作家でごはん!鍛練場
ハツ

無題

そこへ行くには、駅からかなり歩かねばならなかった。都市とそのベッドタウンと、そのベッドタウンではたらく人々が仕事以外の生活をする場所に、まだ適切な名称はないのだろうか。(私はこういう場所を、ほどほどの田舎と表現することが多いが、聞いた人によっては、全く異なる風景が描かれることが多く、周辺にあるスーパーやコンビニと、その駐車場の広さを見せるのが、望まないすれちがいを防ぐのに有用であると思う。)深い緑いろの胴体に、白い屋根が載せられたログハウス風の建物は、その周辺を、かざらない印象の、白をベースにした背の低い草花と、うさぎや小人の置物で装飾したかんじの良い庭で囲ってあった。中に入る前にぐるりと一周したところ、駐車スペースの反対側には、テラス席があり、テーブルやイスは、木製のように見えたが、ガラス越しなので詳しいことは分からなかった。建物へ向かう数段の階段は、靴底が当たるとカンカン音を立てるので、それに気を取られて、うっかりと蹴飛ばしてしまった銀色の、やけに軽くて私の拳くらいのサイズしかない小さなバケツを元にあったであろう位置へ戻す。この暑さのなか、駅から25分も歩いたために、私は汗をだらだら流していて、小さなバケツなんかどうだってよかったのだが、そのままではなんとなく後味がわるい気がした。よっ、と声をかけて、膝を折った姿勢から、もとの姿勢へもどり、扉をこちら側へ引いて、中へ入ると同時に、キンとした冷房の涼しさと、いらっしゃいませ!という複数の女性の声に迎えられた。ご予約は、と一番近くの店員に尋ねられ、ああ、予約していて、連れが先に入っているんです、若林といいます、と返す。店員の女性は、一瞬、黄色い花柄のバンダナから溢れた髪を耳にかけ直し、私の角度からは見えない店内を見渡したあと、案内ボードを確認してから、こちらへ、と私を店内へ案内した。信じられないくらいざわざわした店内では、20代から60代くらいのあらゆる女性たちがケーキを食べ、紅茶を飲んでいる。そこの喧騒は、小学生の頃、500人くらいの生徒が集まる体育館での全校集会が始まる前と変わらないくらいのざわめきで、私はここで、誰かとお互いを理解し合うための会話をすることは、きっと誰にも不可能だろうと思った。案内された店内の私から見て、左端の一番奥の席のテーブルの中の左側で壁に少しもたれながら、ホールの入り口の方を向いて座っているのが、母だと気づくのに、少しかかったが、出された水をちびちびと飲んでいる姿を見て、ああ母だ、と思う。店員は、私を席に案内したついでに、私の分のグラスに水を注ぎ、母のグラスにも水を足した。店員が、メニュー表をもってきて、今日のおすすめがほうれん草となすのトマトソースだと伝えて去るまで、私たちは目も合わさなかった。あ、久しぶり、と私が声を掛けると、母は、久しぶり、と返し、一つしか置かれなかったメニュー表を手に取って、目を通し始める。あー、その、元気?と、次切るのは、天気のことしか残らないペースで、私は母との会話カードを切ってしまう。元気も元気、昼間っからこんなとこ、元気じゃなきゃこれないよ、と返ってきて、私はそれに頷く。ここにいるさまざまな年代の客に共通しているのは、ありあまるエネルギーだ、そして、それは私に足りないものでもある。母は、メニュー表を一度隅から隅まで見たあと、また最初のページにもどり、二周目のメニューチェックを始める。店員に、もう一冊メニュー表を頼もうとするが、店員は忙しそうで捕まらない。それどころか、目すら合わない。諦めて、母のメニューが決まるのを待つ。母は、ナスとベーコンのペペロンチーノとオレンジジュース、私は、本日のおすすめとウーロン茶を頼むことにして、呼び出しボタンを押して、店員を呼んだ。注文が繰り返され、飲み物は食前にということになり、店員は喧騒のなかへ去っていく。私たちには、いよいよ話すことがなくなり、ただお互いのドリンクを心待ちにするよりなかった。それから少しして、おろおろとしながら、学生のような店員が、ドリンクを盆に載せてこちらへきた。私は、お手拭きや水の入ったグラスを壁際に寄せる。店員はにっこりして、何かの確信の下の行為なのか、ウーロン茶を母、オレンジジュースを私に提供して、消えていった。私は黙って、オレンジジュースのグラスを母の方へ押しやり、代わりにウーロン茶をとった。いやだわ、ああいうの、という自身の発したひと言が、トリガーとなったように母は、彼女を苛立たせるあらゆる物事について、堰を切ったように話し出す。パート先に新しく来た社員が信じられないくらい使えないこと、同僚が孫自慢をしてくること、近所のスーパーの店員の態度がおそろしく悪いこと、父が映画を深夜まで見て、彼女と口を聞かないのが気に食わないこと。この洪水のような発話を、止める術がないと私は27年間の母ー子関係で熟知しているため、曖昧な相槌をうちながら、ただパスタか、前菜のサラダかが来て、一瞬でも私が自由にできる時間がくるように祈った。私と母のもとにサラダがきたとき、急にヒートアップした母の声に驚いた私は、ウーロン茶のグラスを引き倒しそうになった。なんとか私はそれをパッと手を出して支えて、ことなきを得たが、母はその一瞬の出来事にも、目の前に置かれた彼女の分のサラダに目もくれず、日頃の鬱憤を晴らそうと、オレンジジュースを片手に話し続けている。私は、フォークを2人分、カトラリー入れから取り、一つを母に渡し、母にことわってから、サラダを食べ始めた。ドレッシングが甘酸っぱいような味で、水菜やサラダもしゃきしゃきとして、美味しかった。てっぺんに乗っていた、コーンをチョイチョイとあとで食べようと避けつつ、サラダを食べ進める。好き嫌い、まだあるの? 私は顔をあげる、母が白けた顔で私の方を見つめていた。まあね、まだ少しある。でも、嫌いなわけじゃないよ、食べる、けど、最後でいいかなって。私はそう言いながら、逃げるように、水の入ったグラスへ手を伸ばした。「そういえば、この前、お父さんが、ポップコーンなんて家で作ってた。後始末せずそのまま、お母さんが後は片付けた、いつも通り」。コーンを避ける私をチクリとしたついでに、ポップコーンへ連想をつなげ、見事に父の愚痴へと着地する母のみごとな姿は、オリンピックならメダルが貰えるレベルかもしれない。まあ、あれでしょ、映画、映画見て寝落ち……。よくあるよ、私もよくする。まあ、まあ!片付けは自分でしなきゃいけないよ、そうだけど!と言いながら、私はコーンを一粒、フォークの先に突き刺した。あんたはどっちにもいい顔をする。地を這うような声に顔をあげられなくなる。それは、たしかに度々指摘される私の悪癖だった。フォークの全ての先端にコーンを一粒ずつ装着しようとすることを、顔を上げない口実にしようと私は足掻く。そのうちに、それぞれに正しいパスタが届いた。私は、すべての先端に、ブーツを履いているみたいにコーンを刺されたフォークを見てふふと笑って、それを口に入れて、なるべく雑に噛み、すぐにウーロン茶で飲み下した。パスタはまずまずの味で、私は満足したが、母は味については何も言わずに、引き続き何かに悪態をついていた。
 テラス席の方から、ちいさなポーチ片手に白いワンピースを着た女性が、こちらへ向かって歩いてきたのは、私がパスタにフォークを刺そうとしたのと同じ時だった。白いワンピースから出た手が、健康的に焼けていて、その、日焼けした肌と白い布の作るうつくしいグラデーションに目が吸い込まれていく。そのひとはさっさといってしまう。おそらくお手洗いに行ったのだろう。それよりも、私は、白いワンピースに包まれていた、いつかのおかあさん、を思い出していた。おかあさんは、私と同じで、(私が母と同じで)やけにしろくて、だからさっき見たようなグラデーションはできない。ただ、白い布に包まれた白い身体があるだけだ。わたしの左の上腕には、いくつか離れて火花が散っているような黒子があった。今もあるそれらを、当時は、何かあるといつも、指先でつないで、はやくおかあさんの気分が変わりますように、と願って、でたらめな方向に頭を振って、(すべてがまざるように、)わたしという、さなぎのなかみが均一にうつくしく塗りつぶされて、おかあさんを怒らせないにんげんになれるよう祈っていた。ふるえている赤いジャムのついたスプーンを掴んだ子どもの指先が、白いパンをめがけて、食卓上をたどたどしくうごく、このときに怒られているのは、わたしではなかったけれど、標的は、ねこのきまぐれみたいに変わった。わたしも、お父さんも、代わりばんこというか、常に標的を流動的に変えるおかあさんになれてしまって、もうどうしようもなかった。もう、わたし自体が、早いうちに何かに食いちぎられていて、吐き出された吐瀉物がわたしというにんげんのかたちをして、おかあさんの前に立って、頭を垂れているだけだったのに。だが、そうやって、ある種の知恵を身につけることが、わたしがさなぎから、孵るということだった。泣くなんて、嘘だよ。私が私へ言い続けた言葉。泣いたらお母さんはもっとひどくなる。泣くなんて、嘘だよ。おかあさんは、そんな私の様子に気づくことなく、いまだに皿から、どろどろした吐瀉物を、大切な娘にするように抱き上げている。でも本当はちがう。お母さんは、私にお母さんのお母さんになってほしいんだ。母の母、私の祖母は、とにかく花が好きで、花を育てることにだけ精魂を込めているひとだった。祖母は親としてはひどく未熟で、母は祖父と祖父の母に育てられてきたという。でも私は祖母が好きだった、まだ幼い子どもだった私からみても人として未熟なところは多々あった人だけれど、私は祖母には気を遣わなくてよかったし、祖母は私をとにかく甘やかしてくれた。庭でたくさんの花を見せてくれる祖母、西瓜を畑にぶつけて、来年もここに西瓜がなりますように、と二人で手を合わせて笑った。母がさみしい子ども時代を送ったことは、本人から何度も聞いて知っている。祖母はあきらかに親向きの性質、能力の持ち主ではなかったし、でもお見合いで祖父と結婚し、母を産んでしまったのだから仕方ない。母は子どものときに、ふつうのお母さんがいる家に憧れたという。だから自分は温かい家庭を作りたかったというのが彼女のいい分で、その相手としては父は不適だったという。お母さんにはお母さんの話を聞いてくれるお母さんがいなかったの。その代わりとされた私は、母の話を随分たくさん聞いてきた。私は彼女の優れた愚痴聞き係として、かつ標的として生きてきた。18で家を出たとき、家というのはこんなに静かで、誰からの制約も受けないのかと感動したものだ。私は素早く、パスタをフォークに巻きつけた。もう私は母の標的になることはそうそうない。その役割を一手に引き受けていた父は、近頃、母に別れを切り出したらしく、今日もそれについて私は母から呼び出されたのだった。私にできることはなにもない、私は何もしないと、はやく告げなければならないが、私はのろのろとパスタなんかをたべている。この後のことを考えると、胸が勝手に苦しくなるが、本当に私に出来ることはなにもない。ただのフリーターの私が、母を迎えて暮らすのはあらゆる観点から無理だし、金銭的援助も今以上には、無理だ。お腹が痛くなって、母に言ってから、ハンカチを片手に、お手洗いへ向かった。馬鹿馬鹿しいくらいうるさいここに、私の居場所がないことは自明だった。ならば、母はどうだろう。お手洗いのドアノブを握って開けたとき、しかし、私には、母がどのような暮らしをしてきたどのようなひとなのか、そして、その(物理的-精神的)居場所にも、すこしのこころあたりもなかった。
 お母さんは、家族に尽くしてきた!と席に戻るなり始まった母の弁を私は深刻な顔で聞き流している。お母さんがどれだけ頑張ってきたか、と熱弁を奮いながら、感情の昂った母は、ついに顔を両手で覆って、ワッと泣き声をあげたように見えるが、いかんせんここはうるさすぎる。あんたには、わからないだろうけど……!と言って、母は顔を覆う手に力を入れる。泣くなんてうそだよ。私の声に、母がパッと顔を上げる、真っ赤な顔をしている、両目が充血しているのが見える、狼狽えた母を見て、私は反射的に口にしてしまった言葉を後悔する。子どもの頃からいつも、私はそう自分に唱えつづけてきたが、かといって、そのことを誰かに押し付けようと思ったことはないはずだった。母はぶるぶると、歳を重ねて皺が増え、すこし膨らんだ手を振るわせながら、水の入ったグラスを取る。そこに水は入っていない。私は机を転がってきたグラスを掴んで、きちんとあるべき姿の向きへ戻して、母の手元に遣った。ここがうるさすぎる場所でよかったと心底思った。足元の荷物入れから、肩掛けの鞄を取って、黒い財布を取り出し、そこから三千円を出してテーブルの上に置く。そして、ちいさな紙袋をそこへ添えた。「お母さん、誕生日、近いから。おめでとう」母は今度こそ本当に泣き出しそうになりながら、テーブルの上から目を背けている。「帰るよ、お母さんも身体に気をつけて。じゃあ」。私は席を立って、店内を横切り、レジにいた店員の女性に、連れがまだ中にいる旨を伝えて店を出た。カンカンと小さな階段を降りている間にも、ひんやり冷たかった身体が、すぐに夏の熱気に包まれてぬるくなる。薄い紫色の蔦性の花が地面を這って、敷地から溢れ出しそうな姿で咲いている。それはクレマチスと言うのよ。いつか祖母がそんな風に言っていた気がする。

無題

執筆の狙い

作者 ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

別サイトに掲載したところ、内容を詰め込みすぎていると指摘されたので、一部を削ってこちらに投稿します。書いた上での挑戦としては、別に書いた詩を本作内に取り入れて、(テラス席〜抱き上げている までの箇所)エピソードで描く以外の方法を試みました。

コメント

ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

一行目の一マス開けをミスりました。気になると思います、すみません。

アン・カルネ
KD106154136173.au-net.ne.jp

うわー。なんか圧巻でした。
それにもうすごーく好みの小説でした。
タイトルは「無題」より「クレマチス」が良かったんじゃないかなって思いました。それはこのおかあさんを象徴しているように思えたから。私にはね、ですけど。
最初の小さなバケツを蹴飛ばしてしまうシーンも語り手の心情やこれから起こるドラマ(心がざわざわするようなこと)、起こるよね? と予感させます。またメニューのことやその他のエピソードが母親の人となりを雄弁に語っていますし、語り手と母親の距離感もシチュエーションの細やかな描写から浮かび上がってきます。
「コーンを避ける私をチクリとしたついでに、ポップコーンへ連想をつなげ、見事に父の愚痴へと着地する母のみごとな姿は、オリンピックならメダルが貰えるレベルかもしれない」
これには笑ったわ。いるよね、こういう女性。もうこの母親のリアリティには唸らされてしまったわ。っていうか、もっと言えばうちの母方の伯母かと思ったくらい。ついでに言うと伯母と母は仲が悪い。
この母親を置き去りにしてゆくところ、しかも「お母さん、誕生日、近いから。おめでとう」としてみせたところもお見事でした。ベタにしない、硬質な雰囲気づくりも良かったです。ちょっと新潮クレストブックスにあっても良いくらい。良かったです。

いかめんたい
sp1-75-243-250.msb.spmode.ne.jp

ハツ様

こんにちは。
面白かったです。朝からいいもの読ませていただきました。
読点や句点で短くくぎられた文章も、とても自然で心地よかったです。元の文章はわかりませんが、詰め込みすぎとは私はまったく思いませんでした。

それで「テラス席〜」の部分が別にかかれたものだとは読んでいる最中はまったく気がつきませんでしたが(今コメントを投稿しようと思い執筆の狙いが目に入って改めて見返してしまいました)、白いワンピースの女性とか、ふるえている赤いジャムとか、火花の散ったような黒子とか、すごく印象的な場面が多かったということと、ここら辺だけ漢字の開き具合が少し違うなというのは読んでいて感じたところでした。

あと余計なお世話かも知れないのですが、冒頭の「都市とそのベッドタウンと〜」の文章は、ちょっと意味がとりづらくて、こういうサイトでは損かもしれないな(冒頭数行だけ読んで合わなそうだと閉じてしまう人もいる。現に私がそうなので)とは思いました。
なんにしても面白かったです。
読ませていただきありがとうございました。

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

>ハツさん

読ませていただきました。
読んでいて気になった点をいくつか挙げていきます。

全体的に、改行がほとんどありませんが、改行も表現の一つです。

冒頭、場面描写から始まるのですが、いきなり「そこ」へ行くには、となっているので、少々読者にはついていきづらい出だしかなと思いました。

冒頭は、ほどほどの田舎をどう表現するか、という話題になっており、そのあとに出てくる「かんじの良い庭」のある建物は、どういう位置づけになっているのか。
作品中の価値観における位置づけがされておらず、一方的に場面描写を読まされているような感じでした。

>キンとした冷房の涼しさと、いらっしゃいませ!という複数の女性の声に迎えられた。

ここまで読んで、やっとお店だと分かるのですが……なぜ、ここまで「そこ」という代名詞で情報を隠していたのか、私には意味が分かりませんでしたし、読者に対して不親切な印象を受けました。
このお店には初めてきたのでしょうか? 前にも来たことがあるのでしょうか? 仮に来たことがないとした場合、HPなどで外観に関する情報は得ていたのでしょうか?

この場所に関する、語り手からの「価値づけ」としては「かんじの良い庭」しかなく、そもそもここが目的地だとわかった根拠(例えば店名が書かれた看板を見つけた描写)がなく、バケツを蹴飛ばして元に戻すという些末な点に語り手の関心が行ってしまうようなお店、ということになってしまいます。

>全校集会が始まる前と変わらないくらいのざわめきで、私はここで、誰かとお互いを理解し合うための会話をすることは、きっと誰にも不可能だろうと思った。

語り手は第三者ではなく、「私」と明確にしているのですから。会話が不可能だという描写でとどめるのではなく、このあと、自分が行うであろう会話に思いを馳せる描写も欲しかったところです(おそらくはこの語り手、この場所でこれから「会話」を行うのでしょうから)。
この喧騒はこれから自分が行う会話にどう影響を与えるのか、ということです。

母との対面ですが、読者はこの二人の関係への予備知識はまったくありません。

>私たちは目も合わさなかった。

こうなることは予想済みだったのかどうか、初見では読者は分かりません。

>久しぶり

とあるのですから、それはいつぶりなのか。
基本的に久しぶりに誰かに会う描写の際には、相手が変容しているかどうかに関心がいくはずです。
服装のセンス、髪型、見た目など、前回あったときとの違いの描写が欲しいところです。
変わらないとか、ますます元気になったとか、少し老いた気がした、などなど。
で、語り手は会いたくて来ていたのか、そうではないのか、このあたりは、この場所に行く途中の描写で予め語っておいて欲しかったところです。

>前菜のサラダかが来て、一瞬でも私が自由にできる時間がくるように祈った。

ここまで、母に会いに来た理由がいっさい書かれていない上に、母の洪水のような語りに嫌気がさしている描写を読者は読まされるわけですが、作者はいったいいつまで情報を伏せておくのだろう? と思ってしまいました。

飲食店にも関わらず、味に関する描写もあまりありません。
おいしかったのですか? 味わえなかったのですか?

>今日もそれについて私は母から呼び出されたのだった。

ここまで読んで、やっと、なぜここに来たのかが読者に開示されました。
遅い。
ここまで引っ張る意味が理解できません。
ここまで情報を伏せていた作者に嫌悪感を抱きました。
ここまで隠すのであれば、もっと張っておくべき伏線はあったはずです。
どんな気持ちでこの場所に向かっていたのか。
これから自分たちが話すだろう内容に思いを馳せ、楽しそうに会話している他の客を見て羨ましいと思う描写だとか、喧騒についても描写はありましたが、この喧騒が母の言葉を少しでも聞こえづらくしてくれるのであればむしろ幸いだ、みたいな記述を入れるだとか、そういった工夫が前半部分でもっとできたと思います。

>感情の昂った母は、ついに顔を両手で覆って、ワッと泣き声をあげたように見えるが、いかんせんここはうるさすぎる。

両手を顔で覆って泣いているとなれば、人目を気にするところですが、どうなんでしょう?
喧騒のおかげで誰にも気づかれずにすんだ、でもいいですし、他のお客はこんな私達のやり取りにまったく気づく様子もない、でもいいですし、隣の客がちらりとこちらを見たが、すぐに見なかった風を装ってその客は視線を戻して会話を再開していた、でもいいですし、ここがうるさいお店であることに感謝した、でもいいですし、そういった描写も欲しかったです。

>ここがうるさすぎる場所でよかったと心底思った。

こう書くのであれば、グラスが倒れたときの「音」の描写が欲しかったです。
で、その音が喧騒にかき消されたことで、注目を浴びずにすんだ、という流れにするとより自然だと思います。

ラスト、主人公が真の目的を果たす場面ですが、そこに踏み切るきっかけ、つまりは決断の描写がありません。
結局のところ、どこかでそれを出すわけですが、なぜそのタイミングで出そうと思ったのか。
そのあたりの心の機微がないのがもったいないです。
なんだったら、とんでもない言葉を母にぶつける決断をしたかのように読者に思わせるミスリードからの、真の目的へとつなげていけば、より物語として盛り上がったのでは、とも思いました。

>レジにいた店員の女性に、連れがまだ中にいる旨を伝えて店を出た。

母を置いて店を出る決意をした心の動きも欲しかったです。
この決断は、この場でしたものなのか、そもそも会う前から話が長くなることを見越して、渡したいものを渡したら母がどうであれ置いて帰ると決めていたのか、私としてはそれが気になりました。
罪悪感は感じなかった、あるいは、若干の罪悪感を感じつつも店を出た、など。

この話、美談という解釈でよろしいのでしょうか?
母への贈り物、その真の意味や目的は、この書き方であれば読者に伝わりません。
形としての義理なのか、母を思う気持ちがあって贈ったのか。あるのなら、その思いはどの程度なのか。

お店を出るときの主人公の心理描写も欲しかったです。

花の描写はラストにもありますが、この花は入店時にも見ているはずです。
この日、母に会って贈り物をして、結果、主人公はどう思ったのか。
母への思いは変わったのか、変わらなかったのか。
今日、ここに来てよかったと思えたのかどうか。

店に入る前と後とで、入口にある花から受ける印象が変わることで、母に会ったことによる主人公の心情の変化も表現するという書き方もあると思います。
この日、母に渡すことが主人公にとってどれだけの意味のあることだったのか、その価値付けがあいまいです。

と、いろいろ書いてしまいましたが、何かのお役に立てればと思います。
読ませていただきありがとうございました。

ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

アン・カルネ様

コメントありがとうございます。タイトルについてですが、私自身のなかで、タイトルも決める必要を感じないような一方的な語りが書かれているので安直に「無題」にしてしまいました。これでは意図が伝わりませんね、反省です。良かったです、と最後に書いてくださっていて嬉しかったです。コメントありがとうございました。

浮離
KD111239170218.au-net.ne.jp

表現する楽しさっていうのは書き手のものだから、差し出された読み手はそういうものだと了解して理解に努めるわけなんですけど、個性としてもっと際立つなら全然悪くないと感じさせられたものですし、際立ったものにはまだなり損ねているから、

>内容を詰め込みすぎている

なんて指摘もあったものなんじゃなかろうかと個人的には。
だって、それほどたくさんの情報にまみれたお話だろうか? ってみたらそうでもない気がするんですよね個人的には。
お話の本筋に辿り着くまでの描写や情報が多すぎる、ってことなら、案外どうでもいいというか、先にいった通りですけど書き手自身が望む作法として読み甲斐のあるものに、詰め込みとか思われない豊かさに架け替えてみせればいいだけですよね。

ほどほどの田舎とか、バケツの件、お店の扉を開けるまで、ってことなんですけど、個人的にはそれぞれの箇所を同質の文体として許容できないつもりはないんですけど、単純に文章として平たく眺めるなら語り手の視点と時制はぐるぐると回転している上で、それを立体的なものとして受け止めることは読者には難しいことではないはずなんですけど、そういった手筈の捉え方としてやっぱり、

>内容を詰め込みすぎている

といったほとんど質感の取り違えみたいな印象にふされることはあまり愉快なことではない気がしてしまうんですよね個人的には。
とはいえ、

>うっかりと蹴飛ばしてしまった銀色の、

と抑揚もろとも書きたかったんだろうな、なんて思わされがちな書き振りには個人的にはあまり感心させられなかったわけなんですけど、それってどっちかったら表現ではなく物語の総体として、ってことだと個人的には後々からいよいよ感じさせられたのかもしれないだとか。

だって、このお話の語り手と母はあまり関係よろしくないはずで。
なんなら語り手には面倒に他ならない心弾むことでこそないけど見過ごせない逃げ出せないだけの逢瀬のはずで、そんななりには

>内容を詰め込みすぎている

と指摘されてむべなるもだまらっしゃいと打ち返せるなりの仕込みか描写はまた別にありそうだとか、それは好みの問題とは思うんですけど個人的にはバケツ一つにもそれを仕出かす心境なりパーソナリティは意図として取り逃したくないものだよな、といった気はしないでもないだとか。

書き出しから主要な情報を指示語で曖昧とやり過ごす手口に個人的には違和感はありませんし、逐一知りたがって進みに疎い読み手っていうのは所詮程度が低いか面倒臭がりのような気がするので、このままでいいとは思わないですけどこっち方向でいいと思う、とかわかりづらい言い方しておきます。

>内容を詰め込みすぎている

って何度もすみませんなんですけど、個人的にはむしろ逆の印象というか、要するにこのお話って何も珍しいことは書いていないしむしろそうあるべきものであっていいとも思うんですし理解するんですけど、ありがちでわかりみなその機微をわざわざ読むモノとして差し出す上にはそれに適う根拠か世界のようなものはあって然るべきで、それすらなくして成り立たせたいつもりならふさわしくはエッセイ、言い逃れるなら日記でも書いてろや、なんて乱暴な言い方してしまうんですけど実際、このお話には個性が欠落している気がするし、それって物語的なインパクトとか秀逸なキャラだとかそういうこと言ってるんじゃなくて、このお話の個性を決定づける“たったの一行"みたいなものが見当たらない気がする、ってことだと感じさせられてるんですね個人的には。

もちろん書き手にとっては“魂の一行"みたいなものはあろうはずでしょうし、それを好意的に読み取れなかった一読者としてのただの言いがかりと思ってもらって全然いいんですけど、例えば体裁としての“改行“だとか。
これだけ詰め込んだ体裁にはちゃんと根拠があることとは思うんですけど、それが一読者にとっては語り手っていう個性の決定に繋がってることこそ言い逃れられたくない気がするんですね。

>「お母さん、誕生日、近いから。おめでとう」

書き手はこれで語り手の過去と現在をちゃんと切り分けたと思うんですけど、一読者としてはそんな語り手の現在をまるきり了解的な成長とは受け止められないということを作品の性格としてあまり好意的にではなく感じさせられてしまうのは、例えば“改行のない体裁“からも感じさせられてしまうことですらある気がする、ってことだったりするんですね。

“一人称“って、そういうことだと思うんですよね個人的には。

その上で、“セリフが活きてない“っていうのが個人的はこの作品に一番に感じさせれる瑕疵で、極端な言い方をしてしまうと、あたしはこの語り手がどんな人なのか片手落ちのようにしか知らされていない気がしてる、ってことだと思うんです。

知らないかと思うんですけど、あたしはこのサイトでは“一人称馬鹿“と言われても仕方ないくらいには一人称にうるさいですし、そんな上でのこれは勝手な決めつけに違いないんですけど、あたしは一人称における地の文っていうのは語り手の日常的誤解であるべきだと思っているし、その上で言わずにはおけないセリフっていうのは、地の誤解らしさを力任せにむしり取って決定するような性格を持たせないと意味ないと思ってるんですね。
真逆に見えるコントラストをまったく補強的関係にちゃんと意識的に操ることがあたしなりにはキャラクターへの愛みたいなもののつもりで、そうして存分なモノを吹き込むことが一人称の楽しさ愛しさだと思ってるわけなんです気持ち悪かったならすみません。


個人的にはこのお話って、語り手の“一人ごち"っていう、母とちっとも変わらない親子の有り様に終始してるだけの無自覚さのように感じさせられるし、それを作為として受け止めたい気にはさせられなかった、ってことだと感じさせられたものなんです。


あと偶然出たのでついでなんですけど、

>日焼けした肌と白い布の作るうつくしいグラデーション

って、“コントラスト“の間違いじゃないのかな? って思ったんですけどどうなんでしょう。
終わりにくだらないことをすみませんです。

ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

いかめんたい様
コメントありがとうございます。
>「都市とそのベッドタウンと〜」の文章は、ちょっと意味がとりづらくて、こういうサイトでは損かもしれないな
なるほどと思いました。話の本筋とは関係ありませんし、不可欠でもない部分ですね。自分では気づけませんでした。他にも色々と書いてくださっていて、執筆の狙いの欄も読んでくださったようで、ありがとうございます。大変参考になりました。コメントありがとうございました。

ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

神楽堂様

コメントありがとうございます。色々とたくさん書いてくださってありがとうございました。参考にできる部分は参考にいたします。こちらとしては、母に言葉をぶつけてしまったことは事故で、その後のプレゼントが真の目的だったわけでもなく……もちろんこの物語自体一切美談ではないつもりで書きましたが、伝わらなかったので試みとして失敗してしまっているということですね。反省です。このように、書かれたものを丁寧に読んでいただいて感謝いたします。書き手の(書きぶり)に嫌悪感を抱かれたとのことでしたが、それでも最後まで読んで頂き、コメントくださって感謝です。ありがとうございました。

ハツ
115-38-4-143.area1a.commufa.jp

浮離様

コメントありがとうございます。返信遅くなりました。分かりやすく書いてくださっていて、こちらとしては納得の一言でした。詰め込みすぎという別サイトでいただいたご意見についての浮離さんのご見解にもなるほど、となりました。おっしゃる通り、わたし自身は詰め込みすぎたと正直思わなかったのでこちらのサイトで意見を募りたかったのですが、要は肉が少ないのに小骨の多いチキンを食っている時の気持ちに近いものを読み手に感じさせてしまったのかなあと思っています。(このときの肉は読みがいのことをさしています。)結局母も子もひとりごちているだけというのは、まさにその通りで、まあ肉がないわなあと。

>その上で、“セリフが活きてない“っていうのが個人的はこの作品に一番に感じさせれる瑕疵で、極端な言い方をしてしまうと、あたしはこの語り手がどんな人なのか片手落ちのようにしか知らされていない気がしてる、ってことだと思うんです。

まさに。です。学びの多いコメントありがとうございました。参考にさせていただきます。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

いいですね。
こう言うの読むと、人間というものを感じられて、読者の自分には母に少しの老いと醜さを感じるのですが、それを作中では強調しすぎないところとか、たぶん匂わせている感じが、ものすごく好きです。
簡単に描けないものを、色々な描写や仕草、会話の積み重ねから、印象として読者に伝えようとする姿勢、その志のようなものが眩しいし、それが出来るなんというか執筆の年季というか筆力を感じます。

母が身勝手に描かれているのですが、自分の亡くなった母とも重なり、嫌な気分はするものの不思議と憎めないんですよね。人間というのはそういうものかなという気がします。

最初、朗読しながら読もうとしたのですが、つっかえました。たぶん、一文が長めに構成されているのと呼吸のリズムに少し合わなかったのかもしれない。ただ読みづらさは無かったので、これも持ち味としてそのままでもありだと思います。

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