作家でごはん!鍛練場
辛澄菜澄

自転車部めたメタ進路相談

 人間を蒸し焼きにするとして、料理名は何なのだろう。そのまま「人焼き」かな、それか「ヒューマン肉まん」とかかな――野菜ですら冷蔵庫に入れておかないと暑さに殺されてすぐ腐るのに、人間だって腐らない道義はないよね、主に精神的に。夏の昼下がりの体育倉庫の中、母なる太陽の熱気に拷問されつつ、自転車部部長のフミンはカスの役にも立たない哲学的な問いに挑戦していた。問いとは言うが、答えなどない。フミンは前転なんかで使うマットの上に大の字になって、高い位置にある小さな格子窓から突き刺さる日光をおヘソの真ん中に感じる。
 自転車部は本来この学園に存在してはならない違法団体なので、部室を持たない。よって表立って教室を借りることも出来ず、妥協として誰の目にも触れないこの体育倉庫でじめじめと活動するしかないのだが、当然のように何かを冷やすための装置類は一切無い。部長のフミンは劣悪な活動環境を普段はもろともしないざっくりとした女子だが、流石に今回ばかりは夏休み初日ということもあって、不思議と若者の気力と気概のボルテージが高まって、それを腹に据えかねていた。
 要するに怒りの興隆である。
 フミンは眉間のしわに汗を溜めながらうめき声を漏らす。

「あー……だるー。だるだるの二段腹ぁ」

 細く引き締まった腹の中心のヘソに集まる熱光が痛くなってきたので、フミンは気怠げな速度で体をひっくり返した。さながらフライパンの上のパンケーキのようにくるりと。怒りと汗はたまるが、せいぜいこの程度の言葉と行動にしか帰結しない。夏の魔物と閉鎖的な環境と、先の見えない漠然とした未来――無計画な進路。そして拭い切れない退廃的思考。この退けられない絶妙な采配が深いコクを生み、この場にいる計三名の自転車部員たちを滅多刺しにしていた。フミンから少し離れた所、副部長のリアは八段跳び箱の上に跨って、必死にその運命と戦おうとしている。しかし、その声にも覇気などあったものではなかった。 

「駄目、今は耐えよう……夏休みは始まったばかりじゃない。これからの長い休みの内に、私たち一段ギア上げて、高いとこまで……いかなくっちゃ」
「そうは言ってもこの暑さじゃなー」
「うーんたしかにー……」

 ただでさえ抗えそうにないリアを道連れにしようとフミンがやる気のない声を飛ばし、いよいよ体育倉庫内は取り返しのつかない怠惰と憂鬱で満たされた。埃臭く、息苦しく、汗と微かな柔軟剤の混じった不快な匂いが充満するこの空間において、自転車部員を主材料とした何らかの料理が作られていると、この場の三人はそれぞれ思った。部長のフミンは肉まんを、副部長のリアは鶏もも肉の酒蒸しを、そして最後に残った平部員のシジュは三つ葉入り茶碗蒸しを幻視し、あるはずもない食器を手に取って食い始める。普段何事も適当に済ませがちなフミンは意外とお上品に食べたが、この中で最も女子らしい女子といった風貌のリアの食いっぷりときたら、まさに何十人か殺ってきた山賊が如くといったところであった。ああ、恐ろしや、夏の魔物。リアにここまでの醜態を晒させるとは。

「……いけません! 自転車部は! このままでは!」
 残った茶碗蒸しを乱雑に口に放り込みながら、シジュは通る敬語で声を張り上げた。
「わお、倒置法二連発すげー」
「凄い、シジュちゃんは国語が出来るのね。物知りだ」
「む、はむ。お二人の気持ちは分かりますが、ちょっと流石に危機感が必要だと思います。はむ」

 シジュは、学年はフミンとリアと同じく二年生、それでいて最も自転車部において真剣に精進する生真面目気質の女の子。常に正方形の形をした黒縁眼鏡をかけていて、頻りにその角度を調整する癖があった。陸上ハードル群生地に立っているシジュは、神棚的な位置に申し訳程度に飾られている数々のトロフィーや賞状を指差して言った――「あれほどの功績を、私たちの代で終わらせてしまうのも……先ほどフジ先生から通告がありました。旧自転車部を解体しなければ情け容赦なく、我々三名の内申点をごっそり削ると」――対し、フミンは饅から染み出る肉汁を味わいながら、呑気にこう返した――「えー、まじか。そりゃ困っちゃうなぁ」。

「フミンさん、ちょっとは本気になって考えてください! あなたの居場所もなくなるかもしれないんですよ!」
「んん、だって最近暑いしー。やる気がごっそり削れてるよこっちは。人って夏は怠惰になるよう出来てるもんじゃん。やっと期末も赤点回避して、過酷なおべんきょ地獄から解放されたとこなんだしさ」

 いまいち気が乗らない様子のフミンを見て、シジュは牛のような鳴き声を発しながら呆れ返る他なかった。
 私立青二才学園は、コンビニもないような田舎の広大な土地に建てられた高貴なる女子校である。戦後より続く自転車競技の発展によるサイクル向上意識の流れはこのお嬢様学校にも伝播飛来し、何十年も前のことになるが、自転車部はめでたく創設された。以来、金と土地に任せてレース場やトレーニング施設を次々と建設、中でも中等部は自転車の強豪にまでのし上がり、見事全国的な知名度と人気を獲得する。当時は自転車競技は男性のみのスポーツだったが、女子校たる青二才学園はその流行を見逃さなかったという訳だ。この思い切りの良い決断が功を奏したからこそ、今の今まで自転車部は時代を越え受け継がれてきた。自転車に乗ってあくせく必死に戦う女性は「クールだ」「女児の憧れ」として世代問わず大きな話題を呼び、跡に続く模倣校も数多く出現したのである。

「その伝統ある自転車部の現代表が、このザマです! たかが夏の日光にノックアウトされかけています!」

 シジュの説教も他の二人は慣れたもので、とりわけ響いている様子はない。表には見せないが、ただし、フミンもリアも心の奥では「今回ばかりはいよいよマズいぞ」と分かってはいる。一年時にはぞろぞろいた自転車部の仲間たちがここ数週間に渡ってぞろぞろ出ていったのは、主にフミンやリアの、日差しに負けてマットの上で蒸し焼きになるほどの根性無しが祟ったのも一因だ。つまり、真摯に自転車競技に向き合う気がない。元凶二名を除いてただ一人残ったシジュの指摘は尤もである。

「自転車部としては、フミンちゃん一応活動してると思うよ? 裏のスペースでコレクションに名前付けてお世話してるじゃない。あれは愛なくして出来ないんじゃないかな」

 フミンはリアの助け舟をきっかけに、倉庫の裏手に整列させている、計三十以上にもなる自転車たちに想いを馳せた。入学直前に三つ上の先輩たちから買い取ったもの――この前の三月に、二つ上の卒業する先輩たちから買い取ったもの――年がら年中学園の隅々まで回って保護したもの――その他諸々様々アレコレ。薄暗い草むらに揃い踏みするいっそ物々しささえ放つ自転車たちは、全てフミンの個人的愛蔵コレクションである。「たまに色のグラデーションとか、入手順とか、製造メーカーごとに並べ替えて愉悦ます」――フミンは読者に向かって気持ちの悪い注釈を軽く添えた。割り込まないで頂きたかった。しかし競技に対するやる気はないが、愛は本物と言いたいのであろう。

「愛の方向性が違いますよ……裏手のあれも、教師陣から圧かかってるんです。せめてお気に入りをいくつかに間引いてください!」
「えーやだ! 誰一人としてあの手を離さない! 私とあの子たちは、切っても切れないかけがえのない仲間だから!」
「わ、フミンちゃん漫画の主人公みたい」とリアが茶々。
「フミンさんに自転車愛があるのはわかってます! 尊敬もしてます! でもだからって、このまま怠惰に活動していい理由にはなりません!」

 シジュは将来、プロの自転車乗りになることを本気で望んでいる。そのため、彼女は自転車部に三年間、無遅刻無欠席を貫いたという名誉な肩書が欲しかった。
 本当なら、シジュは部から出ていった者たちと同じ意見で、同じ立場であるべきだった。だが一部の部員の問題行動や、自転車に対するスタンスの相違等は彼女の前に立ち塞がる障害になってはならないのだ。本気で自転車選手を目指しているということはつまり、いやはや片腹痛し、この程度のハードルの片付けなぞ、赤子の手をひねるよりも簡単なことだ、というのが、鉄壁の生真面目女シジュの何にも代えられぬプライドだった。逃げたくないし、なにより、なぜだかこの部活から離れたくなかった。
 ただ、最近はフミンの自転車狂やリアの無尽蔵の体力をいかに活用にするかの方法について悩む時間が格段に増えている。逆にストレスで最近眠りにつく時間は確実に減った。シジュの苦労はほかの誰にも想像できないものなのだ。彼女の発案で欠けた部員を埋めるための募集も学園中に貼ったが、化け物二名の評判が広まりきっているため結局不発に終わったことも、ストレスの堆積に拍車をかけていた。

「うん、いつもごめんね。ま、私が好きなのは競技じゃなくて――自転車そのものと、それに付随する物語だから」
「どちらにせよ、このままでは自転車部は本当に消滅してしまいます。それだけは避けねばなりません。部の名誉回復も含め、この場において対策委員会の立ち上げを宣言します!」

 そうして正方形眼鏡をクイと上げたシジュを議長とした会議が開催されたがしかし、鳴かず、飛ばず、話題はあまりにもシームレスに互いの色恋に移った。所詮彼女らは夏休みを迎えたばかりの年頃女子中学生なのである。恋に恋する彼女たちを唆すように、蒸し焼き倉庫の熱気がお熱い議論に張り切って熱を加える。「なんか私らのこと馬鹿にしとる?」――フミンも動揺し、故郷の方言が出始めていた。

「フミンさんはあの人に気があるとばかり……」
「え、誰よそれぇ」
「あれで無自覚⁉ ほら、この前の自転車部分裂事件に巻き込まれて去ってしまったカミノさんですよ!」
「どこ行ったんだっけ? 曲芸自転車部?」
「滞空二輪部」
「滞空二輪部ぅ!」

 フミンのほんのり詰まらなさと苛立ちと焦りの籠もった回答を受けて、シジュとリアも勝手な想像で気持ちを汲み取ってドキドキとしている。二人とも自転車の話をしている時より前のめりである。リアはともかくシジュはそれで良いのだろうか。

「うるさいなぁ。何もないよ! あっちが勝手に……す」
「あっちが勝手に⁉ なに⁉」
「チちゃうちゃう間違えた間違えた! 自分らが好き勝手に妄想しとるだけや! 捏造ッ捏造ーッ!」

 マットの上でじたばたとJ・C・ローリングを発動するフミンは反撃のため、次の標的をリアに定めた。目配せでシジュに念力を送り僅かに頷き合う二人を見て、気付いたリアはあからさまに顔を顰める。リアは顔と性格が良いため、男と縁のない青二才の生徒たちから非常に人気がある。青春を求める力は絶大で、こと青二才学園において同性カップルなぞ珍しくもなんともないのだ。そのあたり、現実の日本とは異なっている。リアも例外でなく、ただ受け身に男を欲する六年間を過ごすくらいならと同性の恋人を積極的に探す一派の一人である。そのため、突っつけばパステルピンクカラーの思い出の一つや二つ出てくる筈だというのが二人の予想だった。

「前の子とはいつ別れたん?」
「そもそも入学してから一回も付き合ってないからね? 前の子のあれは、あんなの……ただの遊び。向こう側の暇潰しっていうかね、私はキープ枠みたいな」
「え、リアさんをキープ扱いにするなんて身の程知らずの女子もいたものですね。リアさんほどの優良物件なんて他にいませんよ」
「優良物件かどうかはわかんないけどさ……けっこう一途のつもりだったんだけどね。私の心散々振り回した挙げ句、あっちは学外で普通に男子と付き合っちゃった。噂だと、ちゃらーい感じの金髪。黒髪ロング清楚は全人類の夢じゃなかったのかよって! あはは」

 跳び箱を跨いだままのリアの気持ちは、幾分か円ドルのように落ち込む。すると彼女は徐ろにひょいと箱から降りて、マットの上でぐうたらしているフミンに馬乗りになり、優しいチョップを彼女の眉と眉の間に等間隔で繰り出していく。

「フミンちゃん恨むよぉ、思い出させてくれたから」
「それで眉間チョップかいな、イヤーヤーメーテー」
「うぉりゃりゃ。ひゅーはははっ」
「ヤーめーなーサーイぃーっ」

 そんな二人の微笑ましいじゃれ合いをしばらく眺めていたシジュだったが、そわそわと興奮した様子ですぐに話をリアの恋愛事情に戻した。「いや、待ってください。私、もうリアさんのことには突っ込まないつもりだったんですけど。本人明らかに落ち込んでますし」――君がリアに言ってくれないと話が前に転がらないから、少しだけ我慢してほしい。そうでもしないと、君たちが延々体育倉庫で溶けている字数だけが嵩むのだ。「それでも私はべつに良いんですけど。むしろそれが望みですがね。冒険なんかちびっともしたくないお。ずっと自転車だけ愛でてたいな〜盆栽的に」――フミンはもうずっと関西弁でいてほしい、他の二人と口調が被ってややこしいから。

「あの、今はどうなんですか!」
「ん、今って?」と頭だけ振り返るリア。
「リアさんは今好きな人とか、いるんですか。前までは自転車部、けっこう人いたじゃないですか。フミンさんにとってのカミノさんみたいに、分裂した先の部に気になる人が行っちゃったりしたとか」
「あそっか、それでリアも余計やる気ないんや!」
「え、フミンさんそれは……」
「ア、いやいや、ちゃうから。違うんです……カミノは無関係だよ。ほんとほんと」
「そんなんじゃないよ。好きな人も今はいない。でも、色恋沙汰に無縁ってわけでもないかな。ていうか、色恋でそこそこ困ってる真っ最中というか。そう、今私のやる気をゴリゴリゴリラ削ってるのは――」
「ゴリラいります?」
「いる」
「いやいらないですよ」
「いやいやいや、いるに決まってる」

 暑さ、気怠さ、やたらめったらゴリラを擁護するフミンの三種を誤魔化すように芝居がかった口調で、リアはフミンの小さなほっぺを揉みしだきながら告白した。

「――ストーカー。私ことリアはただ今、正体不明の同級生に追跡と監視をされてるのよ。アイエヌディーなのよ!」
「アイエヌディーってなんや! イイ感じの仲ですの略か!」
「あ、古典の授業で聞いたことある言い回しです!」

 それぞれ勢いのある台詞を言い終わったあとで訪れる暫しの沈黙といったら。一貫校のため試験を受けずとも高校進学は出来る三馬鹿だが、この時ばかりは互いと己に「勉強しなきゃね」という嘆息と諦観を向けるのだった。いくら入学時に倍率六倍を勝ち抜いた彼女らといえども、留年システムはある。青二才学園は、お嬢様のイメージを汚す卒業生が出るくらいなら、そんななり損ないは学園に何年でも閉じ込めるというスタンスを採っていた。このようにして年月をかけて熟成させたお嬢様は立ち居振る舞いも教養も美しく伸びて大きく成長し、他の誰にも負けない最高の輝きを身につけた上で就職活動に失敗する。もとよりこの学園で留年する女生徒などそんなもの、その程度の扱いなのだ。
 さて、リアは跳び箱の上の定位置にひょいと戻りながら、他二名に自身が現在進行形で受けているストーカー被害についての概要を語った。彼女が理不尽な失恋を経験したその翌日(およそ三週間前)から始まったことで、それは主に自転車による登下校中に行われていると言う。

「マフィン号も怖がってるの、視線を常に感じるって」

 リアの目を引く容貌に魅入られる生徒も少なくない中、彼女は被害に関して余程の確信がなければここまで断定的な物言いはしないだろう。ちなみにマフィン号とは尋常なるママチャリながらリアの愛自転車で、唯一無二の相棒である。フミンによって命名され、以来リアはなんとも思っていなかった通学用自転車に並々ならぬ愛着を持つよう思考回路が進化した。その傾向を自覚してからは「人生を狂わせた女」として彼女はフミンとの同盟関係を樹立、その結果、一年後に自転車部から五つの部を派生独立させるほどの大災厄を引き起こす事態と相成った。気の合う二人は恋愛に絡む事柄を除き、ほとんどその事件を気にしていないのが厄介であり、日頃からシジュの不満を買っている。「あら、私とフミンちゃんが死ぬほどシジュちゃんから嫌われてるみたいじゃない。今はもう三人で死ぬほど仲良しなのよ。さあ、ストーカー被害の方を簡潔にまとめてくださる?」――リアが語ったところによると、主に自宅と学校を出てから数分後、マフィン号に乗っていると後方百八十度のどこかから、ねっとりべたべたの視線を感じる。走行中ずっとである。しかし、主に自宅と学校に着く数分前、パタリと糸引くような視線は途絶える。信号に捕まってピタリ停止している時も途切れる。何か注意深く周りを観察できるタイミングに限り、視線の主は煙のように姿を消してしまうのだ。そんなことが続いた数日後には彼女も業を煮やし、ある時、信号も学校も自宅も近くでない道端で急にブレーキをかけ歴戦の忍者の如き鋭く冷たい視線を張り巡らせると、十数メートル離れた曲がり角に青二才学園指定のスカーフが落ちていた。色はプリンセス・ピンクで、フミンら中等部二年たちは毎日首に巻いているものだった。フミンは自分の首に緩く巻かれているスカーフを指でねじねじしながら言う。

「そんなん、二年の中でスカーフ巻いてない人を探したら犯人はわかるんじゃ?」
「フミンちゃんは買わなかったかもだけど、生徒の大半は学年ごとの予備一括で何枚か買うでしょ。見分けられっこないの」
「そんな会あった? 私の記憶にございませんッ!」
「入学式の後にあったじゃん。その目で何を見てきた」
「あー、入学式の日はね、如女山(にょじょーざん)に隠してた自転車たちをここの裏に極秘で運び込む作業してたから。誰も見てない最後のチャンスだったし」
「式に出てすらなかったの? 行動がロックだねぇ」
「ふっふー、バロックといってくれたまえ!」
「均衡均整のルネサンスに対しより自由で動的な表現や動向⁉」
「さすがリア、よくぞツッコんだ。見事であった。大儀である。後ほど褒美を遣わす」
「凄い……まさかフランス芸術史用語を真夏の体育倉庫で聞くことになるとは思いませんでした」

 君たち、つい先程提示された勉強ができないという設定は一体どこに行った?――「いえ私は、たまたま知ってたんですよ。ほら中二病が、よくわかんない横文字知ってるみたいな……私たち中二ですし」「お、シジュナイスフォロー」「言い得て妙ね。まあ、一応小学校の頃は神童だったし」――年齢一桁の名残でフランス芸術を持ち出すなど、まったくもってリアリティに欠けるキャラクターたちである。これでは読者の皆様方に呆れられてしまうこと請け合いだった。
 リアがストーカーの正体に迫った翌日からも変わらず視線は続き、何度か同じような対策に打って出たが、向こうも知性的に回避しており、より隠れる場所が巧妙化しているのだと言う。スカーフによって犯人が同学校同学年というところまでは絞り込めたが、それ以降の情報と本気で対抗策を実施する情熱に欠け、リアだけではどうしようもなく、半ばお手上げ状態であった。

「で。じゃじゃん。こちらがそのスカーフでーすっ!」
「きゃ――――ッッ」
「怪談かよ。いい反応だけに出した甲斐があったわ」
「あ、いい匂いですね。じゃあ、青二才の生徒を装った変質おじさんが犯人の線は消えましたか……いちいち柔軟剤とか付けるのめんどいですもんね」

 ハードル群生地からいつの間にか跳び箱の上、リアの後ろに登ってきていたシジュの素朴な感想が、生々しい実感を伴って湿度と共に空間に張り付いた。リアはなんとなく納得のいかない顔でスカーフを折りたたみスカートのポケットに仕舞う。「ちょっと待って、まだ私嗅いでない」と、フミンもマットからリアの目の前に対面になるよう跳び箱に登ってきて、アホとアホでアホを挟んだアホアホサンドイッチがアホ爆誕した。前のアホが柔らかい体を駆使して真ん中のアホの腰付近をくんくん嗅ぎ回る姿は、まるで餌を求めて飼い主の足元を転げ狂う大型犬のそれである。後ろのアホもアホで「如何にも私は真面目です」とでも言いたげな表情をしながら「じゃあ、先生たちに暴露して強制退学でもさせますか? 土下座写真付きで」とアメコミヒーローも目玉が飛び出そうな鬼畜提案をする始末だ。三人で密着しながら跳び箱の上でギシギシ運動しているものだから、汗をびっしりかいてしまって、これではいよいよ本物の体育の授業と変わらないな、とフミンは頭の中でぼーっと思う。ぼーっとして、さらに鼻腔がリアのスカートの甘い匂いで満たされているのが関係したのか、確かにこんなに香りが魅力的な女子がいれば、ストーカーが夢中になるのも理解出来なくもない、というのがこの場でフミンから出た唯一の結論であった――「あの、やっぱ私らのこと馬鹿にしとるよな? なんか恣意的やで?」。
 リアは二回ほど前のアホ、でなく馬鹿の頭を殴りつけた。

「いてっ。いったー! ちょぉーッ!」
「ごめん、手が勝手に。でも、いいかも。退学させるのはやりすぎとしてもさ、ストーカーの事に関してはずっと胸に引っかかってたし、この際正体暴いてやっつけちゃわない? 私一人じゃやる気も出ないけど、二人の協力があるならやってみてもいいかもしれないわ」
「たしかに、リアさんの心の被害を考えれば問題の解決は喫緊の課題ですが……」
「や、そんなめっちゃ怖いわけじゃないけどね。『うへっ』って感じなだけよ」
「しかしです、やるやらないは置いといて、今の作戦はちょっと無理がありませんか?」
「というと?」

 と、リアが首だけ後ろを振り返ってシジュを見る。顔と顔が近く、二人の間に不必要な緊張感が生まれた。

「ストーカーは、恐らくリアさんに心酔しています。リアさんが何かやましいことをして監視されているという訳でもない限り、そうでしょう。でもだからこそ、影からこっそりリアさんを眺めて楽しむ愉悦を手放したくないがため、絶対に捕まらない自信があるのでは。その裏付けとして――」
「――体力がありすぎる。じゃない? もが」

 スカートを嗅ぎ回るのをやめ、リアの膝に顔を埋めたままモゴモゴフガフガ、そのフミンの指摘にシジュはこくり頷いた。
 リアは旧自転車部時代から部外(どころか学園中)でも有名なほど美人なのだが、それに加え自転車をかなりの長時間漕いでも疲れないどころかむしろ楽しげに笑うほどの体力お化けだった。その類まれな才能を活かしきれないまま今は自転車部の環境下で腐っているが、腐っても鯛、リアの持久力瞬発力ともに未だ現役である。つまり、【そのリアを毎日二回、数十分もの間途切れることなく追跡し続けられるストーカーとは一体なんぞや】、ということだ。有り体に言えば、もう一体の体力お化けの出現。もっと噛み砕けば、男と言われても納得するほどの異次元フィジカルの持ち主現るの巻。

「それにいくらルートを把握しとるとはいえ、自転車のリアを走って追っかけ続けるなんてのはアスリートの男でもかなり難しいんちゃう? 運動神経バツバツグングングルトやで。それもスカーフの件から青二才の同学年……女の子の可能性が濃厚ときた」
「……つまり、ストーカーは私と同じく化け物体力の自転車乗り、ってことになるのかしら?」
「なるほど、それなら逃げた勢いでスカーフが外れるのにも得心がいきます!」
「恐らくな、たぶん、ほんま、知らんけど。あと移動手段が自転車とは限らんし。でもまぁ、やから、いくらリアでもあっちが本気で逃げて隠れるなら、そいつ捕まえるんはかなりチャレンジングって話……実際、何度か逃げ切られてる訳だし」

 とても短い連結列車のような、或いは薄平べったい三色団子のように連なる三人は各々黙り込む。リアはそこまで気にしていないと言ってはいるが、やはり年端もいかないお嬢様に粘着質なファンがいるという事態には深刻であるべきだ。ただ追いかけられている内はまだ良い。そのうちエスカレートして盗撮、自宅敷地への侵入、無言電話など始まれば目も当てられないだろう。トラウマを植え付けられて成績急降下、バタフライエフェクト的だがその影響で本当に留年しても不思議とは言えず、まずいねぇ、と三人は前と後ろを交互に見たり手前と奥にそれぞれアイコンタクトを送ったり、沈黙の意思疎通を行う。そう、人間フィジカルは最強でも、メンタルまで最強とは限らぬ。

「嫌な想像をすると、もう盗撮くらいはされてるかもね。そう思わない?」

 リアの苦笑ぎみの笑えない冗談を聞き、フミンは徐ろに切り出した。

「強制加入だ」
「……はい?」
「そのストーカーをこの自転車部に強制加入させる。大丈夫、どう捕まえるかは私に任せて」
「ま、待ってください。意図が見えません!」

 フミンは跳び箱から華麗に飛び降りて着地すると、箱に馬乗りになっている二人を見上げつつ指を立てて言う。

「いい? そいつって体力アリアマーリの大魔神なんでしょ? しかもリアを追跡できるくらい体力と、それを可能にするだけのなんかしらの技術がある! これは我が自転車部にとって大きな収穫になり得る。リアのことが好きなら、説得すれば身を置いてくれるかもしれん」
「いやいやいや、そりゃ、言われてみればそうかもしれないけど……なんか怖くない? 今までずっと私をストーカーしてた張本人だよ? 何をしでかすか」
「弱みを握れば安全に従わせられる。盗撮画像とかストーキング中の証拠写真見せられたら、私たち自転車部の奴隷になるしか道はなくなるよ……職員室送りにされたくなかったら、自転車部でその辣腕を振るえってね! ふっふ、我ながら悪魔的発想力! 将来閻魔様になれるかもしれへんわ」

 的外れなようで、フミンの提案は意外と理にかなってはいた。ストーカー被害撲滅のため自ら動くというのも、犯人が同級生である確証を得ているからこそ出てくる策である――「学外のよく知らないおじさん相手なら町の治安組織の出番やろうけどね。今回は特別よ」。今の自転車部は教師たちから解散を求められている上、どうしようもなく変化することが求められる転換期でもあり、新たな風としてストーカーをスカウトするというのも悪くはないと思われた。ただ、このアイデアの真意をリアも、もちろんシジュも分かっていた。
 これはフミンの優しさなのである。

「……私の、ため、ですよね。ごめんなさい。私が、自転車部がなくなるのが嫌だって駄々こねてるから、フミンさんはストーカーを引き入れてまで、この【部活】を存続させようとしてくれてる。急に所属生徒が増えて、その生徒が何かの大会で活躍しようものなら、部としての価値も高まって、解体もなくなるかもしれません。でも……」

 シジュは跳び箱の上で目の前のリアを抱きしめつつ、訥々と喋る。正方形レンズの眼鏡が、リアの背中に当たって少し曇る。フレームが少し布と肉に食い込む。何かを抱きしめていないと、手が震えて、そのせいで余計に心が暗いもので圧迫されるような気がするから、彼女はそうしている。自分のせいで友達二人に迷惑がかかるかもしれないということに、内心とても動揺している。

「困ってしまいます。こんな個人的なワガママのために、お二方に甘えたくないんです。付き合わせるのが、嫌です」

 自転車部がなくなるという怯え――二人と会えなくなるという怯え。それが一番怖くて、恐ろしくて、たまらないのだ。二人に伝えこそしないが、シジュはそう思って毎日学校に通っている。時に厳しく怠惰な二人の態度を批判するのも、シジュにとっての恩返しのようなものだった。
 彼女はたとえリアが目の前に座っていなかったとしても、跳び箱の下のフミンを自分も降りていって抱きしめるか、もしくは座りながら上半身を前方に投げ出して跳び箱を抱きしめていただろう。何よりも、自転車部を改革してくれたフミンとリア以外で唯一自転車部を去らなかった立場の自分が、これ以上二人に頼り切りになるのはみっともないと彼女は思っている。だからそれを気にして体が震えるのを悟られたくない――「そう、私のせめてものプライド、格好つけなのです」と、シジュはフミンでもリアでもなく、あなた、読者に向かって小さく小さく捕捉した。

「いいえ、違う。勘違いしないでよねッ。べつにシジュのためにストーカーを拿捕しようとしてる訳じゃあないのだよ。といって、リアが困ってるから動くわけでもない。といって、自転車部を救えるって理由もホントは後づけ。今も昔も、私は私のためにしか動かへん……それこそ、私の個人的なワガママ。そこんとこ、実はあんま甘くないんやで? 私」

 珍しく真剣な表情を見せたかと思えば、直後に「ん、あんま甘くって、なんかアマアマやなぁ」といつものふにゃふにゃ笑顔でふざけるフミンは、続けて不安そうな二人を見つつも大胆不敵に宣言する。

「もしストーカーが自転車乗りなら、その自転車接収して、俄然私のコレクションに加えたくなってきたんだよ! これが第一目標!」
「ふふ。ま、そんなとこだろうと思ったよ。いつも通りのオタクフミンちゃんね」
「だってぇ! 禊としてストーカーの自転車を没収すれば『親友を毎日追いかけ続けた自転車というまたとない代物』がコレクションできるんやで⁉ こんな素敵なチャンス、二度巡ってくることなんてないよ! きっと特大特濃の物語が染み付いてるに違いない……フヒヒ」

 フミンは自転車オタクであると同時に、それ以上に自転車に付属する物語を深く愛していた。その自転車が乗られていた理由、どういう性格の主人に跨がられていたのか、乗り方の癖でどの部位が擦れているか、他の車体よりも何故その自転車を選んだのかなど、フミンは『キャラクター』だけでなく『シチュエーション』に対し大変な興味がある人間である。体育倉庫の裏手に集めている一台一台に名前を付けて日々観察しているのも、日替わりで登下校する相棒を変えているのも、その自転車一台一台に、新たな物語の一頁を書き加えるため。そこに生きるは、自他ともに認める自転車イカレポンチ狂人だった。フミンが今回ストーカー確保に前向きなのも、彼女の奇天烈な性質あってこそ――と、いうのがフミンの展開する建前であることなど、リアとシジュはお見通しである。ただフミンはアホなのでそのことに気づいていないのが可愛いのだし、二人もそういうフミンが大好きだった。
 リアシジュは互いに顔を見合わせ、二人して跳び箱の前後からそれぞれ飛び降り、フミンの下へ歩み寄る。リアは呆れたような、信頼のような、曖昧でキラキラとした顔でフミンの左手を取った。

「もう。やめてって言っても、どうせ聞かないんでしょ?」
「とう、ぜーん! 私という女を舐めるな!」

 シジュもフミンの右手を取って「しょうがないんですから、フミンさんは」とため息とともに笑顔で伝える。フミンは二人の手のぬくもりを両の手のひらに感じながら、とぼけるような素振りすら見せずに力強く頷いた。蒸し暑い夏の体育倉庫の片隅に、固い絆がぎゅっと結び直される音がした。

「リアがやめてって言おうがシジュがジメジメ謝ろうが、どっちにしろ私は私の欲望を全うする。実行は明日の朝!」
「明日⁉ 早速すぎませんか⁉ というか、夏休みなんですけど……」
「鉄は熱い内に打たないとダメだし、思い立ったが吉日だし、果報は求めてって言うやろ?」
「最後だけ違うわ。勉強せい勉強」
「せっかくだし二人には手伝ってもらうからねー。これ部長命令!」

 フミンの優しさによって、現自転車部にストーカー対策戦線本部が厳かに発足した瞬間である。
 そうと決まれば流れは早いもので、フミンはリアとシジュを体育倉庫裏手のアジトに招いた。招かれるもなにも普段から見慣れている、流石にもう少し整理しろと二人は言ったが、フミンは耳を塞いで聞かぬふりをした。
 鬱蒼と並べられたチャリンコのジャングルをジグザグにツアーしながら、曰く、凶悪なストーカーに対処するためには凶悪なほど性能の良い自転車で迎え撃たねばならないらしい。今回フミンはリアにそれを貸し出すのだ。

「マフィン号はお留守番かぁ……まー仕方ないね。必ず戦果を持って帰ろうとも」
「リアさんドンマイですっ」

 作戦としてはこうである、まずリアはストーカーの不意を突くためいつもとは異なるルートで登校し、先制攻撃を仕掛ける。この段階で犯人の姿を捉え、別の場所で待ち構えていたフミンとシジュが同じく自転車で追尾、長時間追いかけ回し疲労でフラフラにしてしまう。そうして地点Xまで敢えて泳がせ、行き止まりの袋小路にちょいと誘導してついに引導を渡す。最後に命乞いがあればより完璧で、そのままの流れで本件の交渉に持ち込める。基本的にはリアの無尽蔵のスタミナに頼ることが前提になるが、とはいえ、この作戦を遂行するには並のスペックの機体では使い物にならない。リアの超体力を合わせても不具合の起きないレベルのものでないと――「要するに、ケンタウロスやね。人の腕と馬の足。でも人の目と馬の知能ではない的な。あれだ、あれあれアレッツォ大聖堂」「せっかく簡潔にまとめてくれてたのにややこしく言い直してどうするのよ……」「テンションが無駄に高まってますね」――フミンは高揚する気分のまま持論展開を一方的に続け、遠回しに止めるようリアに釘を差されて反省し、やっとある一台の前で立ち止まった。そしてその自転車のハンドルを軽く握り、やんわり撫でた。

「アリゲーターちゃんもフグフッさんも、優秀なロードバイクは全部悩んだけど、やっぱり……ん、この子かなぁ」

 それすなわち、フミンが休日に普段使いしている「ミスケーキ」という名の舗装道路を専門とする一台である。とても性能の良く、壊さないよう人一倍気をつけて乗っているそうだ。リアとシジュは、フミンが一番大切にしているであろう自転車を貸し出すという決断をしたことに驚き、しばらく何も言えないで立ち尽くしていた。それでもフミンがちょいちょいと手招きして「リアなら喜んで乗せたげる。私の相棒と、もうひとりの相棒が組めば、ストーカーなんてイチのコロなのだよ」なんて言われてしまえば、リアは親友の覚悟を信じてその細く、でもやわらっこいサドルに跨るしかなかった。
 その日はフミンの発案によって、ストーカーを欺く準備をするために学園に秘密で校内合宿することになった。熱心なストーカーなら夏休みの朝だろうが関係なく食いつくという予想である。三人が三人の親にそれぞれ友人の家に泊まると連絡を入れ、マットのある寝心地の良い体育倉庫で一夜を明かすのだ。もちろんそれだけでは体が持たないので、日が落ちる前に、フミンが明朝に向けてミスケーキの最終調整をする中リアは夕食を、シジュは冷房の代わりになる措置を調達しに一度下校した。健康な体と精神なくして不健全な輩には勝てないというフミンの方針を採用した結果だ。二人ともやけにワクワクしながら颯爽と出向していったのが、フミンにはとても印象的に見えた。

「……変わったな、自転車部。いや、私が変えたのか。なに他人事みたいに……」

 倉庫外の壁際、長い夕日が当たらない影の場所を陣取ってミスケーキのタイヤナットをレンチで締めつつ、フミンはひとりごちた。頬をひんやりとした汗が伝っていく。ちょっと涼しくなって、ふと冷静になる、自分はなぜこんなにも必死なのだろうかと。フミンはたしかに自転車マニアだからストーカーの自転車が欲しいし、親友の危機が見過ごせないし、自転車部の今後も考える必要がある立場だ。しかし、本当にそれだけか。本当にそれだけがフミンが期末テスト明けの夏休み初日から重い腰を上げる理由なのか。この話の冒頭じゃあ、あれだけぐうたらの方に熱心だったじゃないか――フミンは自身の行動の矛盾性について冗談交じりに考えて、今度は別箇所のナットを緩めた。今度は、真剣に考えてみることにした。
 もともと、自転車は好きでも嫌いでもなかった。
 ただ、希望を持って入学する先の青二才学園に、古臭いいじめの根が粘着していたことが許せなかっただけだ。「青二才は私の憧れやってん。ちっちゃな頃からテレビで何回も取り上げられるのを見てた。お城みたいな廊下、シャンデリアの吊ってるでっかい教室、気品漂うジャンパースカートの制服。あとは、学園祭で見かけた、大人な雰囲気の格好いい先輩たち。ぜーんぶ、憧れ」――フミンのまばゆい憧れは厳しい受験戦争をも打倒し、晴れて夢の青二才生活に足を踏み入れる。しかし、とある部活に陰湿な年少いびりが存在すると知って、一瞬喪失感がきて、すぐに涙が溢れて、次第に怒りが最も強い感情になった。

「許せない。許せない。絶対に……認めない」

 体育倉庫が暑いからじわじわと湧いてくるような怒りとは違う、魂から滲み出てくる、本物の怒りだった。フミンは幼いことに、たったそれだけのことで、青二才学園のことを心底嫌いになった。彼女はホイールに油を差す。
 だが入学直前、辞退してしまえば、フミンは自身を六年間ずっといじめてきた人間と同じ中学に入らなければならなかった。また三年間靴を泥まみれにされたり、髪をハサミで切られたりするのは嫌だった。絶対に御免被る。「そこで天才の私は考えた。どうせ入学を諦めるわけにもいかないんなら、私の方から学園を……せめてその部活だけでも、改造してやろうって。めっちゃくちゃ燃えたよ……青春を捧げる賭け、挑戦や。あ、ごめん長いな。もうちょいだけ自分語りに付き合ってね」――フミンは学園に入る前、直前に卒業する三年生の先輩から不要になった自転車を大量に買い集めた。同時に筋トレやランニングを始めた。より知識を得、より体力を得、よりその部に溶け込めるようにするためである。文字通り、一年間血を吐くような努力で研鑽と信頼を積み上げていった。自転車が好きだったからではない。この部が嫌いだったからだ。
 目論見通り、猫を被ったフミンは部内で非常に良い扱いを受け、いびりのターゲットから外れた。この頃には悪質な年功序列の現場をその目で確認していたので、フミンは毎日恐怖しながら媚びへつらい、先輩や同級生たちの前で歪に笑っていた。

「次は私がターゲットかも、なんて。トラウマがあるもんで」

 フミンはタイヤの擦り減りを目視と道具で点検し、手押し式の空気入れを使って空気圧の調整を行う。最新の用品は余す所なく競輪競技部を始めとする分裂先に回収されてしまったが、この調子ならあと少しでミスケーキ号は最高の状態に近づくだろう。こうして見ると、やはり自分の愛車は愛しくてたまらない。自分の手で手入れすることが、当たり前のようでひどく幸せに感じられた。リアやシジュにはまだ黙っているが――部長になって部内環境を改革する過程で、本当に自転車が好きになってしまったのだと告白したら、どんな反応をするのだろうか。こんな個人的なきっかけが、今のフミンの大部分を形作っていると知ったら。「あ、そうなの。薄々そんな気はしてたわ。舐めるなとか言ってたけど、こっちもそこまで抜けてないつもりよ」「フミンさんがどんなきっかけで自転車好きになろうとも、私はフミンさんを軽蔑したりなんてしません。誓って」――と、彼女らなら言う。しかし打ち明けない限り、そのことをフミンは知りようがない。

「いくら自主性と上下関係に重きを置く青二才でも、部長の権限が強すぎるってのも考えものだよねぇ……二年が三年を顎で使えるって、凄いよりも恐ろしいが先にくる。こんなんだからあんな雰囲気の部ができちゃったのかも」

 フミンはストーカーとの決戦に向けてミスケーキの調整をするついでに、消耗したライトバッテリーを取り替え始める。もちろん昼の登下校以外にも、散歩や旅行で夜も漕いだからこうなったのだと、彼女はそのことがとても誇らしかった。
 二年の始め、部長になったフミンはついに本性を現し、部を【めちゃくちゃに破壊した】。そして自転車部は徐々に五つに分裂し、フミンはたった一年で戦いが終わったことに対する安堵と、これから先は何を頑張ればいいのだろうという不安を抱えて、旧自転車部に取り残された。それは、まさしく抜け殻だった。中学三年間――あるいは中高六年間を捧げる覚悟で挑んだ人生の大一番は、たった一年で決着が着いた。結局いじめの主犯格は揃って競輪競技部に移り、他の比較的無害な生徒たちも、それぞれの青春を求めて他の四つの内のどれかに転部した。これ以上の成果はないだろう。フミンはやり遂げた気分でしばらくはいたが、だんだん、他に目標も夢も憧れもない、自転車が多少好きになっただけの自分が、なんて虚ろで空っぽな存在のだろうという気持ちに飲み込まれた。暑くなり始めていた。初夏も終わりかけ。それは、夏休みが始まる一ヶ月前のことだった――。
 それなのになぜ、またこんなに必死になっているのか。
 自転車部を壊すという大目標を達成したはずなのにどうして、また何かに挑戦しようと思えているのか。

「――なんか難しい顔してる。私のこと? はむっ」
「……いや。暑いなーって」
「まぁ、火ぃあるけど。ふーん、フミンちゃんが嘘つくなんて珍しいね。明日は台風とタイフーンがいっぺんにくるぞぉ」
「そんなん一緒やんッ! てか作戦当日にそんなん困るわ……」
「あははっ。はむはむ。これおいしーっ」

 フミンがかなりの文字数を使って粗方回想と、秘密兵器搭載も兼ねたミスケーキのチューンナップを終える頃には、さすがに日の長い夏真っ盛りと言っても辺りはとっぷり暗くなってしまって、なんと彼女は曲がりなりにも校庭の隅っこで焚き火を燃やして光をとっていた。その手には長い竹串に突き刺した焼きマシュマロである。それを奪い取って勝手に食べ始めたリアは、フミンの隣にキャンプ用の椅子をてきぱき組み立てて「どっこいしょうねんよたいしをいだけー」と言いながらどっかり座った。お嬢様だというのに、なんともおっさんくさい座り方だった――「おっさんくさいで片付けてええの?」。知らないよそんなの。勝手にリアが変な座り方したんだから。

「シジュちゃんは?」
「まだ帰ってない。うーん、やっぱちょい無茶なお願いだったかな、冷房持ってこいって……?」
「うん、私もそっち頼まれなくて良かったって思ってる」

 リアは持っていたビニール袋を地面に置き、思いっきり椅子の背もたれに体重を預けている。体力勝負の要たるもの、疲れずとも休んでいろとさっきフミンが言ったからだろう。無論、ビニール袋からちらと覗く肉や野菜やルゥや米はフミンとシジュで調理する腹積もりだった。あまり得意ではないが、リアのためならばたまには良い。野外炊飯も合宿の醍醐味である。「なんか、王様かよって思うわ」「ちゃうちゃう。お嬢様や」と笑う二人。
 ひとしきり話すと、リアは一息入れて、真っ直ぐフミンを見て言った。彼女はフミンの右手に、自分の左手を重ねる。

「……私ね、部長に言っときたいことあるの」
「な、なによ副部長。改まって」
「あんまりいじめすぎると、死ぬからね。人って。わりと簡単に」
「――――」
「人のために頑張りすぎるところはフミンちゃんの良いとこで、大好きだけど、そのために自分を粉にしすぎると、いつかホントに粉になっちゃうよ」

 それ遺灰ってこと、とは聞けなかった。
 フミンを決して逃さない眼差しのリアは、いつになく本気だった。もしかして、自分に厳しくしすぎなのか、それを忠告しているのか、とフミンは思った。今の自分は、たしかにリアのために一生懸命であろうとしている。彼女のために部長権限で校則を破ってまで合宿を敢行している。だが確信までは出来ない。それとも、リアは意外とストーカーの存在を脅威に感じているとか。だからこんなことを言うのか。一つ言えるのは、フミンは、いじめると死ぬ、という言葉が作り出す世界を実感として理解しているがため、リアの言うことを軽く流してしまうことも出来そうにないということだった。リアはフミンが用意していた竹串とマシュマロを自分で合わせて、焚き火に向かって差し出す。マシュマロが熱に溶けて、じゅうと食欲を唆る汁が火に垂れた。リアの横顔が炎に照らされてぐやん、と揺らめく。

「ストーカー打倒作戦を計画してくれたの、すっごい嬉しい。感謝にも満ち溢れてる。でもね、私は普段からフミンちゃんに、もっと自分のために時間を使って欲しいなって思ってる」
「なに馬鹿なこと言ってんのさ……私は最初から私のためにやってるって言ったでしょ。自転車部を改造したのも、リアを自転車部に引っ張りこんだのも、シジュと三人で今の自転車部を続けるって決めたのも……全部私がそうしたかったからだよ。誰かのためじゃない」
「本当にそう? 自分で自分を騙してない?」
「ぬ、しつこいなキミは。じゃあなんだね、リアは私に勝手に自転車部に引きずり込まれた身だよね。ホントは料理部にいたくせに。私がリアに惚れ込んだばかりに、自転車部改造計画の仲間として勝手に巻き込んだ。そんで一年丸々計画に付き合わせた。そのリアはさ、自分の時間を私に奪われたとか思ってないわけ? 思ってるに決まっとる。そのリアが、そのリアがやで、私に『自分のために時間を使え』って……ちゃんちゃらおかしいわ」

 捲し立てたフミンの言葉尻には苛立ちではなく、どう表現して良いのかわからない不安と、一抹の悲しみが浮かんでいた。いつの間にかリアが焼いていたマシュマロは溶け落ちて焚き火の中に消えている。「フミンちゃんの滑舌が良いから、食べるタイミングなかったや」とリアは苦笑して、今度は遠くの正面校門方向から歩いてくるシジュの方を向きながら言った。

「シジュちゃんもきっとそうだと思うけれど。私たちは、フミンちゃんに『青春を盗られたー!』とか『貴重な中学時代を削りやがってー!』とかね。そういうの、ないよ。そう思われてたことに、私は逆にちょっと傷ついちゃったわ。少なくとも私は料理部にいた頃よりも、あなたに無理やり入れられた自転車部にいる、今の私の方が好き」
「そんなん、簡単には……信じられへんよ」

 リアは最後だけ浮かない顔のフミンを見てニカッと笑い、人差し指で口元を押さえ、左目を瞑ってウインクした。
「そんな顔しないの。私のたった一人の相棒は、もっと笑った顔が似合うのよ」
「……ん。ごめん。なるべく、笑うね」

 言葉とは裏腹に沈んだままのフミンの表情に、リアはこれ以上、微笑んだままでいることができなかった。
 シジュが大袈裟なほどの謝罪と共に持ち帰ってきた酷暑対策は、簡潔に言えば大量の冷えピタであった。近くの薬局を四軒ほど回って可能な限り買い占めたらしい。その驚くほど単純で脳筋な提示に、フミンもリアも先程のシリアスな会話など忘れて、一時口をあんぐり開けたまま放心状態になってしまった。シジュもそうなることを分かっていて先に謝っていたため、なにか一言言う気にもなれなかったのだ。
 それから、なんとかフミンとシジュで協力して米を炊いて鍋を煮立たせ、具材の大小が不揃いで深みもコクもない不格好なカレーライスを作って、三人で食べた。調理から食べるまでの間、三人はとても他愛ない話をして笑い合った。六足の怪獣の話とか、ギャンブルに選手生命を賭けたハンマー投げ男の話とか、期末テストの結果だとか、普通の女の子がするような普通の話を、たくさんたくさん。自転車も、ストーカーも、カレーでさえ、その時の彼女たちには世界に概念として存在しないのと一緒だった。この二人よりも素敵な奴はどこにもいない――三人がそう思っていた。「そんなふうに断言されると、なんだか照れますね」「事実だしいいんでね? 私は好きにしてくれてかまへんで」「いや、これが公開されると考えたら……ちょっと心の準備必要かも」――この夜の彼女たちは、自分たちの友情が小説として公開されるとも露知らず、恥ずかしい会話で互いの心を交換していた。ただ、フミンだけがリアに言われていたことが気になって、少しだけ、とっかかりを覚えていた。
 程なくして、フミンが体育倉庫に隠していた寝袋をマットの上に敷いて、三人が川の字に寝転がった。とはいっても、夏用寝袋なのだがそれでも布を被り続けるのはこの蒸し暑い体育倉庫の中では苦行で、一分後には三人とも寝袋は敷き布団の代わりにしていた。ただ、シジュの冷えピタのおかげで思っていたよりも暑さはマシである。あながち彼女の措置も間違いではなかったのかもしれなかった。

「誰も、死ぬなよ……」

 いの一番に寝入った誰かが寝言で不吉なことを言っているのを他の二人は聞き、びくびく怯えながら目覚ましアラームをセットし、早めの時間に目を閉じた。それぞれ期待と、不安と、疑問が頭の中で跳ね返って跳ね回って反響するが、そのせいで脳がじんわりと疲れて、さらに睡眠の質を向上させた。そうして三人が三人、誰もアラームが鳴るまで目が覚めることはなかった。
 翌朝早朝五時、最初に目覚めたのはシジュである。アラームをワンコールで止めたため、他二人は未だ夢の世界にいる。もともときっちりした性分なので、彼女にとって早起きは苦ではない。老後は朝二時に目覚める、というのが彼女なりの鉄板ジョークだった。シジュは二人を起こさないよう慎重にマットから起き上がって、倉庫の外に出た。快晴の日差しが、夏の早朝独特の空気を連れて校庭にゆらり漂う。シジュは深呼吸とそこそこハードなストレッチをした後、朝食の準備をしながら、三時間後には決着がついているだろうか、今日の学校は無断遅刻をしなければ、昨日はカレーを食べすぎてしまった太っていなければいいが、などと可愛らしい思案をしていた。「た、単独のシーンを作るのはやめてください。字数も既に嵩みすぎですよ。私のことはいいので、もっと他に有意義なことを書いてください」――仕方がないので、少しだけ巻きでいく。
 シジュが貫く大切な軸として、青春時代において自転車を諦めたくない、というものがある。幼い頃サイクルスタジアムで目撃した、強い女性が自転車に乗ってしのぎを削る最強の舞台――完璧に魅入られ、その未来しか見えなくなった。幸運にも両親が自転車指導者という立場なのも手伝って、懸命に自転車だけをひたすらに極めてきた。学生時代は青二才の自転車部に入れば、きっと確実に夢へと近づく。だが先に記していた通り、そこは人の悪意と歪んだ秩序に塗れた地獄だった。シジュは、どんな辛い環境でも甘んじて受け入れ、耐えることを選んだ。人間関係さえ、その異常なストレスさえ無視すれば、トレーニングメニューも設備も理想的だ。耐えてみせる。三年分の青春をくれてやる。この程度のショックで、逆境で折れるなど、未来のスター選手にあってはならない。あの時見た眩しいくらいの選手たちは、そんな些末なことでうじうじ悩んだりなどしない。それがシジュの、たった一つの拠り所だった。
 だがフミンはそんな自転車部に復讐するため、間違いを正すことを選んだ。シジュは気に入らなかった。一朝一夕で身につけた付け焼き刃の知識を披露して、部員たちの人気者。媚びた薄っぺらい微笑で、どんどん部の中心に近づくアイツ。六月から入ってきたリアとかいうヤツも同類だ。同じ一年生のくせにいじめられていない。あの人たちは自転車が好きでもなんでもないのに、青春を得たいのか知らないが、自分らの都合で部に軽々しく紛れ込んで。そんなにこの部活で楽しそうにしてる姿を見せるなよ。この地獄を乗り越えて初めて箔が付き、なにより心身ともに、もっともっと、強くなれるはずなのに。「そう思っていたのですが……愚かなのは私の方でしたね」――二年になってすぐのことだ、シジュは一年の頃からずっとそうされてきたように、目をつけられていたある先輩に理不尽な説教を受けていた。些末な事柄を抉り出して、重箱の隅をつつくような指摘をし、勿体ぶった口調で淡々と負の調子を向けられる時間。それが先輩のストレス発散になっているのはシジュから見ても明らかだった。いつまでもやまない嫌味の雨に打たれながら、シジュは何度目になるかわからない祈りをしていた。どうかこれこそが、これに耐えることこそが、プロへの近道だと思わせてくださいと。自然と、唇を噛む力が強くなった。

「――それ以上やめてください」
「……!」

 現れたのは、いつも気に食わないと思っていた媚び女と、その相棒枠たる黒髪ロングの美人部員だった。彼女は先輩にゆっくり歩み寄ると、シジュが見たことがないほど冷たく、恐怖すら覚える視線でもって事務的に言い放つ。

「本日定例総会に出席されていた方々の投票により、本日をもちまして私が部長職を引き継ぎました。改めまして、中等部二年のフミンと申します、よろしくお願いします。ところで、後輩を使っての憂さ晴らしは自転車部において今後一切禁止とします。罰として学園周りを二十周してきてください」
「この部長バッジが目に入らぬか〜! なんちゃって」
「な……何言って。急にそんなの認められない!」
「わかってるはずですよ。部長が禁止と言ったら禁止です。あなたは特にマークしていた一人ですので、ようやく処分を下せる立場になれてほっとしています」
「は? いや……ちょっと待ってよ。フミンちゃんは、他の子とは違うじゃない。あんなに良くしてあげたでしょ? みんな可愛がってた! てか二年が三年に口答えとか……!」

 シジュは心底驚いた。部長になったフミンは先輩が反論する暇をほとんど与えることなく、その胸ぐらを掴んで自身に引きずり寄せたのだ。一回りも大きい背丈の人にまるで物怖じせず、ただ激怒の感情で、部長権限を行使する――そこにいたのは昨日までの【誰からも愛される可愛い後輩フミンちゃん】ではなかった。フミンは先輩の顔にぎりぎりまで近づいて何か囁いたようだったが、シジュには聞き取れなかった。そして先輩が悔しげに立ち去っていく頃には腰の力が抜けて、シジュは地面にへたり込んでしまった。リアが心配してすぐに駆け寄ったが、シジュの目はひたむきにフミンの機械的な無表情を捉えていた。
 しかし、その瞬間、不意にフミンは昨日までの彼女とはまた違う、ごく自然な笑顔で頬を掻いたのだ。

「ご、ごめんなぁ……助けるの、遅かったかも。もう大丈夫やからねッ。シジュさん、でええんかな」
「あ……はい。あ、えと……」
「その、ね。私は私のために、この自転車部を今日から塗り変えるつもりなの。よかったら、シジュさんも私に着いてきてくれへん? あぁ、ちょ、もぉ、泣かんでよぉ、なんか脅してるみたいやん!」
「実際そうなんじゃない? 悪い女ね。あ、あんまり話したことなかったよね。私はリアっていうの」……

 この人、方言喋るんだ。
 彼女はこの時までそんなことすら知らなかった。

「はい、ティッシュ」
「それ何の広告?」
「育毛……かな? 宝辺駅前で貰ってん」
「誰に向かって渡してるのよ……」
「えっとそれって、私がシジュさんに渡してること? それともバイトのお兄さんが私に渡したこと?」
「どっちもだわ。育毛勧める対象がおかしいでしょ」

 シジュはフミンに言われるまで、自分が泣いていたことに気づいていなかった。この日から今日まで、シジュは自分がなぜその時泣いていたのか考えている。考えども考えども、堂々巡りをして、飛躍したかと思えば停滞して、まだ答えは出ていない。その答えを探し求めている内に、自分をいじめていた先輩は旧体制の主犯格とともに競輪競技部に移り、他の数十名の部員たちも便乗してほとんどが新たに創設された五つの自転車系の部活に移籍した。だが、シジュだけはフミンとリアしかいない以前までの自転車部にただ一人残留した。どうしてそうしたのか、実はそれもはっきりとは分かっていない――「もしかしたら二人に対して、責任を取れ、なんて身勝手なことを思っているのかもしれません。拓けているはずだった私の進む道をぐちゃぐちゃにして、許さない、私の一年間の我慢を返せって、だから……でも、その割合は限りなく小さい気がします」。
 なぜ自分は一年分の我慢を取り上げられた上で【嬉しくて泣いていた】のか。
 どうして、居てもメリットなんかこれしきも無い今の自転車部に残ろうと思ったのか。
 フミンは自転車部を変えた後はなんだか燃え尽き症候群のような体たらくになってしまって、自転車部も顧問が去り違法団体に指定されてしまった。こんな最悪な状況に、未来のスター選手が甘んじて良い訳がない。そう、青春において絶対に自転車を諦めたくないはずだった。それなのにシジュは二年の一学期の間ずっと、腑抜けたままでは駄目だ、という意見を押し通すことが出来なかった。もう個人でやる簡単な自主トレ以外数ヶ月碌な練習が出来ていないというのに、シジュは、こんな最低最悪な自転車部を、どうしてだか抜ける気にはなれなかった。そして、部活が消滅するということも決して看過できなかった。「そうして今に至る、ですか。変ですよね、我ながら。ただの真面目系ストイックキャラの予定だったのに予想外に重い過去が生えてきて、作者もびっくりしてるらしいですよ」――シジュの意味不明な独り言が関係したかは知らないが、倉庫からようやくフミンとリアが起きてきた。既に朝食は完成しており、時刻は六時過ぎを指している。オハヨウオハヨウと、覇気のない眠気に弱い二人の挨拶が、シジュにはいつもより澄んで心地よく感じられた。

「はい、おはようございます、お二方。朝餉はできてますよ」
「朝餉て。貴族かよ」
「そもそも朝ご飯ゆーたかて、昨日のカレーの煮詰め直しやろ。そんな自信満々な顔で言われても、あ、ウインナー追加されてる! やったウインナーだ! しかも焼いてる! 焦げ目最高ーッ!」

 心機一転朝食を楽しんだ三人はラジオ体操を流して各々体をほぐしたのち、校庭を拝借して本格的な予行練習に励んだ。各種技の演習習得に始まり、ミスケーキ号のパーソナルに関するフミンの講義、改造調整箇所の説明を受け、犯人が現場に遺したスカーフを呪う儀式等をして、残すところはリアの覚悟の紐を結ぶ作業のみである。密度の濃い朝の活動によって、登校時間は着実に迫ってきていた。あまり悠長にはしていられない。ミスケーキを押し、ある中で一番イカしたヘルメットを着用したリアは、校門前で後ろを振り向く。そこには同じく自転車を押して臨戦態勢の二人が続いていた。

「こんなこと聞くのも性格悪いかもだけれど……私についてこれる? 結構、速いのよ」
「部長は副部長の仕事を見届けるのが仕事っしょ!」
「……言うわね、部長さん。手加減しないから」
「今からストーカーと戦おうってのに何故お二人でバチバチなんですか⁉」

 さあね、と二人は同時に答え、リアは真っ直ぐの方向へ向き直った。昇る朝日は段階的に熱を増している。あっという間にこの町は夏の灼熱に包まれ、さながらシューマイみたいに蒸し上げられるのだろう。三人は腹が減っては戦はできぬ、と思い、それぞれ架空シューマイをポン酢と醤油と餃子ダレに浸けてから頬張って、いよいよフミンは出発の口上を叫び始める。

「はむっ。第一コース、リア! 第二コース、シジュ! 第三コース、私! 私立青二才学園中等部、現存せし唯一の『自転車部』、ここに全部員集いて、憎きストーカーを打破すべく、今こそ立ち上がりて出陣せりッ!」
「この口上いる? はむ」
「ゴリラよりはいるんじゃないですか? はむ」
「スリー! ツー! ワン! ゴー……シュ――ッ‼」

 フミンが威勢よくカウントをし終えると同時に、リアはミスケーキ号のハンドルグリップ付近に取り付けられた安全カバーを解放し、赤く突き出たボタンを押し込む。するとミスケーキの後部タイヤ左右に搭載された放出口から大量の反転エネルギーが噴出され、リアは信じられないほどの勢いでロケットスタート、瞬きの間には見えないところまで行ってしまった。これぞフミンが分裂先の一つ『スクリュー二輪部』の水中移動技術を盗み出し陸用に改良した、安全設計度外視の違法機構である。しかし、これでも改造装置としてはまだまだ序の口であった。

「リアの操作の腕前前提だから、ちょっと欲張っちゃったな。普通に動いて良かった」
「まぁ、ひやひやしましたけど、それよりも私は発車合図がベイブレードなことの方が気になります」

 フミンとシジュがリアを追い始めた頃には、彼女は百メートル先近くを走行していた。ついてこれるか、なんて偉そうなことを格好つけて言ってしまったが、二人の役目はあくまで要所での待ち伏せかつ索敵、撹乱であり、囮とメインチェイサーを担うリアとは全く仕事が異なる。部長は副部長の仕事を見届るのが仕事、とはいえ物理的に近くに居ないというのは少し心細いな、とリアは若干センチメンタルな気分だった。
 向かうはリアの自宅マンション近辺、ストーカーが潜むと思われる区画で、敢えて無防備な姿を晒しホシを誘い出して釘付けにするのだ。上手くいけば残り二名も合流し、三方向から中心部に追い込むよう連携して誘導、地点Xで王手をかける――最もシンプルが故に、最も誤魔化しも寄り道も効かないピーキーな作戦。リアは事故を起こさないよう慎重かつ冷静にミスケーキを操り、脳内で頑張ってシミュレーションを立てる。しかし自動二輪と違って体力を消費する関係上、いくらリアと言えども集中力が散ってあまり精密な計算は出来なかった。ただ、前籠がベリー類の匂いを放つ機能が存外緊張を和らげてくれた。車体名にかけた洒落でもあるらしい。乗る前はこんな機能はいらないと思っていたが、これもフミンの思惑通りなのだろうか。
 するとそこへ、ヘルメット内蔵の無線に通信が入った。シジュからである。リアは右耳あたりのスイッチで応答した。

「こちらリア。どした? パンクでもした? どうぞ」
『こちらシジュです。いえ至って順調です。リアさんに内緒でお話したいことがあって無線しました。フミンさんには聞こえてませんどうぞ』

 そんな気軽に電話みたいに無線使われても、とリアは思ったが、一応内容は聞いてみることにした。フミンとリア、フミンとシジュ、もしくは三人で話すことはよくある。だが、リアとシジュ二人きりで話すというのは意外と珍しい。元より作戦中だというのに、とリアは内心不思議がった。

『……さっき、久しぶりにお二人に助けられた日のことを思い出していたんです。リアさんは、いつだってフミンさんの最高の相棒でした。でも、少し思ったんです……どうぞ』
「なにかしら、どうぞ」
『リアさんは、中学最初の一年間を、フミンさんといたことに後悔していませんか。これから送る中学残りの二年間を、後悔しませんか。あなたは人望もあるし、お綺麗だし、ご友人だって私たち二人だけじゃないはず……自転車部以外にも居場所が沢山ある。その恵まれた体力だって、他の場所で活かした方がいいのかもしれません。私も、なんだかもやもやしてて、迷ってて、どうしたらいいか分からなくって……リアさんは、この先の時間をどう使いたい――』
「あのさ、シジュちゃん。ちょーっと黙れる? それ今じゃなきゃ駄目かな? 運転に集中したいからさ、ごめん。オーバー」

 リアはそれだけ言って、一方的に通信を切断した。
 風の感触が一瞬分からなくなる。風景が手前へ手前へ飛んでいく。さっきにも増して集中力が途切れそうになる。運動中のためため息も満足にすることが出来ない。どうして今なのだ、と思いつつ、しかしリアにとってそのシジュの問いかけは、いつかは必ず向き合わなければならない問題だった。つまり作戦を終える前に、シジュはリアに問いたいのだろう――今ならまだ選び直せる、このままずっと、我が道を行くフミンに付き従い続けるので本当に良いのかと。貴重な青春をそれだけに費やして良いのかと。「あ、え、だいたいそんな感じですけど、そこまで明確な問いではないというか……! 私もあの時は訳わかんなくなってたというか、ああ、なんて説明したら……!」――だそうだ。なんだか大変そうである。

「違う……付き従うとか、私はそんな理由であの子と一緒にいる訳じゃない。でも――」

 リアは漕いで漕いで、漕ぎ続けながら、ベリー類の香りに包まれながら考える。
 なぜ自分はフミンと、シジュと、限りある短い時間を分け合うことを選んでいるのか。
 どうして他の友達との関係を疎かにしてまで、もう書類上は解体されている自転車部に留まり続けているのか。
 それだけ、何度脳内で解答を出そうと奮闘しても、真の意味で結論めいたものは出てこなかった。
 やがてリアは四方八方が田んぼで囲まれているような、道路もろくに舗装されていないような畦道に出た。青二才学園がある町は中央部はかなり発展しているものの、学園近辺は「町」と呼ぶことすら憚れる田舎、悪く言えばド辺境である。上には真夏の空特有の鍾乳洞雲が無数に垂れてきていて、灼熱の太陽光を乱反射していた。色も鮮やかな緑に近く、ゲリラ豪雨となる心配もないだろう。そこまで考えたところで、リアは背後によく知っている気配を感じた。こんな畦道は普段通学で通ることなど絶対にないが――まさかこの家も電柱も遮蔽物すらないような道で、追いかけてきているというのか。まだ自宅側からかなりの距離があるにも拘らず、位置を特定された?――(どっかにGPSでも付いてるのかしら。この町も物騒なものね)――そんなもの、とても正気とは思えない。耳をすませば聞こえる、確かに後ろからぐわんぐんんとホイールのスムーズに回る音がした。彼女の疲労しているような、恍惚としているような荒く甘い息遣いも、全て。
 あのストーカーに違いなかった。

「…………」

 後ろを軽く振り返れば、その正体を見ることは簡単である。しかし事を急いて相手を刺激してはせっかく用意した策が台無しになりかねない。勉強が出来ないと言っても、リアはフミンやシジュと比べれば比較的賢かった。頭が回るから気配りが上手で、誰とでもすぐに仲良くなれる。彼女が学園中で人気なのは単純に美人なことを差し引いても、そういう事情も多少絡んでいるのだ。「今懸命に回さないといけないのはタイヤもだわ……」――頭がいいなんて、所詮ちっぽけな個性の一つに過ぎないというのがリアの考えである。こんなもの才能でもなんでもない。加えて、現在の司令塔は自分ではない。ひとまずこの想定外への対策を募るため無線をとリアは思ったが、丁度そのタイミングで向こうから通信が入った。なるべく後ろの相手に気づいたと勘付かれないよう、あくまで自然に、ただ友達からの電話に出るという体で無線を繋ぐ。昨日までヘルメットすら被っていなかったから怪しさ満点というのは御愛嬌。

『こちらフミン、定時連絡の時間だよ。そちらの状況は? どぞー』
「あ、おはようフミンちゃん。ごめん、新しい自転車とかヘルメットとか、用意するの手間取っちゃって……でさ、新しいやつ乗るの楽しすぎて、ちょっと遠回りして学校行ってるの。だから今日は一緒にいけないや、ほんとごめんね。どーぞ」
『……? リア、どうしたの? なんか変だよ。変なもの食べた? あ、カレーが当たっちゃった? ごめん、冷蔵庫とかなかったから冷やせなかった。夏だっていうのにそのことは考えてなかった、次回以降気をつける。でも、一晩寝かせたから美味しくはなったよね』

 気づけや! 察しろや! カレーの件はもっと悪びれろ!
 と美少女かつお嬢様らしくない言葉が胸の内に湧いてきたが、この通信はシジュとも繋がっていたので、辛うじてこちらの意図は最終的には伝わったようだった。いくらか指示が入り、無線は繋いだままにして、リアは広大な田んぼ地帯の真ん中で急ブレーキをかけ、徐ろに自転車を漕ぐのを止めた。同じように止まる音が後ろでして、すぐにUターンするようなチェーンの軋みがやって来る。振り返ることなく、リアは息切れ一つ起こしていなかった。

「逃げないで――逃げなかったら、なにか良いことがあるかもしれないよ? もしかしたらだけどね」

 リアがそう言うのも、勿論作戦の一環だった。しかし効果は覿面のようで、去りかけた足音はピタリと止む。あたりに音はほとんどなかった。腰のあたりまで伸びた稲の束がそよ風に多少そよぐだけで、自動車も喧騒も何もない。どちらかが声を出すまで、まるで地球がほとんど滅んでこの場所だけ生き残っているかのような、そんな陳腐な妄想が出てきた。

「良いことって、どんなの……?」
「……!」

 先に口を開いたのは、ストーカーだった。リアがゆっくり振り返ると、そこにいたのは一見して気弱そうで、背も小さい小柄な女の子である。リアと同じ青二才の制服。首にかけたプリンセス・ピンクの真新しいスカーフ。稲と対照になるみたいに腰まで伸びた艶の悪い長い黒髪は、手入れの行き届いたリアの黒髪とは似ても似つかない。睫毛の目立つ伏し目がちは、とても昨日まで毎日のように執拗なストーキングでリアを参らせていた女子のものには見えなかった。

「同じ二年A組のイヨヨさんだよね。クラスのみんなには内緒で、ほっぺにチューくらいしてあげてもいい。条件を呑んでくれるならね」
「え、ええ、ホントですかぁっ⁉ わ、わわっ」

 リアはミスケーキの後輪に設置された小型カメラを中指の背で軽く叩いて補足する。

「こいつにあなたの犯行は全て詰まってる。私のストーカーを金輪際やめて、自転車部に入って活動を共にして。怪しい素振りを見せれば、即教師にデータを提出する」
「んへぇ? 自転車部に? 【それはできません】」

 伏し目がちで意思も弱そうなのに、その一言ははっきりとした重みを伴ってずしんと響き渡る。

「理由を聞いてもいい?」
「そ、そんなのぉ、決まってるじゃないですかぁ。あたしは、あなたのお顔と、優しさと、華麗なる自転車捌きに惚れっちまった女ですー……あたしじゃ、リア様に釣り合うなんてこたぁありませんっ! 横になど立てません! 影から、影から見守ってるだけで良いんです! いえ、見守らせてください! それだけであたしは幸せですからぁ! ああ、でもでも、こうしてお話できるだなんて、やっぱり夢みたい! 一生の思い出にしますねぇ……!」
「……あなたに好かれるようなことなんて、してない」
「でしょうとも。あたしが勝手に、好きになりたいからなったんですしぃ、その認識で結構ですよっ?」
「――――」

 私は私のためにやる。
 他の誰かのためじゃない。
 リアはイヨヨの理論を聞く片手間、彼女と似たようなことを言ってのけた女を思い浮かべていた。

「はっ! あっ触っちゃったぁ! きゃー!」
「くっ⁉ 意外と、力強っ……!」

 カメラを壊そうと一気に距離を詰めてきたイヨヨに咄嗟に受け止めたリアだが、流石彼女に迫る体力の持ち主だけあって相撲も上手である。
 しかし、リアは目の前の女よりも、一年間ずっと隣に立たせてもらっていた奇妙奇天烈なやべぇ女のほうがずっと好きだった。恋愛感情でこそないが、半端ではない想いの強さはこのストーカーにだって負けない。そう思うだけで、根拠のない自信と力が湧き出てくる気がした。
 その女と話すのは、楽しい。気が合うし、親友だし、相棒だ。でもそうなったきっかけはその子の個人的でワガママ極まりない計画あってこそで、その計画も無事完遂を迎え、今一緒にいるのも、正直に言って流れのようなものだ。たった一年志を共にした仲。べつに同じ学校の同級生なのだし、会えなくなる訳でもない。元居た料理部に戻って、意味のない連日のような体育倉庫での駄弁りライフなんてとっととおさらばして、他にも色んな人と友達になって、誰かタイプの子を好きになって、振られて、いつか両想いの素敵な恋愛をして、まともに勉強して留年しないようにして、年に何回か、たまに再会して、カラオケとかファミレスにでも行って――リアは、それらを実現できるだけの才能を持っている。
 だのに、そうしないのはなぜか。

『リア。ハンドル左グリップ側のブレーキ、校歌のサビと同じリズムで握り。モノっ凄いの見せたろやないか!』

 押して押されの睨み合いの中気合でリアがブレーキを言う通りにすると、ミスケーキは突然機械的な大きな駆動音を立て、ひとりでに動き始めた。その動きは例えるならば馬だろう、首を振りタイヤを跳ねさせ、明らかに普通の挙動ではない。その激しい動きでイヨヨを跳ね飛ばしたが、予行練習で散々見た仕様だ、怯むことはない。練習ではリアも散々吹き飛ばされたのだから、彼女も少しくらい同じ目に合うべきだと思ったから、あまりリアは同情しなかった。数秒してそこに現れたのは、前後タイヤがそれぞれ分割し、高さ二メートル程の二足歩行と化した自律式稼働ロボットである。

『ミスケーキ号自立歩行対戦モードッ! 決闘自転車部・スクリュー二輪部・曲芸自転車部・滞空二輪部、おまけに競輪競技部から少しずつこっそりくすねた超技術を組み合わせれば、ストーカー風情敵ではないわー! きゃあああケーキちゃんかっこいいよー!』
「フミンちゃんさ……こっちは割りかし危機的状況なんだよ。もっと気を引き締めてほしいな」

 ヘルメット内蔵カメラで愛車の勇姿を観戦するフミンはリアの注意を他所に、なんとも呑気なものだった。「終わった……って思いましたぁ。絶望感エグめでした。あたし、リア様ほどじゃなくても人並み以上には自転車乗れると思ってたんですが……あんなの出すなんて反則ですよぉ」「やろ! でも改造の手柄はシジュが八割やから、勝てたのはシジュのおかげやで」「たった数時間でやってたよね? あんな改造普通の自転車競技ではしないんじゃ?」「お、お恥ずかしながら……趣味で、ちょこっと」――趣味でロボットを可能にするシジュの改造スキルは後ほど、自転車部の他の三人から恐れられるか、呆れられるか、大絶賛を受けるかの見事な三択に分かれたことを記しておく。そして度重なる重改造の結果ミスケーキの寿命が大分と縮まったことも記しておく――「えっそうなん聞いてへんねんけど! あ、でもロボになった末路壊れるって物語としては結構アリかも……」。

「やーめーてー! いやぁっ、うげぇ、暑苦しいですぅぅ!」

 突如完成した究極自転車ロボに立ち向かえるはずもなく、ストーカーイヨヨは呆気なくロープでぐるぐる巻にされた。ほんのり湿った地面に転がしていると、程なくして別動隊のフミンとシジュも畦道の現場に合着、みっともなく抵抗するイヨヨを囲んで覗き込み、あたかも焚き火の周りで暖を取るかのように三人はしゃがみこんでいた。

「暑いだろね〜……動けないってのもかなりのストレスやろうな」
「で、どうしますかコレ」
「コレぇ⁉ あたしってコレ扱いですかぁ!」
「ひとまず喋らせない? 一通り話せば少しは情状酌量の余地あるかもしれないでしょ」
「なんにせよキミの自転車は没収させてもらうでッ。まったくウチの大事な大事なリアをつけ回しおってからに! このアホッ。アホ梅ッ」

 優しい刑事のリアと怖い刑事のフミンのようである。なんだか怖い刑事の方はニヤついていて違う意味で怖い。

「リア様を好きでいることが、陰ながら見守ることこそが私の、初めて見つけた青春だったのに! お前ら、あたしのささやかな青春を邪魔するのかぁ! あたしの時間を奪うなよぉ!」

 イヨヨのその言葉を聞いて、三人が三人、互いに顔を見合わせた。互いが自転車部と自分の関わり方について、どのように悩んでいるのか、何を見つけられないでいるのかはわかりっこないし、話しても意図の奥深くまでは理解してもらえないかもしれない。だがその瞬間だけは、これまでで一番他の二人が言いたいことが、言葉を介さずとも心にするりと入ってきたと思った。誰ともなく口を開く――四人目の仲間に仕立て上げる予定の女子に向かって、非常に素敵な、不敵な笑みで。

「奇遇やね。まったく同じこと考えてた! 同士だ!」
「この夏休みで一緒に考えませんか?」
「まずはお友達からね。仲良くしましょ、イヨヨちゃん」

 この答えの無い長い長い道のり。
 その長すぎるほど長い果てしない旅路を、若く青い彼女たちはまだ漕ぎ出したばかりだった。「あなたは、どうやろ。今はどのへんを漕いでる? 道の途中でなにかに気づいた? もう漕ぎ終わった? 自分だけの大切なものを見つけられた? よかったら、教えてよ」――フミンはあなたに向かって、露骨すぎるほど露骨に、このお話のテーマみたいなものを投げかけた。

自転車部めたメタ進路相談

執筆の狙い

作者 辛澄菜澄
163.51.23.147

同人誌の寄稿用に書いた中編です。10000字を書こうとしたら30000字になってしまいました。メイン三人をそれぞれしっかり掘り下げたのが長くなった原因です。
でもこのラストシーンを作るには三人の感情を見せておく必要があったのです。
とにかく長いので、感想が少なくなることは覚悟していますが、最近このサイトを使ってなかったので置くだけ置いておきます。よければアドバイスいただければ幸いです。

青春の空白期間がテーマです。

コメント

クレヨン
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 拝読しました。

 リア、シジュ、フミンの三人がとてもいきいきしているな、と思いました。大胆不敵にして繊細、という一見相反するような言葉が一致する小説だな、という気がしました。

辛澄菜澄
KD113148223125.ppp-bb.dion.ne.jp

クレヨンさん、長いものを読んでいただきありがとうございます。

とにかく賑やかな裏で繊細な感情が実は動いている、というお話が私は好きです。それを目指したいと思って毎回書いているのですが、これがとても難しい。心の機微による人間ドラマが書ける人は凄いです。

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