別れの日から
秋の日の光が、視界全体を照らし出し、木々の葉が揺れて幾重にも重なった音が響く。空を見上げると小さな鳥が飛んでいるのが見えて、薄い雲が空の水色を背景にして浮かんでいる。一歩一歩進むたびに、落ち葉を踏む音がして、隣を歩く白石詩織がいることを感じる。午後の風は涼しくて、着ているシャツには少しだけ汗が滲む。詩織は無言で僕の隣を歩き続けてずっと地面を見つめていた。
しばらくの間歩いていると、川が流れている。日の光を水面が反射し、きらきらと輝いていた。この辺りは自然が豊かな場所だったので、川の水は澄んでいた。僕は背負っていたバックパックを胸の前で掛け直し、中から携帯用のコップを取り出す。大丈夫だろうと思い、川の水をすくって飲むと喉が渇いているせいもあって、おいしく感じる。
僕は詩織にコップを渡し、彼女も川の水をすくって飲んだ。
「おいしいね」と彼女は言った。
しばらくの間、僕らは無言だったので、川の近くで休憩をすることにする。地面に二人でしゃがみ込むと、詩織の表情がどこか強ばっているような印象があった。
「どうしてここに来ようと思ったの?」
「俊と昔ここに来たんだ。あの頃は両親も一緒でさ。一年に一回くらい小さい頃はここに来ていたんだ」
彼女はそう言うと立ち上がり背伸びをする。僕も立ち上がりまた一緒に歩き始めた。
山の麓のこの道はハイキングコースになっていたが、今日は平日ということもあって人が少ない。僕らはまるで二人だけこの場所に取り残されてしまったかのような感じがする。川沿いの道を歩いていると水の流れる音が響いている。詩織はまた下を見ながら、僕の隣を歩いていた。
夕方になるまでハイキングをして、僕らは帰り道を歩いた。
「突然呼び出して悪かったね」と詩織は言う。
「今日は大学の講義がない日だったからね。夜に新幹線で東京に帰るよ」
「また会えるかな?」
「もちろん。いつでも誘ってよ」
そんな会話をしながら、僕らは駅までの道を歩いていた。山の周囲は田園風景になっていて、家々が点在している。ちょうど山の向こうに太陽が沈んでいこうとしていた。オレンジ色の日の光を歩きながら眺めている。
駅に着くと次の電車が来るまで十五分程、時間があった。僕らは屋根のない駅にある自動販売で飲み物を買い、それを飲みながら電車がやってくるのを待つ。
電車がやってくると僕らは乗り込み、彼女は実家の近くの駅で降りて、僕らは別れた。
詩織とハイキングに行ってから五年の月日が経ち、僕は会社のビルの中でパソコンの画面を見ながら、ウェブサイトを作っていた。窓の外は明るく、他にもビルがあって、空は晴れ渡っている。僕のデスクの前には先輩の中村さんが座っていて、彼女もずっと仕事をしていた。キーボードを叩く音がオフィスの中に響き渡り、雑談をしている人の声と入り交じっている。パソコンの画面には依頼のあった食品メーカーのウェブサイトが映し出されていて、ページを一つずつ作っていた。
昼休みになると中村さんから声を掛けられて、一緒に昼食を食べることになった。エレベーターの前で会話をしていると他の社員も数人やってきて、エレベーターに乗り込む。僕は今作っているウェブサイトのことを考えながら、一階に着くと降りた。
「どこか行きたいところはある?」と中村さんは聞いた。
「定食でいいんじゃないですかね」
「そうしよっか」
会社の近くには様々な飲食店が建ち並んでいて、駅前にある定食屋に入った。店内は古風な雰囲気で壁にはメニューが貼ってあり、僕らは二人掛けの席に座る。メニューを開き、僕と中村さんは唐揚げ定食を注文した。
「佐々木君は結婚しているんだっけ?」
中村さんは水を飲みながら僕に聞いた。
「してないですよ」
「そっか。私はしてるんだけど、付き合っている人とかいないの?」
そう言われて僕は一瞬詩織のことを思い出した。あの日ハイキングに行ってから時々電話で話すことはあった。
「今はいないです」
僕がそう言うと、中村さんは「そうなんだ」と言ってちょうど定食が運ばれてきた。
その日は夕方まで仕事を行い、なんとか依頼されていた会社のウェブサイトを作り上げることができた。僕は作成したものを課長に提出し、会社を後にする。ビルから出たときにスマートフォンが振動したので、電話に出ると詩織からだった。
「久しぶり」と彼女は言った。
「ちょうど仕事が終わったところなんだ」
「お願いがあるんだけどいいかな?」
詩織は少し申し訳なさそうに言った。
「何?」
「今度ハイキングに行かない?」
僕はそう言われて五年前のことを思い出す。あの日からずいぶんと時間が経ったように思う。
「いいよ。来週?」
「週末とかはどうかな?」
「たぶん大丈夫だと思う」
僕らは待ち合わせ場所を決めて、電話を切った。駅までの道を歩いて行くと、多くの人が通り過ぎていく。僕はハイキングに行くのが少し楽しみだった。久しぶりに会う詩織が今どんな風になっているのかも気になる。
次の週の土曜日になると、僕はデジタル時計の音で目が覚めた。ゆっくりとベッドから起き上がり、カーテンと窓を開ける。朝の外の空気は冷たく、部屋の中に吹き込んでくる風が心地いい。洗面台で顔を洗い、キッチンで軽めの朝食を作る。冷蔵庫からベーコンと卵を出してフライパンで炒める。鍋に水を入れて、ほうれん草を茹でて味噌を溶かす。パックのご飯を電子レンジで温めると朝食が出来上がった。リビングのテーブルで朝食を食べながら、ニュースを見ていた。遠くの国で戦争が起きているという内容だ。
朝食を食べ終えると服を着替えて、荷物を持ち、家を出る。階段を降りていくと鳥の鳴き声が聞こえた。マンションの建物の外に出て、駅に向かって住宅街を歩く。この辺りは大きな家が多く、閑静で治安がいい場所だ。
駅に着くと急行電車に乗って、東京駅まで向かう。車内は人はそれほど多くなくて、席に座ることができた。窓の外の住宅街の風景が移り変わっていき、地元の風景を思い出す。ふいに俊の横顔が脳裏に浮かんだ時、電車は駅に着いていた。そこから東京駅まで向かう電車に乗って、席に座りながら窓の外を見ていた。
東京駅に着くと、構内で小説とビールを買い、新幹線乗り場まで向かう。数人の人がホームに並んでいて、新幹線はすぐにやってきた。車内の指定席に座ると、僕の隣に女性の老人が座る。僕はビールを開けて飲みながら、先ほど買った小説を読み始める。
内容はあまり頭に入ってこなかったが、車内販売でコーヒーを買うと、隣に座っていた老人が話しかけてきた。
「旅行ですか?」と僕に聞いた。
「地元の山でハイキングに行くんです」
「いいわねえ。私は孫の家に行くの」
老人はしばらくの間、孫の話をしていた。僕はコーヒーを飲みながら、話を聞き、時々質問をする。そんな風に過ごしていると新幹線は名古屋に着き、老人はそこで降りた。駅に停まっている間に、中年のスーツを着た男性が僕の隣に座る。彼は新聞を広げて、ペットボトルのお茶を飲んでいた。
新幹線が京都駅に着くと、僕はそこで降りた。東京とは雰囲気が違う感じがして落ち着きがある。僕はハンバーガーのレストランに入り、昼食を食べることにする。詩織との待ち合わせ時間には間に合いそうだった。そこから在来線に乗って、地元の駅まで向かう。電車に乗っている間、子供たちが楽しそうに話をしているのを見ていた。
実家に荷物を置いた後、詩織と待ち合わせをしている駅に向かう。改札を抜けて、ホームで電車を待っていると、遠くまで田園風景が続いている。東京にはない景色だと思い、僕はスマートフォンで何枚か写真を撮る。しばらくすると電車はやってきて、僕は空いている車内の端の席に座った。
詩織と待ち合わせをしていた場所に着くと、改札の前で彼女が僕に手を振った。こうして会うのは五年ぶりだったが、彼女は以前と比べるとずいぶん明るくなっているようだ。
「久しぶりだね」と彼女は言う。
「元気そうでよかったよ」
「当時はずいぶん落ち込んでいたからさ」
僕らは電車に乗り、ハイキングができる山の麓の駅まで行った。その間、彼女は地元の会社で働いていることや、一人暮らしをしていることを話した。僕は彼女に東京での生活や、仕事のことなどを語った。
電車は山の麓の駅に着き、僕らは改札を抜けて、歩き始める。
「俊のこと今でも覚えてる?」と彼女は聞いた。
「覚えてるよ。二人で一緒にバイクで海に行ったこともあってさ。夕日が綺麗だったんだ。だから今でも鮮明に当時の風景を思い出すことができる」
僕らは山道に入り、五年前と同じルートを辿った。
「ずいぶん長い間落ち込んでいたけどさ。私もそろそろ立ち直ろうと思うんだ。私にとって俊は特別な人だったから」
彼女はそう言うと、バックパックからコップを取り出して、川の水を汲んだ。僕も同じようにして川の水を飲んだ。詩織の目には涙が滲んでいる。
僕らは午後の山の麓をただ歩き続けた。歩いている間に俊のことを思い出して、僕はまるで今日お墓参りに来たみたいだと思う。木々は風に揺れて、地面には葉が落ちている。時々人とすれ違い、彼らは楽しそうに歩いて消えていく。僕はただ先へ先へと進んでいき、気が付いた時にはハイキングの終点に来ていた。そこからは街を見渡すことができ、ちょうど太陽の姿が見える。しばらくの間二人で遠くの景色を眺めていた。
「なんだかこうしていると昔のことを思い出してね。当時も小さかったけれど俊がいたんだ。私にとって俊は一部みたいなところがあったからさ。長い間立ち直ることができなかった」
「不運な事故だったよ。お葬式も悲しかった」
「だけど私は時間が経つに連れて回復していったんだ。ただ過ぎていく毎日だけどさ。この世界のことが好きなんだよ。こうやって沈んでいく夕日を見ているだけで、幸せな気持ちになれる」
彼女はそう言うと僕の目を見つめた。僕は彼女の手を握ると、彼女も握り返した。目の前に広がる美しい夕日が、きっとこの先も今日のことを思い出すような気がした。
執筆の狙い
村上春樹の作品に影響されて書いてみました。