日ペン!
0
かつて卓球の世界王者は、卓球を、百メートル走しながらチェスをするようだと喩えた。
「10-9。マッチポイント・トゥ・岸川」
9-9からのマッチポイントに、岸川卓斗は吼えた。
それでいて、止まりかける脚を意識的に動かしながら、
「もう一本」
念を込めるようにつぶやく。卓球台の上、ネットに掛かって向こうのコートに落ちたボールを拾い、相手プレーヤーへ放って渡す。
右利きゆえに左足を半歩前に、重心は低く、目線もしっかり落とし、レシーブの構えに入る。
(あと一ポイント、か)
心の中で再確認する。一方で周囲、体育館を取り巻く喧噪に耳を貸さない。
否、貸せられない。
ましてや、その熱狂の渦から意識を遠ざけている。
余裕が無い訳ではない。
単純にハイになっている。
それもその筈、マッチポイントなのだ。
つまり、
(全国への切符が目の前に)
夢にまで見た桧舞台。今まさにすぐそこまで、手が届くところまで来ているのだ。
負けられない。ポイントはリードしているが、セットカウントこそオール。デュースに持ち込まれれば、逆転されるケースもあり得る。
気合を入れ直す。
「サァ」
相手がサーブする直前、吐息にのせて一声。大きさは抑え気味。相手はそんな事を意に介さない。そもそも狙っていない。
こちらとしても動揺を誘った訳ではなく、体を固まらせないためのものであり、
(来た)
右利きであるこちらのバックハンドを、ロングサーブが抉った。
想定内だった。
無理をしてフォアで回り込まない。
ここで回り込めば、手薄になった場所を叩かれてしまう。
そこで、肘をローリングさせたバックハンドで処理。
逆を衝く、ストレートへ打ち返す。
飛びつかれた。
クロスへ来る。
前進回転、強烈なドライブが掛かっている。
咄嗟、ブロックで止める事はできないと察し、
(ドライブにはドライブで返す!)
そうした。
むこうもそうする。
こちらも掛け返す。
それが続いていく。
壮絶なクロスドライブの打ち合いになっていく。
お互いが台から距離を取り、ひたすら腰溜めの振り抜きを繰り出した。
こうなったら、先に相手のパワーとスピンに押し負けた方がやられる。
全身の筋肉を総動員して、ボールをぶち抜いていかなければならない。
そんな、ある種、意地と意地のぶつかり合いに際し、自分は、
(最高だ!)
心の底から愉しんでいた。
今のこの状況が終わらないでほしい。本気でそう願っていた。
それくらい、自分自身の集大成とまで呼べるラリー戦だった。
だが、残酷にも、世界はそんな事を許してはくれなかった。
相手が放った放物線が、ネットに引っ掛かり、止まる。
ぽとん、相手側のコートに転がった。
瞬間、審判がこちらの勝利を宣言。
しかしながら、勝敗なんてどうでもよかった。
項垂れている相手に向かって駆け寄り、握手を求める。
満面の笑みで。
「ありがとう。君のおかげでいい試合ができた」
「……そうか」
相手は終始うつむいたまま、それでも、言ってくれた。
「全国に行って、こっちの分まで、頑張ってくれよ」
「ああ。もちろんだ!」
最後にがっしり手と手を握り合って、ゆっくりと、卓斗は身を翻す。
もう、自分にとっての相手は過去で、見据えているのは全国大会という名の未来だけ。
1
やばい、と卓斗は思い、何とかしようとしたものの、案の定、
「何をやってるんだ、岸川!」
怒号と共にやって来た、グレーの作業着姿の中年男性はすぐに生産ラインのスピードを緩める。
「ったく。間に合わないと思ったらさっさとスピードを落とせと、前々から言っていただろう」
「す、すみません」
「分かったなら、とっとと作業手伝え」
「は、はい」
がちゃがちゃ、音を立てるのはラインに吊り下げられた、無数のガラス瓶たち。
ここは曇りガラス瓶の工場で、卓斗はアルバイトとして働きはじめてまだ日が浅かった。
すでに、あの時、全国大会に胸躍らせていた卓球少年は、高校二年生になっていた。
その面影は姿形にこそあるものの、
(俺って、卓球以外、何もできなかったんだな)
落ち込みの一言で済まないほど、心は淀みきっていた。
終業のベルが鳴り響き、卓斗は自転車に跨って、
「人生って、思うようにできる事が絶対一つはあると思ってたのに」
ぼんやりこぼしながら、街灯もまばらな田舎特有の暗い家路を辿った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
玄関で待っていた母親は、早く汚れたジャージを脱ぐよう言って、それでも微笑んでくれ、
「一時期どうなるかと思っていたけれど、何とかなったみたいでよかったわ」
「…………」
「それに、お父さんもあんな事になって、正直心配だったから」
「…………」
やや迷ってから、
「なぁ」
「何かしら」
屈託の無い表情を浮かべる母親に、こちらは心の澱を吐き出すように、
「俺って、本当に『何とかなった』のかな。『なっている』のかな」
すると、むこうはきょとんとした顔で、
「何を言い出すのかと思えば、そんな話?」
またもや、しわを刻んだ顔で続ける。
「卓斗は卓斗。岸川卓斗。それ以上でも、それ以外でもない。毎日頑張って生きている自分をちょっとは褒めてあげなさいよ。一番の理解者は常に卓斗なんだからね」
「わ、分かった」
「あ。それと、ちょうど今思い出したんだけど」
と、母親は手を打ち合わせ、
「公民館の図書室に新刊が入ったらしいから、それ、明日借りて来てくれない?」
「いいよ。どうせ学校もバイトも無いし」
「ありがと。それじゃ、頼んだわよ」
手を振り、二階へ上がる母親。最近、仕事量が増え、精神的にも疲れているらしい。
(バイト代が入ったら、母さんのために、家に入れないとだ。絶対に)
卓斗はすぐさま、脱衣所へ。浴槽に桶を沈ませ、温水で体じゅうの汚れを落としながら、
「ホント、俺って何やってるんだろう」
湯船に肩まで浸かり、吐息に感情をのせる。
「小さい頃から父さんとやっていた卓球も中途半端に終わって。その、父さんも、病気で、死んじゃうなんて。母さんにも、負担と心配をかけてしまって」
こみ上げてくる思いに抗えない。
頬を生温い雫がつたっていく。
中学生活最後の夏。岸川卓斗は全国大会へ出場した。
結果はラン決――ランク決定・ベスト十六――にも入れない、それほど誇れるものではなかったが、いくつかの高校からオファーがあり、最も待遇のよかった所へ進んだ。
そこまでに終わるとも知れず。
待っていたのは、栄光への花道ではなく、挫折に次ぐ挫折の茨道。今にしてみれば、屈辱に満ちた毎日だった。
中学時代に通用したあらゆる事が通用しない。逆に新しい事にチャレンジしてもできない。
八方塞がりの日々に、ついに耐えきれなくなった自分は、二年生になる段階で見切りをつけ、地元の通信制の学校へ編入した。
それから間も無く、実の父親が他界し、心の真ん中にぽっかりと孔が空いた。
そして、これを機に卓球に関係するものすべてから身を引こう。
そう思っていた筈なのに――
ぱしぃん! 強打したボールが相手コートをノータッチで駆け抜ける。
ざわ、途端、講堂が異様な空気に包まれた。
それもそうだ。公民館併設の図書館に本を借りに来ただけだったのに、つい、講堂で「道場破り」してしまったのだから。
きっかけは、自分が全国大会出場を決めた事を町の広報誌が伝え、それを憶えていた一人の年配男性が一緒に打ってくれないかと要望してきたのに端を発する。最初こそ断っていたが、
(周りを固められて、あれだけ羨望の視線を向けられれば、なぁ)
という訳で、急遽貸してもらったラケットを握り、老人サークルの会員たちを相手にしたら、
「会長にほとんど失点せず勝てるなんて! 流石は全国レベル!」
絶賛された。当たり前だ。一度ラケットを置いたとは言え、腐っても鯛。元の感覚を取り戻すまで、さほど時間は要しなかった。そもそも、
(ここはお遊びでやっているんだから。本気で骨肉を削り、汗水垂らした俺が負ける訳無い)
卓斗は肚の裡で言い、上辺だけ笑みを振りまきながら、会員たちと後片づけに入ろうと動く。
「わっ、わっ、わっ! ちょっと待って!」
ガララ、講堂の引き戸が開かれる。目を移せば、卓斗の通っていた月ヶ岡中学校の体操着を着た少女。年齢の割にはかなり大柄で、百七十センチ後半の自分とそこまで大差無いが、その童顔によってどこかあどけない印象を与える彼女は、こちらを指差し、
「す、すみません! そこのお兄さん!」
すぅ、はぁ、と大きく肩を揺らして、深呼吸。
「わたしと、試合、してくれませんか!?」
真剣な眼差し。響きわたる呼びかけに、卓斗は、
(ど、どうする?)
困惑した。まさか女子中学生に試合を申し込まれるなんて夢にも思っていなかった上、何よりも、
「試合って……。これ、俺のラケットじゃないし、大体、そろそろ帰らないと」
二度とラケットを持たないと決めていたのに、このままでは本気でやらなくてはならない。
だから適当に理由をつけたのだが、むこうは譲らず、距離を詰めて来、
「一セットだけでもいいんです! そこを何とか! 本当に、お願いします!」
よろしくお願いします! と最終的には九十度の腰折りまでされてしまった。
ここまでされて無反応という訳にもいかず、周りの会員たちも一台だけ中央に移動させる。
必要最低限の設備だけを置いて、最後にサムズアップしてみせた会長が、
「それでは全国レベルの指導、お願いするよ。未来明るき、若人よ」
格好よく台詞を極め、引き戸を閉じた。
「お願い、できませんか」
相も変わらず、少女は懇願の瞳。
もう、すでに答えは出ていた。
「わ、分かった」
卓斗は翻意する。
「ラケットを取ってくる。それと、えっと」
「蝶々朝日です。朝日って呼んでください!」
「それじゃあ、朝日。君が望むなら、何セットかしても構わないけど、どうしたい?」
「フルセットの四セット先取で!」
「OK。少し待っててくれ。家までラケットを取ってくる」
「了解です! そのあいだ、わたしはサーブ練習をしてます!」
卓斗の家は公民館から徒歩五分圏内にある。それに、ラケットも自室の箪笥に仕舞ってあったのをすぐ思い出し、
(開け続けたら感慨に耽るだろうから、すぐ閉めておこう)
そちらに歩み寄り、
(これで、本当の最後に……!)
箪笥に伸ばした手が小刻みに震え、脳が直接揺さ振られるような気持ち悪さに襲われる。
(ち、違う! 「そっち」じゃない!)
大体、それはもうあきらめた道。今はもう関係無いではないか。
慌てて目を背け、使い古したラケットケースを引っ掴んで、公民館の講堂へ戻った。
「あっ! 早かったですね!」
「ああ。家が近いからな」
だったら、と卓斗はラケットを取り出す。ラバーの粘着保護フィルムを剥がし、ケースに入れっ放しにしてあった公式球で、切る感覚と弾む感覚の練習をしながら、
「早速、始めるか」
「はい!」
元気な声で返す朝日の手元を見、ふと、
「日本式ペンホルダー、だと」
想像していなかったラケットの登場に驚愕すれば、むこうも、
「お兄さんだって、日ペンじゃないですか」
こちらの手元を指差した。
卓球のラケットは大きく分けて二種類ある。
握手するように持ち、両面にラバーが貼ってあり、両ハンドが振れる、シェークハンド。
ペンを取るように持ち、ラバー一枚で済み、強烈なフォアが特徴的な、ペンホルダー。
前者の内訳はほぼグリップの違い。後者の場合、日本式、中国式、とブレードの形も様々だ。
「今の子でも、日本式使うんだな」
「はい。祖父から未使用の物を譲り受けました。木曽桧の単板です」
「何だと!」
卓斗は声が裏返るのを自覚した。なぜなら、
(今や桧の価格高騰と品質低下もあって、ほとんど新規ユーザーは手を出さないのに、この娘は昔の、まだ品質が安定している時代の物を使っている可能性がある)
同じ桧単板の遣い手として興味をそそられない訳が無かった。むしろ、俄然、湧いた。
「ちょ、ちょっと、試合前に、ラケット交換しようか」
無理やり理由をこじつけて、ラケットを拝見させてもらえば、
「エンブレムからして、旧型サイプレース!? 九ミリ厚で、やっぱり最盛期の! 木目がびっしり縦に走り、最低でも一ミリ間隔で詰まっていて、その上、グリップの削りも絶妙にいい!」
「す、すごいリアクションですね……。でも、お兄さんのラケット、独特な形をしていますね」
「ああ。チャンポンロンだ。もう廃盤になってしまったけど。元世界三位の、台湾のエースが使っていたラケットで、ブレード縦の長さは当時の市販品の中で一番長く、遠心力がきく」
サイプレースもチャンポンロンも同じく九ミリ厚――片面のみラバーを貼って打球に押されないようシェークより二、三ミリ厚い――で攻撃型ラケットに違いなかったが、ブレード形状は後者がより一撃に特化していた。
「と、とにかく」
気を取り直す咳払い。
「打とうか」
ウォームアップのラリーをはじめる。
むこうは左利きで、こちらは右利き。お互いミス無くフォアハンドでクロス打ち、その後に、逆クロスでバック、軽めの強打、とつなげれば、おおよそ把握できた。
(この子、蝶々朝日は、できる)
何を隠そう、一度たりともラリーが途切れなかったからだ。
すなわち、
(基本打法が安定している)
無駄のない、しっかりしたフォームと脱力具合に正直なところ驚いた。
舐めてかかってはいけない。
それでいて、本気を出して「再起不能」にしてもいけないと思っていた矢先、
「その、お兄さん、ではなくて」
「岸川卓斗」
「あ、はい。卓斗さんは全力で打ってきてください」
「え?」
「でなければ、わたしもなぁなぁで打ってしまうので。ボコボコにされる覚悟はできています」
見つめる双眸に一切の翳りは認められない。
「……いいだろう。お望みどおり、全力で相手をするぞ」
卓斗はラケットのコルクに掛けた人差し指と親指を一度、握り込む。
結局、圧倒的技量に勝る卓斗が勝利した。
しかしながら、感じた、確信した事実が一つ。
「蝶々朝日。君にはセンスがある」
流石にこちらの経験によるサービスや攻撃には耐えられなかったが、充分過ぎるパフォーマンスを見せてくれた彼女に、称讃の言葉を送りたかった。
すると、敗北にやや表情を落ち込ませていた彼女はぱっと顔を上げて、
「あ、ありがとうございます。これ以上ない、勿体無いお言葉です」
「そんな、謙遜するなって。ほら」
朝日に近づいて、その頭を、二、三度、ぽんぽんと叩いてやった。
あうあう可愛い声を挙げながら、身じろぎしてみせる。ますます小動物じみている。
(なんだ。コートを離れれば、年相応、普通の女の子じゃないか)
卓斗は調子に乗ってわしゃわしゃと髪を直せる程度に掻き乱した。
「ふ、ふぅ」
こちらのおふざけに付き合ってくれたものの、一段落が済んだところで彼女の方から、
「あの、まだ、お願いがあるのですが」
「何だい。言ってみて」
促せば、朝日は一息を挿んで、
「わたしのコーチになっていただけませんか、卓斗さん」
同じ中学校なら、十中八九、こちらの成績を知っているだろう。
(確か、教務室の前に俺が全国大会へ行った時の写真が飾られてたな)
だからこそ訊いた。
「ほかにもいるのか? 指導してほしい仲間が」
「い、いえ。いません」
心做しか、視線をはずして答えられる。
「ふむ」
やれやれ、と卓斗は追究こそせず、
(とにかく、これは教え甲斐がありそうだ)
この際だからと、今、自分が置かれている「状況」について朝日に伝えた。それを踏まえて、
「強豪校でフルボッコにされて地元に帰って来て、のんべんだらりと卓球から逃げたんじゃあ、人間腐っちまうとあらためて思ったよ。朝日のプレーを見てもっと伸ばしてあげたいともな」
まぁ、と卓斗は両腰に手を当てて、軽く回しながら、
「俺は朝日と同じペンドライブ型。それに、全日制の学校ではないし、家に卓球台があるから、研究のしようはいくらでもある」
だからこそ、
「その依頼、こちらこそよろしくって感じで、受けるよ」
握手を求めた。朝日は一瞬、戸惑った様子を見せるも、
「はい! これから、どうか、どうか、よろしくお願いします!」
これこそ、桜ふぶき舞う季節が生んだ奇跡かもしれない。心の中でこっそり笑んだ。
卓斗が通う通信制の高校は、登校こそ義務づけられているとはいえ、週二回行く程度だった。あとはレポートをこなすか、町内にある工場でのアルバイト以外、正直なところ、
(暇だったんだよなぁ)
過去の話だ。今となっては動画投稿サイトや自分で書いた卓球ノートを読み返したりし、
(朝日の指導にしっかり備えないと)
進展はほかにもあった。朝日は女子卓球部が無い地元中学校ではなく、自分との練習を中心にする方針に切り替えたいらしく、
(まぁ、男子も今は話すら聞かないし、あいつらじゃあ、朝日の相手にもならないだろう)
にしても、
(こちらが中三の時に、あんな娘、いたっけか?)
しかし、当人にも何かしら理由があるのだろうと考え、それ以上は頭を回さなかった。
2
それから実際、卓斗は朝日を伴って、一度だけ、母校を訪れた。懐かしさゆえでなく、彼女が顔を出しているという卓球部の様子を窺うためだった。
かつてお世話になった顧問の先生には話をつけており、部長の三年生――朝日も三年生であるとようやくこの段で知った――と模擬戦をしてもらう運びになった。
「ファイトー」
ぱんぱん、両手を叩いて、体育館の隅から見守る事にする。
卓斗は最初から彼女に対して一言もかけないつもりだった。
自然、体育館の一角を使用しているほかの部員の視線が集まる。
それでも、朝日は堂々と胸を張り、微塵も緊張の色を見せない。
朝日は肩を大きく回し、二、三回跳躍してから、レシーブの形を作った。
「サッ!」
右利きのシェークハンドスタイルの部長がサービスに入る。
ノーマルサーブだ。だがしかし、
(少しは切れて、回転が掛かっているな)
いくら手首が利きやすく台上技術が光るペンホルダーといえども、ラケットを合わせるだけ。
それでも、敵の三球目攻撃を封じられるよう、しっかりと、ネット際にコントロールされたストップという技術に、相手は強打し損じ、
「う」
逆に、攻撃の態勢を崩されたところ、不格好に腕を伸ばしてしまう。
ふわり、ボールが浮く。
「――――」
たんたん、軽快なステップで回り込み、フォアの構えに入る朝日。
ぎゅるん、力強いドライブが的確かつスピーディーに部長の右サイドを切っていく。
(そうそう。その調子だ)
次々と、面白いように朝日にポイントが入っていく。
十中八九、相手はフォアに滅法強いペンホルダーとの戦い方を分かっていない。そのため、
「ハァ!」
単調なノーマルサービスをバック前に出せば、朝日の豪快な台上ドライブの餌食になり、
(混乱してきたな)
かといって、フォアにサービスを送っても、フットワークを絡められて優位に立てない。
レシーブでも、ペンホルダー特有の広い手首の可動域を活かすサービスに翻弄されていき、
(こうなれば、いくらシェークで両ハンドが振れたとしても、満足な反撃につなげられない)
卓斗は、遠目から、日ペン少女の勝利を確信した。
「ありがとう、ございました」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
互いにラケットヘッドを軽く合わせ、挨拶を終えた朝日が飛びかからんばかりに戻って来、
「勝ちました! 勝っちゃいました!」
飼い主に纏わりつく仔犬のようにはしゃぐ。
「まぁ、及第点だな。取りこぼしもそこまで無かったし」
不意に、卓斗が冷静な評価をする中。
「調子乗りが。どうせ、松下レイ――裏面の振れる中ペンには勝てねぇって」
ぼそり、部長が何か言ったような気がしたものの、この時は気にせず、体育館を後にした。
明くる日。
場所は公民館の講堂。すでに特定の時間は個人使用として押さえた場所。
卓斗はウェアで、朝日は体操着で、ほぼ日課と化した練習をこなしている。
内容は、単純な反復練習でいて、基礎固めには必須なもの。
(練習するにあたって、日頃からランニングをするよう言ってあるから体力はついている)
そうでなくても、足捌きは目を瞠るものがあり、大会での連戦でも充分通用する筈だ。
フォア・バックのラリー。その後、ツッツキでボールが浮いたと分かれば強打。レシーブから仕掛けるための払いと流し。三球目攻撃。そこから今、無作為の乱打練習になっていて、ほとんど試合形式だ。むろん、講堂の隅で埃をかぶっていた防球フェンスを設置しての、本格的な多球練習も組み込んでおり、
(普通に打球が台の中に収まっている)
流石は中学生だ。こちらの言う事に対しレスポンスが早い。感心しながらラケットを構え、
「よし。次、ラスト。ぴしっと決めよう」
「はい!」
朝日がボールの下を切ったノーマルサービスを出す。
それを、こちらがツッツキ。
バックに来たボールを朝日がドライブ。
クロスに返るボールを自分がストレートへ。
大きく空いたフォアにむこうは床を蹴って飛びつく。
もう一度クロスに来たドライブを、今度はバックへ。
やや浮いたボールを朝日がバックハンドで押し込み、
「やった!」
こちらは取れずに終わる。
正確には取れたかもしれないが、これ以上は女の子には厳しいと思ったのと、
(試合でここまで続く事も稀だ)
よし、と卓斗は手を叩き、
「よくやった。俺が見込んだだけある」
練習を終え、安堵を浮かべる朝日の頭をぽんぽんと叩いてあげた。彼女は頬を赤く染め、
「『見込んだ』と言うよりも、卓斗さんの指導のおかげです」
「そんな事無い。だって、やるのは選手なんだから。期待に応えてくれてうれしいし、このまま順調に伸びれば、いいところまで行けるんじゃないかな」
それに、と一番疑問に感じていた事を訊く。
「朝日はジュニアクラブに通っているのか? あるいは、親御さんと練習しているとか」
「え」
「最初から、素質だけに留まらないものを感じて。ラケットをお爺さんに貰ったとも聞いたし」
あと、
「俺が中三の時、中一だった君は月ヶ岡中の卓球部にいたのか?」
「…………」
朝日は押し黙ってしまう。なので、触れてはいけないものに触れてしまった感がものすごく、
「ご、ごめん。ツッコミすぎた。忘れてくれ」
「は、はい」
それから、二人で後片づけをするあいだ、嫌な沈黙が流れたが、次の練習予定だけは組んだ。
何も卓斗は、朝日にいつも練習だけさせていた訳ではなく、着実に実践も積ませている。
具体的には、各地域で開催されるオープン戦に参加し、試合勘を磨く事だった。
卓球という対人競技において、「上手い」と「強い」は異なる意味合いを持ち、
(前者は練習で培い、後者は試合で得られる)
そう卓斗は考え、充分な練習を積んだと判断、朝日には対人に向かう舵を切らせた。
成果は回数を重ねるごとに現れた。一定の規模ならば上位進出は間違いなくなったほどに。
「今日もよく頑張ったな。特に最後の試合、強気で攻め続けられてよかった」
純粋にこちらが褒めれば、いやぁ、と朝日は照れた顔になり、
「わたしもその点は上手くやれたと思っています」
ここは隣の市の体育館。ここまで来るには、顧問が車で送迎してくれ、
(一応、バイト代から家にお金も入れられているし、万事、上手くいっている)
朝日と出会ってから、すべてが右肩上がり、順風満帆だ。
と、今いるギャラリーからフロアを見下ろせば、全体的に終わりそうな雰囲気で、
(そろそろ、顧問の先生の許へ戻るか)
卓斗はスマホで時間を確認し、荷物が置いてある場所へ向かいかけ――
「ちょっと~、お兄さ~ん」
「?」
振り返ると見知らぬ少女が立っていた。小柄な体躯はアスリートらしく引きしまっている。
「許可は取ってあるんで~。すこぉしだけ、あっちの台で打ってくれな~い」
軽い口調とは裏腹に、その嫌に鋭い眼光がこちらを射貫く。反射的に一歩後ずさる。すると、
「あ」
微かでも、背中の朝日が反応したのを感じる。
「知り合いか」
「ち、違います。わたし、知らないです」
早口で否定した朝日は、逃げるように荷物が置いてある客席へ走っていった。
「アハハ~。あそこまで嫌わなくたっていいのに~」
「君は、朝日とどういう関係だ」
大体、と卓斗は、目の前の少女が着ている体操着を示し、
「月ヶ岡中学、朝日と同じ学校の、だよな。今日の大会には月ヶ岡の子はいない筈だが」
「パパに言って、連れてきてもらった。出場チームの名前は所属しているジュニアのだけど」
「何のために。朝日以外にも、女子卓球部の無い月ヶ岡中に女の子がいるなんて聞いてないぞ」
「そうね~。ただ~」
すぅ、むこうの眼差しが切れ味の増した刃と化す。
「そろそろ、逃げ回る鼠を捕獲しようと思って~」
「どういう意味だ」
「さぁて」
くるり、踵を返し、無言で立ち去ろうとする謎の少女。
「何なんだよ、もう」
卓斗は迷ったものの、正体が分からない相手を追いかけた。
この体育館は、二階にも数台、卓球台が設置されてある。そこに圧倒的な目力の娘はおり、
「言い忘れてた~。松下レイがレイちゃんの名前ぇ~。以後、よろしく~」
さりげなく、こちらにラケットを差し出してくる。確認するまでもなく、日本式ペンホルダーだった。試合前のウォームアップに付き添っているところまで見ていたのかもしれない。
(こいつ、嫌に準備がいいな)
そもそも、
(どこかで……そうだ、月ヶ岡中の部長が松下レイという名前を出していなかったか?)
不気味な符合。
「分かった」
ぽんぽん、打球感を球突きで確認し、こちらは松下レイと台を挟んで向かい合い、
「ま、待ってください」
息を切らした朝日がやって来、
「わたしが相手をします。卓斗さんは下がっていてください」
キッ、松下レイを一睨みする。
「わたし、負けないから」
「ひゅ~う。そうこなくっちゃ~」
ミスせず、ラリーも止めず、フォア・バックのウォームアップを一度こなす、二人。
「サックリ倒してあげんよ~」
右利きの松下は、ほとんどのプレーヤーがそうするようにして、台のバック側で構えを取る。
高い。ハイトスサービスから余裕のある落下を待ち、激しい足踏みと共にラケットを繰る。
出されたサービスは大きく、朝日のバックサイドに喰い込んで来、
(サイドを切って、逃げていく!?)
巻き込みという、ラケットを自分の方に傾け、名称どおり上体を入れて巻き込んでいく技。
「くっ」
かろうじて朝日はラケットに当てる。無理な体勢ゆえ強打こそできなかったが、明らかに浮いたり、甘いコースではない。
ダァン! 力強い松下のパワードライブが、がら空きだった朝日のフォアを貫く。
「う」
フェンス際、こちらまで転がってきたボールにはものすごい前進回転が掛かっていた。
「おやおや~。この程度か~い?」
「そんな訳、無い!」
朝日が素早くボールを拾い、松下に放り投げる。
「くつ、くつ、くつ」
松下は不気味に嗤い、立ち位置をフォア寄りに。
ショートサービスが朝日のフォア前に落ちる。
「ハッ!」
この展開は普段、幾度も練習している。俊敏な足捌きと手捌きでボールを払う、フリック。
打球は逆側――松下のバック奥へと吸い込まれていく。
「よ」
それを見越していたむこうは、すでにやや台から距離を取っており、懐までラケットを引き、
「とぉ!」
溜めが爆発。日本式ペンホルダーには不可能な捩りでの打法だった。
ガツン、大きく円を描いた白球が朝日のコートを撥ねる。
「!?」
ここもしのぐが、力技で朝日は台から下げられてしまう。
そこを、敵は慌てずにあっさり見定め、空いている方へ強打。
またしてもノータッチで抜かされる。
「これぇ、すごいでしょ~。中ペンの裏面打法~!」
松下は言いながら、手のひらの中でラケットをくるくる回してみせた。
中国式ペンホルダー、略称、中ペンはシェークハンドのグリップを短くした形状をしている。
しかし、ほかに、最も日本式ペンホルダーと異なるところがある。
(裏面打法……バックにもラバーを貼って、片面よりもバックハンドの威力を出しやすい)
片面という構造上、バックは窮屈になるのがペンホルダーの弱点。が、裏面にラバーを貼り、
(シェークハンドのように滑らかに振れば、角度がつけやすく、より癖玉が出て、返しづらい)
つまり、朝日のように大きく動くフットワークは要らず、習得さえできれば、日本式よりもスムーズかつパワーのあるバックハンドが可能なのだ。
今は、日ペンが席巻していた時代と異なり、シェークのバックがより攻撃的になっている。
だから、現在進行形で日本式は中国式ユーザーが増えるのと反比例して大幅に減少している。
もはや、並大抵の技術力、ひいてはフォアハンドだけで時代に立ち向かうのは無謀とされる。
そのためだろう。現代にマッチした、両ハンドをシェークと遜色無く振れる松下は、
「その分、ラケットは少し重くなるけど、振り抜ければそれだけパワーも出るし~。いいよ~」
ねぇねぇ、と両の口端をつり上げながら、
「要らない、余計なプライドなんて棄てて、朝日ちゃんも中ペンにすれば~?」
「…………」
確かに、松下にも一理ある。
日本式ペンホルダーはフォアハンドこそ強力だが、
(その分、大きく動き回って必然的に「隙」が生まれる)
それは、バックに詰められたら終わるのを意味する。
フォアに命を捧げた、短期決戦、あまりにも刹那的すぎるプレースタイルなのだった。
「ラケットを替えればきっと、今よりも戦いの幅が広がるし、もっと勝てるようになるよ~」
とペンホルダーの弱点を克服した少女は胸を張る。
「わ、わたしは」
ぐっ、脇に垂らした拳を握りしめる、稀少かつ正統なペンホルダーの遣い手は、
「わたしは、まだまだ、日ペンの力を、信じていたい」
だから、と揺れ動くラケットヘッドで、高い壁である、現代卓球に即した少女を示し、
「あなたには、絶対、勝つ、から」
「フン。せっかくの提案なのに~」
ヘラヘラ嗤う対戦相手のせいか。
自然に必要以上の力が入ったのか。
直後、何の変哲も無いラリーにおいて。
がん、角度を合わせにいった朝日のラケットが台にぶつかり、
「あ」
ぱきぃん、無残にも、割れてしまった。
元々、桧の単板はその名のとおり、一枚の板で構成されていて、合板よりも圧倒的に脆い。
それを防ぐためのサイドテープなどもあるが、打球感が変わり、朝日は貼っていなかった。
「ほらぁ、言わんこっちゃな~い。素直じゃない天罰だよ――っと」
と、松下は囲ってある防球フェンスを飛び越え、こちらを振り向き、
「いつまでも頑固な昭和卓球のままじゃあ、レイちゃんの足元にも及ばないかんね~?」
こてん、首を傾げる。
「それじゃ、次、戦う時まで」
「ま、待て」
こちらの制止を聞かず、松下レイはいなくなった。
「卓斗さん」
朝日は小刻みに震える肩を自ら擁き、
「少しだけ、考える時間が、ほしい、です」
あと、
「わたし、実は、ジュニアクラブに通っていたんです。レイちゃんとは違う、お爺ちゃんの」
その、祖父から受け継いだラケットは、卓球台の上、単板の避けられない末路を曝している。
――朝日の振り抜いたラケットはボールを捉えられず、空振る。
やる気が無い訳ではない。
体力と気力の問題でもない。
だとしたら、何か。
原因は分かっている。
「やっぱり、練習を少しのあいだ、休むか?」
「…………」
ふるふる、力無く首を左右に振る、朝日。その、茫とした視線が宙をさまよい、覚束ない足取りで再度台に就き、
「もう一度、お願いします」
「……っ。休憩だ、休憩」
暑さの増す公民館の講堂。いつからか季節は夏に差しかかっていた。水分補給は欠かせない。
それでいて、松下との再戦まで時間はかぎられている。
それを重々承知の上で、朝日は卓斗がかつて使用していたラケットを借りていた。
(新しいラケットにしたいが、ここは田舎でなかなか現物を見てラケットを買う事が難しい)
ならネット通販を頼ってもいいのだが、それはそれでブレードの木目や打感が如何なものか。
日本式ペンホルダー遣いにしか分からない事だが、化学製品でない、数百年の年月を経て一本のラケットになった相棒は、
(この世で一本、替えがきかない。よく聞こえるがその分、今のような非常事態にはきつい)
加えて、昨今、桧の価格は高騰している。軽率な判断で選べるパートナーではないのだ。
つまりは、
(新しいパートナーが決まれば、朝日にもう一度エンジンがかかる)
単純明快。それでいて、桧の単板は唯一無二の打球感であり、
(シェークよりもラケット選びは難しい)
しかし、いつまでも立ち止まっていられない。
大体、松下レイにあんな目を向けたこの少女の内側にはまだまだ秘めた炎がある。
卓斗はそう信じている。
だからこそ、
「なぁ、そのラケットが気に入らないのなら、ほかにも候補は――」
あるぞ、と卓斗が言いかけて。
「済みません」
むこう、朝日は水筒から口を離し、相も変わらず意識の混濁した様子で、
「練習に身が入らないので、お休みをいただけませんか?」
こちらに「NO」と突き返す権利すら無かった。
互いの狭間に沈黙が流れる中。
「自分に、卓斗さんのような才能が無くて、申し訳ありません」
「っ!?」
あんまりな言葉にさすがの卓斗も反発しようと口を開いて、
(いや、待て)
思う。
今までまったく振り返ってこなかった、中学の同級生、後輩たちの事を。
彼らは果たして努力していなかったのか。確かに己も努力していた。が、
(父親という指導者や環境が揃っていたから。何よりも)
ラケットを握ってからというもの、高校入学時までずっと技術力は右肩上がりだった。
要は、
(俺に、ひとの事をとやかく言える筋合いは、無い……?)
はっと気がついた時には、講堂に蝉の鳴き声が充満しているだけで、少女の姿はなかった。
3
朝日と練習をしなくなって三日が経過した。
一応、卓斗は自分の連絡先は教えてあるので問題無い。だが、
(練習に身が入らないなら、問題だよなぁ)
いくらいい練習メニューを組んでも、本人のメンタルが不調なら思った成果は得られない。
学習机に向かう中、ちらり、箪笥に目がいき、
(そろそろ、俺も向き合わないとだな)
その上にある、割れたラケットへと、視線が定まってしまう。
彼女いわく、松下レイは一学年下で、松下家自体が卓球のジュニアクラブを構えており、
(一方の朝日は、自分の祖父が指導していたジュニアにいて)
祖父の死と両親の離婚が重なり、月ヶ岡に移って間も無く、自分と会ったという。さらに、
(松下レイのクラブに少し顔を出して、自分のプレースタイルを否定された……とか)
それは指導者としてあるまじき事だと、卓斗は怒りを抑えられない。尊重されるべきは個々の考え。いくら現代卓球が両ハンドを振るスタイルになっているといえど、
(今まで積み重ねてきた事、ましてや自分の爺さんから教わった事を否定されたら、ショックに決まっている)
溜息をつき、閑話休題とする。
松下という壁ができた以上、やるべき事はやらなければ。感傷に浸っている場合ではない。
「よし、と」
ゆっくり立ち上がる。無限とも思える時間の中、卓斗は箪笥の抽斗に手を伸ばし続け、
「う、がぁ!」
フラッシュバックする映像と嘔吐感。必死に「そちら」へ指を這わせ、目当ての物を掴む。
「はぁ、はぁ、はぁ」
荒い息と共に、机の上にそれらを置く。自然と目を惹く、中央に座すラケットは――
(中ペンなんて、二度と握らないと思っていたのに)
しかし、今さら後には引けない。現状維持は停滞につながる。身に沁みて理解している。
ならば、と卓斗は強く念じる。
(現状打破のため、進む!)
前へ、前へ。決意を固め、慎重に手を動かしはじめる。
もう、心の片隅にもあきらめや後悔の念は無く。
あるのはただ、朝日と共に戦う己が後ろ姿のみ。
それを実現するため、夜更けまで準備を整えた。
「ここ、か」
卓斗は、連絡用に教えられていた朝日の電話番号から蝶々宅を割り出し、赴いた。
頭の中では話し合ってからの方がいいと分かっていたものの、
(それじゃあ、警戒されて、二度と辿り着けないかもしれない)
最悪、対応を間違えれば、彼女の親にお叱りを受けるどころではないかもしれない。
かといって、何も言わず突撃するのも失礼すぎると考えて、留守電に吹き込んでおいた。
一度、面と向き合って、今後について話したい、と。
まだまだあきらめるには君の力であれば早い、とも。
(朝日の親だって、自分の子供がどんな人間に教えてもらっているのか、心配だろうし)
しかし、彼女の親が出てきた事は無い。放任主義なのか。あるいはそもそも興味が無いのか。
分からない。それでも卓斗は、入道雲が高くのぼる青空の下、自転車を漕いで蝶々宅へ。
そこには、ありふれた小ぢんまりした家が建っており、勢いのまま、チャイムを押す。
「応答無し、か」
親は離婚したと言っていたし、今日が週末でも、働きに出ているのかもしれない。
粘っても意味は無い。おそらく帰って来るのも夕方以降だろう。そう思い、体の向きを変え、
「た、卓斗、さん」
「!」
聞き間違いではない声に振り向けば、月ヶ岡中学の体操着姿の朝日が玄関ドアから半身、こちらを窺っていて、
「お家の中に、どうぞ」
「あ、ああ。お邪魔します」
卓斗は頷いて、蝶々宅に踏み入る。朝日の部屋に通され、女の子のそれに入った経験が無い自分にとっては手汗が止まらない。
「それで、話、なんだが」
何とか、お見合い状態にならない内に切り出す。円テーブルを挟む位置関係だった。
「俺は、朝日に言いたい事があってだな」
「申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる、朝日。
「約束の練習に行かなくなってしまって。もう、わたし、破門でもいいです」
そもそも、とむこうは唇を噛みしめ、
「卓斗さんを騙すような、分かりにくい対応を取っていた事が悪かったです。弟子、失格です」
「そんな」
必死に食い止めようとする。こちらは突き放してしまうほど無慈悲でもなければ、
(あんなの、ショックすぎただろうに)
状況が状況だっただけに、彼女を安心させようと、
「大丈夫だよ。朝日は気にしなくていい。大体、教え子の機微に気づかなかった俺も悪い」
「で、でもわたし、自信が無いんです。流行りの卓球に、レイちゃんに、勝てる気がしません」
そこで、ようやく自分も落ち着いてきたのか、日ペン少女のこぼした弱音に反応する。
「自信? 流行り? ――フン。そんなものに惑わされて打ちのめされる程度だったのか」
口を衝いていく。怒りではない、純粋なものが。ただただ、やるせなさが。
「日ペンを握ったその時、覚悟した筈じゃなかったのか。ここから先の道は険しいと。生半可な気持ちでは進めないと。初心を忘れたのか? お爺さんに託された思いすらも」
「う」
朝日は大きな瞳に涙を溜め、正座した膝に一粒の玉を落とし、
「わ、わたしだって、悔しいです。日ペンでやれるところまでやりたかった。卓斗さんにもっと教えてもらいたかった。でも、でも、才能がもう――」
「じゃあ、朝日の才能はその程度だって認めるのかい?」
「っ」
途端、黙り込む朝日。
容赦無い追撃を送る。
「日ペンは、その刹那的なスタイルも相まって、爆発的な力を秘めていると思う」
だから、と卓斗はかつて自身が臨んでいた決戦を想起し、
「卓球は、当たり前だけど、対戦してみなければ――それまでのあいだ、充分な対策を施せば、勝機は生まれる」
「……わたしでも、レイちゃんに、勝てる……?」
「負けて悔しかっただろう? 今度は勝ちたいだろ」
「……はい」
朝日は唇を噛みしめる。
「わたし、一度負けた相手には、二度と負けたくありません」
「その言葉を待っていたんだ。俺は」
「え」
呆けた表情になる彼女に、卓斗は告げる。膝を打ち、立ち上がりながら、
「悔しい。その思いが上達への大きな原動力になる。それを手にしたんだ、今の朝日は」
「ど、どういう事でしょうか」
「一つ、言っておこう」
人差し指を立てて、黙っていた――いつか口にするつもりだった事実を、突きつける。
「俺は、朝日が教えを乞うてくるのを待っていた。ハングリーになってほしかった。これからは一切、妥協も遠慮もしない」
だから、
「最後までついてこい、蝶々朝日。日ペンでも戦えると、現代卓球に見せつけてやろうぜ」
口の開閉を数度繰り返す朝日だったが、やがて引きしまった声色と顔つきで、
「はい。あらためて、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
ようやく、このあいだまで見せていた力強さを取り戻したのが、卓斗にも見て取れた。
と、朝日はやや固い空気を醸しながら、
「で、ですが、その、わたしのラケットは、もう」
「よし。それじゃあ、復活祝いに、これだ」
担いできたバッグから引き抜いたラケットケースを手渡す。
「? 何でしょうか」
彼女はゆっくりチャックを引き、中を覗いたその目が大きく開かれる。
「あの後、割れたラケットを俺が引き取っていただろ? それを参考にグリップを軽く削った」
「は、はぁ」
ゆっくりと朝日が手にしたのは、卓斗の予備用チャンポンロンで、ラバーも貼ってある。
「現役の頃、少し重いチャンポンロンを使っていたから、軽いそっちは未使用かつ新品だ」
「ほ、本当にいいんですか。こんな貴重な物を。廃盤品ですし、何よりも綺麗な柾目ですし」
「いいんだ、いいんだ」
「お、お代はいつか、必ずっ」
「本当にいいんだって。ほかに木目のいい単板はストックしてる。肝心の打球感は慣れだが」
個体差でボールの掴み方は異なるが致し方あるまい。
いっそ、この際言える事は言っておいた。
「親御さん、卓球に関して疎そうだから。最低限、ラバーは定期的に取り替えてくれてはいたものの、ラケットが割れたなんて言い出せないだろうし」
そもそも、
「箪笥にラケットを寝かせておいたところで、然るべき遣い手に渡らなければ意味無いからな」
そして、役目を全うした真っ二つの相棒を差し出せば、ああ、と朝日は手のひらにのせ、
「そうです、けど」
自分の時も一切、買い替えてくれない親はいた。用具は例外無く消耗品にも拘わらず。
「出世払いで返してくれればいい。ささっ、朝日スペシャルにするためにしっかり削ろう」
指先主導のペンホルダーにとってグリップは命。使用者に合うそれにしなければならない。
卓斗は、カッターと紙やすりを取り出し、朝日の手にフィットするラケットを創っていく。
「いいかい、朝日」
練習再開。卓斗はすぐに本題に入る。どうすれば現代卓球もとい松下レイに勝てるかを。
「大前提として、君の身長は同年代と群を抜いて高く、フットワークも軽快で、大きな武器だ」
その上で、
「オールフォアをベースにしつつ、+αを加えていきたい。そうすれば鬼に金棒。圧倒できる」
「策」を最後まで聞き終えた朝日ははっとした表情になり、
「そんな事、できるんですか。本当に」
「ああ。できるさ。練習と根気さえあれば、な」
そう言って、卓斗は卓球台に就き、
「朝日。卓球は何からはじまる?」
「サービスからです」
「そう。サービスは事実上の『一球目攻撃』だ」
目線で朝日を促して構えてもらい、サービスする。
今の今まで出した事の無い、バックハンドで、だ。
朝日はセオリーどおりボールに体を近づけ、ラケットの角度を合わせ、
「え」
ぽーん、ツッツキをしたボールがオーバーしていく。
「今のは下回転じゃないんですか!?」
「次」
また、バックサービス。
朝日は、やや台から出かけたそれを、ドライブし、
「あ」
また、オーバーする。
「前提として、脱力が大事だ」
両腕をぶらつかせた後、説明する。
「ラケットを支えるグリップの後ろ、中指と薬指でもって、撥ね上げる」
それから、と打球後のフォロースルーを実演。
「打球面、一般的な日ペンならフォアの赤面を相手に見せれば下回転だと錯覚してくれるし、バレてきたらランダムに切り替えればいい。今はペンがいないし、バックサービスも使う人間がいないから、効果は抜群だ」
確かに、現代卓球はほとんどがシェークで、ペンもとい日本式に至っては稀少中の稀少。
逆を言えば、両ハンドドライブ型が溢れる世界において絶妙な「スパイス」は際立つ。
「ペンに対する苦手意識や先入観を相手が持ってくれやすい中、それを活かさない手は無い」
「な、なるほど」
サービスに関しては一朝一夕では身につかず、プロでも孤独な反復の末、習得するのだから。
だから、卓斗は「基礎」だけを教えた。
(もう朝日は次のステップにいける。基礎をたくさんこなして、心も強くなったんだから)
その後もポイントを押さえた、あえて教えていなかった――「そこまで」達していなかった――技術を教え子に伝授していく。
4
月日は巡り、全国予選がやってきた。
卓斗は顧問の許可を得て、アドバイザー、朝日のベンチコーチとして帯同。順調にオールストレートで勝ち上がり、準決勝にて宿敵、松下レイと相まみえる。
「お願いします!」
試合前の握手の時、朝日は試合を重ねてきた事が嘘のように快活な声を出した。
(よし。いい傾向だ)
コートに踏み込む足取りも、素振りをしながらステップする様も迷いが無かった。
ウォームアップが終わり、戦いの火蓋が切って落とされる。
「サァ!」
一吼えと共に、朝日はサービスする。当然、今日のために温めてきたバックサービスで。
「む」
松下は裏面での処理ができず、二ポイントを先取する。
そこからは点の取り合いとなった。お互いがサービスと三球目を得点源にし、最後はラッキーなエッジボールで、朝日が第一ゲームを奪った。
「サービスと三球目は百点だった。後は」
「教えてくれた事を実践するだけ、ですね」
分かっています、と朝日は力強く頷いて、コートに戻っていった。
第二ゲームは、打って変わって激しいドライブの掛け合い、乱打戦になる。
共に、相手のサービスに対して強気で攻めていくと同時に「読み」も的中。
女子選手ではなかなかない、中~後陣からのラリーや盛り返しも目立った。
そんな中、朝日の辛抱強さが光る。
徹底して相手のいない方へボール送る――素晴らしいコース取りに、少しでもサービスやツッツキが高く浮いたり、台から飛び出せば、勇猛果敢なフォアハンドを打ち込んでいった。
「んぅ!」
大きな展開に持ち込む朝日の足を封じようと、松下がショートサービスに切り替えれば、台の中に体を入れ、ライジングでラケットを斜め横から差し込む、
(スマッシュやツッツキでは合わせられない強回転の、サイドスピンショート)
「リスタート」から卓斗が教え込んだ、ノーマルサービスの回転を上書きして去なす技に、
「む、ぅ!?」
松下は返球し損ねるか、できたとしても回転重視の、持ち上げるだけのドライブを連発。
そこに、
「ふぅ!」
朝日のスマッシュが襲い、ポイントをものにした。
第二ゲームも朝日が取る。第一ゲームに比べれば派手な展開が多かったが、
「最終的に取り切れた事は大きい。よく対応したな」
「はい。何とか」
しっかり据わった眼差しで朝日は応じる。
「あと、一ゲーム、全力で獲りにいきます」
「おう。今の朝日なら絶対に大丈夫だから」
ごつん、朝日が突き出した拳に、こちらも拳をぶつけた。
(さて、むこうはどう出てくるか)
正直、やる事は無いだろう。あそこまで徹底的にフットワークと台上で掻き乱されれば。
翻って、
(まだ、こちらには「手」がある)
そのための練習を積み重ねてきたのだ。対松下レイの策を。
(俺自身、何度も挫折した、受け入れたくなかった……受け入れられなかった中ペンを使って)
裏面打法に対抗するため、卓斗は可能なかぎり、仮想敵となったのだ。現役時代、周囲の無言圧力、片面から両ハンドを振れるように変えろという「余計なお世話」がフラッシュバックするのを撥ね返して。
(そんな経験を、皮肉にも、こんなかたちで受け入れる事になるなんて、な)
ましてや、弟子が出来、弟子に対し己がなっていたかもしれないスタイルを倒せと言うのだ。
滑稽かもしれない。だからこそ、負ける訳にいかず、負ける道理も無いほど詰め込んだ。
鋭く曲がるチキータやシェークよりも威力が出る裏面ドライブの「免疫」をつけさせた。
十二分にやるべき事はやった。
第三ゲームがはじまる。
「……サァ」
朝日のフォアサービスが繰り出される。一見して、普通のノーマルなそれにしか見えない。
松下は自信のあるバックで回り込み、裏面でボールの横を捉えるチキータによる対処をし、
「何ぃ」
想定以上に弧線を描きすぎたボールは、大きく台の外へ出、床を撥ねていく。
「サァ」
続けて今度は、バックサービスに切り替える朝日。
ボールがラバーに触れる瞬間、ダァン、足音を加えた。
これも短い。ノーマルサービスだと判断したむこうは、
「ハァ!」
チキータを繰り返す。
再び、オーバーした。
(へぇ。なかなか出さないと思っていたら、ここまで取っていたなんて)
卓斗は内心、感心していた。むろん、そのカラクリにも気づいた上で。
(意図的に回転を掛けず、それでいて下回転に見せ、足踏みで誤魔化す――ナックルサービス)
簡単に聞こえるものの、サービスの高さや長さを間違えれば即、強打される。
加えて、
「――ほっ、と!」
ショートサービスに対して朝日は、ツッツキと同じモーションでラケット先端から入った後、
(フリックと、右利きなら逃げていく流しを混ぜはじめた)
序盤こそ、ツッツキ主体だったのを、むこうが逸る気持ちを抑えられず浮かせているのを察知し、攻撃的な、より先手を取れるレシーブを行うようになってきていて、
(レシーブの入りがみんな一緒だから、打たれるか、流されるか、止められるか、分からない)
そんな高等テクニックを朝日は、自身がつくった勢いと昂揚感の流れに呑み込まれてもおかしくない中、正確に駆使してみせ、
(もう、ほとんど打てる手は打った)
最初から「逃げ切り」しか考えていない。連続で三ゲームを獲り、ストレートで勝ちを得る。
普段、日本式ペンの独特なプレーに慣れていない敵に対して、こちらはあらゆる策を立てた。
(だから有利なまま、このまま、弾けるだけ弾けてくれ!)
さなか、朝日はサイドスピンで回転を上書き、松下に持ち上げさせたもののバックに来、
「う」
苦しい体勢になったところで、フォアのカウンターを喰らう。
徐々に、じりじりと「差」を縮められてきているのが伝わってきた。
(8-8、か)
ここしかない。
「タイムアウト!」
卓斗は、試合で一度しか使えないそれを切った。朝日が駆け足でこちらへ引き、
「す、済みません。先手を取っても、取り切れずに」
「それでもポイントは並んでいる。まだこのゲーム、いいや、このゲームで仕留める事はできる」
ゆえに、卓斗は「最後の一手」を指示した。
(正直、第三者の俺からしても打てる手はもう打ってしまっているように感じる)
ゆえに精神論を唱えてしまう。
後は己を信じろ、と。使っていない、自信のあるプレーをしろ、とも。それから、
「悔いの無いプレーを見せてくれ」
そう、一言を添えた。
「なるほど」
朝日は頷いてくれた。
「大丈夫。むこうもむこうでかなり、切羽詰まっている。簡単ではないがきっと上手くいく」
「分かりました。わたし自身を信じます。何より、今日、この時までに懸けた時間を思えば」
一分間のタイムアウトが終わる。朝日はショドウスイングをしつつコートへ。
松下のサービスになり、むこうが手元から朝日の方へ視線を向けた。
彼女が硬直したのを認める。
それもそうだ。朝日はバックに構えず、ややフォアに寄って体勢をつくっているのだから。
(何!)
卓斗も驚愕した。こちらは確かに具体的なアドバイスを送れなかったが、
(そんな手札を残していたなんて)
対する松下も迷った後、短いトスからスピードのあるロングサービスを放つ。
言うまでもなく、朝日のバックへと。
大きく台に近づき、バックサイドを空けていた彼女は、果たして――。
カァン、爽快な打球が弾け、続いた音は一直線に飛んで、フェンス手前で撥ねた白球のそれ。
松下がボールを投げ上げる際、自らの手のひらに視線を落とした、コンマ何秒かの隙。
朝日は空けていたフォアを素早く詰め、そちらに飛んできたボールを叩いてみせた。
ラケットを繰る様子とボールのバウンド位置、それらを正確に捉えた証左。
唖然とする松下に、朝日は何事も無かったかのようにして台に就く。
そして再度、静かに先ほどと同じ位置で、レシーブの姿勢に入る。
悠然かつ淡々と如何なるボールにも対応するぞ、と。
「……う」
明らかに動揺する、松下。
何も、卓球は力と力の純粋なぶつかり合いだけではない。
駆け引きというものの重要性が、事、ここに至って試されていた。
二、三秒、天上を仰いだ松下は、それでも気丈に取り繕いながら上体を捻り――トスする。
またしても、フォアにロングサービス。
ごりぃ、腰の回転と肘のしなり、手首の返しが極限まできいた回り込みドライブが、疾る。
永遠に近い滞空時間を感じたのは何も卓斗だけではなかっただろう。
文字どおり弧線を描いた白球に、レシーバーの松下はカウンターせんと咄嗟、裏面を被せる。
チッ、ボールがラバーに喰い込み損じた音。
ペンホルダーはシェークハンドと違い、裏面のグリップがどうしても不安定だ。正解というものがほぼ無いため、フォアの威力を上げたいならまっすぐ指を伸ばし、安定させたいなら曲げる。おそらく、松下は前者だったのだろう。
(それが仇になったな)
そこ、裏面の指のどこかに、ボールが当たったのだ。
反則にこそならないがプレーは続行。
当然、打球は失速。
ネットに掛かって力無く松下のコート上を転がった。
「10-8。マッチポイント・トゥ・蝶々」
無情にもこれで、朝日は王手。松下にとっては追い詰められたかたちになる。
「レイちゃん」
朝日は、彼女の方を見ず、マナーに抵触しない「独り言の体」で、明後日の方を向きつつ、
「わたし、最後まで本気でやりたい。たとえ、どんな結末になっても」
だから、とラケットをむこうに突き出してみせ、満面の笑みを浮かべていると分かる声で、
「あなたも、どんな事があっても、全力で倒しにきて」
返事は無い。
だがしかし、むこうの纏う空気が緩みとは違う、いい意味でリラックスしたものへ変わったのだけは感じられた。
迎えた、運命のサービス。
朝日のロングサービスに対して、松下は裏面でカウンターブロック。
コースを読んでいた朝日は飛びついてさらにフォア強打につなげる。
やや台から距離を取った松下が、フォアのドライブで応戦。
そこからは言うまでもなく、ドライブの応酬へと変じる。
あ、とも、う、ともつかない気合を放ち合う。
一歩も譲らない強打の応酬。
延々と繰り返される。
デジャヴなような。
それでいて、
(ああ)
卓斗にとっては、懐かしい感触。
(ここまで来たのか、朝日も。やるなぁ。本当に)
己の力だけ信じ、ここぞで極めるなど、師匠冥利に尽きる。
もはや、弟子は自身の手を離れていくような感覚がした。
そうしているあいだにも、どこかで生まれる歓喜の咆吼。
コートの真ん中。がっ、と衝き上げられた手には武骨でいて威厳漂うラケットが輝いている。
対照的に向こう、がっくり肩を落とした松下は、迷い漂う足取りでこちらにやって来、何度もためらいながら、
「お、同じペンホルダーとして応援するから~。その、あの、ねぇ~?」
「何」
小首を傾げる朝日。松下は声を荒らげながら頭を下げる。
「レイちゃんが悪かった! 朝日ちゃんをウチのジュニアから追い出したのもさ! だから」
「うん?」
終始、朝日はまったく意に介さず、ああ、とやや遅れて、
「同じペンホルダーとして、これからもよろしくね」
半ば無理やり、松下の手を取り、固く握手を交わした。
「うぅ!」
松下はみるみる顔を朱色にしていき、最後は首まで染めながら、
「ゆ、許してくれるの~?」
おそるおそる訊いてくる。
「許すも何も、呑み込んで消化できたから。もう、何とも思ってないよ」
ケロリ、と。朝日は頬を緩ませ、
「だから、また、愉しい試合をしよう。あ、もちろん手加減しないし、負けないから」
かつてない力強さでもって、コートを後にする。
(まったく。恐れ入るポテンシャルと度胸。成長した、いや、し続けているな。君という奴は)
内心吐露した卓斗は、拍手と最大の讃辞を微笑む少女に送り、温かく迎え入れた。
勢いそのままに、朝日は予選を一位で通過し、県大会出場を決めた。
もちろん、ここから先は今まで以上につらく、過酷な戦いになるだろう。
卓斗にとっても、日本式ペンホルダーの限界にアタックする、そんな日々。
だがしかし、不思議と不安も焦燥感も無く、あるのは、ただ一つの感情だけ。
(朝日にはできるだけ、どれだけもがき苦しみながらでも、卓球を、今打っている一球一球を、愉しんでもらいたい)
いつもの公民館の講堂で、いつもどおり、練習に明け暮れながら。
ぱしぃ、日本式ペンホルダーにとって最大の武器・フォアハンドドライブを放つ少女に想う。
(君がそのラケットを振り続けるかぎり、日ペンは不滅――その手に輝き続ける)
かくして、卓斗自身も、彼女が辿り着くその先を見届けるまで、傍らで応援する決意を新たにするのだった。
執筆の狙い
卓球の熱さと繊細さ、それに揺れ動く感情を描きたく、筆を執りました。