ミイラの置き手紙
桜の樹の下には死体がある。
都市伝説と言うには都市に桜が少なく、迷信と言うよりも世迷い言と言う方が適切なその言い伝えを真に受けて校庭の桜を掘り返したのは随分と昔のことだ。
いや、真に受けたのは当時居合わせたクラスメートであって私ではないのだけど、結果としてスコップを振るったのは確かだ。
かくして中学2年生の冬、しかも真夜中に掘り返した桜の木の下に埋まっていたのは、いつ埋まったのかさえ分からないような魚の小骨だった。
言い出しっぺのクラスメートは期待外れだったかのような、それでいて安心したような反応を示していた。
確かに死体が埋まっていることを期待しながら掘り返したのは事実だが、かといって本当に埋まっていてもそれは事件だ、彼女の反応は極めて普通で、世間ずれしないものだったのだろう。少なくとも大人になった、なってしまった私はそう思う。
こんな語り方をすれば当時の私の考えは違ったと思われるのは重々承知だが、一応断っておくとこれは考え方ではなく解釈の違いだ。
言うまでもなく魚の小骨は魚の体の一部であるし、小骨が出ているような魚はとうに生きていないだろう。
要するに中学生の私にとって発掘の成果である魚の小骨は、正しく『死体』だったのだ。
取るに足らない言い伝えが、事実として私の目の前に姿を表した。
わけが分からないと言う人もいるだろう。
もっともだと思う。
私も他人からこれを言われたら肯定否定よりも先に「は?」と口に出すと確信している。
だけど間違いなく過去に私が思ったことであり、これは遺書ならぬ死者の書だ。いや、私は至って健康体だし別に死んでないけど・・・
まあ、そういうことだと思ってほしい。
これから何があったのかというと、これ以降私の数少ない趣味に桜の木の下を掘り返すことが加わった。
校庭に植わったものに飽き足らず、河川敷や公園の桜もその対象に含んでいた。
とはいえ流石に民家にはお邪魔しなかった・・・こってり絞られた一回目以降は。
そんな掘削を2年間も精力的に続けた私は、はっきり言って狂人だろう。それで得た結果が最初の魚の小骨だけなのがなんとも笑える話だが。
ーーー
日々を食い潰す碌でなしから、桜をほじくり返す阿呆に変わった私が2度目の転機を迎えたのは高校1年生の終わりが見えた頃だった。
クラスメートとはそれなりに仲良くなった自負もあるし、交流がなかったわけではない。
だけど頻度は落ちても桜の木を探すことは続けていたし、掘ることに関しては言うまでもないだろう。
『死体』に巡り合えてこそいなかったが、私の情熱は未だに留まるところを知らなかった。
そんな日々を送るうちに、私は校舎の中で桜を見つけた。
職員室や事務室が並ぶフロアの片隅に、その部屋はあった。物置のようなごちゃごちゃとした部屋の、花紙で作られた造花の奥に桜があった。
正確に言えば桜の木が描かれた看板だ。
いつかの卒業式で使ったのだろうか、ところどころに桜の花びら形の紙を貼り付けた後がある。
置物で作り物の桜だ。
長年使われなかったのだろう、ところどころにホコリが積もっている。
だけど枯れ木となったその姿は、私の目に食らいつくように印象に残った。
木の下に死体が埋まっているなんてものではない。
木そのものが『死体』なのだ。
桜と『死体』がここまで統一された姿を見るのは初めてだった。
そして私はこの瞬間に、これから先に起こりうる全ての変化を唾棄した。
当時も今も、私にはあの桜が今までに見てきたどんなものよりも神聖に見えた。
そのものが死んだ桜の樹の下で自分が『死体』として埋まりたいと思っていた。
実際に私の高校時代は、一貫して桜の木の下を掘り返すか『死体ごっこ』に興じるかの二択に落ち着いていた。
死者の書と銘打ったこれにこんなことを書いたらオシリスへの弁解どころかとどめになりそうだけども、そこはか弱い少女のお茶目ということで押し切るしかないだろう。
死後の世界でも、色香が通じるといいけれど。
ーーー
大学時代になると流石に桜の木を掘り返すことは更に減った。
流石に社会人としての自覚が芽生えてきたのと、大学に通うために都心に出てきたことで桜に出会うことが減ったのが理由だ。
実際、尽きてこそいないものの情熱が薄れつつあったのは確かだった。
やはりあの完成形を見てしまって、あれを超えるものはないと思ってしまったからだろうか。
今までに比べて文字通りの掘り出し物も増えたものの、どこか冷めた感覚を覚えてしまう自分がいた。
どうしてもあの『死体ごっこ』をまたしたいと思ってしまう。
あの心地よさを、寝転がって見上げるあの桜を、もう一度じっくりと味わいたいと思ってしまう。
フィールドワークにかこつけて、地面を好きなだけ掘り返せる地質学科に進んでも、やはり私の心は満たされないままだった。
変化を放棄した以上、どうしようもなかったのかもしれないけど。
ーーー
さて、大学卒業後の私は懐かしの死体ごっこのためにかつて学生時代を過ごした高校に地学の教師として赴任した。
学校というのは中にいる人こそ目まぐるしく変わっても実質的な変化はないもののようで、古ぼけた校舎はそのままだし、あの桜の木も高校時代から少しも変わっていなかった。
少なくとも久々に見たその光景は、その場に寝転がるまでは過去のままだった。
昔よりも、広く取られた空間を除けば。
花紙の造花は今までよりも更に押しやったように、床が見えるスペースが多くなっている。
昔の私のように、誰かがここを使っているのだろうか。
寝転がったばかりだった私はなんとも言えない不快感を感じながら起き上がる。
そして桜を見上げ、起きるはずのない、起きてはならない変化に抗議するように睨んで見る。
勝手に変わっておきながら、身勝手にも桜は気の利いた挨拶さえしなかった。
ーーー
悪いことというのはどうやら連続して起きるようで、帰ってきて冷蔵庫を開けたら貰い物のさくらんぼが傷んでいた。
まだ大丈夫だと思っていたのだが、いささか日を開けすぎたか。私は死体を探してこそいるが、腐った食べ物にまでその好奇心を発揮するような変態性なんて持ち合わせてはいないのだ。
死体も腐るとはいえ・・・
待て。
待て待て待て待て。
よく考えたら死体も腐る、つまりは『変化』をしているのだろう。
それに比べて、私はどうだ?
あの完成形の桜を見てから、何一つ変わっていない。
これでは、死体ではなくミイラだ。
変化を拒むという点において『死体』とは決定的に趣を異にするそれになってしまった私に、あの桜の下に埋まる資格はあるのだろうか?
決まっている。そんな権利など欠片も存在しない。
本来ならあの桜の下に初めて寝転んだ瞬間に首を切り落として本物の死体にしてもらわなければならなかったレベルの愚かさだ。
私は最初から、あの場にいるべきではなかったのだ。
桜の木の下は腐りゆく死体の居場所だ。変化を拒むミイラなんていてはならない。
ーーー
なんて長々と書き綴った死者の書ももうすぐ終わり、もとい紙の余白がなくなりつつあるので残りは手短に書き記そう。
私はこれをあの桜の木の下に置くつもりだ。
桜の木の下にミイラの居場所はないと豪語しておいて何をやっているんだという誹りは甘んじて受けよう。
これを死後はどこに埋めてくれという遺言と取ってくれるならこれほど嬉しいこともないが。
開きっぱなしだったこの部屋には鍵をかけておくことにする。
元々教師だから鍵の用意は容易だし、もはやこの部屋が何なのか知っている人もほとんどいない。
誰も来ないこの部屋に入ろうとするのは墓荒らしくらいだろう。
ミイラとしても死体としても上出来な結末になることは想像に難くない。
ーーー
桜の樹の下には死体がある。
何を隠そう、私自身が埋めたのだから。
執筆の狙い
過去に書いた作品が、どういうふうに受け取られるのか気になってここに上げました。
遠慮なく批評していただければ、幸いです。