の子にお願いしといて。私、今はこっち描いてるから」
「そこをなんとか」
美保ちゃんは手を動かすばかりで顔を上げない。瀬田くんは聞かせるようなため息をつく。
「もう、まじでマイペースだよな。じゃあ、教卓に置いとくから。頼むぜ」
体操着姿の瀬田くんは台詞通りに色紙を置いた。水筒とタオルを手に教室を出ていく彼は、今から部活に戻るのかもしれない。
美保ちゃんは視線を手元に張りつけている。一心不乱にペンを動かす彼女は、集中しているというより、何かを見なくて済むよう視野を狭めているかのようだった。喧騒の狭間で身を小さくする美保ちゃんには、何が聞こえているのだろう。
「美保ちゃん?」
真梨の話を思い出す。クラスに這う不協和音はもしかすると他人事でないのかもしれない。
「寄せ書き、書いてきたら? 美保ちゃんが頑張ってくれたおかげで、下絵も終わりかけだし」
とん、と美保ちゃんのシャープペンシルが模造紙を打つ。芯を引っ込めたことに遅れて気づく。
「先生、ゴミ捨て行きませんか」
私と美保ちゃんはそれぞれ片手に燃えるゴミの袋を提げてアトリウムを抜けた。外に出た瞬間、痛いくらいの日差しに目を細めた。ひとつにまとめた髪と首の後ろが早くも熱くなってきた。今日は白いシャツにして正解だった。
中身の詰まった袋とつり合いを取るため、私たちは上半身を傾けながら歩いていた。
「ひどい話、してもいいですか」
美保ちゃんは袋を左手に持ち替えた。夏服の袖から伸びる腕は透き通るように白く、傷ひとつない。
「私でいいなら」
「じゃあ、しますね。寄せ書きの話です」
なんとなくそう来る予感がしていたから、驚きはしなかった。ちゃんと聞いていることを示すために、うん、と私は小さく頷いた。
「新津先生、もうすぐ産休に入るんです。文化祭はなんとか見届けてくれるみたいですけど」
「あ、確かにお腹」
「大きかったでしょう? 実際、かなり無理してると思います。先生自身は絶対そう言わないですけど」
真梨と一緒に初めてこの高校を訪ねた日、応対してくれたのが新津先生だった。教師をして七年になるという先生は春の空気みたいな人で、年齢が遠くないこともあり話しやすかった。
私は先生が妊娠していることにそれとなく気づいていたが、向こうから言い出すまでは触れないようにしていた。結局、先生はそのことを口にせず、私の勘はついに日の目を見なかった。
「私、ショックでした」
美保ちゃんは肩に届く長さの髪を耳に乗せた。ゴミ置き場へと続く駐輪場には、私と美保ちゃん以外に誰もいない。
「ああ、先生もそういうことしたんだ、って。仕方ないのは分かってますよ。そうしないと人間滅びちゃいますから」
でも、と美保ちゃんはひと呼吸置いた。
「なんで堂々とみんなに言えるのか、わからないんです」
「じゃあ、寄せ書きしないのは」
「当てつけってわけじゃないです。私、先生のことは好きですから」
美保ちゃんは私を見ないまま言葉を継いだ。
「ただ、整理できないんです。新津先生は教師で、私たちは生徒で、それ以上も以下もありません。先生だってそれを受け入れているのに、どうして文脈を破れるのかなって。お祝いするみんなも同じです」
「クラスの子たち?」
彼女は小さく頷いた。
「一緒に勉強して、たくさん笑って、ごはん食べて、こうして文化祭の準備して。みんな、すごく優しいんです。私はそういう部分だけ見ていたい。みんなの制服の下がどうなってるかなんて知りたくないです。生々しいのは自分だけで十分じゃないですか。たとえ事実はどうであっても、そういうことには興味ないように振る舞うのが不文律だと思ってます。そうですよね? なのに、どうして妊娠は大っぴらにしてよくて、肯定できるのが理解できません」
駐輪場の屋根が直射日光を遮ってくれるが、蒸した空気からは逃げられない。塊となった熱を押しのけて歩いていると、肘の内側が汗ばんでくる。
ごめんなさい、と美保ちゃんは自分自身を冷ますように付け足した。
「整理できるまでは、私に寄せ書きする資格なんてないです」
美保ちゃんのローファーが立てる足音は硬い。俯くせいで顔に影が差して、思い詰めたような沈黙を深くしていく。
お腹の中を見せてくれた美保ちゃんに、私は落ち着きを保ちながらも共感していた。
「私も、似たようなこと思ってる」
「別に気遣ってくれなくていいですよ」
「ううん、ほんとに。私、ドラッグストアでバイトしてるから」
たったそれだけで続きを察したように、美保ちゃんはもう言い返さない。彼女のつんと立った耳を横目に入れ、私は今日までに見てきたものと考えたことを言葉に乗せた。
「そういう商品、あるでしょう? その、処方箋で買う」
「ああ。あれ、ですよね」
多分あってる、と私は名称を伏せたまま続けた。
「全然買いそうにない人でも買ってくの。ああ、この人もなんだ、って。どうしても結びつかないから、混乱する」
心がうまく反応できないからというより、攻撃的な感情に蓋をしたくて、混乱という言葉をあえて選んだ。刃物を振りかざすことが許されるなら、気持ち悪いと表現していたかもしれない。
何もかも拒絶しているわけではない。私にも、体内で泡がはじけるようなむず痒さを発散したいと思う夜はある。ただ、私以外の人のそんな側面は見たくない。世界で動物的な欲を有しているのは私ひとりで十分だ。
「バイト、嫌にならないんですか」
嫌というか。少しの間を使って考えながら、私は美保ちゃんとの共通項に気づいた。
「多分、私も整理したいんだと思う」
ゴミ置き場はもう目の前だった。日を浴びて色あせた樹脂製のゴミ箱が、ブロック塀に沿って整列している。燃えるゴミ、と書かれた箱の大きな蓋を、美保ちゃんは左手だけで持ち上げた。中にはすでに袋が詰められていて、生ゴミのつんとした匂いが鼻に触れた。私たちは手にした袋をいくらか無理に押し込んだ。
教室へは来たときと違う道を通って帰ることにした。美保ちゃんの先導で講堂の横を歩いていると、彼女は天気の話でもするような声で言った。
「先生って、好きな人とかいるんですか?」
「それはどういう」
美保ちゃんは腰の後ろで手を組み、跳ね上げるようにつま先を浮かせた。
「そんなの決まってるじゃないですか」
からっと笑う美保ちゃんに先ほどの暗さは見受けられない。恋の話に目を輝かせるところは、ちゃんと高校二年の女の子だ。
「好きな人は、一応いる。というか、もう彼氏というか」
え、と彼女の声が高くなる。
「嘘、付き合ってるんですか? どんな人? やっぱりサークルで会ったとか?」
「待って待って」
急に勢いを増す美保ちゃんを手で制し、私は大げさにため息をつく。呆れた表情をつくってみるが、私はすでに楽しくなりはじめていた。恋の話となると、はしゃいでしまうのは、私も同じかもしれない。
調子のいい美保ちゃんにされるがままというのは、大学生としてどうなのだろう。私は彼女の余裕を崩してみたくなった。
「そんな美保ちゃんはどうなの。好きな人」
一瞬、空白が通り過ぎた。
「今は長沼先生の話です」
「だから私はさっき言った」
どうなの、と重ねて訊いた。彼女は唇を巻き込むように閉じたあと、私から目を逸らす。
「そんなの、秘密です」
それが美保ちゃんの返答だった。彼女の耳が赤くなっているのは暑さだけによるものではない気がする。私は初めて美保ちゃんの弱い部分を突けたことに満足していた。
「どんな人なの?」
「だから秘密だって何度言ったら」
「否定しないんだ」
重ねてからかってみると、美保ちゃんはもうこちらを見てくれなくなった。その反応が可愛くて笑ってしまう。ごめんごめん、と謝りながら、私は彼女の照れた顔をのぞき込んだ。
正午を知らせるチャイムが鳴った。午前で制作を抜ける生徒は支度をはじめ、午後も作業を続ける子たちは早くも椅子を輪のように並べつつあった。みんなでお弁当を広げるのだ。私はそっと教室を後にした。渡り廊下で真梨と落ち合い、エレベーターホールに移動する。一階の、アトリウム中央に置かれた共用のベンチで、私と真梨は昼休憩を取る。
お弁当の包みを解いて、蓋を開ける。そぼろご飯だった。お母さんは私の好みをよく知っている。そぼろのお出汁を吸って色づいた白米が食欲を誘う。
隣の真梨は今朝駅前で買ったサンドイッチを取り出した。包装を広げる手つきは慣れている。一人暮らしをしている彼女のお昼ごはんは、毎日同じサンドイッチだ。
「へえ、好きな人の話か。なんか響きがいいよね、好きな人って」
真梨は左手だけで支えたサンドイッチを口に運ぶ。レタスを噛み切るときの新鮮な音が私の耳にまで届く。
「響きっていうのは、よく分からないけど」
「なんで。だって、好きな人だよ。恋人とか彼氏じゃなくて、好きな人」
先ほどから真梨は好きな人を連発している。こういうとき、彼女の気が済むまで語らせておけばいいことを知っている私は、ちゃんと聞いていることだけを目で示しつつ、そぼろご飯を箸でほぐす。
「恋人や彼氏って、なんかこなれた言葉でしょ? その点、好きな人は違うわけだし」
「どう違うの」
「ちょっとは考えてる?」
考えてる、と返しながら、会話のバトンを真梨に返す。
「なんか心がこもってないな」
真梨はからかうように笑みを浮かべてみせると、小さくなったサンドイッチを口に放り込んだ。膝の上に置いた包みには、まだ二切れが残されている。私は変わらずそぼろご飯を食べ続けながら、真梨が続ける台詞に耳を傾けていた。
「それで、どう違うの」
「そりゃあ沙季さん、まなざしに決まってるでしょ」
まなざし、と私は日本語の持つ柔らかさを指で押して確かめるように呟いていた。
「言葉は言った本人を映すからね」
アトリウムを通った光が目の奥を照らす。私がかつて見ていた景色と真梨の言葉はそう遠くない。
「それは、分かる気がする」
私は良賢の背中を思い出していた。まだ彼と付き合う未来が想像できないほど淡かった頃、私はずっと静かに後ろ姿を目で追いかけていた。
真梨の話をつい最後まで聞いてしまう理由が分かった気がした。
「で、沙季は最近どうなの?」
「何が」
「好きな人。遊びに行ったりしてないわけ?」
真梨は私が返事をするより先に、次のサンドイッチに手を伸ばす。興味津々な目で私を捕まえないところが真梨らしい。
「お出かけは特に。おとといの夜に一緒にごはん食べたくらい」
「へえ、どこのお店?」
「あ、外じゃなくて、彼の家」
ドラッグストアのバイト帰りに連絡をもらい、寄ってみると、作りすぎたカレーが待っていたこと。お腹が空いていたから、おかわりしたこと。惚気話と言うにはときめきに欠けた日常を話し終えると、私は真梨がにやにやしていることに気がついた。
「で、お泊まりしたわけだ」
「あのねえ。お泊まりなんてまだ私には」
「でも、もう半年付き合ってるわけでしょ? 別に早すぎることはないんじゃない?」
世間の尺度を当てはめるなら、その通りかもしれない。この半年の間で、私は彼がどんな人かを知った。共に夜を過ごしたとしても、触れてはいけない場所に彼の手が伸びてくるとは思わない。
「真梨はいつだったの」
「私? 三ヶ月」
軽い調子で答えながら、真梨は水筒の蓋を回し開けた。
「まあほら、私のとこは両方一人暮らしだから」
彼女は艶消し塗装された青色の水筒を傾けた。襟元から覗く細い首のなめらかな肌が、水を飲み込むのに合わせて上下する。荒れた跡すらない皮膚は、触れたら破れてしまいそうなほどきめ細やかだった。
そんな真梨も好きな人の前では甘えた姿を見せるのだろうか。
「お泊まりって、どんな感じなの」
「どんなって、ただの長い一日だよ」
「そうじゃなくて。まさか別の布団で寝たりしないでしょう?」
「ああ、そういう話」
踏み込みすぎたかと思ったが、真梨は平然とした表情を崩さずにたまごサンドを頬張った。目の細め方から察するに、卵焼きは醤油や塩より砂糖を効かせた甘い味付けなのだろう。美味しそうに食べる真梨を横目に、私はお弁当用の短い箸でそぼろをほぐす。
「まあ、お泊まりするなら冬がいいよ。夏は暑い」
「クーラーつけないの」
つけても、と真梨は自分を外から見るような目で言った。
「私だけなのかな。くっついたら暑くなるんだよね。体温が上がるというか」
「そういうものなんじゃないの」
「あれ、沙季はもうそこまで行ったんだっけ?」
頷こうとしたら急に恥ずかしくなった。けれど、真梨には言わせて私は黙るというのは少しずるい。血の巡りが速くなるのを感じながら、その、と私はつま先を見つめた。
「ハグまでは……うん」
「へえ、でも沙季のそういうところ、なんか想像できないや」
「想像しないで」
照れてしまうと弱みを曝け出しているように思えて、私は彼女に話題の重心を返そうとした。
「そう言う真梨は」
「私? そりゃあキスまで。だってもう一年だしね」
それはそうかと納得する。高校生同士でも一年付き合っていたらキスをしたことのある子は多いだろう。だけど、先ほどの真梨ではないが、彼女のそういうところはうまく想像できない。
「真梨は、どういう流れでするの」
目が合う。彼女はお腹を抱えて笑い出した。
「沙季もお年頃だ」
「私たち、同い年なんだけど」
「まあまあ、細かいことはいいとして。逆に訊くけど、沙季はそういう雰囲気になったことないの? ああもう、このまま行っちゃえ、みたいな」
カレーの日はどうだったろう。帰る直前、私は彼に抱きついた。数十秒ほど続けたあと、回した腕をほどく瞬間は言われてみれば危なかったかもしれない。
目が合って、ふたりで笑って、まだ離したくない指先を彼の腰に沿わせていると、いつの間にか音が消えていた。あのとき、私たちは薄く重なり合っていた。スマホの振動に邪魔されなければ、きっと一線を越えていた。遠くに思えた世界は、もしかするともう目の前にあるのかもしれない。
耳が熱くなった。
「ちょっと沙季。顔、真っ赤」
体をよじるように真梨は笑う。私もつられて肩を揺らす。真梨と恋バナらしい会話をするのはいつだって楽しい。私たちにとって、世界の果てがキスでよかった。
先に食べ終えたのは真梨だった。彼女の方が早いのはいつものことだ。私は特に急ぐでもなく、真梨の転がす話題を勢いづけたり、楽しい角度へ弾いてみたりしながら、そぼろご飯を食べ進めた。
お弁当箱にお箸をしまい、蓋を閉める。ナフキンで包みなおすと、私はベンチに置いた保冷バッグの口を開けた。
「なんだろ、速報だって」
真梨がスマホを持ち上げた。多分、ニュースアプリの通知だろう。画面に顔を近づけ、熱心に指を動かす彼女を横目に、私は保冷バッグのファスナーを引く。一体、真梨は何に引きつけられているのか。あまりに集中していて訊きづらい。覗き見るわけにもいかず、私は彼女を静かに待つ。
「ねえ、沙季。これ」
少しして、真梨がこちらにスマホを向ける。画面はやはりニュースアプリのものだった。そこに映る見出しの意味を理解したとき、私は彼女の瞳の奥を見た。言葉が出ない。
「意外だよね。もっと時間かかると思ってたけど」
反応を返さない私に、沙季、と真梨が不思議そうな目を向ける。意識を近くに手繰り寄せる。
「これから、どうなるのかな……」
「ん? 別にどうもならないでしょ」
それより実家の猫がさ、と真梨はアプリを切り替えた。見せたいものがあるのか、写真フォルダを開いてスクロールする。依然、網膜には記事の見出しが閃光のように焼き付いて離れない。
『避妊具の販売条件緩和へ。十月より処方箋不要に』
揺るがないと信じていた地盤が取り払われたようだった。
両手で支えたモップに体重を乗せる。今日は雨で床が少し濡れているから、滑りが悪い。モップの毛先に小さな埃が絡みつく。
かぜ薬を並べた棚の前を掃除していたところ、那賀さんが近づいてきた。私は体を隅に寄せて、掃除を一時中断した。
「お疲れ様。ちょっと外すから、何かあったらベルで呼んでくれる?」
「あ、ヤードだったら私が」
「いいよ、いいよ。薬は僕の管理だから。それに、今日はお客さんも来ないだろうし」
那賀さんは開く気配のない自動扉に目をやった。まだ湿った空気の匂いがする。雨は降り続いているらしかった。
「この天気ですもんね」
私は那賀さんに丸め込まれるように、掃除に戻ることにした。
那賀さんの仕事はこの数か月で少し変わった。
何より大きな変化は、すべての処方箋の取り扱いが十七時までになったことだろう。この秋から誰でも避妊具を購入できるようになったことで、夜間の処方箋受付が廃止された。以前から多くの医薬品にこの時間制限は設けられていたが、避妊具だけは例外だったのだ。
だから、夜になると那賀さんは薬剤師による説明を必要とする医薬品を売る仕事に専念する。と言っても、そういう薬を買いに来る人は多くない。ドラッグストアの運営元は薬剤師の人件費を抑えるために、薬の販売時間縮小も検討したそうだ。だけど、強みを手放すことになるから、今のところ那賀さんは閉店まで店にいる。この先、どうなるかは誰にも分からない。
私は今日も午後四時からシフトに入っている。雨の日は晴れている日に比べてやはり客足が減る。追い立てられるようにレジを打つ日より穏やかにいられる。けれど、あまりに客が来ないと時間の過ぎる速度が遅くて辛い。午後九時を指す腕時計から顔を上げ、モップを提げて隣の通路へ移ろうとしたとき、自動扉が開いた。
真梨だった。隣にいるのは彼氏だろうか。写真で見たことがあるだけだから言い切れないが、あれはきっと彼氏だ。雨から逃げるみたいに駆け込んできたふたりは友人同士の距離ではない。
真梨が来るのは初めてだ。彼女は近くに住んでいるから、ときどき顔を見せてもいいものなのに、意外とそういう機会は一度もなかった。
声をかけようとしたが叶わなかった。私は入り口に向かって右奥にいた。真梨たちはこちらに気づくことなく正面の通路へ消えていった。おそらく目当ては大きな袋のお菓子だろう。以前、彼女は家庭用のプロジェクターを買ったと話してくれた。今から映画でも観るのかもしれない。真梨は器用に生きることに長けているから、雨の夜の使い方も当然上手いに違いない。
近くの壁にモップを立て掛け、レジに先回りする。真梨は驚くだろうか。私はいたずらを仕掛けたような心地で、名札のバーコードをレジに読ませた。
しばらくして、カゴを持って現れたのは真梨の彼氏ひとりだった。彼女はどこに行ったのか。不思議に思いながら私はカゴを受け取った。ポテトチップスの袋を持ち上げ、レジにかざそうとしたときだった。
「待って待って。これも」
顔を上げる。走ってきたのはアイスの箱を手にした真梨だった。彼氏が振り向く。真梨は走るのをやめた。そこで初めてレジにいるのが私であることに気づいたようだった。
「嘘、なんで……」
笑わないようにしながら真梨を。彼氏にだけ面白くもあり、気まずさもあった。
「なんでも何も、バイト先だから」
「でも、金曜日はシフト入ってないんじゃ」
いつもはそう、と私はクッキーの箱を裏向け、バーコードを読み取る。
「でも、今日は急に欠員が出て。前に私も代わってもらったから」
「そう、なんだ」
真梨が青ざめているように見えるのは気のせいだろうか。少なくとも、私の想定していた反応ではない。予期せぬ遭遇に驚いているというより、私に会ったことで都合の悪いことでもあるように見えた。彼氏に対する甘えた声を聞かれただけで、真梨がこうも弱るだろうか。
彼女はアイスの箱を手にしたまま、時間が止まったかのように固まっていた。真梨、と声をかけて、同じ地平に戻してあげる。
「アイス、溶かしていいの」
「や、それは駄目だけど」
私はようやくアイスを受け取った。棒にさしたバニラアイスが十本入った箱は、しばらく指を添えていたくなるくらいに心地よく冷たい。レジの赤い光に触れさせる。
次が最後と思い、私はカゴに入ったジュースのペットボトルを持ち上げた。
そのとき、小さな箱がカゴの底から姿を見せた。隠れていたから気づかなかった。手を伸ばそうとした私は、パッケージの文字を見て動けなくなった。
極薄、なめらか。何がどう薄くなめらかで、それがどんな効果をもたらすのか想像できるくらいに私は大人だ。それが箱の中でどう折りたたまれていて、使う際にどう広げていくのかということも、知識としては知っている。これまでにも多くの客に売ってきた商品だ。処方箋がいらなくなってからは、買いに来る人がずいぶん増えた。だけど、今は状況が違う。買おうとしているのは真梨たちで、今日は金曜日だ。
「待って沙季。違うから」
迫ってくる真梨から目を逸らす。彼氏は私と真梨が友人同士だということに気づいたようだが、どうすることもできないでいた。
どうして、よりによって真梨なのだろう。
私にとって真梨は生物を学ぶ同級生だ。親友と呼ぶにはまだ日が浅く、単に友だちとするには惜しいほど話しやすい。勝気で、たまに口が悪くなるが、総じて他人思いの真梨に私はいつも助けられている。
私と真梨はそういう距離を維持している。真梨から好きな人の話を聞いたとき、私は中学生みたいにその場で跳ねた。数か月して、付き合うことになったと教えてくれたときには本当に嬉しかった。手を繋いだ日のときめきを語る彼女は可愛かった。初めてキスをした夜の話は、聞いている私が照れてしまった。
恋バナはそこまでで十分だ。私はそれより先を見たくない。真梨の下腹を流れる熱さも、神経があつまる尖った場所も、受け入れるための入り口も、想像したくない。真梨にそんなものがついていると信じたくない。私たちには動物であることをほのめかしてはいけない義務がある。真梨は潜在的に通している了解を破ったのだ。
「全部で、千百円です」
レジが弾き出した数字を事務的に読み上げながら、カウンターの下に手を伸ばす。茶色の紙袋を一枚引き抜き、私は体に覚え込ませた動きのままにまちを広げた。封筒ほどのサイズの袋に避妊具を入れ、口を三度ほど折り返す。
ここで無言を引き伸ばすほど、私と真梨にはたらく磁力が乱れるのは自覚している。後で繕うのが大変になることも理解している。だけど、予感に反して息が喉を通らない。
私はいつかそうなれば傷つくだろうと薄々考えていたが、現実は予想していたより痛かった。
誰にとっても行為が遠くにあったあの頃に帰りたい。
しばらく真梨には連絡できず、向こうからも音沙汰はなかった。私と真梨の接点は教職科目しかない。それも後期に入ってからはクラスが分かれた。大学構内は広く、理系と文系の建物は離れているから、すれ違う可能性は高くない。会おうとする努力がなければ、容易に疎遠になれてしまうことに私は初めて気付いた。
水曜日は午前で講義が終わる。日が高い中を帰宅するのは味気ないので、学食でお昼を食べてから帰るようにしている。いつもは芽吹を誘う。大学生になっても声をかけやすいのはやはり幼馴染だ。今日も一緒に五百円のランチを食べた。
午後の講義に向かう彼女を見送ったあと、私は図書館に移動した。なんとなく、今日は自室以外の場所でレポートに取り組みたい気分だった。途中、眠気に襲われ、突っ伏した時間もあったが、午後三時を迎える前には形になった。
そういうわけで、私は再び食堂にいる。今年の夏から販売をはじめた午後限定のソフトクリームを食べたくなった。秋になって涼しくなった今でも、私はときどき芽吹や真梨や同じ専攻の子たちと空き時間を見つけては食べに来ている。
学食のカードで支払いを済ませ、ソフトクリームを受け取る。午後の学食は空いているので、四人掛けの机をひとりで使うことにした。
食堂の建物はガラス張りだから、隣の池と森がよく見える。木漏れ日はちらちらと舞い、そのいくらかが動きのない水面に光を蓄えている。
「またコーンにしたんだ」
うん、と答えそうになった。あともう少しで声が出ていた私は、うまく踏みとどまれたことにほっとしながら振り向いた。そこにいたのは、ソフトクリームのカップを手にした真梨だった。
真梨は呼ばれて来たような顔で、断りも入れずに私のはす向かいの椅子を引いた。「カップの方が食べやすくない?」
すぐ溶けるし、と真梨は付け加えつつ、小さなスプーンを口に運ぶ。頬がわずかに持ち上がって、えくぼができる。真梨が美味しいものを食べたときに出す癖のようなものだ。
「……でも、コーンの方が特別感はあるし」
「まあ、それはそう。実際、美味しいのはコーンだよね」
真梨の目が優しさを溶かしたみたいに細くなる。本当にいつもと変わらない。どんなに目の奥を覗き込んでも素直な奥行きが続くだけで、言葉通りでない裏の気持ちは読み取れない。
あの夜のドラッグストアで、私は見てはいけないものを目の当たりにした。真梨も気の毒としか言いようがない。私と顔を合わせられなくなっても不思議ではない。 だからこそ、平気そうにソフトクリームを食べる真梨がよく分からない。本題を避けてくれているのだろうが、居心地が良くないのはきっと真梨も同じだと思う。見て見ぬふりをする空気に耐えられなくなり、私は真梨を見つめた。彼女も私をじっと見た。
「なんで薬局じゃないと買えないんだろうね」
真梨はスプーンをカップに置いた。思い出し笑いのように、彼女は続ける。
「ほんと、そのせいで最悪の空気だったよね。あのとき」
私はかろうじて頷いた。避妊具の販売に処方箋は要らなくなったが、まだ薬局以外での取り扱いは許可されていない。この地域で避妊具を手に入れるには、私のバイト先に来るしかない。
「私、沙季がいない日を狙って行ったんだよ? 前もってシフトも訊いたのに」
「それは、あの日だけ偶然」
遮るように彼女は笑う。
「そ、偶然なんだよね、結局。ひどいいたずらするよ、神様も」
真梨はソフトクリームをすくって、口に運ぶ。私も純白のうずまきに歯を入れる。溶けた雫がコーンに垂れていたので、慌てて唇を添えた。
真梨はガラスの向こうに目を向ける。
「もう沙季に隠すことなんてないから言うけど、私さ、実はあのときが初めてじゃなくて」
「え」
「嘘じゃないよ。あれは二回目」
真梨が、した。改めて言葉にされると、頭を思いきり打たれたようだった。強い光に目の奥を痛めたときのように、視界が白く明滅する。
私は心のどこかで賭けていた。真梨たちは避妊具を買ったが、使うに至らなかったのではないかと。真梨が行為に及ぶはずがないと。実際は違った。真梨たちはあの日レジに現れた時点で、すでにしていた。
避妊する手段を容易に与えず、正しく教育を施せば、行為に及ぶ人はいなくなる。避妊具の販売条件が緩和されたのは、近年、その論理が崩れ始めたからだ。今や、ドラッグストアに行けば誰でも避妊具を買うことができる。この先、初体験の年齢は下がるばかりだろう。もしかすると、大学生のうちに済ませることが当たり前となるのかもしれない。そんな世界が、すでに始まっていたとしたら。
そんなに驚かないでよ、と真梨は肩をすくめた。そう言われても無理がある。私は開き直るような真梨に反発すら覚えた。
「どうしてそんなこと堂々と話せるの」
「そりゃあ、もう隠せないし。それに、否定するようなことでもないでしょ」
本当にそうだろうか。真梨が肯定しているのは行為そのものではなく、それを試してしまった自分自身だという気がした。正当化したいだけに聞こえる。
「だからって、気軽にしていいものじゃないでしょう」
「別に気軽にしてるつもりはないけど。ってか、高校生ならまだしも、私たちもう大学生だしさ」
「大学生だからって、していいわけじゃ」
「それを沙季が決める?」
え、と声が詰まった。
「沙季がしたくないとかなら分かる。それは個人の自由だし。でも、沙季ってなんか、私がするのまで否定してない?」
強い目線に捕まえられた。
私は溶け始めたソフトクリームを見下ろした。真梨の視線を頭に感じる。彼女はもう私を逃がす気がないのだ。
「前からうっすら思ってたけど、沙季って私のこと理想化してそう」
サークルと思しき集団が遠くの机で談笑している。厨房からは食器の触れ合う音がする。真梨の台詞はすでに食堂の雑多な空気に流されたのに、私を捕らえ続けて離さない。
幼い頃に遊んだ着せ替え人形を思い出す。人形の脚の間は膨らみも溝も穴もなく、平らな面があるだけだった。私は真梨にそうあってほしいと願っていた。生々しい器官を持つ真梨は私の見たい真梨ではないから。触れられて息を漏らす真梨は私が知るしゃんとした真梨ではないから。
傲慢だ。
「私、沙季が思ってるほど綺麗な人間じゃないから。それだけは言っておきたい」
真梨は視線を戻すと、ゆっくりと息を吸った。
「勝手にがっかりされたら、悲しいじゃん」
目の前の真梨は、いつもの真梨だった。
彼女は残ったソフトクリームを口におさめた。外は風が出てきたようで、広葉樹の葉の裏側が見え隠れする。水面がわずかばかり揺れた。
「沙季、今日の夜は暇?」
「忙しくはないけど」
何その言い方、と真梨は肩を揺らす。
「空いてるなら、ごはん食べに行かない?」
気まずいままは嫌だし、と彼女はスマホを取り出した。早くも行くお店を探しているらしかった。鼻歌を歌いかねない真梨を見て、私もしなやかな部分を取り戻しつつあった。
真梨はスマホを指でスクロールしながら、独り言みたいに続けた。
「共食の喜びはヒトの特権だからね」
今度はおでんを作りすぎた。良賢から届いたメッセージには、カレーを作りすぎたときと同じ鍋の写真が添えられている。輪切りの大根はまだ白い。串に刺した牛すじ肉も火を通す前の色をしている。つまり、煮込むのはこれからということだ。普通にお誘いをくれたら遊びに行くのに、何を遠慮しているのか素直じゃない彼が可愛らしい。これを土曜の昼下がりに送るところも彼らしかった。
食べに行っていいの、と返事を送る。私はコートの深いポケットにスマホを落とす。電車は最寄り駅に向けて速度を緩め始めた。買ったばかりのセーターが入った紙袋を右手に持ち替え、私は近くのものほど速く流れる車窓の景色を目で追いかけていた。もうおでんの季節に入ったことを、澄んだ空気が教えてくれる。
良賢の住む学生マンションには十七時前に着いた。もう外は暗くなりかけていて、部屋へ続く廊下や階段を照らす蛍光灯は光の傘みたいだった。
チャイムを鳴らすと、彼はすぐに出てきてくれた。薄闇に目が慣れていたから、部屋の中が眩しく感じる。
「入らないのか?」
サンダルを引っ掛けた彼は、私の前に腕を伸ばして、ドアが閉まらないよう支えてくれている。ここから先は、私と彼だけの空間だ。コートで寒さから身を守る必要もなければ、暗い物陰に怖さを感じることもない。明かりの灯る範囲が私たちだけの場所になるから、夜は特別なのだと思う。
「入る」
私はぴょんと跳ねるように敷居を超えた。
おでんを温め直すにはまだ早く、私たちは部屋の中央に置いたこたつに入って温まることにした。
「良賢って、こたつ持ってたんだ」
「ああ、去年買った。この部屋、やけに冷えるし」
「そうなの?」
「ほら、そこ。別に隙間はないんだけどさ。冷気というか、窓から来るから」
私は掛け布団から腕を出して、体を捻った。ベランダに出入りするための窓は大きく、厚手のカーテンを引いているのに、かざした手を冷気が回り込む。あともう少しこたつが窓に近ければ、きっと背中が冷えていた。
「な。こたつはちょうどいいんだよな。暖房入れるか迷うときは特に」
私は体を戻し、正面に向き直る。
「でも、怠惰にならないの」
「それは、見ての通り」
向かいに座る彼がこちらに手を伸ばした。私は応えるように指を絡め、互い違いに組めたことを確かめると、視線を上げた。引かれるように目が合った。鏡を用意してもらわなくても、頬が緩みきっていることが分かり、私は降参するように小さく笑った。こたつの天板は仄かな熱を帯びていて、繋いだ手が次第に柔らかくなる。
思えば、この時期に彼の部屋を訪れるのは初めてだ。去年の私たちはまだ付き合っていなかった。見つめ直すと、この一年で私と彼はいくつもの初めてを経験した。重ねた日々の分だけ、気安く、近くなった代わりに落ち着いてきたことは事実だが、いまだに胸は跳ねてばかりいるうえ、触れあうと彼にすべてを委ねたくなる。
このまま左手さえも繋いでしまおうかと考えたとき、こたつの中で彼の足が動いた。靴下越しのつま先が私の太ももに触れる。考えが変わった。
私は掛け布団の中へ手を差し入れた。しばらく探ると、彼の足の裏にたどり着いた。なるべく彼から目を外さないまま、とんと指先を触れさせ、くすぐってみた。おわ、と変な声が上がった。
「ちょ、沙季」
何、と自覚も悪意もないようにとぼけながら、指の動きを早くする。爪を立てて円を描くと、悲鳴のような声が大きくなった。
狭いこたつの中に逃げ場はない。力比べでは敵わない私によって、彼は一方的に悶えている。油断していた私は、繋いだ手がほどけていたことに気づかなかった。
彼はこたつから抜け出した。同時に、私は足首を掴まれた。
「え、何」
彼の顔に不敵な笑みが広がっていく。意図が読めたときには、もう遅かった。
彼の指がつま先に触れた。そこから、線を引くようにかかとへ移動する。たったそれだけの運動なのに腰が浮いた。
「待って待って!」
抵抗もむなしく、彼の指は往復をはじめた。神経が反射する。逃げ出したいのに、足首は岩を乗せられたように動かない。
私は彼の気が済むまでくすぐられ続けた。
こたつの中で自分のお腹に手を添える。今日は控えめに食べたつもりだったが、おへそのあたりが張っている。良賢のおでんは美味しかった。バイト先の居酒屋で教えてもらったと言うレシピは、出汁の効いた関西風で、ほっとする味がした。
「みかん、食べるよな」
キッチンから声をかけられる。私は、うん、と頷いた。
戻ってきた彼は机にみかんを置いた。向かい合っていた先ほどと違い、私と直角の位置からこたつに足を入れた。
「買ってくれてたの?」
「まあ、沙季なら食べるだろうと思って」
小さい方のみかんを手に取った私は、笑いそうになるのをこらえながら彼を見た。
「じゃあ、やっぱり最初から私のこと」
「だから、そういうのは言わせるなって」
私は楽しさに任せて声を揺らした。彼はあからさまに顔を伏せ、みかんの皮を剥くのに集中しているふりをした。私はあえて言葉を付け足さなかった。彼はじっと見られることにすごく弱い。もっとこそばゆくなればいい。私はこたつの中で膝を揺らして、彼を小突いてみたりした。
食べ終えると、彼は腰を上げた。こちらを見下ろし、手を伸ばしてくる。私はその手のひらに自分を手を乗せた。けれど、払いのけられた。
「じゃなくて。みかんの皮」
あ、と情けない声が漏れた。耳が熱くなり、彼を直視できなくなる。それはそうだ。彼が正しい。むしろ、至れり尽くせりのおもてなしを受けた私が、彼の分まで片付けるべきだった。頬まで熱くなってくる。
慌てて、みかんの皮を差し出した。
「そんなに繋ぎたかったのか?」
「掘り返さないで……」
今日一番の笑い声が部屋を満たした。本当に彼は意地悪だ。そんな彼を選んだ私はもっともっと趣味が悪い。
彼はキッチンのゴミ箱にみかんの皮を入れると、すぐに戻ってきてくれた。まるでそうしなければいけないとでも言うように、私の頭をひと撫でする。そのまま、彼は私の後ろに座り込んだ。
彼の腕が脇の下を通って、私を後ろから包み込む。合図みたいに、くん、と引かれて、私は背中を預けた。彼の脚が私を左右にも逃げられなくする。
「ずるいって自覚はあるの」
さあ、と私の頭の後ろで、彼の喉が動く。
「なんのことだか」
「ほんとずるい」
彼の顔が見えないことも気にくわない。振り向きたくてもそうできないことを、きっと彼は知っている。
観てもいないテレビがぱちぱちと光を放つ。私はリモコンを操作して電源を切ると、音のない世界で目を閉じた。
彼の指の皮膚は少し硬い。それなのに、頬を撫でられていると、そのことを感じない。産毛を掠めるように触れてくれている。私は手探りでこたつのスイッチを切った。
良賢は姿勢を変えると、私に覆いかぶさるようにキスをした。許した場所を重ねる心地にはまだ慣れない。だけど、初めてした夜と比べると、どうすればいいのか分かるようになってきた。彼は乱暴なことをしないから、私は力を抜いて委ねられる。
何度か触れたり離したりするのを繰り返したあと、彼は私のお腹に腕を戻した。弱く柔らかい中心を鼓動に合わせてほぐされると、いよいよ体内が熱を持ち始めた。だんだん圧が高まっていく。心地よさを追いかけることしか考えられなくなっていく。先ほどの比ではないほど、全身が熱くなっていた。
「沙季」
囁くような声のあと、彼の指が私のセーターを持ち上げた。中に着た冬用の肌着が露になる。彼はそれも摘まみ上げると、私の服の中に手を差し入れた。
体が跳ねた。
「ちょっと、良賢」
「嫌ならすぐやめるけど」
彼の手のひらは私の素肌に触れたままだ。私が少しでも嫌がる素振りを見せれば、きっと彼は手を引き抜くだろう。そうでなければ、こうして確認を取るはずがない。
私はお腹を見下ろした。こたつの布団も、服もはだけた場所に、彼は手を添えている。
動かされたら、どんな快感が走るのだろう。そんなことを考えてはいけない。だけど、考えてしまう。良賢になら、私のすべてを許してもいい。許したい。こんな中途半端なところで終わりたくない。
きつく揃えた脚の付け根が、触れなくても潤んでいることが分かる。
もう止められそうになかった。
「その、このままはちょっと……。嫌とかじゃなくて」
「あ、そうだよな。悪い」
ううん、と首を振る。今度は私からキスをした。
私だって、紛れもなく動物だ。
ローテーブルにシュークリームの箱を置く。脱いだコートを掛けておくのに、勉強机の椅子を貸りることにした。芽吹の机はいつも片付いている。整理が得意なのもあるが、そもそも多くの物を持ちたがらない。だから、必然的に物持ちがいい。中学の授業で作ったティッシュカバーがその例だ。私は彼女の部屋を訪れるたび、つたない縫い目のカバーが、どこにでもある既製品に買い替えられてはいないかと真っ先に確かめてしまう。
下の階から足音が近づいてくる。扉を開けて待っていると、両手にマグカップを持った芽吹が姿を見せた。
「お待たせ。ごめんね、ちょっとケトルに水入れすぎて」
あ、コートそこに掛けたんだ、と彼女は意外そうに言った。
「ハンガー使ってくれてよかったのに。沙季ならどこにあるか知ってるでしょ?」
「あのねえ。いくら芽吹の部屋でも、それはさすがに」
「そう? 私は気にしないのに」
彼女はシュークリームの箱の隣にカップを置いた。湯気に乗って、コーヒーの香りが鼻に届く。ありがとう、と添えると、芽吹は頬をふっくらとさせて微笑んだ。
暖房のスイッチを入れ、閉め切らないように扉を閉める。リリが自由に入れるようにするためだ。彼女は私の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、さっそく」
芽吹はシュークリームの小さな箱を近くに寄せた。封蝋みたいなシールを破りたくないのか、時間をかけて剥がしていく。
今日は午後一番に集合し、最近できたばかりのケーキ屋を訪れた。教えてくれたのは真梨だった。シュークリームだけでも是非と言われ、私たちも試してみることにした。
最初の一口は控えめにした。膨らんだ生地がぱりっと割れる。カスタードクリームは甘いのに軽く、思わず笑みがこぼれた。
「美味しい」
ね、と返ってくる。お昼を食べたばかりで心配だったが、このシュークリームなら苦しくなることはなさそうだ。
私の背後からすきま風が這ってくる。器用に扉を押し開けてきたのはリリだった。
「沙季が来たなんて、私言ってないのに」
「芽吹に構ってほしくて来たんじゃないの」
「ううん、ほら」
リリと目が合う。甘えたような声でひと鳴きされた。シュークリームには目もくれず、リリは私のそばから動こうとしない。
「乗せてほしいんじゃない?」
私は正座を崩した座り方をやめ、あぐらをかいてみた。すると、リリは私の下腹に乗って、体を丸くした。もう一度鳴く。まるで私に痛くないかと尋ねるみたいだった。
「リリね、前に体調崩したの」
シュークリームを食べる手が止まる。
「いつ」
「一ヶ月くらい前かな。食べても全部戻しちゃって」
芽吹は甘さを中和するみたいにコーヒーカップを傾けた。普通に食べ続けている彼女に、私は少しの希望を見た気がした。
「大丈夫だったの」
「うん、今のところは。まだ九歳だし、腎臓を悪くしたとかでもなかったみたい」
私は肩の力を抜いて、リリのお腹に手を乗せた。起きてはいるのだろうけど、リリの呼吸は浅い夢の中を歩くように、早くも遅くもならない。私は遅い二拍子を振るみたいに、お腹が膨らむのに合わせて指を動かした。今のリリはそうと言われなければ体調を崩したように見えない。
でもね、と芽吹が続けた。
「ちょっとドキッとした。リリもいつかは、って思うと」
「早くない? 今から心配してたら持たないでしょ」
「うん、それはね。でも、いつかはお別れの日が来るでしょ? 私、考えたこともなかったから。リリはいつまでも今のリリでいてくれるって。そんなわけないのに、現実逃避して」
リリが芽吹の家に来てからもう九年が経つ。仔猫だったリリは今や毛並みのきれいな大人の猫だ。急に大きくなったわけではない。じっと目を凝らしても気づかない速度で、リリは長い時間をかけて今の姿になった。変化は今この瞬間も続いている。想像できない。これがリリの最終形で、この先は大きくも小さくもならず、そばにいてくれると錯覚しそうになる。それは私がリリと暮らしていないからだ。飼い主である芽吹は、悲しくならない程度に冷静な目を持ち合わせていると思っていた。
「じゃあ、どうして私にはそういうこと思わないの」
会話のつながりが読めないと言うように芽吹は瞬きをする。
「え、何の話?」
「前に言ってたでしょう。私には、こうあってほしいって思わないようにしてるって」
振り返れば、芽吹が私に不平を漏らしたことはない気がする。私はそれがどこから来るのか知りたかった。
「そりゃあ、沙季は飼い猫じゃないし」
「私が動物みたいなことしてたとしても?」
両手に支えたシュークリームが細かく震える。甘くて幸せなスイーツを食べながらする話ではない。だけど、止められなかった。
「私が彼氏とそういうことしたって言っても、芽吹は何も思わないの?」
私は芽吹がしたと言ったら悲しくなる。真梨やお姉ちゃんのときと同じで、目や耳を閉ざしたくなる。
芽吹は静かに頷いた。
「うん、何も。沙季は沙季だし」
「でも私、もう前の私とは」
「そうかな?」
気づけば、芽吹は柔らかな色を取り戻していた。
「だって私、言われるまで知らなかったもん」
芽吹はコーヒーカップを持ち上げた。熱さを確かめるようにゆっくりと傾け、ほっと息をつくと、きれいに目を細めてみせた。
しっくりくる姿勢を探すみたいに、リリがもぞもぞと体を動かす。
私は仔猫の頃と変わらない寝顔で眠るリリを抱きしめた。
執筆の狙い
自分だって同じことをするのに、身近な人が動物的なことをしている事実を受け入れられない。そんな主人公の気持ちを描きました。
読んでいただけたら嬉しいです。感想をいただけたら、もっと嬉しいです。