名もなく、死もなく、語られず
<記憶の構造>
自由とは、何かから解放されることではない。
それは何にも属さず、何にも縛られず、何にも意味づけされない状態。
そう定義した時点で、すでに私はその語に支配されている。
記憶を捨てれば、自由になれると思った。
過去がなければ、現在を選べると思った。
しかし、選ぶという行為自体が、すでに自己を前提とする。
自己を前提とした選択は、すでに構造の内部にある。
私は誰かを憎んでいた気がする。
誰かを愛していた気もする。
だが、具体的な輪郭は思い出せない。
記憶は消えたが、痕跡だけが残っている。
それはまるで、焼けた建物のなかに漂う煤の匂いのようだった。
形はないが、消えたとも言い切れない。
自由は、記憶の不在によって達成されるものではない。
不在さえも、存在の一部に組み込まれる。
私はまだ、この世界に接続されている。
<愛の逆説>
愛は束縛だろうか。
相手を求め、期待し、裏切られ、失う。
その全ての過程は、自我の制限を意味する。
だが、誰も愛さなければ、本当に自由か?
私は過去に誰かを愛した。たぶん。
そのことが、今もわたしを定義している。
記憶はないのに、定義だけが残っている。
奇妙だ。
情報よりも構造のほうが、記憶よりも関係のほうが、強く残る。
愛は行為ではなく、構造だった。
だから逃れられない。
関係という構造に組み込まれた時点で、私は自由を失っている。
では孤独になれば自由か?
孤独もまた関係性の逆数として存在している。
人間は誰とも関係を持たずに、孤独でいることはできない。
孤独であることすら、誰かの不在によって支えられている。
それは、構造としての愛と、ほとんど変わらない。
<死について>
死は、すべての関係を断ち切る。
死んだ人間は、過去からも、未来からも解放される。
それなら、死こそが自由の完全形だろうか。
だが、死を選ぶことはできる。
選べるということは、自由の前段階に過ぎない。
死が自由であるなら、生における自由とは、常に死の可能性によって規定される。
それは、恐ろしく不自由な構造だ。
死が自由だという幻想は、
生きている者だけの思考の中にある。
死者は自由ではない。
なぜなら、「自由である」ことさえ、死者には定義され得ないからだ。
私が死ぬことで自由になるという発想は、
まだ私が「私」という主体に縛られている証だ。
だから私は死ねない。
まだ自由ではないからだ。
<名という制度>
名がある限り、人は何かであり続けなければならない。
誰かであり、何者かである限り、人は社会的な構造から逃れられない。
私は名を捨てた。
紙に書かれた名を焼き捨て、
記録に残された名を削除し、
口にされるたびに否定し続けた。
そして、誰も私を呼ばなくなった。
呼ばれることのない存在になった。
しかし、名を捨てるという行為自体が、名という制度を前提としている。
無名であることもまた、「名に対する姿勢」として機能してしまう。
つまり私は、「名に縛られない者」という名を得たに過ぎない。
完全な匿名性とは、存在の否定に近い。
では存在を否定することが自由か?
私はいる。
いるという状態が、すでに一つの枠組みだ。
存在が自由を拒むなら、
自由とは、非存在の中にしかない。
けれど私はまだ、ここにいる。
<自由の証明/終端としての沈黙>
問いを立てることは、前提を持つことだ。
前提を持つことは、構造に従うことだ。
構造に従いながら、「自由」を問うのは、自己撞着に等しい。
では、自由は問われること自体に適さないか?
おそらくそうだ。
自由とは定義されず、証明されず、伝達もされない。
それは沈黙のようなものだ。
語られることで崩れ、見つめられることで歪む。
沈黙だけが、自由に近い。
語られないもの、定義されないもの、意味づけされないもの。
だが沈黙することもまた、「語らない」という選択である限り、
それは意志であり、意志は自己を必要とする。
私が沈黙するということは、まだ私がいるということだ。
つまり、私はまだ、何かに属している。
存在という構造に。
呼吸という現象に。
時間という連続に。
自由はない。
ただ、自由を問う行為が残るだけだ。
そしてその問いもまた、
やがては静かに崩れ、どこにも届かずに消えていく。
ここから先は、もう語らないことにしよう。
(了)
執筆の狙い
これは「自由」という言葉の限界を、構造の内側から問い直す試みです。
中途で抽象的、未完成でもある。
でも、今の自分にとっての全力をここに置きました。