——また、明日でいい。
1
人を殺したいと——ふと、思った。
別に誰でもいいわけではない。無差別殺人鬼になろうなんて気はありませんとも。
どうしても殺したい奴が、一人いるのだ。
話せば長くなるが、可能な限り噛み砕くのでどうか耳を傾けて貰いたい。
可能な限り噛み砕く——とは言ったが。……さて、どうしたものか。遡れば幼少期になるのだが、そこから始めれば長話になること間違いなしだろう。
おそらくだが、これは短編だ。多くても七千字。わたしの幼少期から記すのであれば、八万を超える長編になってしまう。
……いや、これは過言だな。
八万字を超えるほど厚みのある人生を送った覚えはない。
と、話が逸れてしまった。
路線を戻そう。
端的に語るのであれば、結論から告げた方が早い。
わたしには兄がいる。……いや、『いた』と言うべきか。
彼は既に故人なのだから。
その兄を——亡くなった兄を、馬鹿にされた。
それはつい先日のこと。
わたしの兄を馬鹿にした同級生を、たまたま見つけてしまった——それも、街中で。
この日がなければ、わたしは人を殺そうなどとは思わなかったはず。
馬鹿にされたという嫌な記憶を引き摺りながらも、それでも社会に適応し、なんとなくで生きていたろう。
だが見つけてしまった。
この目で捉えてしまった。
運命とは残酷なものだ。……いや、もしかしたらこれは必然なのかもしれない。
なるべくして、わたしは彼を見つけたのかも……。
それが横目を過ぎてからの記憶はほとんどない。無我夢中で尾行して、家を突き止めたところでようやく我に帰る。
いやはや、どうやって殺したものか。
殺人は初めてだ。初めてじゃない方が驚きなのだが。
初の経験というのは恥ずべきものという風習——同調圧力とも呼べる謎の空気があるものの、こと罪を犯す行為に限っては、胸を張って初めてだと断言しよう。
初めてとなれば勝手がわからないのもやむなし。どうやって彼を殺そうかと、わたしは知恵を絞った。
言わずもがな、殺人は重罪。人殺しはいけないこと——と、有名な曲の歌詞でも登場するくらい。
エジソンは偉い人、だったか? まぁ、どちらでも些細なことだ。
今からなら引き返せそうだが——やるとなれば完璧にしたい。
そこでふと、どうやって人を殺すのかという疑問が降って来る。今更過ぎて失笑されてしまうかもしれないが、常日頃から人の殺し方に思考を巡らせているわけもなく。
今になって初めて、わたしは『殺人』を計画したのだった。
彼を殺すのはその後からにしよう。
決意し、感情のままに握ったシャープペンシル——乏し過ぎる凶器を筆箱へと戻し、帰路へと着く。
彼を殺すのは、計画が決まってからでもいい。命日が伸びたな、と。わたしは内心でほくそ笑んだ。
2
兄を馬鹿にされたのはわたしが中学生の頃。
今になって振り返れば、『馬鹿にされた』と断言するのは些か早計か。
本人がどういった意図でその発言を行ったのかは定かではない。人の心情をむやみやたらに推測するものではないだろう。
それは最早、推理ではなく妄想の域。人の心情など、当の本人にしかわからないのだから。
その当の本人でさえ、わからない場合もあるため手の施しようがない。
彼がわたしの亡くなった兄を馬鹿にしようとしたのかどうかは依然はっきりしないままだが、しかし、わたしはそう受け取った。
本人の意図とは関係なしに、相手がそう受け取ったのならば、それがそのまま真実となる。
言葉とはそういうものだ。形を持たないが故に、不確定。
時間や場所。発信する端末によっても、コロコロと意味が変わってしまう。
この長い歴史の中で、意味が変わってしまったもの、または失われたものなど多く存在するだろう。
代表的なもので言えば『古語』か。
あはれ。たまふ。をかし。
最近で言えば背広や帳面。
もっと時代を進めれば、『マブダチ』や『ナウイ』なんかだろうか。この辺りは今でもギリギリ意味が通じそうだ。
使われなくなった——となればまだ飲み込めなくはない。
が、同じ言葉で違う意味に変わって仕舞えば、ため息も出るというもの。
例を挙げるならば『雰囲気』。
これは幕末から明治にかけては大気を意味する言葉であったが、今ではすっかり場の空気を示す言葉に変わってしまった。
あとは『全然』なんかもそうか。
本来これは否定の前——『全然〜ない』という意味合いで使われるべき言葉だ。しかし今はどうか。
全然大丈夫——なんて言い方は、耳にすることもゼロではない。
閑話休題。
話を戻そう。
言葉とは歪だ。受け取り手次第で、如何様にも意味が変わってしまう。言い換えれば、受け取り手に全てが委ねられているということ。
乱暴な話だって? そうかもしれない。
だが、今は目を瞑っていただこう。
さて。
話が長くなってしまったな。
ここいらで章を変えておこうか。
3
わたしの兄は素晴らしい人だった。尊敬する人物は誰かと聞かれれば、わたしは間違いなく『兄』と答えるはず。
それほどまでに、慕っていた。
偉人を答える者が殆どだろうが、赤の他人——それも亡くなった奴の何がわかるというのか。
いや、『故人』という点に於いては兄とて同じだが、そこは置いておこう。
偉人を挙げろと強制された場合、わたしの場合は福沢諭吉か。理由は一万円札だから。
幕府の使節団に参加し、欧米文化を日本に広めたという認識だけで、何をした人なのかは、正直よくわからない。
日本史を趣味に持つわたしが出せる精一杯の豆知識は、『居合に秀でた立身新流の免許皆伝を持っている』ということくらいか。
こんな薄っぺらい雑学しか出てこない程度には、わたしと偉人は無縁である。だからこそ、より親しく——そして知っている兄を、わたしは尊敬する。
文武両道。眉目秀麗。才気煥発。寛仁大度——と、人を褒めるに当たる四字熟語を思いつく限り列挙してみたが、これが兄に当てはまるというわけではない。
彼は、完璧超人ではないのだ。
勉強はそこそこ。だがテストの点数が六十点を下回ったことは殆どない。本人曰く、「授業を聞いていればこんなもの」とのこと。
その話を聞かされた時、わたしは授業は聞くものなのかという強い衝撃を受けた。
時折だが、午前中だけ学校をサボり友達とカラオケなどにも行くらしい。
真面目とは言い難い。世間一般の目で見れば『不真面目』に当たる人間だろう。けれどそんな兄を、わたしは心の底から慕っていた。
人当たりがよく、素直。歳上から好かれやすい印象がある。
彼を一言で表すならば『生きるのがうまい』か。
適度にサボり、適度に力を入れ、適度に人と接し。
適度に、生きていく。
人生の模範とすべき生き方だろう。
兄のようになりたい。
兄ならば将来どうなるか。
どう——成長するのか。
そんな期待を膨らませていたが、その思いも虚しく、彼は二十一という若さでこの世を去った。
当時のわたしは十四歳。
兄の未来を知ることなく、その物語は幕を閉じたのだ。
そして、亡くなって気づく。そう言えば、家の中での会話は殆どなかったな——と。一方的に尊敬の念を送っていただけで、交流はそこまでなかった。
ああ、けど。
強く記憶に残るもので、一つあったな。
風邪をひいて小学校の修学旅行に行けなかったわたしを、兄は旅行に連れて行ってくれたのだ。
場所は熱海。電車に揺られて二時間弱。
京都や北海道のような長旅ではないが——しかし、今でも鮮明に思い出せる。
兄と二人だけの、一泊二日の小旅行。
これがあるからこそ、わたしは修学旅行に行けなくてもよかったと考えてしまう。
そんな兄を——馬鹿にされた。そう感じた。
高校生の時だったか。正直なところ、なんて言われたのかは深く覚えていない。
馬鹿にされた、というショックが大きく、その言葉を記憶するほどの余裕がなかったのだ。
そしてまたしても話が長引いてしまった。具体的な殺人の計画をする時間もなかったではないか。
まぁ、いい。時間はまだある。
あいつを殺すのは、次の章からにしよう。
4
あいつを殺すことは大前提。その上で、可能な限り警察に見つかりたくはない。この二つを両立することは、果たして可能なのだろうか?
日本の警察は良くも悪くも優秀だ。いや、『悪くも』というのは犯罪者の思考か。
推理小説を一切と言っていいほど読んだことのないわたしからすれば、それはフェルマーの最終定理を超える難題である。
実際問題、フェルマーの最終定理とはどれほどのものなんだ? 詳しくは知らないため比較に出したのは失敗かもしれない。
なんだ? わたしは文系だぞ。文句を言うな。
フェルマーの最終定理の方が難しい可能性もあるため、悪しからず。
ここは大政奉還あたりにしておこうか。
わたしは大政奉還レベルの難題に挑むべく、頭を捻った。
まずは目先の問題を整理しよう。
警察に見つかる条件としては、『死体』と『凶器』の発覚。どちらか一方でも見つかったらアウト。故に、この処理がわたしには求められる。
次に処理する場所。一番いいのは死体の存在そのものを抹消すること。
焼却——或いは、溶かす。
理科の知識しかないが、酸性やアルカリ性の液体は皮膚を溶かしてしまうそう。ならばそれで死体を漬けてしまえばいいのではないか?
硫酸か、はたまた水酸化ナトリウムか。
液体で溶かすとなると、いくつか問題点が上がる。
まずは容器だ。死体を溶かすほどの強力なものとなれば、容器も慎重に選ばなければならない。
理科の実験では、確かガラスの容器を使っていなかったか? ともすれば、ガラスは溶けないのだろう。
死体が入るガラスの容器……うぅむ。現実的ではなさそうだ。
いや、待て。
そもそもそういった劇薬は何に入っていた? ガラスの瓶に入っていたか?
違う。何かプラスチックっぽい白い容器に入っていた——気がする。
あれも溶けないのか?
なんだったか。ポリ……ポリエチレン? ポリエステル?
ダメだ。わからない。あとで調べよう。
仮に容器の問題が解決したとする。
次に立ちはだかるのは薬品の入手方法だ。人を溶かすほど強力な——それも湯船ほどの量が必要となるはず。
それを用意することは、一般人の——それも学生であるわたしに可能なのか?
最近のインターネットは便利だ。なんでも手に入る。そこで注文したとして、万が一警察の調査が入った時、高校の同級生という繋がりからわたしに行き着きはしないだろうか?
更にそこから購入履歴を調べられ、薬品の入手がバレないだろうか?
麻雀なら親の倍満——二万四千点と言ったところか。ギリギリ致命傷だ。
薬品で溶かして処理する作戦は諦めよう。
ずっと頭を動かしていたからか、眉間の奥が軋んでいる。
今日はとりあえず寝ることにした。
あいつを殺すのは、計画をもっと練ってからだ。
そう、また明日にでも。
5
薬品で溶かすがダメとなれば、次に思い浮かぶのは最も容易でシンプル。
それは埋めてしまうことだ。
というか、殆どの場合がこの処理になるのではなかろうか。
田舎の山まで捨てに行くには免許がない。仮にあったとしても他県ナンバーが田舎の山道に向かえば現地の人達が怪しがりはしないだろうか?
近くの山まで捨てに行ってもいいが、家から近過ぎれば死体が見つかった時にわたしの犯行だとバレかねない。
埋める——となると、死体が見つかる可能性を考慮しなければならないのだ。
バラバラにして見つかりにくくするという策もあるが、……そんな度胸、わたしにはない。
殺した顔見知りの人間を自らの手で分解するのは、想像を絶する苦痛になるだろう。
山ではありきたりすぎる。ならばここは歴史からヒントを得てみてはどうか?
応仁元年から永禄十一年の戦国。乱戦の時代。
人が鼻を噛んだティッシュの如く消費されていたあの頃、全ての死体を埋葬するなんて余裕はあったものではない。
民家の畑に死体が転がっていた——なんてのはよくある話だったそうだ。
そう、『民家』である。
木を隠すには森の中と、有名な偉人が言っていたような気がする。福沢諭吉だったか?
人を隠すには人の中。森ではなく、民家の庭に埋めるというのはどうだ。
それも、赤の他人の。
警察も、わたしと接点のない民家に死体が埋まっているとは思うまい。
住宅街を探せば、脚立やら木材やらが積んである、人が住んでいるかどうかもわからないような古い家があるはず。そこに埋めるのはどうだろうか?
処理の方法は固まってきた。次に考えるのは殺し方だ。
ナイフで刺すのが手っ取り早い気もするが、血が周りに飛んだ場合はどうする?
そこから事件の可能性が浮上し、警察が本腰を入れて調査しないとは言い切れない。
血はダメだ。目立つし、処理もめんどくさい。
毒殺、もしくは刺殺がいい。
毒殺は即座に否定させてもらおう。一般人が毒物を入手している時点で怪しい。
消去法的に絞殺。これならば縄があれば済むし、凶器の処理も用意だ。
懸念点は暴れられる可能性だが——そこは臨機応変に行こう。
あと必要なのはスコップか。
家にないため買わなければならないが、あと二ヶ月ほど待てば冬になる。雪掻き用にスコップを買うのは自然なことだ。怪しまれることはないだろう。
決まった。
まだ詰めが甘い気もするが、計画の骨組みが完成しつつある。
今になって震えてきた。
怖いのか?
警察に見つかることが? もしくは——人を、殺すことが?
まだ引き返せる。
引き返せるが——わたしはやると決めた。
そんな簡単に意思を曲げるほど弱い人間ではない。
わたしの兄に対する尊敬は本物なのだ。
やる。やってやる。
来週にでもやろう。わたしは、やるのだ。
6
我々人間は、先人に何かを学ぶことが多い。
歴史に学ぶ。
教えられる。
その最たるものが『諺』ではなかろうか。
過去の——それも、もうこの世にはいない遙か昔の人間に教えを説かれるというのは、なんともまぁ粋な話だ。
その諺の一つを、ここで紹介しよう。
光陰矢の如し。
光は陽。影は月の例え。つまり陽が出て月が沈むまでの時間は矢が飛ぶように早いという意味である。
福沢諭吉の著書、『旧藩情』にもこの言葉が取り上げられていた。
つまりわたしが何を言いたいかだって?
一週間はあっという間ということさ。
いや、本当にあっという間だった。
一週間、侮るべからず。意外と早い。
学校のテスト前も、こんな感覚だったことを今になって思い出す。
一週間なんて一瞬だ。一瞬間だ。
……。
…………。
これは、忘れていただこう。
勿論、スコップは買った。凶器になるロープも、だ。
そして人が住んでいるのかどうかもわからない古びた民家も見つけた。
あとは殺すだけなのだが——少し待って欲しい。
もし日中にわたしがあいつを殺したとして、それを目撃されればどうなるか?
絞殺であれば時間もかかる。その分見つかるリスクも高いということだ。
つまり、犯行時刻は夜に限定される。
そして夜にしたとして——人が一人も通らない可能性を否定できるだろうか? 近くの住民がふとコンビニに行こうと思い至ることもあるかもしれない。
誰にも見つけられず、無事に殺せたと仮定して、それを埋めるのにも時間はかかるだろう。
それすらも見つけられずに行うことなど、本当に可能なのだろうか?
時刻は夜。天気は雨がいい。
土が濡れて掘りやすくなりそうだし、音も誤魔化せる。そして何より、人の通行が少ない。
バイクの盗難は雨の日に多いと聞くが、それを利用させてもらおう。
天気だけでなく、曜日も重要だ。
休日は車で出かける家族がいるかもしれない。わたしがスコップと縄を持って、それを偶然見られでもしたらすぐに通報されるはず。
殺人は重罪だが、殺人未遂も歴とした犯罪である。
土曜という日はよくないかもしれない。同じ理由で、日曜も。
平日——それも定時過ぎの十九時以降ならばどうか?
いや、これでは残業。もしくは遠い家からの出社が考慮されていない。
余裕を持って二十時——二十一時あたりにしとこう。
予報では……明日が雨。それも水曜と、平日ど真ん中。
どうする? 本当にやるのか?
いや、待て。落ち着いて欲しい。
買ったのは雪かき用のスコップだ。これで土が掘れるとは思えない。
だからちゃんとしたスコップを買いなおそう。計画を実行するのはそれからだ。
あぁ、まったく。なんてことだ。
わたしが恨んでも恨みきれないあいつの命日が、また伸びてしまったではないか。
でもまぁ、まだまだ時間はあるのだ。
無理に今すぐ殺す必要はない。それでボロが出れば本末転倒。
あいつには、残り少ない人生を楽しんでもらうとしよう。
7
今日で何度目か。
平日の雨だ。
しかし今日は小雨。この雨ならば傘を持たずに出かける者もいるはず。
今すぐやる必要はない。
なにせ時間はたっぷりあるのだから。もっといい条件が揃う日を待とう。
わたしは若い。
また、明日でいい。
8
本日は大雨。降水量は四ミリらしい。
風も強く、傘ごと吹き飛ばされてしまいそうな勢いだ。
今日ならば誰にも見られることなく殺せるかもしれないと思ったが……しかし、最悪なことに体調が悪い。
言い忘れていたが、わたしは偏頭痛持ちなのだ。今日のような雨の日は、どうにも気分が落ちてしまう。
なぁに。別に急ぐ必要はない。
時間はまだある。
だから——————
執筆の狙い
人を殺したいと、そう思ったことはありますか? 今回はそんな衝動を抱える、等身大の高校生をテーマに書きました。7000字ほどです。
久方ぶりに一人称視点で書きましたが、難しいですね。三人称ほど小回りが効かないというか、小細工が使えないというか。
書き初めの頃はそれこそ一人称しか書けなかったのですが、今ではすっかり三人称に取り憑かれてしまいました。
一人称視点で書く際のコツのようなものがあれば教えて頂けると幸いです。