ミケの一生
私にも輝かしい時代があった。まだ十七、八年前のことなのに、まるで遠い前世の記憶のようだ。
私は宅建の資格を持ち、営業成績はいつもトップ。料亭の座敷で、社長から「うちの娘はどうだ」とまで言われたが、私はまだ遊びたい盛りだった。
連日、後輩を引き連れてディスコに繰り出し、ボディコンの女たちを口説いては、タクシーでスナックへ向かった。支払いは全部私が済ませた。割り勘なんてケチな真似はしない。それでも財布は万札で膨れ上がっていた。
だがバブルが弾けて地価が下落し、会社が倒産してしまった。私は小さな不動産屋に再就職し、そこで死に物狂いで働いて、社長の娘と婚約寸前までいった。なのに、その会社まで潰れ、社長は家族を連れて夜逃げした。
自分の運のなさに嫌気が差し、酒浸りの自堕落な生活に陥った。失業保険が切れると生活保護を申請した。区役所の窓口で涙ながらに頼み込んで、何とか認めてもらうことができた。
翌年の元旦、朝から粉雪がちらつき、郵便受けを見に行くのも億劫だった。でも、私なんかに年賀状を出す律儀な人がいるといけないと思い、寝巻にジャンパーを羽織り、突っかけを履いて階段を降りていった。
久しぶりに郵便受けを開けると、職安からの手紙が埋もれていたが、面接の日はもう過ぎていた。
そのとき「みゃ……」と小さな声が聞こえた。辺りを見回すと、みかんの段ボール箱が駐輪場の隅にあった。近づいて覗き込むと、へその緒がついた子猫が、私に向かって「みゃあ、みゃあ」と鳴いた。
「おい。捨てられたのか?」
正月休みが明けると、団地の管理事務所に電話して、里親を探すから、しばらく飼わせてほしいと頼んだ。すると管理人の爺さんが面倒臭そうに言った。
「どうでもいい。わしは忙しいんだ」
電話はガチャンと切れた。
生きる気力もない私でも、小さな頭を缶に突っ込んで、懸命に食事するミケの姿に、思わず笑みがこぼれた。
「ミケ、おいしいか?」
「ニャ」
穏やかに十七年が過ぎた。私を支えてくれたのはミケと、近所のコンビニの店員である。白いネームプレートには『佐藤明美』と刻まれていた。
明美さんはたぶん三十代後半か四十代前半で、私より四、五歳年下の独身だろう。指に指輪の跡がなく、休日の予定を話すこともない。そんなところから、私は勝手にそう思い込んでいる。
ミケを連れて、よくそのコンビニに立ち寄る。名目は100円のカップコーヒーだが、本当の目的は明美さんに会うことだ。
互いに立ち入った話はしない。天気や新商品、そしてミケのこと。そんな話をするだけだ。
明美さんはいつも素敵な笑顔を見せてくれる。接客だとは分かっている。でも、時折見せる寂しげな目に心を奪われる。きっと悲しい過去があるのだろう。ミケに触れる手が微かに震えていたことがある。潤んだ瞳の奥に、心の傷が隠れているような気がした。
明美さんはミケを可愛がってくれた。レジの後ろのホワイトボードには、ミケの写真が磁石で留められている。彼女の携帯には、ミケの画像がアルバムのように収められている。
気づけば、もう十年も、その笑顔に助けられていた。
ミケと明美さんのおかげで、いつも幸せを感じながら生きることができた。
私はもう四十半ば。ミケは人で言えば八十が近い。
秋も深まり、少し風が冷たくなったころ。ミケが枕元に来て、いつになく大きな声で私を起こした。
「ニャア」
「どうしたんだ?」
窓を開けると、穏やかな曇り空が広がっていた。
「散歩に行きたいのか?」
ミケは私を見つめて喉を鳴らす。年老いたミケは、青空より曇り空を好むようになっていた。
散歩の際は必ずリードをつける。最期が交通事故だなんて、悲劇以外の何ものでもない。最後は眠るように逝ってもらいたい。飼い主なら、誰だってそう思っているに違いない。
ミケは耳も目も弱り、よぼよぼと歩く姿が涙を誘う。それでも公園に着けば、ミケは落ち葉相手に遊び回るのだ。本当に幸せなひと時である。
公園に行く途中でコンビニに寄り、100円のカップコーヒーを買う。店の前で空を見上げると、白い影が雲に透けていた。
朝の十時なのに月?
でも、それ以上気にすることもなく自動ドアをくぐった。
「こんにちは。ホットコーヒーをください」
「あっ、ミケちゃんだ。今日もお散歩ね」と明美さん。
彼女に会ってから公園へ向かう。ルーチンなんかじゃない。その笑顔は、もはや生きる糧であった。
コンビニから少し歩けば公園に着く。木々は紅葉を迎え、景色は美しいが、平日だから人はいない。子供は学校、大人は職場。でも私は公園。
ベンチに座ってカップコーヒーを飲み、落ち葉と戯れるミケを見守っていた。
ごろごろと音が響き、空を見上げると、巨大な積乱雲の中に稲光が見えた。
次の瞬間、物凄い轟音が響き、公園の木が火の粉を散らして真っ二つになった。私は飛び上がり、目を疑った。木の残骸の左右で、割れた鏡のように景色が歪んでいるのだ。
空間が壊れたのか?
すると積乱雲から灰色のロープが降りて来て、公園の真ん中に降り立った。
なんだあれは?
それは瞬時に竜巻に変わり、落ち葉を巻き上げ、大きな雹(ひょう)を降らせた。厚い雲に穴が開き、星空が顔を見せていた。
超常現象ってやつか……
竜巻はすぐに消え、穏やかな空に戻ったそのとき、「ドン!」と音が響いた。全身から嫌な汗が噴き出し、恐る恐る振り向くと、道路にミケが横たわっていた。
「ミケ!」
慌てて駆けより、抱きしめて泣き叫ぶ。
「死なないでくれ!」
リードを外したことを、悔やんでも悔やみきれない。
その日を境にコンビニへ行くことは無くなった。不注意でミケを死なせたことを、明美さんに知られたくなかったのだ。なんて姑息な人間なんだ。
晴れの日ばかりか、雨の日までも公園に出掛けるようになった。
ミケは木陰に隠れているのでは……
右手に傘を持ち、ずっと公園のベンチに座っていた。
ミケを諦めることができない私は、再会する方法を模索した。最初は宗教に頼ったが、最終的にアインシュタインの『愛の力』に行き着いた。
光速を超える力なんて想像もできないが、藁にもすがる気持ちで、その言葉を噛み締めた。
偉大な科学者は言う。宇宙で最も強い力は『愛の力』だ。愛は光であり、重力であり、愛する者たちを巡り逢わせると。
『愛の力』に取り憑かれた私は、ある日、ぶつぶつと独り言を言いながら歩いていた。
その力があれば、またミケに会えるかもしれない。どうやったら手に入るんだ?
すると死が私にも来てくれた。高いマンションの前を歩いていたら、脳天にポカリと音が響いた。それで終わりだ。痛くも痒くもない。どうでもいいことだが、爺様が盆栽を落としたのだ。
ただ問題はここからだ。天国と地獄が本当にあったのだ。
駅の待合室で切符が配られるのを待っていると、キューピットが飛んで来て、天国行きの乗車券を差し出した。グリーン車ではなかったが、それは問題ではない。
天国号の中はすでに楽園で、女神のようなCAが配る飲み物は、信じ難いほどの美味しさだ。
「何という飲み物ですか?」
「ソーマといいます」
「どこの製品ですか?」
「天国製ですよ。そろそろ昼食になりますので、席について下さい」
窓の外を見ると、銀河を凌駕する壮大な星雲が渦巻いている。
アンドロメダの道の駅で昼食を済ませて出発すると、小一時間でアナウンスが流れた。
「お待たせしました。間もなく天国に到着します。列車が揺れますのでベルトを締めて下さい」
車内は歓喜に包まれ、皆が喜びを分かち合った。
「悪いことをしなくて良かった」
「真面目に生きれば報われるんだ」
しかし列車から降りると、暗い空に稲光が走っていた。
天国でも空が荒れるのか……
シャトルバスが居住区に到着すると、不安が絶望に変わった。
立ち並ぶ家屋は、どれもトタン板で造られた廃墟同然のボロ屋で、それを雨が激しく打ちつけているのだ。
さらに私を絶望の淵に追いやったのが部屋の同居人だ。顔に傷のあるヤクザ風のおっさんが、大手を広げて出迎えてくれた。
「ようこそ天国へ。わからないことは何でも聞いてくれや」
「ここが天国とは信じられません。地獄の間違いでは?」
「ここは楽園だぜ。なんでもヤリ放題で食い放題。永遠に健康で不老不死だ」
「天国とは善人が来るところでは? 失礼ですが、あなたは……」
「おいおい俺は人は殺してないぜ。せいぜいタタキ(強盗)ぐらいだ」
神様は狂っていると思った。
「ここで何をして暮らせばいいのですか?」
「なにって、俺と麻雀でもして暮らしゃいいよ。楽しいぜ」
私は声が震えた。
「いつまでですか?」
「いつまでって、五億年ぐらい遊んで、飽きたら花札でもしようぜ」
五億年あれば、恐竜は二度栄え、二度絶滅できる。その途方もない時間を麻雀のみに費やすとは、もはや正気の沙汰とは思えない。
先輩は「はっはあ。そう来たか」と言って「リーチ!」と叫ぶ。私が牌を捨てると「ロン!」と叫び、「上達しねぇなあ」と大笑いをする。
そんなことに、私は五億年も付き合った。シーシュポスも真っ青だ。次は花札を五億年? 冗談じゃない。これじゃ地獄じゃないか。
私はソーマを一気に飲み干すと、雀卓にジョッキを叩きつけた。
「滋養強壮はもう結構です。それより毒薬は無いんですか?」
「落ち着け。何がしたいんだ?」
「死にたいんです」
「毒薬はあるけど、少し下痢するだけだ」
ついに死の欲動が爆発した。
「もう天国なんて真っ平だ! 地獄で焼かれて死んだ方がいい!」
「そっか。 じゃあ『地獄体験十億年の旅』を試してみるか? 冷蔵庫の横の扉を開けて降りていけば、すぐに地獄だから」
扉を開けて階段を降りていくと、そこは真っ白で何もない、冷たい死の世界だった。無限に広がる無間地獄に唖然とし、がっくりと膝から崩れ落ちた。
すると小さな生き物が身をすりよせ、懐かしい声で鳴いたのだ。
「ニャ」
「ミケ!」
ミケを抱きしめて、涙ながらに頬擦りをした。
「さびしかったね。悪かったね。ごめんね」
ミケはごろごろと喉を鳴らした。何億年という時を経ても、ミケは私を覚えていたのだ。
ああ神様。なぜミケが地獄にいるのですか? ミケに何の罪があるのですか? どうかミケを天国へ。
私はミケに誓った。
「天国へ連れて行くからな」
「ニャ……」
ミケと一緒なら地獄さえ辛くない。いや地獄だって幸せだ。そしてコンビニの店員、明美さん。その笑顔が心の支えになってくれた。
「ミケ、明美さんを覚えているか? いい人だったなあ」
「ニャア」
やがて十億年が過ぎると、目の前に四角い空間が開き、先輩が顔を出した。
「どうだった? 天国の方がいいだろ?」
「見て下さい。なんの罪もない猫が地獄にいたのです。天国に入れてやりましょう」
「だめだ。その猫は地獄に置いていくしかない」
「どうしてですか?」
「天国と地獄の均衡が崩れるからだ。それは宇宙の絶対法則でな、神様しか変えられないんだ」
「なら私が代わりに残ります」
「それもだめだ。もうすぐ天国会議があって、全員参加なんだ」
「天国会議? なんですかそれ」
「天国の模様替えについて議論するんだ。もう意見は出尽くしているけどな」
私はミケに誓った。
「地獄から出してやるからな」
「ニャ……」
扉は静かに、固く閉ざされた。
宇宙空間に浮かぶ壮大なスタジアムが会議場だった。
アルプススタンドの上段はもはや霞んで見えない。まるでアルプスを凌駕するエベレストだ。
望遠鏡を伸ばして見渡すと、出席者のほぼ全員が居眠りをしている。私は思わず先輩に聞いた。
「この会議に何の意味があるのですか?」
「意味なんてないよ。永遠に繰り返す暇つぶしさ」
私は先輩に神様の席を聞いた。ミケを地獄に送った至高の存在を、自分の目で確かめたかったのだ。
先輩は「あそこだ」と言い、スタジアムの真ん中に立つ塔を指差した。
望遠鏡を塔の天辺に向けると、よだれを垂れ流し、酒瓶を枕にして眠っている酔っ払いが見えた。
嘘だろ……
「本当にあれが神様ですか!」
「そうだよ。神様は宇宙一のポンコツなんだ」
「どうしてですか!」
「でなきゃ神なんてやってられないぜ」
議長の声がスタジアムに響き渡った。
「皆さん。天国の模様替えについて、意見を述べてください」
アルプススタンドから、ぽつりぽつりと声が上がった。
「やっぱ楽園バージョンだろ」
「いや月面バージョンだ」
「つまらん。もう地獄バージョンでいけ」
先輩は私に言った。
「何べん同じことを繰り返すんだ。見てろ。俺にいいアイデアがある」
先輩はマイクを握って立ち上がった。
「1980年代のバブル期バージョン! バブリーダンスでフィーバーだ!」
特に何の反応もない。
「ちっ。乗りの悪い奴らだぜ」
確かに楽しい時代だった。でも何億年もバブル期なんて馬鹿げてる。
ああ、ミケと暮らした十七年。ただそれだけが星のように輝いている。
「先輩、マイクを貸してください」
私は立ち上がり、静かに意見を述べた。
「儚い無常の世界を愛しています。生と死のある世界を再現しましょう。すべては、あるがままに」
拍手喝采の嵐が起こった。
「それは凄い!」
「初めての試みだ!」
「神様、それでいいですか? 神様、起きてください」
神様は面倒くさそうに言った。
「どうでもいい。わしは忙しいんだ」
天体が雄大な円を描き始め、渦巻きの中心へ星々が吸い込まれていく。無数の光が一点に集約され、やがて銀白に輝く恒星が誕生した。
「無常の世界。それに決定」
議長が木槌を振り下ろすと、恒星が盛大に爆発し、宇宙の彼方まで白銀の光に包まれた。
ふと気づくと、私は公園のベンチに座っていた。コンビニで買ったコーヒーはまだ湯気を立てていた。
夢だったのか……
不思議なことに、その居眠りは一瞬にも、数十億年にも感じられた。
ミケは私の横で眠っていた。そっと頭に触れると、ミケは顔を上げて私を見た。
「お前も夢を見ていたのか?」
「ニャ」
その夜、ミケは眠るように逝った。毛布をかぶせ、一晩中添い寝をしてあげた。
翌朝九時。明美さんに訃報を伝えるため、コンビニへ向かった。
「おはようございます」
「あれ? 今日はミケちゃん一緒じゃないんですね」
ボードに留められたミケの写真が目に入り、思わず声が詰まる。
「実は……」
「はい?」
「昨夜、ミケが亡くなったんです。自分の横で眠るように逝きました。長い間、ありがとうございました」
明美さんは目に涙を浮かべ、ミケの写真に手を合わせた。
「私、ミケちゃんに会えて幸せでした」
彼女が目頭を押さえてそう言うと、私は涙をこらえることができなかった。
おわり
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