手紙を書く男
僕が喫茶店に着いたとき、彼女は文庫本を読んでいた。
「申し訳ない。電車が遅れちゃって」
「全然いいのよ。待ってる時間って、そんなに嫌いじゃないから」
「何を読んでたの?」
「つまらない小説よ。一昨日から読んでるのにまだ四分の一も読めてないの」
「つまらないなら無理に読まなくてもいいんじゃない?」
「つまらないから読むのよ」
僕は店員を呼んで、アイスコーヒーを注文した。それから煙草を取り出して、火をつけた。
「私にも一本貰える?」
と彼女が言った。僕は彼女に煙草を一本渡し、火をつけてやった。煙草を吸っている間、僕らの間にはほとんど会話は無かった。しかしながら、気まずさといったものは一切無かった。沈黙が存在すべき場所に存在している、ただそれだけのことだった。
「なんだか久しぶりに会ったように感じるわね」
「どうして?昨日も大学で会ったよ」
「そうなんだけど、こうして二人で会うのとは訳が違うでしょ?」
彼女の表情からは来るとも分からない車を待ち続ける車止めのような、形而上的な悲しさが漂っていた。僕は短くなった煙草の火を消し、箱からもう一本取り出してまた火をつけた。
喫茶店を出た後、僕たちは、大勢の人が行き交う新宿の街を、行く当てもなくぶらぶら散歩した。今日は太陽が憎くなるほど良い天気だった。
「どこに行く?」
僕は言った。
「どこでもいいわよ」
と彼女は言った。結局、僕らは行き先が決まるまで、そのまま適当に歩くことにした。歩いている間、僕たちは色々な話をした。小説についてだったり、美味しいランチの店についてだったり。僕と彼女は同じ学部、学科で、彼女は僕より一歳年上だった。彼女はいつも、単位を楽に取れる授業や面白い授業など、多くのアドバイスをくれた。気付けば僕の大学生活はあらゆる面において彼女無しでは成立しないようになっていた。
そんな風にして歩いていると、目の前に異様な存在感を放つ建物が現れた。ここら辺は何度か来たことのある場所だったが、そんな建物を見たのは初めてだった。建物には看板が付いていて、どうやら美術館であるらしかった。
「入ってみましょうよ」
彼女が言った。僕は特に芸術に興味は無かったが、歩くのに少し疲れてきたので、喜んで入ることにした。
中に入るとすぐに受付があった。館内は白を基調としたシンプルなデザインで、歯科医院の待合室のように、非自然的な清潔感に包まれていた。受付のすぐ横にポスターが貼ってあり、それによると、印象派についての美術展が開催されているようだった。僕は受付でチケットを二枚購入し、彼女と一緒に絵画を一つ一つ見て回った。
美術展は三つのフロアに分かれており、印象派の系譜に属する色々な芸術家の作品が概ね年代順に展示されていた。モネやルノワールといった、有名な芸術家の作品も多く展示されており、芸術的感性に乏しい僕から見ても、思わず見とれてしまうような作品もいくつかあったが、ほとんどの作品は僕にいかなる感情も与えてくれなかった。僕は絵画を見て最初の数秒間はそこにある芸術に向き合おうと努めたが、毎回すぐに集中力が切れて、気付けば何か別の事(例えば、さっきの喫茶店にいた店員の禿げ上がった頭とか)について考えてしまっていた。そんな僕とは対照的に、彼女はどの絵画もゆっくりと鑑賞していた(少なくとも僕にはそういう風に見えた)。そして絵画の隣に書かれている説明文も隅々まで読んでいるようだった。館内は極めて静寂で、足音すら許さないような雰囲気が漂っており、もちろん僕と彼女が会話することも無かった。それは芸術的素養の無い僕にとって、どちらかと言えばありがたいことだった。
三つのフロアのうち、二つのフロアが終わり、残すはあと一フロアのみとなった。フロアとフロアの間にはちょっとした休憩スペースのようなものがあり、僕たちは最後のフロアを前に少し休憩することにした。
「やっぱり芸術ってよく分からないな」
と僕が言った。
「私も分からないわ」
「そうやって言う割には、随分熱心に鑑賞してたよ」
「うーん……なんて言えばいいのかしら。言葉にするのは難しいけど、どの絵にも何となく懐かしさが感じられるの」
「懐かしさ?」
「うん。懐かしさ。別に、教科書に載ってたのを覚えてたとかそういうんじゃないのよ?ただ、何となく、私の人生のどこかにこの風景が含まれてるみたいに感じるのよ」
「君にはものすごい芸術センスがあるのかもしれない」
「あるいは私はルノワールの生まれ変わりなのかもしれない」
「そうだったらとてもクールだ」
彼女は声を出さないように小さく笑った。ここは休憩スペースと言えども美術館なのだ。足音も許されない、静かな美術館。
そうして十分くらい休憩した後、僕たちは最後のフロアへと向かった。最後のフロアは人物画が多かった。同じ人物画でも、同じ印象派でも、絵画の構図や雰囲気は作者によって様々だった。彼女は相変わらず、一つ一つゆっくりと鑑賞していた。まるで、絵の中の人物と会話をするように。あるいは本当に、彼女と絵の中の人物との間で何かしらのコミュニケーションが交わされていたのかもしれない。僕はそのコミュニケーションに参加できないことを残念に思った。
最後のフロアも終わりに近づいてきたところで、一際大きな作品が現れた。おそらくそれは、この美術展で一番大きい作品だった。しかしながら、その作品に関して言えば、大きさなどといったものは単なる一要素に過ぎなかった。その作品は、机の上で手紙を書いている男を真正面から描いたものだった。僕はその作品を見た時、文字通り、動けなくなってしまった。僕は絵の中で何かを書いているその男のことを、自分と無関係な人間だとは、とても思えなかった。そんなわけがないのだ。この男が自分と無関係な訳がないのだ。僕にはその男の感情や思考が手に取るように分かった。その男が手紙を書くにあたっての決意や葛藤が自分ごとのように伝わってきた。この男は女性に向けて手紙を書いているのだ。その男にとって大事な女性に向けて。そして、その中身は文字として書かれなければならない類のものなのだ。口にした瞬間、濡れた地面に降る雪のように、一瞬にして消えてしまう類のものなのだ。しかしながらおそらく、その手紙は女性には届かないのだろうと思った。あるいは男もそんなことは最初から分かっていたのかもしれない。手紙を書こうと椅子の上に座った時点で、この手紙が女性に届かないであろうことは分かっていたのだ。分かった上で、それでもなお手紙を書いているのだ。女性のために。もしくは自分のために。
この絵について思いを巡らせている間、僕は彼女の存在をすっかり忘れてしまっていた。僕がふと横を見ると、彼女もまたその絵を前に身動きが取れなくなっていた。彼女はその絵に対しても懐かしさを感じているのだろうか。そしてまた、その絵の中の男と何かしらのコミュニケーションをとっているのだろうか。彼女の表情を見ても、僕には彼女の考えていることは分からなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか、僕たちはずっと、「手紙を書く男」の前で立ち尽くしていた。すると彼女が突然、作品から目を離し、次の作品へと歩き始めた。僕も彼女に合わせて、その作品を見るのを止め、次の作品へと向かった。
そこから僕たちは何事も無かったかのように作品を鑑賞していった。僕たちは「手紙を書く男」について、お互いに言及することはなかった。その作品について言及することは正しくないことだという共通認識が、僕たちの間に存在していたのだ。そして何よりも、ここは静かな美術館だった。
展示を全て見終えた後、僕らは美術館を出て早めの夕食を食べに行った。グッズ売り場も素通りした。美術館で絵画を見ただけなのに僕たちは疲れ切っていたし、お腹もすごく空いていたのだ。
レストランでハンバーグを食べている途中、彼女は言った。
「今日みた作品だったら、どれが一番好きだった?」
僕は最初に「手紙を書く男」が頭に浮かんだ。しかしながら、僕はその作品を挙げるわけにはいかなかった。彼女は「手紙を書く男」を除いた他の作品の中での一番を聞いているのだ。僕にはその言外の意味を汲み取ることができた。
「最初のフロアにあった、海岸のやつが好きだった」
「確かに、あの作品良かった。私も好き」
僕は彼女に同じ質問を返そうとしたが、寸前のところで思いとどまった。何となく、聞かない方が良いような気がしたのだ。
夕食を食べ終わり、駅まで歩いてから僕たちは別れた。僕は彼女を家に来ないかと誘ったのだが、彼女は明日早いからと断った。夜と呼ぶには空はまだ明るく、僕は疲れすぎていた。
それから一週間ほど経った頃のことだった。二人で美術館に行った日から、僕は彼女と連絡が取れなくなっていた。周りの友人に聞いたところ、最近、彼女は大学にすら来ていないようだった。彼女と連絡が取れなくなってから、僕はときどき、あの絵のことを思い出した。あの絵との出会いによって、僕たちは何かがずれてしまった、そう思わないわけにはいかなかった。
その日、僕は大学に行く前にコンビニで鮭おにぎりを買って、駅前のベンチに一人で座って食べていた。駅前にはいつも人馴れした鳩がたくさんいて、僕のところにも数羽の鳩が近寄って来た。そして僕が地面にこぼした米粒をつまんだ後、さらなる米粒を求め、忙しなく首を振りながら僕の周りを歩き続けた。やがて僕がおにぎりを食べ終え、鳩もこれ以上の恵みが得られないと察するやいなや、肩を落としながら(鳩が肩を落とすなんてことがあるのかは分からないが、僕には確かにそう見えたのだ)別の人間の下へと歩いて行った。しかしながら、そのうち一匹の鳩が僕の下へと帰ってきた。その鳩は首を忙しなく動かすことも僕の周りを歩くこともなかった。ただ僕の方を見つめて立ち尽くしていた。まるで僕と会話するかのように。僕もしばらく鳩のことをぼうっと眺めていたが、そろそろ行かないと大学の授業に間に合わなくなるため、立ち上がって、改札へ向かおうとした。すると、鳩は僕の前に立ち塞がった。僕が避けていこうとしても鳩は懸命に歩き、しつこく僕の進路を塞いだ。僕は次第に、その鳩が何かのメッセージを僕に伝えようとしているような気がしてきた。でなければ、鳩にとって、もうご飯を食べていない人間にちょっかいを出すメリットなど、一切ないのだ。僕は諦めて鳩にとことん付き合うことにした。この際、授業なんかどうでもいい。
そのまま、僕は五分くらい鳩とにらみ合っていた。そして突然、鳩が僕に背を向けて歩き始めた。僕は鳩の後についていくことにした。正直に言って僕はわくわくしていた。この鳩が僕をどこに連れて行ってくれるのか、その答えを知りたくなっていた。彼女と連絡が取れなくなった今、もう僕にはこの鳩しか頼れるものはない。
その鳩は決して飛ばなかった。僕に気を遣ってくれているのか、飛ぶことができないのかは分からないが、鳩は一貫して歩き続けた。信号が赤であればきちんと立ち止まっていたし、青信号が点滅し始めたら、小走りで渡っていた。周りから見ると僕は、鳩についていく変人に思われたかもしれない。でも僕は周りにどう思われてもよかった。今この瞬間だけは、この世界には僕とこの鳩しかいないのだ。
鳩は十分ほど歩いた後、駅近くの小さな公園の前で止まった。公園には誰一人としていなかった。鳩は振り返って僕の方を見た。まるで、「準備はいいか?」と僕に尋ねるように。僕が頷いてみると、鳩は公園の中に入り、公園の公衆トイレの裏側の草が生い茂った場所へと進んでいった。そして鳩は雑草の中にある何かをつつき始めた。それは何やら黒い物体だった。気づくと僕はその黒い物体を手に持っていた。それは銃だった。紛れもなく本物の銃だった。本物の銃を本物の銃たらしめる荘厳な雰囲気が手から伝わってきた。その銃はいかにも誰かを撃ちたそうにしていた。そして、その銃は僕の手に、極めて自然に馴染んだ。あるべきものがあるべき場所にあるといった感じだった。
鳩は、僕が銃を手にしたことをきちんと確認してからどこかに飛び立ってしまった。僕が、その鳩が飛んだところを見たのはそれが初めてだった。そしておそらく、今後見ることも無いだろう。そう思うと寂しく感じた。
さて、この銃をどうしたものか。僕は鳩に導かれてここにやってきた。そこには偶然ではない、何かしらの必然性が含まれているに違いなかった。僕は安全装置が機能していることを確かめてから、試しに引き金に指を置いてみた。その瞬間、僕は全てを理解した。僕が撃つべき相手を理解した。よく考えれば当たり前のことだったのだ。僕は周りに人がいないことを確認してから、銃をリュックサックにしまい、急いで駅へと引き返した。
美術館に着くと、僕は印象派展のチケットを買った。
チケットを学芸員に渡して中に入った後、一つ目と二つ目のフロアを素通りして、三つ目のフロアへと向かった。そして、あの「手紙を書く男」の前に立ち、リュックサックから銃を取り出した。周りの人々は絵に集中していたし、学芸員も眠そうにして、客に注意を払ってはいなかった。美術館はやはり静かだった。
僕は安全装置を外して銃口を「手紙を書く男」に向けた。僕は銃を扱ったことはもちろん無かったが、この銃に関しては、使い方が分かっていた。この銃は僕のための銃なのだ。そしてこの銃を用いて、僕は自分のために、そして彼女のためにこの男のことを撃たなければならないのだ。僕が銃口を絵に向けた瞬間、誰かが大声を上げた。それをきっかけに美術館には悲鳴が渦巻き、混乱が一帯を包んだ。僕はお構いなく引き金に指をかけた。僕にとって、周りの混乱は、どこか遠い国で起きていることのように感じられた。
僕は引き金に指をかけながら、この美術館が静かだった頃を思い出した。つい、三十秒ほど前のことだ。そして、その静かな美術館の中で、僕の隣に彼女がいることを想像してみた。彼女は相変わらず「手紙を書く男」を見つめていた。僕は「手紙を書く男」を見つめる彼女のことを見つめていた。そうしているうちに静寂はより強固なものとなった。無音が大きな音で鳴っていた。そして彼女は絵画から目を離し、僕の耳元で囁いた。
「撃つのよ」
銃弾は「手紙を書く男」の顔面に直撃した。撃たれたのはあるいは僕自身かもしれなかった。でもそんなことはどちらでもよかった。今僕はどんな顔をしているのだろう。僕が気になるのはただそれだけだった。
執筆の狙い
とある文学賞に出すために書いたのですが、落選してしまいました。自分は純文学を中心に書いていて、この作品も純文学寄りの物になっていますが、その文学賞がエンタメ寄りの賞だったのでカテゴリーエラーだったのかもしれません。
それなりに自信があったのですが落選してしまったので、アドバイス等頂けたらありがたいです。加えて、私は村上春樹から強い影響を受けていて、彼の小説の二番煎じっぽくなっていないかが心配です。そこらへんについても村上春樹の作品を読んだことのある方は言及頂けたら嬉しいです。