愚考
私は何にもなれない。最近、そう思うことが多々ある。こういう文章を書いている現在8月31日、周りの頭の良い人達は、もうやるべきことを終えて楽しい最後の休暇過ごしているに違いない。しかし、当の私は、読書感想文をはじめとする様々なやるべきことが終わっていない。それを周りの大人は「出来損ない」や「ロクデナシ」といった言葉を並べて罵っている。そんなこと自分がよくわかっている。そう思っていても自分を完全に否定することはできない。人はいつもそうだ。どんなに自分に厳しい人でも、何処かしらで自分に甘えている。自分に、全く甘えていない人間がいるならば、一度会ってみたいものだ。そんな人に会えたら、私は何にでもなれる気がする。
そのような愚考を考えながら、私は今日、太宰治の晩年を読んでみた。やはり、読書は面白い。本は嘘をつかないし、自分にも甘えない。私は、太宰の小説を何度か読んでいるが、晩年は特に、人間の愚かさと美しさ、生と死、などの恐ろしくも優美で抽象的な文を書いた、読んでいて面白い小説だ、と感じている。太宰は素晴らしい人だ。パビナ-ル中毒(麻薬性鎮痛剤の過剰摂取による中毒。)になっても小説を書き続け、世に公表し続けたからだ。私は三日坊主なので、何かし続けていて、太宰のような状態になったら、すぐに、それを諦めるだろう。こうして文を書いているが、明日、明後日にはもう飽き飽きして、書かなくなるだろう、と私は考えた。だったら、今の私のことを、少しでも、多く書き残したい。そう思い立って、今の私は、携帯と向き合って、文章を書く。意味がないと思いながらも、未来の自分に、今の気持ちを伝えたい一心で、文章を書いている。
この文を書いてから、風呂に入った。読書感想文を正直、何枚書けばいいか分からない中、母親に、「半分ぐらい終った」と言った後だ。その後、問題なく終ったが、焦燥感が後をたたなかった。私は、よく嘘をつく。よく分かっていないことでも、平気で知ったかぶりをする。人は皆嘘をつく。当たり前のことだ。しかし、私は現在中学3年だか、普通の人が一生分つく嘘をついた気がする。それだけ、私は嘘つきなのだ。だが、この文を書く時だけは、自分に正直になてれる気がする。思い付いた言葉を、書いていって、美化させる。そんな単純作業が、私にとって、楽しいのだ。これを人に見せたら、ただ言葉を美しく並べたお飾りに、なんの面白さも感じてはくれないかもしれない。しかし、その、美化したものが私には、とても面白く感じるから、人は興味深いものだ。周りからみたら、なんの面白さもないものでも、それをやっている本人は、面白くてたまらないのかもしれない。人間とは、不思議なものだ。
9月1日、起きてみると、絶望感や悲壮感などの感情が、全く湧かなかった。いつもの月曜であれば、「今日から学校か」という絶望の感情だけが湧くが、夏休みが終っても、なんの感情も湧かない。自分でも驚いた。こんなことは初めてだった。とりあえず、私は朝食を取って、最低限の身支度をした。それから、家の玄関をくぐってからも、全くもって苦じゃなかった。不思議だった。そして、学校の門をくぐり、ふわふわとしていた頭で、始業式を終えて、その後の授業を受け帰路についた。疲れてもいない私は、とりあえず今日も、この文を書いている。人間、案外単純なものだ。マイナスな感情で書いた文は、指に任せて、なんでも書く。しかし、プラスな感情で書く文は、一度脳内で推敲してしまう。そのせいで、私はもともと語彙力がないため、より定型化されたくだらない文を作ってしまう。周りの人は、よく、「マイナスな感情はよくない」、「マイナスな感情をなくそう」と言っているが、私にとって、マイナスな感情は、私にアイデアをくれる、必要なものだ、と感じている。先代の文豪たちが、どのようにして文を作っていたのかは私には分からない。しかし、私にとって、文を作る上で重要なのは、マイナスな感情を持つことだ、ということが、15になってようやく分かった気がした。
執筆の狙い
私自身の葛藤を短編で書きました。よかったら感想下さい。初投稿です。