作家でごはん!鍛練場
西山鷹志

旅情 阿蘇編 

長い教員生活も定年を迎えて楽しみにしていた妻と、教え子達を訪ねる旅も、妻が他界し一人旅となってしまった。元校長の石田直彦。今教え子を尋ねる旅をしている。
次の目的地、熊本は阿蘇市に向かっていた。
その教え子は私が校長になってすぐの頃だった。山本典子いまは安田と姓が変わっている。生徒会長まで勤めた秀才だった。その関係でよく私の所に相談に来たから良く覚えていた。その子から相談に乗って欲しい事があると年賀状に書かれてあった記憶が残っている。退職しても頼られるのは元教師としての誇りでもあり、役にたてる事が生き甲斐とも思っている。

阿蘇五岳に囲まれた阿蘇一帯はすり鉢状になっていて見渡し限り四方八方が山に囲まれている。石田は市内のホテルに今日の宿を取った。そこから典子に電話を入れた。本当は家を訪ねると言ったのだが、こちらから伺いますと言われた。家では話しにくいのだろう。
ホテルにチェックインしたのが四時過ぎだった。まだ時間があるので一風呂浴びて、ホテルの中にあるラウンジで珈琲を飲んでいた所に見覚えのある女性が現れた。それが安田典子だった。石田は軽く手を上げた。

「校長先生、お久しぶりです」
「やあ君も元気そうじゃないか。まあ座って、君も珈琲を飲むかね」
典子は現在二十四歳。大学時代に恋愛して卒業してまもなく結婚したらしい。
「早速だが、相談ごとがあると書いてあったが?」
「……ハイ。実は離婚しょうかと迷っているんです」
「えっ? どうしてまた。結婚してまだ数年じゃないのかね」
「ハイ、あと二ヶ月で二年になります。私たちは同じ年なんです。夫は学生気分が抜けないのか、仕事が定まらずバイトで繋いでいるだけです。私も近くのホテルでアルバイトしているのですが、夫はまったく将来の事が頭になく。子供が生まれたら生活はどうするのと聞いたら、あっさり子供を作らなければいいと言うのです」

「そうか、君は定職を持たない主人が不安なんだね」
「そうです。もし子供が出来てもバイトでは生活して行けません。私だって育児に専念したら夫の収入だけでは、とても生活出来ないんです」
「だから離婚したいと言うのかね」
「何度も何度も、夫には同じことを繰り返して伝えました。でもその時はその時と、まるで他人事のようで、私があまり言うものだから最近殴られたんです。それがエスカレートしてきて、夫も家を空けるようになり会うと喧嘩ばかりの毎日です」
「なるほど、それじゃあ将来も見えて来ないなぁ」
「せんせい、私どうしたら良いでしょうか」
「二人の仲の距離が開いたと言うことかね」

「距離って……」
「つまり二人の間に溝が出来たと言うべきか。人それぞれ歩むコースが異なる。快適な舗装道路を歩く人、山道を歩く人。つまり人それぞれと言う事だよ。でも結婚して生活を共にするなら同じ道を歩むのが普通だ。君の主人は君と同じ道を歩むのに疑問に思っているようだ」
「えっ、どうしてですか。私は当然のことを言っているだけです」
「勿論そうだ。おそらく彼は結婚したことで束縛された気分になったのだろう」
「束縛だなんて、夫婦なら当然のことではないですか」
「待ちなさい。君に非があると言っている訳じゃない。むしろ彼の方が子供だという事だよ。ただ離婚は簡単なことだ。まして子供も居ないから紙切れ一枚で済む。しかし君達は結婚披露宴で沢山の人達に祝福されたはずだ。そして幸せになるとも誓ったはずだね。いま君がすることは離婚の相談ではなくて、彼をどうしたら定職に着かせる事が出来るかじゃないのかね」
「はい……でも色々やって来ましたけど無理だと思います」
「そうか、確認して置くけど二人の仲は愛情が冷めた訳ではないんだね」
「ええ、それは。ただこのまま行くと私の方が冷めてしまうかもしれません」
「分かった。彼に会わせてくれないか。出来れば機嫌が良い時の方がいい」

今の典子にとっては藁にも縋る思いだ。いくら元高校教師であり校長であろうが自分たち夫婦の、かけ離れた距離を埋めるのは不可能と思われるが、最後の望みを恩師の石田に託しことにした。
これは石田にとってデリケートな問題だ。夫婦間のトラブルに首を突っ込むのだから覚悟がいる。典子は教え子で心配ないが、夫とは赤の他人。石田が介入すれば立場的に二対一と取られてしまう。介入するには、どちらの味方でも敵手でもない事を知ってもらいたい。その中から最良の解決方法を見つけなければならない。
二人の住まいは、市の外れにある三階建てのアパートだった。石田はその日の夕方、典子夫婦の宅を訪ねた。石田だって夫婦の仲を修復させる程、自信がある訳じゃない。
石田は典子の夫、博之に挨拶した。博之は少し戸惑った様子を見せたが暖かく向かえてくれた。石田は昔の思い出話と典子の高校時代の話で花を咲かせた。幸い二人は明日バイトが休みだと言うので阿蘇草千里を案内してもらうことになった。
典子はいつ先生が夫に切り出してくれるのかと期待していたが、その日は終始高校時代や他愛のない話で終わった。それは石田なりに考えがあった。

翌日は良く晴れ渡っていた。昨夜訪れた時に最初は警戒心を持っていた博之もくったくのない話に終始した事に気を良くしていたように思える。多分、自分達の夫婦仲に首を突っ込むのかと、嫌な感じを抱いていたのではないか。だから昨夜はその話題に触れなかったので安心感を与えた。
阿蘇外輪山に囲まれた草原は素晴らしかった。世界でも有数のカルデラだ。
阿蘇五岳で、根子岳はまるで猫が寝ているように見えるから根子岳と付けたとか。私たち三人は黙ってその根子岳を見つめていた。石田はその景色を眺めながら、二人に聞こえるように独り言を語り始めた。

「あの根子岳はまるで女神のようだ。そして阿蘇の人達は根子岳に見守られているようだ。この雄大な草原から比べたら人の心は小さいことが恥ずかしくなる。その山に貴方は幸せですかと問いたら、私は自信を持ってハイと言えないだろう。いや誰もそうだろう。所詮は完璧な人間なんて居ないのだから……」
二人は一瞬、石田の方を見たが黙って草原の景色や山を眺めて聞いていた。石田は更に独り言を続けた。
「幸ってなんだろう? 私の六十年の人生でそれを感じた時は何度もあった。その分、悲しみも同じくらいに存在した。子供の頃、家族の憩い、入学、運動会、高校大学受験そして受かった時の喜びは苦労が報われた思い。そして就職して念願の高校教師になれた。正義感に溢れた頃だった。そんな時に今は亡くなった妻と出会った。今でもこの瞬間が私の最高の幸せの時だった。でも人間って勝手なもので、いつの間にか幸せが当たり前のように思えてくる。幸せの上に胡坐をかいているから、その下に敷かれるてるものに気付かなくなるんだな。一人娘は反発して家出し行方知れず。ある日の事だった。私は夜遅く酔っ払って帰って来た時のことだった。深夜の一時過ぎというのに妻は起きて待っていた。ただ笑顔ひとつ見せずテーブルの上に一枚の用紙を差し出した。それは離婚届の用紙だった。私はいっぺんに酔いが覚めてしまった。何故と妻に問いただした。貴方は幸せでしょうね。仕事も充実して家に帰れば暖かいご飯にお酒、娘の笑顔。でもそれは幸せの座布団に座っているからです。貴方はその座布団を綺麗に使っていますか、たまには日干していますか。娘は貴方に反発して出て行ったのよ。ギクッとした。反省したよ。自分の幸せが家族の幸せだと思っていた。でも妻と娘の幸せは別のものなのだ。私は平謝りした。それから私の考え方が変わった。妻の笑顔を見るのが自分の幸せだと思った。知らない間に溝が出来ていた事に気付いた」

延々と独り言を二人は少し分かって来たようだ。何を言おうとしているのか。そして石田は最後に、こう言葉を締めくくった。
「結婚って何故するのか、幸せになりたいからするのだ。勿論二人が幸せになって初めて本当の夫婦であり家族なのだと。その為なら辛くとも努力を惜しんではいけない。妻も亡くして改めて思い知らされたよ。大切な人を失うことは居なくなって気づくものだとね。でもそれでは遅いんだよね。見てご覧なさい。女神の山が安らに眠っているようだ。今の私にはあれが妻の姿に見えるよ」

それから数分すると博之は口を開いた。
「せんせい。典子から聞いて居ましたが本当に素晴らしい先生ですね」
「えっ? どうしてかね。私はただ山を見て呟いただけだよ」
「本当は典子から聞いて、私の至らないところを説教でもするのかと思いました。典子の恩師としても私から見れば赤の他人、言われたら多分反発して聞く耳を持たなかったでしょうね。でも先生は御自分の奥さんを引き合いに出して、夫婦の事を教えてくれました。確かに私は典子の上に胡坐をかいていたと思います。典子の存在がいかに大事か思い知らされました。先生のおっしゃる事が良く分かりました」

隣に居た典子が両手で自分の顔を覆い泣き出した。
「ごめん典子、俺は我侭過ぎた。これから子供を作って素晴らしい家庭を築こう。先生は教えてくれたよ。このままだと典子を失う事になるよと先生が警告してくれた。それも直接言うのではなく、抵抗を和らげ切々と語る先生の言葉はグザリと来たよ」
「貴方、よく言ってくれたわ。これも先生おかげです」
「いやいや私は、こんな素晴らしい所へ連れて来て戴き感謝しているよ」
その翌日、私はいいと言ったのに沢山のお土産を戴き次の目的地に向かった。
典子と博之は行方不明の娘さんが見つかると良いですね、と言ってくれた。
あの根子岳の女神が私の、次の旅も安全を祈ってくれているようだ。
                                             了

旅情 阿蘇編 

執筆の狙い

作者 西山鷹志
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この作品を初めて文学賞に応募しました。
4000字以内限定です。それに合わせて以前作成した作品を修正して書いたものです。
因みな根子岳は長野県上田と熊本県阿蘇にあります。阿蘇の根子岳は猫を寝ているように見えるから根子岳と名付けたとか。
根子岳 熊本と検索すれは出てきます

コメント

飼い猫ちゃりりん
sp49-98-10-79.msb.spmode.ne.jp

西山様。誤字脱字など点検されましたでしょうか。心配です。審査員が優しい先生であることを願うばかりです。

西山鷹志
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飼い猫ちゃりりんさん

お読み頂きありがとうございます。

夜の雨
ai203150.d.west.v6connect.net

西山鷹志さん「旅情 阿蘇編」読みました。

いろいろな職業がありますが、石田直彦は高校の教師をして校長になり退職した。つまり元校長の石田直彦が主人公の物語でした。
教師はほかの職業とは違い、生徒とコミュニケーションをとり、人間を育てる職業でもあり、卒業して巣立っていった生徒たちからもこの石田直彦という元校長は慕われてえいたという設定で、ふつうの学校の元教師ならしないであろう、おせっかいな人物でもあった。

今回の物語は、元生徒からの年賀状に相談に乗ってほしいというようなことが書かれており、定年後の「教え子を訪ねる旅」を実行していた石田はホテルのラウンジで安田典子から話を聞いた。

というような流れから安田夫婦の問題に関わるわけですが、伏線として。
石田の妻がすでに亡くなっているとか。
石田にも夫婦の危機があり、家庭を顧みなかったために妻から離婚を言い渡されたとかがあります。
その危機を乗り越えてその後は妻と平和に暮らしていますが、娘は家出をしたままで、石田とて心労はある。
その背景があるからこそ、元生徒たちの相談相手にもなれる。
この元校長の石田直彦のうまいところは、安田の相談してきた内容が離婚問題で、夫にその原因があるとわかったときも、直接的に安田典子の夫に話すのではなくて、「独り言」をそれとなく相手に聞かせて考えさせるという高度な手法をとっています。
なので、相手もおだやかに物事を考えることができる。

御作の話し全体では、構成力がよかったですね。
なので、話がうまく組み立てられていて、わかりよい。
その中にキャラクターを配置して、それぞれに悩みを持たしてドラマを深くしています。
完成度はかなり高い作品ではないかと思いました。

今回描かれている場面では石田の娘が家出をしたままですが、他の章でこのあたりの石田が抱えている問題も解決しているのでしょうね。

よくできた物語でした。


4000字というかなり短い作品ですが、よくこの内容を違和感なくまとめたものだと驚きました。

ありがとうございました。

西山鷹志
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夜の雨さん

いつも丁寧なコメントを頂きありがとうございます。

夫婦間の問題は複雑で第三者か首を突っ込んでも巧くきません。
私も仲裁に入って欲しいと頼まれた事があります。

それは知らない人が仲裁に入っても面白い訳がありません。
いきなり敵視されました(笑)
夫婦喧嘩は犬も食わぬと言われますが難しいですね。

今回の作品はその辺を参考に書いてみました。
ありがとうございました。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

西山さんの作品の中でもかなり良いと思います。

あの、ほんと、他人に説教するんじゃなく、先を行く自分を示すことで後輩を導くという構造は、ひじょーに美しく、またある意味おどろきのある展開で。とても好き。

西山さんの作品にはハッピーエンドが多いですが、単なる華やかなハッピーエンドではなく、筋道の通った納得度の高いハッピーエンドなので、読んでいて気持ちよくほっとして、読後の余韻もよく、年季のある作者じゃないと書けない人生観も感じ、いいっすよ。

充実感のある読書でした。
ありがとでした。

西山鷹志
softbank219054162233.bbtec.net

えんがわさん

お読み頂きありがとうございます。

私は昔ここに行きました。
見渡し限りの草原で向こうには阿蘇の山々聳えていました。
時おり放牧された馬がおりました。
こんなのどかなぁ風景で独り言は笑われますが
聞き手がいるから役立ちのであって、教え子夫婦は分かってくれたというオチです(笑)

ありがとうございました。

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