作家でごはん!鍛練場
えんがわ

浜辺のバケーション

 ここカンボジアへ日本から届いた小包は、とても見慣れていて、そしてとてもユニークなものだった。

 島の観光地化プロジェクトの第一弾として作られた、海沿いの広く大きな道には今日も他の車は一台も走らず、でも、だから、くっきりとした青い空とエメラルドグリーンに輝く海が視界一杯に広がっている。
 日本人の女性のなぎさは、本名かどうかは分からない、日本語で海という意味の名前というのがなおさら嘘っぽく聞こえる、助手席からその景色を僕ごしにずっと見つめている。僕も気恥ずかしく、視線を逸らして海の景色に眼を向けている。
 車のBGMはコールドプレイという洋楽バンドのイエローやらパラダイスやら、日本人から見ると通ぶっているようで、それでも外国人からはメジャーすぎる少し甘い歌声だ。ボリュームマックスでかけても良いよ、誰もいないから。と言ったが、ほどほどが一番ムードが出るのよ、それに礼儀を失いたくないわ、とのことで、窓から抜ける風と一緒に心地いいリズムで鳴っている。
「ソックはなんで日本語勉強しようと思ったの?」
「お金になるから」
「へー、わたしみたいな女の子のツバメになれるから?」
「少し試したね。僕が日本語をどれだけ出来るか。若いツバメ、女を食い物にするヒモ。それくらい分かるよ。勉強したよ、日本語」
「ほんと流暢」
「お金が一番だけど、実際覚えるきっかけや教材になったのは日本のアニメだね」
「へー、ちびまるこちゃんやサザエさん」
「うーん、そういう水戸黄門的なものじゃなくて、鋼の錬金術師や進撃の巨人と言った……」
「へー、日本のわたしでも名前しか知らないよ。そんなアニメ。深夜とかに放送してるオタク向けのものじゃない?」
「そうそうオタク。外国でもnerd、fan boyとこの手の少し蔑称も含んだマニアの名称はいろいろあるね。なぎさでも観たことのあるアニメならクレヨンしんちゃんがカンボジアでは有名かな。アジアではしんちゃんは有名だよ。中国でもベトナムでも、それとインドでも」
 なぎさはクスリとし。
「本当にネイティブ顔負けの日本語ね。得意分野になると早口になるのも含めて」
 本当はそれだけではない。なぎさがゆったりとした喋り方で分かりやすい発音をしてくれるのと、気軽に気楽におしゃべりを楽しめる雰囲気に包まれているから。それ以外にもあったりするが、今はビーチを楽しむ時だ。

   *

 海の水はそこまで透明度はない。汚れているわけではないのだが、小さな川が近くに幾つも流れているためどうしても澱んでしまうのだ。澄んだ波間のビーチだったら、観光地計画は成功していたかもしれない。といってもまだ失敗と決めつけるのは早いとは島の長の談だが。
 それでもなぎさは笑っている。
「水なんてどうでも良いじゃない? 水道の蛇口から出る水がどこだっていちばん透明よ。それよりも砂。ここの砂、きれー。それにさらさらしてる。白くてさらさら。さらさら、さら。お土産にでもしたら売れるかもよ」
「どこにでもある砂だよ」
「ソックはわかってない。ソックにはどこにでもあるようで、わたしの人生ではここにしかないものよ」
「へー」
「なによ」
「詩人だなって」
「ちゃかさないで」
「でも、わりと普遍的なことを言っている気がする。どう? こういう言葉を殺し文句にすればみんな惚れるんじゃない? それならふられて失恋旅行をしなくても済むし」
「失恋なんてしてません!」
「へー、無理しちゃって」
「だから、無理やりイロコイ沙汰にしないで」
「それなら、僕、若いツバメに立候補しようかな」
「えっ?」
「ひと夏の恋人ごっことか、ここでは割とよくあるよ」
「あら、わたし、甲斐性なら恋愛運よりもっとないわよ。ソック君」
 意外と冷静な反応が帰ってきた。少しだけ本気だったのだけど。
「まー、オタクと付き合うような大和撫子はいないかー。わかりました。わかりましたよ」
「すねないで。それにしても本当に日本語上手ね」
「ドウイタシマシテ」
 なぎさは知らないが、日本とカンボジアの友好関係は日本が思っているよりも厚い。カンボジアのアンコールワット、世界遺産にも登録されている大切な財産だが、あれは一時期の武装集団ポルポト派によってめちゃくちゃに破壊された。破壊されて、盗掘されて、地雷原を敷かれた。それを修復したのが日本人。石を積み、直し、また日本から石工を呼び、石の加工から修復のノウハウを現地のカンボジア人に伝えた。そうしてアンコール遺跡群は今またカンボジアのシンボルとしてスポットを浴び、また貴重な観光資源になっている。他にも流石にバブルのころほどではないが、今でも様々な日系企業が進出している。僕の父も日系企業に勤めていて、日本人も日本語も幼少から身近だった。でも、そういう重い事情は伝えなくてもいい。なぎさは楽しく、カンボジアのビーチを楽しみ、変わった通訳のような従者との束の間の逃避に浸かるだけでよい。

 なぎさは水着で砂浜のパラソルでだらしなく昼寝したり、磯部のごつごつとした岩山で磯遊びをしたり、海をちょこっとだけ遊んだ。なぎさは泳ぐのは得意そうではなく、わざわざ浮き輪まで用意したのだが、ちょっと泳いで帰ってきてしまった。
「せっかくの独占なんだからもっと遊べばいいのに」
「その一人っきりというのがいけないのよ」
「ふうん」
「孤独ってわかる?」
「そりゃ僕も感じるよ。みんなでカラオケした後に寝付けない一人っきりの夜とか」
「なんで孤独を感じるかっていうとね。こんな広い海に自分が一人だけでぷかぷか浮いている。寄せ続ける波に、身体を取られれば、誰も助けてはくれない一面の海。溺れて死んでしまう。そんなのわかったら、呑気に遊んでられないわよ」
「溺れて死ぬっていうのは、確かに一番孤独な死に方かもね」
「縁起の悪いこと言うわね。でもたぶんそう。だから一緒に泳ごう」
 僕は必要以上に肩をすくめたジェスチャーをして。
「荷物どうすんのさ」
 パラソルには車のキーやら財布やら着替えやら一式備えてある。
「誰もいないじゃない。ちょっとだけだって」
「いや。ここの島の人たちはみんないい人たちだよ。だからこそ、ここで〈何か〉が起こったら大問題になるし、僕はガイドを首になるよ。よく考えてごらん。ここでの休暇は長いんだろう。また今度、荷物を絞って」
 ここまで言って、絶句してしまった。なぎさが本当に悲しそうな顔をしていて、その今まで見たことのない悲しい顔がなぜかとても可愛く思えたから。細い眉、沈んだ唇、同じく沈みながらわずかな懇願を残す瞳。

 けっきょく、二人して一時間ほど、海間をぷかぷかと泳いだ。お互い何も言わなかったが、とても心地いい時間だった。

 それからなぎさは太陽に焼かれた。若いから出来ることだろう。彼女には太陽は味方だったし、今はそれが必要だったように思えた。
 だけど、その時も「ずーっと」というわけにはいかなかった。
「なぎさ、急いで着替えて」
 砂を落とすタオルと、水着の上から羽織るワンピースを渡す。
 それからパラソルの砂の土台をかきわけて畳む。両手いっぱいに荷物をぶら下げて、車の方に駆ける。
「天気ね!」
「ご名答! たっぷり降るよ!」
 東南アジア特有の短期間の大雨に、天気の変わりやすい海辺の空模様が加わる。車に乗って荷物を整理している内に、どかっと本降りになった。
「ねー、いいねー、ここなら洗車しなくても毎日きれいねー」
「そうだといいんだけどねー」
 車のワイパーの音を洋楽のBGMが上書きする中、なぎさは少し残念そうに海辺を見ていた。
「ねー、夕日があの水平線に沈むの。見たかったな」
「いくらでも見れるよ。休暇は長いんだから」
「ロングバケーションね」
「そっ」
 僕となぎさの関係もこれから。

   *

 それからの休暇、毎日のように僕となぎさは海に出かけ、そして他愛もないおしゃべりや海泳ぎに日々を費やした。
 どこにでもあるガイドと若い女性の関係のように、僕らも肉体関係を持った。でも、どこにでもある、とはちょっと違ったかもしれない。僕たちは休暇を心を十分に通わせた恋人のように日々を過ごし、最後にお別れの二日前に二人の今までを忘れないでと肉体の繋がりを一度だけ持ったのだ。そこには性欲は確かにあったが、しっかりした二人の人間としてのつながりがあったように思う。

 思うとぼやけた言い方になってしまうのは、あれから9か月が経ったからだ。でも、むしろ9か月たっても若すぎる僕の身体を捉えさせ続けたのは、彼女のユニークなプレゼント。今も落ちる砂にあるのかもしれない。まあ、過疎化した島にカワイイ女の子がいないのもあるが。
 砂がさらさらさら落ちる。蓋に星座をあしらった砂時計。星座は僕の誕生月であるみずがめ座だ。その砂時計はちょっとしたメッセージカードと一緒に送られてきた。
「あなたの国の島の砂と、わたしの生まれた国のオーダーメイドしてくれる砂時計屋さんから。あなたのビーチの砂もそこに流れる時間もとっても素敵よ。それを忘れないように」

 白い砂がこぼれ、落ちきった。かたんと息をついて、カップヌードルのふたを空ける。生卵を入れる。この習慣はなぎさから習った。ずるずると少しピリ辛なカンボジアメイドの味のインスタントっぽい麺をすする。卑怯なプレゼントだ。疲れた時、めんどくさくなった時に、否応もなくなぎさを思い出してしまう。そして励まされてしまう。
 なぎさとはぽつぽつとメールのやり取りをしている。今年の夏も来れるかな、というつぶやきが宝くじのように嬉しい。ソックも日本に来てごらん、こんなに日本語出来るのに行かないのは損だよ、というつぶやきに、満更でもない気持ちになる。
 これから自分の砂時計はどのような時を刻むのかはわからない。わからないけど、楽しいものになる。そんな予感の中にいれるのはわくわくする。

 また夏が来る。

浜辺のバケーション

執筆の狙い

作者 えんがわ
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カンボジアにもカラオケはあるみたいです。

コメント

茅場義彦
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ロマンチックでやすね 


コールドプレイのイエローはもう懐かしすぎるぞ

20年前はやったか

えんがわ
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>茅場義彦

ありがとうございます。

砂時計専門店で星座の砂時計を買って眺め、自分の中のロマンチックってなんだろうと書いてみました。
ただ、逃避的で軽いような部分も出ているような。それは良くも悪くもかな。

コールドプレイはレトロっすね。ああいう何か情緒のある声は、やっぱ海辺のドライブでいいかなーって。
もっと現代的なチョイスのセンスがあれば良いのですが。全体的にレトロ感が漂い過ぎてるかなと気付きになりましたよ。ありがとです。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

敬称が抜けていました。

茅場義彦さん、ごめんなさい。あわわ。

いかめんたい
M106073000002.v4.enabler.ne.jp

えんがわ様

こんばんは。
読ませていただきました。

それで第一印象は、なぜ? カンボジア人の男性? でした。
すごく意欲的な挑戦という気はしたのですが、せっかくならもう少しカンボジアらしさを感じさせて欲しかったという気もします。

ちなみに私はカンボジアに行ったことがありません。それだけにこの島の様子を想像するのは難しかったですし、そもそも主人公の語彙からして、「洋楽バンド」「日本人から見ると通ぶって」「外国人からは」「バブルのころ」などなど、どうしても語り手はなんだか日本人ぽ過ぎないかと思わされてしまうところがありました。

あと私はそもそも、恋愛物は書くのも読むのもあまり得意ではないのですが、その上で、もう少し波乱とでもいいますか、トラブルとかライバルとか隠された過去とか何かが出てこないとちょっと腑に落ちないとでもいいますか、主人公ただ運良くいい思いしただけじゃね、的なことは少し思ってしまいました。

勝手なことばかり言ってすみません。
読ませていただきありがとうございました。

えんがわ
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>いかめんたいさん

カンボジアらしさは出ませんでしたねー。
やっぱり現地に行ったことが無いと、リアルの空気を作るの難しかったなー。

あとはお話は、こういうものを書いたら、こういう印象を持たれても仕方ないなというところはあるのかな。
ライバルとか出してもねー。なんだかなー。
自分の書きたいものを100%表現できたわけではないので、そこを突き詰めていけたらな。

なんか無駄な時間を過ごさせてしまい、ごめんなさい。ありがとでした。

スーピ
p7606195-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp

 夢想的でまさに一時のバケーション感を読み取れました。
 ヒモの別の言い方で若いツバメって言葉があるんですね、知りませんでした。

青井水脈
om126158153014.30.openmobile.ne.jp

読ませていただきました。
ビーチと何気ない会話で非日常的な雰囲気を味わえました。
ひと夏の恋で終わらず、数カ月経っても彼女、なぎさを思い出しながら、また夏が来るというわくわく感を秘めて終わりーー。二人が将来を約束し合うのはまだまだ遠そうだけど、さすがにそこまでくると話が出来すぎですし、今回は期待感を持って一旦フェードアウトでよかったと思います。想像する余地がありますし。

えんがわ
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>スーピさん

夢物語ですねー。こういうところあったらいいなー。人のいない綺麗なビーチっていいなーって。
ツバメとヒモは全くイコールというわけではないと思うのですが、似てるんじゃないかなーって思って使いましたーん。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

>青井水脈さん

あー、なるほどー。
自分は普段は日常的なものというか普通の中の何気ない話を書く傾向にあると自覚をしているのですが。
なんか今回は「非日常」みたいなバケーションになったよー。
構造としてはなぎさが休暇を楽しむ形ですけど、主人公もこき使われながら一緒に楽しんでるのが伝われば。
そして読み手もリゾート感を感じていただいたら最高ですよ。

エピローグに砂時計を使いました。なんか砂が流れ、時が流れていく感じが出ていいかなって。インスタントヌードルを合わせたのはどうでしょう。
自分なりにこだわったところなので、そこで想像を働かせるくれるのはほんと嬉しいです。

でも、肉体関係を持ったかどうかというのは、匂わせる感じで終わらせたほうが上品だったような気もします。でもはっきりした方がすっきりするかな。そこはわかんない。

青井水脈さんのHNは、夏に見ると涼しくなりますね。ありがとでしたー。

しまるこ
133.106.57.139

ソックが、私が考えているカンボジア人と違って、日本人的で、情緒深く、静かな恋愛をするので、日本人同士の恋愛のように見えました。カンボジア人らしく陽気なキャラ設定にした方がいいということではなく、カンボジア人ならではの性質というのは必ずあるはずでそれが見えてこなかったような気はします。ソックではなくえんがわさんになっているような気がして、私はソックを見たかったかなぁと。えんがわさんの描こうとしている世界観、設定、描写に対して、今作はキャラクターが追従させられている部分がある気はしました。今作は幻想的な方へ大きく舵をとり、リアリティを維持するのは難しかったかもしれませんが。

一面的なものや一色の一風景をクローズアップさせ浮き彫りにすることは成功していると思いますし、展開の変化も成功していると思いますが、色調の変化には物足りない感じはあるような気がします。無理にいろんな色を使う必要はないとは思いますし、無理な毒は必要ないと思うけど、自然な毒は必要かなぁと思いましたね。えんがわさんにはけっこう自然な毒があって、それが良い形で知性に裏付けられていると思うからです。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

拝読しました。

コールドプレイ。「Paradise」からの「Everglow」ですかね(笑)
えんがわさんの小説は、やはり海岸がよく似合う。

ラストはもう少しつっこんで、
「日本語を本格的な習ってみよっかな~」
的なニュアンスが醸し出せたらよかったかな。なんて、個人的には思いました。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

>しまるこさん

あー。キャラは作れませんでしたよーん。
キャラクターを設定するまでもなく、素のままに書いてしまい、そのキャラの価値観というかフィルターみたいなものがまんま自分のままという気もします。折角の異文化だったので、その辺をもっと調べて書けたら良かったっす。講義で東南アジア史と文化史とかそこらへんの風土の街歩きみたいなのは観ていてそこで書けるかなーって思ったんですが、おっしゃる通り「人」という部分では東南アジアっぽさがまったく無かったです。反省部分ですねー。んー。

色彩はナチュラルにして、バカンスということで「またり」が中心なのですが、奥行きが足りないというのはごもっともだと思います。でも、自分の書いてる文章ってそんなに毒あるかなー。薄味な気もするのですが。

自分はあんまり知性みたいなのは感じさせたくないと思ってるので、むしろその言葉はなんというかもっとだらけた感じで感性で書けるようになりたいと思いました。

難しいですー。豊かな知識が背景にあればこそ、感性でダラーっと書いても破綻なく独特の風味が出るような気がして、そういう書き方ができる作家さんには憧れます。自分は今回はカンボジア人というか東南アジアの人の気質を、把握しきれてなかった、もっと肉声を調べないと、こういうのは説得力が出なかった。やはり自分とは離れたものを書くには、(ネットであろうと)取材はきちんとやらないとなって痛感です。通関。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

>凪さん
どうもです。先日は凪さんの作品の感想欄で混乱を生んでしまい、すいませんでした。

海なし県に住んでますけど、海は好きです。たまに遠出して海に行きます。
最後は綺麗に閉じようとしすぎたかも。もっと余韻の出る書き方があったかな。

>「日本語を本格的な習ってみよっかな~」
こういう変化というか流れを踏まえた落とし方は、いいですねー。上手いなー。これに負けないものを書きたかったな。

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