見世物の檻 ―血宴・臓腑譚―
一
雨の夜、夫だったモノは肉塊になった。
ギャンブル依存の果てに暴力団の負債を踏み倒した代償は、彼の人間としての尊厳を分子レベルまで破壊し尽くした。
路地裏に遺棄されたそれは、かつて夫の頭部があった場所から、砕けた卵の黄身のように脳漿をアスファルトにぶちまけていた。頭蓋骨は鈍器で執拗に殴打されたらしく、骨片が脳の灰色がかった組織に突き刺さり、異様なオブジェと化している。
何度も、何度も執拗に抉られた腹からは、消化途中の吐瀉物と混じり合った腸がずるりと溢れ出し、灰色がかったピンクの管がアスファルトの上でぬめりを放っていた。雨水が血と混じり、側溝へと黒ずんだ赤色の川を作っていく。その光景だけが生々しく目に焼き付いた。
残された妻と娘は、悲鳴を上げるための酸素すら見つけられず、死んだ魚のように口を開閉させながら、ただ市役所へと歩いた。
福祉課の職員・相沢は、申請書に目を落としながら、爬虫類のような冷たい笑みを唇に浮かべた。
「生活保護ですか。まあ無理でしょうね……ですが、あなた方母娘には、別の『救済』を差し上げられるかもしれません」
その声は、蜘蛛の糸のように粘り気を帯び、獲物を絡めとる愉悦に濡れていた。
妻は内臓が凍てつくような悪寒に襲われたが、娘の骨張った肩を抱くこと以外、何もできなかった。
二
数週間後、複数の黒塗りのセダンが、音もなく家を包囲した。
カーテンの隙間から覗いた瞬間、妻の心臓は鷲掴みにされた。――夫を肉塊に変えた、あの男たちの目だ。
「俺たちが貸した金で買った家に住み、俺たちが払った税金で生き延びるつもりだったか? その思考回路が気に食わねえ」
怒声というよりは、地を這うような低い恫喝とともにドアが蹴破られ、母娘は汚れた布袋に詰め込まれた。
ざらついた袋の感触と埃っぽい悪臭が鼻腔を塞ぎ、酸欠で意識が飛びかけた娘のか細い悲鳴が、布越しにくぐもって聞こえた。
再び視界が戻った時、そこは悪趣味なほど豪奢な洋館の大広間だった。
シャンデリアの光は、まるで血液をプリズムに通したかのように禍々しく赤い。観客席には、この世の富を独占したであろう政財界の名士や、その愛人たちが、退屈と悪意を煮詰めたような表情で座っていた。
中央には、錆と乾いた血でまだらに汚れた巨大な鉄格子の檻。これから始まる惨劇を待ちわびる、巨大な獣の顎そのものだった。
「紳士淑女の皆様、今宵も『生の芸術』を存分にご堪能あれ」
主催者の甲高い宣言に、獣じみた拍手と口笛が応えた。
檻にゴミのように投げ込まれた母娘は、嘲笑と罵声のシャワーを浴びる。観客はシャンパンを片手に、飢えたハイエナのような笑みを浮かべ、喉の奥から腐敗した欲望を吐き出していた。
三
檻の奥の暗闇から、巨大な何かが姿を現した。
人の形をしていた痕跡はあるが、皮膚は至る所が裂け、太い外科手術用の糸で乱暴に縫合されている。その縫い目の隙間からは、黄色い膿が粘液のように絶えず滴り落ちていた。
背中からは、まるで体内で異常発達した肋骨が皮膚を突き破ったかのように、象牙色の骨が何本も歪に突き出している。口は耳元まで裂け、その内側には、大きさも形も不揃いな鋸状の歯が、湿った光を放ちながら何重にもびっしりと並んでいた。
ソレは、喉の奥から絞り出すような咆哮を上げ、檻の鉄格子を叩いた。
ガンッ! ガンッ!
衝突の度に火花が散り、鉄が悲鳴を上げる。母娘は喉に詰まった悲鳴を飲み込み、互いの骨が軋むほど強く抱きしめ合った。
「『知恵の実』を過剰投与された実験体だ。母親の胎内で羊水の代わりに薬物を啜り、生まれ落ちた瞬間から改造され続けた、神の失敗作さ」
主催者の愉悦に満ちた説明に、観客席から下卑た声が上がる。
「素晴らしい! 今夜はどんな餌をやるんだ? 前回の政治家は骨まで残さず食ってくれたな!」
「血飛沫だ! あのシャンデリアが黒く染まるほどの血飛沫を見せてくれ!」
四
天井のフックからワイヤーが下り、先端に吊るされた赤黒い肉の塊が、檻の中央に落とされた。
ドチャッ!
生温かい臓物が弾け、レバーやハツといった部位が床に散らばる。鼻腔を突き刺す濃厚な鉄の匂いが、瞬く間に広間の空気を満たした。
怪物は四つ足で駆け寄ると、肉塊に顔を埋め、貪り食らい始めた。
グチャッ! バリバリッ! ボリッ!
肉が引き千切れる湿った音。太い骨が奥歯で噛み砕かれる乾いた音が、マイクを通して広間全体に響き渡り、観客のサディズムを増幅させる。
興奮が頂点に達した観客の一人が、グラスを床に叩きつけて叫んだ。
「前菜はもういい! 生きた人間を食わせろ! 恐怖に歪む顔を見ながら食いちぎるのが最高なんだ!」
合図とともに、スーツ姿の小太りの男が、背後から檻の中に突き飛ばされた。
男は鉄格子にしがみつき、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら懇願した。
「待ってくれ! 私は招待された側だ! 金ならいくらでも払う! やめろぉぉっ!」
だが怪物は、新鮮な餌を前にした獣の本能に従った。
ズブリッ!
人間の絶叫など意にも介さず、鋭い爪が男の肥えた腹に根元まで突き刺さった。皮膚を紙のように裂き、分厚い脂肪の層を黄色く抉り、腹筋をブチブチと断ち切りながら腹腔に達した爪は、その中身を掻き回す。
ドロリ……
途切れた悲鳴の代わりに、男の口から血の泡が溢れ、絶望に見開かれた目が白目を剥く。怪物が爪を引き抜くと、裂けた腹の傷口から、温かい腸が重力に従ってずるり、ずるりと滑り出した。胆汁の緑と血液の赤が混じった汚らしい液体を撒き散らしながら床にぶちまけられたそれを、怪物は長い舌で絡め取り、咀嚼もせずに食道を無理やりこじ開けるように嚥下した。
五
ショーは本格的な狂乱へと移行した。次々と人間が檻に投げ込まれる。
頚椎が断ち切れる乾いた音と共に、頭部が胴体から分離した。切断面からは、まるで高圧洗浄機のように血液が噴き出し、放物線を描いて天井を汚す。頭を失った胴体は数秒間痙攣し、やがて肉の塊として崩れ落ちた。
ある男は、両側から頭を掴まれ、怪物の膂力によって引き裂かれた。メロンを割るように頭蓋が裂け、中からピンク色の脳が硬膜や頭皮の破片と混じり合って飛び散る。赤黒い飛沫がシャンデリアのクリスタルに付着し、光を鈍く濁らせた。
骨が軋みながら折れ曲がる音、肺が破裂して空気が漏れる音、筋肉繊維が引き伸ばされ千切れる音。血の噴水が何度も、何度も繰り返される地獄絵図。
観客はスマホのカメラを回しながら、恍惚の表情で奇声を上げた。
「最高だ! これが見たかった! もっと殺せ! もっと壊せ!」
やがて、檻に残された餌は母娘だけになった。
妻は娘を胸に抱き、その震えを必死に抑えながら固く目を閉じた。
だがその時、殺戮を続けていた怪物の目が、ふと虚空を彷徨った。
観客を見上げるその瞳には、狂気だけでなく、耐え難い痛みと苦悶の色が浮かんでいた。
――俺も、お前たちと同じ、弄ばれるだけの見世物なのだ、と。
挿入シーン
その一瞬の隙を見逃さず、妻は震える声で怪物に囁いた。
「……あなたも、苦しいのでしょう? もういいのよ。私にはわかる……あなたの痛みが」
観客が「何を言っているんだ?」とどよめく。
怪物は喉を鳴らすのをやめ、濁った瞳の奥に、ほんの一瞬、人間だった頃の迷いを映した。
妻は最後の賭けに出た。恐怖で引きつる顔に必死で微笑みを浮かべ、ゆっくりと両手を差し伸べる。
「私を受け入れて……ここから、一緒に逃げましょう」
刹那、広間の空気が凍りついた。
だが、次の瞬間――怪物の目が、血管が破裂したかのように真っ赤に染まった。希望という名の毒が、最後の理性を焼き切ったのだ。欺瞞だと悟ったのだ。
肺腑の底から絞り出された怒りの咆哮が広間を震わせ、巨大な爪が妻の胸の中心を、寸分の狂いもなく貫いた。
バキバキッ!
爪は胸骨をバターのように貫通し、その裏側でまだ拍動していた心臓を握り潰した。ポンプを失った血液が、破裂した血管という血管から逆流し、妻の口や鼻からおびただしく溢れ出す。
怪物が腕を振り抜くと、妻の上半身と下半身が、脊椎ごと根本から引き千切れた。断面からは大小様々な臓物が雪崩落ち、まだ微かに痙攣する心臓の残骸や、破れて萎んだ肺が、高級絨毯の上で汚らしい染みを作っていく。
観客の悲鳴と嘔吐と、そして一部からの喝采が入り混じる中、怪物は妻の上半身を掴むと、その顔面を何の躊躇もなく牙で粉砕した。
血に濡れた口元から滴り落ちる赤黒い液体が、絨毯をさらに深く、絶望の色に染め上げた。
六
怪物は突如、檻の鉄格子を蹴り破った。捻じ曲がった鉄骨が宙を舞い、観客席へと跳躍する。
ドシャアッ!
最前列で呆然と立ち尽くしていた男の頭部に食らいついた。万力で潰された果実のように頭蓋が音を立てて陥没し、圧力で眼球が眼窩から飛び出し、近くの婦人のドレスを汚す。破裂した脳は、ペースト状になって周囲に撒き散らされた。
豪奢な大広間は、阿鼻叫喚の屠殺場へとその姿を変えた。
逃げ惑う観客の首が飛び、手足が関節ではない場所から捻じ切られ、骨が皮膚を突き破って露出する。踏みつけられ、破裂した腹から溢れ出た臓物が、シルクの絨毯を汚物で覆い尽くす。
シャンデリアは返り血を浴び続け、その光は完全に赤黒く濁っていた。
母娘――いや、たった一人残された娘は、檻の隅で立ち尽くし、現実とは思えない地獄をただ見つめていた。
数分前までの歓喜の宴は、恐怖と絶叫、そして肉が引き裂かれる音だけが支配する空間へと変貌していた。
七(終)
悲鳴と咀嚼音が不協和音を奏でる中、娘は両手で必死に耳を塞いだ。
しかし、震える指の隙間から、血の海の中で立ち尽くす怪物の姿が見えてしまった。
その瞳から、確かに一筋の液体が流れていた。
それは返り血ではない。あまりにもおぞましいこの世の地獄で、怪物が流した、人間としての最後の涙だった。
宴は終わった。
後には、鼻を刺す血と臓物の生臭い匂いと、心を失ったように震える一人の娘、そして、静かに涙を流しながら、かつて自分を弄んだ人間たちの肉を貪り食らう、哀れな怪物の姿だけが残されていた。
(完)
執筆の狙い
本作を執筆した理由は、スプラッターホラーという娯楽の枠組みを借りながら、現代社会に潜む「弱者搾取」と「権力の腐敗」を寓話的に描きたかったからです。市役所職員や暴力団、セレブといった権力層が弱者を玩具にし、やがて自らの狂気に呑み込まれる姿は、日常の裏に潜む構造的な暴力の象徴でもあります。血飛沫や臓物を描く残酷表現は読者の嗜虐心を刺激しますが、最後に涙を流す怪物を置くことで「真の怪物は誰か」という問いを投げかけ、単なる惨劇以上の余韻を残すことを狙いました。