Carrying a heavy load
わがこころのよくてころさぬにはあらず 歎異抄
プロローグ
早足に階段を駆け上り、2階にある自室に入った三上康太は、満腹になったお腹を押さえつつ勉強机に座り、しかし教科書を開いたりはせず、ノートパソコンを起動し、父親から送られたメールを少しだけ緊張しながら開いた。裁判官である父、慎が高校二年生になった一人息子に、自らが体験した裁判を小説として書いて送ったのだった。
「父さんは若い頃は本気で作家になりたいと思ってたんだよ、村上春樹とか好きだったんだ」
「ふーん、じゃあどうして裁判官になったの」
「文学の新人賞に何度応募してもまるで駄目だったんだよ。あはは。一方、暗記は物凄く得意だったし、父さんなりに正義感もあった。だから司法試験を受けてまず弁護士になってから裁判官になった。……なってみたら、想像とは全く違ったけどね」
居間のソファに二人並んで腰かけてテレビを見ながら慎はあごを撫でた。
「僕はなるのなら弁護士のほうがいいな。人を裁くより、人を守るほうがやりがいがありそう」
「そう思うだろう。でもな、現実には判決を下すのは裁判官なんだ。最終決定を下すもの、というか。父さんはそこにやりがいを見出しているんだ。……少しずつ教えていくよ」
これは康太が中学生になったばかりの頃の会話だった。それ以来、慎は3作ほど自分が体験した裁判を小説として書きあげて読ませてくれた。窃盗をした生活保護のお爺さんの過去には涙したし、泥沼不倫の夫婦の離婚の顛末には呆れさせられたし、痴漢で逮捕された男の自己中極まりない主張には辟易とさせられた。そして、4作目を今から読むわけだ。康太はゆっくりと画面を下にスクロールさせた。
1
玄関に積まれている四つの家庭ごみの青い袋が今朝は疎ましい。それでも相原大地は何も言わず、たすき掛けにした鞄を背中に回し、ドアを開けてから全部両手に持って家を出た。妻の美樹は何も言わない。仕方ない、生理の時だから、と頭では分かっていても、朝から機嫌が悪い妻と同じ空間にいると、何かが削られる気がする。少し歩いたところにあるごみ収集場にゴミ袋を荒っぽく投げる。自分も機嫌がよくないのがわかる。見上げた10月の空はあいにくの曇り空だ。ため息とともに、今日の予定を思い出す。大地が勤務する海原総合病院は、医療法人愛人会が運営しているが、どうやら介護報酬の水増し請求をしていたらしく、県の職員が先週立入検査に来ており、今日もまた来る。当然カルテや問診票を見せるなど、協力せねばならないし、それよりも、大地は自分が勤めている病院がそのような不正行為をしていたという事実がとても不愉快だった。確かに診療報酬が昨年マイナスになってはいるものの、経営状態は安定しているはずだ。なのに……。大地は2分ほど歩いて、月極駐車場にあるシルバーのレクサス-RXに乗り込み、強めにアクセルを踏んだ。
かなり飛ばしたので、早めに海原総合病院に到着した。裏手の自分の駐車エリアに車を止めて、病院内に入ろうとした。すると、正門の付近にいたスーツ姿の二人の男が近づいてくる。
「おはようございます、私ども朝経新聞の者なのですが」
「あ、はい、新聞記者……さん」
「はい、私は小久保と申します。失礼ですが、医師の方ですよね」
ブンヤさんか……。水増し請求のことだろうな。そう判断した大地は会釈して立ち去ろうとした。
「あ、待ってください」
と、前に回り込んでくる。目を合わせたが、蛭のようないやらしい目つきだ。何も話すことなどない。彼は構わず建物内に入ろうとする。しかし、二人が壁になって邪魔をするので入れない。しつこいな。
「私は理学療法士です。医師ではありません」
と、咄嗟に嘘をついた。途端に、二人は道を開けた。大地は苛つく気持ちを抑えながら更衣室に向かった。
昔テレビ番組で、水槽の中で死肉に群がるピラニアの群れを見たことがある。そのうちの一匹が斜めの視線でカメラを見た時、それを途轍もなく恐ろしく感じた事を今でも覚えている。貪欲さと無慈悲さと殺戮の意志を感じた。そして、今相対している県職員の目にも同じものを感じる。
「……そうしますと、この吉田恵子さんの診療報酬は医療事務の担当の方がカルテ通りに計算したことで間違いないですね?何かしらの指示を相原さんが出しているという事はないですね?」
自分より少し年上だろうか。額が狭く、狭量な感じのする男の覗き込むような視線からは明確な敵意を感じる。くどくどと規定通りの流れを確認する必要がどこにあるんだ。大地は広い会議室で立入検査に来た介護支援担当の県職員と一対一で椅子に座り、向かい合ってヒアリングを受けていた。隙あらば嚙みついてやる、という歪んだ情熱を感じながら、大地は心底疲れていた。やがて、疑惑を受けている6人の患者の分の聞き取りが終わり、ようやく解放された。やれやれ、もう12時半じゃないか。大地はよろめく足取りで院内の食堂に向かった。その時、内科医の自分の部署の看護副士長の木元裕香が廊下の向こうから小走りでやってくる。なんだろう、と大地は内心面倒だな、と舌打ちした。内科医は後二人いるが、まあ自分が担当している患者の事だろうな、と予測した。
「先生、乳がん治療の中村美樹さんが来られたのですが、投薬の抗がん剤はそのままで大丈夫ですか」
中村美樹さん……ステージⅡでタキサン系抗がん剤のパクリタキセルの点滴注射の患者か。施術後の経過も悪くなかったな。
「ええ、お願いします」
とだけ伝えて、空腹に支配されている大地はそのまま階段を上がって食堂へ向かった。木元はAって言ったよね、A法に変えるのか、と少し首を傾げた。木元はナースステーションに戻り、薬剤の準備を部下の岩田に指示した。
2
日替わり定食のご飯を二杯お替りした大地は、少し腹痛を感じて、しかめっ面で午後から来院予定の患者のカルテを診察室のデスクで見ていた。その時、すごい勢いで若い看護師が走ってきた。
「先生大変です、抗がん剤を投与している患者さんがアナフィラキシーショックを起こしました!」
彼はその言葉に即座に反応し、反射的に
「エピペンを用意して! 部屋はどこですか」
303号室です、との声を受けて大地は全速力で向かった。病室のベッドの上で中村美樹が呼吸を荒げている。顔に赤みが出て、枕もとに嘔吐している。
「血圧は!?」
入るなり叫んだ大地に、悲愴な顔で室内にいた岩田香澄が、と、取りますと血圧計を腕に通す。なぜだ。点滴スタッドに取り付けられているのは確かにパクリタキセルだが……と思いながら一旦投与を止めた。その後すぐ先ほどの若い看護師がエピペンと注射器を持ってきたので即座に打つ。
「血圧、上が95です!」
「能見さん、昇圧剤、ノルアドレナリンを持ってきてください!」
能見は再び弾かれた弾丸のように病室を飛び出す。大地は手づからタオルで患者の口元と、汚れたシーツを拭いた。よもや……。
「岩田さん、パクリタキセルを何mg投与しましたか」
「今回A法に変えるとのことだったので210mgです」
「B法のままでよかったのに! 増やしてしまったのですか!」
と返事した後、能見が転がり込むように昇圧剤を抱いて戻ってきた。大地は急いで中村の腕の動脈に注射針を刺しながら、頼む、間に合ってくれ、頼む、と何度も何度も心の中で繰り返した。
しかし、大地の願いは叶わなかった。それから30分ほどして、中村美樹の呼吸は完全に止まってしまった。まだ33歳だった。結婚しているが子どもはおらず、夫と二人暮らしで、乳がんもほぼ克服出来ていた矢先のことだった。
一体どうやって家に帰ってきたのか分からないが、気づけば大地は妻の瞳とリビングの食事用のテーブルで向かい合っていた。並んでいる食事には一切手を付けていない。
「大地さん、一体どうしたのよ。病院で何があったの?」
夫のただならぬ様子に、朝の不機嫌も忘れて瞳は必死に質問してくる。大地は、決心して、必要だと思う報告を始めた。
「……今日医療ミスをやってしまった」
「医療ミス? 一体どんな?」
「人を殺してしまった」
震えるような声で告げた。これ以外に何も言う事はなかった。
「そんな! 患者さんが死んでしまったの? で、でも、それは仕方のない事じゃないの?」
「仕方なくないんだ……俺が投薬の指示を失敗した、もっというと行き違いがあったんだ」
「行き違い? じゃああなただけのせいでもないんじゃないの?」
「いや、その行き違いも俺がぞんざいに応対したからで、やっぱり俺のせいなんだ……。俺は人殺しなんだ!」
言うと同時に大地は怒りと共に立ち上がって、うあああっと叫んで激しく髪をかきむしった。瞳は怯えた様子で夫を見ていたが、彼女も立ち上がって大地を背中から抱きしめた。
「落ち着いて! そうじゃないわ! 仕方なかったのよ!」
「うるさい気休めを言うな! 俺は……もう駄目だ!!」
大地は無理やり瞳を引きはがして、玄関へ向かって走り出す。しかし、振り払われて尻もちをついた瞳は、彼よりも早く走り、腰にしがみついた。
「どこへ行くの! どこも行っちゃダメ! ここがあなたの家なのよ!」
既に涙声になっている瞳を振り払うことは出来ず、大地も座り込んでしまった。それから、彼の目も涙に濡れた。やがてそれは嗚咽に代わり、声をあげて泣きはじめた。瞳もずっと泣いている。街全体が夜の闇に沈んでゆく中、二人の悲しみの声だけが小さく小さく響いていた。
※ ※ ※
康太はここまで一気に読んで、ふぅ、とため息をついた。今回の小説は、重いな……。医療ミスか。確かに人間のやる事には失敗はつきものなのだろうな。父さんが書いてくれる小説はほぼ事実だから、実際にこういう事が起こったのか。それにしても、ええをAと聞き間違えたのか……看護師がもう一回聞き直してさえいれば。後悔先に立たずだけど、なんだか悔しいな。康太は一度立ち上がって背伸びをした。それから首を回して、また勉強机に座り、メールの続きを読み始める。
3
翌日の午前10時、しんとした病院内の第一会議室に、医療法人愛人会理事長の池本太一と、海原総合病院院長の妹尾正隆と副院長の浜口信三と医療安全管理室長の西田卓哉がそろい踏みしている。四人が横に並び、長テーブルを二つ挟んで正対しているのは相原大地だ。池本は同情と非難の入り混じった視線で彼を見ている。大地は憔悴していて感情が上手く働かず、ただ、そこにいた。今日これからやってくる医療事故調査・支援センターの人間に説明する義務を負っている西田は、ともかく事務的に事実を淡々と質問してくる。
「相原医師の、ええ、という返事をアルファベットのAと木元副看護士長が聞き違え、そのまま岩田看護師に伝えたと。それで、抗がん剤パクリタキセルの投与法は本来B法であったものを、A法で岩田が行い、過剰なパクリタキセルの投与が患者、中村美樹さんのアナフィラキシーショックを起こした、と……」
西田は苦虫を噛みつぶし果てたような表情でノートパソコンを叩いている。大地はがっくりと肩を落とした。誰にもとても視線を合わせられない。どう考えても防げる医療ミスであるのは間違いない。会長も院長も副委員長も何も言わない。が、やがて、院長が手元のメモを見ながら重い口を開いた。
「顧問弁護士にはすでに連絡してある。私には詳しい事は分からないが、聞いた感じだと警察に逮捕される可能性は低いらしい。逮捕というのは逃亡の恐れが高い場合、もしくは証拠隠滅の恐れがある場合になされるそうだ。その代わりに在宅捜査として事情聴取があって、その後地方裁判所に送検され、起訴すべきかどうか、そこで公判が開かれるらしい。より詳しい事は弁護士に聞いてくれ。当院としては患者様の遺族に謝罪をし、賠償金を払うという当たり前のことをする。お前はまず遺族に心から謝罪し、警察の捜査に協力すること。マスコミ関係は人脈を使って何としても抑える。ただでさえ水増し請求の件があるから、病院の死活にかかわる。そこは心配しなくていい」
と一気に話し終えると、少しだけ微笑んだ。
「これからしばらくはあらゆる意味で大変なのは間違いないし、起こした事故については真摯に反省してほしい。当院としてはこの一件を以てして進退を判断することはしない。日頃の勤務ぶりはよく知っているからな」
院長が会長に目配せすると、会長は無言で頷いて、更に大地に視線を送り、軽く会釈すると、無言で出ていった。続いて院長と副委員長も出てゆく。大地は声を上げることも出来ず、ただ立ち上がって頭を下げた。偉い人たちに特に責められたり叱られたりしなかったのが、逆に不安を増したが、やがてどうでもよくなってしまった。警察に逮捕されても、賠償金を請求されても、病院をクビになっても、刑務所に行くのすら構わないという、自暴自棄の感情に陥っていた。むしろ、罪を背負った俺は、それぐらいの報いが当然だと考えていた。西田は無言で報告書をまとめている。そのキーボードを叩く細かい音だけが広い会議室に響いていた。
午後からは大地に更に辛い、かつ避け難い出来事が待っていた。食べた気がしない日替わり定食を、純粋な食欲に任せて食べ、口臭防止のスプレーを吸い込んで向かったのは、先ほどと同じ第一会議室。そこにはすでに、被害者遺族が三人椅子に座って待ち受けていた。二の字に2つ長机を挟んで、相対して院長と副院長が神妙な顔つきで着席していた。更に、見慣れぬスーツ姿の男が三人立っている。心臓が縮む思いで室内に入ると、医療安全管理室の事務員が横にやってきて、この方たちは〇▽県警察署の刑事課の刑事さんたちです、と紹介してくれた。そのうちの一人と目が合った。短く髪を刈り上げたその男性が、少し緊張しているのが伝わった。……私も腹を括らねば。西田はここにはいない。きっと、医療事故調査・支援センターから来た職員の応対をしてくれているのだろう。
妹尾院長の横に座る。その時、初めて被害者遺族の三人を見た。一番左の若さを残している男性が夫だろう。名前は洋だった。34歳の自分と同じくらいの年に見える。その隣は中村美樹の父母だろう、年齢的にはそれぐらい見える。まず院長が立ち上がる。つられて大地も立つ。そして、自分が当院の院長である事と氏名を述べた後、この度の医療事故によって中村美樹様の尊い命を奪ってしまったことを、心からお詫び致します、と深々と頭を下げた。副院長も大地もそれに倣う。大地はこれほどまでに気持ちを込めて頭を下げたことはこれまでの人生で一度もなかった。遺族三人も立ち上がって頭を下げた。常識ある人たちのようだ。院長から目配せを受けて、大地はかすれた声で、
「私が治療を担当していた相原大地でございます。今回の件は、全て私に責任があります。ほんとうに、ほんとぶにすみませんでじだ!」
大地の感情が爆発した。その場での礼ではなく、長テーブルの前に出て、土下座をし、床に文字通り額を擦り付けた。大地は涙を流してひたすら頭を下げていた。すると、頭の上で
「土下座なんかいらねぇ! 美樹を今すぐ返しやがれ!」
という声が聞こえたかと思うと、頭に激しい衝撃が走った。更に、一発同じような衝撃を受けて、思わず体を横に倒した。その刹那、待機していた刑事たちが走ってきて、三人がかりで洋を押さえる。
「この人殺しが! 人殺し野郎!」
洋は逆上して、顔を紅潮させながら、大声で叫び続けた。大地は痛む頭を押さえながら、刑事が来ていた理由はこういう事のためか、と妙に冷めた気持ちで納得していた。そうだ、俺は人殺しなんだ。それを骨の髄まで叩き込まれた気がした。
4
うぅ……大地は頭痛に苦しめられながら暗闇の中をあてどもなく彷徨っている。どこへ行っても、真の闇。何も見えやしない。気分が悪くなってしゃがみ込んで、さらに横になった。どこからか、微かに女性の声が聞こえる。そして、それがだんだんと大きくなってくる。ついに、はっきりと聞こえてきた。
──せんせい、よくも私を殺したわね。まだまだやりたいことがあったのに──
そして彼の顔の上に、真っ青な顔の女性が現れる。うわあごめんなさい、と大地は声の限りに叫んだ。しかし、女性は恨めしそうな顔でずっと大地を覗き込んでいる。許して、ゆるしてください、と声を絞り出す。その時、視界が変わり、目には見慣れた寝室の天井が飛び込んできた。大地は思わず毛布を跳ね飛ばして上半身を起こした。もう肌寒くなっている時期なのに、全身から汗が噴き出ている。気づくと、隣のベッドで眠っていたはずの瞳が側にいる。
「だいじょうぶ? 物凄い悲鳴をあげていたわ」
大地は額の汗を拭う。頬に瞳が手を添える。
「悪い夢を見たのね……」
瞳はそれ以上何も言わず、隣に横たわり、手をつないでくれた。CAをやっていた彼女は、初めて出会った時も優しくリクライニングの使い方を教えてくれた。その時、少し手が触れたのだった。大地はそんな事を思い出し、瞳の柔らかな肩に顔を寄せた。心が休まるのを感じ、やがてまた眠りに落ちていった。
それからの日々は瞬く間に過ぎていった。大地は何回か所轄の地元の警察署に事情聴取のために赴いた。捜査を担当してくれたのは病院にも来ていたあの角刈りの刑事で、井筒整という名だった。ある聴取の際、大地にこんな事を言ってくれた。
「先生はね、自分の事を途方もない悪事をなした大悪人なんて思ってるかもしれませんが、わしらみたいに悪い奴らを相手にしてきた人間にはね、分かるんですよ。先生からは悪の匂いなんて全く感じない。先生は善人ですよ。どうか自分を曲げないでこれからも生きてほしいです」
大地はまず、自分を見透かされた、と感じて嫌な気持ちになったのだが、その後言われた事にもなかなか納得出来なかった。自分が善人だったのは、人殺しをする前までの話だ、と。それに、これからの事なんて正直全く想像もつかない。弁護士からは、初犯で前科もなく、故意犯でもない、間違いなく執行猶予が付く、と言われていたが……。
「相原さん、歎異抄って知ってます?」
井筒に不意に聞かれて、大地は返事に戸惑った。たんにしょう……ああ、親鸞の考えをまとめた仏教の本か。
「親鸞の教えをお弟子さんがまとめた本ですね」
「そうです。弟子の唯円が、親鸞の教えが歪んで伝わっているのを嘆いた本なんです。その中にね、「わがこころのよくてころさぬにはあらず」という言葉があって、善人だから人を殺さないのじゃない、業縁というものがないから人を殺さないのに過ぎない、みたいな言葉があるんです。業縁というのは運命みたいな意味ですね」
井筒はここまで言って顎を二回ほど触り、こう言った。
「相原さんが悪いんじゃない、こういう運命を与えた神様が悪いんじゃないですかね。当日は苛立つようなことばかり続いた。看護師さんのケアレスミスもあった。これであなたが悪いというのは酷ですよね」
井筒はその後天を仰いで、また大地を見つめてきた。大地は、目を閉じて考えていた。歎異抄……読んでみるか、と思っていた。
5
昨晩も悪夢にうなされた大地は朝からシャワーを浴びていた。まともに眠れない。医療事故を起こした翌々日から休職扱いとなって、大地は日がな一日やることがなくなってしまった。瞳が家にいる時は何くれと話し相手になってくれるのだが、週4日は近所のベーカリー店でパートで働いているので、いない時は無になってしまう。いつも肩が重いような気がして、だんだん猫背になってきたのを感じる。病院きってのホープと言われ、順調に仕事をこなし、多くの命を救ってきた大地だったが、もはや見る影もないほどにやつれてしまった。鏡を見ると、目の下のくまが酷い。彼は普段着にこそ着替えたものの、力なくまたベッドに倒れてしまう。食欲もない。食べないと妻に怒られるのだが、もうどうでもいい。平日の昼間から毛布にくるまって、無限の責め苦に苛まれる。俺は人殺しだ、取り返しのつかない事をした、ああ、誰か俺を殺してくれる者はいないのか。俺を殺せ! と小声で呟いた時、玄関のインターホンが鳴った。あ、そういえば、と彼は思い出し、ドアを開けて配送されてきた紙袋を受け取る。一昨日事情聴取の際に井筒に教えてもらって注文しておいた「歎異抄」が届いたのだ。彼は大急ぎで薄い岩波文庫を取り出す。書室へ行き、電灯をつけ、デスクに向かった。開いてみると、まず、改題というタイトルで、歎異抄の成立経緯の説明がなされている。うちは確か曹洞宗の檀家だったはずだが……と記憶を探るが、祖父の葬儀ぐらいしか出てこず、彼の仏教の知識は最低限度でしかないので、序盤から入り込むのにだいぶ苦戦した。──二時間ほど経って、彼は歎異抄を読み終えた。井筒に教えてもらった箇所も発見した。13章であった。大地は鉛筆で線を引き、もう一度読み返す。しかし、古典の知識が足りないので正確に読解出来ない。困った彼は、デスクトップパソコンを立ち上げ、検索してみることにした。すると、いくつかの現代文に翻訳してくれているサイトが見つかった。どうやら、歎異抄のこの部分は人々の関心が高い箇所のようだ。
「唯円よ、私の言葉の言うとおりにするか」
「はい、親鸞さま」
「では、人を千人殺してまいれ。そうすれば往生できる」
「親鸞さま、私には一人ですら殺すことは出来ません」
「これで分かるだろう。往生のためといえども、一人も殺せないのは、そなたにそのような業縁がないからなのだ。私の心が善いから殺さないのではないのだ。また、殺すまいと思っていても百人千人殺してしまう事もあるのだ」
これは俺の事じゃないか……大地は震えながらサイトの文字を急いで読む。しかし、その後の内容は阿弥陀如来に縋り、請願をなせば往生できるであろうという、浄土真宗の信徒でなければ納得出来ないような内容だった。しかし……この本のどこかに何か救いがあるような気もして、大地は更に検索し、歎異抄の現代語訳のサイトを片端から読むのだった。
あの日以来、両親から何度も電話がかかってきていたが、とても合わせる顔がないので、電話での会話だけで終わらせていたのだが、ある晩、父親の和平が母親の晶子ともども、強引に大地の家に押しかけてきた。まさか追い返すわけにもいかず、彼は渋々二人をリビングに案内した。二人とも憔悴して別人に成り果てた息子を見て、驚くと同時に肩を落とした。急なことなので何もなくて、と瞳が申し訳なさそうに、せめて、とソファに腰を下ろした夫婦にコーヒーを入れる。
「すみません、構わないでください。勝手に連絡もせずお邪魔して申し訳ない」
と和平が頭を下げる。そして、思い切ったように息子を見つめ、滔々と話し始める。……やがて、どこか焦点の合わないうつろな目をしていた大地も真剣な表情になってきた。
「──お前には話したことは一度もなかったよな。意識して話さない、と俺が決めていたから。でも、今こそ知ってもらいたいから話すが、お前のひいお爺さんは日中戦争、当時は志那事変と呼んでいたそうだが、これに大日本帝国陸軍の軍人として参加していたんだよ」
「ひいお爺さんって、相原建設所を作った人だよね」
「そうだ。戦後大変な努力をして会社を大きくして、その三代目のボンクラ社長が俺だ。ま、経営はやや先細りだがまだ大丈夫だろう。それでな、ひいお爺さん、三俊さんは当時の南京攻略に陸軍の兵士として赴いた。お前、南京大虐殺って知ってるか」
「あ、ああ、知ってるというか。時の中国国民党を率いる蒋介石を倒そうと首都南京を攻めた時に多数の民間人を殺したんだっけ」
「そうだ。何が問題かというと、市民を殺害するのは当時の国際法でも駄目だったんだな。でも、中国国民党は兵隊に軍服を脱がせてゲリラとして戦わせてな、これでは日本軍からしたら誰が敵兵で誰が市民か分からない。結果、大量の無辜の民が殺された。そして、ひいお爺さんも民間人を殺したらしい。……はっきりは言わなかったようだが、俺の親父、お前の爺さんに対して、ある時こういったそうだ。「俺は人殺しだ。何の罪もない人を殺した」と」
大地は頭を殴られたような気がした。俺と全く同じことを言っているじゃないか。
「当時は戦争中だし、言ったように、便衣兵というのかな、兵士が私服を着ていたのだから日本側としては区別なんかつけようがない。つけようがないけど、市民は市民であって、殺してはいけない存在ではあったんだが……。三俊さんは一度だけその話をした後は、頑なにあの戦争について何も語らなかったそうだ」
大地の頭の中で歎異抄のあの言葉がリフレインする。わがこころのよくてころさぬにはあらず。
「そうだったのか……という事は、ひいお爺ちゃん以外にも、あの戦争の時に無実の民間人を殺した人はたくさんいたのかな」
「山ほどいるだろう。中国だけじゃない、第二次世界大戦の時、大日本帝国は西はインドから東はハワイの真珠湾、フィリピンをはじめとした東南アジアを席巻したのだからな。それに、そもそも兵隊だから殺してもいいかという問題もあるし、強姦だって呆れるぐらいしてるだろうよ」
その言葉を聞いて、大地の横に座っていた瞳が顔をしかめた。和平は少し頭を下げて、続けた。
「俺の名前は和平だが、この名前をつけてくれたのは三俊さんだ。孫の名前に託すものがあったのだろう。……大地よ、俺はお前に広い世界で強く生きてほしいという願いを込めて大地と名付けたんだ。今は苦しくて仕方ないと思う。がんばれ、いや、がんばろう」
夜が更けた庭のほうから鈴虫の声が聞こえる。大地は目を閉じて静かに考えている。俺だけ、では、ないのか。大地は和平の顔を見つめた。そこには、変わりない父親の頼もしい顔があった。そして、その横にはいつも静かに愛を注いでくれる母親の顔もあった。
6
有り余る時間を持て余していた大地だったが、歎異抄を何度も読み返しているうちに、本自体が無性に読みたくなって、アメゾンで気になった小説やノンフィクションを何冊か買って届くなり片端から読んだ。柳田邦夫「犠牲―わが息子・脳死の11日」、石牟礼道子「苦海浄土―わが水俣病』、北杜夫「夜と霧の隅で」、大岡昇平「野火」、遠藤周作「沈黙」など、深く考えるテーマを備えていると思われる、かつ、今の自分に何かしら関係がありそうな作品を選んで読み、何とかして今の自分を抜け出せるように努力した。だが、まだほとんど変わっていない。自身を苛む気持ちは消えないし、気づけば被害者の冥福を何度も祈っている。葬儀には流石に行けなかったが、香典だけは送り、突き返されてはいない。いつかはお墓参りにも必ず行くつもりだ。後は、脳内で無限にあの日のシミュレーションが繰り返される。あの時、立ち止まってしっかり話を聞けば。くだらない事に苛々しなければ。ステージⅡの回復後だから、と甘く考えなければ。ベッドにいる時間が長くなり、読書以外何もする気にならない。ただ、文字を追いかけている時だけは、物語の世界に入り込んでいる時だけは、懊悩から逃れられた。今も毛布に包まっているのだが、枕もとのスマホが鳴った。大地は緩慢な動きで通話に出る。
「It’s nice to meet you. My name is Aleksandr mikola」
待ち合わせたレストランの入り口で出会った、はきはきと話してくれるウクライナ人のミコラは、体格の良い若い男性だ。大地の医大生の時の友達である葛西健太も横で微笑んでいる。大地もMe tooと自己紹介を返すが明らかにぎこちない。
「お前英語は大丈夫か」
「ああ……簡単な会話ぐらいならなんとかなるはず」
「俺はロシア語もある程度いけるから、通訳してやるよ。ミコラも実は英語は少ししか話せないんだ」
大地は彼の足にそっと目をやった。片足が義足らしいが、一緒に歩いてみてもさほど違和感はない。店内に入り、三人はガラス越しに紅葉が美しい丘陵が見える席に落ち着く。
「ウクライナが大変な事になってしまっていて、本当に同情します」
と大地が話し、健太がそれをロシア語で伝えてくれる。こういうパターンの会話は体験したことがなかったので新鮮だった。健太とはあの日以降、何度かLINEや電話でやり取りしていて、大地に何が起こったのかは全て知っている。そして、病院の外科で知り合った、難民申請をして日本にやってきたミコルも知っている。ミコルが真面目な表情になって、こう話してくれた。
「今回の件は本当に辛いと思います。私も、同じような苦しみに今も悩んでいます。私はウクライナ陸軍の歩兵部隊にいました。バフムトの前線で私が投げた手榴弾で、3,4人のロシア兵が死にました。遠目でも彼らが吹き飛ぶのが分かったのです」
彼は肩を大きく震わせた。健太がそっと肩に手を置く。
「それから程なくして私は地雷を踏み、右足を失いました。おそらく神様が罰を与えたのでしょう。除隊になった私は、先に日本へ逃れていた姉の一家を頼りに日本へ来たのです」
大地は何度も頷いた。そして、善人なのに殺さざるを得なかった一人の人間を見て、心から同情した。彼がなぜ戦争なんかに行かなければならなかったのか。そして、足まで失って、遠い言葉も通じない異国の地で今も悩み苦しんでいる。
「戦争が罪なのです。あなたには何の罪もありませんよ」
大地は確信を持って力強く答えた。彼の背負っている荷物のほうが重い。ミコルは少しだけ微笑んだ後、戦争は最悪の犯罪です、何も知らず気軽に軍隊などに入ってしまってとても後悔しています、と肩を落とした。健太と大地は代わるがわる彼をなだめ、注文したパスタやオムライスをそれぞれ食べ、彼はとても端正な顔立ちをしているのでモテるだろうなどと冷やかしたりして、それなりに楽しい時間を過ごした。彼が日本へ来てもうすぐ一年になるとのことだが、お金がないので服が買えない、というので、大地はすぐに財布から数枚の一万円札を出して渡した。
「いいのですか?」
とミコルが申し訳なさそうにしているので、私は今も現役の医師で、お金には全く困っていない、というと、嬉しそうに受け取った。本当はある事情でほとんどお金は無くなっているのだが、まあいい。そして、大地にはこの時ある感情が芽生えていた。また働きださないと。困っている人に些細な助けをするのにも、お金が必要なんだ、と。
7
あの事件から一ヶ月ほど経った。すでに警察の聴取は終わり、送検もなされているが、起訴の判断はまだなされていない。しかし、大地はそのこと自体はたいして気にしていなかった。起訴されても、有罪判決を受けても、執行猶予でも実刑でも、全てを受け入れるつもりだった。精神的な救いになっているのは、自分一人だけが殺人者ではない、という事が分かってきたことだ。こういう事は自分が当事者になるまでは全く考えたことはなかった。もちろん、研修や様々な場面で医療ミスに対する注意というのは何度も受けてきたのだが、自分は大丈夫、と高を括っていたのがはっきり分かった。全く大丈夫ではなかった。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ、というのは全くもって真理であると身を持って知った。医学生時代に幾つもの実際に起こった医療ミスによる死亡例を教えてもらったのに……。大地は肌寒さを感じていたが、外の空気を浴びたくて二階のベランダに出ていた。夜空はどこまでも暗いが、幾つか星が煌めいている。あの光は一体何万年前に放たれたものだろう、などと考えていると、後ろから声がする。
「大地さん、ちょっといいかしら」
なんだろう、と部屋に戻りガラス窓を閉める。真剣な顔の瞳に少し戸惑ったが、物置部屋と化しているこの部屋で話を聞くことにした。二人とも絨毯の上に座った。
「ずっとね、ずっと話せなかったけど、話したいことがあって」
「なんだい。言ってごらん」
白のフリルのついたお洒落なパジャマを着ているが、顔つきは物悲しくもある。まさか、離婚か、と大地は内心焦った。事件の日からずっと一貫して瞳は大地を責めず、味方でいてくれたのだが。
「……大学二年生の頃にね、付き合ってた人がいたの。私は真剣だったし、卒業したら結婚しようってお互いに言ってたの」
「うん」
「それでね、2ヶ月ぐらい生理が来ない時があって、妊娠検査薬で検査したら妊娠していたの」
なかなか聞くのが辛い話だ。しかし、聞かねばなるまい。
「……それを報告したら、おろせって言われて。その後一切音信不通になったの。まだ大学生なのに一人でなんてとても育てられない。私、一人で泣きながら産婦人科に言ったわ。なけなしの貯金を持っていって」
瞳は一旦言葉を言ったあと、力強く言った。
「だから、同じなの、私と大地さんは。同じよ、胎児だって人よね。私も人殺しなのよ」
大地は感情が激しく揺れ動いて、何をどう考えればいいか分からなくなった。瞳が過去に堕胎していたのもショックだが、しかしながら、俺と瞳はある意味仲間だったのか。
「すまない」
大地は小さな声でそう言った。
「俺のせいで思い出したくもない事を思い出させてしまった」
「そんなこと……私はあなたに見限られるかもしれないと思ってずっと言わなかったの。言えなかった。でも、どうしても、言いたかった。言わなきゃ、あなたが一人だけでずっと背負っていくと思って」
瞳の目が潤んでいる。最悪の事態も覚悟して告白してくれたのだ。わがこころのよくてころさぬにはあらず。ここにも善人なのに殺さざるを得なかった人間がいるのだ。大地はそっと瞳を引き寄せて抱きしめた。
「一緒に……背負ってくれるかい。重い荷物だけど」
「背負うわ……二人でなら、少しは軽くなるよ、きっと」
二人は一つの塊になって、いつまでもそこにいた。静けさだけが永遠とも思えるほどに世界を支配していた。
数日経って、海原総合病院の顧問弁護士から電話がかかってきた。中村美樹さんの遺族への慰謝料の支払いが終わり、示談が成立しました、遺族は相原医師の起訴を望んでいない、と言ってくれておりますので、これらを直ちに□〇地裁へ報告します、警察からの処分意見もおそらく寛大かしかるべき処分でしょうし、不起訴の見込みが高いと考えられます、と言われた。大地は何度か話されたことを反芻した後、ありがとうございます、とだけ返事した。不起訴? 大地は病院が負担する慰謝料のほかに、個人での慰謝料を3000万円、貯蓄のほぼ全てを既に支払っていたが、そういった誠意が通じるかもしれないのか。電話を終えた後、庭で洗濯物を干している瞳のところに報告に行った。彼女は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「きっと不起訴になるよ。神様にまだ見捨てられてないんだわ」
「まだ分からないけど……まだ、俺にやる事があるんだろうな」
その時、遥か空の彼方から何か聞こえたような気がして、二人とも大空を見上げた。
「見て! ひこうき雲!」
澄んだ青空を一機の飛行機が飛んで行く。その進路の後に真っ白な雲が細く長くたなびいている。まっすぐに、どこまでもまっすぐに。大地はそれを見て、何度もうなずいた。まっすぐに、これからも生きるぞ。飛行機は果てしない青空をどこまでも飛んでゆく。二人は体を寄せ合って白く伸びゆくひこうき雲をずっと見あげていた。
エピローグ
康太はこの物語を読み終えた後、まずは主人公の大地がなんとか踏みとどまった事に安心した。途中まで、自殺するんじゃないかと思っていたのだ。しかし、病院の院長をはじめとして、刑事、それから家族友人まで、みんなが大地を責めず励ましたから大丈夫だったんだろうな、と思った。僕は……僕だっていつかそんな気持ちがなくても人を殺してしまう可能性だってあるんだよな。車の運転なんてやばそうだな、気をつけなきゃ、と自分を戒めた。よし、父さんに感想を言いに行こう、とメールを閉じて椅子から立ち上がったその時、この裁判を受け持ったのは父さんなんだ、と気づいた。どんな判決にしたんだ、不起訴にしたのかな。康太は結果が知りたくて物凄い速さで階段を駆け下りた。(終)
執筆の狙い
今作こそは純文学を、と意気込んで書いた本作ですが、またしても1時間ドラマの脚本が
出来上がりました(泣)純文学用の語彙や文体の素養が足りていないのは明らかなので、
もっと勉強、読書しようと思います。テーマは「人を殺してしまった重荷」です。
皆さま、感想や指導をよろしくお願いします。
この話はフィクションです。実在の個人・団体などには一切関係ありません。