77 -セブンズ- 雪の中のふたり
少年が泣いている。しんしんと降りしきる雪と、風景の溶け込む夜の闇の中、ただ一人確かな輪郭を保って立ち尽くす少年が、小さな両の手で顔を覆ってすすり泣いている。
私は少年を慰めたかった。ろくに服も着ていない、機械の様に真っ白い肌をむき出しにして泣いている少年に声を掛けたかった。温かい服を着せ、南瓜とトウモロコシのスープを飲ませて、母のように抱きしめながら、安心と温もりの中で寝させてあげたかった。しかし私の発した声が少年に届くことは無かった。私の差し伸べた手が少年に触れることは無かった。少年はやはり泣いていて、私はどうにも辛くなった。
かなり時間がかかってしまったけれど、私は理解した。
きっとこれは、私の夢だ。
彼との離別の時が来たからだ。私は彼に何もしてやれなかった。
誰にも邪魔されることのない場所で、泣くことのない彼を泣かせてあげたかった。
彼には必要のない涙を流させて、彼には必要のないなぐさめを、愛を、与えたかった。
これが私の夢だったのだ。
――――
暗い夜が明けて朝がやってくると、それはいつも定刻に目を開く。午前七時十分。まるでプログラムされたかのようにそれの起床の時間はぶれない。
それは少年の姿をしていた。長い白髪の美しい少年だ。瞳は宝石のように蒼い。何の変哲もないシャツを着ているというよりは着られているような、生気らしいものを感じさせない少年だった。
それはベッドから起き上がり、鏡の前へ移動して歯を磨く。歯を磨き終えると、今度は窓際に置かれたイスに腰掛ける。
それは朝の雲ひとつない青空を見上げる。
それは情緒を理解していなさそうな無表情のまま座りつくしている。実際、それは理解していないし、何も感じていない。ただぼうっと眺めているだけで、それの頭には何もない。何かの目的があって見上げているかと言えば、そうでもない。
「おはよう、こちらを向きなさい」
それはゆっくりと扉の方に目をやった。
それの瞳に修道女が映った。頭巾と肌に張り付くようなトゥニカ(修道女の身に着けるワンピース)とに身を包んだ美しい女だった。齢は二十ほどに見えるが、彫刻の様に整った顔じゅうに、まるで歴戦の戦士でもあるかのような無数の切り傷が見える。彼女はたいそう矛盾した風貌をしていた。
それは彼女の柔和な笑みと、彼女の連れた男を見てすっくと立ち上がった。
「よくできました。こちらに歩いて来なさい」
それの足がひとりでに動き出す。ぎし、ぎし、ぎし――それの履いた靴が木の床を叩くたびに音が鳴って、彼女の連れた男の肩が、そのたびにびくりと跳ね上がる。
それが目の前に立ち止まって、目隠しの奥の表情をひどく強張らせた男が、歯を小刻みに鳴らしながら汗を流した。
彼女は母のような微笑みを浮かべながら、それの頭を撫でる。
「よくできました。殺しなさい」
それは男の両耳を掴んで頸を捩じった。ひゅ、と息にもならない音が男の口から洩れ、強張った手足が一瞬で力を失った。
彼女の蒼い瞳が静かに揺らいだ。それはゆっくりと彼女を見下ろし、呟くように言った。
「殺したよ」
「よくできました」
彼女は笑顔を崩すことのないままそれの頬に触れる。ひんやりとした心地のよさがspれの感覚を刺激し、少しこそばゆそうに身震いした。
それは女に手を引かれて部屋を出る。
それはテーブルの前に座らされた。何をするでもなくぼうっと前を眺めるそれの目の前に、いつの間にやら豪勢な料理が置かれていく。
テーブルを挟んだ先に礼儀正しく座った女が「いただきます」と呟くと、それは料理に手を伸ばした。
「いただきます、は?」
「それは命令?」
「もちろん」
「いただきます」
よくできました、彼女はいつもの様にそう笑顔で言ったが、それは彼女の笑顔がいつもと少し違っている事に気づいていた。いつも笑顔で本心をひた隠しにしたような彼女が心のうちに秘めた何か暗いものが顔を覗かせたような、そんな違和感に気づいていた。
だが特に理由がないので口に出すことはせず、その指示通りに食事を始めた。
それと彼女の箸が食器とぶつかり合う音と、吹き付ける風が窓を叩く音だけが響いている。どこか静けさを帯びた食事が、しばらく続いた。
「痛みはありますか?」
「ない」
「さっき殺したおかげですかね。……まったく、人を殺さねば痛みを感じるなんて。きみは本当に、難儀なたちですねえ」
それの視線が足元に無造作に落ちた女の頸に向かう。昨日切り落としたものだ。まだ片付けられていなかったらしい。
彼女は三人の男を籠絡し、金を騙し取ったとそれは聞いた。
「さっきの男は殺人教唆、さらにその前の三人組は、の教会を焼き払ったテロリスト。強盗傷害過失致死詐欺殺人……つくづく、犯罪は絶えないものです」
「うん」
「お陰で、きみの餌にも困らないわけですがね」
「うん」
女は里芋の煮っころがしを口の中に放り込み、口をリスの様に膨らませる。心なしかそれには彼女の視線が、自分への抗議の意味も孕んでいるように思えた。
「返事はうんしかできないのですか?」
「それは命令?」
「……きみの辞書には、都度、とか、臨機応変、とか、そういった類の言葉がなさそうですね」
「……?」
「冗談です、冗談」
女ははぁ、とわざとらしいため息をついてそれを見つめた。しかしそれはその視線に構わず食事を続けていた。
「……私もずっと一緒にはいてあげられないんです。一人で生きていくすべを身に付けねばなりませんよ」
女はそれから目を逸らすように外の景色を見ていた。
「きみはきちんと考えて生きていますか?」
ぽつり、とした言葉だった。まるで何かを伝えようとして発された言葉には思えない、独り言、という表現が近いだろうか?
けれどそれは箸を伸ばした手を止めて彼女を見た。
女はいつも通りに微笑んでいた。何かあったのか、とでも言いたげに首を傾げた女を見て、それはまた食事に戻った。
「苦痛なく生きるため、他の命を殺す。きみはまるで、人間ですね」
硝子窓の向こうでは豪雪が降っていた。それらは風に巻き込まれて地面に勢いよく堕ちてゆく。その向こうには何も見えない。常に冬に覆われたこの山にはおよそ人の住む場所はないと、それは彼女から教わっていた。
――
彼女の食事をおいしいか、と聞かれても、それには答えることが出来なかった。
仮に彼女が読書を命じて来たとして、その本がどんなに感動的で劇的なラストを迎える作品でも、はたまた何も中身のない面白みのないものであっても、それには感想を言うことが出来なかった。
何もかもを理解は出来ても、何かを感じる事がそれには出来なかった。
理由は至って単純だ。
それは人間ではないからだ。
それは兵器だった。
人を殺すための兵器だった。
それは自分の出自を覚えている。
何のために作られたのかまで、はっきりと明確に。
それが自分の運命を忘れられたことは無い。
日々の中で常に自らの運命を遂行しているからだ。
それに対してそれは何も思わない。
当然の事として運命がインプットされているからだ。
それの名は『殺戮』。
その名の通り、殺戮のために生み出された兵器だった。
――――
これはとある愚かな二国の話だ。
世界を荒廃に導いた、1つの過ちの物語だ。
大陸の中心で隣り合った魔術国ワセレナと科学国エスポワール。
ワセレナは人知を超え、神の領域に達した『魔術』を扱う魔術師たちの国だった。
エスポワールはこれに対し、人知の限界を追求する『科学』によって発展した、科学者の国。
それぞれの分野で頂点に君臨し続ける二国は、常に一触即発の敵対関係にあった。趨勢は常に変わり続け、小規模な戦争は幾度となく行われた。世界中が動向に注目しているほどだった。
先に動いたのはエスポワールだった。
ワセレナで高名な魔術師が七十七名、まったく同日に忽然と消えた。ワセレナは国を挙げて探し回ったが、少なくとも国内で彼らが見つかることは無かった。
八年の月日が経ったとき、消えた魔術師のうち一人であったバーバラ・ロビンウッドの目撃情報が、エスポワール付近で確認された。
兼ねてからエスポワールに疑いの目を向けていたワセレナはバーバラ捜索隊を組織し、エスポワールに派遣。バーバラを足掛かりに他の魔術師の足取りを追う事を考えた。
捜索の甲斐あり、バーバラは確かに見つかった。
しかしそれは最早元のバーバラではなかった。
バーバラの腕は銃に変わっていた。
バーバラの足は、重苦しい鉄の塊に変わっていた。
ぼろぼろのローブの下から見え隠れする肉体は男性のもののようにも見えた。
瞼は常に閉じ続け、美しかった顔は青白く生気が見られない。
人間として最低限あるべき規則性の一切を持たない、継ぎはぎだらけの化け物。
バーバラはバーバラでない何かになっていた。
“生物兵器”だった。
エスポワールは人間を、もとい魔術の使える魔術師を殺し、卓越した科学力を以てその肉体を改造。ワセレナとの戦争に備えて兵器にするという、非人道を貫いた行為を行ったのだと判明した。
結果的にこの件を切っ掛けに、二国史上最大規模の『聖戦』は起きた。しかしそうまでして勝利を望んだエスポワールは、三年という短い時間であっけなく敗戦し、やがて滅びた。
しかし今なお、彼らの手によって生み出された――もとい、つくり変えられた“生物兵器”の大半が、その行方をくらましているそうだ。
それらは『77』と呼ばれるが――その理由は、想像に難くはない。
「まだいたのか」
私は静かにそう述べた。
眼前の金髪の少年――いや、『NO.22』は舌なめずりと同時に、血液のように赤黒く変色した腕を私に突きつける。
ミヤコノジマ都。滅ぼされたエスポワールの都市だった場所。崩れ落ちたビル群も文明に置いて行かれたような鉄の残骸たちも見るに堪えない。いや、見るだけでも反吐が出る。
『NO.22』の脚が地面を蹴り、私と奴の距離が一気に詰まった。
顔面を目掛け迫った拳を、首を横に振って躱す。幸い軌道は読みやすかったので、回避は容易かった。
すぐさま振り向き、攻撃で体勢を崩した『NO.22』の背中目掛けて後ろ蹴りを食らわせる。鉄を蹴ったような堅い感触。いよいよ倒れこんだ『NO.22』にそのまま、
「身体だけは丈夫だ」
安全装置を外しておいた拳銃で、機械の露出した後頭部を狙った銃弾を放った。
立ち上がろうとする『NO.22』だが、どうやら信号を送る器官を潰せたらしく、藻掻くことすらせずにやがて動かなくなった。
念のため私はもう一発後頭部を撃った。
「せめて安らかに眠ることだ。殺した人々を想いながらな」
奴らは全員が全員人間程度の高度な知能を持つわけではない。それゆえ幾ら強力な武器や兵器を備えていようと、単独であればそこまで撃破が難しい相手ではない。
特に『NO.22』は失敗作であったとされている。単純に知能がほかより劣る上、後頭部の疑似的情報伝達器官という、露出した明確な弱点を持つからだ。
だがどんなに失敗作でも、こいつは罪のない、或いは償うべき罪を抱えたままの百人以上を殺したのだ。その事実が消えることは無い。
荒廃しきった祖国の都に私は背を向けた。これ以上ここに用はない。
私には帰らねばならない場所があるのだ。
「君には感謝しているよ、エレナ・ヴラヴァッキ」
『機関』の本部、エスポワール生体研究所跡地――そこに戻ると、いつもの様に白衣の男が私を出迎えた。皺の寄った顔に柔和な笑みを浮かべた彼に、私は言葉なしに敬礼を見せた。
男は名をアヴィケブラと言った。『機関』――エスポワールの負の遺産である七十七体の生物兵器、通称『77(セブンズ)』の駆除を目的とする組織――その長だった。
「君の処理した『77』はもうこれで十二体目だ。全く見事な手腕だよ」
「人殺しの腕を褒められても困ります」
「人? 奴らは人じゃない。認識を間違えているな、君は」
アヴィケブラは笑みを崩さないままそう言った。
私の手が。服の裾を少し強めに噛んだ。
私がここに来る前。
――君のすべてを奪った『77』を、殺したくはないか、エレナ・ヴラヴァッキ。
たかだか生まれ育った孤児院を『77』に破壊されたぐらいだった。たかだか、たった一人の弟を『77』に殺されたぐらいだった。過ちを犯し続けた今となっては一笑に伏せてしまう、それくらいの絶望だった。
それでもそれは、私にとって生きる意味の喪失にも等しかった。
――殺したい。
――奴らを全員殺せるのなら、世界すら壊す。
――それだけの覚悟があるのなら。僕の手で、君を鍛えてやってもいい。
燃え盛る孤児院。聞こえるのは泣き叫ぶ子供の声。肉の焼ける気分の悪い匂いが鼻を侵食する。中に居るはずの弟を助けに行く勇気も、死ぬ勇気もなかった私は、その場を走り去ったのを覚えている。
自らの弱さを憎んだ私は、奴の甘言に喜んで乗った。後悔している訳じゃない。あの日から私は誰よりも輝きの中で生きている。全てを奪った連中から、今度は全てを奪えるという希望だ。
けれど幾ら奴らを殺しても、ぽっかり空いた心の穴が埋まる事は決してなかった。
「ところでエレナ。君に頼みたいことがあるんだが、いいかね」
「どのみち、私に選択肢などありはしません」
「かなり辛い任務だと思うよ。殊更君にとってはね」
「今まで請け負ってきた中に、辛くない任務などありませんでしたので」
君は強いな、アヴィケブラがそう言って苦笑する。
用意された私服に着替える私をよそに、アヴィケブラは何やら手元の端末を操作する。ぴ、ぽ、ぱ、と、間の抜けた電子音が暗い研究室内に響く。
やがてアヴィケブラは顔を上げて笑った。
「育ててほしいヤツがいるんだ」
「育てる……ですか?」
「言葉の通りだよ。君には、ある”モノ”の親代わりになってもらいたい」
アヴィケブラの言葉が呑み込めない私は、首肯すらせず呆けていた。
――育てる?
――親代わり?
何を言っているのだろうか、この男は。まして、”モノ”の親代わりだなんて――。
そんな事を考えていた時、アヴィケブラの後ろから、
「紹介しよう、ぼくの新たな生きる意味さ」
彼は現れた。
扉を開けたのは生まれたままの姿の少年だった。髪の長い、整った目鼻立ちの少年だった。
彼には表情というものが欠落していた。この世全てに対して興味を持っていないような顔だった。その姿はまるで人形のようで、私にはどこか不気味に思えた。
「とてもかわいい子でね、従順なのが特徴さ。ぼく個人としてはね、子供は多少突っぱねがあったほうがいい派なのだが、組織となるとそうともいかんだろう、……」
アヴィケブラの饒舌な様子を見て、私は何となく状況を理解した。アヴィケブラはこの子を育てろというのだろう。大方、私と同じように『77』と戦う駒に育て上げるつもりなのだ。
私とてずっと戦えるとは限らない。もう二十代も後半に差し掛かった。そもそもいつ『77』に敗れ、殺されるか分かったものではないのだから。
「――ともかく、コイツを育てるのが君の任務だ」
「食事や寝床はどうすれば?」
「専用の施設を用意する。物資の支給も、望むものならいくらでもしよう」
「随分と大盤振る舞いですね」
「それだけの価値がコイツにはあるのさ」
アヴィケブラは彼の存在にかなりの自信を持っているようだった。
「ぼくの目的は知っているだろ」
「『77』の壊滅ですね」
「それだけじゃない。最終目標としてはね、ぼく、……世界をきれいにしたいのさ」
「そうなんですね」
私は特に驚かなかった。アヴィケブラが理解しがたい、突飛な事を言うのは今に始まった事ではない。何より、否定するほど興味もわかない。
「未完成というのは醜悪だ。人間も、生物兵器もね。だからこそ壊してきれいにするんだ。至極単純な行動原理だろ? ほんの一握り存在する、弱点や欠けのない"完成品"を除くあらゆる物を壊して、ぼく好みのきれいな世界にする! それが僕の夢なんだ……!」
私の視線がいよいよ軽蔑に変わったのに気づいたのか、アヴィケブラは慌てた様子で両手を振った。
「あ、いやいや、まあぼくの哲学なんかに興味はないよね。分かってるよ」
この男は掴めないようでいて、とかく完璧主義であることだけは分かりやすい。失態を冒した部下は翌日には消えているか、実験に使われている。少しでも傷がついた機械はすぐ捨てる。――かくいう私だって、利用価値がなくなれば今日明日捨てられても不思議ではないほどだ。
『77』殺しだって、社会正義や善意に基づいてやっている訳もないと思っていたが、今はっきりした。この男が完璧以外が許せないたちであるからこそ、皆どこか欠けている『77』の存在が許せないだけだ。
――この男の汚らしいお眼鏡にかなう一握りの"完成品"とやらが、本当に実在するのかは疑問なところだが。
「それより聞きたいことがあります。彼はいったい誰なのです? あなたがそこまで期待するとは珍しいことではないですか」
私の問いにアヴィケブラの笑みが一瞬で消えた。
「知りたいかい?」
一瞬で、背筋に悪寒が走ったような感覚に襲われた。『77』と相対する時ですらここまでの感覚には経験がない。大した戦力にもならない中年のくせして、どうにもこいつは気味が悪い。
「君は知ってると思うけど、『77』には種類があるよね。あれらはエスポワールの科学者の”作品”だ。作品には総じてテーマがあり、そのテーマ通りに彼らはプログラムされている」
実際に何度も闘った私にはその話が容易に理解できた。
『暴力』であれば、人を傷つける事に比重を置いた兵器を埋め込まれ、思考回路もそれに適したものに。『殺人』であれば人を殺す事に、『凌辱』であれば人を辱める事に、――と言ったように、『77』達にはそれぞれ、斯く生きるべしと定められた運命がある。
「そしてこいつは『殺戮』。つまり、まぁ、ぼくの理想だ」
「なるほど」
「これはね、もとの状態でもほぼ完璧だったものをさらに改良、100%を1000%にしてやったぼくの自信作でね、是非ともこいつの凄さをきみに教えてやりたいなぁ! ……あ、そうだ」
アヴィケブラは笑顔で言った。
「ぼくも抵抗する! 全力を以てぼくを殺せ、殺戮!」
アヴィケブラの叫びと、ぱあんと軽快な音を立て、彼が爆発四散したのとは同時だった。
――一瞬。仮にも数々の『77』を相手取ってきた、動体視力にはわりかし自信もある私をもってして、一切の動作が見えなかった。
『殺戮』は血と肉片に塗れた、刃のように変形した拳を力なく握った。私を振り返った。
「――先生からの伝言――」
「……狂ってる」
「『77』が一体、NO.77――『殺戮』だ。君はぼくに次ぐ先生として、コイツを一人前の絶望にするんだ……だって」
これまで幾度となく戦い、息の根を止めて来た『77』。いつだって私の目標で、誰よりも殺したい存在だった『77』。改良に改良を加えられ、克服できる限りの弱点を全て克服した、最後の一体。
つまるところ、『77』"最強の個体"。その彼を、私は育てなければならないのだ。
私は恐怖した。
けれどそれは、最強を前にしたが故の死への恐怖だとか、その威圧感への本能的な恐怖だとかよりも、もっと別の。
殺さないという任務への、恐怖。
自分を抑えられる自信が無かった。いつ彼の首筋に刃を突き立てたくなってしまうか分からなかった。その時が私の終わりだと思った。
――だが。
だんだんと考えるうち、落ち着いてきた。
私は、その終わりは凄く理想的だと思えた。
ここらが年貢の納め時だと思った。これを最後の任務にしようと思った。『殺戮』を殺し、私も死ぬ。
殺しに生きた人生も、そうすれば少しは報われると、心の底から思っていた。
そうして私は、先生になった。
――――
一体どこからどこまでが愛なんだろうと何度も考えた。
例えば親が子を育てること。親が産んだ子に責任を負うのは、一般的に当然のことだ。そうすることを自分が選んだのだから。
例えば人が友人を助けること。友人と今後も良好な関係を築いていきたいと願うなら、困っている時に助けるのは当たり前だ。相手を欲しているのは自分なのだから。
それらは愛であると言う者がいる。だが私はそうは思わない。いつだって中心に自分があるからだ。
人が何かを、恋とか劣情とかそういった語彙を用いず、愛と呼ぶなら。それは本質的に、無償で与えられるべきなのだ。誰か他人を想うがため、自分を犠牲にしようとも、それでも動いてしまうような感覚。それが愛。愛を持つこと。
例えば、私が彼を育てること。
例えば、私が彼を助けたいと思うこと。
例えば、私が彼の健やかな成長を願うこと。
例えば、私が彼に、できるならもう誰一人として殺してほしくないと思うこと。
例えば。
彼に命令を与え、人を殺させるような存在がもう二度と。
彼の幸せの邪魔をすることのないよう、彼が好きに生きる枷になることのないよう、ただ祈ること。
それらが利己心や虚栄心の介在しない、本物の私の想いであることを知った夜。
私は思いのほか、彼を愛していたらしいことに気づいた。
ならば最後はきっと、私なのだと思う。
彼を『殺戮』にしてきた代償を払う時が来た。
私の手で終わらせる。
そう決めた。
――――
雪は降って居なかった。外は雲一つない快晴で、椅子に腰を下ろした彼女は、晴れ晴れとした笑顔で窓の向こうを見つめていた。
彼女は座っていた。初めてこの家に来た頃とは見違えるほど美しい姿勢、所作で座っていた。
差し込む光が彼女の白い肌を照らす。しかしいつもより深々と被った頭巾のせいで目元に光は宿っていない。
彼女は立ち上がった。
「殺戮を迎えに行こう」
彼女はいたって普通の表情を浮かべていた。いつもの様に美しい容貌で、いつもの様に殺戮を起こさない程度の足音を立てながら、彼の自室へ向かった。
殺戮の寝る部屋の前にたどり着いた彼女は、いつもの様に扉をノックする。三回。これもいつも通りだ。
彼女はゆっくりと部屋のドアを開けた。
部屋は広かった。
ベッドの上の殺戮は眠っていた。
今の時刻を彼女は知っていた。六時半。殺戮はまだ寝ている時間。
彼女は時間を知っていて彼を訪れた。
彼女はベッドに歩み寄った。
後ろ手に握った白銀のナイフが、微かに煌きを放った。
彼女の中で殺戮との様々な思い出が逡巡した。
彼女といる間一度も自分から喋らなかった殺戮。けれど彼が比較的好んでいたカレーライスを作ってあげた時、決まって彼は少しだけよく喋った。
彼女に反抗したことなど一度もなかった殺戮。けれど一度、彼が殺しきれなかった指名手配犯を代わりに殺そうとしたとき、殺戮は彼女の手を振り払った。今思えば『先生』に人を殺させたくないとでも思っていたのだろうか。思い出して、彼女は微笑んだ。
どうしようもない思い出ばかりで、そこにはいつも殺しがあって、悪があった。
けれど、二人で過ごした時間は、悪くはなかったと思った。
外は快晴だ。
たまには殺戮を外に連れ出してやっても良かったかもしれない。
それだけが少し気になった。
「殺戮」
彼女の表情が強張った。
それは過去だった。『77』を殺して回っていた、怨嗟と後悔にのみ生きていた過去だった。
彼女はその瞬間、確かにエレナ・ヴラヴァッキだった。
殺戮の喉元を目掛けて、彼女は刃を振りかぶる。
エレナであればこうしただろうからだ。
「戦いなさい、殺戮」
だが、殺戮は躱した。振りかぶったはずの刃は、先ほどまで彼が眠っていたベッドに深々と突き立てられ、その中綿を抉っていた。
彼女は動揺した様子も無く、縮地を用いて彼から距離をとる。殺戮の表情が変わる様子はない。
「反撃の技術を教えたハズです。今の回避行動は最善ではない」
彼女の表情は氷の様に冷たかった。ナイフを構えたその姿に普段の彼女の様子は全く見えない。何か悪霊でも憑いたかと疑われてしまう程の変貌だった。
殺戮は彼女を見ていた。ベッドから起き上がって、地面に足を着いた。
彼女は殺戮を見ていた。獲物を追う獣の様に獰猛で、ぎらついた目だった。
殺戮は窓の向こうに目を向けた。久方ぶりの快晴だ。目に焼き付けるようにそれをしばらく見て、ふと振り返った。
「今日は天気がいいよ」
「そうですね」
「うん、天気がいい」
殺戮の手が彼女の振るった刃を掴み止める。白銀の残影を残した刃を翻し、彼女は今度拳銃を取り出した。
「けれど私は快晴が好きじゃありません」
手慣れた手つきで三発撃った。殺戮の胸部に正確に放たれたそれは、それでも彼の強靭な肉体を前に何一つ外傷を与え得なかった。
殺戮の表情は依然変わらなかった。
変わらなかったが、今度は彼が口を開いた。
「前は晴れてほしいって言っていた」
彼女は壁を蹴り、身体を捻って立ち尽くした殺戮に蹴りを入れ込む。
「ウソをついたのです」
殺戮は倒れなかった。地面にしっかと根を張った大木の様にびくともしなかった。けれど抵抗もしなかった。ただ目の前の彼女をのみ、何もせずに見つめていた。
「ウソをつかないとも言っていた」
「それもウソですよ」
「なぜ?」
「きみも何かに疑問を持つことが出来たのですね」
彼女の銃が殺戮の額に押し付けられる。
カチッ、と、無機質に拳銃が鳴いた。
殺戮は一瞬銃を見上げ、そして、彼女を見た。
「私がきみを嫌いだからです」
彼女は確かにそう言って、そして、殺戮を見た。
殺戮の言葉を待つように銃を押し付ける彼女の意に反し、殺戮は何も言わなかった。
彼女の手が段々と震え始める。吹きつける風が窓を叩く音は、それでも二人の間に水を差すことは出来そうになかった。
「何故、何も言わないのですか?」
彼女はしびれを切らしたように聞いた。
「命令されてない」
「きみは本当にそればかりですね」
「うん」
彼女はゆっくり引き金を引いた。
だが拳銃が火を噴くことは無かった。
「弾を抜いてあったんです」
彼女が引き金を引くたび、かち、かち、と間の抜けた金属音が響いた。避けるそぶりすら見せなかった殺戮を前に、彼女は苦笑して言った。
「……どうやらきみは、私を嫌いになってはくれないようです」
彼女は言った。
何かを諦めたような表情を彼女はしていた。殺戮にはその表情の意図が分からなかった。
彼女は一歩、殺戮に歩み寄った。
「いや、或いはきみは、――私が思うより、人を愛せないのでしょうか?」
吐息の温もりまで感じられる距離の彼女は、ゆっくりと殺戮を見上げる。彼の長い白髪をとかすように撫でた彼女は、殺戮の目をまっすぐ見て言った。
――愛しているなら、苦しいはずなのだ。
――愛しているなら、それでも戦いたいはずなのだ。
彼女は殺戮に見えないように、唇をきゅっと噛み締めた。
「私を殺しなさい、殺戮」
殺戮の返事を待たずに、彼女は彼の手にナイフを握らせた。
殺戮は彼女の瞳を見つめ返した。無言の空間がしばらく続いて、唸る風の音だけが聞こえていた。
殺戮はゆっくりとナイフを振り上げた。
彼女は静かに目を閉じた。まるで王子様の口づけを待つお姫様のように、死を心から希う少女のように。彼女は泣かなかった。
殺戮のナイフは振り上げたところで止まっていた。
殺戮は彼女を殺さなければならないと思った。けれど、ナイフを持つ手はいっこうに動こうとしなかった。どんなに信号を送ってもびくともしない。
彼女は目を開けないまま、囁くように言った。
「命令を聞きなさい、殺戮」
「手が動かない」
「……じゃあ」
彼女は微笑んだ。
「私を殺してくれれば、また命令をあげます」
彼女は抵抗しなかった。
ただ殺戮に背を向け、座り込み、自らの首を指し示した。
殺戮には殺す理由がわからなかった。
けれど彼女が言うのなら、それはきっと正しい選択なのだろうと思った。
きっと道理なんて無いけれど、彼女がそう言うのなら、そうするべきだと思った。
死の間際、それでも表情を変えない殺戮を見て。
(――先生、失格だ。私は)
今まで死の意味を教えられなかったことを、彼女は酷く後悔した。
血しぶきが舞った。殺戮の頬を、紅い血が掠めた。
雪が降っていた。けれど殺戮は外を見なかった。今。たった今失われた、たった一人の先生の命を、ただぼうっと見つめているばかりだった。
――――
自分では何も考えて来なかった。
したい事なんて、彼にはなかった。
幸いそんな彼には、命令をくれる存在がいた。だからその人の言う通りに生きて来た。
それが普通だと思っていたし、今更そこに何か言うつもりもない。
もともと感情とか情緒が分からなかった。
彼女が言うような喜びも、悲しみも、怒りも、彼には分らず、いつもどこか他人ごとだった。
誰を何人殺したとか、そんなものに興味はなかった。
彼にとって人間はあくまで数値に過ぎず、それは生まれながらに兵器たる彼にとっては当然の事だったからだ。
けれど。
もう彼女はいないんだと、そう思った瞬間、殺戮は突然、目の前が真っ暗になったような感覚に襲われた。
そこに、雪はまだ降っていた。
きっと止むことはないのだろうと思った。
彼の先の道はいつもこうして、雪に覆われて見えないのだ。
優しく照らしてくれるあの人がいないと、見えないのだ。
――――
誰かを殺す事は別に好きではなかった。
耳が痛くなるような悲鳴。飛び散って服を汚す血しぶき。そこにあったはずの命が失われてしまった事に対する、喩えようもない喪失感。
罪悪感だとか後悔だとか、そういう名前のついたものなのかはわからない。
ただひとつ言えるのは、殺さないと心がびりびり痛むこと。
しばらく誰かを殺さないでいると、立っていられないくらいに痛くなる。
アヴィケブラはこの痛みを、『生まれながらの仕組み』だと言った。
けれどそんなのは、きっと本当の理由じゃなくて。
彼の命が人を殺すためにあると先生が言うのなら、それでもいいと思っていただけだ。
痛くはなかった。
最後に人を殺してから眠って朝が来て、少しだけ感じ始めていた痛みは消えていた。
その理由は、考える気が起きなかった。
殺戮は座っていた。いつもの風景。開け放たれた扉の向こうから漂う、こんがり焼けたトーストの美味しそうな匂い。晴れ渡った空から降り注ぐ日光が彼を照り付ける。
影の中に彼女は立っていた。
――殺戮。
彼女は立っていた。いつもと何も変わらない笑顔を浮かべて、座った殺戮を見下ろしていた。
今日は少し朝食に遅れてしまいそうだ、と、殺戮は言った。
彼女は困ったように笑った。
――朝食の必要はありませんよ、殺戮。
殺戮の前から、笑顔の彼女は消えていた。
殺戮は窓の外を見た。晴れやかな青空が彼を出迎えた。差し込んでくる朝日がいやに眩しくて、それでも殺戮は、それを見つめざるを得なかった。
どれだけの間そうしていたろうか。
時間なんて数えていなかった。命令されていないから。
何度の夜明けを見たろうか。
殺戮はずっと窓の外を見ていた。
月が満ちて、欠けて、また満ちるのを見ていた。
食事の必要も排せつの必要も無かった。けれど彼女は毎日のように食事を作ってくれたことを、今になって思い出した。
失って初めて、彼女の存在が思いのほか、自分の中で大きかったことに気づいた。
――殺戮。
声がした。
殺戮は振り返った。
殺戮を見る彼女は、いつかの様に笑っていた。
彼女は何も言わなかった。名前を呼ぶばかりで、今までのように命令をくれたりはしなかった。
――殺戮。
それは主張を続けた。
それは動き出した。歩んで、進んだ。
それは棚に触れ、開ける様に指さした。
それは殺戮に、あの日の様な冷たい表情を見せた。
殺戮はそれをじっと見つめていた。何をするでもない。ただ、見つめていた。
「――」
立ち上がった。
殺戮は、根を張ったように動かなかった椅子から、ゆっくりと立ち上がった。
殺戮は歩いて、ゆっくりと引き出しに手を掛けた。
「……」
引き出しの中には紙が入っていた。
皺ひとつない綺麗な紙だった。ずっとその中で誰か手に取ってくれるのを待っていたようだった。
殺戮は紙を見た。
殺戮は書かれた字を読んだ。
『先生はきみに、最後の命令をします』
少年の隣に座った女が、小さく微笑んで少年を見守っている。
少年にその姿は見えないが、彼はたしかにそのように感じていた。
随分な日数を置かれて腐食し始めたパンを口に運んだ。目玉焼きに、ソーセージ。サラダ――だったもの。
味なんて関係なかった。腐っているなんて関係なかった。
理由なんてわからないけど、その瞬間、少年はそうしたいと思っていた。
『朝夕晩の、栄養バランスの取れた食事は、人生を少しだけ豊かにしてくれます。……ご飯をしっかり食べること』
少年の声は、優しかった。
まるで他人がそのまま彼の体を使って喋っているかのように、無機質な彼の声には感情が宿り、表情筋の凝り固まった彼の顔は、微笑みに満ちている。
少年は立ち上がって、扉を開けて外に出た。
彼の吐いた白い息が晴れ渡った空を立ち上っていく。
少年は柔らかな雪を踏みしめて歩いた。
きゅ、きゅ、と、澱粉を踏んだような冷たい感触が足の裏を伝わっていく。
『先生の命令、その二』
少年は地面に空けた穴に、事切れた男の身体をそっと寝かせた。ゆっくり、ゆっくりと、混ざりあった土と雪を手ですくって、男の身体を覆っていく。
最後には、彼女の残した名簿に載った、彼自身が殺した男の名前を書いた立て札を置いた。
その向こうには、既に立てた無数のお墓たちが並んでいた。ひときわ大きなお墓は、最初に立てた彼女のお墓だ。
『生に敬意を払い、死を恐れるのは、必ずしも必要なことではありません。けれど、よりよく生きるとは、そういうことだと私は思います。命の大切さを、しっかり認識しなさい』
少年は振り返った。
彼女は眠っている。これからもきっと、ゆっくりと眠り続けるだろう。
少年は再び前を向いた。
少年は別にこれを決別だと思っていなかった。だって身体は眠っていても、彼女は実際に後ろにいて、少年が振り返るといつも笑いかけてくれるのだ。
そして、たまに体を借りて命令をくれる。
「先生。おれはどうすればいい?」
少年の言葉に、彼女は答えた。
『したいように生きなさい。』
彼女がいないことはもう知っている。
だから、これはきっと幻覚なのだろうと思った。
でも、その幻覚はきっと、紛れもなく彼女なのだろうとも思った。
だから殺戮は、その幻覚の命令に従うことにした。
「したいように、って言われても、わからないよ、先生」
『とにかく、歩いてみてはどうですか?』
「……とりあえず、どこか、人がいるところへ?」
『麓に降りましょう。街がありますよ』
彼女の幻想がくれる、ほのかに温かくて、優しい感覚が体を包む。
殺戮の足跡は、ゆっくり、ゆっくりと、雪面に増えていく。
――その幻想が、小さくて、細いけれど、それでも確かに存在していた。
殺戮自身の"心"であることを、彼はまだ知らない。
執筆の狙い
「本当の悪役がヒーローになる話」を書きたくて、本作品の執筆に至りました。そして「では、本当の悪役とは何か?」と考えたとき、主人公の『殺戮』が浮かびました。人を殺すことを宿命として生まれ、それに対する罪悪感や感情を持たない。まさに『悪役』です。ただ、それでは彼の成長が頭打ちになってしまうため、「育て親に心をもらう化け物」という構成にいたしました。
また、『心があれば人間でなくても人間たりうるのか』というテーマについて考えていた事も、執筆のきっかけとしてあります。
初投稿ですので、投稿形式などに至らぬ点があれば申し訳ありません。皆様の貴重なご意見を頂けると幸いです。