殉職した猫
社会は取引によって成立し、ときに愛も取引される。
「殉死など馬鹿らしい」
当然のことだ。何を得たところで、命がなければ意味は無いのだから。
しかし、この逸話が伝える者達の愛は破滅を内包しており、破滅をもって完結する。
現代人が彼らの愛を理解することはないだろう。なぜなら、その愛は理性を超越しているからだ。
これは明治時代の物語。とある山村で起こった悲劇である。
裕史は二十歳で官職を拝命し、幾つもの村を管轄する駐在所に赴任した。
彼は自分の管轄区域を小まめに巡回したが、朝から晩まで毎日畑仕事をする美しい女に目がとまった。
静香は既に二十八であったが、実際の年齢より随分と若く見えた。
働き者の美しい女。村人の話から察するに、結婚もしていないようだ。血気盛んな若者に、惚れるなと言う方が無理だ。
静かな山村がまだ朝霧に包まれている頃、裕史は駐在所を出発した。一人で畑仕事をする静香に声を掛けるつもりだった。
裕史は、畑で土を耕す彼女に大声で挨拶をした。
「おはようございます」
静香は鍬を持ったまま何も言わず、じっと裕史を見つめた。
「早朝から大変ですね」
彼女は手ぬぐいで汗をふいたが、やはり言葉を発しない。
「濡れた藁を運ぶのは大変でしょう? 僕が手伝いますよ」
彼女は一切表情を変えず、ただじっと裕史を見ていた。
結局、裕史は言葉を交わすことができなかった。静香の態度を不審に思った彼は、彼女のことを同期に聞いた。
「俺の管轄に綺麗な娘がいるんだ。いつも早朝から一人で畑仕事をしている。一体何者だろう?」
「お前、あの女に惚れたな? 美人だからな。でも、やめとけ。あの女は『おばさ』だぞ」
「おばさ?」
「なんだ。知らなかったのか」
彼は『おばさ』のことを話し始めた。
「古くから伝わる奇妙な風習でな、末の娘が、自分の人生を一家に捧げるんだ。外の人間と話すことばかりか、名を名乗ることさえ許されない。村祭りにも参加できないし、村の外に出ることもできない。恋も結婚も禁じられて、ただ黙々と毎日家のためだけに働き、一生を終えるんだ。要するに『おばさ』ってのは、人減らしを兼ねた奴隷制度だ。だから不運にも『おばさ』になった娘たちは、みんな心を失った人形みたいになってしまうんだ」
裕史は静香を不憫に思ったが、結婚は諦めざるを得なかった。
ある日、駐在所の裏に一匹の子猫が産み捨てられた。
裕史が朝目覚めると、「みゃあ。みゃあ」と鳴き声が聞こえ、建物の裏に回ると、毛玉のような子猫が瓦礫の上で泣いていた。
「おいどうした? 母親に捨てられたのか?」
不憫に思った裕史は、子猫を「タマ」と名付け、駐在所で飼うことにした。
やがて、彼が徒歩で巡回に出かけると、タマがついてくるようになった。
その日もタマは巡回についてきたが、まっすぐに伸びた農道の途中で姿を消した。ただ、それは珍しいことではなく、しばらくすると必ず戻ってくるのだ。
しかし、その日は中々戻らなかった。タマのことを気にしながら歩いていると、やがて彼の眼前に意外な光景が現れた。
タマが静香の前で寝そべり、彼女になでられていたのだ。彼女は優しく微笑んでいた。その愛情に満ち溢れた表情を見たとき、裕史は確信した。
「心を失った奴隷なんかじゃない。他人との接触を禁じられているから、そう振る舞っているだけだ……」
もう裕史の愛を妨害するものは無かった。彼は毎日静香に声を掛けた。すると、やがて彼女は警戒心を解き、タマと一緒に二人で山菜を採りに行くことも珍しくなくなった。
しかし、静香の家族はそれを良く思わなかった。
ある日、彼女の父が、数人の村人を連れ立って駐在所に押し掛けてきた。
「裕史さん。わしの娘をめぐるこの騒動に、村のみんなが困惑しておる。たとえ駐在さんであっても、古き良き掟は守ってもらわにゃ困るんです」
だが裕史は、田舎の名士たる駐在所員の権威を使い、半ば強引に彼らを説得した。
「いつまでも奇妙な風習に染まっていてはだめです。政府は正式に奴隷制度を禁止したんですよ」
「でも! 掟は守らないと!」
「仕方ない。なら本職から本庁に通報します。そしたら皆さんは、全員官憲に逮捕されるかもしれないなぁ」
村人はうろたえた。
「静香さんは本職が保護します。いいですね?」
村人は何も言い返すことができなかった。
静香は裕史を愛し、その職務を支えた。
彼女は裕史が駐在所を留守にする間、拾得物を受理したり、たまに訪れる旅人の道案内をすることもあった。
警官の俸給は良かったし、駐在所員の妻には手当が支給されたから、二人は安心して暮らすことができた。
しかし、彼らは子宝に恵まれなかった。
裕史は健康な若者であり、静香も八歳という年の差を感じさせないほど若々しかったから、なぜ子供ができないのか、不思議でならなかった。
それでも寂しくはなかった。二人にはタマがいたからだ。
ある日、静香は制服の手直しをしている際に、指に針を刺してしまい、水で冷やしても血は止まらなかった。
そのころ裕史は着物姿で老婆の世間話につきあっていた。田舎の駐在所ではよくある光景だ。
タマは事務机に寝そべり、老婆になでられていた。年寄りの癒しはタマの唯一の仕事だった。
そのとき、少年のような顔立ちをした警官が、息を切らして駐在所に駆け込んできた。
「先輩! すぐ本署に来てください!」
「なにがあったんだ?」
「話は後で! 自分は先に行きますので急いで下さい!」
裕史は老婆を静香にまかせ、綺麗に手直しされた制服のそでに腕を通すと、金色のボタンをとめた。
「あなた。気をつけてね」
「心配しないで。また猪でも出たんだろう」
静香は不吉を予感し、タマは自転車をこぐ裕史の背中をじっと見ていた。
裕史が本署に着くと、同期や後輩達が整列しており、その前に署長が立っていた。
裕史が慌てて列に加わると、署長が悲壮な面持ちで口を開いた。
「今回は死を覚悟せねばなるまい」
裕史は署長に尋ねた。
「なにがあったのですか?」
「隣村でコレラが発生したんだ。村人の移動を禁じたが、このままでは死を待つだけだ。緊張は限界に達しており、暴動の怖れもある。消毒液を荷車で村に運び込み、消毒の仕方を村人に教えなければならない。しかし、彼らは消毒液を毒薬と疑っており、激しく抵抗することが予想される。また、感染の拡大を防ぐため、単身で村に入ることになる。これは命懸けの任務だ。だから、妻子ある君達に命ずることはできない」
「では誰が行くのですか?」
「私が行く」
「署長にだって奥さんがいて、孫までいるじゃないですか」
「それに署長が不在で、誰が指揮をするのですか?」
すると後ろの列から声が聞こえた。それは裕史をむかえに来た後輩だった。
「自分に行かせて下さい。僕はまだ独身だし、体力だって自信があります」
その声は震えていた。死に怯えていることは明らかだった。
裕史は同期と後輩達に言った。
「俺が行くよ。俺だって体力には自信がある。大丈夫。どうってことはない。署長、自分に行かせて下さい」
裕史は駐在所に戻ると静香にわびた。すると彼女は穏やかな口調で言った。
「一緒になったときから、こんな日が来ることを、覚悟していました」
しかし、彼が抱きしめると彼女は泣いた。
仄かな光の中で二人は肉体をむさぼり、愛は狂熱を帯びた。
裕史は彼女を抱きしめ、静香は彼の背中に爪を立てた。死を圧倒するまでに情念は燃え上がり、津波のごとく押し寄せる快楽は、やがて穏やかなさざ波と化した。
乱れた髪をととのえた静香が、「私のことは気になさらず、職務を全うして下さい」と言うと、裕史はまた彼女を抱いた。
そんな二人を、タマが部屋の隅から見守っていた。
翌日の正午、裕史は隣村の東にある社の森から、同期や後輩達に見送られて出発した。
当時はコレラにまつわる迷信が信じられていたから、署員は神社に待機し、裕史の無事を祈願したのだ。
裕史が消毒液を積んだ荷車を引いて村に入ると、ただならぬ異臭が鼻を突いた。奥へ進むにつれて、それは激しさを増し、やがて悪夢のような光景が目の前に広がった。
黒い焼け跡の中に、焼けただれた遺体が散乱していたのだ。
さらに村の奥へ進むと、女の泣き声が藁葺きの家屋から聞こえた。近づいて格子窓から中を覗き込むと、若い女が幼子を抱きしめて泣いていた。
夫らしき男が、「だめだ! 離れるんだ!」と説得をしても、女はその手を払いのけ、息絶えた我が子を離そうとはしなかった。
そのとき、裕史は背後に人の気配を感じた。
「村を焼きに来たのか! 人殺しめ!」
「荷車にあるのは毒薬だろ!」
「だまされないぞ!」
村人は鎌や竹槍を手にして迫った。
すると、そこにタマが現れて、腹を見せて寝転がったのだ。
「タマ。だめだよ。忙しいから遊んでやれない。村の皆さんに、消毒の仕方を説明するんだから邪魔しないでおくれ」
裕史が笑顔でタマを叱ると、緊迫した空気がほぐれ、村人はみな武器を下ろした。
裕史は消毒液の使い方を説明すると、村人を励まし、タマと一緒に村を後にした。
しかし、やがて悪寒と高熱が彼を襲った。
彼は廃墟と化した古民家に入り、己の死を覚悟した。
彼は身をすり寄せるタマの首輪に、手紙の入った御守り袋をくくりつけ、タマを外に出して引き戸を閉めた。
静香はいつものように米をとぎ、夫の好物である山菜を切っていた。すると、そこにタマが現れて、彼女の着物に爪を立てた。彼女はその様子から異変を察し、御守り袋の中の手紙に気づいた。
「僕は疫病に感染し、もうすぐ死ぬ。神社に待機している署員に、僕の遺体を家屋もろとも焼いてくれと伝えてほしい。静香。本当にすまない。あの世で、君の幸せを祈っている」
署員が古民家を遠巻きに囲み、大声で裕史に呼び掛けていると、裕史の後輩が家屋に入る許可を署長に求めた。
しかし、静香はきっぱりと言った。
「やめて下さい。あなたを道連れにすれば、主人は悲しみます」
そう言うと彼女は制止を振り切り、彼のもとに走ったのだ。
裕史はもう息絶えていた。
静香は彼の亡骸に添い寝をすると、その耳元で嗚咽を漏らした。
「私をおいて逝ってしまったのですか。もう抱いてはくださらないのですか」
静香は着物を脱ぎ捨てると、裕史の亡骸を慈しんだ。
誰もこの淫らを、この冒涜を責めることはできないだろう。愛の狂熱を、愛の何たるかを知らぬ者達に、彼女を責める資格などないからだ。
静香は着物を着直して乱れた髪をととのえると、ふところからマッチを出して藁に火をつけた。
火は瞬く間に燃え広がり、もうもうとした煙が家屋をつつんだ。木材の割れる音が響き渡り、紅蓮の炎は天をもこがした。
火が静まり、裕史の後輩達が焼け跡を捜索すると、川の字に横たわる遺体が発見された。
それは幸薄き夫婦と、一匹の猫の亡骸だった。
終わり
執筆の狙い
大幅に推敲した4400字の作品です。よろしくお願いします。