ぷくりぷくぷく
泥の中から顔を出す。
ぷくり……。
ひんやりとしていてぬるぬるの顔が陽に照らされてくすぐったい。
ぬるぬるの顔で辺りを観察する。周囲を見るわけだ。誰かいないかな。いないかな……。
いるとぷくぷくと面白いんだけれど。
大阪は泥の中に沈んだ。
「ええ天気やね」
「散歩するのにもってこいやわ、いま、行ってきました」
「散歩もええけど、公園でぼさあとするのもええよ」
以前はそんな言葉が交わされていた浪速の街も、いまは泥の河から顔をのぞかせている連中が何か言いたげだ。
泥の河の上を風がそよいだので、ぷくりと泡の中のことばは風に乗っかり移動する。
あちらこちらからひそひそ声やら、時には叫びが「ぷくり」と、聞こえたりする。
反応してこちらも「ぷくり」。
そよ風に力が無くなると、そこにポトリと落ちる。
風に力があればどこまでも飛んでいく。
どこまでも行きたいが、街を駆ける風がゆるくなり、ポトリとビルの谷間の泥の河に落ちる。
いつからだろうか、大阪が泥の中に沈み出しだのは……。
街が大きくなって名無しの人物がうろちょろしだして、それがどんどん増えて近所のおっちゃんおばちゃん連中がよそよそしくなって、大阪らしさがなくなってから、泥の中に沈みだした。
名無しの連中は泥の中が棲み心地いいのか、たまに泥の中から顔を出している。
ただ、名無しの連中が一般人と違う点は、自己中を電波で飛ばすところだ。
「アホ」「シネ」とかを垂れ流す。
電波はビルの壁に当たるとそのままへばりついたりすることがある。
やがて「アホ」や「シネ」はビルの側壁で壁について論争する。
行き着くところは「人間の壁」である。
だが、「アホ」や「シネ」は石川 達三を知らないからやがて沈黙する。
何日かすると「静かだな……」どちらかが独り言をくちる。
「まだ、生きていたのか?」
「ああ、なんとかな……」
「お前はアホだったな?」
「いや、お前がアホだろう」
「いや、おれはたしかシネだったはずだが……」
「すると、おれがアホだったのか?」
ふたたび「アホ」と「シネ」がののしりあう。
そのうちに雨や風の都合で、いつまでもビルの側壁にしがみついていることができなくなる。
するとその下を木の板に乗りきょろきょろしながら進んでいる、この間の名無しが通りがかったりする。
「アホ」がまず最初に頭に落下する。
その次に「シネ」が続く。
ぶっちゃけた話、順番はどちらでもよい。
名無しは自分が発した、
「アホ」と「シネ」の直撃を受けて泥の河に落ちる。
しばらくして名無しは泥の河から這い上がり、木の板に乗り、独り言をぶつぶついいながら親のすねをかじりにいくのだが、言葉を発するたびに口からは大量の泥が吐き出される。
名無しは他人から声をかけられるのはいやだから、いつもヘッドホーン型のラジオを聴いている。
「泥予報の時間」
と、さわやかな女性の声が聞こえてくる。
「今日は午前中から雨風が強く、大量の「アホ」と「シネ」が落下してきました。一般の通行人が被害にあい、かれらは名無しに変身した模様です。午後になれば彼らが愚痴るたびに泥が吐き出されるので、本日の泥の層は三センチ厚くなる模様です」
ときどき東京の連中が遊覧飛行にやってくるようになった。
上空から泥の大阪を見てため息をついている声が聞こえそうだ。
「東京は砂に埋まったのよ、やりきれないわ」
むかし東京砂漠という歌があったらしいが、東京は、いまではほんとうの砂漠になったという。
先日その遊覧飛行で東京からやってきた砂女が、泥の大阪に棲みついた。
そして砂になってしまった腕を青く晴れた空に伸ばしながら気持ちいいなぁ、これって、と叫ぶ。
「シネ、シネ、シネ」と、誰かが反応する。
女は驚いたように、反応した声の方を振り向く。
「アホ、アホ、アホ、アホ」違う方向から声が飛んでくる。
「誰よ、馬鹿じゃないの、くだらないことを言って!」女はヒステリックに叫び声をあげる。
その口からは大量の砂が吐き出され、泥の上に散る。
女の周囲にある泥からぷくぷくと泡が浮かんでくる。
「シネ、シネ、シネ、シネ」
「アホ、アホ、アホ」
女は不思議そうにその泡が弾けるのを見て、表情が変わり愉快そうに笑いだす。
その口から声は出ているが、砂は再び出ない。
「ぼけ、ぼけ、ぼけ」泥に半分沈んだおっさんの周辺から「ぼけ」の泡が、ぷくぷくと浮き出る。
「面白いわね、これは」女は意に介していないように、笑い飛ばしながら、言葉の泡を手でつかもうとする。
「シネ」が砂の手につかまれてじゃりじゃりと転ばされ、「シネェ――!」と、むなしそうな断末魔の叫びをあげる。
「アホ」も捕まれたりするが、ぱちんと弾けて消えたりする。
いくつかの「アホ」と「シネ」は、女の手をするりと抜けて上昇気流よろしく昇っていく。
女から少し離れたところの「ぼけ」は「ぼけ、ぼけ、ぼけ」と、泡を大量発生させて、泥の河からあぶくを上昇気流に乗せる。
女が「アホ」や「シネ」が昇っていくのを見ていると雨が降り出した。
その雨に打たれて「アホ」と「シネ」が落下する。
下でポカンと見上げている女に「アホ」が直撃する。
女は泥の上でのけぞる。
そこに「シネ」が「シネ、シネ」と、連続弾をかませる。
東京から来た女は泥の河の上でひっくり返る。
「ええやんー!」と、予想もしない大阪弁でのたまう。
女の口から砂が全く吐き出されないのは、心の底から喜びに満ち溢れているからだろう。
そこに「ぼけ、ぼけ、ぼけ」と、ぼけのカラダから発生した言葉の嵐が女の脳天に直撃。
「ぼけのおっさん、おもろすぎぃ!」と、笑い飛ばす女。
このあいだの名無しがヘッドホーン型のラジオを聴きながら、また通ったりする。
「泥ニュースの時間」
と、さわやかな女性の声が聞こえてくる。
「名無しが発した「アホ」と「シネ」その他、汚い言葉が泥の中で熟成されて、大量に発生している模様です。こういった汚い言葉を聴いていると気持ちが暗くなるし、悪化すると鬱(うつ)状態になり大量の泥を吐き出すようになるので、外音遮断性(ノイズキャンセリング)のヘッドホンを使うなりして、ご自分の精神と身体を守ってください」
その名無しの頭にも「アホ」と「シネ」そして「ぼけ」が直撃したが、彼はつい最近購入した外音遮断性のヘッドホンを使っていて、のんきに笑い転げている女の前をちらちら見ながら「ええやん」と、通り過ぎた。
了
執筆の狙い
不条理文学×都市寓話×風刺ファンタジーって感じ!