空欄
窓の外の太陽の光をぼんやりと机に座りながら、眺めていると意識は教室の中にいる人達に向かう。最近の勉強の状況について彼らは話していて、あまり進んでいないと皆が言っている。俊介は一人でいる僕を見ると、近づいてくる。皆勉強していないと言いながら、家では必死になって勉強しているはずだ。きっと誰もが自分は勉強しないでも、いい成績を取れると伝えたいのだろう。
「また一人でいるの?」
俊介は僕の前の席に座り、じっと僕のことを見つめる。
「一人が好きなんだよ」
僕がそう言うと、俊介は何かを考えているようだった。俊介は高校一年生の時から偶然クラスが同じで仲良くなった数少ない友達だ。僕はこの高校に入学してからあまり積極的に友達を作らなかった。進学校で部活動が熱心な高校だったが、僕は毎日をなんとなく過ごしている。でも成績は上位の方で俊介も同じだった。
「修はさ、人生の目標とかないの?」
俊介は僕の方を見ながら、そう言う。
「ないよ。普通に会社員をして結婚するんだと思う。特別際だった才能が自分にはないことに気がついているんだ」
僕がそう言うと俊介はわざとらしくため息をついた。高校生なのにどこか冷めている自分を俊介は理解している。
「一度、学校を休んでみたら? みんなが勉強している時に休んでいると、充実した時間を過ごせるよ。修は今の生活が当たり前だと思っているんだよ」
「そんなことできるの?」
「僕が直美に頼んでみるよ。直美は意外とそういうことに融通が利くんだ」
俊介は担任の先生の直美と付き合っている。もちろん公にはされていないが、僕はそんな俊介に不思議な魅力を感じていた。同年代より大人びているし、人付き合いも上手い。でもそんな才能を生かそうとは思っていないみたいだ。
僕はそんなわけで次の日から学校を休むことになった。父親は交通事故で僕が幼い時に亡くなり、家には精神科医の母親と僕しかいない。都内のマンションに住んでいて、母親は、昼間は働きに出ている。僕は朝起きると、いつものように学校に行く支度をして、外に出る。近所の公園があったので、ベンチに座りながら、母親が家を出るのを待った。公園には中央に芝生があり、人は誰もいない。こんなことをしていて、いいのだろうかと思ったが、特に目的もなかったので、とりあえず俊介に言われたようにしてみることにした。
母親が家を出る時間になると、住んでいるマンションに引き返した。時々小学生とすれ違ったが、僕は彼らを見ながら、自分にもそういう時期があったと感じる。住宅街のこの辺りは家が等間隔に建っていて、閑静な雰囲気だ。ところどころに木も生えていて、裕福な人達が暮らしている。
家に戻ると、部屋の中には誰もいない。僕は自分の部屋に行き、ベッドに寝転がる。天井をじっと眺めながら、鼻歌を歌う。確かに俊介の言う通り、充実した時間が過ごせそうだった。
その日は、大部分の時間を、音楽を聴きながら過ごした。夜になると母親が帰ってきたので、僕らは向き合って母親が買ってきた弁当を食べる。母親は食事の間、職場の人達について話をしていて、僕はそれを聞いていた。果たして母親は僕が学校を休んでいることにいつ気がつくのだろうか。
次の日も同じように過ごしていたが、昼食のカップラーメンを食べ終わった後、さすがに暇だったので、パソコンを開いた。何かをしようと思った時、ふいに誰かとチャットをしようと思いつく。いくつかサイトを調べて、若者が多そうなサイトを見つけた。ログインすると、チャットの画面が映る。
僕はチャットを始めた。最初に出会ったのは大学生だった。彼は大学で数学を学んでいて、今日は講義がない日だと言っていた。僕は彼らとチャットをしながら、インターネットの世界にはいろんな人がいるのだと知った。
夕方になってチャットをしたのは、十代の女性で、彼女は高校を辞めて、家で過ごしていると言っていた。僕らは人生について話をして、意気投合したので、連絡先を交換した。彼女の名前は未波と言って、僕より一年年上だ。
未波にメッセージを送り、明日彼女と通話することになった。母親はその日は少し帰ってくるのが遅かった。いつものように僕は風呂に入り、母親が買ってきた弁当を夜に食べた。時間はあっと言う間に過ぎていく。僕は夕食を食べながら、明日未波と通話するのが少し楽しみだった。
翌日、僕は未波にメッセージを送り、通話することになった。部屋から見る窓の景色はいつもと変わらず外は晴れている。ここ数日学校を休んでいるせいか、段々と後ろめたさを感じるようになった。通話のボタンを押すと、「もしもし」と彼女の声が聞こえる。
「初めて誰かと通話したんだ」と僕は言った。
「私は慣れているよ。このサイトを使ったのが中学生の時だったからね」
「家では何をしてるの?」
「チャットをしたり、動画を見て、過ごしてる。あなたは?」
「今高校を休んでいるんだ」
「何かあったの?」
「特に何かあったわけではないけど」
「そっか」
電話越しに彼女の声を聞いているうちに、僕は高校に入学した頃に付き合っていた彼女について思い出した。結局別れてしまったのだが、それ以来、好きな人もいなかったし、誰かと付き合いたいとも思わなくなっていた。
「学校にはいつ戻るの?」と彼女は僕に聞いた。
「いつでもいいんだ。気が向いたらまた戻ろうと思う」
「私は高校をすぐに辞めちゃったからさ。できるならすぐに戻った方がいいと思うよ。それからバイトも続かなくてさ。毎日家で過ごしているんだ。なんだか人生がぷっつりと切れてしまったみたいでね」
僕は彼女の話を聞きながら、自分は恵まれているのだと気がつく。もしかしたら俊介が僕に伝えたかったこともそういうことなのかもしれない。
「なんだか生きていても楽しくないんだ。他の人が笑っていても、自分は楽しむことができない」と僕が言うと、彼女は「そうなんだ」と言った。
その日通話を終えると、僕は少し遅めの昼食をリビングで食べた。いつも食べているカップラーメンだ。部屋の中をぼんやりと見ているうちに、父親が生きていたら今の生活も違ったのかもしれないと思う。
母親はその日早めに帰ってきた。いつものように弁当を机に並べて、夕食を食べる前に、「学校行っていないの?」と聞かれた。
「休んでいたんだ」
「どうして?」
「なんとなく」
僕がそう言うと母親はため息をついた。僕は自分が悪いことをしてしまったような罪悪感を、少しだけ感じる。
「来週からはちゃんと学校へ行く?」
僕は俊介と話をした時よりも、ずいぶんと早く戻らなければいけないと思った。
「わかった。来週からは学校に行くよ」
母親は少し呆れたように、僕のことを見ながら、弁当の蓋を開けた。
「あんたは何を考えているかわからないのよ。そういうところがお父さんにそっくりね」
母親の口から父親の話題が出てきたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「お父さんってどんな人だったの?」
「静かで大人しかったけど、優秀な人だったよ。話も面白いしね。でも私には何を考えているのか掴めないことが多かった。事故で亡くなってからは、相当ショックを受けてね。当たり前の日常がどれほど貴重なものか痛感したのよ」
その日の夜は母親と長い間、話をした。母親は僕が学校に行っていないことを心配していたようだった。
休日は家で本を読みながら過ごし、月曜日は学校に行った。下駄箱で靴を履き替えて、教室に行くと、またいつもの日常が始まる。僕は机に座り、窓の外の景色を眺めていた。俊介はしばらくすると教室に入ってきた。彼は僕の方へやってくると、「上手くいかなかった」と言った。
「直美を説得しようとしたんだけどさ。修のことを心配していたんだ。何か理由があるかもしれないって言って。数日は見過ごしてくれたけど、結局最後は駄目だったよ」
俊介はそう言うと、自分の席へと向かう。僕は教室の隅でぼんやりと授業を聞き、ノートを取った。
その日の授業を終えると、僕は真っ直ぐ家に帰る。来年に受験を控えていたので、勉強しなければならないと思う。
家に帰ると、僕は連絡先を交換した未波にメッセージを送った。しばらくすると彼女から返信があった。僕は通話のボタンを押した。
「今日は学校に行ってきたんだ」と僕は言う。
「それはよかった。少し心配していたから」
僕らは他愛もない話をしていた。彼女と僕は気が合ったので、話題は次から次へと出てくる。
「たぶんあなたは幸せになれると思うよ」
会話の最後に彼女はそう言って、通話が切れた。僕は部屋の中を見渡して、勉強をしようと思い、机に座る。母親が帰ってくるまで受験勉強をして、夕食の時間になるとリビングへ行った。
食事の途中で、「将来は何になりたいの?」と母親が僕に聞く。
「少なくとも医者ではないよ。大学では経済学を学んで、会社員になろうと思う。特に自分が際立った才能がないことには気がついているんだ。だけれど今回学校を休んでみて、当たり前の生活が恵まれていることに気が付いたんだ」
「それはよかったわね。でもあなたが想像しているよりもこの先の人生は様々なことがあると思うけどね。世の中は今みたいに甘くはないし、苦労するときもあるから」
僕らは弁当を食べながら、会話をしていた。確かに母親も苦労をしてきたと思う。
夜寝る前に、部屋の天井を眺めていた。生まれた時から周囲に適応しようとしてきたことに気が付く。僕にとって人生は他の人よりも奇妙なものだった。その中で様々なことがあったが、今の生活も悪くないと思う。少し前向きに生きてみようと思いながら、ふとベッドから起き上がると、ベランダに出てみた。家々の窓に明かりがついている。それだけの数の人生があるのだろう。きっと僕と同じような感覚の人もこの世界にはいるはずだと思う。僕は手すりにもたれかかり、空を見上げた。銀色の星がまばらに輝いている。大きな雲は風に乗って移動していた。大きな満月がこちらを見つめているかのようにじっと浮かんでいる。
執筆の狙い
綿矢りさの小説に影響されて書いてみました。