作家でごはん!鍛練場
どくだみ

闇の目

幼い頃の彩乃は、言葉の泉のように絶えずあふれるおしゃべりで家族を笑わせていた。父が新聞の影で肩を震わせ、母が台所でお玉を揺らしながら吹き出すと、家の中はまるで風鈴の合奏のように響いた。

保育園ではフラフープを軽やかに回し、その輪は虹の環のように友達を集めた。転んだ子に小さなハンカチを差し出す姿は、まだ幼いのにどこか母の面影を映していた。花を摘んでは母に差し出し、「きれいね」と言ってもらうと、その言葉が花びらより甘く、胸いっぱいに広がった。

小学校では合唱コンクールのリーダーを務め、クラスをひとつの旋律にまとめて金賞を勝ち取った。家では弟とテレビのリモコンを取り合っては、結局ふたりで同じ番組を見て笑い転げる。そんな何気ない夜が、窓辺に差す夕陽のようにやわらかく家を照らしていた。

中学生になると、バレー部のレギュラーとしてコートを駆け、県大会まで進んだ。負けて悔し涙を流した日、母が差し出した麦茶が心に沁み、父の「よく頑張った」の短い一言が背中を押した。時折、父ににわか雨ような反抗を見せることもあったが、それもすぐに虹になって空気はまた穏やかに澄んでいった。

そして高校一年生の夏。彩乃の胸には、ひとつの大きな目標が芽生えていた。アルバイトをして、両親に結婚記念日の旅行を贈ろう。両親は結婚式も新婚旅行もできなかった。だから、遠くは無理でも隣県のリゾートホテルで、家族全員で過ごせる時間を。そしてオプションで小さな結婚式を挙げてあげたい。そんな大プランだ。目標は二年生の夏休みまでに二十万円。自分の手で貯めたお金で、スーパーサプライズを実現させたい。それが終わったら、受験勉強を頑張ろう。

真っ白なチャペル。高い窓から差し込む光は花びらのように舞い、母の肩にそっと降り、父の胸元をやさしく照らす。
その夢の情景に重なるように、幼い日の記憶がふいに甦る。庭で摘んだ名もない花を、両手に大事そうに抱えて母に差し出したあの日。母が「きれいね」と微笑んでくれた瞬間、胸に陽だまりが広がった。小さな指先で集めた花はたった数輪だったけれど、母の笑顔を咲かせるには十分だった。

今度はあの時の続きとして、もっと大きな花束を渡したい。幸せな家庭を支え続けてきたふたりに。
ドアノブに手をかけ、深く息を吸い込む。
「いってきまーす」
初夏の光は水面に揺れる鏡のようにきらめき、外の世界を優しく映し出していた。



久司は学校から帰宅すると、近所の友達たちと野球をすることを楽しみにしていた。その日もランドセルを玄関に放り投げてグローブを取り、駆け出そうとしたのだが、足は弾むどころか、虚ろな鉛のように宙をかすめ、廊下を貫く冷気は皮膚の下の神経の芯を凍結させる。ランドセルを乱暴に放り、靴を脱ぐ――その一連の動作さえ、内側から裏切られ、掌に絡む冷たさは湿潤を帯び、粘着するかのように感覚を侵食する。視界は揺らぎ、廊下の寸法も、高さも、距離も瞬間ごとに異界の規律に引き裂かれる。

視線は空中でぶらぶらと漂う異形に捕らわれる。白濁した巨大な足――人のそれであるはずもなく、しかし確かに人影の残滓を宿す何か――が、ぶうら、ぶうらと、非自然な律動で往復する。その下に、首の異様に長い父の姿があった。首はキリンの比ではなく、床奥から天井上方までを貫き、空間を押しのけるように伸張する。顔の輪郭は波打ち、瞳が瞬くたび、あるはずの温もりも理性も溶解し、空洞だけが残る。久司は息を奪われ、肺の奥底から音なき叫びを搾り出す。声は空気の中で粉砕され、身体を巡る時間に絡め取られ、外界に届くことはない。白い足はぶうら、ぶうらと揺れ、影は壁に爪痕の如く残留し、空気は無音へ、光は歪み、影は異界の軌道を描く。時間は凝固し、瞬間は永遠に延長され、視界は幾重にも折り重なり、世界は液状化し、底なしの瘴気となって脳裏に浸潤する。
それでも、目を逸らせない。身体の感覚は内側から破砕され、皮膚の下を未知の蠢きが這う。吸えば空気は粘液に変質し、吐けば虚空に溶解する。廊下は遠く、天井は低く、床は歪み、日常は溶解した痕跡だけを残す。存在するのは、揺れる白、異常に伸長した首、断続的に裂ける息の断片――そしてその理解すら、瞬間の闇に吸い込まれ、消失する。

ぶうら、ぶうら

白い足は揺れ、揺れる影は廊下を這い、息は闇の裂け目に吸い込まれる。久司はただ、不条理の中心に立ち尽くす。世界の形態は崩落し、理性は蒸発し、存在は揺れ、ただ異形の律動が支配する廊下に、全身を委ねるほかない
 父の自殺は不幸物語の序章でしかなかったことは、時間とともにはっきりと自覚することとなった。母が父との対面と同時に正気を失った。現実から失踪をした。母は笑い転げた。これからの人生分の笑い声が体から漏れたのだ。もう、母は死ぬまで笑うことはないのだろうと久司は思った。家長が自殺した家の倅は縁起が悪いと親戚たちからの引き取りを拒否され、市の職員によって児童養護施設に預けられることになった。幼かった脳裏に刻まれた、絶望の刻印は成長していく上での大きな障害となったのは言うまでもない。両親の崩壊を境に言葉をうまく発することができなくなった。病院での診察の結果、神経性の吃音であるとことだった。ひどい吃音癖は嘲笑の的となり、転校先で陰湿ないじめの対象にされた。
心が荒みきった十五歳の冬、自らを闇に消した。


 車を降りると、碁盤目状に整然と立ち並んでいる家が迫ってくるようだ。みんな木造で崩れそうな建物ばかり。初めて世界紡績に足を踏み入れた。着任して最初の世界紡績パトロールに警察学校で同室だった川端が同伴してくれた。階級は高梨より二つ上の警部補。同期での出世頭だ。署内では言葉使いも気を付けなくてはいけないが、一旦外にでたら旧知の関係に戻ることができる。
「ここに来たらな、パトロールの前に行くところがあるんだわ」
「行く所?」
「ああ、ここに来る担当者は必ずな」
「ふーん。どこ?」
「社宅。十三号」煙草に火を着けながら指で奥の方を指す。
「十三号?」
「ああ、死体が発見された家だよ。ここに来たときは、線香をあげてやるんだ。一般人は出入り禁止だからな。俺達ぐらいしかできないんだよ」車のダッシュボードから線香とローソクを取り出しながら、小さくかぶりをふった。
「ひでぇ話だぜ。なぁ。人生これからっていう女子高生がよ。こんな辺鄙なとこで、殺されたんだ」奥歯をぎゅっと噛んで、煙草をぺっと吐き出し靴でもみ消す。「首を鎖でつないで、でっかい鍵をかけてやがって」クソが!そう言って空になった煙草の箱を握りつぶした。

 古雅山の山頂に延々と佇む広大な死んだ街。〈世界紡績株式会社〉の工場社宅跡は、以前、実社会に居心地の悪さを感じる者たちが発散させる歪んだエネルギーの巣窟になっていた。その事実が発覚したのは、行方不明だった女子高生の死体が発見されたことだった。
十数年前、古雅市のショッピングセンターで、レジ係のアルバイトをしていた女子高生が何者かに拉致をされた。目撃者もいた。同じレジ係アルバイトの主婦が犯行の一部始終を見ていたのだ。彼女は一瞬の出来事だったと証言している。白い小型車が女子高生に寄っていき、急停車。フードを被った男が運転席から飛び出してきて、腹部を拳で強打。助手席に投げるように頭から放り込まれ、そのまま車は急発進したということだった。その時は気が動転して、何もかもがわからなくなるほど狼狽したが、「助けて」という悲痛な叫びは耳にしっかりと届いたという。その拉致事件から約二ヶ月後に最悪の形で彼女は発見された。世界紡績の敷地にある社宅の補強用の鉄柱に鎖で繋がれたまま腐乱していたのだ。死因は餓死だった。この事件は未だ解決されていない。このショッキングなニュースは全国を駆け巡り、廃業した世界紡績の敷地を所有し管理義務のある今伊勢市と古雅市の責任問題に発展した。しかし、両市とも財政にゆとりはなく、巨大工場跡の解体は現実不可能と決され、定期的な   パトロールと進入を防止する措置を講ずるに留まった。当初は、事件の再発の恐れも危惧され不十分であると批判をうけた。が、後、大きな事件も発してはおらず、一様の成果はあったとようやく最近になって評価されるようになった。この世界紡績解体問題は、地域選挙のたびにクローズアップされる問題ではあるが、決定的な打開策を見つけるには至っていない。
 
 十三号は角地にあった。十二号とは木の塀で仕切ってあったのだが、道路側の塀の一部は朽ちていて境界線を示すものは、土台のコンクリートだけになっていた。むき出しになっている建物は、傷みも激しく、木造の建屋は今にも崩れ落ちそうに思えた。川端の後を着いて十三号に入ると、庭の横に空地が建物から塀まで約二メートル幅の横庭がある。実家の建売住宅と比較してずいぶんと土地の使い方にゆとりがあると感心した。今は雑草で荒れ果ててはいるが当時は家庭菜園をしたり、遊具を置いたりしていたのだろう。横庭の真ん中の辺りで、鉄柱が斜めに立てかけてある。これが補強用の鉄柱だろう。縦横十センチほど。屋根のトタン部分と鉄柱はボルトで固定され、土台部分は地中に埋め込んであった。
「この鉄柱につながれていたのか」
「ああ。発見されたのはその勝手口の前だよ。その娘の髪の毛、真っ白だったってよ」
川端を見ると怒りに満ちた表情で鉄柱に拳骨を打っていた。鉄柱の埋まっている部分から土台のコンクリートが少し見えている。川端は蝋燭に火を灯した。その火で、煙草に火を着け、煙を吐き出しながら蝋を鉄柱の土台に垂らし、蝋燭を立てた。線香の束をそのまま蝋燭の火にもっていく。線香を回しながら火を着けようとするが、なかなか煙があがらない。ようやく火が着いたころには、川端の煙草の火がフィルターまで届こうとしていた。煙草を携帯灰皿に入れる。線香を静かにコンクリートの上に置き合掌した。煙が一本の糸となり、真っ直ぐに天につながった。

「じゃ、パトロール開始するか」
 高梨は社宅側の巡回。川端は工場側を巡回する。
「わからんことがあったら、連絡しろよ。無線じゃなくてラインでもいいぞ」
 そう言って工場のほうに向かうときに、また煙草に火を着けた。
 一歩足を踏み出すたびに「じゃり」という音。見慣れたアスファルトでなく、舗装されていない道路。小さな灰色の石と黒い土。道幅も狭い。一軒一軒の家を眺めた。同じような木材でできた塀。塀と同じ黒色の平屋。同じような開き戸。同じような狭い庭。そこには雑草が生い茂り、どの家も人の気配はない。死んだ家が立ち並ぶ死んだ街。

 「じゃり」足の裏に感じた小石が何かを語ったような気がした。歩き出してすぐ、背後に気配を感じた。猫か何かだろうか。高梨は振り返りまだ線香の煙が立ち上る十三号を見た。勝手口が少し開いている。ゆっくり近づき勝手口に手をかけた。軋む金属音と共にゆっくりとドアは開いた。招き入れられるように勝手に足が進む。
 六畳くらいの広さの部屋。踏みしめる畳に固さはなく、抜かるんだ泥の上を歩いているような不安定な感触。正面にタイルの流しがあった。その横に玄関。釘が打ってあって開けられない。ふすまはなく、押入れが丸出しになっていた。そこに同じジュースの空き缶が十本くらい転がっていた。この家に入った誰かが置いていったのだろう。窓には板が打ってあるので、昼間だが薄暗くじめじめしている。部屋の中を一通り見渡したが、なんら不審なところはなかった。胸を撫でおろし、外に出たとき心臓が飛び出るほど驚いた。自然に視線が向かった先に子供がいた。小学校の低学年くらいだと思う。
「どこから来たの? ここは立ち入り禁止なんだよ」
 少年は質問に答えることなく歩み寄ってくる。どんどん寄ってくる。目の前に来ても速度を緩めない。異様に気がついた。少年の目に眼球がない。穴が開いているだけの虚無の空間だ。少年は口を大きく開けて笑った。歯も舌もない、闇しかない。漆黒の穴が三つついているだけの顔。高梨は恐怖を吐き出そうと力の限り叫んだつもりだったが、何も聞こえない。身体に軽い衝撃を感じた。異変に気づく。胸に頭を突っ込む。あえいでいるうちに、頭部の半分以上は入っていた。痛みもなかったし、血も出ていない。ただ胸に頭がずっぽりと入っている。どんどん入ってくる。完全に頭が入ったら、腹に手を差し込んできた。頭よりすんなりと入ってきた。抵抗も出来ずにただ立っていた。理解の範囲を超えた現実が、全てを消し去る。黒い。黒い光に包まれた。

 気づいたときには、穏やかな光の中に懐かしい空気を感じていた。ワックスのにおい。黒板の落書き。中学時代のクラスメートたち。どうも様子からして体育の授業が終わって制服への着替えの最中のようだ。でも俺は縮こまって席を立とうとしない。どうしたというのだろう。そう思っていると、いきなり後頭部に痛みと衝撃が走った。「いてっ」叫んだが、声は外には出ない。続いて笑い声が聞こえる。いや、嘲笑だ。厭な笑い声だ。一人や二人じゃない。周りを見てみたいのだが、この体は机しか見ていない。周りの奴らはざわつき、誰が何を言っているのかは把握しづらい。でも、この言葉ははっきりと聞こえた。全身総毛立つような嫌な言葉。
「死んじまえよ」
 ちらと前を見た。目の前に水元がいた。ニキビ面がいかにも中学生らしい。水元とは今でも付き合いがある。小学生の頃から、かれこれ三十年近くの友人だ。そういえば、こいつ、中学の頃はニキビで悩んでいた。奴は三十年来の友人に初めての表情をみせる。警官である俺ならばわかる。姑息な人間特有の目の濁り。悪事を考えているときの口元の緩み。厭なカオだ。水元は机をバンと両手で叩いた。ビクッと飛び上がった。生唾を何回も飲む。怯えている様子が伝わる。逃げ出したい気持ちが伝わってくる。心臓が高鳴る。手足が震えている。そんな俺に水元は言った。
「この制服を貸してやるよ」何を言っているのかわからない。周りの笑い声が大きくなった。  
目の前の机には何も無い。あるのは水元の手だけ。何を言っているんだ。
「この制服は親切で正直者にしか見えません。制服を無くしたあなたにこの正直者の制服を貸してあげる親切な私には、はっきり見えます。このすばらしい制服が君達は見えるかね」
周りにいたクラスメートは棒読みで口を揃える。「もちろん」「ほう、素晴らしい制服ですな」
ばか言うな。なにも無いじゃないか。ずっと机ばかり見てうな垂れている頭を強引に起こされる。頭から激痛。髪の毛を引き上げ、無理やり顔を起こさせられた。怒りで何もかもがわからなくなった。こいつ、何を考えているんだ。臭い息がかかる。その臭い声で言った。「この正直者の制服に着替えろ」硬直し、立ち上がることさえできない。そうだ。こんな奴の言うことなんて聞かなくていい。そう訴える。すると、すぐに、水元は右頬を打った。そして、すぐに左頬。また右頬。首がねじれるほど、頭が左右に振られる。絶望的な気分が伝わってくる。悔しくて、情けなくて、悲しくて。とうとう最後は何人かに押さえつけられ、体操服を脱がされた。上半身裸にされると、クラス中から笑いが起こる。なにが面白いんだ。なにが楽しいんだ。気が変になりそうだった。そして背後から誰かがズボンに手をかけた。必死に抵抗していた。でも、どうしょうもなかった。ズボンを持っていた手を無理やり外され、一緒に下着まで脱がされる。しかも、それだけでは済まなかった。全員が張り手で全身を叩いてくる。みんな笑顔だった。本当に楽しそうな笑顔だった。体に刻まれた手形を誰が一番鮮やかか張り合っている。どさくさに蹴ってくる奴もいた。楽しそうな冷たくて痛い笑い声が教室に響きわたっていた。
絶望が絶頂に達したとき、助走をつけてとび蹴りをした奴がいた。黒板まで吹き飛ばされ、チョークの白粉を頭からかぶった。そいつは俺を見て心の底から楽しそうに笑っていた。生まれて三十数年間、あんな笑顔、俺は見たことがない。そいつはその笑顔のまま、廊下で男子の着替えが終わるのを待っていた女子に教室に入るよう促した。女子たちは全裸で倒れている俺に向かって気持ちが悪いといって、悲鳴をあげて逃げていった。そいつを心の底から殺してやりたいと思った。

 身体に小さな衝撃があった。息を吐きだす。自分の意志で身体を動かせるようになった。横を見ると、自分に入ってきた少年がこちらを見ていた。団々たる闇の穴を向けている。少年はゆっくりと正面を見る。高梨も操られたかのようにゆっくりと首を動かす。

 さっきと同じ教室だ。違いは自分の存在に誰も気づいていないようで目の前を中学生時代のクラスメイトが通り過ぎる。
「高梨くん! どうする」
 小柄な少年が甲高い声で中学時代の俺に寄っていく。確かこいつは、枝中だ。剣道部の枝中だ。興奮している様子が一目でわかる。目は血走り、物凄く早口だった。目の前で繰り広げられている異様な光景。全裸の少年が、皆から平手で叩かれ、身体中に紅葉の葉のような手形が幾つも浮き出ている。少年は苦痛に満ちた表情で、全身をくねらせ、悲鳴をあげている。状況の把握は出来ていなかったが、クラス中が妙に気分が高揚しているようだ。とにかく興奮している。厭な笑い声が聞こえる。全裸の少年が苦しむ姿を見ることが楽しくてしかたがないようだ。
中学時代の俺は全力疾走で少年に向かった。思い切り床を蹴り上げ跳躍。クラスメイトから脚光を浴びている。いい気分になってる。その少年めがけて足を振り上げる。少年は黒板まで飛んで行き、チョークの白粉を頭から被っていた。高梨純太は絶叫に近い高笑いをあげながら、教室を飛び出た。廊下の少女達に向かって叫んだ。
「教室に入れよっ。面白いもんがみられるぜっ!」
何人かの女子が教室に入っていき、すぐに悲鳴。廊下に逃げるように飛び出てくる女子に卑猥な言葉をかける。全裸の少年は教室の一番前で、倒れて呆然としていた。
「ごくろうさん」
高梨純太は満足げな笑顔で言った。当時の自分に殺意をもつほど怒りが込みあがり、同時に少年に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。高梨は崩れ落ちるように号泣し、ひたすら床に頭をこすりつけて謝った。
今、その少年のことをはっきり思い出した。転校生の打越久司だ。
今まで、彼をいじめていたことを微塵も思い出すことなかった。
 肩を叩かれた。顔をあげると少年が大きな闇の口をあけていた。笑っているようだ。そして、黒い空気が周りを暗転させた。

 雨だ。高梨は豪雨の中にいる。横を見るとやはり少年もいる。草と腐葉土の匂いが混ざり合い、砂利の道路に川のように水が流れている。数メートル先を見ることがつらいくらいの強い雨の中、少女は顔を腫らして鎖に繋がれていた。手にはスコップを持って男と向かい合っている。高梨は目を凝らす。男に見覚えがあるからだ。
「打越久司?」
中学時代より太っているが、顔つきは変わらない。打越は厭な笑い顔で少女に言った。
「ここに、ここに、あ、穴を掘るんだ。人が、は、入れるくらいの」
少女は震えている。そのまま佇んでいると打越は思い切り少女を平手で殴った。
「は、はやく掘れ」
水で重くなった土を集積させる。悲しそうに、怯えながら、声を出して泣きながら、許しを乞いながら、殴られながら、穴を掘る。
 高梨はその場から動くことができない。ただただ傍観するしかない。気が狂いそうだ。
だが、見ることしかできない。
 何時間かかけてようやく打越が納得する穴が掘った。少女は呼吸をすることもつらそうにその場でしゃがみこんでいる。雨は一段と強くなった。
 打越は少女の黒髪を引き上げ、無理やり顔を起こす。水元が打越にしたように。
「ごくろうさん」
 高梨が打越に言ったように言った。

 穴に打越久司は入った。バスタブでくつろぐように心地いい笑顔で。
「お、俺を埋めろ」
 少女は打越の言葉に唖然としている。そして、大きく首を横に振った。打越は激高し、少女に殴る蹴るの暴行を加える。高梨はやめろと叫ぶが声は届かない。打越は再び穴に入る。
「俺をこ、殺さないと、お前の家族をこ、殺しに行くぞ」
 少女の目が大きく見開いた。打越は楽しそうに、歌うように言う。
「パパもママも弟もこ、殺すよう。どうせ、お前はし、死ぬけどお」
 少女は苦悶の悲鳴をあげた。そして、泥を掬い、打越の胸にかけた。
「いいねぇ、いいねぇ」
 少女は家族を怪物から救うために、自分に抗い戦っている。
「パパもママもじ、自分の娘がひ、ひとごろしになるなんて、か、かわいそうだなあ。弟もが、学校でいじめられるだ、だろうなあ」
 少女の細い腕は休むことなく泥を掬う。打越は心底愉快そうに顎が外れたのかと思うほど大口で厭な笑い声を咆哮している。スコップを握る手は血がしたたり落ちている。
「ひ、と、を、こ、ろ、す、気分は、ど、どうだ」
 少女は最後の泥の山を一気に怪物の息を止めるべく顔に乗せ、スコップで何回も叩いた。泥が隆起と沈降を繰り返す。
叫びながら自らで覆い、泥も少女もそのまま動かなくなった。少女の黒髪はみるみる白くなっていった。

 高梨の横にいる少年が声をあげて笑った。見ると、目の闇は消えて、ちょっと小さめな目があった。少年は言った。
「ごくろうさん」
口の中から汚泥と蛆が流れ落ちてきた。嬉しそうに笑う少年は打越久司だった。

 気が付くと社宅の前にいた。時計を見ると時間の経過はない。

 高梨純太は拳銃を抜き、銃口を咥えた。

                          了

闇の目

執筆の狙い

作者 どくだみ
om126208209062.22.openmobile.ne.jp

今回も残酷な描写があるかもしれません。読後感はあまり良くないと思います。よろしくお願いします。

コメント

ひまわり
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どくだみ 様
なんとも恐ろしい『クリスマスキャロル』です。
少年が登場して、『リング』や『呪怨』ふうのJホラーを予感しましたが、ぶっ飛んだ変◯者のせいで、『死霊のはらわた』かクライヴ・バーカーをおもわせるテイストに。グロさが一段増した悪夢でした。

彩乃と久司の明暗の対比が鮮やかです。「どくだみ節」で詠うように、たたみかけるように溢れる言葉、言葉。圧巻でした。

読み返してみれば、「足は弾むどころか、虚ろな鉛のように宙をかすめ、」は意味を取りにくいし、「夜が、夕陽のように家を照らす」は一緒止まってしまいます。父親の足がぶうらぶうら揺れる光景を思い浮かべていて「その下に」と言われると、逆さ吊り? と困惑しまう。「首はキリンの比ではなく、」以下の描写は詩的表現あるいは心象風景かもしれませんが、どこかで目が滑ったのは正直なところです。
それでも読ませてしまうのが芸だなと。

これはわたくしの問題かもしれませんが、横庭の鉄柱をどうしても思い浮かべることができませんでした。
また、鉄柱に鎖で繋がれたという文章のどこかに、「犬のように」(ベタかな?)とあればイメージし易かったかな。初読では鉄柱に縛りつけられている様子を思い浮かべてしまいました。
「叫びながら自らで覆い」は、「ん? どういうこと?」となりますし、山場ですからもっと書いてほしかったシーン。

絶望的なラスト。日頃の市民に愛されるおまわりさんぶり、または正義感の強さを紹介するエピソードがどこかにあると、よりイヤな後味になったかも。

〈世界紡績株式会社〉だって!
ネーミングセンス! 工場社宅跡という設定が素敵すぎます。
メイン州の某町のように、ここを舞台にいくつもの物語がありそうですね。
私事ながら、視点ということをよく指摘される初心者からすれば、御作のお手なみに見惚れるばかりでした。
ありがとうございました。

どくだみ
om126254196160.33.openmobile.ne.jp

ひまわり様、読んでいただきありがとうございます。

読み返すと、かなり文章が変なところがありました。たしかにご指摘いただいたところ変ですね。「夜が夕陽のように」はなかなか恥ずかしいレベルです。久司の父親のシーンは久司の全ての感覚がえらいぐらついてるような感じを伝えられたらいいなーという感じで付け加えたものです。書いているうちになんでもなかでも加えてわけわからなくしとこみたいな感じだったのですが、読むとやり過ぎたなと反省してます。結構直したり加えたりしたので、気づかずに変なところがありました。まだ、最後のほうにもあるのを発見しました。お恥ずかしいです。掲載後に編集させてもらえる機能があれば嬉しいなあ。

横庭の鉄柱はたしかにこれだけだと説明不足です。モデルになった社宅がありまして、小学生のころ住んでいた近所に日本毛織の社宅がありまして、よく遊びにいっていたのですが、当時でも結構古い建物で何故か全部の家の上部から斜めに鉄骨が立てかけてあるみたいに固定されてました。多分家の強度に上げるためのものだと思うのですが、登って遊んだりしてたもので、印象にのこっていてそれをあたかも普通にあるようなものとして書いてしまってます。見たことない方には何のこっちゃですよね。もう少しわかりやすく書き直したいと思います。

なるほど、高梨を「今は凄くいい人」を加えるのはいいですね。さすがです。加えさせていただきます。ありがとうございます。

お褒めいただいたネーミングセンスは皆無です。日本毛織の日本を世界に変えて毛織から紡績に変えただけです。
ひまわりさんが初心者だなんてとんでもない。ごはんのひまわりさんの作品全部読ませてもらってます。残響の完成度にはびびりました。自分が短いやつあげたあとに読ませていただいたので、自分はしょぼいのアップしてまったなあと恥ずかし気持ちになりました。
また作品を読ませていただくことを、楽しみにしています。

ありがとうございました。

飼い猫ちゃりりん
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どくだみ様
ホラーは苦手です。文章は上手なんでしょうけど、なんか展開がよく分からない。それぞれの事件がどうリンクしているか分かりやすく書いて欲しいにゃ。
暴力やイジメはいけませんが、猫の虐待に比べれば些細な問題です。
お疲れ様でした。

どくだみ
14-133-32-217.area2a.commufa.jp

飼い猫ちゃりりん様、お読みいただきありがとうございます。

時系列が無茶苦茶だからやっぱりわかりづらいですよね。流れとしては最初の彩乃は、最後のほうにでてくる女子高校生です。
次の久司はもっと遡ってます。が、最後のほうで彩乃と一緒にでてきます。で、久司に酷いことしたのが警官の高梨です。高梨は記憶にさえのこっていていなかったのを変な子どもみたいなのに思い出させられます。という流れです。もう少し伝わりやすいように考えます。

今後、猫を虐待するような描写は絶対しません!

ありがとうございました。

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