作家でごはん!鍛練場
どくだみ

白華の下にて

それは桜の極彩色が隠す熱狂的な狂気ではない。白華の純粋な白が内包するのは、より深く、より霊的な虚無である。爛漫の極彩色の陰には、無数の死が凝縮した冷ややかな死の気配が、必ず張り付いている。白華の白は、あらゆる色を呑み込んだ末の空虚であり、生命の終焉そのものを花開かせた、美の極致なのだ。

明治の世も二十年を過ぎた頃。尾張の丹羽郡楽田村の一角に、畏怖される山があった。本宮山である。村の真東にそびえるその山は、麓に尾張国開拓の祖神を祀る大縣神社を抱いていた。その荘厳な社殿には、文明開化の光が届いていた。参道には新しい石畳が敷かれ、鳥居は朱に塗り直され、社務所には西洋式のランプが灯った。参詣者たちは洋装と和装が入り混じり、女たちは束髪に結い、男たちは山高帽を被っていた。遠く名古屋からは蒸気機関車の汽笛が風に乗って聞こえ、村には電信柱が立ち始めていた。文明という名の光が、確実にこの地を照らし始めていたのだ。
しかし、その光は神社の境内までであった。一歩、背後の神域に足を踏み入れれば、そこは深山幽谷。時が止まったかのような原始の森が広がっていた。春ともなれば白華が尾根から谷底までを白く、そして妖しく染め上げる。遠くに入鹿池が鏡より眩く、奥に尾張富士が優美な姿を見せる。天気が良ければ、遥か西に伊吹山がその影を落とす。朝靄に煙る花の海。夕映えに紅く染まる花弁の波。風が吹けば白華が雪のように舞い、清流の楽田川の水面を白く染め、まるで雪解けのような光景を生み出し、人の世の苦しみを忘れさせる極楽浄土の如き美しさであった。
だが、山を神体とする大縣神社の鳥居をくぐり、一歩でも森の奥へ足を踏み入れた者はいない。
「白華の下を歩けば気が狂う」
古老たちは血の滲むような真実としてそう語り継いだ。神社の和魂を鎮める社殿の遥か上、山頂に鎮座する本宮社に祀られた荒魂の気が、満開の白華と呼応し、人の魂を狂わせ、理性を奪うのだと囁かれた。
文明の光は、この古い畏怖を消し去ることができなかった。いや、むしろ文明が進めば進むほど、この森の異質さは際立っていった。蒸気機関車も、電信も、ガス灯も、この森の前では無力だった。狂気の森は忘れられ、ただ死の静寂に幽閉された。

そこに一人の男が棲みついた。男の名は誰も知らない。ただ「本宮の男」と呼ばれた。
維新の戦乱で家を失い、流れ流れてこの本宮山に辿り着いた男は、若い頃、官軍に抗う側で戦った。刀を振るい、多くの者を斬った。戊辰の戦、会津の戦、函館の戦。敗走に次ぐ敗走の中で、男の刃は何十という命を奪った。
戦の記憶は血の匂いとなって彼の夢に纏わりつき、それはもはや彼の本能の一部となっていた。夜ごと、斬った者たちの顔が夢に現れた。驚愕に歪んだ顔、恨みに満ちた目、血を吐きながら倒れていく身体。それらは男の魂に焼き付き、消えることがなかった。彼は人里の喧騒から逃れるため、この死の静寂を選んだのである。
本宮山の奥、廃墟と化した旧社の跡に粗末な小屋を建てた男は、獣のように暮らした。山菜を採り、川で魚を獲り、時折、麓の村で米や塩を手に入れる。言葉を交わすことは稀で、人と目を合わせることもなかった。彼の目は、長い孤独の中で、まるで野生動物のように鋭く、そして虚ろになっていった。
春、白華が一斉に花開く。
樹齢百年を超える老木の枝は複雑に絡み合い、天を覆い尽くし、そのすべてが花で埋め尽くされた。陽光は花びらを透かして、乳白色の淡い光となって降り注ぐ。地面は散り敷く花弁で雪のように白く、風が通れば花びらが渦を巻いて舞い上がった。花の香りは淡く、そして冷たく、まるで死者の吐息のようだった。
男はこの美しさを恐れた。あまりに美しく、あまりに完璧であるがゆえに、その裏に隠された巨大な虚無と恐怖を感じずにはいられなかった。花の下に立つたび、彼は不安に囚われた。それは魂を吸われるような冷気、物音のない風、そして無数の花が静かに見下ろす視線だ。散る花びらの一枚一枚が、戦場で果てた者たちの最期の吐息のように思えた。満開の白華は、月光に照らされると、ただの白骨を積み上げたようでもあり、花びらが地に落ちる音は、遠い日の呻き声のこだまのように響いた。ざわざわと、さわさわと、途切れることなく。
男の心には、常に二つの感情が渦巻いていた。一つは、この美しさへの恐怖。もう一つは、この孤独への執着。
戦場で多くを殺した。その罪悪感は、彼を人里から遠ざけた。だが、この森の孤独の中でこそ、彼は自分自身でいられた。人と交わらず、言葉を失い、ただ白華の下で呼吸することだけが、彼に許された生の形だった。
今年こそ、この山を出よう。男は毎年そう誓った。だが、孤独と罪悪感を癒す場を、彼はこの本宮山以外に見つけることができなかった。十数年がそうして流れた。彼は孤独に慣れ、孤独そのものになりかけていた。
文明は麓まで届いていた。村には学校が建ち、子供たちが唱歌を歌い、洋装の教師が黒板に文字を書いた。だが、男にとってそれらはすべて遠い世界の出来事だった。彼の世界は、この   
白華の森だけだった。そして、男は気づき始めていた。
自分が、もはや人間ではなくなりつつあることに。

ある年の初夏、男は麓の楽田村へ降りた。米が尽きたためだった。村の米屋で米を買い、無言で代金を払う。店主は男を恐れるように見つめたが、何も言わなかった。男は村人たちから「本宮山の男」として知られていたが、誰も彼に近づこうとはしなかった。

帰り道、夕暮れの田の畦道で、男は立ち止まった。
そこに、一人の若い女が泣いていた。
黄金色に波打つ稲穂の向こうに沈みゆく夕陽。その光を背に、女は膝を抱えて座り、声を殺して泣いていた。女の美しさは、男の知るいかなるものとも異なっていた。
黒髪は絹糸を濡らしたように艶やかで、腰まで流れ落ちていた。白い肌は月の光を吸った磁器のように滑らかで、透き通るような白さだった。衣は質素な農家の娘のものだったが、その容姿は都の姫君のようであった。細い首筋、華奢な肩、繊細な指先。すべてが完璧な調和を保っていた。

だが、その美しさには、何か尋常ならざるものがあった。

それは、美しすぎることの不自然さだった。人間の美には必ず何かしらの欠点があるものだ。だが、この女には欠点がなかった。完璧すぎた。そして、その完璧さゆえに、彼女は人間離れして見えた。

男が近づくと、女は顔を上げた。その瞳の奥には、男が恐れる満開の白華の巨大な虚無を思わせる、底知れぬ闇が揺らいでいた。それは、男の魂を映し出す、最も恐れる孤独と罪悪感を増幅させる鏡のようだった。
女の瞳に映っていたのは、男の虚無だけではなかった。そこには、彼女自身の、もっと深い、もっと古い虚無があった。それは、生まれながらにして抱えた空虚であり、存在することそのものへの倦怠であった。

女は、生まれた時から美しすぎた。その美しさゆえに、人々は彼女を愛し、欲し、所有しようとした。だが、誰も彼女の内側を見ようとはしなかった。誰も、彼女が何を感じ、何を求めているかを問おうとはしなかった。

彼女は、ただの美しい器だった。中身のない、空っぽの器。

そして、その空虚を埋めるために、女は他者の感情を食らうようになった。愛、憎しみ、嫉妬、狂気。それらを吸い上げることでのみ、彼女は自分が存在していると実感できた。
男は、その瞳を見た瞬間、自分が吸い込まれていくような感覚に囚われた。
「どうした?」
男の声は、長い沈黙の後で、かすれていた。
女は顔を上げ、水のように澄んだ声で言った。
「父に売られるのです。名古屋の裕福な商家に」
その声には、諦念と、そして奇妙な冷静さがあった。、だが、その目には涙が光り、その涙は夕陽を受けて、まるで宝石のように輝いていた。

「父は借金を抱えています。私を売れば、その借金が返せるのです」

女は淡々と語った。

「明日、名古屋の商人が迎えに来ます。私は妾として、その家で暮らすことになります」

男の心に、何かが動いた。

それは同情だったのか、憐憫だったのか、それとも――
男自身にも、わからなかった。ただ、この女を放っておけないという衝動だけが、彼を突き動かした。男の孤独と、内に秘めた暴力の本能が、女の美に引き寄せられた。彼は何かに導かれるように、女の手を取った。
その手は、驚くほど冷たかった。まるで氷のように。
「一緒に来るか」
男は言った。
「どこへ?」
「俺の住む山へ」
女は、少しの間、男を見つめた。その瞳の奥で、何かが揺らめいた。驚きか、喜びか、それとも――計算か。

そして、女は微笑んだ。

その微笑みは、あまりにも美しく、そしてあまりにも冷たかった。

「ええ、参ります」

その夜、男は女を背負って本宮山の森へ帰った。満天の星空の下、女は男の背で小さく、蠱惑的に笑った。その笑い声は、風に乗って森に響き、まるで何かを呼び覚ますかのようだった。

「優しい御方」女は囁いた。
その言葉は、男を森に縛り付ける呪いであった。
女は森の小屋で男の妻となった。
彼女は一切の家事をせず、ただ美しく在るだけであった。朝、目覚めると、女は小屋の中で髪を梳き、その艶やかな黒髪を撫でる。昼は、小屋の前で座り、森を眺める。夜は、男の隣で眠る。ただそれだけ。
彼女は料理をしなかった。掃除もしなかった。水を汲みにも行かなかった。すべて、男がした。だが、男はそれを苦とは思わなかった。女の存在だけで、男の孤独は満たされた。
戦の記憶が薄れた。斬った者たちの顔が、夢に現れなくなった。夜ごとの悪夢が消え、男は初めて安らかな眠りを得た。女がいるだけで、魂が癒えるように感じた。
女は次第に、奇妙で、残酷な振る舞いを見せ始めた。最初は些細なことだった。
「あなた、昨夜、誰かの名を呼んでいましたね」
女は、ある朝、微笑みながら言った。
男は首を傾げた。「いや、そんなことは」
「いいえ、呼んでいました。女の名を」
女の声は、優しかった。だが、その目は笑っていなかった。
「女の名を?」
男には妻などいなかった。戦場を転々とし、家族を持つこともなく、ただ刀を振るい続けた人生だった。だが、女は執拗に「前の女」の存在を口にした。
「あなたには、前に女がいたのでしょう?」
「いや、いない」
「嘘をおっしゃい。男は皆、前の女のことを忘れられないのです」
女の言葉は、まるで呪文のように男の心に染み込んでいった。やがて男は、自分の記憶を疑い始めた。本当に、自分には女がいなかったのだろうか? もしかしたら、戦場で出会った女がいたのかもしれない。もしかしたら、村に残してきた女がいたのかもしれない。

女の言葉は、男の心に根を張っていった。

「一人ではないわ。何人もいたのでしょう?」

「いや、いない」

「七人」女は断言した。
「あなたには、七人の女がいたのです」

男の頭の中が混乱した。七人? そんなはずはない。だが、女はあまりにも確信に満ちていた。そして、いつしか男は、自分にかつて七人もの妻がいて、その妻たちが今、この森のどこかに潜んでいるという狂気の錯覚に囚われていった。
女の瞳の奥の虚無は、男の心に巣食う嫉妬と不安を吸い上げ、増幅させた。
「彼女たち、私を妬んでいます」女は囁いた。
「私の美しさを妬み、あなたを奪い返そうとしています」
男は森の中に、前の女たちの気配を感じ始めた。木陰に潜む影、風に乗る声、夜中に聞こえる足音。それらはすべて幻だったろう。だが、男にとってはそれが現実だった。
そして、ある夜、女は男に囁いた。
「殺して」
その声は白華の散る音のように静かで、恐ろしい命令であった。
「あなたの心から、私だけを残して彼女たちを、殺してください」
男は震えた。
「どうやって? 彼女たちはどこにいる?」
「ここに」女は、白華の森を指差した。
「あの木陰に、あの茂みに、あの洞に。彼女たちは潜んでいます。あなたを待っています」
男は、存在しない女たちを探して森を彷徨った。そして、木陰に潜む影を見つけると、刀を振るった。実際には、そこには何もない。ただの木の幹、ただの岩、ただの空気。だが、男は女を見た。一人、また一人と、男は幻影を斬った。存在しない女たちの首を、男は次々と刎ねた。そのたびに、女は喜んだ。
女は血の匂いを嗅ぎ、男の腕に抱かれて、恍惚とした笑みを浮かべた。彼女の肌は、男が幻影を斬るたびに、より白く、より滑らかになった。彼女の髪は、より黒く、より艶やかになった。彼女の瞳は、より深く、より妖しく輝いた。女の妖艶は、男の狂気を吸い取るように日ごとに増していった。男の嫉妬こそが、彼女の糧であった。そして男は気づかなかった。女が、何者であるかを。女は、男の孤独が生み出した幻影ではない。女は、この白華の森が生み出した、美の化身であり、虚無の体現であり、死そのものだった。
女は、男の孤独を食らい、男の狂気を愛でる存在だった。そして、男が完全に壊れるまで、女は男を愛し続ける。

春が来て、白華が咲いた。花弁は無数に舞った。森全体が白に染まり、陽光は花を透かして、幻想的な光を放った。だが女は、本宮山の白華を見ようとしなかった。彼女は小屋に閉じこもり、窓も開けなかった。
「どうして外に出ない?」男が尋ねると、女は首を振った。
「怖いのです」
「何が?」
「あの花」
女の声は震えていた。
「あの白い花が、私を呼んでいるのです」
男には理解できなかった。女は、いつも冷静で、いつも完璧だった。その女が、花を恐れるとは。
「美濃へ行きましょう」女は、ある日、唐突に言った。
「美濃?」
「ええ。ここではない、どこか遠くへ」
女の目には、奇妙な輝きがあった。男は戸惑った。この森は、彼にとって唯一の居場所だ。だが、女の願いを拒むことはできなかった。女の美の魔力は、日を追うごとに男を縛り上げていた。
「わかった。美濃へ行こう」

街道を歩く二人の姿は、奇妙な対照をなしていた。男はぼろを纏い、髪も髭も伸び放題で、まるで乞食のようだった。対して女は、粗末な衣を着ていながらも、その美しさゆえに、まるで姫君のように見えた。道行く人々は、二人を不思議そうに見つめた。美濃の街に着くと、男は圧倒された。
焼き物の煙が空を焦がし、活気あふれる街並み。ガス灯が灯り、洋装の人々が行き交う。馬車が走り、商店が軒を連ねる。ここは、男が知っていた世界とはまったく異なる、新しい時代の世界だった。文明開化の波は、この美濃の街を完全に変えていた。人々は忙しく働き、商売に励み、金を稼ぐことに夢中だった。誰も立ち止まらず、誰も空を見上げない。ただひたすらに、前へ、前へと進んでいく。
男にとって、それは地獄そのものだった。人の多さ、喧騒、騒音。すべてが男の神経を逆撫でした。長い孤独の後で、これほど多くの人間に囲まれることは、耐え難い苦痛だった。
だが、女は喜んでいた。彼女の瞳は輝き、頬は紅潮し、まるで生き返ったかのようだった。だが、それは生の喜びではなかった。それは、新しい感情を食らうことへの期待だった。
「素晴らしいわ。こんなに人がいるなんて」
女は、街を歩きながら囁いた。
「こんなに、多くの人間の感情があるなんて」
男の心に、暗い予感が走った。二人は、街外れの煤けた小屋を借りた。そこで、女の本性が、さらに明らかになっていく。

「美しい男が欲しい」女は、煤けた小屋で男に囁いた。その声は、まるで宝石を砕くように冷たく、そして甘美だった。男は、言葉の意味を理解できなかった。
「何を言っている?」
「美しい男が欲しいのです。あなた、連れてきて」
女の目は、まるで子供がおもちゃをねだるように無邪気だった。だが、その無邪気さには、何か恐ろしいものが潜んでいた。
「どういう意味だ?」
「わからないの? 美しい男を、ここに連れてきてほしいのです」女は微笑んだ。「そして、殺して」
男は凍りついた。
「殺せというのか?」
「ええ」女は当然のように頷いた。そして、初めて、彼女は自分の内面を明かした。
「私は空っぽなの」女は言った。
「生まれた時から、私の中には何もなかった。人は私の美しさを愛したけれど、誰も私自身を見なかった。私は、ただの器。美しいだけの、空っぽの器」
女の声には、深い悲しみが滲んでいた。
「でも、あなたの嫉妬を感じた時、初めて私は満たされた。あなたの狂気を吸い上げた時、初めて私は存在を実感した」
女は男を見つめた。
「美しい男を殺して、その首を私にください。そうすれば、あなたの嫉妬がもっと深くなる。そして、私はもっと満たされる。私はもっと美しくなれる」
女の論理は狂っていた。だが、男にはそれが理解できた。自分も、孤独を埋めるために、この女を求めたのだから。
そして、男は気づいていた。女の美しさが、自分の暴力によって増していくことを。
女は、男の罪を糧とする存在だった。男が殺せば殺すほど、女は美しくなる。それは、ある種の共生関係だった。いや、互いの虚無が呼応し合う、破滅的な連鎖と言うべきか。

男は、数日間、悩んだ。本当に、人を殺すのか?森で幻影を斬るのとは違う。実在する人間を殺すのだ。だが、女の願いを拒むことはできなかった。女の美の魔力は、日を追うごとに男を縛り上げていた。そして、ある夜、男は決意した。
ガスの灯りが届かない路地裏で、男は待った。深夜、一人の青年が通りかかった。焼き物職人らしき、若い男だった。酒に酔っているのか、千鳥足で歩いていた。男は、影から飛び出した。刀を抜き、一瞬の躊躇の後、振り下ろした。青年の首が落ちた。温かい血が噴き出し、男の顔を濡らした。青年の身体は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。男は、首を拾い上げた。青年の顔は、驚愕に凍りつき、目は見開かれ、口は半開きだった。
男の手は震えていた。戦場での殺しとは、何かが違った。あの時は、殺さなければ殺される状況だった。だが、今は違う。罪のない者を、ただ女のために殺したのだ。男は吐き気を覚えた。だが、同時に、奇妙な高揚感もあった。戦場で身につけた殺しの技術が、再び甦った。自分は、やはり殺人者なのだと。
男は、首を懐に抱え、小屋に持ち帰った。
女は、新しい獲物を前に、恍惚とした笑みを浮かべた。
「ああ、美しい」女は、青年の首を撫でた。その冷たい肌を、愛おしそうに撫でた。「なんて美しいの」
女の頬は紅潮し、瞳は潤み、まるで恋人を前にしたかのようだった。彼女は首を抱きしめ、その頬に自分の頬を寄せた。
そして、女は男を見た。
「嫉妬深い顔ね」女は、微笑んだ。「殺したのね? 悪い子ね」
男は、女の言葉に複雑な感情を覚えた。喜びと、罪悪感と、そして恐怖。

翌朝、女は言った。「もう飽きたわ」

最初の殺しの後、男は数日間眠れなかった。青年の顔が、夢に現れた。驚愕に凍りついた目が、男を責めた。だが、女は男を慰めた。抱きしめ、優しく髪を撫で、囁いた。
「あなたは素敵よ。私はあなたのものよ」
その言葉に、男は救われた。そして、二人目を殺した時、罪悪感は少し薄れていた。三人目の時、男はもう慣れていた。
四人目の時、男は何も感じなくなっていた。
男の心は、少しずつ壊れていった。小屋には、首が並べられていった。女は、それらを愛でた。まるで宝石のコレクションのように、一つ一つを慈しんだ。だが、男が気づき始めたのは、女の変化だった。女の美しさは、確かに増していた。肌はより白く、髪はより艶やかに、瞳はより深く輝いた。だが、同時に、女の虚無も深まっていた。
彼女は、次第に人間らしさを失っていった。笑い方が不自然になり、動作が人形のようになっていった。

そして、男は理解した。女は、自分の感情を食らうことで満たされるだけではなかった。女は、食らえば食らうほど、空虚になっていくのだ。それは、底のない穴に水を注ぐようなものだった。どれだけ注いでも、決して満たされることはない。
男は、恐怖を感じ始めた。このまま殺し続ければ、自分はどうなるのか。そして、女はどうなるのか。
そして、毎晩、女は男に問いかけた。
「あなたは、私を愛しているの?」
「ああ」男は、もはや自動的に答えていた。
「なら、私をもっと愛して」女は、男に囁いた。
「もっと殺して。そうすれば、私は満たされる」
だが、男は知っていた。女は決して満たされないことを。

美濃の街は、恐怖に包まれた。「首切り」の噂が広がり、人々は夜出歩くことを恐れた。役人たちが動き、捜査が始まった。
男は、いつ捕まるかと怯えた。だが、同時に、捕まることを望んでもいた。この狂気から解放されたかった。男の心の中で、二つの声が戦っていた。
一つは、女への愛。もう一つは、罪悪感と恐怖。そして、ある日、男は決意した。
「本宮山に帰ろう」
美濃の街では、文明開化の光が隅々まで届いていた。街路にはガス灯が灯り、夜でも明るかった。警察署が設置され、制服を着た巡査が巡回していた。新聞が発行され、人々は世界の出来事を知った。学校が建ち、子供たちが読み書きを学んだ。
人々は、新しい時代を謳歌していた。封建制度は崩れ、身分制度は緩和され、誰もが努力次第で成功できる時代が来た。商人は富を築き、職人は技術を磨き、学者は知識を深めた。西洋の文化が流入し、人々は洋服を着て、洋食を食べ、音楽を聴いた。その光の届かない場所に、男と女はいた。街外れの煤けた小屋。文明の光が届かない、暗闇の中。そこで、男は殺し続け、女は美しさを増し続けた。
昼間、街を歩けば、人々の幸せそうな顔が見える。家族連れが笑い、恋人たちが手を繋ぎ、商人たちが活気に満ちた声で闊歩している。そこには、生活の喜びがあった。

路地裏で若者を待ち伏せ、一瞬で命を奪い、その首を持ち帰る。小屋に戻れば、腐敗した首に囲まれ、狂気の女に愛を求められる。男は思った。自分は、この新しい時代から取り残されているのだと。文明は進歩した。だが、自分は進歩していない。いや、退化しているのかもしれない。戦場で殺人者だった自分が、今また殺人者に戻っている。文明の光は、自分を照らすことはない。自分は、永遠に闇の中にいる。

男は山を思い出した。
本宮山の白華の森。
あの恐ろしいほどの美しさ。あの圧倒的な静寂。あの巨大な虚無。

あの無白が恋しかった。

美濃の街の喧騒は、男の心を疲弊させた。人々の笑い声は、男の罪悪感を増幅させた。文明の光は、男の闇をより深くした。

男は、逃げ帰りたい。

あの静寂な森の、恐ろしいほどの美しさの中に。


春が駆け足になり、街にはあたたかな風が吹き、人々は軽やかな衣服を纏い始めた。ある夜、男は女に言った。
「本宮山に帰ろう」
男の声は、かすれていた。長い殺戮の日々で、男の喉は枯れ、声は出にくくなっていた。女は、少しの間、男を見つめた。
「帰るの? あの森に?」
「ああ」
「どうして?」
「もう、疲れた」
女は黙っていた。そして、長い沈黙の後、冷たく微笑んだ。
「ええ、いいですわよ」
女の声には、諦念と、そして奇妙な期待が混じっていた。
街の人々は、二人の姿を見送った。誰も、彼らが「首切り」の犯人だとは気づかなかった。ぼろを纏った男と、美しい女。ただの旅人にしか見えなかった。
小屋には、腐敗した首が残された。それらは、やがて役人によって発見され、街は恐怖に包まれることになる。だが、その時、男と女はすでにいない。
帰りの街道沿いには、満開の桜が咲き乱れていた。淡い色の花びらが風に舞い、二人の旅路を彩る。その光景は、あまりにも美しく、あまりにも平和で、男の心に深い皮肉を感じさせた。これほど美しい世界で、自分は何をしてきたのか。
男の心には、懐かしさと不安が入り混じっていた。帰れる喜びと、あの恐ろしい白華の森に再び足を踏み入れる恐怖。
大縣が近づくにつれ、桜の華やかさは、次第に男の心を圧迫するようになった。桜の明るい彩色は、まるで男の罪を照らし出すかのようだった。花びらが舞うたびに、男は殺した者たちの顔を思い出した。女は、旅の間、ほとんど何も話さなかった。ただ黙って、男の背に揺られていた。その表情は、穏やかで、そして遠くを見つめていた。まるで、何か運命を受け入れたかのように。

そして、二人は本宮山に着いた。


大縣神社の鳥居をくぐり、山道を登り始めると、景色は一変した。桜の代わりに、白華が咲き誇っていた。純白の花が、まるで雪のように、森を覆い尽くしていた。その光景は、桜の温かさとは対照的に、冷たく、霊的な美しさを放っていた。男は、懐かしさに胸が締め付けられた。
この白。この圧倒的な白。十数年、この森で孤独に暮らした日々が、鮮やかに蘇った。あの頃の自分は、少なくとも人を殺してはいなかった。幻影を斬っていただけだった。だが、今の自分は、本物の人間を殺してきた。
本宮山の森は、樹齢を重ねた白華が、天も地も覆い尽くすほどに花開いていた。花びらは絶え間なく降り注ぎ、地面には膝まで積もるほどの花の絨毯が広がった。陽光は花を透かして乳白色の霞となり、遠くも近くも定かでない幻想の世界が広がった。風が吹けば、白華が雪崩のように舞った。無数の花弁が渦を巻き、空気そのものが白く染まった。散る花の音が、ざわざわと、さわさわと、途切れることなく響いた。それは波の音のようでもあり、無数の魂の囁きのようでもあった。
美しかった。恐ろしいほどに、圧倒的に美しかった。この恐ろしいほどの美しさの中でこそ、自分は自分でいられたのだと気づいた。だが、もう遅かった。男は、もはや純粋な孤独の中にはいられなかった。手は、血に汚れていた。男の魂は、罪に染まっていた。

男が足を止めた時、女が高らかに笑った。その笑い声は、森に響き渡った。振り返ると、女の顔はもはや人間のものではなかった。
口が耳まで裂けていた。髪は緑色に縮れ、肌は紫に変色していた。瞳は金色に光り、牙が月光に濡れて輝いた。
女ではなかった。
鬼であった。
「驚いた?」
鬼は、男の驚愕の表情を見て、楽しそうに笑った。

「あなた、ずっと気づかなかったのね」

男は叫んだ。

「お前は――お前は一体――」

「私?」

鬼は首を傾げた。そして、その声は、突然優しくなった。
「私は、生まれた時から空っぽだった。人は私の美しさを愛したけれど、誰も私自身を見なかった。私は、ただの器。美しいだけの、空っぽの器」声には、深い悲しみが滲んでいた。
男と女、二つの孤独が呼応し合い、互いを食らい合い、そして互いを破滅させた。それは、ある種の愛だったのかもしれない。だが、それは生を肯定する愛ではなく、死へと向かう愛だ。
男は、本能のままに抗った。
刀を抜き、鬼に斬りかかった。だが、それは戦いではなかった。それは、共に滅びるための儀式だった。取っ組み合い、転げ回り、白華が舞い散る中で、二つの虚無が絡み合った。
男の手が、鬼の喉を掴んだ。
力を込めた。
鬼は悲鳴を上げ、暴れ、やがて動かなくなった。

白華が降り続けた。

男の腕の中で、鬼の姿が消えた。

そこにあったのは、美しい女の屍だった。

白い肌、黒い髪、閉じられた瞼。女は安らかな顔で、まるで眠っているようだった。鬼の醜い姿は消え、最初に出会った時の、あの美しい娘の姿に戻っていた。
男は嗚咽した。
涙が溢れ、止まらなかった。女の頬に触れると、まだ温かかった。
「すまない」男は囁いた。「すまない、すまない」
何に対して謝っているのか、男自身にもわからなかった。女に対してか、美濃で殺した者たちに対してか、戦場で斬った者たちに対してか、それとも自分自身に対してなのか。

白華が絶え間なく降り積もった。

女の顔に、髪に、着物に、白い花弁が重なっていった。男の肩にも、背にも、頭にも花が積もった。本宮山の白華の森は静寂に包まれ、ただ花が散る音だけが響いた。

ざわざわ、さわさわ、と。

それは、森の呼吸だった。森の歌だった。森の弔いの鐘だった。

どれほどの時が過ぎたのか。

男がふと我に返ると、腕の中は空だった。

女の屍は消えていた。ただ花びらだけが、うず高く積もっていた。男は呆然と立ち上がった。周囲を見回したが、女の姿はどこにもなかった。

白華の花が、満開のまま、静かに男を見下ろしていた。

月が昇った。満月だった。月光は花を透かして青白く輝き、森全体が幽玄の世界に変わった。花びらは銀色に光り、風もないのにゆらゆらと舞った。男は、花の海の中に立ち尽くした。

ついに究極の解放を得た。彼に残されたのは、この満開の白華の巨大にして冷徹な虚無だけだった。
男は、ゆっくりと小屋へ向かった。そこで、男は静かに生き続けるのだろう。白華が咲き、散り、また咲く。その繰り返しの中で、男は孤独そのものとなり、やがて森と一つになっていく。男の魂は、花弁が地に落ちる音とともに、森の永遠の静寂に融けていった。
春が来るたび、本宮山の森は満開となる。
楽田村の村人は今も、あの森を避ける。
「白華の下を歩けば気が狂う」
古老たちの言葉は、今も語り継がれている。
だが、誰も知らない。
あの森に、一人の男が棲んでいることを。
男は、もはや人間ではなかった。森の一部となり、虚無そのものとなっていた。春が来れば、男は花とともに目覚め、花とともに眠る。
文明は進歩し続けた。楽田村にも鉄道が敷かれ、電灯が灯り、洋館が建った。人々は新しい時代を謳歌し、古い伝説は忘れられていった。だが、本宮山の白華の森だけは、変わらなかった。文明の光は、決してあの森には届かなかった。森は、永遠に時が止まったまま、ただ白華が咲き続けた。
白く、美しく、恐ろしく。
白華の森の満開の下、その秘密は誰にも解けぬ。

ただ一つ確かなことは、花の下には屍体が埋まっているということだ。

それは、美濃で殺された者たちの魂かもしれない。

それは、戦場で果てた者たちの無念かもしれない。

それは、女という名の虚無の残滓かもしれない。

それは、男の孤独と罪悪感の結晶かもしれない。

だからこそ、白華はあれほど美しく咲くのである。

そして、その花の下には、今も男の途方もない孤独の余韻が、冷ややかな空気となって漂っているのだ。

ざわざわ、さわさわ、と。

花が散る音が、永遠に響き続ける。

それは、死者たちの囁きであり、森の呼吸であり、虚無の歌である。





白華(ヒトツバタゴ)について

白華とは、落葉高木、ヒトツバタゴのことです。細長い花弁が四枚、星のような形を成し、枝いっぱいに密生し、満開時には、まるで樹全体が雪に覆われたように見え、その姿から「白華」「雪の花」「雪見草」とも呼ぶ地域もあるそうです。その美しさゆえに、古来より日本人に愛されてきましたが、現在自生しているのは九州と愛知県の北部のみらしいです。

白華の下にて

執筆の狙い

作者 どくだみ
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これも数年前出したやつにアドバイスいただいたところを書き足したものです。坂口安吾のパクリいや、オマージュです。よろしくお願いいたします。

コメント

青井水脈
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読ませていただきました。
なんとも幻想的、狂気に満ちた愛と云えるのか、なんだかベタな表現ですが。

極彩色の桜(薄いピンクじゃなく濃い色)と白樺とを対比させる導入。
時代は明治二十年代、場所は尾張国のとある村、と始まりはわかりやすく。

>あの時は、殺さなければ殺される状況だった。だが、今は違う。罪のない者を、ただ女のために殺したのだ。男は吐き気を覚えた。だが、同時に、奇妙な高揚感もあった。戦場で身につけた殺しの技術が、再び甦った。自分は、やはり殺人者なのだと。

文章は少々粗削りな(、が多めとか)印象です。
一文を長くするとかして、小説らしい体裁にもできるかと思いますが。今作には、作中の高揚感や狂気がそのまま宿っているように思いました。

どくだみ
om126166171204.28.openmobile.ne.jp

青井水脈様、読んでいただきありがとうございます。
このままコメントゼロでいっちまうかと思っていただけに嬉しさもひとしおです。

元ネタの坂口安吾が桜なので、白にしようという安直な感じで、アイデア丸写しでやっていこうと思ってたんですが、書いてるうちにやっぱり変わっていくものだと自分でも驚いたことを覚えてます。

幻想的な雰囲気を頭に描いて(BGMもつけてたりしました)書いてたので、言っていただけて本当に嬉しいです。花びら散るところは今回加筆したところだったりします。

句読点は、確かに多かったですね。あんまり意識してなかったけど、これはこれでなんかいいかと思えてしまいました。セリフは苦手なので、書く時は自分でしゃべりながら書くこともあるから、それが原因かなーと。

ホント、読んでいただきありがとうございました。

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