きららの夢
曇り空が広がる休日の午後。臨海線の脇道を、港に向かって歩いている。
歩道の割れ目から雑草が伸び、道路脇の椿も緑化事業の名残にしか見えない。
かつては高架の上をよく貨物列車が走っていた。だが今では、三両編成の普通列車がたまに通るだけだ。
ガタンゴトンが港町に息吹を与え、錆びた鉄の匂いと潮の香りを残して走り去っていく。
淡い秋の光に足取りも軽く、四十過ぎの女が昼間から呑み歩く。
褒められた話ではないが、寂れた町で人目を気にしても仕方ない。
高架沿いを歩いていると、父と買い物をしたことや、母が作ってくれたコロッケのことを思い出す。
当時の高架下は、うどん屋や小料理屋、喫茶店、八百屋までもが軒を連ね、大層活気に満ちていた。
「きらら、じゃがいもが安いぞ」
「お母さんにコロッケを作ってもらおうよ」
「売り切れる前に買っておくか」
今では錆びついたシャッターが並び、消えかけた店名だけが、往時の賑わいを偲ばせる。
結局、生き残ったのは角打ちだけ。角打ちとは、酒屋が営む立ち呑みのこと。「升の角で飲むから角打ちなんだ」という父の言葉を思い出す。
父は昔からの常連で、まだ中学生の私を連れて、よくその酒場へ通った。
私は吹き溜まりのような雰囲気が怖く、父とカウンターの前に立つのも恥ずかしかった。
でも、父は私が大人になっても呑みに誘ったから、コロッケだけを目当てに足を運んだ。
父は大きな声で私に話しかけた。
「きらら、次は何を飲む?」
「お父さん、やめてよ」
当時はキラキラネームという言葉すらなく、私の名はかなりの珍名だった。
父が常連に向かって、「夢の中で思いついたんだ」と自慢げに言うたび、私は顔を熱くしたものだ。
時は流れ、もう年頃でもない私は、なんの恥じらいもなく場末の酒場へ足を運ぶ。
去年の暮れに両親を亡くすと、急に時間を持て余し、気づけば、そこが居場所になっていた。
ようやく店の近くまで来た。長年潮風にさらされ、文字のかすれた木の看板が見える。
『酒処浜屋』
引き戸を開けると、顔馴染みが赤ら顔で振り向く。
「きららちゃん。元気?」
「心配してくれるの?」
「もちろん」
常連の笑い声が響き、大将が「コロッケでいいの?」と聞くいつもの流れ。
「秋田の地酒が入ったんだ。飲む?」
「うん、お願い」
コロッケを肴に冷酒を飲むと、自然と愚痴がこぼれる。
「子供のころ、名前のことで、よくからかわれたの」
「親は娘が可愛くて仕方ないんだ。親父さん、きららちゃんを話題にすると止まらなかった」
「恥ずかしいなあ」
「何言ってんだい。俺なんか、親父に殴られた記憶しかない。漁師って、荒くれ者が多くてね」
箸の先でそっとコロッケに触れると、レールを叩く車輪の音が響いた。それが過ぎると、木のカウンターの縁にコップを置く。
「もう一杯ちょうだい」
「同じのでいいの?」
「うん」
大将は「ほどほどにね」と言いながら一升瓶を傾ける。
「あたし、もう一人ぼっち」
「ここに来る連中は、みんなそうさ」
恋人と一緒に青森を離れた大将も、今はわけあって独り者だ。
「大将は寂しくないの?」
「みんなとワイワイやってりゃ楽しいよ。たまに猫たちも来るし」
「猫たち?」
「母猫が子猫を連れて来るんだ。でも最近は全然顔を見せないな。生きていればいいが」
酒の香りに母の料理を思い出し、つられて古い記憶が蘇る。
あれは確か、小六のときのことだ。私は土間に靴を脱ぎ捨てると、晩飯の支度をする母の横に立った。
「どうしたの?」と母。
「みんなが名前を馬鹿にするの」
母は困った顔をした。
「ねえ、なんで、きららなの?」
母は料理の手を止め、私を抱きしめた。
「星みたいに、ずっと輝いて欲しいから」
「じゃあ陽子がいい。太陽の方が明るいもん」
「お父さんと一緒に考えたの」
「きららなんていや。あたし、陽子の方がいい」
母の胸で泣いた日が、切なくも懐かしい。
私は晩婚の両親が授かった一人娘だ。自分が四十を過ぎたころ、父は八十近くになっていた。
心臓を悪くして入院した父は、大部屋でも「きらら」と精一杯の声で呼んだ。
周りに迷惑よと言うと、大丈夫さと父は笑った。
疲れのせいか素直になれず、ひどいことを言いそうになった。
この名前、好きじゃないの……
私は仕事を辞め、ずっと家で母の介護をしていた。
父が入院中ということもあり、母に施設を勧めたこともある。
でも、認知症の進んだ母の楽しみは、家族と暮らすことだけだった。
「お母さんの面倒ばかり看てられないの」
母は子供みたいに泣いた。
「施設なんていや。母さんは、きららがいいの」
その姿に、母を困らせた自分の姿が重なり、「わかったよ。お母さん」と言ってしまった。
昨年の十二月、寝たきりの母が妙なことを言い始めた。
「きらら、お弁当を持った?」
「お母さん、何言ってるの?」
「作ったからね。あなたの好きな……」
母は笑みを浮かべ、安らかに息を引き取った。
私は箸をコロッケにつけたまま黙り込んでいたが、「どうしたの?」という大将の声が、悲しみから私を引き戻した。
「母のことを考えていたの」
「おふくろさん、去年亡くなったんだよね。寂しいな。これ青森のホタテ。サービスだから食べてよ」
ホタテの刺身を肴に呑んでいると、ふっとため息が漏れ、また悲しみに沈む。
私だけで母を見送った。火葬が終わると力が抜け、父に伝える気力もなかった。
父は随分と気が弱くなっていて、大部屋から七階の個室に移っていた。
窓から港がよく見えた。父は介護ベッドの背にもたれ、毎日、湾の景色を眺めていた。
母の死を伝えると、父は「そうか」と言って黙り込み、ずっと海を見ていた。
午後の光に波が煌めき、気づけば夕日が差し込んでいた。
「お父さん。大丈夫?」
「きらら、疲れているだろ。父さんは大丈夫だから、帰って休みなさい」
夜中に緊急の連絡があり、病院へ急いだが、父を看取ることはできなかった。
若い女性の看護師が、帰り際に教えてくれた。
「お父様は最後まで、あなたの名前をつぶやいていました」
お父さん、ごめんね……
ふと気づくと、ガタンゴトンが鳴り響いていた。
列車が通り過ぎると、何杯目かのコップをカウンターの縁にそっと置く。
「きららちゃん、飲み過ぎだよ」
「あたし、親孝行なんかしていない」
「そんなことないって」
「可哀想なことをしただけよ」
深くため息をつくと、よれよれの背広を着た老人が口を開いた。父が生前、すごい歌人だと話していた人だ。
「きららさんや。あんたのことを親父さんからよく聞いたよ。本当に嬉しそうに話していた」
私はほろりとし、言葉も出ない。
老人は隣の連れをひじで突く。
「おい酔っ払い。お前もなんか言え」
連れは照れ臭そうに言う。
「きららちゃんは、夜空に輝く星みたいだ」
すぐさま声が上がった。
「いや太陽だ。どん底を照らす太陽だ」
「もう本人に決めてもらえ」
意外なほど自然に言葉が出た。
「星がちょうどいいかな。私に太陽は無理よ」
すると誰かが声を上げた。
「先生、和歌を詠んでやれよ」
老人はコップ酒を飲み干し、ふうっと息を吐くと、懐から手帳を出してペンを走らせる。
「こんなもんか」
老人が紙を千切り、二つに折って差し出すと、私は頭を下げて受け取った。
「じゃあ大将、そろそろ帰るから、みんなに一杯ついであげて」
「へいよ。なら青森の銘酒『夢追い人』だ」
「サンキュー」
「きららちゃん。俺、二杯がいい」
「大将、こいつは水でいいよ」
「そりゃないぜ」
酒場は笑い声に包まれた。
店を出ると、濡れた路面に光が反射し、空が青く澄み渡っていた。
椿の葉が煌めき、行きとは違う景色がどこまでも続く。
道路脇の茂みのそばで、渡された紙切れを広げると、「ニャア」と鳴き声がした。
奥を覗き込むと、子猫が母の腹に顔をうずめ、まどろむように眠っていた。
輝々し 名つけ給ひし父母は、かかれとてこそ 生ほし立てけむ
きらきらと輝く名前をつけてくださった両親は、私にこうあってほしいと思い、育てあげたのだろうか。
汐見白雲
執筆の狙い
3300字の作品です。よろしくお願いします。
(ファンタジーでも夢落ちでもありません。)