愛について語るとき
『世界の全てはものではなく、できごとで出来ている。かけがえのない今は、全宇宙が共通であるとは言えない。』
愛について語るとき、私たちはしばしば「儚さ」についても考えずにはいられない。愛の美しさは、その刹那性にあるのではないか──と。
なぜ人は、蝋燭や線香花火といった消え入りそうな灯りに惹かれるのだろう。それは消えゆくもの、永遠ではないものが私たちの心に特別な意味を与えるからだ。
散文にある「ものではなく、できごとで出来ている」というのは、愛を考える上で非常に深遠な洞察である。愛は物理的な存在ではなく、目に見えない関係性や瞬間の積み重ねによって形作られる。捉えどころがなく、時に不確かなのだ。光が輝くのは闇の中だからこそであり、愛が尊く感じられるのも、限りある時間とともに変わりゆくからであろう。
永遠ではないからこそ強烈に輝く。それは、愛する人と共にする時間も同じである。正確な時計の針ではなく、それぞれの心の中で揺れ動く感情の振り子がその量を測るのだ。故に、愛にはある種の無常観が付きまとう。人を愛すればいずれ別れを経験する。恋人や家族であれ、その関係はいつか終わりを迎えるか、もしくは変わり果ててしまう。終わりがあるから今が重要になり、一つ一つの瞬間が輝きを放つ。もし人にその感覚がなければ、愛の深みは半減するのかも知れない。
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『遺留品』
ここは地球なのか……
いやちがう、月がやけに近い。
瞬く星たち、見たことのない星座。天の川は、無い。
ずいぶんと遠くに来てしまった。が、自らの意思ではない。歪んだ時空から落とされたのだ。
──雑居ビルが連なる細い路地。消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、地面から五十センチくらい上にそれは浮かんでいた。
最初は見えていなかった、透明なのだ。灯に照らされながら、陽炎のように背景がくらくらと歪んでいる物体がある。近づくとそれは九十センチほどの楕円体をしていた。目を凝らしながらさらに近づいたとき、全身を貫く強い衝撃とともに頭からその中に引き込まれた。
呼吸は出来ている、気温も湿度も変わらない。ただ、重力が大きいのか歩みが重い。地球よりも時間はゆっくり流れているのだろうか。
月明かりに照らされた地平線まで広がる大地、サバンナのような荒涼とした空間。
私は独りなのか……
ふいに孤独感が襲ってきた、慣れているだろうに。三年前 、妻と娘を交通事故で亡くしたあの日から。
――ありふれた日曜の午後、庭で草むしりをしていた。
だいぶ怠けてしまった。咲き始めた白、ピンク、薄紫のカンパニュラ・メディウム。周りには雑草が目立ちはじめている。
「お父さん、買い物に行ってくるからお留守番お願いね」
娘の呼び掛けに振り返ると、トートバッグを肩からさげた妻と小さな麦わら帽子をかぶった娘が手をつなぎ、私に微笑んでいた。私はピンクのカンパニュラを一輪切って帽子に差してあげたあと、気を付けて行って来るんだよと、妻と娘を見上げ声を掛けた。
それが最後の会話だった。
買い物の帰り道、ふたりは交通事故に巻き込まれ、二度と再び、あの笑顔に応えることができなくなってしまった。
地平線に沈む月明かりを頼りにどれほど歩いたのか。宙のかなたに閃光が走り、星たちの光が増したと思った次の瞬間、真っ白に輝く物体が目の前に現れた。
どこから来たんだ、直径三メートルほどの球体……
しばらく眺めていると、音もなく、中央から左右に割れるように入口らしき空間が出現し、その中は表面と同じで白く発光している。
入れというのか、しかし恐れは感じない……
中に入ると、それを望んでいたかのように音もなく入口は閉じられた。閉じるとすぐに視界がひらけ、球全体が透明なガラス質の物体に変化した。
私を乗せたそれは、地表すれすれで月方向に移動したかと思うといきなり舞い上がり、一気に月を通り越した。光速に近いスピードなのだろうがほとんどGは感じられない。
視界は徐々に狭まり、前方は、七色のグラデーションが永遠に続くトンネルのように見える。側面からうしろは、速度が増すにつれ背後から暗闇に呑み込まれていくようだ。
どれだけの星々の間を駆け巡ったのだろう。球体は速度を落としたのか、少しずつ視界が広がり始めると、外の景色を確認できるようになった。
遠くには円盤型の銀河が旋回し、その奥に暗黒物質が蠢くように渦巻いている。広大なる宇宙の景観──それは、かつてSF映画で観たものによく似ている。数十億年以上の神秘。今、眼前で繰り広げられている光景がどれほどの規模で、どれだけ長い年月をかけてこうなったのか。──青く輝く氷の海を持つ星、赤熱するマグマのような海に覆われた星、環状構造が惑星を包む巨大なリングを持つ星。宇宙の中に点在するこれらの存在は生命の兆しを感じさせるが、私の目に映るのは、言葉を失わせるほどの美しい孤独だ。
あれは……
突然、前方に暗黒の壁と光の帳が虹のように交わり、眩むほどの輝きを巻き起こした。得体の知れない恐れが胸中に宿る。刹那、目の前には漆黒の巨大な円形の空間が広がり、その周りには、時空の歪みのような光の帯が輝いている。
ああ、本で読んだことがある。これが、ブラックホール……
事象の地平線は越えているのだろうか、或いは、すでに特異点に向かって引きずり込まれているのか──私はただ眺めながら、漂う一個の存在としてこの場に身を置くだけでしかない。
事象の地平線……
ブラックホール周辺において、光が重力に囚われ外部に逃れられない範囲の境界面。また、膨張する宇宙で、観測者から遠ざかる速度が光速を超えている領域との境界面──光の速度でさえ脱出不可能な領域。その先は無尽の深淵、無限の闇 。
時間が故意に引き伸ばされている感覚のなかで、スクリーンに映したかの如く、懐かしい景観が目の前に現れた。
この場所を知っている……
既に手放した自宅の二階、かつての私の書斎だ。大きな窓の向こうには南東の陽に照らされた富士山と、裾野に山々が連なっている。
私を乗せた透明の球体はその役目を終えたかのように、ゆっくりと存在を消しながらその場に立たせてくれた。
ふらつく脚を進ませ窓際に立ち、下を眺めた。すぐに理解出来た、あの日に戻ったのだと。三年前のあの日に。
庭の手入れをしているわたし。玄関のドアをあけ、わたしに近づく妻と娘。ああ、なんと美しい人。なんて愛らしい娘。知らせなければ、とどまるようにと、早く!
両手で何度も窓を叩いた。妻がこちらを見たがすぐに目を逸らした。私が見えていない、なぜだ。実存する時空が違うのか、ここでは私は幽霊の様な存在?
あぁ、世界線が違うのだ……
違う世界線であれば現象と結果は多少なりとも異なるはず、ふたりの身に降りかかるものは変わってくるかも知れない。しかし、その結果を明らかなものにしなければ。この世界では、私たち家族が悲劇で終わってはいけない。
渾身の力を振り絞り椅子を窓に叩きつける。窓硝子がガシャンと悲鳴をあげ破片が飛び散ると、三人が一斉にこちらを仰いだ。そこにいるわたしは訝しげな表情でこちらを凝視したあと、妻と娘を諭してから玄関に向かった。妻は娘を抱きしめたまま座りこんでいる。
ふと、どこからか微かに、鐘の音が聞こえた。
よかった、これでなんとか……
安堵に浸った刹那、全身を貫く強い衝撃が私を襲い、視界は暗黒に包まれた。
♢ ♢ ♢
雑居ビルが連なる細い路地。 消えそうに点滅を繰り返す街灯の下、'Keep Out'と囲われたエリアで二人の男が話している。
「お疲れ。どうなんだ」
「救急搬送された病院で死亡が確認されました」
「屋上からではな。それで」
「はい、スーツの胸ボケットに免許証と遺書が。このビルの五階に部屋を借りています。三年前、奥さんと娘さんを交通事故で亡くされ、その後ここに移り住んだようです」
「……そうか」
「遺書には亡くなった二人への想いが綴られていました。この路地を行った表通りが、当時の交通事故現場になります」
「事件性は無しだな。では、その内容で報告書を」
「承知しました。あっ主任、それと遺留品なのか、すぐ脇にカンパニュラの花が一輪落ちていたそうです。これも報告しておきますか?」
「ん、どんな花だ」
「少々お待ちを。……出ました、これですが」
「鐘に似た可愛らしい花だな」
「花言葉は、誠実な愛、思いを告げる……」
「どれほど時間を要しても悲愴には抗えぬか。一応、上げといてくれ」
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終わりに~
どんなに長大な夢であっても、実際に追体験しているのはほんのわずかな時間のように思える。例えば事故の刹那に浮かぶと言われる走馬灯のような映像は、脳が現実の時間の流れを遥かに超越して、計り知れない情報を受け取る力を秘めている証拠ではないだろうか。
死の淵に立たされる時、私達の脳がどのように反応し、アドレナリンの奔流がいかにして認識を変容させるのか。また、脳内の酸素が減少し二酸化炭素が増加することでなぜ幻影が見えるのか──など、走馬灯には未解明な課題が数多く存在する。とはいえ、夢という現象が一瞬のうちに膨大な情報を私たちに示し、心の中に沈殿した感情や記憶を掬い上げてくれるのは確かだ。
執筆の狙い
カクヨム『PHANTASMAGORIA』よりの改稿版
読んでいただけるだけで結構です。